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(増補版)584E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年7月~1893年7月)

2018-03-20 16:25:46 | 日記
題:(増補版)584E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年7月~1893年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年7月13日、パークナム事件
  フランスが、「タイ(シャム)の属領のルアンパバー
 ン王国・チャンパーサック王国・シエンクワーン王国と
 タイ領の旧ヴィエンチャン王国」(ラオス地域)の領有
 を迫った事件で・・、
  メナム川下流のパクナム付近(タイ中部の都市、現:サ
 ムトプラカン)で、タイとフランスが衝突した。
  両国は、メコン川流域の国境をめぐって、多年、紛争
 を続けて来ていた。
  この時・1893年7月13日、フランスの軍艦2隻は、タイ
 の首都バンコクに迫り、この武力的な威圧でもって、タ
 イにメコン左岸の土地割譲をはじめ、多くの譲歩を強圧
 的・強引に従わせ、余儀なくさせた(強奪行為)
  この事件は、イギリスを刺激した。
  そして、英仏両国の間にタイを「緩衝国家」とみなす
 協定を成立させる端緒をつくった。
  これまでに・・、
  19世紀後半頃は、フランスとイギリスは、雲南問題を
 抱えていた。
  (参考)雲南問題:イギリスと清朝の間で起きた外交
     問題で、19世紀末~20世紀に起きた中国雲南省
     とビルマとの国境をめぐる問題。
      ビルマを領有したイギリスは、雲南省から貴
     州省、四川省を経て、揚子江流域の自己の勢力
     圏と連絡しようとし、1875年のマーガリー事件
     以後も、中国側地域のビルマ帰属を主張した。
      そして、一部地域を占領するなどした (片馬
     事件) 。
      フランスも、イギリスと同じ様に領土欲から
     インドシナから雲南へ進出した、そして、中国
     の民族意識を大いに刺激した。
      そして、この問題は、雲南の地下資源や、雲
     南経由の通商路の利権開拓を企図したイギリス・
     フランスと中国との問題だった。
      1868年、インド政府は、第1回雲南調査に次い
     で、1874年に、ブラウン大佐が率いる探検隊を
     ビルマ(現:ミャンマー)経由で派遣した。
      北京のイギリス公使館は、通訳にマーガリー
     を送るが、1875年2月21日、雲南・ビルマ国境付
     近で武装した中国人に殺害された(マーガリー
     事件)
      イギリス公使トマス・ウェードは、この事件を
     機に中国・イギリス間の懸案を解決するという表
     向きの目的で芝罘(チーフー)で李鴻章と交渉
     を始め、1876年、芝罘協定が結んだ・・が・・
  そして、1884年~1885年に、ベトナムの支配権をめぐ
 って、清国とフランスとの間で戦争(清仏戦争)が起き
 た。
  この戦争に清軍は敗北した。
  そして、天津条約によって、清国は、ベトナムに対す
 る宗主権を放棄し、フランスの保護国化を承認した。
  この事によって、英仏間の問題も解決した様に見えた・・
 が・・、
  フランスは、新たに雲南より南に位置ある「インドシ
 ナへの進出」を画策した・・常にあるのは・・領土欲・・、
  ただで見ていられないイギリスも、同時期に、ビルマ
 側からタイ北部のシャン地方へ進出を試みる・・、
  この為、フランスも、さらに競って・・イギリスに遅
 れを取らぬように、ベトナム領から当時のタイ領ラオス
 地域への進出を急ぐのだった・・、
  1886年5月7日に、フランスは、鉱山業・林業における
 『優先権を確立』するために・・ルアンパバーンに領事
 館を設置した。
  そして、宗主国タイとの間で、ルアンパバーン条約を
 締結した。
  しかし、1887年に至ると、西双版納(シップソーンパ
 ンナー、中国南部、タイ族自治州、景洪:けいこう市を
 中心に栄えた国家)で、パンゼーの乱(中国、清代の雲
 南イスラム教徒の反乱、1855年~1873年)の残党のチン・
 ホー族による反乱が起きた。
  その為、フランスは、ルアンパバーン王国領内に兵を
 進め侵略した・・そして・・、
  1888年に、シップソーンチュタイ(現:ライチャウ省、
 中心地はディエンビエンフー)を制圧し、手に入れ・・
 掌握した。
  これ以後、この橋頭堡を築いたフランスは・・、
  「ルアンパバーン王国の宗主権はベトナムにあり、ベ
 トナム領を有する仏領インドシナが、ルアンパバーンの
 宗主権を持っている」という『自分に都合のよい立場の
 主張』をしてタイ軍駆逐の侵略を図り始めた・・そして・・
  1892年、オーギュスト・パヴィ(フランス出身の植民
 地行政官)が、仏ルアンパバーン領事に任命された。
  すると、この領事は、以前からタイ政府が提案してい
 た交渉による国境画定案(非戦の提案)を拒否し・・、
  武力をちらつかせて、タイ軍に、ルアンパバーン王国
 領から撤退を求めた・・当然、フランスの好戦的なやり
 方で・・
  タイ政府側のラオス中部のカムムアン県知事プラ・ヨ
 ートムアンクワーンとフランス軍とが衝突した。
  その結果、フランス人将校が戦死した。
  格好のフランスにとって都合のよい言い掛かりができ、
 インドシナに軍事的緊張が走った。
  フランスは、プラ・ヨートムアンクワーンを捕らえた。
  そして、国境画定交渉を拒否していたにも関わらず「
 平和交渉時に将校を殺した」という筋の通らない理屈で、
 有罪判決を出して、投獄した。
  そして、フランス国内では、「タイは、国際常識を無
 視した」という煽(あお)りのプロパガンダ(嘘宣伝)
 が広がった・・「タイへ武力行使を行え!」というフラ
 ンス国民の世論が高まった。
  そして、これによって、より大きな戦いであるパーク
 ナム事件が勃発してしまった・・自分に都合よく作られ
 た事件だった・・やりたい放題だった・・
  1893年7月13日、夕方18時15分、フランス海軍は、2隻
 の軍艦、通報艦「インコンスタン」と砲艦「コメート」
 でチャオプラヤー川のワット・アルンとワット・カラヤ
 ナミトルの間にある運河河口から上流へ進入しようとし
 て・・いつもの様に、格段の差のある武力を行使した。
  天候は雲の厚い雨天だった。
  フランス海軍は、この時、タイの官警から警告を受け
 た。
  しかし、無視した・・そして、侵入を開始した。
  18時30分、雨がやんだ。
  この時、灯台をフランス軍艦が通り過ぎる姿をタイ兵
 が確認していた。
  その数分後、フランス軍艦は、要塞が射程圏に入った
 ことを確認し、戦闘が開始された。
  タイ軍は、オランダ人司令官が指揮するパークナムに
 最近作られたチュラチョームクラオ要塞と、デンマーク
 人副提督Phraya Chonlayutthayothinが率いるタイ海軍の
 軍艦で応戦した。
  要塞には、旧式の6インチ砲が備えられていた。
  また、16個の機雷を敷設していた。
  タイ軍は、指揮系統が西洋化されていたものの、近代
 的軍備のフランス海軍の軍艦には歯が立たなかった。
  10時頃までに、赤子の手をひねる様な戦いで・・フラ
 ンス軍艦2隻が、フランス大使館へ着くと、フランスは、
 すぐさま・・タイ政府に対して「メコン川東岸のフラン
 スへの割譲」を要求した。
  これを、タイ政府は、国家存続を揺るがす大きな問題
 だと、当然、認識した。
  当時のタイの君主であったラーマ5世(チュラーロンコ
 ーン)は、そのフランスの不当な行為である要求を、そ
 の割譲を拒んだ。
  そして、穏便に、賠償金で済ませようとした(日本も、
 幕末、大金を何度も取られた・・)
  そして、タイ政府は、フランスとインドシナ問題にお
 いて対立関係にあったイギリスから賠償金を借りようと
 した。
  しかし、それは失敗した。
  結局、メコン川東岸全域が、フランスへ割譲される事
 となって、タイの領土が奪われてしまった。
  ラーマ5世は、これを、「死刑を待つ死刑囚の様な悲し
 みだ」と言った・・そして、寝込んでしまった。
  一方、バンコク市民は、この異常事態において、混乱
 を極めた。
  フランス軍の発砲を恐れて逃げ惑(まど)った。
  1893年10月、フランスは、平和条約の締結を迫った。
  そして、この条約で、以下の要求を迫った・・
 (1)メコン川東岸のラオス各王国の宗主権の完全放棄
 (2)メコン川の中州すべての割譲
 (3)メコン川西岸25キロ地域の中立地帯化(武装解除)
 (4)カンボジアのバッタンバン州、シェムリアップ州で
   の武装解除
 (5)フランス領からタイへの輸入時における関税自主権
   の放棄
 (6)保護民を含むフランス人の自由貿易を容認し、タイ
   の司法権の管轄外とすること
  ・・と言いたい放題の条件を認めさせた。
  また、一方、フランスは、チャンタブリー県、トラー
 ト県の港の占領もした。
  また、フランス大使館は、この後、仏領インドシナの
 ベトナム人、ラオス人、カンボジア人のみでなく、タイ
 国民(特に、華僑)にまで、ワイロで保護民の地位を与
 えたため、タイの治安は大きく乱れてしまった。
  これに大きく悩んだタイ政府は、1904年に、新たな条
 約を結んだ。
  以下がその内容・・、
 (1)タイが、サイニャブーリー県、および、チャンパー
   サック県を割譲する代わりに、チャンタブリー県か
   らフランス海軍を撤退させること。
 (2)保護民の登録を制限すること(華僑の流入を抑えて
   くれの悲鳴)
  タイ政府は、苦肉の策で問題を妥協・解決し・・、
  1905年1月22日、フランス海軍は、チャンタブリー県か
 ら撤退したが、完全に約束を果たしたわけではなかった。
  いつもの都合のよい嘘行動・・
  トラート県に移動するのみに留まった。
  『正義の天からの裁き』は・・起きないのか・・??
1893年7月15日、大阪天満橋下流で、淀川の川開きが、初め
 て開催された。
1893年7月22日、文部省が、女子教育のため、小学校に裁縫
 教科の設置を指導した。
  井上毅文相は、文部省訓令「女子就学並裁縫教員に関
 する件」を府県に通達した。
  「普通教育ノ必要ハ男女ニ於テ差別アルコトナク、且
 女子ノ教育ハ将来家庭教育ニ至大ノ関係ヲ有スルモノナ
 リ、・・今不就学女子ノ父兄ヲ勧誘シテ就学セシムルコ
 トヲ怠ラサルヘキト同時ニ、女子ノ為其教科ヲ益々実用
 ニ近切ナラシメサルヘカラス、裁縫ハ女子ノ生活ニ於テ
 最モ必要ナルモノナル故ニ、地方ノ実情ニ依リ成ルヘク
 小学校ノ教科目ニ裁縫ヲ加ヘルヲ要ス」
1893年7月、御木本幸吉夫妻が、半円ながら、初めて真珠の
 養殖に成功した。
1893年7月、川上清哉らが、恙虫(つつがむし)研究会を設
 立した。
  ツツガムシ(恙虫)は、ダニ目ツツガムシ科のダニの
 総称で、ツツガムシ科に属するダニ類は、日本では、約
 100種が報告されている。
  川上清哉(かわかみせいや)は、1854年、長岡藩(現:
 新潟県)の生まれ・・、
  戊辰戦争で敗れた長岡藩の復興のため小林虎三郎らが
 設立した国漢学校を経て、東京大学医学部に入学した。
  かねてより、ツツガムシ(恙虫)病に興味を持ち・・、
  1878年には、べルツを信濃川へ案内し、東京医事新誌
 に「新験毒虫考」を発表した。
  後、東京大学医学部を中退し・・、
  1887年、「私立新潟県恙虫研究所」を設立した。
  1895年、41歳で病没した。
  恙虫病は、かつては、日本では、新潟県、山形県、秋
 田県などで、夏季に河川敷で感染する風土病で あった。
  戦後、新型ツツガ虫病の出現により、沖縄県や離島な
 どを含め、全国的に発生が報告されている。
  ツツガムシの幼虫は、0.2ミリほどの大きさで、肉眼で
 確認することが難しい。
  アカツツガムシ以外に吸着された場合には、ほとんど
 痛みや痒みを感じない。
  刺された覚えのない発病者も多い。
  つつが虫病リケッチアによる感染症で・・、
  つつが虫病リケッチアを保有するツツガムシに刺され
 て5~14日の潜伏期の後に、
  全身倦怠感、食欲不振とともに頭痛、悪寒、発熱など
 を伴って発症する。
  体温は、段階的に上昇し数日で40℃にも達する。
  刺し口は、皮膚の柔らかい隠れた部分に多い。
  刺し口の所属リンパ節は、発熱する前頃から次第に腫
 脹する。
  第3~4病日より不定型の発疹が出現するが、発疹は
 顔面、体幹に多く四肢には少ない。
  テトラサイクリン系の有効な抗菌薬による治療が適切
 に行われると劇的に症状の改善がみられる。
  重症になると肺炎や脳炎症状を来す。
  北海道、沖縄など一部の地域を除いて、全国で発生が
 みられる。
  発生時期は、春~初夏及び晩秋から冬であるが、媒介
 ツツガムシの生息地域によって異なる。
  我が国では、1950年に、伝染病予防法によるツツガム
 シ病の届け出が始まり、
  1999年4月から、感染症法により4類感染症全数把握疾
 患として届け出が継続されている。
  感染症法施行後の患者数をみると・・、
  1999年(4〜12月)には588人、
  2000年(1〜12月)には急増して754 人が報告された。
  2001年には460人に減少した。
  毎年、数人の死亡例も報告され、依然として命を脅か
 す疾病である。
  治療が遅れると播種性血管内凝固をおこすことがあり、
 致死率が高い。
  本症の予防に利用可能なワクチンはなく、ダニの吸着
 を防ぐことが最も重要。
  因みに、「恙」(つつが)は、病気や災難という意味。
1893年7月、陸奥宗光外相の条約改正交渉。
  1892年、陸奥宗光は、第2次伊藤内閣に迎えられて外務
 大臣に就任した。
  そして、外相に就任した陸奥宗光は、青木周蔵元外相
 を在英国公使に任命し、条約改正交渉に当たらせた。
  1894年に至って、青木公使とキンバレー英国外相との
 間に日英通商航海条約を締結し(1894年7月16日、調印)、
 幕末以来の不平等条約である治外法権の撤廃に成功した。
  この条約によって、領事裁判権が撤廃されたほか、関
 税自主権が部分的に回復し、最恵国待遇条款を相互的な
 ものにし、「安政の不平等条約」の改正の第一歩がしる
 された。
  以後、アメリカ合衆国とも同様の条約に調印し、ドイ
 ツ、イタリア、フランスなどとも同様に条約を改正した。
  陸奥が、外務大臣の時代に、不平等条約を結んでいた
 15ヶ国すべてとの間で条約改正(治外法権の撤廃)を成
 し遂げた。
  これによって、半植民地状態から陸奥宗光伯は わが
 国の「独立自尊」を世界に認めさせた。
  1894年8月、子爵を叙爵した。
  一方、この年・1894年5月に、朝鮮で甲午農民戦争が始
 まると清の出兵に対抗して派兵した。
  不平等条約改正に最も反対していたイギリスが態度を
 軟化させた背景には、ロシアの極東進出に対する懸念が
 あった。
  イギリスの条約改正交渉には、「改正後も函館の貿易
 港としての使用を認めること」という交渉条件が付けら
 れていた。
  陸奥は、函館の条件さえ呑めば条約改正に応じるに違
 いないと判断し、ロンドンの青木公使宛に「必要あらば、
 条約改正後も、函館を貿易港と定めても苦しからず」と
 打電した。
  返電は、イギリスが条約改正交渉に応じるというもの
 だった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:『正義の天からの裁き』は・・起きないのか・・??
.
紀元前3500年、メソポタミアを通覧(つうらん、全体に一
   通り目を通すこと)すると・・
  紀元前3500年、メソポタミア文明:生産の発達に伴い、
   この頃以降に、多数の都市が誕生する。
  紀元前3300年頃、この頃からメソポタミアの地に、シ
   ュメール人の文化が生まれた。
    砂漠化が進む気候の中で・・、
    チグリス・ユーフラテス河に集まった人たちは、
   その豊かな水で、大規模な農耕をした。
  紀元前3000年頃、メソポタミア地方で普通小麦の栽培
   が始まった。
  紀元前3000年、メソポタミア文明:シュメール人が、
   この頃から都市国家の時代へ入った。
  紀元前2500年頃、シュメール人が、『ウル第一王朝』
   の王国を築いた。
  紀元前2000年、バビロニア:この頃に、シュメール人
   が建設したメソポタミアに、セム系のアムル人が侵
   入し、バビロニアという強大な国を作った。
  紀元前1830年、アルム人が、ユーフラテス川中流の都
   市「バビロン(バクダード南方90キロ)」を中心に
   覇を唱えた(古代バビロニア)
  紀元前1600年、アーリア人:この頃、イラン高原、メ
   ソポタミア、エーゲ海、さらに、ヨーロッパなどへ
   進出した。
  紀元前1530年、古バビロニアが滅亡した。
   ヒッタイト人が、人類初の鉄製武器を使い、この頃、
   古バビロニアを滅ぼした。
  紀元前1500年、古代ユダヤ:セム系ユダヤ人(ヘブラ
   イ人)は、シリアの近くで遊牧生活を送っていたが、
   この頃以後、ユダヤ人の一部分が、カナン(カナー
   ン、パレスチナ、イスラエル)へ移住した。
  キリスト教は、このメソポタミアの民(ヘブライ人)
 が、チグリス・ユーフラテス川を北へ向かい、そして、
 「乳と蜜の流れる地・・カナン」へ向かう話から始まる。
  そして、このキリスト教の発祥の地「イスラエル」は、
 日本の九州ぐらいの大きさである。
  キリスト教が、異民族とか、異教徒とかとした「ペリ
 シテ人」や「フェニキア人」や「アラム人」は・・、
  「ペリシテ人」はイスラエルの南部に居て・・、
  「フェニキア人」と「アラム人」は、イスラエルの北
 部に居た。
  つまり、この「ペリシテ人」は「鹿児島県の人」のよ
 うで・・、
  「フェニキア人」や「アラム人」は、「福岡県の人」
 や「大分県の人」の様な関係となる。
  キリスト教は、この様に『非常に狭いスケール観』の
 中で展開している宗教なのである。
  結局、このスケール観の中で「鹿児島県」や「福岡県」
 や「大分県」の人々が、「異教徒だ」とか、「異端の人
 だ」として存在していて・・、
  「異教徒は殺せ」のキリスト教の教義が展開し、困っ
 たときには、この異教徒からの富を奪う事を、(キリス
 ト教の)神の義があるという免罪符が与えられて、富を
 奪う行為が行われていた・・戦争ばかりの「奪い合いの
 世界」に居た。
.
紀元前1800年頃、この頃まで、メソポタミアと、インドの
 インダス文明との間に強い交流があった。
  文明的な交流が行われる「メソポタミア文明とインダ
 ス文明」は、強いつながりを持っていた。
  多くの考古資料も存在しているが・・、
  メソポタミアはインド文明に影響され、また、インド
 も影響された。
  イラン高原に「スーサ」という地があるが、この地は
 交通の要衝で、種々の人々が往き交った。
  また、文明も発達していた(エラム人のトランス・エ
 ラム文明)。
  この文明のいくつかの要素が、インダス文明の素(も
 と)になった。
  また、インダス文明との関係が強く、紀元前1800年頃
 のインダス文明の崩壊時期まで、メソポタミアの諸王朝
 は、インドの木材や金属を、イラン高原経由で入手して
 いた。
  この交易と共に、人も往き交い、文明も往き交った。
  キリスト教は、メソポタミアに影響されて、関係して
 いるが、この様にキリスト教は、インドのインダス文明
 に「大きく関(かか)わっていた」。
  キリスト教が言う、「一神教の壁があって、インド文
 明の影響は受けていない」という話は、「まゆつば」の
 「嘘の話」である。
  インド仏教のストゥーパ(仏塔)の建設にギリシャ人
 の関与を示す考古資料がある。
  また、メソポタミアの考古資料にインドの物語の史料
 があり、これがキリスト教にも影響を与えている・・な
 ど・・
  人々は、頻繁(ひんぱん)に往き交っていて、また、
 情報も往き交っていた。
  メソポタミアの人々は、エジプトより、イラン・イン
 ド方面に親近感を持っていたようだった。
  メソポタミアとエジプトとの関係は、紀元前6世紀に、
 イラン高原を本拠とするアケメネス朝ペルシャが、メソ
 ポタミアを征服し、また、エジプトも征服した。
  この両地の交流は、この時から始まって、それまでは、
 まったくと言って交流は無かった。
  ユダヤ教の戒律も、このアケメネス朝ペルシャの支配
 の下で、整(ととの)えられて行く。
.
紀元前13世紀後半、ヘブライ人が、メソポタミアからカナ
 ンへ向かった。
  キリスト教を作るこのヘブライ人は、アジア人だった。
  ヘブライ人は、アフリカ北部からアラビア半島、そし
 て、メソポタミアや小アジア(トルコなど)の広い範囲
 に居たセム系の言語を話すアジア人だった。
  セム系の言語を話すアジア人として・・この他に、ア
 ラブ人、フェニキア人、アラム人、エチオピア人、アッ
 シリア人などが居る。
  このアジア人が、キリスト教を作った。
  地球上の世界の三大宗教は、そのすべてをアジア人が
 作っていた。
  ヘブライ人の先祖は、古くはメソポタミアに居た遊牧
 民で、紀元前13世紀後半頃、このカナン(カナーン、パ
 レスチナ)へ向かった。
.
紀元前13世紀後半、キリスト教の聖書に、多神の神々、多
 くの神々が書かれているが・・
  この様に、「乳と蜜の流れる地」と言われたカナン(
 パレスチナ)へ移住して行ったヘブライ人たちは、種々
 の神々を信じる『多神教の民だった』。
  カナンの地も雨の少ない乾燥地だった。
  遊牧の羊を育てるには欠かせない雨、何日も晴天の日
 が続くとヘブライ人たちは、心から雨を待ち望んだ。
  遊牧民のヘブライ人たちは、多神の神々の中でも嵐の
 神であるヤハウェを最高神として重んじる様になって行
 った。
  ヘブライ人だけでなく、このパレスチナ(カナン)周
 辺に居るアラム人や、アラブ人などの諸部族も多神教の
 神々の一つとしてある嵐の神ヤハウェを祭っていた。
.
紀元前5世紀頃、ユダヤ教の教義が確立して行く。
.
紀元前5世紀頃、「ミシュナ(口伝律法)」ができる。
  キリスト教の旧約聖書は、砂漠の地で生きて行くため
 の『マニュアル』である。
  だから、故に、生きるために、この教えは、「何より
 も大切なものだった」。
  環境の厳しい砂漠で、また、その砂漠の狭い地域に、
 多数の部族が居るという状況に、その地域はあり・・そ
 れは、生きるに必須なものだった。
  また、「主(神)」というのは、みだりに「ヤハウェ」
 と神の名を言えないがゆえの「便宜上の言葉」だった。
  信仰は、この『主』が、そのマニュアルの事ごとを、
 上から与えるという「上から目線」の砂漠の地の信仰の
 形となった。
  マニュアルとして、「トーラー(律法)」「ネビイー
 ム(預言書)」「ケトゥビーム(諸書)」の三つがあり、
 「旧約聖書」としている。
  「タルムード(教訓)」は、古くから伝えられて来た
 戒律をまとめたもので、口伝するべきとした。
  それが、紀元前5世紀頃に、「ミシュナ(口伝律法)」
 という書にまとめられた。
  そして、このミシュナに、「ゲマラ(補完)」という
 補足と解説が付いた。
  そして、5世紀~6世紀の頃までに、「ミシュナ」と「
 ゲマラ」を整理した「タルムード(教訓)」をまとめ上
 げた。
  キリスト教の旧約聖書は、ユダヤ教の「聖典(正典)」
 を『拝借したもの』である。
.
紀元前4世紀頃、今は居ないケルト民族の人々が、ヨーロッ
 パ全域(フランス、スペイン、イギリス・ブリテン島、
 イタリア、バルカン半島、小アジア(トルコなど)へ、
 この頃、移動し、生活していた。
  ケルト民族は、近年、注目されて来ている民族で・・
 ヨーロッパ中に、そのケルトの方々は居た(過去形)
  日本人も、このケルトの人々の様な運命にならないよ
 うにしなければならないが??
  (過去形で語られるような民族にならないように・・)
  このケルトの人々の原住地や起源については、いろい
 ろな説・議論がある・・、
  この民族は、ローマ人が、ガリア人と呼んだ人々で・・、
  言語は、インド=ヨーロッパ語族の人々・・、
  紀元前3000年~紀元前2000年、ケルト文化を形成した。
  南ドイツのバイエルン、及び、ボヘミアに、先史鉄器
 時代のケルト人遺跡が出土する・・また・・
  紀元前1500年頃までに、ドイツのドナウ、ライン川沿
 岸の森林地帯に移動し、定着し、文化を形成したとされ
 ている。
  紀元前7世紀~紀元前3世紀に、ガリア、ブルタニア、
 西ドイツ、北イタリア、イベリア、バルカンに移住し・・、
  紀元前5世紀~紀元前1世紀に、ヨーロッパ中部、及び、
 西部で、活躍したとみられている。
  この頃のライン地方の貴族の墳墓、および、出土品は、
 初期ケルトの美術の美しさを見せている。
  紀元前4世紀頃から、フランス、スペイン、イギリス・
 ブリテン島、イタリア、バルカン半島、小アジア(トル
 コなど)などへ移動する。
  紀元前387年(または390年)ケルト人は、イタリアに
 侵入し、アッリアの勝利の後、ローマへ至った。
  (参考)アッリアの戦い:ガリア人(ケルト人)が、
     初めてイタリアを侵略した際に起きた戦いで・・、
      テヴェレ川の支流のアッリア川付近で行われ
     た戦い・・、
      この戦いでローマ側は敗北し、ガリア人(ケ
     ルト人)が、ローマを奪取する経路が開かれた。
      この戦いは、紀元前390年、または、紀元前387
     年に起きた。
  紀元前390年に、ケルト人は、ローマの住人となり、北
 イタリアのアドリア海岸に定着した。
  ケルト人は、ローマにとって不断の脅威となる・・
  そして・・
  紀元前192年までに、ローマの支配権を失う。
  紀元前16年~紀元前10年には、大陸の最後のケルト民
 族の拠点も、ローマの支配下に入る。
  ケルト人の地、ガリアは完全にローマ化した。
  ケルトの民は長身で、戦士は筋骨たくましくあった。
  ケルト人は、混合農耕を営み、音楽や美術の才能にも
 恵まれ、、森の神、泉の神など自然物に基づく多様な神々
 (多神教)を信仰していた。
  そのような話が「金の斧・銀の斧」という子供たちの
 話として、現代にも伝わっている。
  ギリシャも多くの神々を祀る多神教であったが、この
 多神教のヨーロッパに、一神教のキリスト教が入って来
 る。
  キリスト教は、当初、生き残ろうと、盛んにヨーロッ
 パの宗教である多神教と習合した・・節操もなく多神教
 を取り込んだ。
  キリスト教は、次第に、権威と金を得て行った。
  また、ローマ帝国の承認も得て力を得て行く。
  それとともに、ヨーロッパに既存していた多神教のケ
 ルト族を圧迫し殺戮し駆逐して行く。
  今・現代は、ヨーロッパの西端の半島の突端に居るか?
 と言われるケルト民族となってしまった。
  かつては、ヨーロッパ中に居た民族であったが・・、
  そして・・森が広がるヨーロッパの民の多神教の信仰
 が、砂漠の宗教・キリスト教の一神教に変わった。
  中世の暗黒のキリスト教社会を経験する。
  魔女の騒ぎや、異端審問や、ユダヤの方々がヨーロッ
 パ中を逃げ回る時代を迎える。
  ギリシャやイタリアや、また、イギリス、フランス、
 ドイツなど、かつては森の国で・・多神教が信仰されて
 来た国々が、一神教のキリスト教の砂漠の宗教の暗黒の
 経験をすることとなる。
  ヨーロッパの空は、曇り空の如く、全滅する村も出る
 という・・その様な焚刑が行われるという・・惨劇が繰
 り広げられた。
  最近、行なわれるようになったキリスト教の祭りであ
 るハロウィンは、全滅させられたケルト民族の祭りであ
 った・・
  習合して取り入れたキリスト教が、その祭りを、キリ
 スト教の祭りとした・・
  しかし、キリスト教は、この事を言われると、ケルト
 の祭りだと言って逃げるが・・?
.
12世紀、アララト山の命名
  アララト山は、トルコ共和国の東端にある標高5,137m
 の山で・・成層火山である。
  キリスト教の「旧約聖書」に出て来る「ノアの方舟」
 が大洪水の後、流れ着いたとされる山で・・、
  12世紀以降にヨーロッパ人により命名された。
  「ノアの方舟」・・
  キリスト教の教会でやるような「キリスト教の教義の
 宣伝映画・ノアの方舟」を、NHKは買って、全国放送
 をした。
  NHKは、キリスト教に利する放送をよく行う、多く
 行う放送局である。
  この行為もその一つである。
  「ノアの方舟」の話は本当にあったのだという内容で、
  「その証拠があるのだ」と、その証拠をアララト山に
 求めた話の内容である。
  しかし、キリスト教の教会内でやっている分には嘘の
 話であってもやっても良いが・・、
  公共放送のNHKが、その嘘の話を「本当だ」という
 内容の放送を、日本全国に放送するという事になったら、
 問題である・・
  法律違反となる・・「虚偽の話を本当だ」と、このN
 HKの番組の視聴者に思い込ませる事となる。
  虚偽の話をするという、やってはいけない行為である。
  しかし、キリスト教に偏するNHKは、この嘘放送を、
 虚偽の放送を行なった。
  キリスト教のデッチ上げの虚偽の話「ノアの方舟」が
 実際にあったと言った。
  「実際にあった」と言ったって、「あったあった」と
 形容詞で言うばかりで、その証拠を発掘調査する、探査
 するという行動の映像はあるが、その証拠が発見された
 という話は、まったく「雲の様に霞(かす)んだ中」で、
  ただ「あったあったと言う話」のたぐいであった。
  何だか分からぬ石を示して「これだ」とか、
  大袈裟に、もっともらしく人工衛星写真のアララト山
 付近を示し、放送して、「これだ」と言うだけ・・、
  どこをどの様に証明したのだ?・・と、質問したい話
 が連続するだけ・・?
  その様な「うやむやの話」なので、「もともとがうや
 むや」なので、具体的に説明できない代物。
  その様な放送行為をしておきながら・・今だに、NH
 Kは「嘘の間違い放送だった」と「訂正放送も無ければ」
 「謝罪放送もない」。
  「ノアの方舟」の話が、「真実ではない」という事は、
 今・現代、常識になっているが・・、
  NHKは、その事実を無視して、キリスト教に利する
 放送をした。
  その「ノアの方舟」が虚偽であり、あり得ないという
 話に満ちているが・・、
  その一つが・・「キリスト教の神が、40日間、雨を降
 らし続け、5000メートルを超えるアララト山(この地方
 で一番高い山)の頂(いただき)が隠れるほどの洪水と
 した・・
  そして、地球上の生物のすべてが死滅させた」という
 話である・・
  ノアが救った「一つがいの動物」だけを生き残らせた
 という話である。
  この40日間、雨が降り続いて、5000メートルを超える
 水深の洪水は起こりえない。
  アララト山の標高5,137メートル(世界一のエレベスト
 山を知らない人たちのおとぎ話なので、アララト山とな
 っている)を、40日間で割ると、1日の降水量が128,425
 mmの降水量となる。
  もうこれであり得ないと直ぐ分かる。
  2014年、コロンビアで年間降水量が、3,240mm・・こ
 れが世界一多い降水量記録である。
  それも「年間」である。
  この地域だけに限って雨が降った降水量である。
  ノアの方舟は、「世界中すべてに、猛烈に雨が降り続
 いた」という話である。
  年間のこの数値の39.6分の1にしかならない。
  40日とすると1,584分の1となる。
  この様に、ちょっと考えれば「おかしな話」を、NH
 Kは、このキリスト教の宣伝映画を買って、日本中に放
 送した。
  キリスト教に偏するNHKは、こんな類いのキリスト
 教の「巧妙なる伝道行為」を多くやっている。
  ノアが、世界中の動物を「一つがい捕まえて来る」と
 いう話もおかしいし、方舟に乗せたという話だってあり
 得ないとすぐ分かる・・(どんだけの大きさ??)
  餌(えさ)はどうしたの? 糞尿の処理などの世話は
 どうしたの?・・など、疑問だらけとなる・・
  そして、洪水で流された草木はどうなったの?
  この草木は何故、「ノアの方舟」に乗せなかったの?
  この草木も命があるのだが? などという疑問は、次
 から次と出る。
  この様な話に、NHKは、まったく「疑問を持たない」
 というお粗末な、おかしな公共放送となっている。
.
1587年、バテレン(伴天連)追放令
  フィリピンを拠点にしていたスペインのキリスト教宣
 教師たちには、キリスト教を広める行為と共に、植民地
 獲得・拡大の尖兵となる隠れた要務(ようむ、重要な職
 務・任務)があった。
  キリスト教宣教師たちが、南アメリカを初めとする、
 北米・中米・その離島のすべてのアメリカ大陸で、イン
 ディオの先住民を殺戮し、全滅させて・・領土を奪った
 と同じように・・、
  中国や日本を、武力で奪い取る「征服する計画」があ
 った。
  キリスト教のアメリカ大陸でのその殺戮・全滅行為は、
 凄(すさ)まじく、50年間という超長期に渡り、先住民
 のインディオの方々を、1000万人以上殺すという卑劣極
 まりない行為だったが・・この様な行為が日本で行なわ
 れようとしていた。
  この時、この日本を救ったのが豊臣秀吉だった。
  秀吉は、この様な情報を掴(つか)むと、部下に確か
 めさせた。
  そして、「その情報が間違いない」と分かると、キリ
 スト教宣教師を呼び出し、秀吉・自らが確かめ詰問(き
 つもん、相手を攻めながら、返事を迫って問い立てるこ
 と)した。
  そして、秀吉・自らが、キリスト教が、その様な悪行
 をしていると確認すると、その行為を叱責し、また、フ
 ィリピンのマニラのキリスト教本部へ書簡を送り、「卑
 劣な行為をするな」と言った。
  そして、1587年、バテレン(伴天連)追放令を発した。
  その令の中で、日本の神社や寺院を、キリスト教宣教
 師たちが打毀す行為をしていた事を「止めよ」と言い、
 叱責し・・、
  そして、「20日以内に立ち去れ」と命じた。
  また、キリスト教宣教師たちは、キリシタン大名へ鉄
 砲などの武器や弾薬を渡し、「死の商人」をしていた。
  そして、その領地内で、神社・仏閣を破壊し、好き勝
 手をしていた。
  また、南蛮貿易では、日本の若い女性を連れ去り人身
 売買も行ったりと、倫理観がまったく無い劣悪な行為も
 行っていた。
  「卑劣な輩ども」の形容がぴったりの者どもだった。
.
18世紀、この頃までに、日本は、産業の大きな発展を見た。
  そして、18世紀という偉大な世紀を迎える。
  これまでに起きた産業の発達の中、日本は、ここで、
 教育の必要性を感じ、大事さを感じた。
  武士だけではなく、一般民衆も、盛んに教育を求めた。
  日本の各地に、多くの寺子屋が作られた。
  多くの子供たちが「読み書き・そろばん」を身につけ
 た。
  (参考)読み書き・そろばん:文字・文章を読むこと、
     内容を理解して文章を書くこと、および、計算
     すること、ならびに、それらができる能力を持
     っていること。
      特に、近世末期以降、初等教育における基本
     的な教育内容とされ、また、初等教育で獲得さ
     せる基礎的な能力・学力を言った。
  寺子屋の数は、全国で約1万を数えた。
  その結果、日本全国各地で、町人や農民の生活に即し
 た新しい学問が花ひらいた。
  教育水準は向上し、当時の日本人の識字率は、『世界
 最高の水準となった』。
  町人たちの勤勉さと、倹約を説いた京都の石田梅岩(
 いしだばいがん)は、その代表。
  武士の子弟も、藩が設けた藩校で学んだ。
  この時代、著名な偉人が、多数、輩出した・・
  「本居宣長」「杉田玄白と前野良沢」「平賀源内」「
 伊能忠敬」「林子平」「会沢正志斎」「頼山陽」など・・、
 その偉人たちは枚挙のいとまない状態だった。
  (参考)石田梅岩:(1685年~1744年)心学者、思想
     家。
      社会教化運動のひとつとされる石門心学(せ
      きもんしんがく)の始祖。師は小栗了雲。
      1685年9月15日、丹波国桑田郡(現:京都府)
     の農家に生まれ・・、
      幼くして、一時、京都の商家に奉公に出るが、
      1700年(15歳)で、一旦帰郷する。
      1708年(23歳)で、再び上京し、商家黒柳家
     に仕え、その業に励むとともに、儒学などを独
     学する。
      1728年(43歳)小栗了雲に邂逅(かいこう、
     めぐり会う)し、「心を知る」の課題を「性は
     目なし(無我の境地)にこそあれ」と開悟(かい
     ご、迷いから脱却して審理を悟ること)するに
     至る。
      1729年(45歳)京都車屋町の自宅に、講席(
     塾)を開き、聴講無料、紹介者不要の開放的な
     形式をとって講義・布教に専念する・・
      当初の聴講者はわずかであったが、庶民層に
     門弟が漸増し、大坂に出講するまでに至る。
      その教えは、人間価値の平等や商人の利潤の
     正当性を認めて、説き、「人の人たる道」を追
     求した。
      実戦的倫理思想を分かりやすく説いた・・、
      商業観・人間観において自由さと清新さを示
     し・・京の町人層に歓迎された。
      大坂・河内・和泉などへの出講は、手島堵庵・
     斎藤全門・富岡以直らの人材を得て、心学興隆
     の基礎を築いた。
      1739年(54歳)主著「都鄙(とひ)問答」は、
     門弟の要望を容れた教説の基本原理を記述した
     テキストであるが・・、
      心学教化運動の原点として後世の教育へ深甚
     (しんじん、意味が非常に深いこと)な影響を
     与えた。
      1744年頃(59歳)梅岩が重んじている倹約に
     ついて、人間の本性の洞察にまで思惟(しい、
     心で深く考えること)を深めた『倹約斉家論』
     を出版した。
      1744年、歿、60歳。
.
1924年7月1日、排日移民法が、アメリカで施行された。
  卑劣な法律だった。
  アメリカは、「排日移民法」を作り、日本人を排斥し
 た。
  完全にその根底には、キリスト教の有色人種の蔑視思
 想による洗脳された姿があった。
  今でも、黒人の方々は、アメリカで差別を受けている
 が・・当時の日本も差別され、大きなダメージを受けた。
  精神的なダメージも大きかった。
  また、日本は、国家としても貶(おとし)められた。
  人種としても、文明としても貶められた。
  強い劣等意識を突き付けられた。
  これを、第二次世界大戦に至る大きな要因の一つに挙
 げる学者も多い。
  最初、中国系労働者が排斥され・・そして、日本人に
 代わって来た。
  当時、日本人が、写真だけの見合い結婚をする習慣自
 体も卑下されたりした。
  (移民した日本人の若者が、郷里から写真だけで「お
 嫁さんに来てもらいたい」とプロポーズすることが、お
 かしいとされた)
  やむなく、日本政府は、このアメリカの押し付けを受
 け入れ、1920年に禁止とした。
  今・現代、ロシアは、平均離婚回数が3回だという。
  学生時代に「試し結婚をする」という。
  写真ではなくても、「離婚が目の前にある様な結婚」
 は許されるのか・・、
.
1932年1月28日、上海事変が始まる。
  第一次上海事変が起きた。
  白川義則大将の上海派遣軍と、中国の国民党(十九路
 軍)とがぶつかった・・が・・、
  白川大将は、中国軍を撃退したが、深追いはしないで、
 停戦した。
  これは、『国際連盟で高く評価された行動』だった。
  そして、これは、平和主義の昭和天皇陛下が、白川大
 将へ「事変の不拡大」で、「国際連盟との衝突にならな
 い様に」と伝えていた戒めを守ったからだった。
  しかし、国民政府軍(蒋介石軍)は、1936年12月の西
 安事件の後、第二次国共合作によって、一丸となって大々
 的に日本への攻撃を準備していた。
  この時、日本は、条約を順守して、わずかな兵しか、
 上海に居なかった。
  しかし、中国軍は、このわずかな2500人の日本の上海
 駐留軍へ、十数万の大軍で先制攻撃を仕掛けて来た。
  このため、上海の戦闘は泥沼となった。
  急遽、駆け付けた日本兵など・・4万もの日本兵が死傷
 するという大きな死傷者を出した。
  これによって、戦争は拡大方向へ進むようになり、南
 京へも拡大して行った。
  南京事件の原因は、アメリカに支援された中国とアメ
 リカが起こしていた。
  中国軍の攻撃が、南京進撃の因となった。
  陰で・・アメリカが、中国へ兵器の供給をしていた。
  そして、NHKなどのマスコミが煽(あお)った。
  また、租界は、西欧諸国も、中国に持っていた。
  上海は、日本人の住む租界だった。
  この上海租界に、2000人強の日本兵が駐留していた。
  中国軍は、条約で決められた通りにしているこの日本
 租界へ、アメリカに支援されて、大準備を整えた大軍・
 12万の兵で、圧倒的兵力差で攻めて来た。
  上海の日本は、自衛の戦いを、苦しい戦いを、強いら
 れた。
  尚、この中国の大軍の背後には、さらに、アメリカに
 支援された30万の兵の包囲網が形成されていた。
  中国の泥沼的に続く戦いは、この無限に続くアメリカ
 の武器支援により形成された。
  ルーズベルトが、「第二次世界大戦を作った」と言っ
 たが・・、アメリカは、その第二次世界大戦の開始以前
 から、この様に・・この上海の戦いの様に、戦争へ介入
 していた。
  そして、戦争は始まり、そして、行なわれる方向への
 行動・支援を行なっていた。
  アメリカ国内では、日本人の移民も不法という法律を
 作って日本を差別し、また、日本人を差別した。
  この様な人種差別の行為も「戦争の大きな原因」だっ
 た。
  当然、日本は、この逆のアメリカ人を差別するような
 事は行っていない。
  アメリカは、本当に卑劣な事を色々するアメリカだっ
 た。
  アメリカが、背後で武器支援して始められた、この支
 那事変が、日中全面戦争となり、そして、第二次世界大
 戦へとつながって行った。
  当時、日本には、戦争を拡大をしようという方針・考
 えは少しもなかった。
  西欧諸国も租界に兵を置いたが、この上海の日本の租
 界が、アメリカに支援を受けた中国軍が攻めて来た・・
 そのことから戦争は始まった。
  国際連盟でも評価されたように「日本には、戦争をす
 る意思もなく」、「拡大する意思も、方針も当然なかっ
 た」。
.
1937年8月13日、日中戦争が始まる・・この時、その発端の
 『上海事件(第二次上海事変)』が起きた。
  日中戦争は、1937年7月7日の盧溝橋事件からと言われ
 ているが、これは間違いで・・1937年8月13日の上海事件
 (第二次上海事変)から始まった。
  盧溝橋事件と上海事件の間は、約1ヶ月しかないが、盧
 溝橋事件には戦争になる様相はまったくなく、和平が行
 なわれていた。
  その後に・・国共合作が行なわれ・・日本と戦うとい
 う方針となり・・そして、アメリカの支援を受けた大攻
 撃が始まった・・故に、日中戦争は、上海事件から始ま
 っている。
  故に、日中戦争は、日中(米)戦争と言える。
  ベトナム戦争も、アメリカが、最初から加わっていた
 が・・、
  日中戦争においても、アメリカは司令官を置き、軍事
 顧問団を置き、大きな資金を援助し、多くの武器を供給
 し、秘密裏にアメリカ軍が日本を攻撃したりと、何処か
 ら見ても、日中米戦争の状態、もしくは、日中(米)戦
 争だった。
  アメリカは、アメリカ国民の方々に、この実態を明確
 に説明していないで、国民の目の届かない形(秘密)に
 して戦争を進めていた。
  アメリカは、アンフェアな国なのである。
  世界の目を誤魔化し、世界を繰る国なのである。
.
1939年9月1日、第二次世界大戦がはじまる。
  ドイツの陸・空軍が、ポーランド進撃を開始し第二次
 世界大戦が始まった。
  そして、1941年12月8日、大東亜戦争が始まった。
  日本は、この戦争を、アメリカによって「させられた
 戦争」だった。
  アメリカ大統領のルーズベルトが、「私は戦争を作っ
 た」と発言した様な直接的な言葉だけではなく・・
  アメリカ主導の「ABCD包囲網」で、窮地に陥(お
 ちい)らされて、戦争へ『無理に』向かわせられていた。
  (参考)ABCD包囲網:アメリカ(A)、イギリス
    (B)、中国(C)、オランダ (D)が、日本に対し
     ABCD包囲網を作って、通商航海条約の廃棄、日
     本資産の凍結、対日石油禁輸などを強化して、
     太平洋戦争へと向かわせられ、導かれた。
  日本は、ドイツの様な突然の侵攻による戦端開始の理
 由ではなかった。
  日本は、その前から、アメリカが、中国へ武器の支援
 をしていたり、兵力を送って、隠れて、秘密裏に、日本
 と中国で戦っていたりした。
  (参考)この史料が公開されて明らかになっている・・
     アメリカは、ボランティアだと初めは言ってい
     たが、アメリカ大統領の承認した正規軍だとい
     う事も判明している。
  アメリカは、完全に勝つ戦争と思っており、当然、日
 本もそのことは知っていた。
  日本は、戦争になる前から、その様な分析はしっかり
 しても居たし、十分承知していた・・しかし、せざるを
 得ない事態に追い込まれて行った。
  戦争に至らざるを得ない事々を、いくつもなされてい
 た・・戦端を開かざるを得ない事情に追い込めて行かれ
 た。
.
1941年、アメリカによる「戦争に至らせようとする挑発」・・
  例えば、一例として、日本の領海内に、アメリカ巡洋
 艦を侵入させて、日本と衝突事件を引き起こそうとした
 りした。
.
1941年11月26日、ハル・ノート
  「厳秘」と書かれ、また、冒頭に、「一時的、且つ、
 拘束力無し」と書かれていたが・・、
  正式には「アメリカ合衆国及び日本国間協定の基礎概
 要」と称され・・、
  また、アメリカでは「1941年11月26日アメリカ提案」
 と言われている(提案ではなく・・最後通牒)
  この日に、日米交渉において、アメリカ側から和平を
 したい日本側に提示された文書だった。
  交渉のアメリカ側の当事者であったコーデル・ハル国
 務長官の名前から「ハル・ノート」と称されている。
  東京裁判で、判事であるインドのパール判事が・・、
  「この様な最後通牒を出されては、モナコでさえ武器
 をとって立つ。
  日本が戦争に至ったのは、当然の行為だった」と言う
 ほど強圧的な内容だった。
  また・・アメリカには、キリスト教の考え方から、「
 先に銃を抜からなければ、罪にならない」という考え方
 がある。
  だから故に、アメリカ西部劇でも「卑劣な殺し屋が、
 善人の農夫を撃ち殺す」という事件が起きる。
  金持ちの牧場主に雇われた殺し屋は、農夫の持つ農場
 を欲しい牧場主の依頼通りに、農夫を撃ち殺す。
  農夫は、愛する妻や息子のために、農場は、売りたく
 なかった。
  ここで、殺し屋が、とことん善人の農夫を虐(いじ)
 め、『人格攻撃の卑劣な言葉』を浴びせる。
  農夫をぎりぎりまで追い詰める悪漢・殺し屋。
  暴発せざるを得ない状況に追い込み、農夫が銃に手を
 掛けた途端、殺し屋は、その農夫を撃ち殺す。
  毎日、毎日、撃ち殺す練習をしている殺し屋には、何
 らいつもの練習通りの行動で、殺し屋には、何ら危険は
 生じていない事態だった。
  毎日、鍬(すき)や鍬(くわ)を持って、銃など持つ
 事のない善人の農夫。
  当然の様に、結果は、リスクは、農夫側に100パーセン
 トあった。
  しかし、キリスト教の考え方は、先に銃を抜いた農夫
 が悪く、殺し屋は無実になる。
  熱心なキリスト教を信仰するアメリカ大統領のルーズ
 ベルトは、この様な考え方を持って日本を徴発した。
  「先に日本に手を出させれば、アメリカは正義だ」だ
 った・・卑劣な考え方だった・・、
  ニューヨーク・タイムズが、その点を指摘したが、「
 その通りだった」。
  卑劣さのあるルーズベルトだった。
  法律に、「過失相殺」とか、「責任相殺」とかの考え
 方がある。
  キリスト教的な考え方を否定している。
  「撃たせた側」も責任は、免れ得ないとしている。
  一方的に片方だけの責任を追及するという考え方は「
 間違っている」としている。
.
1941年12月11日、日独伊三国間単独不講和協定を締結する・・
 しかし、裏切るドイツ。
  第二次世界大戦(大東亜戦争)の頃、すでに、日本は、
 「ドイツは、ロシアに次いで、最も頻繁に同盟や条約を
 破って来た国だった」と知っていた。
  「国際信義に劣る国」と知っていた。
  逆に、日本は、条約などの国際取り決めを、しっかり
 と守る国際信義の高い国だった(今もそうだが)
  しかし、日本は、1941年12月11日、日本・ドイツ・イ
 タリアと、「単独不講和の確約(日独伊三国間単独不講
 和協定)」を結んだ。
  (因みに、連合国側も同じことをやっていた)
  (参考)日本、ドイツ、イタリアのいずれも「相互ノ
     完全ナル了解二依ルニ非サレハ『アメリカ』合
     衆国及英国ノ何レトモ休戦又ハ講和ヲ為ササル
     ヘキコトヲ約ス」
  これは、それぞれ単独では連合国と講和をしないとい
 う協定だった。
  そして、日本は律義に、この協定を、約束を、最後ま
 で守り抜いた。
  日本は、連合国と停戦するきっかけを失った。
  だから、日本は、ドイツが、めちゃめちゃにやられ、
 破壊され、敗北し、そして、ドイツが無くなった後に、
 日本は降伏するという道をたどった。
  しかし、ドイツは、秘密にロシアと講和の交渉を、す
 でに、1943年に行っていた。
  それも、1944年まで、何度も行っていた。
  そして、アメリカやイギリスとも、講和を単独で行お
 うとしていた。
.
1943年11月5日、日本が、大東亜会議を、東京で開催した。
  第二次世界大戦(大東亜戦争)は、「栄光ある戦争」
 という言葉で表現することができる。
  この戦争は、アジアの国々の解放(かいほう、束縛を
 解いて自由になること)につながったことは論を待たな
 い、間違いない事実だ。
  この年・1943年、日本は、アジア各国の首脳を東京に
 招いて「大東亜会議」を主催し、各国の共存共栄を謳っ
 た。
  そして、「大東亜共同宣言」を発表した。
  アメリカや、ヨーロッパ諸国の植民地であったアジア
 各国の自主独立を唱(とな)えたこの宣言は・・、
  21世紀の今日(こんにち)、日本が、日本人が、世界
 へ誇れる行動の史実だ・・財産だ。
  そして、日本人は、この戦いに於いて、大変な団結心
 を示し・・また、目ざましい自己犠牲の精神を示した。
  明日の公正な社会を啓(ひら)く特攻隊などの行動が
 あった。
  (参考)啓く:ひらく、蒙(もう)を啓(ひら)くの意味
     《「啓蒙 (けいもう) 」を訓読したもの》道理に
     くらい者や知識に乏しい者を教え導く。
  命を捧げた日本の若者たちの行動と、その精神は、世
 界のどの国民の方々からも賞賛されている。
  中西輝政京都大学大学院教授は言われる・・、
  「私が、昭和40年代に、イギリスへ留学した時、そこ
 で言われたのが・・『あなたの国には、カミカゼを行な
 った素晴らしい人たちがいた』というものだった。
  私が、少し勉強を怠けていると、『あなたは、自己犠
 牲と大変な頑張りの精神を示した素晴らしい先輩のいる
 国の人でしょう。少しはしっかりしなさい」・・と、外
 国の人から言われたものでした。
  あの戦争で、日本人が示した自己犠牲の精神は、大い
 なる『民族の叙事詩』として、胸を張って子々孫々に伝
 えて行くべきものであり・・、
  日本人の世代が大きく変わろうとする今こそ、そのこ
 とを前面に押し出さなければならない時だ」・・と。
.
1945年8月6日、広島の原爆投下を、40キロ離れたところで
 経験した若松八郎氏は言う・・、
  「学校で変な光を見た直後、ものすごい衝撃が来て、
 空に変な雲が上がるのを見ました。
  幼年学校は、田舎に分散疎開し、私は、市の中心部か
 ら40キロほど離れた吉田という場所に居たので、被爆を
 免れました。
  吉田にあった赤十字の分院に、負傷者たちがトラック
 などで運ばれ・・、
  私たち幼年学校生は、彼らを抱えて、3日~4日、不休
 で病床に寝かせました。
.
1945年8月15日、天皇陛下の玉音放送。
  天皇陛下は終戦の詔勅(しょうちょく)で、「万世ノ
 為二太平ヲ開カムト欲ス」と言われた。
  日本が国として立って行くための基軸の大切さ、孫子
 (まごこ)の世代まで受け継いで欲しいというお気持ち・
 「大御心(おおみごころ)」をお言葉にされた。
.
1945年8月15日、第二次世界大戦(大東亜戦争)、この日、
 敗戦を宣言したが・・、
  日本のこの行動が・・アジア諸国の方々が・・、
 アメリカ・イギリスなどのヨーロッパ諸国に、植民地に
 されて、好き勝手をされていた・・その状況から解放し
 たいという事に関し・・この後・・、
 アジア諸国が独立して行くことで・・日本の目的は叶っ
 た。
  その1例を記せば・・、
  イギリスは、アジア各国の港を押さえ、植民地経営だ
 けでなく、アジア各国の社会資本にまで、イギリスの所
 有物の様に好き勝手に使用したりしていた。
  そして、香港やシンガポールの港さえ押さえ、船の燃
 料だった油や石炭を積むことのできるポイントを押さえ
 たりしていた。
  それを、日本が戦って、植民地を解放をしたことによ
 って、アジアの国々は独立し、植民地は無くなった・・
  そして、この様なイギリスに都合のよかった港も、「
 イギリスだけのものではなくなった」。
  イギリスは、日本を恨(うら)んだ。
.
1945年8月15日、鈴木貫太郎内閣が総辞職した。
.
1945年8月16日、日本政府が、明確に陸海軍に停戦を命じた。
  中国大陸では、9月半ばまで中華民国軍と戦闘が続いた。
  中国・共産党軍は、陰に隠れて日本とは戦っていなか
 った。
  ソ連軍が、南樺太と満州へ侵攻を開始した。
.
1945年8月16日、ベトミンが独立を期して、総蜂起を発動し
 た。
.
1945年8月28日、蒋介石と毛沢東による国共首脳会談が開催
 された(重慶会談)
.
1945年9月5日、ソ連(ロシア)は、この日まで、不法に日
 本領土を奪い続けた。
  日本の領土の樺太、千島、北方四島に対してである。
  北方四島は、既に、江戸時代から日本の施政権がおよ
 んでいる・・、
  日本人が居住し、住み暮らし、経済活動がなされた地
 で・・ロシア人の「ロ」の字もない、完全な日本である。
  樺太は、日本人が住み始め、その後にロシア人が来て、
 住むようになった。
  その後なって、ロシアは樺太を混住地だと主張し始め、
  その後、日本とロシアの間で色々とトラブルが起き、
 問題は無くならなかった。
  日本とロシアは、千島列島と樺太の交換条約を締結し、
 問題の解決を図った。
  そして、第二次世界大戦の時に、ソ連(ロシア)は、
 アメリカのルーズベルト大統領にそそのかされて、日本
 の領土が欲しいと・・日本領土の各地に、「日ソ中立条
 約」を一方的に破棄して、日本領に攻めて来た。
  そして、日本領土の北方四島、千島列島、樺太などを
 占領した。
  北方四島は、択捉島(えとろふとう)、国後島(くな
 しりとう)、色丹島(しこたんとう)、歯舞諸島(はぼ
 まいしょとう)で、当然、日本の固有の領土。
  終戦の時、1万7000人の日本人が住んでいた。
  そして、8月28日~9月5日の武力行使で、北方四島や
 千島列島や樺太を奪った。
  現在も、日本へ返還しないで「不法占拠」を続けてい
 る。
.
1945年9月8日、連合国軍が、東京に進駐した。
  以後、都内の建物の600箇所以上を接収した。
  アメリカの日本の戦後統治の草案は、反対意見もあっ
 たが、主流となっていた案は、完全なキリスト教の「シ
 ャロームの考え方・教義」で、完全破壊であった。
  日本の工業力を根こそぎに破壊する・・だった。
  それでなくても、日本は、爆撃で完全に破壊され、荒
 廃し尽くされた状態だった。
  まったく血も涙もない案だった。
  この上に、こんな懲罰を加えるアメリカに正義が、あ
 る訳はなかった。
.
1945年9月10日、GHQが、大本営廃止を発令した。
  (9月13日24時以前に廃止)
.
1945年、勝てば官軍ではないが・・、
  今・現在(21世紀)、敗戦国サイドに居たくないと、
 「我々は、戦勝国だ」と言い出す国や・・、
  戦争もしていないのに、戦勝国サイドに居たんだよと
 主張する節操の無い国や・・、
  また、敗戦が、見えてきたら、戦争遂行者はこいつだ
 と、その一人が全責任あるようにして、捕らえて殺し、
 我々は、だから戦勝国サイドに居ますと言っている国、
 卑怯な国々がある。
  イタリアは、卑劣なリンチ(私刑)で、ムッソリーニ
 を殺した。
  戦後の裁判も行われず、総括して無い卑怯な国などが
 ある。
  連合国の追及の逃れている。
  日本は、堂々と、国際社会の中で事を処して来た。
  日本は、ドイツに共にソ連侵攻などの作戦案があった
 (ドイツから誘われた)、しかし、日本は、ソ連との「
 中立条約があるから・・それを守った」、
  しかし、その後、アメリカのルーズベルトは、その条
 約を破って、日本へ侵攻した方がよい・・その領土は認
 めると、ソ連を誘った・・日本が守った条約を、ソ連は
 破って日本へ攻めて来た。
  ソ連が、以前から、領土を欲しがっていたことを、ル
 ーズベルトは知っていたので・・誘ったのだった。
  ソ連は、その誘いに乗って日本との条約を破って、ア
 メリカの誘いの通りに、日本へ侵攻して来た。
  日本の多くの入植者の方々が、ソ連の戦車に踏みつぶ
 され、機関銃で撃ち殺された。
  中立条約国のソ連が、日本の虚を突いた。
  町でも、野でも、日本人は殺され・・また、日本の女
 性方は強姦され、また、殺された。
.
1946年2月2日 ソ連が、不法にも、全樺太と全千島列島の領
 有を宣言した(2月20日説あり)
.
1946年7月4日、フィリピンが独立した。
  第三次フィリピン共和国がアメリカ合衆国より独立し
 た。
.
1946年8月、インドネシア共和国が独立を宣言した。
.
1946年9月、ベトナム民主共和国が対仏独立を宣言した。
.
1946年12月、フランス軍が共産ベトナムを攻撃開始した。
 (インドシナ戦争勃発、~1954年)
.
1947年8月14日、パキスタンが、イギリスから独立した。
.
1947年8月15日、インドが、イギリスから独立した。
.
1948年1月4日、ビルマが、イギリス連邦を離脱して独立を
 宣言した。
.
1948年2月4日、セイロン(スリランカ)が、イギリスから
 独立した。
.
1949年12月27日、独立戦争の結果、インドネシアの独立が、
 オランダから承認された。
.
1989年6月4日、六四天安門事件(第二次天安門事件)
  民主化を求めるデモ隊と中国軍や警察との衝突。
  多数の死傷者を出した。
  中国の天安門広場の前で、戦車の前に立ちはだかった
 中国市民の英雄・・
  今、どうなって居られるでしょうか?
  日本にも、幾多の若い英雄が、勝敗を度外視して、ア
 メリカの前に立ちはだかった幾多の若い英雄が居られま
 した・・
  昨日までの若い市井の青年たちは、特別攻撃をされて
 行きました。
  トルコのイスタンブールの市民の方々も、戦車の前に
 立ちはだかりました。
  中国・天安門の場合、へしまがった持ち主の居ない自
 転車が、何台も路上に散乱している写真を見ました。
.
2003年7月、中国は、前言を取り消した・・香港のこと・・
  中国の姿勢。
  中国は、昔から覇権志向である。
  「短期の国際協調、長期の覇権志向」である。
  鄧小平が、「今は豊かになることに専念する」は、本
 質は隠して、陰に・・覇権志向がある。
  鄧小平の言葉・・、
  「冷静観察、沈着対応、船光養陶、決不当頭」
  (頭を低くして冷静に観察して、落ち着いて対処し、
 こちらの能力を見せつけてはならない。
  外国との摩擦は・・極力避け、経済発展がある段階を
 越えるまでは隠忍自重し、好機を待て、
  決して先頭に立つな・・
  矛盾は矛盾のまま放置し、将来の解決に備えるにとど
 めよ。
  自らの力を付ける事に、何よりの関心を集中せよ」。
  そして、問題をすべて「政治化する」・・、
  靖国問題、歴史教科書問題・・など、など・・
  また、中国は、言った事を守らないことが、甚(はな
 は)だしい。
  また、言ったことを・・直ぐ変える。
  中国に言わせれば、「君子豹変するものだ」と言いた
 いのだろう。
  言ったことだって、「何時、変るか?」安心していら
 れない。
  鄧小平が、「香港の自由は、今後、百年経っても保障
 する」と言ったが・・??
  2003年7月の6年後に、前言を取り消しとなった。
  香港の1割の市民の方々・60万人の方々が、デモに立
 ち上がった。
  台湾にしたって、明治の日本政府に、「化外の地だ、
 御自由にどうぞ」と、中国は言ったのだ。
  (参考)化外の地:(けがいのち)は、中華文明に於
     いて文明の外の地方を表す言葉。
      中華思想では、中国の権力・法律が行き届か
     ない地方、中国の領土外のことをいい、また、
     その地方に住む民族を「蛮族」と呼んだ。
      中国の古代では、中原から遠く、中華文化の
     影響が薄かった台湾・海南・新疆などのことを
     指す。
  南シナ海の九段線にしたって、「2000年前から、中国
 のものだった」と言っているが、船もない時代のことの、
 裏付けのない事を、中国は言っている。
  覇権を得たいがための妄言だ。
  だから、国際司法裁判所の「中国の権利は及ばない」
 の判決は正しい。
  これ等の事に対処するためにも、日本は、情報を得る
 手段を構築し、また、ミサイルの脅威に対処する手段も
 構築すべき・・、
  戦前、アメリカの画策によって、「日英同盟が破棄さ
 せられた」・・が・・これが、大きな問題点だったが・・
  そして、今、日本は、日米を基軸の中心とすべきだが・・、
  しかし、アメリカには、今ですら、建国以来の覇権志
 向があって・・日本の志向する方向と違って来る時があ
 る・・
  これには、注意しなくてはならない。
.
2015年7月5日、ギリシャの国民投票が行われ・・
  『EUの再建策を受け入れない』・・となった。
  厳しいEUの再建策は、『嫌だ』と、ギリシャの人々
 は、国民投票で意思表示をした。
  金を借りる時は、「にこにこ顔だったギリシャ」だっ
 たが、その金を返す段階になったら・・豹変した。
  この様な事は、こと・・ギリシャに限ったことではな
 いのだが・・? 
  また、ギリシャは、借りた金のほとんどを飲み食いに
 使ってしまっていた。
  ギリシャという国を改善するための投資の金という名
 目の金も、ギリシャは消費に使ってしまった。
  投資で「利潤が生まれる」という展開では無かった。
  ギリシャの人々は、チプラス首相を頼った。
  チプラス首相は、EUを批判した・・、
  「再建策の提案は、EUのルールと基本的な権利を侵
 害している」・・と、
  そして、「そのEUの再建策を受け入れるか?どうか
 は、7月5日の国民投票で決める」とした。
  ギリシャが借りた金を返す期限は「6月30日だった」。
  債務の返済期限を越えた、債務の支払期限を越えてい
 る・・もう、この時点で、返済を無視した話だった。
  EUは、『唖然とした』。
  「新たな融資」にも踏み切れない状態だった。
  ギリシャは、この時点で「アウト」がそのルールだっ
 た。
  債務不履行である。
  ギリシャは、デフォルトとなる訳だった。
  しかし、『うやむや』の空気が流れた。
  ギリシャも『デフォルト』は嫌だった・・避けたかっ
 たが・・EUも嫌だった。
  ギリシャ国内では、急速にユーロが無くなって行き、
 銀行ではお金が下ろせなくなった・・または、少額しか
 下ろせなかった。
  ECB(欧州中央銀行)は、緊急で、ユーロを放出し
 て支援した。
  しかし、この様な状態が長く続くとは、誰も思わなか
 った。
  銀行の業務が滞(とどこお)ると、貿易も止まった。
  NGO(非政府組織)も金が下ろせず、NGOが援助
 している難民救済の業務はできなくなった。
  しかし、そのギリシャの国民投票の結果は、チプラス
 の勝利となった。
  EUの再建策は受け入れないとなった。
  ECB・IMF(国際通貨基金)・EUは、大きなシ
 ョックを受けた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)583E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年6月~1893年7月)

2018-03-13 03:10:41 | 日記
題:(増補版)583E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年6月~1893年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年6月、帝国海上保険会社が設立された。
  安田火災海上保険の前身の一つ。
  そして、この年、東京火災保険(株)を傘下に入れ、
  翌・1894年、共済五百名社を改組して、共済生命保険
 (資)とした。
  1899年、安田商事(名)を設立し、ここを拠点に金融以
 外の事業へも進出を図ったが、おおむね成功を収めなか
 った。
1893年6月、国産蒸気機関車の第1号が完成した(5月説あり)
  イギリス人技術者の指揮の下、日本初の国産機関車で
 ある860形の1輌が、鉄道庁神戸工場で製造された。
  故に、この860形は、日本国有鉄道の前身である逓信省
 鉄道庁が、自庁の神戸工場で製造したタンク式蒸気機関
 車で、
  記念すべき日本初の国産蒸気機関車(車軸配置2-4-2
 (1B1)で2シリンダ複式の飽和式タンク機関車)である。
  設計と製作の指揮を行ったのは、当時、神戸鉄道局の
 汽車監察方として雇われていた、イギリス人のリチャー
 ド・フランシス・トレビシック・・、
  彼は、当時、イギリス本国で注目を集めていた2シリン
 ダ複式機関車の試作を思い立った。
  そして、森彦三や太田吉松といった日本人の技術者た
 ちを指揮して、1892年10月、本形式の新製に着手した。
  また、実際の製造に携わった神戸工場の工員たちも、
 すべて日本人であり、外国人の工員は一人もいなかった。
1893年7月3日 筑豊興業鉄道会社線の小竹~飯塚間が開通し
 た。
  これによって、直方~飯塚間が全通した。
  かつては、石炭輸送が盛んであって、炭鉱などに通じ
 る多くの貨物支線が有ったが、炭鉱の閉山によって、現
 在はすべて廃止されている。
  現在の列車は、旅客列車のみとなっていて、直方市~
 飯塚市などの市町から、北九州市・福岡市などとの通勤・
 通学路線となっている。
1893年7月10日、東京美術学校で第1回卒業式が挙行された。
  横山大観らの11人が卒業した。
  東京美術学校は、1887年に設立された美術専門学校で、
 日本初の美術教員・美術家養成のための機関だった。
  1886年~1887年にかけて、文部省図画取調掛委員とし
 て、岡倉覚三(天心)およびフェノロサは、欧米調査旅
 行を行った。
  この旅行は、美術教育全般に関わる調査を目的とした
 もので・・、
  美術学校の組織管理、および、学科教授法も含まれて
 いた・・、
  1887年10月、2人の報告に基いて、勅令により図画取調
 掛および工部大学校内「工部美術部」を統合・改編し、
 東京美術学校が設立された。
  修業年限は2年で、基礎実技と学科を担当する「普通科」
 は3年で、専門科目を担当する「専修科」も設置した。
  取調掛委員長の濱尾新は、事務取扱にとどまり、
  1889年2月の開校後・・、
  1890年に就任した岡倉覚三が、事実上の初代校長とな
 った。
  副校長は、フェノロサが務め・・、
  開校時の他のスタッフは、岡倉を幹事、フェノロサを
 「雇」(外国人教師)としたほか・・、
  教官は、黒川真頼、橋本雅邦(教諭)、小島憲之(嘱
 託)・・、
  後に、川端玉章・巨勢小石・加納夏雄・高村光雲らを
 加えた。
  教官となったのは、ほとんどが日本画家などの伝統的
 美術家で・・、
  (狩野芳崖も、教授就任が打診されていたが開校直前
 に死去したため実現しなかった)
  伝統美術の振興をめざす岡倉とフェノロサの理念が具
 体化された形となった。
1893年7月11日、御木本幸吉が真珠の養殖に成功した。
  御木本幸吉が三重県の英虞湾で、真珠の養殖に成功。
  真珠5粒をあこや貝のなかから取り出した。
  この真珠は半円のものだった。
  御木本幸吉(みきもとこうきち、1858年3月10日~1954
 年9月21日)実業家。養殖真珠の創始者(ミキモト・パー
 ルとして、世界的に有名)、真珠王と言われる貴族院議
 員。
  1858年、志摩(三重県)の「うどん製造販売業」の長
   男に生まれた。
   幼い頃から、旧藩士や、洋学者のもとへ勉学に通う。
   少年時代には、青物行商など行なって、生計を立て
   た。
   商才もあり、鳥羽沖に停泊したイギリスの測量船に
   青物を売り込み、外国人を相手にする商売のうまみ
   を開眼した。
  1880年(22歳)鳥羽町会議員となる・・また、海産物
   取引などに従事し・・天然真珠の売買も行った。
   進取の精神のある祖父の血を受けた幸吉は、地の利
   を生かす海産物取引に着眼した・・
   そして、干しアワビを取り扱ううちに、真珠へ関心
   を寄せた。
  1887年(29歳)明治天皇陛下の母君(英照皇太后)へ
   真珠を上納する。
   この時を切っ掛けに、真珠貝の増殖に取り組み、腐
   心する。
  1888年(30歳)真珠貝の養殖を試みる。
  1890年(32歳)第3回内国勧業博覧会に、真珠貝(アコ
   ヤガイ)や真珠を出品した・・、
   審査官の動物学者である帝国大学 (現:東京大学)
   の箕作佳吉(みつくりかきち)氏に出会う。
   真珠養殖を決意(アコヤガイの乱獲による絶滅寸前
   を憂えた・・、
   当初は、アコヤガイの養殖を始めて・・、
   後に、真珠そのものの養殖を思い立った・・ここで
   箕作先生らの指導を受ける)
   (着眼したのは、アコヤガイに、ガラスや貝殻など
   で作った半球形の核を挿入すること・・)
   箕作佳吉・西川藤吉・見瀬辰平の各氏らの労苦ある
   指導を受けて・・、
   この後、稚貝の養殖に成功する・・、
   (アコヤガイは、水温8℃以下では死滅する・・
   冬季の湾内の真珠いかだは、冷潮に注意しなければ
   ならなかった・・そのため、西方の温暖な五ヶ所湾
   や、南方の海山町(みやままち)の引本や尾鷲市九
   鬼方面へ移動した)
   さらに、本格的な真珠養殖に着手する。
   幾度かの失敗を重ね、辛苦を重ねる・・
   また、真珠貝の他にも、カキ、エビの他県への移植
   などにも活躍した・・
  1893年(35歳)志摩相島 (おじま、現:真珠島) で養
   殖の成功をみる・・
   そこには・・タンポと呼ばれる金網の籠をつるした
   養殖いかだの点綴(てんてつ、一つ一つを綴り合わ
   せること)する湾の風景があった。
   この時、半円真珠を、初めて市場に出した。
   また、御木本は、養殖真珠に関する資料を収集し、
   相島の施設を整備し、この島を観光の島へとして行
   く・・、
  1896年(38歳)養殖技術に関する特許を取得する。
   この後、数々の特許を獲得・・、
  1899年(41歳)銀座裏に、御木本真珠店を開店。
   この頃から、ほぼ毎年、海外博覧会へ出品。
  1900年(42歳)パリ博覧会へ真珠を出品。
  1905年(47歳)真円真珠の養殖法に成功する・・天然
   真珠と異ならない品質だった。
   以後、これを事業化。・・、
  1907年(49歳)三重県の見瀬辰平氏が、真円真珠の特
   許を得る。
  1919年(61歳)ロンドン市場に売り出す。
   この頃から、ロンドン、ニューヨーク、パリなどに、
   直販店を開設し、「世界のミキモト」としての地位
   を確立して行く・・、
  1928年(70歳)養殖場を志摩郡の英虞湾・田徳島(後
   に、多徳島へ名称変更)へ移転する。
   また、県外へも養殖場を拡大する事に意を用いた。
   事業が成功に導かれたのは、この優良な養殖場が確
   保できた事にもあった。
   そして、3回の外遊の時にも、日本の真珠を積極的に
   宣伝し・・、
   養殖真珠は、日本の重要な輸出品にまで高められた。
   また、販売面において、海外市場の開拓に多大な功
   績を残した。
  1954年9月21日、死去する。96歳・・没後、勲一等が
   贈呈された。
   御木本幸吉の誕生の地には、パールアイランド、養
   殖真珠のモデル工場、真珠博物館、海女実演場など
   がある。
  [言葉]:人間は運と知恵だけでは成功しない。健康が大
     切だ。
  [モットー]:世界中の女性の首を真珠で飾りたい。
1893年7月11日、アフガニスタンとイギリス領インドが、国
 境線を画定した。
  アフガニスタンは、イギリスと第二次アフガン戦争を
 せざるを得なかった。
  1879年、この戦争の結果、アフガニスタンは、イギリ
 スに外交権を奪われ、保護国となった。
  本当は、アフガニスタンの激しい抵抗は功を奏してい
 た。
  そして、事実上は、アフガニスタンは勝利し、イギリ
 スは敗北していた・・が・・、
  しかし、イギリスは、外交渉に於いて・・、
  「イギリスは、アフガニスタンの内政には、一切、干
 渉しない。
  故に、だから、アフガニスタンは、イギリス以外のい
 かなる国とも政治的な関係を結ばない」・・という約束
 を、アフガニスタンから取り付けた。
  これは、事実上のアフガニスタンの『保護国化』だっ
 た。
  そして、また、イギリスは、イギリスになびく、また、
 イギリスに都合のよい「王の擁立に成功した」。
  このアフガニスタンの王と、イギリス領インドとの間
 で、この年・1893年、国境線の画定がなされた。
  この時、アフガニスタンの側が不利であった・・が・・、
 アフガン国王への補助金を、年間120万ルピーから180万
 ルピーに引き上げるという話で・・納得させた・・させ
 られた。
  しかし、無理に確定した、各民族の納得する確定では
 ない「無理があった」ため・・、
 「民族の意思を無視する面」もあったため・・問題を残
 し・・また・・、
  アフガン国王も、『暫定的なものだ』というようなこ
 とも言われていたので、その様に思っていた・・しかし・・、
  しかし、その後、改訂されるようなことは・・行われ
 なかった・・その様な・・イギリスだった。
  インド側にも不満があるし、この様な、『イギリスの
 ペテン的なやり方』は、現代に至っても、問題は解決せ
 ずに・・、
  現代に至っても『引きずる問題』となっている・・
  こういう意味で、イギリスは、世界のあちこちで、こ
 んなことをやって来ていて・・『問題を作る国』だった。
  今・現在の・・ターリバーン政権の誕生や、国際テロ
 組織がからむ問題にもつながっている。
.
  (今日の言葉)
.
  題:結局、中国は、軍拡は無駄だという事を・・理解すべきだ。
.
紀元前3300年頃、この頃からメソポタミアの地に、シュメ
 ール人の文化が生まれた。
  砂漠化が進む気候の中で・・、
  チグリス・ユーフラテス河に集まった人たちは、その
 豊かな水で、大規模な農耕をした。
  河は、定期的な洪水で、肥沃な土を運んで来た。
  紀元前2500年頃になると、このシュメール人は、『ウ
 ル第一王朝』の王国を築いた。
  エジプトは、砂漠と海に守られて、安定した社会だっ
 た・・が・・、
  ・・が、しかし・・このシュメール人の地は、侵入さ
 れやすい地だった。
  アラビア半島や、イラン高原や、アナトリア高原(小
 アジア、現在のトルコ)などから、様々な民族が、メソ
 ポタミアの地へ侵入した。
  そして、シュメールは、セム系のアッカド人に滅ぼさ
 れた。
  アッカド時代(紀元前3350年~紀元前2180年)になっ
 た。
  そして、セム系のアムル人が、紀元前1830年に、メソ
 ポタミア全土を統一し、『古バビロニア王国』を建国し
 た。
  セム系はアジア人で・・アラブ人、ユダヤ人、フェニ
 キア人、エチオピア人などがセム系。
  この古バビロニア王国は、紀元前796年まで続く・・、
  この王国は多神教で、神の総数は4000もあった。
  シュメール時代から受け継がれて来た神があったり、
 アッカド時代に加えられた神々があったりした。
  古バビロニアの時、君主が、マルドゥク神を最高神と
 した。
  メソポタミアも、多神教の神々の中の一つの神を、最
 高神とした。
  多神教から一神へ代わっていく、変化があった。
.
紀元元3000年頃、この頃より、地球規模で雨量の減少が始
 まり・・、
  紀元前1000年頃に至ると、現在の様なアフリカ北部か
 ら中近東を経て、チベットなどのインド北部に至る広大
 な乾燥地が出現した。
.
紀元前2300年頃、インドの北西部のインダス川流域にイン
 ダス文明が作られた。
  インダス文明は、現在、インド南部に居るドラビダ人
 によってつくられ・・、
  農耕に基礎を置き、多神教を信じた。
  このインダス文明は、地球が乾燥化して行く中で、紀
 元前1800年頃に終焉した。
  インドは、紀元前1500年頃に至って、北方の遊牧民で
 あるアーリア人の侵入を受けた・・そして、新たな文明
 となった。
  アーリア人は、この後、インド北東部のガンジス川流
 域に本拠地を移し、農耕を始めた。
  アーリア人は、火で樹木や草を焼く焼畑農耕を行なっ
 た。
  紀元前1200年頃より、アーリア人は、火の神を農耕神
 とする信仰となった。
  この後、一時的に、太陽神やモンスーンの神を農耕神
 としたこともあったが・・、
  アーリア人の民の間には根付かず・・、
  アーリア人の信仰は、バラモン教の形となった。
  紀元前650年頃には、バラモンと呼ばれる司祭者たちに
 よって、ブラフマンが最高神とされた。
  この最高神は、『全世界(宇宙)の創造者』とされ、
  この信仰は、この後に、仏教やビンズー教やキリスト
 教へ影響を与えた。
.
紀元前21世紀頃、この頃から、エジプトの中王国の時代、
 アメン・ラーを最高神とする信仰が広がった。
  だが、この頃のメソポタミアは多神教だった。
  いろいろの神を信仰の対象とした。
  君主が、一時期、マルドゥク神を最高神としたが、民
 衆には定着しなかった。
.
紀元前17世紀頃、中国の殷(いん)(紀元前17世紀頃~紀
 元前1046年)が成立した。
  殷は、中国の王朝で・・文献で、天乙が夏を滅ぼして
 王朝を立てたとされ・・、
  考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝。
  殷王朝の軍隊は、氏族で構成され、殷王による徴集を
 受けると、普段は農耕に従事していた氏族の構成員たち
 が武器をとり、出征するという形で軍隊を編成した。
  この軍隊を指揮するのは、各氏族の貴族だった。
  強大な軍事力を誇ったこの殷王朝は、度重なる戦争に
 勝利を収めるために、兵種、戦法、軍備などを発展させ
 て行った。
  その中で、特筆すべきは、「三師戦法」という大量の
 戦車を活用する戦術だった。
  殷王朝が、歩兵中心の軍制から、戦車を中心とした軍
 制に変化するのは・・、
  殷の支配域が拡大して、黄河中下流域や、中原など、
 戦車を疾駆させるのに適した平原地帯が戦場となって行
 ったからだった。
  戦車は、歩兵と共同して戦いを行った。
  1輌の戦車には、3人の兵が乗り、左側の兵士が弓を、
 右側の兵士が矛や戈を持ち、中央の兵士が御者となった。
  戦車部隊は、5輌が最小単位で、戦車兵15人と付随する
 歩兵15人からなっていた。
  100輌の戦車と戦車兵と歩兵がそれぞれ300人・・、
  25輌の戦車と戦車兵と歩兵が75人というふうに、
  戦車が、5の倍数で、戦車兵と歩兵は15の倍数で編成さ
 れていた。
  戦車の運用法では、「三師戦法」が編み出され、これ
 は軍隊を左、右、中の3つの部隊に分け、互いに連携して
 敵に対処するというものだった。
  軍備は、戦車戦に適した戈や矛、弓矢、木製の盾、刀
 などが使われた。
  しかし、紀元前11世紀に、帝辛の代に周によって滅ぼ
 された(殷周革命)
  この殷は、農耕の繁栄をもたらす天の神「上帝神(じ
 ょうていしん)」を祀っていた。
  そして、殷の後半頃に「天(てん)」という最高神に
 なった。
  儒教を開いた孔子は、この天の考えを元に「『天』と
 は人間が従うべき真理である」と言った。
.
紀元前14世紀末、エジプトに、唯一神のアトン神の信仰が
 できた。
  しかし、このアトン神は、まもなく祀られなくなった。
  この一神教のアトン神は、新王国のエジプト第18王朝
 の国王と、アメン・ラーの祭司たちとの対立が切っ掛け
 で作られたものだった。
  エジプト第18王朝は、紀元前14世紀に入ったころから
 次第に国王の権力が拡大していたが・・、
  王都のテーベの神殿を本拠とする最高神アメン・ラー
 の祭司たちが、政治に色々と口を出し、王の政治を困ら
 せ、行き詰まらせ、王の権力を抑えるほどになった。
  アメンホテプ四世(在位:紀元前1377年~紀元前1358
 年)が王となった頃には、アメン・ラーの神殿の祭司た
 ちは、エジプト王国の収入の半分以上を自分たちが、思
 のまま消費するというありさまだった。
  忍耐の限界を超えたアメンホテプ四世は、新たな王都
 を築き、アメン・ラー神に代えて、アトン(アテン)神
 を新たな国の守り神とした。
  彼は、紀元前1373年、王朝発祥の地テーベを放棄し、
 新たな都テル・エル・アマルナを築いた(アマルナ改革)
  ここを、アトン神の聖地とし、神殿を築かせた。
  これは、王権と宗教的権力を一本化することを狙って
 もいた。
  (参考)エジプト第18王朝:紀元前1570年~紀元前1293
     年、新王国時代最初の古代エジプト王朝。
      アメンホテプ4世は、従来の多神教であったエ
     ジプトの宗教を変えて、世界初の一神教と言わ
     れるアテン神信仰を追求した。
      しかし、「実際は二神教であった」とする学
     説もある。
      それは、伝統的なエジプト宗教と同じく・・
     王たるアメンホテプ4世自身も神であるとされて
     いた。
      神アテンは、アメンホテプ4世だけの神で・・、
      民は、アメンホテプ4世自身を神として崇拝す
     る様に説かれ、このアメンホテプ4世の神が、民
     を救済するという形だった。
  (参考)アメンホテプ4世:紀元前1362年?~紀元前
     1333年?、古代エジプト第18王朝の王(ファラ
     オ)(在位紀元前1353年?~紀元前1336年頃?)
.
1274年、元寇
  この年に、文永の役の元寇があり・・、
  この時は、900隻の船で、3万の中国の「元(げん)」
 の兵が、日本へ襲って来た。
  また、7年後の1281年6月、弘安の役の時は、4400隻の
 船で、14万の兵が襲って来た。
  この時の日本政府の鎌倉幕府は、よく戦った。
  鎌倉幕府の御家人たちは、よく防いだ。
  日本側は、略奪と暴行の被害を受けた。
  中国の元に駆逐された朝鮮軍も一緒になって攻めて来
 た。
  日本の九州へ襲来する前に、日本の「対馬(つしま)」
 を襲っていたが・・、
  その時、朝鮮軍は、日本の対馬の女性方を手籠め(性
 的乱暴)を加え、また、連れ去ったりしていた。
  朝鮮・韓国は、この件については、一言も触れない。
  日本の兵士・御家人たちは、新しい武器の攻撃を受け
 たが、よく戦った・・
  例えば、夜の闇に紛(まぎ)れて、元の船に乗り込み、
 さんざん斬り回ったあげく、船に火をつけて引き上げた
 りした。
  今・現代、中国が、尖閣諸島を奪いに来るときも、こ
 の様な状況になるだろう。
  多数の漁船に、漁師に見せかけた中国兵が、尖閣諸島
 に多数で来襲するだろう。
  2014年10月に起きた、日本の小笠原の珊瑚を奪う時も、
 最多となる212隻が来て、この手を使った。
.
2018年3月3日、アメリカの大陸間弾道ミサイルが『無力化』
 する。
  中国は、IMF(国際通貨基金)の出資金は少ないの
 に(日本より少ない)、自国の武力増強にばかり、金を
 使うという国になっている。
  その中国が、アメリカのICBMを無力化したという。
  日本の『核の傘』でもある「アメリカの核ミサイル群」
 を・・、
  中国が『無力化できる技術』を手に入れた・・という・・
  世界破壊の兵器・・全人類絶滅の兵器となっている核
 兵器。
  この日の読売新聞に・・アメリカの核弾道ミサイルが
 『無力化した』という記事が・・記載された。
  その記事を参考にして・・以下に記述すると・・
  表題は、「中国の『多弾頭型』警戒」「防衛研究所報
 告書」「アメリカのICBM破壊可能」とある・・、
  防衛省の防衛研究所は2日、中国の軍事情勢などに関す
 る報告書「中国安全保障レポート2018」を発表した。
  中国が開発して来た多弾頭型の大陸間弾道ミサイル(
 ICBM)「DF41」の配備が始まれば、『中国の核先
 制攻撃』で、アメリカのICBMを破壊できる態勢が整
 (ととの)うと分析した。
  報告書は、中国に対抗してアメリカがICBMをさら
 に配備数を増やす可能性を説明・・、
  ・・米ソの核軍縮も極めて困難となり・・『頓挫』・・
  中国は、核戦力を秘密にして・・透明性は極めてなく、
 「不透明状態」で・・透明性の欠如で・・これは大きな
 問題・・、
  2017年7月、中国は、渤海湾でミサイル実験を行った。
  その実験は、アメリカ軍を牽制(けんせい)するため、
 「空母キラー」という対艦弾道ミサイルを使用した・・、
  北朝鮮は、偶発的に核ミサイルを発射する可能性が高
 い国・・
  また、中国は、アメリカの「核の傘」を無力化できる
 技術を得たという・・
  その様な中で・・日本だけが「ノホホン」として・・、
 防衛の努力もしないで・・、その足かせになっている改
 善(憲法の改正・修正)もしないで・・、極楽天国状態
 にいる・・周りがどうなっているかも知らないで・・
.
2018年3月6日、中国の軍拡が、アメリカを揺さぶっている。
  標記の表題で、この日の読売新聞に記事がある。
  その記事などから・・その概要は・・、
  中国の軍事費の伸び率は、GDPの伸び率を常に上回
 わる、急激な拡大をしている。
  今年の軍事予算も、対前年比8.1%となって加速して
 いる。
  新兵器も、次々と投入され、力関係が変化している。
  軍トップの習近平中央軍事委員会主席は「世界一流の
 軍隊」を目指している。
  海軍・空軍・ミサイル分野の軍備増強を進め、この中
 国の急速な軍拡は、西太平洋でのアメリカの軍事的優勢
 を揺さぶりつつある。
  中国国産の最新兵器は・・、
 ・ステルス戦闘機・・アメリカ軍の最新鋭ステルス戦闘
   機に対抗して作られた第五世代戦闘機で、2月に実戦
   配備した。
 ・空対空ミサイル・・射程が300~400キロと長く、追尾
   能力も大幅に向上した。
   1月の訓練で戦闘機に搭載した・・今年中に配備する。
 ・攻撃型原子力潜水艦・・1月に沖縄県の尖閣諸島の接続
   水域に侵入した後継艦で、建造中。
 ・空母打撃群・・2020年までに、中国海軍は、3個空母打
   撃群の配備を計画。
 ・空母の配備・・中国海軍の空母1隻が就役、さらに1隻
   が進水済。現在、3隻目を建造中。4隻目から原子力
   空母とする。
 ・空母の戦略的展開・・2025年に、遠洋戦略ができるよ
   うにする。
   (米中の海洋戦力の構図に大きな変動が起きる)
 ・戦闘艦の増強・展開・・空母だけでなく、駆逐艦など
   の「水上戦闘艦艇」増強が大幅に増え、今年末に90
   隻となる。
   (これが、日本、台湾、東シナ海、南シナ海で米中
   が向き合う形になる。
   アメリカは60隻程度が配備限度・・)
 ・ICBM(大陸間弾道ミサイル)・・核弾頭が10個を
   搭載可能(DF41)で、北アメリカ全域を射程に収
   めている。
   命中誤差は僅少(100m)・・今年の前半に配備。
   極超音速滑空兵器が搭載される兵器の開発も進む。
  (参考)極超音速滑空兵器:ミサイル防衛網を突破で
     きる(防衛システムの無力化)
      迎撃は極めて困難。
      中国の新型弾道ミサイル「東風17」
      中国は、実験を7回実施し、6回成功。
      (アメリカより実験回数が多く・・アメリカ
     より進んでいる?・・と言われている)
      地球上の如何なる地点でも1時間以内で攻撃が
     可能。
      超音速(マッハ5~10、マッハ17~22)で飛ぶ、
     または、運動エネルギー弾を攻撃目標へ撃ち込
     む。
      無数の弾丸を極超音速で発射して弾幕を張る
     レールガン。
  (参考)アメリカのトランプ政権も、中国を「最大の
     脅威」と位置づけていて・・、
      2018年1月公表の「国家防衛戦略」で、2019会
     計年度の国防予算に約75兆円強を要求。
      核兵器による抑止力向上、極超音速兵器に対
     するMDなどの研究開発、艦艇などの通常兵器
     の増強などで、総合力で中国との長期的競争に
     打ち勝つ方針を示す。
  日本政府の反応・対応についても、同紙に記載されて
 いて・・、
  急激な拡大に警戒を強め、重大な関心事になっている、
 今後も動向を注視・・、
  中国政策の透明性向上を働きかける。
  中国の予算は、日本の3倍以上・・だが、日本の増額に
 は限度がある。
  現況は、沖縄県・尖閣諸島での中国潜水艦航行など脅
 威が起きている・・偶発的衝突を回避するメカニズムの
 早期運用開始に向けた協議を進めている・・だが、十分、
 機能するかは不透明・・、
  中国の驚異的軍備拡張に対し、防衛省は、今後も、尖
 閣への圧力を強めて来ると見ている・・アメリカの関与
 は不可欠と指摘。
.
2018年3月6日、中国の領土欲
  この日の読売新聞に、「台湾を得たい」という中国の
 方針が記されていた。
  表面上は「台湾統一」という言い方・・、
  それ故、新聞の表題も・・「台湾統一」推進を強調・・
 とある。
  中国の李克強首相が5日に行った政府活動報告で、台湾
 を中国の一部とする「一つの中国」原則に基づき、「祖
 国の平和統一のプロセスを進めなけらばならない」と述
 べた・・とある。
  そして、習近平国家主席も「台湾統一」が悲願で、強
 い意志がある・・と・・、
  李氏は、「両岸(中台)の同胞は歴史の大勢に順応し、
 民族の大義を共に担えば、中華民族の偉大な復興という
 明るい未来を創造できる」と述べた・・と・・、
  「中華民族の偉大な復興」は習氏が掲げる政治目標・・
 と・・、
  台湾も「中華民族」の一員として、世界の政治・経済
 強国への道をまい進する中国の隊列に加わるべきだ・・
 と・・
  中国内では、武力統一を求める声が出ている・・と・・
  ・・以上・・
  中国には、沖縄も中国の領土だという声がある。
  この記事の「台湾」というところを、「沖縄」と置き
 換えて読んでみて戴きたい。
  台湾の次は・・沖縄となる・・
  また、中国は北海道も狙っている。
  新聞は、中国の声を大きく伝えている。
  中国の言いたいことを伝えている。
  中国には、少数民族と言われる諸民族の方々が多く居
 られる・・が・・、
  この様な中国の言い方で、すべての民族が漢民族の下
 で、民族の発言が抑えられて来ている。
  そして、漢民族の政権の下に居させられている・・、
  台湾の本音は「独立」にある。
  中国国内の諸民族の方々も「独立」にある。
  つまり、各々の民族の方々の意思が「まったく無視さ
 れて」・・今まで、この歴史が展開して来たところに・・
 この問題の原点がある。
  そして、この問題に関して・・当事者の各民族の方々
 を阻害して・・当事者の各民族の方々と「まったく関係
 のない外国」が介入して来たというところに、この問題
 の原点がある。
  例えば、第二次世界大戦末期に、アメリカのルーズベ
 ルト大統領が介入して・・
  ソ連が、日本の領土欲しさに参戦し・・日本の領土の
 樺太・千島列島・北方4島をソ連(ロシア)に盗られたと
 いう様なことがある・・
  この時のルーズベルトとスターリンの様な事が起きて
 いる・・、
  この時の、弱まった日本の軍事力をいいことに、けし
 かけられたとはいえ・・ソ連は卑劣な筋の通らない行為
 をして来た・・中立条約を破棄をしてまでして・・、
  つまり、武力の格差が生んだお粗末な歴史展開だった。
  この意味からも、アメリカは、台湾へ核ミサイルを
 供与すべきだ。
  そして、場合によっては、これから、核ミサイル包囲
 網を構築して行くべきである。
  インドも入れたりして行くべきである・・
  中国が行動を起こせば・・『自分だけのみが良い結果
 になる』ということは妄想である・・その様な『妄想は
 するな』という事を理解させるべきである・・、
  つまり、中国が行動を起こせば、『中国を含めて、す
 べてが蒸発する』という時代に入っている・・その様な
 時代なのだ。
  『中国の諸都市も蒸発する』ということも理解すべき
 だ・・
  結局、中国の軍拡は無駄という事を・・理解すべきだ。
.
2018年3月8日、今のチベット
  この日の読売新聞に、今のチベットの状況が掲載され
 ていた・・事は、2008年に起きていた。
  2008年3月14日、チベットの方々が反抗した。
  可哀想に、この行動は、必死のチベットの方々の祖国
 奪還の戦いであった・・が・・「チベット暴動」と呼ば
 れてしまっている。
  今、日本が、これと同じ状況になったとしたら・・、
  日本人は立ち上がるか・・
  そして、その戦いを「日本人暴動」と呼ばれたら・・
  あなたは、どう思うのだ・・?
  今、戦争ではなく・・防衛の大事さを知るべき時なの
 だ・・、
  この時・・明らかに、チベットの方々は、遠い昔から
 住み・・そして、生活をして来たチベットの地を・・今、
 奪われつつある祖国を・・その中に居て・・取り返そう
 と行動を起こした・・
  中国は、漢民族をどんどん移住させた・・、
  今や・・「漢民族の中国人」が一番多い民族となって
 しまっている祖国の地・・、
  この様な国の奪い方をする中国・・
  これに反抗したのが、この行動・・戦いだった。
  「中国チベット自治区」と呼ばれるいるが・・事態は、
 現実は・・まったく反する状態にある・・
  自治はあるのか・・?
  あらゆる抑圧のある中に居て・・
  その一例・・首都・ラサ(日本で言えば東京)で、チ
 ベット民族の方々の宗教抑圧がなされている・・
  信仰の自由のまったく無く、中国好みに抑圧されてい
 る状態・・
  また、長く住んでいる方が・・そこから、半分、暴力
 的に追い出される・・
  まさしく民族差別の圧迫に、チベットの民衆の方々、
 僧侶の方々が立ち上がった。
  「武器などは何もない方々」が、その中国の非人道的
 な抑圧に立ち向かった。
  「素手のチベットの方々」に何ができるのか?
  できる事と言えば、中国の政府機関の施設の破壊・・
 商店の破壊・・放火だった。
  この抵抗は・・青海、甘粛、四川省などのチベット族
 の方々が多く生活している地域にも拡大した。
  (今は、中国の力によって拡散され、散らされている)
  中国政府は軍を出動させ、その力によって、いつもの
 様に抑え込んだ・・天安門の時もそうだった・・
  死者は200名と言われているが・・実際は不明・・
  中国は、外国報道機関などの報道を規制した。
  そして、正確な事も説明していない。
  北京五輪が5か月後にあることから、中国政府がその配
 慮から、今までの様な卑劣なやり方を控えるとみて、こ
 の時が選ばれた・・という。
  インドのチベットの亡命政府は「平和的なデモだった」
 と説明した。
  それが、この様な状況に至らせてしまったと・・中国
 のやり方を批判した。
  また、編集された映像などで(日本のNHKも、よく
 この手を使う)、チベットの方々の悪意の存在が際立た
 せられたという状況も起き、「世界の世論が繰られた」
 という事も起きた。
  チベット仏教の僧侶に変装した人間を出したりした。
  この様な偏見した見方に、正確な情報を提示したのが
 ダライ・ラマ14世だった。
  ダライ・ラマ14世は、アメリカへの訪問時に、シアト
 ルの地元新聞社とのインタビューで、チベット亡命政府
 内の若い方々が不満を持って行動を起こしたという見解
 を示された。
  以降、世界も中国の暴力に反対する意を示した。
  いつもの様に・・中国は、これを機会として、ラサ市
 内にある僧院を封鎖し、僧侶たちを幽閉した。
  日本の沖縄県も、中国は、「自分のものだ」という声
 を発している・・言うのは自由だといっても、言って良
 い事と悪い事がある・・デッチ上げは止めよ・・
  今、沖縄県に多くの中国人が流入し・・その実態を隠
 し・・そして、騒いでいる・・このことが常態化してい
 る。
  そして・・
  2018年3月8日の読売新聞には、『その後のチベット』
 についてが記載されていた。
  習近平政権は、「少数民族に対する政策の成果」を強
 調しているが、力によって抑え込んだだけ・・、
  チベット民族の方々は、信仰の自由や行動の自由は
 厳しく制限されたままという状態。
  その内、沖縄県の方々も外出禁止になるだろう・・
  渡航禁止になるだろう・・
  中国当局の抑え込み、弾圧を恐れて、真実が話せない
 状態となっている。
  「中国への、ゴマすり発言」が公の立場のものが、日
 本でなされている。
  NHKや朝日新聞や・・某政党などは酷いものだ。
  中国国内でも、この状態を・・せいぜい「本当の所は
 よくわからない」と発言する程度で、言葉を濁す・・、
  少数民族の方々が・・民族の催しをしようとすると警
 察車両が・・半端ではない多数の車に取り囲まれるとい
 う。
  巡礼などの移動も「することが出来なくされている」。
  日本などへの渡航もできなくされている(パスポート
 の発給が抑えられている)
  漢民族の公権力の監視下の生活となっている。
  2009年から2017年まで、抗議の焼身自殺をした僧侶の
 方々は「152名以上」と、その示す数が「本当のことを
 知らせている」。
  この様な場合・・中国当局は、焼身自殺をした家族を
 弾圧して、焼身自殺の行為を抑え込むことをしている。
  『漢民族による制覇』を狙う中国政府の形となってい
 る。
  そして、今、習近平は、その立場の任期を撤廃しよう
 としている・・そして、撤廃された。
  永久に、中国の今の立場に留まりたいとしている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)582E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年6月~1893年6月)

2018-03-09 04:45:21 | 日記
題:(増補版)582E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年6月~1893年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年6月15日、関西鉄道の桑名~名古屋間の建設に、免許
 状が下付された。
  関西鉄道(かんさいてつどう)は、大阪府中東部・三
 重県・奈良県・和歌山県を中心に路線を展開した。
  周辺鉄道会社を合併することで路線規模を広げ、名古
 屋~大阪間の独自直通ルート開設を実現した。
  東海道線との間で、壮絶な旅客獲得競争を繰り広げた
 ことで有名。
  その一つが・・、関西鉄道は、昼行1往復・夜行1往復
 で料金不要の急行列車を設定した。
  新式の「早風(はやかぜ)」(後の国鉄6500形蒸気機
 関車)を用いた急行は、同区間を昼行では下り5時間34分・
 上り5時間16分、
  夜行は下り6時間41分・上り6時間3分で走破した。
  この時、官鉄の下り急行列車は名古屋駅~大阪駅間に
 おいて昼行が6時間4分、夜行が5時間20分で走破し、運賃
 も同額の1円21銭であった。
  勝負は・・ほぼ互角という話がある。
  この様な前向きな技術的な「しのぎを削る研鑽」が、
 今・現代、世界に誇る新幹線・リニアモーターカーなど
 の日本の鉄道技術の日本の基底にある。
  この様な旅客サービスや車両技術において先進的な試
 みを行った関西鉄道だったが、この背景には、日本の鉄
 道技術の先駆者である島安次郎が、会社設立の初期に、
 技師として同社に在職していたことがあった。
  関西鉄道の本社所在地は、三重県四日市市浜田町。
  設立は、1888年(明治21年)3月。
  業種が鉄軌道業で、代表者は取締役社長・片岡直温。
  資本金は、24,181,800円(払込額)
  関係する人物は、前島密、鶴原定吉、島安次郎
  ∴上記データは1907年(明治40年)現在。
1893年6月17日、オーストラリアのカルグーリーで金が発見
 された。
  オーストラリアの金は、19世紀末に発見され・・、
  1885年に、ゴールドラッシュが起きている。
  この時は、北東部のキンバリー地区であった。
  その後、南西部のサザンクロスなどでも発見された。
  1892年に、クルガーディでも発見され・・次いで・・
  1893年に、近隣のカルグーリーでも発見されると、大
 規模なゴールドラッシュが発生した。
  現在でも、西オーストラリア州は、国内の金産出量の
 75%を占めている。
  因みに、1893年に金を掘り当てたのは、アイルランド
 人のパディ・ハナン。
  本当は、この金は、先住民のアボリジニの方々のもの。
1893年6月21日、初の観覧車(機械式)が公開された(シカゴ
 万博)
  この世界初の観覧車が誕生した切っ掛けは、フランス
 とアメリカの技術力競争だった。
  この4年前の1889年、フランスは、パリ万国博覧会を
 している。
  この時、フランスの技術を誇ったのが、当時、世界一
 の高さ(312メートル)を誇った「エッフェル塔」の鉄塔
 だった。
  当時、鉄がふんだんに使えるようになって建設技術が
 高度に発達した。
  エッフェル塔はその成果で、目玉となった。
  「鉄鋼時代の幕開けを告げる記念碑的存在」だった。
  1993年になり、アメリカは、このシカゴ万国博覧会で、
 このフランスのエッフェル塔を越えたかった。
  ここに現れたのがジョージ・フェリス。
  彼が考え出したのが観覧車・・高さ75.5メートル、ゴ
 ンドラ数36、各ゴンドラには40の座席と、20人の立ち席、
 1周20分、2160人乗り(全ゴンドラに安全確保のため、係
 員の同乗)だった。
1893年6月22日、三井銀行が合名会社に改組した。
  資本金:200万円。
  この年、三井総領家第10代当主・三井八郎右衛門高棟
 は家政改革に着手し、それまでの三井組を三井元方と改
 称した。
  最高議決機関の「三井家同族会」を設置し、組織の明
 確化を進めた。
  しかし、欧米では、資本主義経済が発展するにつれて、
 合名会社から株式会社へと変遷していて、かつ、企業の
 集中化が行われていた。
  1906年、三井家の副顧問を務めていた益田孝は、欧米
 を歴訪して、三井家同族会に「営業組織に対する意見書」
 を提出した。
  益田は、三井家同族や統括機関である三井元方は法人
 格を持たないため、事業は統括できても、三井銀行・旧
 三井物産・三井鉱山などが無限責任の合名会社では、三
 井家の資産を守れないため、有限責任株式会社化を提案
 した。
  検討の結果、三井家営業組織改正の大枠が決まった。
  主な内容は、
  (1)三井家の11名のみを出資社員とする合名会社を
    設立、
  (2)三井銀行・旧三井物産の株式会社化、
  (3)三井鉱山を三井合名鉱山部とする
 ・・などであった。
  全体の資産を統合し、本社を合名会社として参加に株
 式会社化した小会社を置く形は、イギリスのロスチャイ
 ルド家の様なコンツェルン型とした。
  (HPを参考にした)
1893年6月29日、シベリア単騎横断を成功した福島安正中佐
 が帰京し、宮中に参内した。
  福島安正(ふくしまやすまさ、1852年~1919年)陸軍
 軍人・男爵。
  1852年10月27日、長野県の生まれ・・信濃松本藩士・
   福島安広の長男・・
  1869年(17歳)藩命で東京に出て、開成学校(大学南
   校)で英語を学ぶ。
  1871年(19歳)中退。
  (参考)大学南校:(だいがくなんこう)明治初期の
     政府所轄の洋学校で、1868年、江戸幕府の洋学
     校開成所を維新政府が接収し、開成学校の名で
     復興した。
   司法省に入り、翻訳官から語学力を買われて・・、
  1874年(22歳)陸軍省に移る(文官・陸軍省十一等出
   仕)、次いで武官に転じる。
  1877年(25歳)西南戦争では、山県有朋の伝令使とし
   て従軍。
  1878年(26歳)陸軍中尉。
  1882年(30歳)朝鮮に派遣され、対韓作戦計画の調査
   に従事する。
  1883年(31歳)北京公使館付武官となり、
   満州(中国東北部)およびモンゴル方面を踏査した。
   中国・朝鮮関係の官職を経て、
   語学力に優れ、情報収集と外交に手腕を発揮して行
   く。大尉となる。
  1886年(34歳)インド半島を軍事視察する。
  1887年(35歳)3月、ドイツ駐在武官となってベルリン
   に赴任し、バルカン半島を視察する。
  1892年(40歳)駐ドイツ公使館付武官を辞任し、帰国
   の際、
  1892年(40歳)2月から、ロシアのシベリア鉄道建設の
   状況視察のため、1年4カ月かけて、ベルリンからウ
   ラジオストクへと単独騎馬でシベリアを横断して、
  1893年(41歳)6月、帰国した。世界の注目を集める。
  1894年(42歳)日清戦争(~1995年)の際は、第1軍参
   謀・・帰国後は、参謀本部第3部長、次いで第2(情
   報)部長。
  1900年(48歳)義和団事件に際して、臨時派遣隊司令
   官(少将)として出征する。
  1904年(52歳)日露戦争(~1905年)では、満州軍参
   謀、第2課(情報)課長として出征する。
  1906年(54歳)日露戦争後、参謀本部次長(1908年説
   あり)。中将に進む。
  1907年(55歳)男爵に叙せられる。
  1912年(60歳)関東都督になり満州を担当。
  1914年(62歳)陸軍大将となる(予備役)
   陸軍樹井伊一の情報将校として退官。男爵。
  1919年2月18日、没する(68歳)
  著書:「伯林(ベルリン)より東京へ単騎遠征」
1893年6月30日、ダイヤモンドエクセルシア(Excelsior
 Diamond)が発見された(1905年まで世界最大)
  大きさは970carat (190g)
  エクセルシアは、あまりに大きすぎて売れなかったた
 め、10個にカットされたという。
  因みに、世界最大のダイヤモンド原石は・・、
  1905年、南アフリカのカリナン鉱山(当時の名前はプ
 レミア鉱山)で発見された「カリナン」という石。
  大きさは3106カラット(621.2g)。
  長さ101mm、高さ63.5mm、幅50.8mm。
  鉱山の所有者であったトーマス・カリナンの名前にち
 なんで「カリナン」と命名された。
  この原石が採掘された時、現場の鉱夫は、あまりの大
 きさに、誰かがイタズラをして、ガラスを埋めておいた
 ものと思ったという。
  このダイヤモンドは、1907年に、66歳の誕生日を迎え
 たイギリス国王・エドワード7世に献上された。
  このカリナンをイギリスに輸送するときは、盗賊から守
 るために大騒ぎとなった。
  ダミー船もあり、また、ダミーの石もあり・・など
  厳重な警備アリ・・など・・
  しかし、本物は、普通郵便でロンドンへ送られたとい
 う。
  やはり、ダミーは、何度も、盗賊に狙われたという。
  そしてまた、アムステルダムの研磨所に運ぶ時も大騒
 ぎだったという。
  この時は、イギリス海軍の駆逐艦に積まれたという・・
 が・・これは、ダミーだった。
  本物は、研磨所の責任者が、ポケットに入れて、船に
 乗り、汽車に乗り・・アムステルダムまで運んだという。
  そして、3人の専属研磨職人が、1日14時間の作業をし
 て、8か月かかって研磨した。
  合計で1063カラットの9この大きな石と、96個の小さな
 石となった。
  その一つ、530.2カラットの石には、「ザ・グレート・
 スター・オブ・アフリカ(偉大なアフリカの星)」と名
 付けられた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:だから、この様なことを続けるのは・・愚行だ・・と、
    ギリシャのチプラスは見た。
.
紀元前3000年、エジプトの乾燥化
  エジプトは、雨が少なくなった。
  森林や草原の後退が始まった。
  砂漠化に追われた人々は、豊富な水が得られる川の流
 域に集まった。
  このナイル川の水での農耕だけの食糧確保の生活とな
 った。
  狩りの獲物、魚、果実などの恵みを得る生活は、無く
 なった。
  この様な生活の変化から、民は、農業の繁栄をもたら
 す神の祭祀(さいし)を行なった。
  この様な中、広い農地を支配した豪族が現れ・・、
  紀元前2850年に、第一王朝が、ナイル川流域を統一し
 た。
  この王は、絶対的な権威を持つ王だった。
  そして、エジプトの中王国(紀元前2050年~紀元前1778
 年)と
  新王国(紀元前1570年~紀元前715年)の時代の都は、
 エジプト南部のテーベにあった。
.
79年8月24日、ベスビオ火山が爆発し、ポンペイが全滅し
 た。
  大噴火の翌日・8月25日の朝、噴火から約12時間後、
 火砕流と土石流が発生した。
  これによって、ローマ帝国時代のポンペイは全滅した。
 約2,000人が死亡した。
  ポンペイは、ローマ人の余暇地として繁栄し、最盛期
 の人口は約2万人と推定されている。
  18世紀に、発掘が開始された。
  娼婦の館などが発掘された。
  ここで、男女の交わりを描いた壁画が多数、出土した。
  このことから、ポンペイは、「快楽の都市」とも呼ば
 れている。
  火山灰を主体とする火砕流堆積物には、乾燥材として
 用いられるシリカゲルに類似した成分が含まれ、
  湿気を吸収し、また、隙間なく埋め尽くされているた
 めに、壁画などの劣化が抑えられ、当時の状態で、よく
 保たれている。
  食事を用意しているそのままが、一瞬に閉じ込められ
 た姿などが発掘された。
  紀元前90年に起きた同盟市戦争では、ポンペイは、反
 ローマ側に加わった。
  そして、市民権を求めて戦った。
  しかし、翌年の紀元前89年には、ポンペイは征服され、
 ローマの植民都市となっていた。
.
1392年、李氏朝鮮が、朝鮮・韓国の地に存在した。
  この年・1392年、高麗の武将・李成桂太祖が、恭譲王
 を廃した。
  そして、自らが、高麗王に即位し、成立させた。
  この国家は、朝鮮民族の最後の統一国家の王朝だった。
  1910年までの・・518年間もの長い期間、存在した。
  しかし、何ら生産的でない長いだけ王朝だった。
  朝鮮の民は・・虐(しい)げられた。
  李成桂は、この翌年・1393年、早くも中国の権知朝鮮
 国事に封ぜられ、属国化した・・
  朝鮮という国号も下賜され、与えられ・・
  1401年には・・冊封された。
  国号を中国皇帝に選んでもらうという事大主義の極み
 がなされていた。
  (参考)事大主義:じだいしゅぎ、自分の信念を持た
     ないで、支配的な勢力や風潮に迎合して、自己
     保身を図ろうとする態度・考え方。
     勢力の強いものにつき従う行動様式。
  中国が明から清に代わっても、冊封され続けた。
  李氏朝鮮・・この時代は、可哀想であるが、非常に貧
 しい時代だった・・どん底状態の朝鮮だった。
  因みに、日韓併合前の朝鮮庶民は、激しい身分制度の
 下で、最下層の奴隷が『30%を占める異常な社会』であ
 った。
  特権を持つ両班(やんばん)による拷問は、日常茶飯
 に行なわれた。
  女性方は、姓名さえ与えられず、もの同然の扱いを受
 けていた。
  一般庶民の方に至っては、一切の教育の機会も与えら
 れないという状態だった。
  (参考)両班:やんぱん、最上級身分の特権的支配階
     級で、官僚を出すことが出来た階級、身分。
      文官は東班(文班)、武官は西班(武班)に
     分けられていた。
      官位・官職を独占に世襲し、種々の特権・特
     典を受けていた。
  この様な、「棄民状態の国民・庶民」の上に居る両班
 たちの改革もなされないという状態だった。
  また、自浄作用の働かない社会だった。
  日本の様な、優秀な下級武士が、自己犠牲で、日本を
 改革して行ったという状況は、「夢のまた夢」であった。
  この様な李氏朝鮮が、長い時代、続いたという悲劇が
 朝鮮にはあった。
  民は、やむなく、この環境下に暮らした。
  ある人は、日本へ逃げて来た。
  今、難民が、EUへ流れ込んでいる様に・・、
  そしてまた、大国に寄ってしか生きられない国の状態
 の事大主義の時代だった。
  だから李氏朝鮮・・この国は、やむなく中国に冊封さ
 れた。
  中国は、属国としてこの国から利益を得た。
  生きるために、李氏朝鮮は、中国からの使節たちを必
 死に接待した。
  女性の提供は、常態化したその接待の一つだった。
  屈辱的なその行為を、朝鮮は、せざるを得なかった。
  その様な国としての行為は、その屈辱感とともに、心
 の底に沈殿した。
  無いことをあるようにして言う、日本の軍の行為が、
 同様ないかがわしさがあったと、日本の行為だけを、た
 だひたすらに・・ないことを、あるように言うのは、そ
 の沈殿した、鬱積(うっせき)した屈辱感の裏返しの行
 為だった。
  中国へ付くしかない状況の中での、日本への貶(おと
 し)め行為となっている。
.
1494年6月7日、トルデシリャス条約・・世界分割条約
  ローマ法王(教皇庁)は、何の権利もないのに、尊大
 にも、ポルトガルに、アフリカ南端を回って、インドに
 至る航海において、到達した陸地のすべてを、永久に、
 領土としてよいとした。
  スペインも、コロンブスが、アメリカに到達し、探検
 での功績をあげると、ローマ法王へ、この地の領有する
 許可を求めた。
  1494年、ローマ法王は、大西洋を東西に分ける線を決
 めた。
  そして、東で発見されるもののすべてを、ポルトガル
 のものとし、その西は、スペインのものとした。
  このキリスト教のローマ法王の愚行は、キリスト教国
 が、『発見したものはすべて自分のもの』という「盗人
 (ぬすっと)根性」の行為を、何ら悪びれず行なうよう
 に差し向けた。
  それと共に、先住民の方々が、何千万人という途方も
 ない人数の方々が、このローマ法王の愚行発言の行為に
 よって、殺されることとなった。
  また、この後、こんなやり方で、「アフリカも分割さ
 れる」。
  卑劣極まりない事が、世界中で、何度も起きる事とな
 る。
  ローマ法王は、16世紀の初め、そのキリスト教の宗教
 の汚さを糾弾され、抗議の嵐がヨーロッパに満ち溢れた
 時、海外へ向かう方針とした。
  それによって、弱者の先住民の「殺戮の布教」という
 蛮行が行なわれる結果となった。
  こんな卑劣な殺人をともなう布教を行なった。
  この方針を、特に、行なったのが「キリスト教のイエ
 ズス会」だった・・(日本では上智大学系列)。
  日本を植民地にしようとしたのも『イエズス会』。
  豊臣秀吉に見破られて、「禁教令を出さざるを得ない
 状況にした」のもイエズス会。
  この会は、世界中で酷いことをした。
  ザビエルも、このイエズス会のキリスト教宣教師。
.
1948年、この年のイギリスのロンドン・オリンピックに、
 日本は、出場停止処分となった。
  日本の戦った第二次世界大戦後、アジアのイギリスの
 植民地が、次々と独立して行ったので、イギリスは、非
 常に日本を憎んでいた。
  戦争前からイギリスは、「植民地が独立したら三等国
 になってしまう」と、植民地の独立を恐れていた。
  ロンドン・オリンピックに出場できなくなった日本の
 選手たちの為に、オリンピックの水泳競技決勝と同じ日
 に、日本選手権を開催した。
  1500メートル自由形に出場した古橋広之進は、18分37
 秒0で優勝した。
  この記録は、ロンドン・オリンピックの金メダリスト
 の記録より40秒以上も早かった。
  この古橋の快挙に、日本中が喜んだ。
  敗戦に打ちひしがれていた日本の方々へ、元気と勇気
 と、再び立ち上げるんだの復興への希望を与えた。
.
1950年11月10日、NHK東京テレビジョン実験局、テレビ
 の定期実験放送が開始された。
  NHKは、放送法に基づく特殊法人として1950年に設
 立された。
  設立目的は、放送法により「公共の福祉のために、あ
 まねく日本全国で受信できるように豊かで、且つ、良い
 放送番組による国内基幹放送を行うと同時に放送および
 その受信の進歩発達に必要な業務を行い、合わせて国際
 放送および国際衛星放送を行うこと」とされている。
  そして、1926年に設立された社団法人日本放送協会の
 業務を継承している。
  今、このNHKは、中国に非常に有利な放送を続けて
 いる。
  NHKが、「中国に人気がある」と自らを自慢するく
 らいだ。
  『NHKが、中国に一番信頼されている』と言うくら
 い、中国の意向に沿った放送をしている。
  「中国に有利な放送をしている」という理由で、この
 様な状態になっている。
  中国文明は、その歴史を見れば分かる様に、多くの民
 族が入れ代わり立ち代わりして来た。
  そして、世界中に華僑や華人社会を構築して来た。
  それ故に、地理的な関係は薄い。
  今、共産体制が、その結束を図っているが・・、
  その共産体制が崩壊すれば、その中心軸の崩壊ととも
 に、中国の一体性は崩壊する。
  冊封態勢にある北朝鮮も崩壊する。
  また、準冊封状態に揺れる韓国は、完全に中国軸へ揺
 れる行動に入っている。
  その様に、国家の存立は揺れ、危ういものなのだ。
  日本も、国家について「ノホホン」としていてはいら
 れない状態に特にある。
  この様な意味からも、日本の中心軸にある貴重な文明
 は、大切にして行かなければならない。
  その日本の文明を、破壊しようとする行動が、種々・
 色々な方面・所から行動を起こされている。
  日本の文明力が衰退したら、国家としての日本もおか
 しくなる。
  このことを知っておかなければならない。
  日本の国家と文明が、一対一の関係にあるのも、他の
 文明圏と大きく異なる所。
  今、この大事さに気付く人々が希薄になっている。
  ここに、日本の危機がある。
  この様な意味で、NHKは、日本の文明を破壊する活
 動をしている。
  戦争で国家の存亡が揺らいでも、日本の文明の「しっ
 かりした基底」があれば、日本は、日本国家は、しっか
 り立ち直った。
  社会に、この文明を残し、教育にも、しっかり引き継
 がれて行けば、安定したアイデンティティの揺らがない
 結果が存続する。
  「文明のゆるぎないこと」が大切。
  NHKには、この文明否定の衝動がある。
  文明破壊の衝動がある。
  日本の破壊に繋がっている。
  過去にもあった古い体質が、NHKにはある。
  国旗・国家への偏見が、NHKにはある。
  リオ・オリンピックで、NHKは、金メダル表彰の国
 旗掲揚を放送しなかった・・無視した。
  また、国歌演奏も放送しなかった。
  しかし、アメリカの国旗掲揚は放送し、また、アメリ
 カの国歌演奏も放送した。
  それも、そのすべてのシーンを、最初から最後まで「
 カット無し」で放送した。
  NHKは、この様な放送局。
  天皇陛下を無視し、軽視も、NHKはする。
  この様な異常な放送態度を、NHKは説明せよ。
  「放送の編集権でやった」と説明したが、それだけで
 は済まない。
  また、「芸術性からやったのだ」と、説明にならない
 説明で、NHKは、説明責任を果たせずに逃げた。
  NHKは、「芸術」や「編集権」を盾に、偏頗(へん
 ぱ)な片寄ったNHKイデオロギーを、NHKの巨大な
 放送機構を利用して、NHKの一部の偏見イデオロギー
 を放送し続けている。
  ロシアのソチ・オリンピックも、この様な状態だった。
  国家の存立にかかわる所を、大きく足を引っ張り下ろ
 すNHKなのだ。
  日本を貶(おとし)める放送もよくするNHK。
  NHKは、「東NHK(HNHK)」と、「西NHK
 (NNHK)」に分離し、互いに、切磋琢磨する組織に
 して・・改革せよ。
.
1991年6月12日、ピナツボ火山が爆発した。
  フィリピンのルソン島西側にある火山で、20世紀の最
 大規模の世界的大噴火をした。
  噴火する前には、標高が1745メートルあったが、噴火
 によって259メートルが吹っ飛び、標高が1486メートルに
 なった。
  噴煙柱最大高度は、成層圏である40kmに達し、
  火砕流は、18km流下し、
  火砕流堆積物総量は、48~71億m3と推定された、
  噴火直後の温度は、摂氏700度となり、
  堆積深が100mを超えたために、山腹の樹木・生物を全
 滅させた。
  この山の山麓には、1565年以来、スペイン人の殺戮を
 逃れた先住民の方々が居られたが、噴火のピークの予測
 に成功して、難を逃れた。
  大きな火山爆発があると凶作となり、数年後に、世が
 不安定となり、事件が起きる事が多い。
  因みに、日本は、この山の噴火後の防災工事の援助を
 行なっている。
.
2004年、腐りきっているEU。
  ギリシャに「まともな政党」が出た。
  苦しい国は、苦しいなりに、その状況を受け入れて、
 財政再建に努力しなければならないが・・それが当然な
 のだが・・そうは行かないギリシャだった。
  この年、その当然のことをしようという政党が、政権
 の座に就いた。
  たちまち、ギリシャの粉飾の財務状態が明るみに出た。
  EUに加盟する条件の3%は、まるで守られていなか
 った。
  粉飾し、その上、EUへも報告されていなかった。
  逆に、あたかも達成されているかのように見せかけて
 いた。
  ギリシャは、EU加盟の条件など最初から達成されて
 いなかった。
  最初から作り話だった。
  それも、何と! EUの多くの諸国が「3%条項を守っ
 ていなかった」という事も判明した。
  また、何と! ドイツでさえ、3%を大きく上回る赤字
 だった(政府の新規国債発行)
  無責任諸国の集まりのEUだった。
  嘘つき諸国の集まりのEUだった。
  2005年、EUのある機関が、「ギリシャの財政監査を
 させよう」としたら、EUの別の機関が止めさせた。
  隠すためで・・その様なEUとなっている。
  無責任組織のEUは、無責任な条件で、世界に存在し
 続けている。
  当然、隠したギリシャは、借金を増やし続けていた。
  外国の金融機関は、こんな隠したギリシャに金を貸し
 続けていた。
  ギリシャの最高責任者の首相も、ギリシャの財政赤字
 は、手に負えなかった。
  財政立て直しの計画は、先延ばしされた。
  それも、2009年、政権交代となった。
  新しい首相は、3.7%と言われていた赤字を、12.5%に
 訂正した。
  大幅修正をして、今までが大嘘だったことを世界に表
 明した。
  しかし、これも嘘だという事が、後で分かった。
  本当は・・15%だった。
  こんなことには、もう、誰も驚かなかった・・信用は、
 すでに、がた落ちのギリシャで、「ユーロ危機が起きた」。
  2008年には、アメリカの嘘である「リーマン・ショッ
 ク」も起きた。
  「正直者が馬鹿を見る」という・・不誠実な世界だっ
 た。
  ギリシャは、大した産業もない国だった。
  ギリシャの歴史のすべてにおいて、ギリシャには競争
 力が無かった。
  だから、ギリシャ政府は、借金の返しようが無かった。
  だから、ギリシャに入った投資という名目の金は、「
 単なる消費に使われた」。
  ギリシャは、食うために使ってしまった。
  投資の金が、新たな金を生む様なことは・・無かった。
  ただ、経済は、ギリシャに、まだ金が入って来る頃は、
  その金に煽られて、「バブルには・・なっていた」。
  そして、その嘘の経済バブルで、高い賃金が支払われ
 ていた。
  公務員の賃上げも、毎年、続けて行われていた。
  福祉にも、気前よく大盤振る舞いがなされていた。
  ギリシャの国民の方々は、ギリシャ政府の嘘で、実際
 の実情を、まったく知らなかった。
  事実が知れて、嘘がばれれば、破綻は、当然、早かっ
 た。
  誰の目にも、そのギリシャの借金は、「ギリシャが、
 返済できない」ところまで、膨らんでいるという事を知
 ることとなった。
  当然、ギリシャ国債の利回りは高くしないと、誰も買
 わなくなった。
  高くしても嫌だの「御免状態」となった。
  ギリシャは、資金調達に行き詰った。
  嘘つきギリシャの「なれの果て」だった。
  誠実にしなければ駄目なのだ・・何事も!
  ギリシャは、「助けてくれ」と、IMFに言った。
  このIMF(国際通貨基金)を通じて、日本のお金も
 流れている。
  日本は、IMFへの出資額は、アメリカに次いで第二
 位(2018年現在)
  日本は、『IMFを大きく支えている立派な国』。
.
2015年6月22日、EUで、醜(みにく)い駆け引きが演じら
 れた。
  結論から先に言えば、「ギリシャは、絶対に倒産させ
 たくない」のEUだった。
  倒産状態のギリシャを、倒産させることのできない
 EU・・ここに大きな矛盾があった。
  自由経済の嘘の不自由があった。
  2015年6月22日、ギリシャは、改革ブラン(改革計画)
 を、この日の締め切り「ぎりぎりの深夜」に提出した。
  EUの首脳が集まっていた。
  集まっていたって深夜で討議ができる訳でもなく、ま
 た、分析は、これからという状態だった。
  意味がないのを知りながら集まったのは『演技だった』。
  誰も居ないと、ギリシャのデフォルト(債務不履行)
 が決定だと受け取られてしまうのを恐れたからだった。
  それでなくても、前の週に、ギリシャでは、取り付け
 騒ぎが起きていた。
  ギリシャ国民が、貯金の引き下ろしに走る騒ぎがあっ
 た。
  1週間で、6000億円相当額が引き下ろされていた。
  そのような騒ぎを起こさない様にという演技だった。
  また、取り付け騒ぎを防ぐため、ECBは、急遽、ギ
 リシャの中央銀行に金を注入していた。
  こんな状態で、株式市場も極めて混乱していた。
  EU首脳は、明るく振る舞い、演技をした。
  しかし、ドイツの財相とフィンランドの財相は、あか
 らさまに不満を露(あら)わにした。
  「時間と税金の無駄だ」・・と、
  「提出リストには、何ら目新しいもの無い」・・と、
  ギリシャの若者の失業率は、50%近くだった。
  年金は引き下げられた・・公務員は退職させられた。
  公的なサービスも、機能しなくなっていた。
  多くの病院は閉鎖状態・・、
  やっている病院は現金支払いでなければ駄目・・
  薬も現金・・
  医療保険制度が崩壊していた。
  こんなギリシャへ、融資するサイドに居るECB・I
 MF・EUは、もっと引き締めをしなければ・・「援助
 はしない」と言った。
  年金のさらなる削減と増税が加わった・・、
  ギリシャの新しく首相になったチプラスは抵抗した。
  これ以上は無理だ・・の抵抗だった。
  ギリシャの儲かりそうなセクターは民営化されて、外
 国資本のものになった。
  これ以上は限界のギリシャだった。
  それでも・・ギリシャは、改革プランを書いたのだっ
 た。
  EUは、不満だったのだろうが受け入れた・・
  ギリシャのデフォルトだけは避けたかった。
  切れている首をつなげた・・
  これは、体よくギリシャの政治を奪っている姿でもあ
 った。
  現実として、奴隷化しているギリシャの姿が、そこに
 あった。
  ストーリーとしては・・「EUを形成する」という話
 はあるのだが・・実際は・・結局は・・ギリシャは牧場
 に放たれた羊状態だった。
.
2015年6月30日、この日が、ギリシャの返済期限だった。
  EUを作るは、机上の空論だった。
  ギリシャに、その金がない事は明白だった。
  この日が、ギリシャが、IMFへ16億ユーロ(約2250
 億円)の借金返済の期限だった。
  ギリシャのデフォルト(債務不履行)か?
  ギリシャが、新たな援助を受けるには、新たに「財政
 を再建する道筋」を「明確に示す」必要があった。
  財政再建の改革プランを・計画を作り、それをはっき
 り提示して、相手も納得し、承認してという手続きが、
 当然、必要だった。
  ここまでに至るほど金を貸した方も悪かったが、この
 状態に至って・・さらに、貸してあげるから、その返済
 計画を立てよと言っているのである。
  この話し合いが行われたが・・穏便に話はつくという
 生やさしい問題ではなかった。
  両者の言い分は、大幅に食い違った。
  両者に言い分はあった。
  ギリシャには、「無いものは返せない」という気持ち
 が基本にあった。
  だから、その改革プランは、返してもらう側からすれ
 ば「お話にならないレベル」というお粗末さだった。
  何度も、何度も、頭を寄せ合って、折衝し、「これが
 最後だぞ」などという言葉も出て、怒ったり、失望した
 り、気を取り直したりと・・子供がやる様な事をした。
  最後通牒なども、ギリシャは突き付けられた。
  「無い袖は振れない」というギリシャは、薄っぺらな
 改革プランを提出した・・その様なプランしか出せない
 チプラス首相のサイドだった・・
  EUサイドは、お話にならないと、ほとんど匙を投げ
 る状態だった。
  EUがギリシャと関係して、ギリシャは疲弊したとい
 うのが経緯であり、事実だった・・
  だから、この様なことを続けるのは・・愚行だ・・と、
 ギリシャのチプラスは見た。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)581E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年5月~1893年6月)

2018-03-05 16:49:30 | 日記
題:(増補版)581E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年5月~1893年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年5月、本多静六(のち東京帝国大学教授、林学博士)
 が、防雪林について、日本鉄道会社理事委員の渋沢栄一
 に進言し・・、
  野辺地付近の1.7ヘクタールに、スギ2万1196本と、カ
 ラマツ1005本を植林した。
  これが、わが国の防雪林の最初。
  本多静六(ほんだせいろく、1866年~1952年)林学者。
  1866年7月2日、武蔵(むさし)埼玉郡の生まれ(8月11
   日説あり)
   父の急死で生家の柳原家が没落し、少年時代は苦学
   した・・のち本多家の養子となる。
  1890年(24歳)帝国大学農科大学林学科を卒業。
  1890年(24歳)ドイツ留学(ミュンヘン大学)、国家
   経済学博士の学位を得て帰国。
  1892年(26歳)母校の帝国大学の助教授となる。
  1899年(33歳)「日本森林植物帯論」で日本初の林学
   博士となる。
  1900年(34歳)東京帝大教授となる。
  日比谷公園、明治神宮など各地の公園や庭園を設計し
 た。
  1927年(60歳)退官、37年間、教壇に立った。
   この間、国立公園・国定公園の創設、防雪林、水源
   林など造林学の実践に貢献した。
   また、帝国森林会、日本庭園協会を創立した。
   一方、山林、山地を自ら買って育成した。
  1930年(63歳)自らの森林の5000ヘクタールの美林を
   育英事業のために、郷里の埼玉県に寄付した。
   東大名誉教授となってからは、道徳の訓話の講演を
   行なったり、色々と人々を助けた。
  1952年1月29日(85歳)死去。
  日本最初の林学博士。
  国立公園設立に尽力した。
  著書:「本多造林学」「造林学前論、全5巻」「造林学
 本論、全5巻」「造林学後論、全3巻」。
  論文:「日本の植物帯殊ニ森林帯ニ就テ」「我国地力
 ノ衰弱ト赤松」「新人正観と新生活」
1893年6月6日、寺島宗則(62歳) 死去。
  寺島宗則(てらじまむねのり、1832年~1893年)薩摩
 (さつま)鹿児島藩士。外交官、政治家。伯爵。
  1832年5月23日、薩摩国出水郷脇本(鹿児島県阿久根市)
   の郷士・長野祐照の次男に生まれる。
   幼くして、伯父で蘭方医の松木宗保の養嗣子(よう
   しし、家督相続人となる養子)となる。
  1842年(10歳)蘭語学習を始める。
  1847年(15歳)江戸に遊学し、川本幸民らに蘭学を学
   ぶ。伊東玄朴の象先堂塾頭を経て・・、
  1856年(24歳)幕府の蕃書調所教授手伝となるが・・、
  1857年(25歳)薩摩(鹿児島)藩主・島津斉彬の要請で、
   鹿児島へ帰藩・・製鉄、造船、ガス、写真、電信な
   どの藩近代化事業に携わる。
   西洋文明技術の実際を会得する。
   藩医であったが・・幕府の蕃書調所教授手伝の復職
   となる。
  1861年(29歳)12月、幕府の第1回幕府遺欧使節に傭医
   師兼翻訳方の資格で福沢諭吉らと随員として随行し、
   ロンドンに2年間、滞在した。
  1865年(33歳)3月、薩摩藩遣英使節の一員として出水
   泉蔵の変名で留学生を率いて渡英する。
   帰国後、幕府に仕え開成所教授となる。
   2度にわたる西欧体験から雄藩連合政権を主体とする
   統一国家構想を説く。
   明治維新後、新政府に出仕。
   参与外国事務掛、神奈川府判事、神奈川県知事、外
   国官判事などを経て・・、
  1869年(37歳)外国官判事、外務大輔となる。
   創業期の外務省の整備充実に尽力、電信事業や造幣
   事業にも大きな功績を残した。
   その後、駐英大弁務使(駐英公使)を経て・・、
  1873年(41歳)10月、朝鮮問題で下野した副島種臣に
   代り、外務卿に就任、参議を兼務。
   樺太=千島交換条約の締結、江華島事件の処理など
   にあたった。
   懸案の条約改正交渉では、法権ならびに税権双方の
   同時回復は困難とみて、法権回復を棚上げし、関税
   自主権回復に全力を注ぐ。
  1878年(46歳)アメリカの治外法権を確認する一方、
   日本の関税自主権回復を承認させ、成功した。
   そして、日米約定 (吉田=エバーツ協定) を締結す
   る。
   イギリス人アヘン密輸入事件や検疫規則拒絶事件で、
   法権回復放棄に対する批判が強まった。
  1879年(47歳)引責辞職。
   結局、イギリス・ドイツの反対で日米約定は実施に
   いたらず無効となった。
   だが、相互対等の論理に裏打ちされた外交姿勢は、
   欧米に対する自主外交、アジアに対する条理外交と
   して評価された。
  1884年(52歳)伯爵。
   文部卿、法制局長、駐米公使、元老院議長などの要
   職も歴任し、
   そして、晩年は、宮中顧問官、枢密顧問官、枢密院
   副議長などもつとめている。
   人となり深沈寡黙、経済にも一見識をもつ優れた政
   論家として日本に貢献した。
1893年6月7日、インドのマハトマ・ガンディー(24歳)が、
 最初の市民的不服従を行う。
  インドの反英闘争を開始した。
  1947年に、インドの独立は実現できたが、この時から、
 54年も要した・・イギリスの弾圧が厳しかった。
  この独立も、ガンディーが念願した統一国家ではなく、
 イギリスのくちばしが入って、バキスタンが分離独立す
 るという状況だった。
  この翌年・1948年(79歳)ガンディーは暗殺される。
  ガンディーは、1888年、18歳の時に、弁護士になるこ
 とを目指しイギリスに留学した。
  カーストのメンバーから反対されたが決行した。
  ロンドン大学などで猛勉強し、弁護士資格をとる。
  一旦帰国し、弁護士として活動を開始した。
  しかし、インドでの弁護士活動は不慣れのためかうま
 く行かず、南アフリカで成功したインド人商人の依頼で
  1893年(24歳)アフリカへ渡った。 
  当時、南アフリカには、ブール人の建てたナタール、
 トランスヴァール、オレンジ自由国の三国があり、金や
 ダイヤモンドが発見されて、インド人移民が、その労働
 力として、大勢、来ていて・・、
  クーリー(苦力)といわれて苛酷な年季労働に従事し、
 差別されていた。
  ガンディー自身も、ダーバンからプレトリアに向かう
 列車で、乗車拒否されるという差別に会ったくらいだっ
 た。
  さまざまな差別に逢いながら、インド人唯一の弁護士
 として差別との戦いが始まった。
  それが、ガンディーが編み出した非暴力・不服従運動
 の始まりだった。
1893年6月12日、清水次郎長(本名:山本長五郎)が 死去した。
  (1820年~1893年、74歳) 幕末から明治の侠客。
  1820年1月1日、駿州(すんしゅう)清水港の海運業者の
   子・・清水の船持船頭・雲不見(くもみず)三右衛
   門の3男に生れた駿河の人。
   元旦生まれは不祥との伝説から、生後まもなく母方
   の叔父で、米問屋「甲田屋」の山本次郎八の養子と
   なる。
   (のち、次郎長と略称する・・これは、次郎八方(か
   た)の長五郎で、相続人の意)
  1835年、幼くして悪党の評があり、悪さと無学の15歳
   時、隣国で甲斐国民大奮起という一揆が起こったの
   を尻目に、家の金を持ちだし、浜松に米の買い占め
   に走ったのが幕末風雲録に次郎長登場の始まり・・、
   養家が没落したので、博奕(ばくち)に手を出し、賭
   場(とば)に出入りするような博徒となったといわれ
   るが・・、
  1839年(19歳)旅の僧に人相を見られ「命数25歳を出
   ず」と言われて、「じゃあ太く短く生きる」とヤク
   ザになった。
  1843年の23歳のとき、賭場のもつれから博徒に重傷を
   負わせて他国に逃げ、無宿渡世(むしゅくとせい)に
   入る。
   これを、次郎長本人は、喧嘩で相手を殺したと思い
   込み清水を出奔した。
   三河の寺津治助にわらじを脱ぎ・・、
   喧嘩に明け暮れてあだ名はゴロ長と言われる・・
  1845年(25歳)甲斐の紬文吉と、駿河の和田島太右衛
   門の喧嘩を仲裁して売り出す・・、
   やくざ仲間で名をあげて清水に縄張りをもち・・、
  1848年、28歳で、江尻大熊の妹おてふを娶(めと)る。
  1850年(30歳)保下田久六を助勢し、一の宮久左衛門
   と争った(この年、国定忠治刑死)。
  1885年頃、30歳代半ばは、次郎長の危機の時代・・、
  1858年(38歳)甲斐の祐典仙之助と不和、讃岐の金比
   羅に詣でたのち・・
  1859年(39歳)久六を殺害。
   決戦前の金比羅詣では、実父の金比羅信仰を継いだ
   もの。
  1860年(40歳)久六斬り祈願成就に、森の石松を金比
   羅に代参させ・・、
   その帰路に、石松が都田一家に殺される・・と、そ
   の仇を討って三河を勢力圏に収めた。
   この頃、宿敵・黒駒勝蔵が現れる。
  1864年(44歳)山岳地帯から富士川、天竜川を筏に乗
   って下ってくる黒駒の機動力に対抗して、
   縄張り外を転戦するプロの戦闘集団「清水二十八衆」
   を、この年に創出した。
   この年(1864年)の黒駒方の雲風亀吉と2度にわたる
   三河の抗争、平井村の役(1864年)と呼ばれ、博徒抗
   争史上かつてない抗争だった。
  1866年(46歳)東海道を名古屋までおさえた清水一家
   が、伊勢路制圧に着手したのが、この年・1866年の
   荒神山の争いだった。
   神戸長吉と穴太徳の縄張争いで・・長吉方につき、
   大政(山本政五郎)の戦闘団と甲斐信濃制圧に転戦す
   る大瀬半五郎の別働隊を三河の寺津で合流させ、
   吉良仁吉を大将に荒神山に向かわせた。
   仁吉は戦死した。
   その報復に、次郎長は、千石船2隻に手勢480人、銃
   40丁、槍170幹、米90俵をのせた隊をもって伊勢に
   上陸し、穴太徳と、その後ろ盾・丹波屋伝兵衛を屈
   服させた。
   その武器調達は、国定一家3代目・田中敬次郎によっ
   た。
  以上の抗争の中で、山梨甲州の侠客・黒駒の勝蔵らと
 張合って伊勢の荒神山で対決して勝ち・・、
  また、伊勢桑名の安濃徳(あのうとく)ら博徒ともたび
 たび抗争し・・、
  東海道一円をその支配下に収めた。
  王政復古の維新後、東征軍は進撃を有利にするために
 次郎長を懐柔し、
  1868年(48歳)東海道総督府判事、伏谷如水(ふせやじ
   ょすい)から旧悪を許され帯刀の特権を得た。
   苗字帯刀を許され、探索方に用いられてから・・、
   幕末の偉人・山岡鉄舟らとまじわり・・また・・、
   囚人を使役して、富士山麓(さんろく)の開墾などの
 社会事業も行い、
  汽船を建造して清水港発展の糸口をつけたり・・、
  また、清水港の整備などにつくしたりと、精力的に社
 会活動を多く手掛けた。
  任侠の鑑のように伝えられ、神田伯山(かんだはくざん)、
 広沢虎造(ひろさわとらぞう)らにより、浪曲や講談に取
 上げられている。
  これは、次郎長の養子・天田五郎(あまだごろう)(愚
 庵(ぐあん))が、『東海遊侠伝』(1884年)を刊行して
 から・・、
  1893年(明治26年)6月12日、没。74歳。
   葬式には1000人前後の子分が参列したという。
  墓所は、梅蔭寺(清水市)、法号・硯量軒雄山義海居士。
.
  (今日の言葉)
.
  題:以前のような、鉄鉱石の運搬発注のない船会社も、閑古鳥(かんこどり)が鳴いている。
    あの時、造った船の処分にも困っている。
.
紀元前7万年~紀元前1万年、ビュルム氷河期
  この時、ヨーロッパは氷の中だった。
  この地球の寒冷化の時、この寒冷化によって南方に下
 りた偏西風が、サハラ砂漠北部や、アラビア半島北部、
 イラン高原に雨を降らせ、緑の草原にした。
.
紀元前1万年(1万2000年前)~紀元前8000年(1万年前)
  この頃、地中海の東側(シリア、パレスチナなど)の
 沿岸部で、もしくは、北部あたりで農耕が始まったと考
 えられている。
  この農耕の始まりと同じ頃、シリア、パレスチナ、イ
 ラク北部のあたりで、羊を飼育する牧畜が始まり・・、
  当時、農耕生活のかたわらで羊を飼ったようだ。
.
紀元前8000年、この頃まで、エジプトや、サハラは豊かな
 草原であった。
  自然の恵みに、様々な神々を祭り、感謝をしていた。
  山々、木々、草原、川など、あらゆるところに神々が
 宿り、居て、食べ物や恵みが得られると感謝していた。
.
紀元前8000年~紀元前6000年、エジプトやサハラが乾燥化
 して、砂漠化して行く。
  人々は住むことは出来なくなった。
.
紀元前8000年頃、この頃から、気温は急速に上昇し、サハ
 ラは乾燥し、砂漠化した。
  しかし、紀元前6000年頃から、気温は、さらに上昇し
 始めた。
  サハラ砂漠と、アラビア半島全域と、イラン高原が、
 緑の地となった。
  そして、高温期が終わり、約5000年前(紀元前3000年)
 ころに、気温が下がって行くと、再び、サハラ砂漠、ア
 フリカ北岸、アラビア半島、イラン高原などが、乾燥地
 となって行った。
.
紀元前6000年頃、この頃から紀元前3000年頃までの約3000
 年間、エジプトは、緑の豊かな地であった。
  雨も多かった。
  エジプト文明の形成も、この気候に関係している。
.
紀元前6000年頃、エジプトや、サハラに緑の草原が広がっ
 た。
  人々は、すでに原始的農耕を身に付けていて、狩猟や
 漁業、果実・野菜の採集と共に、農業を行なっていた。
  次第に、農業で繁栄をもたらしてくれている神に感謝
 する様になる。
.
紀元前6000年~紀元前5000年、ユーラシア大陸、アフリカ
 大陸の各地に農業技術が伝えられた。
  サハラ周辺、デンマーク、東アジアのシルクロード周
 辺、インド、中国などの各地へ・・、
.
紀元前4000年、日本で原始的農耕が始まる。
  福井県若狭町の鳥浜(とりはま)遺跡などから、日本
 の縄文時代前期に、原始的な農耕が行なわれていたこと
 が明らかになった。
.
紀元前4000年、アメリカ大陸の農耕
  アメリカ大陸の先住民のインディアンの方たちが、カ
 ボチャの栽培を始める。
.
紀元前3000年、砂漠化が進んだ。
  農耕は、河の周辺で行われた。
  有力な君主が現れた地域は、大規模な農耕も行われ、
 多神教から一神教が芽生えて行く。
.
紀元前3000年頃~紀元前30年、古代エジプト
  古代エジプトは、紀元前3000年頃に始まった第1王朝か
 ら・・、
  紀元前30年に、プトレマイオス朝が共和制ローマによ
 って滅ぼされるまでの時代をいう。
  この古代のエジプトでは、多くの神々が祀られていた。
  太陽神ラー、テーベの町の守り神アメン、あの世の神
 オシリス、天空の神ホルス、大地の女神イシス、ミイラ
 造りの神アヌビス、ナイル川の神アヌケトなど数百の
 神々。
.
1368年、中国に明(明朝)が建国される。
  この明朝の領土は、万里の長城の以北・・つまり、満
 州はその領土に含まれていない。
  ここは、満州族の地だった。
  そして、この明は、現政権の中国と同じ漢民族だった。
  現政権の中国が、どの様な理屈なのか?この地を領土
 としているが・・?
  また、理屈にならない理屈を言って、南シナ海を我が
 物の様にしているが・・?、
  当然に、国際司法裁判所は、中国のこの言い分は通ら
 ないと判決して、「中国の敗訴」として、中国の言い分
 は排斥された・・が・・、
  中国は敗訴したにもかかわらず、依然と南シナ海を我
 が物としている。
  しかし、仮に、中国のこの言い方、論理の立て方が通
 るのであるのならば、「南シナ海は、日本のものだ」「
 日本の領土だ」。
  中国の明朝の時代、中国の明政府は、南シナ海に出没
 していた日本の倭寇(わこう)を取り締まってくれと、
 当時の日本の政府の室町幕府へ頼んで来た。
  この様な史実がある以上、日本の船が南シナ海をすで
 に往来し、行動していたのである。
  中国の現政権の言い方をすれば、南シナ海の環礁や諸
 島は、『日本の領土である』。
  今後、この地を埋め立てて、日本の諸施設を造るが、
 異議を言わない様に、中国へ前もって言っておきたい。
  当時の日本政府の室町幕府は、この時、中国政府の明
 朝の要望通り、倭寇に指示し、取り締まり・・、
  そして、日本は、前向きに、中国の明朝政府と解決を
 している。
  日本と中国・明朝政府は、「勘合貿易を始めよう」と
 いう取り決めをして、平和裏に解決している。
  (参考)倭寇:(わこう)は、一般的に、13世紀から
     16世紀にかけて、中国大陸の沿岸部や朝鮮半島、
     一部内陸、及び、東アジア諸地域において活動
     した私貿易、密貿易を行う貿易商人。
  (参考)勘合貿易:(かんごうぼうえき): 室町時代、
     幕府と中国の明との間で勘合符を用いて行われ
     た貿易。
      3代将軍・足利義満が、1401年、明との国交を
     回復すると、1404年、日本と明との間に勘合符
     制を設け、勘合符による貿易を始めた。
      140年間、続いた。
.
1894年、日本は、朝鮮・韓国の鉄道建設などの社会資本の
 充実に、本当に誠意をもって尽くした。
  韓国の加耶大学の崔基鎬(チェ・キホ)教授の自著の
 「日本人の税金で賄(まかな)われた朝鮮の鉄道建設」
 の項には、以下の様な記述がある。
  事実である。
  日本を貶(おとし)めているばかりの韓国は、以下の
 記述を、心して読みなさい・・、
  「鉄道は、未開国を近代国家に育成する機能を発揮す
 るための必要不可欠の動脈であり・・、
  市場経済の血管である・・、
  鉄道に代表される「大衆交通手段」の発達は、人類の
 生活向上と幸福の増進にも欠かせない・・、
  道なき山野に・・鉄道が敷設された事が・・、
  日本政府の目的がどこにあろうと、朝鮮民族にとって、
 長い間の地獄のような世から脱する事につながったこと
 は論をまたない。
  1894年、日清戦争勃発を契機として・・、
  朝鮮に鉄道敷設の機運は熟していたが、当時の李朝は、
 財政・経済に対する基礎的知識もなく、交通・鉄道に関
 する認識もなかった。
  1896年「京仁線(ソウル~仁川間)」38.9キロの鉄道
 敷設権を、日本企業「京仁鉄道合資会社」が、アメリカ
 人のモールスから買収して、1900年7月8日に、全線を開
 通させた。
  これが、朝鮮で最初の鉄道だった。
  ちなみに、日本で新橋~横浜間が開通したのは1872年
 で、その28年後のことであった。
  従来、今までソウル~仁川間の往復は、5日から6日も
 かかっていた。
  ソウルの両班老人たちは、初めて見る汽車を「鉄馬」
 と呼び、その「鉄馬」に乗って一日中、往復を繰り返し
 て楽しんだと伝えている。
  往復で5日~6日の所要時間は、2時間~3時間に短縮さ
 れた。
  何とありがたい事であろう・・、
  元来、両班とは、働かずに、農工民が生産したものを
 優先的に処分する権利を保有していたから、「鉄馬」に
 乗って一日を消費して、それを最高の享楽と感じたのだ
 ろうことは容易に想像できる。
  「京釜線(ソウル~釜山間)」450.6キロは、「京釜鉄
 道〉株)」が、1905年1月1日に、全線を開通させた。
  京仁・京釜線鉄道の買収額(建設費)は、3500万円だ
 った。
  それに対して同年の大韓帝国の収入額(税・印紙税総
 額)は、784万円だったから、自力での鉄道敷設は夢でし
 かなかった。
  それまでフランスやロシアも競って鉄道敷設権を獲得
 したが、その資金の裏付けもなく、工事の着工もできな
 かった。
  アメリカのモールス(京仁川敷設権取得者)も事情は
 まったく同じで・・、
  彼らが頼りにしたのは李朝であったが、以上のような
 財政事情で、まったく実現の可能性が無かった。
  その様な事情から、日本企業が、この難局を切り抜け、
 京仁・京釜線が敷設された事は、天佑神助(てんゆうし
 んじょ、天や神の助け)というべきであった。
  京義線(ソウル~新義州間)は、フランスのグリール
 が敷設権を取得したが、これも日本が買収して、建設を
 受け継ぎ、1906年4月に、全線を開通した。
  京義線と馬山浦線の建設費、は3138万円で、したがっ
 て、京仁・京釜・京義・馬山浦線建設費を合わせると、
 6638万円になる。
  この6638万円は、日本人の血税で賄われた。
  ・・が、その活用は、日本人・朝鮮人共用であり、朝
 鮮側の享受した利益は莫大なものであった。
  もしも、1896年~1906年の1円が、今の10万円に相当す
 るとすれば、6.6兆円であり・・、
  それを、2003年11月25日の為替レートで韓国ウォンに
 換算すれば、79兆6560万ウォンに相当する(2003年11月
 現在、物価指数による換算)。
  こうして、1910年の日韓併合時には、既に全国1039.7
 キロの路線が完成した。
  これに続き、日韓併合後は、寺内・長谷川の両総督時
 代に、湖南線・京元線(ソウル~元山間)・平南線が、
 1917年には、会寧~清津間が開通した。
  併合後に、朝鮮総督府が、鉄道敷設に投資した費用は、
 次ページの一覧の通りである。
  日本の斎藤実総督は、1921年9月に開催した「産業調査
 委員会」の提議によって、吉林~会寧間の敷設計画と、
 それ以降の12ヵ年計画を立ち上げたが、その概要は、以
 下の通りであった。
  鉄道建設12ヵ年計画、
  期間:1927年~1939年、
  総経費:3億円、
  路線:図們線(雄基~潼闕鎮)156キロ、
  恵山線(恵山鎮~吉州)142キロ、
  満浦線(順天~満浦)286キロ、
  東海線(安辺~浦項・釜山~浦項)549キロ、
  慶全線(晋州~全州・院村~漂陽)251キロ、
  計1384キロ
  また、朝鮮総督府が建設する鉄道で、1930年末までに
 完工した路線は、次の通りである。
  鉄道建設状況(1930年末)
  京釜線 450.6キロ、
  京仁線 38.9キロ、
  馬山浦線 40.1キロ、
  鎮海線 20.6キロ、
  京義線 499.3キロ、
  兼二浦線 13.1キロ(黄州~兼二浦)、
  平壌炭鉱線 23.3キロ(大同江~勝湖里)
  平南線 55.3キロ(平壌~鎮南浦)
  博川線 9.3キロ(孟中里~博川)、
  竜山線 6.7キロ(竜山~唐人里)、
  新義州貨物取扱所線 1.8キロ、
  湖南線 260.7キロ、
  群山線 23.0キロ(裡里~群山)
  慶全線・慶全北部線 25.3キロ(裡里~全州)、
  光州線 36.4キロ(松汀里~漂陽)
  京元線 223.7キロ、
  威鏡線 617.6キロ(元山~会寧)
  川内里線 4.4キロ(竜漂~川内里)、
  清津線 9.0キロ(輪城~清津)
  会寧炭鉱線 10.6キロ(会寧~鶏林)
  北青線 9.4キロ(北青~新北青)、
  遮湖線 4.9キロ(会山~遮湖)
  鉄山線 3.0キロ(羅興~鉄山)、
  平元西部線 67.0キロ(西浦~新倉)、
  東海線・東海中部線 148.8キロ(大邸~慶州)、
  東海北部線 31.4キロ、
  図們線・図們西部線 59.6キロ(会寧~潼闕鎮)
  図們東部線 31.4キロ(雄基~訓戒狭)
  その後、新倉~高腹間の平元線146.8キロ、吉州~恵山
 鎮間の恵山線141.6キロ、順天~満浦間の満浦線286.6キ
 ロ、釜山鎮~蔚山線70.8キロなどが、開通した。
  その他にも、総督府は、私設鉄道に対する補助を行な
 ったが、1915年~1930年までに、その総額は4000万円を
 超えた。
  1910年の日韓併合以来、旅客運賃収入と貨物収入は、
 67ページ下段の表の様に飛躍的に発展しており、物流の
 活発化を裏付けている。
  こうして、1945年の終戦の日まで、鉄道網の拡張は続
 けられた。
  その総延長は、6632キロ、駅の数は762、従業員数は
 10万527名に達した。
  それまでの姿・・「人間の背中に頼っていた李朝時代
 の物流」・・、
  それ以前の李朝時代の物品の交流は、褓負商ボブサン
 (行商人〉に頼っていた。
  たとえば、全州チョンジュの行商人(褓負商ボブサン)
 は妻子とともに、全州名産の生姜(しょうが)と櫛(く
 し)を背負って、平壌ピョンヤンまで3週間余りかけて歩
 き、そこで販売する。
  次に、人力車も通れない道を、再び、歩いて、元山ウ
 オンサンに行き、昆布と干魚を売りさばくという具合だ
 った。
  時間が予定以上にかかったり、滞在が伸びたりしたら、
 利益は見込めない。
  その様を想像しただけでも、道路やインフラ整備を怠
 った李朝が、百姓にとって、いかに苛酷な統治者であっ
 たかが分かる。
  この場合でも、馬を使うのが普通だが、馬には人間以
 上の経費がかかる。
  結局、運搬道具として、牛馬ならぬ人間の背中が最も
 利用されることとなった。
  朝鮮には、遠い昔から運搬具として「チゲ」というも
 のがあって、今も農村では欠かせない道具だが、肩に掛
 ければ荷重が背中全体に、公平に分配されるから肩が痛
 くないという特徴がある。
  嶺東には、蜂蜜の生産は多いが、塩が無く、平安道ピ
 ョンアンドでは、鉄の生産が多いが蜜柑・レモンは無く、
 ハムギョンドでは、朝鮮人参の生産は多いが、綿布は生
 産されない。
  この様な地方特産品を、鉄道の敷設によって流通させ
 ることが出来れば、住民の生活向上につながることは言
 を俟(ま)たない。
  暗黒の国土に、鉄道が開通し、日本の先導で、ようや
 く近代化のきざしが、朝鮮にも見られるようになった史
 実は、否定できない。
.
2015年、急速に悪化の道をたどるギリシャ。
  こうなると、EUに入る前のギリシャの方が幸せだっ
 たと思えた、言えた。
  EUに入ったら、一時は、ウキウキと良くなったよう
 に見えたが、今の時点は、最悪の状態になって、プライ
 ドまで無くなされたという状態となった。
  それまでは、豊かな人も、豊かでない人も、皆が、そ
 れなりに陽気に生きていた国だった。
  今は、「外国に支配されている」という国になってし
 まっている。
  ギリシャ国民は、その様に感じ、屈辱感の中に居た。
  ギリシャ人は、EUを憎んだ。
  特に、ドイツを憎んだ。
  この様な時に、ギリシャにチプラス氏が現れた。
.
2015年1月26日、EUを構成しているギリシャ・・このギリ
 シャ議会総選挙に於いて、チプラスの率いる党が第一党
 となった。
  そして、この男は、この日に、40歳でギリシャの首相
 の座に就任した。
  過去150年間で、最年少のギリシャ首相だった。
  因みに、このチプラスは、約5年前の2009年10月4日の
 ギリシャ議会総選挙で、チプラス(35歳)は初当選し、
 党首に就任していた。
  そして、急激に、国民の支持を得て、首相となった。
  この状況は、第一次世界大戦の後に、ドイツのヒトラ
 ーが、第一次世界大戦で戦勝した諸国に、過激な賠償金
 を押し付けられて、喘(あえ)いでいた時と同様だった。
  この時のギリシャの国民の方々も・・喘いでいた。
  ギリシャ国民の方々は、このチプラスに・・酔った。
  アレクシス・チプラス:トルコのマルマラ地方にある
 クルクラーレリ県のババエスキからギリシャとトルコの
 住民交換で、ギリシャへ移ったギリシャ人の移民三世と
 してアテネ郊外で生まれた・・
  この男は言った・・、
  「ギリシャ人の給与を、以前の給与に戻す」
  「解雇された公務員は、再雇用する」
  「民営化されたものを、元の公営にする」
  「EUやIMFから借りている債務は・・返済しない」
  「貧乏人が、これ以上、苦しむようなことはさせない」
  「国の復興は、金持ちの金でやる」。
  絶望していたギリシャ国民は・・沸いた。
  チプラスが引っ張って来て就任させた大学教授の新し
 い財務大臣も言った・・、
  「新興財閥(オリガルヒ)の絶滅」
  「国民が貧しくても、幸せに暮らせる国をつくる」
  EUの議長が、ギリシャに、すっ飛んで来た。
  討議は・・平行線をたどった。
  険悪な状況となった。
  EUから押し付けられた「緊縮財政」を「占領下」と
 表現し、反発した。
  ギリシャの自国を、さも占領軍から解放するという雰
 囲気だった。
  EUの組織は、「呆然(ぼうぜん)」と見つめていた。
  チプラスが、選挙に勝って政権を取ったのは、明らか
 にドイツの敗北だった。
  ドイツは、ドイツなりに、自国民・ドイツ国民を説得
 して、ギリシャ救済資金を捻出して、救済努力をしてい
 たが・・ギリシャから恨(うら)まれ、こんな結果とな
 ってしまった。
  あたかも、日本が、朝鮮・韓国へ大資金を投入し、与
 えて、鉄道を引き、道路を造り、学校を造り、人口が3
 倍になるような健全・健康な社会づくりをしたのに、数々
 の貢献をしていたのに、感謝もされず、御礼も言われず
 に、ただただ、しつこく貶(おとし)める事ばかりされ
 ている様な状況だった。
  EUは困った。
  ギリシャ経済が壊れると、金融市場が壊れること・・、
  これが、世界に拡散する心配・・、
  計り知れない悪影響が生じること・・、
  ユーロという国際通貨も破綻する恐れもある。
  今、EU内で、言われていること・・
  「ユーロを守る必要があるのか?」
  『EU存立』の基本への疑問である・・???
.
2018年2月21日、「かくれキリシタン」の実像
  標記の題で、(読売新聞、2018年2月21日)が、最新の
 研究成果に基づいた記事を書いていた。
  キリスト教がイメージで作った話は、『すべて嘘』だ
 という事が分かる。
  日本は鎖国をして、キリスト教を弾圧した・・それか
 ら逃れたのが「かくれキリシタン」というのが、キリス
 ト教の作り話だが・・これが「完全に違っている」とな
 った。
  キリスト教は、この筋で、世界遺産に認定されようと
 運動をしているが、その根拠は崩れた。
  研究の結果、現在のキリスト教のほうこそが変わった
 という「逆の結果になった」。
  変容したのはキリスト教のほうで・・変わったのはキ
 リスト教だった。
  つまり、弾圧で変わったというキリスト教の言い分は
 まったくの嘘で間違いで、事実はこの逆。
  「かくれキリシタン」の方々は、隠れてもいなくて、
 当時の布教された時の「まま」を保持している方々とい
 う事が分かった。
  当時、宣教師が来た時のままの「聖水を使って病気を
 治す儀式をする」とか、「オラショを唱える」とかで、
 研究の結果、「弾圧で宗教を変えたのではない」と分か
 った。
  また、弾圧で宗教を変えたとか、習合したとかではな
 く、「かくれキリシタン」が寺の檀家(だんか)になり、
 また、神社の氏子となった。
  弾圧で宗教を変えたのではなく、「並存」して来ただ
 けなのだ。
  だから、「かくれキリシタン」の家に、御前様と神棚、
 仏壇、弘法大師をまつる壇がずらりと並んでいる。
  逆に、この地域の藩は、厳しい禁教は行なわなかった
 という事も分かった。
  そして、貧しい「かくれキリシタン」などというイメ
 ージが、キリスト教によって作られているが・・、
  この地域は、江戸時代は、捕鯨もしたり、農業もした
 りで、豊かな地域で、しっかりした経済基盤が形成され
 ている地域だったということも分かった。
  2018年の「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」
 の世界遺産登録の申請は取り下げるべきだ。
  キリスト教の特有の「作られた古来からの変質した『
 推測』で申請している」に過ぎない。
  日本は、ヨーロッパの様な酷い弾圧はしていないのだ。
  キリスト教は、日本もヨーロッパのような酷い弾圧を
 したと「悪宣伝する」が・・、
  江戸幕府は、当人ではなくても、家族や友人が「キリ
 シタンを止めた」と言えば許したという優しい取締りだ
 った。
  刑の執行をする場合も、刑場の矢来(やらい、竹を組
 んだ囲い)の一部を開けておいて、逃げられるようにし
 ていたくらいだった。
  逆に、キリスト教側が、「殉教することが救われる道
 だ」と殉教する事を勧めるという卑劣な行為をしていて、
 子供連れで、奉行所に名乗り出る親子が居たくらいだっ
 た。
.
2018年、日本人は、優秀であるから、江戸時代もよく勉強
 した。
  日本人は、皆、優秀であるから、庶民に至るまで、よ
 く勉強した。
  上層の階層が優秀というパターンは、他国には見られ
 るが・・、
  日本の様に、庶民に至るまで、教育熱心で優秀という
 国はない。
  日本のどこの地方にも、教育機関が、この江戸時代の
 時から、あちこちにあった。
  そして、外国から、書籍を、どんどん、よく輸入して、
 よく勉強した。
  外国語もよく勉強して、その外国の書籍の内容をよく
 理解した。
  江戸時代には、すでに、これから日本は、「どうすれ
 ばよいか」の方向付けは・・出来ていた。
  明治時代になって、すぐ、国の改善の方策が、次々と
 採用され、実行されて行った。
  見事と言うほかはない見事さ・素晴らしさだった。
  日本の国民も、武士から庶民に至るまで、良く理解し、
 よく従い、国づくりをした。
  富国強兵。
  そして、国の基幹物資である『鉄』を手にする方策が、
 その一つとして、重点項目として推し進められた。
  八幡製鉄所などの建設が、国策として推し進められた。
  日本は、この明治の時代より、この鉄を造る技術を磨
 き、世界のトップの道を歩んで来た。
  経験を重ね、歴史を重ねて、秘蔵の技術も色々持って
 いた。
  日本の貿易面で、日本を支えて来た。
  しかし、この長い年月を経て得た、この日本の最優秀
 な技術を欲しがった国があった。
  中国だった。
  日本は、大切な技術を渡たさざるを得なかった。
  日本は、大切な技術を渡してしまった。
  国防力のない日本は、脅されたと言う人がいる。
  何しろ、明治時代以来、日本の開国以来、培(つちか)
 って来た日本の製鉄技術の「大切な所の技術」を、中国
 へ渡してしまった。
  日本は、それでも10年間は大丈夫と思っていた。
  準備期間や、習熟期間などが必要で、まだ、10年間は
 平気と思っていた(新幹線技術も奪われたが・・)。
  しかし、最新の技術を得た中国は、それから、オース
 トラリアの鉄鉱石を、大量に買い付けた。
  オーストラリアは、大量に買ってもらえるので大喜び
 だった。
  中国は、会社規模でやるのではなく、国の規模でそれ
 をやるので、その規模は考えられないくらいの、とてつ
 もない規模で実施して行った。
  そのとてつもない大量に買い付けた鉄鉱石を、中国へ
 運ぶので、鉄鉱石運搬船のフル操業となった。
  それでも足りないので、船会社は、新しい船を造ろう
 と発注した。
  船会社は好景気に沸いた。
  発注した船が、すぐできる訳ではなかった。
  中国は、日本から得た新技術の製鉄所を、あちこちに
 建てた。
  中国のやることは、想像を超える、今までの規模を越
 えた。
  土地も広いし・・。
  そして、どんどんオーストラリアから買い付けた鉄鉱
 石で、鉄をどんどん造り続けた。
  鉄のシェアは、たちまち、中国がトップになった。
  日本が10年などと言っていた日本の地位は、たちまち
 中国に奪われた。
  鉄は、中国からどんどん世界へ供給された。
  中国は、どんどん世界へ鉄を売った。
  鉄は、値崩れもした。
  日本のお家芸の一つだった製鉄は、傾き始めた。
  日本の製鉄会社は、経営が悪化して、統合したりして、
 のたうち始めた。
  それでも、中国は、どんどん鉄を造り続けた。
  当然、鉄は、だぶつき始めた。
  それでも中国は、鉄を造り続けた。
  国の計画生産だった。
  在庫がたまる状況になった。
  それでも中国は、鉄を造り続けた。
  国のシステムが、その様にせざるを得ない共産主義の
 システムだった。
  過剰在庫の山の状態となった。
  完全に鉄は、中国にイニシアチブを取られた。
  かつての日本の立場は影も形もなかった。
  日本のお家芸の製鉄も、静かに沈み行く太陽の如くの
 産業となった。
  日本がイニシアチブをとっている時代は、需要と供給
 を見ながら、ヨーロッパの製鉄所や、韓国の製鉄所など
 とバランスの取れた「世界への鉄の供給」となっていた
 が、中国が、一気に参入して、大ナタを振(ふ)るう様
 な生産をして、バランスある供給なんて言う状況ではな
 く、「中国の鉄の在庫の山を、世界が見る」という状態
 となった。
  技術の改善を、常にしながら、生産と消費をつなげて
 来た日本の作り出した姿は、今は、過去のものとなった。
  ことは、国防力のない日本が、強引に中国に最新の製
 鉄技術を盗られた所から始まった。
  以前のような、鉄鉱石の運搬発注のない船会社も、閑
 古鳥(かんこどり)が鳴いている。
  あの時、造った船の処分に困っている。
  当然、会社の業績は低空飛行状態となった。
  墜落しかねない状態となった。
  中国という共産主義国は、この様な事をする国なのだ。
  人が有り余るほどいる国。
  金は、国の方針一つで、人民元を、輪転機を回して刷
 れば、いくらでも刷れる。
  ありがたく、それで、鉄鉱石を売ってくれる。
  日本を、ある事ない事を言って脅(おど)し、また、
 実際にはない話のデッチアゲの南京事件のことで虐(い
 じ)めれば、おいしい技術も渡してくれる。
  こんなことが展開している。
  今(2018年)は、「南京事件は言わないことにした」
 と言っている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)580E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年5月~1893年5月)

2018-03-01 16:30:42 | 日記
題:(増補版)580E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年5月~1893年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年5月18日、小学校の授業料の無料化の勅令
  市町村の財政の許す限りに於いて、小学校の授業料を
 徴収しない旨の勅令が出された。
  学制発布から明治20年代まで、義務教育費は住民負担
 や、受益者負担に頼っていた・・が・・、
  1888年の市制・町村制、
  1890年の地方学事通則、改正小学校令により、義務教
 育費は市町村の負担とされた。
  しかし、その後も、授業料は徴収されていた。
  『義務教育への完全就学』を実現するためには、授業
 料を廃止して、無償制を実施する必要があり、日本は、
 それを目指した。
  そのため、時の政府(井上毅文相)は・・、
  1893年6月、初等教育への国庫補助と、授業料の低減・
 廃止という方針を定めた。
  そして、同年・1893年、勅令によって、尋常小学校に
 おいて『授業料ヲ徴収セザルコトヲ得』と定めた。
  これによって、授業料徴収の義務づけを廃止した。
  そして、徴収するかどうかを、市町村の裁量に委ねる
 こととした。
  授業料の低減や廃止を促進するためには、授業料に代
 わる財源を国が保障する必要があった。
  そのため、また、政府は、1893年、小学校教員の年功
 加俸(勤務年数に応じて本俸に加えて支給する給与)に
 要する経費を国庫補助する制度として「市町村立小学校
 教員年功加俸国庫補助法」案を帝国議会に提出した。
  1896年の市町村立小学校教員年功加俸国庫補助法、
  1900年の市町村立小学校費国庫補助法の制定で、国に
 よる財源保障制度ができた。
  このことによって・・、
  1900年から義務教育の無償制を実施することができた。
  そして、就学率は急上昇した。
1893年5月19日、防穀令問題で、朝鮮政府が11万円の賠償
 金を支払うことで妥結した。
1893年5月19日、戦時大本営条例が公布された。
  大本営は、陸軍および海軍を支配下に置く戦時中のみ
 の天皇陛下直属の最高統帥機関として、勅令第52号戦時
 大本営条例によって法制化された。
  この勅令は、1893年5月22日に公布された。
  明治期の日本の海軍の建設にあたっては、初め、軍令
 の専掌機関はなく、海軍省が軍令と軍政を一元的に管掌
 していた。
  1884年、海軍省内に外局として軍事部が設置され、初
 めて軍令をつかさどった。
  1886年、軍事部が参謀本部の海軍部となる。
  1888年、参軍のもとの海軍参謀本部となる。
  1889年、海軍大臣のもとに戻って海軍参謀部となった。
  1893年、海軍省から独立して、天皇陛下に直隷する海
 軍軍令部となった。
  作戦、編制、情報、通信、戦史などをつかさどった。
  1933年、軍令部に改称するにあたって、海軍省との間
 に業務互渉規程を設け、権限を大きくした。
  海軍軍令部の長は海軍軍令部長と称し、参謀総長と並
 んで、天皇陛下の統帥権の最高の輔弼(ほひつ)する機関
 とした。
1893年5月20日、海軍軍令部が設置された。
  このことにより、海軍参謀本部は廃止された。
  この日に公布された海軍軍令部条例で設置され、軍政
 と軍令を分離した。
  (参考)軍事権は、軍令権と軍政権から成り、軍令権
     は作戦・用兵に関する統帥権を言い・・、
      明治憲法の下では、日本はドイツをモデルと
     した。
      また、軍令権は、内閣の権能外に独立して、
     天皇陛下が直接掌握するものとした。
      また、軍政は、軍事行政のことで・・、
      軍事諸機関、各部隊の建設維持、管理、教育
     などを実行し、作戦、兵力の運用の計画実行は
     軍令に属して軍政と区別された。
1893年5月23日、大阪鉄道が、高田駅~桜井駅間を開通させ
 た。
  この時、王寺駅~高田駅間を延伸する形で、高田駅~
 桜井駅間(9.66km)が開業した。
  この桜井線は、現在、奈良県奈良市の奈良駅から、奈
 良県大和高田市の高田駅までを結ぶ西日本旅客鉄道(JR
 西日本)の鉄道路線(地方交通線)であり・・、
  2010年3月13日から、「万葉まほろば線」(まんよう
 まほろばせん)の愛称が使用されている。
  路線距離は29.4キロメートル。
  歴史が古い路線であるが、その後に出来た路線へ利用
 客が流れている状況となっている。
  沿線には、万葉集に詠まれた名所や史跡が多く、車窓
 からは三輪山や、大和三山を望むことができ、奈良駅か
 ら桜井駅までは山辺の道(山の辺の道)に沿っている。
  愛称を制定したりして、利用者増に努めている。
1893年5月25日、大阪の赤坂村事件
  https://www.youtube.com/watch?v=tnsIa680Vtg
1893年5月26日、鉄道土工定規並縦截面曲線定規を制定した。
  (第一部長達第566号、鉄道土工定規に関する規程の最
 初)
  土工定規とは、土工事を施工する場合、遣形(やりか
 た)の標準となる道路や鉄道の標準断面の形状。
  幅員・路盤・犬走りなどの寸法、形状や切盛りののり
 面勾配を規定したもの。
  (参考)遣方:(やりかた) 基礎工事に先立ち、建物
     の位置や基礎の高さを示すための仮設装置。
1893年5月27日、東京弁護士会の創立総会。
  東京弁護士会は、120年以上の歴史を有し、会員数約
 8,000人を超える会員数を誇る、日本最大級の弁護士会。
  東京代言人組合(東京弁護士会の前身)は、1880年(
 明治13年)6月29日に結成・・とある。
  因みに、第一東京弁護士会の理念:第一東京弁護士会
 は、1923年(大正12年)5月8日に創立され、弁護士の使
 命である基本的人権の擁護と社会正義の実現、司法制度
 の発展と弁護士の地位向上を図るために活動しています。
 当弁護士会創立当時は、弁護士は地方裁判所検事局の検
 事正の監督下にあったため、弁護士の使命である基本的
 人権の擁護と社会正義の実現は、著しく制限されていま
 した。
  1949年(昭和24年)になって、新たな弁護士法の下に
 当弁護士会が主導的に活動し、日本弁護士連合会が創立
 され、弁護士が完全に自治権を確立し現在に至っており
 ます。
  当弁護士会の会員である弁護士は、在野法曹として徳
 性を磨き、謙譲と協和の精神をもって事に当たり、国民
 の模範となるべく研鑽を続けています(HPより)
1893年5月、伊東祐亭が常備艦隊司令長官になる。
  伊東 祐亨(いとうすけゆき、天保14年5月12日(1843
 年6月9日)~大正3年(1914年)1月16日)は、日本の武
 士(薩摩藩士)、海軍軍人、華族。
  元帥海軍大将・従一位・大勲位・功一級・伯爵。
  初代連合艦隊司令長官を務めた。
  通称は四郎左衛門、四郎。
  号は碧海。
  家紋は庵木瓜。
  海軍兵学校長の海軍中将子爵・伊東祐麿は兄、弟に海
 軍大尉・伊東祐道、海軍大佐・窪田祐章。
  薩摩藩士・伊東祐典の四男として鹿児島城下清水馬場
 町に生まれる。
  飫肥藩主伊東氏に連なる名門の出身(伊東祐安の養子
 で弟の右衛門の子孫という)。
  開成所にてイギリスの学問を学んだ。
  当時、イギリスは、世界でも有数の海軍力を擁してい
 たため、この時、祐亨は海軍に興味を持った。
1893年5月、前年のラベンナ号事件で、政府は、ラベンナ号
 の船会社ピーオー汽船に、85万円の損害賠償を請求する
 訴訟を、横浜イギリス領事裁判所に起こした。
  ピーオー汽船も、日本に対して10万円の賠償請求を行
 い、却下されると、さらに、上海イギリス高裁に控訴し
 た。
1893年5月、陸軍板橋火薬製造所で、無煙火薬の製造が始ま
 った。
  2017年6月17日の東京新聞に・・、
  16日に、国の文化審議会が史跡に指定するよう答申
 した陸軍板橋火薬製造所跡(板橋区加賀1)には、現存
 する国内最古の火薬研究所と射撃場の跡があり、近代の
 産業遺産として価値が認められた。
  区は、製造所跡を、史跡公園として整備。
  東京五輪・パラリンピックがある2020年に一部オープ
 ンし、2023年に全面開業する。 
  特に、貴重とされる射撃場は、1877年にできた。
  小銃などの弾の速さを計測する弾道管が火薬の燃焼実
 験室から延び、50メートルあったうち30メートルが今も
 残る。
  現在は、区立加賀公園として使われている場所の築山
 には、射撃場から弾を撃ち込んだレンガ積みの標的があ
 る。
  また、敷地の一部は、戦後の一時期、理化学研究所(
 理研)板橋分所として使われた。
  共にノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹や朝永振一
 郎が研究室を構えた、一部レンガ造りの物理試験室が建
 つ。
  史跡公園は、面積約1万3000平方メートル。
  区は、本年度中に、跡地を所有者から購入。
  2020年、旧理研分所に湯川や朝永の研究室を再現し、
 区の産業史を学べる博物館を開館する。
  2023年には、射撃場を復元するなどする。
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  (今日の言葉)
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  題:まったく怪しい中国・・「アメリカFBIが、孔子学院を捜査」
  「スパイ容疑か・・スパイの巣窟か」「《親中派》育成機関か」
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紀元前200万年、氷河期に入った(~紀元前8000年)
  地球には、定期的に氷期(=氷河期)がやって来た。
  200万年前~1万年前(紀元前8000年)までを「氷河時
 代」と言う。
  そして、その後の紀元前8000年~現代を「後氷期」と
 言う。
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紀元前20万年、現在の人間と同じ形質を持ったホモ・サピ
 エンス(新人)が出現した。
  このホモ・サピエンスは、二度の氷期を乗り越えた。
  「リス氷期」「リス・ビュルム間氷期」「ビュルム氷
 期」を経て現在に至った。
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紀元前14000年~紀元前1000年、縄文時代には、カキ漁が
 行なわれていて、貝塚からは、全長40~50センチメート
 ルの巨大なカキ殻が多く出土する。
  縄文時代人は、この様なカキを、日常的に食べていた。
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紀元前6000年頃、サハラやアラビア半島では、緑が広がり、
 恵み多き環境の地に人々は生活していた。
  この人々は、多神教を信じ、恵み多き地の神々に感謝
 していた。
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紀元前3000年、この頃まで、サハラやアラビア半島は、緑
 豊かな草原の地だった。
  気候は、恵みの雨が多い、現代より高い気温だった。
  人々は、森や草原から、豊かな自然の恵みが得られて
 いた。
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紀元前3000年頃、この頃から気候が変動し、緑の地が急速
 に後退した。
  人々は、大きな河から水を得ることが出来る地へと移
 動して、集まった。
  気候の乾燥化によって、自然の恵みを得られる機会が
 減った。
  人々は農耕を行なった。
  その地の側には、砂漠が広がっていた。
  大河の河の水の恵みによって安定した社会が築かれ、
 エジプトやメソポタミアには、偉大な優れた文明が発生
 した。
  「貧ずれば鈍す」。
  砂漠の地では、生きるのに精一杯だった。
  人類の4大文明(エジプト、メソポタミア、インダス、
 黄河)は、すべて大河の地に生まれている。
  また、最近の考古学の成果から、この他にも、イラン
 の古代に、湿潤な恵みの雨の多い地に「トランス・エラ
 ム文明」があると注目され・・、
  また、中国のもう一つの大河である長江(ちょうこう、
 揚子江)の長江文明(ちょうこうぶんめい)も注目され
 ている。
  水のない砂漠の地の生活は悲惨だった・・、
  人間は、当然、置かれた環境によって変わる。
  砂漠の地は、わずかな雨の水を集積し、生(は)え、
 そして、育った草を食(は)む羊(ひつじ)。
  その羊が、さらに、体内へ取り込んだ草のエネルギー
 を、さらにさらに蓄積し、その集積された羊によって生
 かされている民。
  その天候に、大きく左右される砂漠の民は、当然、そ
 の根本にある僅かな天よりの恵みの雨に感謝し、その恵
 みの雨をもたらした天に感謝した。
  その命の頼りの天からの雨が途絶えた時、民は天へ祈
 った。
  生存への大切な雨の恵みをもたらして下さい・・と、
  見えない力へと祈った。
  その天にある見えない力=神へ、確かなる生存を成就
 させて下さいと祈った。
  天への一神へと祈った。
  一方、雨に恵まれる、まったく、前記の砂漠の地と真
 反対の地は、そちこちへの恵みの雨に、そちこちに萌え
 出ずる草木に感謝する。
  差別なく公平に、恵みの雨を受け戴いて、そちこちに
 恵みの草木(そうもく)が萌え出ずることに感謝する。
  そのそちこちの恵みをもたらして戴いた神・仏に感謝
 する。
  分け隔てなく、公平に与えられた恵みに、平等の素晴
 らしさに感謝する。
  平等の仏教が生まれる。
  雨に恵まれ、幸(さち)に恵まれた地の宗教が生まれ
 る。
  それに比して、恵みの少ない地は、生存への信仰とな
 る。
  飢える時は、隣国の富を奪って良いと説く、(キリス
 ト教の)神の義があるからと、免罪符を与えて洗脳する。
  当然、戦いの地となる。
  生存を賭(か)けた戦いの地となる。
  悲惨な殺し合いが続く地となる。
  民は、この様な状態に辟易する。
  当然、戦いなどしたくない。
  いい加減にせよ・・敵を愛せよという気持ちとなる。
  すべてが、環境が、「なせる業(わざ)」である。
  恵みの少ない環境の中で、当然に至る思考の中に、キ
 リスト教はあった。
  こうなるべき運命の宗教であった。
  悲しい地でのストーリーの中で生まれた宗教。
  何の特別さもない。
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14世紀、惣(そう)
  日本の中世・鎌倉時代末期から室町時代の農民たちは、
 自分たちの自治組織である『惣(そう)』を作り・・、
  村の神社や寺などに集まって寄合(よりあい)を開き、
 林野の共同利用や、用水路の管理や、祭りなどの行事や、
 村の掟(おきて)などを相談して決めた。
  この惣が発達すると、領主のむやみな介入を締め出し、
 年貢の納入を請け負う地下請(じげうけ)を行なったり
 した。
  また、いくつもの惣が、目的を同じにして結束して、
 幕府へ、徳政を求めたり、武士の地元からの追放や、関
 所を取り払うことを求めて、武器を持って立ち上がる土
 一揆(どいっき)を起こすこともあった。
  惣は、鎌倉時代末期から室町時代の農村の自治組織の
 ことで、村落共同体の運営機関としての惣が代表的なも
 のである。
  名主の中から選ばれた乙名(おとな)・年寄・沙汰人(さ
 たにん)などを中心に、寄合によって掟(おきて)を定め、
 入会地(いりあいち)・灌漑(かんがい)用水などの共同管
 理や年貢納入の請け負いを行ったりした。
  その寄合の構成員の総意によって事を決していて・・、
 日本は、すでに、この時代にも、民主主義的に事を決し
 ていた。
  鎌倉時代末期から、日本の各地に発達していて、農民
 層の自立化が進行して行った。
  そして、従来の名主層の構成員に、農民層も加わって
 行った。
  惣の発達には地域差があり、後進的な地域では地侍(
 じざむらい)層が中核をなす惣も見られた。
  また、名主層の力が残存している地域もあった。
  先進的な惣としては、近江の平野地帯の惣は、名主・
 平百姓(ひらびゃくしょう)を含めた多数の構成員を要
 して、平百姓の惣内部での力も大きかった。
  重要事項の決定に際しては、一同で一味神水(いちみ
 しんすい)を神前に供え、その水を一同で飲み、団結を
 強めた。
  農繁期には、労働力の助け合い・共同利用なども行わ
 れ、農民の日常には不可欠な組織となっていた。
  京都や奈良を中心に、各地で起きた徳政(とくせい)
 一揆も、惣を基盤にして、各地の農民が連絡を取って蜂
 起した。
  また、戦乱に際しては、村を守るために堀をつくり、
 砦(とりで)を築くことなども行った。
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16世紀頃、中世、日本の農業は、様々な技術で、改善・改
 良がなされた。
  生産力が高まった。
  米と麦の二毛作も始まった。
  牛や馬を用いて田や畑を耕すことも行われた。
  灌漑(かんがい)に水車を用いることも行われ、草を
 刈って肥料にしたり、牛馬の糞も肥料として用いられた。
  (15世紀の初めに、日本に来た朝鮮の使いは、日本の
 水車の便利さに驚いているという記録がある)
  商品作物の栽培も盛んになり、桑(くわ)・こうぞ・
 漆(うるし)・荏胡麻(えごま)・藍(あい)などが作
 られた。
  それらの作物によって手工業が興き、麻の栽培に加え
 て、16世紀に、綿の栽培も伝えられ始まった。
  (日本の綿は、平安・鎌倉時代にもあった・・年貢と
 しての記録がある・・しかし、栽培は広く普及していな
 かった)
  手工業では、京都の西陣織、博多の絹織物、美濃の和
 紙、灘の酒、能登の輪島塗などがある。
  また、農具の鋤(すき)・鍬(くわ)や、刀を作る鍛
 冶職人、また、鍋や鎌などの日用品を作る鋳物職人が現
 れた。
  農業や手工業の発達で商業も活発となった。
  そして、交通の要地や寺社の門前では。定期的に市が
 開かれ・・始まった。
  取引には、中国から輸入された銅銭が使われ、産業が
 活発化すると、物資輸送が盛んとなり、それを管理する
 問丸(といまる)、馬に荷物を載せて運ぶ馬借(ばしゃ
 く)、高利貸しの土倉(どそう)や酒屋が活躍した。
  また、座が出来た。
  座は、同業者組合で、管理者から営業権を得る代わり
 に、生産や販売を独占する権利を得た。
  そして、さらに、江戸時代の日本の田園は素晴らしか
 った。
  荒廃したイギリスの農場を建て直そうと、イギリスが
 参考にしたのが、この日本の田園だった。
  イギリスの田園は荒れた、この時、イギリスが良い田
 園として、理想の田園として参考・見本としたのが江戸
 時代の日本の田園だった。
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1853年7月8日、黒船来航
  この日の午後5時、浦賀沖にアメリカ船のペリーが来航
 した。
  これが、非常に有名で、これで、日本が目を覚ました
 ように言われているが・・、
  その前から、日本へは、色々な外国船の来航があった。
  それまでの経緯・・、
  1842年6月、イギリス軍艦の来日計画があると伝わった。
  1844年3月、フランス船が琉球に来た。
  1844年7月、オランダ国王の開国の勧告書簡が来た。
  1845年5月、イギリス船が琉球に来る。
  1845年6月、オランダ国王の開国の勧告を拒否した。
  1845年7月、イギリスの測量船が長崎に来る。
  1846年閏5月、アメリカの東インドシナ艦隊の司令官・
   ビッドルが浦賀に来航した。
  1846年6月、フランスのインドシナ艦隊が長崎に来た。
  1848年5月、アメリカ捕鯨船が西蝦夷地に漂着した。
  1848年7月、フランス船が琉球に来た。
  1849年閏4月、イギリス軍艦マリナー号が、浦賀に来た。
  1851年1月、中浜万次郎が、アメリカ船に乗って琉球に
   上陸した。
  1851年12月、イギリス軍艦が、琉球に来た。
  そして・・
  1840年6月28日~1842年8月29日には、卑劣なアヘン戦
 争が、清とイギリスの間で行われていて・・
  イギリスの卑劣な腕力を使った中国・清いじめで滅多
 打ちにして・・、
  その後、麻薬のアヘンを中国へ持って行くという『ア
 ヘン貿易』する・・、
  麻薬アヘンを使った・・イギリスという国としての卑
 劣な行動を、あくどい利益獲得だけの卑劣な行動を・・
 日本は、初めから・・じーっと見ていた。
  その卑劣さ、悍(おぞ)ましさを知っていた。
  1853年にアメリカが来たりしたが・・江戸幕府は・・
 『アヘンを持って来るな』と、ヨーロッパ列強とアメリ
 カに、幕府は、しっかり言っていた。
  アメリカとヨーロッパの列強各国は了解したようだっ
 た。
  それは、後ろに居るしっかりした武士軍団が見えてい
 たからだった。
  この様な事まで言わないと、やりかねない倫理観のな
 い目先の利益を追求するばかりの欧米列強諸国だった。
  当然、種々の形で、欧米列強は日本を狙っていた。
  卑劣な事をいろいろ考えていたのだろうが・・意味の
 分かる件は以下である・・(当然、卑劣な事は、歴史上、
 隠されている)
  アメリカは、日本近海で捕鯨をしていた・・そのため、
 その燃料と水が欲しくて・・と言われているが・・それ
 だけではなく、アメリカは、インディアンを駆逐して、
 西部海岸のカルフォルニアに至った時から日本を狙って
 いた。
  その頃、アメリカは中国貿易の通商ルートが確立した・・、
  そのため、その寄港地として日本は最適だった。
  当時の蒸気船には、大量の燃料が必要だった・・その
 補給基地として日本が必須の地だった。
  また、アメリカは、蝦夷を捕鯨基地として利用したい
 と考えていた。
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1912年2月12日、清の滅亡
  1912年1月1日、中国の南京で中華民国が樹立され・・、
  清朝最後の皇帝、宣統帝(溥儀)は、1912年2月12日、
 正式に退位し、ここに清は、276年の歴史に幕を閉じ、完
 全に滅亡した。
  この時、満州とチベット以外には、辛亥革命の武装蜂
 起の独立運動が起きていた。
  満州の地は、この清朝滅亡後に、中華民国が清朝領土
 の継承を主張したが・・、
  外満洲は、アイグン条約、及び、北京条約で、ロシア
 帝国に割譲されていて・・また・・、
  内満洲の旅順・大連は、日露戦争までは、旅順(港)
 大連(湾)租借に関する条約でロシアの租借地であった。
  そして、日露戦争後は、ポーツマス条約により、戦勝
 した日本の租借地となった。
  そして、この満州は、「黄塵万丈」で「塵埃にまみれ
 て人が居る」という地で、人もほとんどいない地に、勤
 勉なる日本人が入植し、荒地を開墾した。
  イギリスやアメリカは、人が居る「美味しい所」に入
 って、中国の地の利益を得た。
  そして、鉄道などの権益を奪っていた。
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1917年2月23日、ロシア革命
  (2月革命、1917年2月23日~1917年2月27日)
  (10月革命、1917年11月7日~1918年)
  ロシア革命が起きた時に、日本は、イギリス・フラン
 スから、再三、出兵を懇請された。
  日本は、出兵するにしても、コサックの協力が無けれ
 ばできないと考えていた。
  また、アメリカやイギリスなどの連合国は、日本のシ
 ベリア出兵(1918年8月~1922年10月)を強く要請した。
  アメリカやヨーロッパの列強は、都合のよい時には日
 本を利用し、また、都合が悪くなれば干渉した・・常に、
 この様な態度だった。
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1919年6月28日、ベルサイユ条約
  フランスのベルサイユで、第一次世界大戦における連
 合国とドイツの間で講和条約が締結された。
  ヒトラーの誕生は、何も、ヒトラーを擁護し、弁護す
 るわけではないが・・、
  このヒトラーが生まれた責任は、ドイツだけの責任で
 はない。
  第一次世界大戦の戦勝国にも「大いなる責任がある」。
  この責任から逃れてはならない。
  大いにその責任を感じ、歴史の教訓として胸に刻み付
 けなければならない。
  戦勝したから「すべて、こちらが正しいのだ」と卑劣
 な事々を、戦勝諸国は、一方的に苛酷な諸事項を、ドイ
 ツに押し付けた。
  結局、これが、解決されない新たな「お粗末な問題」
 を生んだ。
  そして、解決しなかった問題を、第二次世界大戦をし
 なければならないという「愚かな経過」をたどることと
 なった。
  ドイツは、返済不可能な賠償金の支払いを課された。
  出来ないことを成せと言われた。
  まったく愚かな復讐的な戦勝国の要求だった。
  ドイツ国民は疲弊した。
  また、精神的に大いなる屈辱を与えられた。
  ドイツ国民の方々は、絶望の縁に落とされた。
  1933年、ヒトラーが政権をとった。
  第一次世界大戦の戦勝諸国が、このヒトラーを生んだ
 といっても良い状況だった。
  第一次世界大戦後のベルサイユ条約の場は、ドイツを
 吊るし上げる「復讐のリンチ」が行われた話し合いと言
 ってもよい状態だった。
  苛酷な賠償金は、卑劣極まりない決定だった。
  何ら戦勝諸国側に反省点の見られない愚行が行われて
 いた。
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1922年12月30日、ソビエト連邦の樹立
  ソビエト連邦は、1917年のロシア帝国を倒したロシア
 革命を起源としている。
  ロシア社会民主労働党の多数派で、ウラジーミル・レ
 ーニンが率いるボリシェヴィキは、臨時政府を転覆させ
 て、ロシア社会主義連邦ソビエト共和国 (1936年、ロシ
 ア・ソビエト連邦社会主義共和国に改称) を設立した。
  この十月革命(1917年11月7日)を皮切りに、革命派の
 赤軍と反革命派の白軍との間に、ロシア内戦が開始され
 た。
  赤軍は、複数の旧ロシア帝国領に侵攻し、名目上労働
 者、および、小作農の代表として振る舞ったソビエトを
 通じ、現地の共産主義者の権力掌握を支援した。
  1922年、共産主義者が勝利し、ロシア、ザカフカース、
 ウクライナ、白ロシア各共和国を統合し、ソビエト連邦
 を形成した。
  1922年12月には、第1回ソビエト連邦全連邦ソビエト大
 会が開催され、
  1922年12月30日に、ロシア連邦共和国、ウクライナ社
 会主義ソビエト共和国、白ロシア社会主義ソビエト共和
 国、ザカフカース連邦の4国が平等な立場で加盟するとし
 たソビエト社会主義共和国連邦の樹立が宣言された。
  このロシア革命後のソ連誕生の直前・・、
  くすぶるシベリアの地に、商人と称するアメリカ人が、
 鉄道沿線一帯に出没した。
  特に、東部において目立ち、カムチャッカ・サハリン・
 沿線州占領の準備だという観測がもっぱらだった。
  イギリス・フランスは、申し合わせた様に、オムスク
 を中心に、バイカル湖以西に活躍し、反革命派に多額の
 資金を投じた。
  反革命派や中立派は、次第に、イギリス・アメリカ・
 フランスに頼ろうとする傾向が強まって行った。
.
1940年6月14日、ドイツによって、パリが陥落した。
  モーロワが、カナダへ亡命した。
  「フランス敗れたり」を書いたアンドレ・モーロワは
 言う・・、
  「国民は、祖国の自由の為には、いつでも死ねるだけ
 の心構えが無ければ、やがて、その自由を失う」と。
  その『精神の強さ』や「道徳心」を持てと。
  そして、第二に、「国民の団結」を言う。
  そして、「外国の影響から世論を守ること」を言う。
  「自らの思想を擁護するのは、それ自体間違っていな
 い」と、
  しかし、「その思想の故に外国から金を貰うのは犯罪
 である」という。
  1940年、このモーロワは、ヒトラーのフランスの占領
 を受け入れず、カナダべ亡命した。
  モーロワは、フランスからの移民の人々の多いケベッ
 クの町で、依然として、7月14日のフランスの建国記念日
 に、たくさんのフランス国旗が翻っていたのを見た。
  フランスの三色旗が、誇らしげに翻っていたのである。
  モーロワは深い感銘を受けた。
  そして、叫ぶ・・「フランスよ、祖国に忠誠であれ」
 と・・、
  フランス国家が最大の危機の時、「祖国への忠誠」が
 最も大切と訴えた。
  フランスの国を失った最も大きな理由が「これなのだ」
 と訴えた。
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1945年4月7日、鈴木貫太郎内閣が成立した。
  日本は鈴木貫太郎内閣になった。
  鈴木貫太郎は穏健派で、第二次世界大戦の日本降伏の
 方針を持ち、明らかに降伏の協議に入りたいとしていた。
  アメリカも、その状況を知っていた。
  そして、日本とモスクワ日本大使館との連絡が始まる。
  「日本と中立条約のあるソ連」への降伏の仲立ちの件
 である。
  アメリカは、この日本とソ連との交信電文を(暗号解
 読して)読み、すべてを知っていた。
  アメリカは、手に取るように、日本の降伏への動きを
 改めて確認していた。
  確実に、近いうちに、終戦となる状況になる事を、ア
 メリカは、この事からも知っていた。
  しかし、アメリカは、原爆を投下した。
  反撃力の完全に落ちている日本へ、アメリカは、原爆
 を投下した。
  アメリカは、戦争を早く終わらせるためという屁理屈
 を言った。
  もう終わる状況にあったのにである。
  それも、広島と長崎に、二発も投下した。
  そして、アメリカ国務省内では、「日本の工業力打破」
 が叫ばれていた。
  また、「ドイツは、農業と牧畜以外に生活の糧は認め
 ない」という暴論が叫ばれていた。
  しかし、ドイツと日本の居なくなった後に、極東に、
 ロシアの力に対する思慮に欠けていたと、アメリカは、
 後に後悔し、反省した。
.
1947年3月、買い出し(2)
  連日の空襲に打ちのめされた街の人々は、食べる物を
 求めて農村へ買い出しに行った。
  買い出しに来られた農家の方にしたって、貴重なお米
 だった。
  そのお米を、分けて差し上げたが、そこで終わらない
 親切さ、優しさがあった。
  この分けて差し上げた方に、確実に持って帰って戴き
 たいと・・、
  そこで、駅で「お巡りさんの取締り」をしていないか
 を、わざわざ家人の方に、駅まで見に行かせて戴いた。
  その返事が来る間、町から買い出しに来た小さな子供
 を連れた若い女性は、農家のその奥様の接待を受けた。
  農家の御手製の漬物とお茶で、若い町の女性は、町で
 の連日の空襲に会ったこと、その中で夫を失ったことな
 どを話したりした。
  農家の奥様の同情を、また更に戴いたりした。
  駅での取り締まりはしてないと教えてくれたその家人
 の方の親切があった・・
  その時、持って行った着物だって、持って行く側にす
 れば、思い出もあるだろうし・・その着物を、手放した
 くもないのだろうが、農家の方にしてみれば、その着物
 の柄や、その色合い、年齢に相応かなど、決して満足す
 る着物ではなかっただろう・・が・・、
  また、苦労して米作りをした家人の方にしたって、不
 要不急の着物であった・・、それより今は、食べる物・
 お米の方が大切で・・、
  それを見ず知らずの、今日、突然、お米と代えて下さ
 いと訪れて来た人に急に言われて、そのすべてを悟(さ
 と)って、「いいですよ」と応じて戴けた農家の方の「
 やさしさ、思いやり、親切」・・まったく頭が下がる「
 ありがたいことだった」・・その様な事のある日本だっ
 た。
  家人の方も、農家の奥様のやることに、何も言わずに
 同意されていた・・そのような日本だった。
  その様な優しい心遣いのある日本が、李朝末期のどん
 底の貧しい朝鮮・韓国を助けた。
  共に豊かになろうと・・道路を造り・・鉄道を引いて、
 電車を走らせ・・国づくりには教育が大切だと、学校を
 造り・・、
  それも、日本より立派な学校を造り・・衛生環境の劣
 悪なのも朝鮮・韓国の国づくりの状態を悪化させている
 と、衛生環境の改善も一生懸命に行って、朝鮮・韓国の
 人口が3倍にもなるという実績を残し、朝鮮・韓国の方々
 は、皆、喜んでいた。
  街並みも見違えるほどに良くなり、山には木を植え、
 この後の朝鮮戦争の時、この山へ日本人が一生懸命に植
 林したことを知っているアメリカ兵が、「その山に、戦
 争で爆弾を投下するのが、申し訳ないと、忍びないと、
 嫌だった』と・・言っている。
  町の建物を造り、ダムも作り・・誠実な日本・・
  だがしかし、この恩を仇で返す韓国。
  しつこく日本を貶(おとし)める行為をする韓国。
  遠い昔から、この様な事をする韓国・朝鮮で・・
 韓国・朝鮮は、日本へこの様な事をして来た。
  感謝の言葉もない。
  御礼の言葉もない。
  昔からやって来た非礼の韓国・朝鮮なのだが・・
  おかしいのではありませんか?
  『人の道』を外しているのではありませんか?
.
1964年、アメリカで公民権法が制定された。
  アメリカは、「自由だ」「平等だ」と他国には言うが、
 自国の足元を見なさいと言いたい。
  アメリカには「登録係官」という者が居て、この係官
 が、自分のお好みで「様々な異なった選挙投票の基準」
 を作り、黒人の方々の投票行動を排除することを「影の
 目的」として存在した。
  勿論、彼らなりの、WASP(ワスプ、W:白人、AS:
 アングロサクソン、P:キリスト教プロテスタント)な
 りの理由は付けられていた。
  また、「慣行だ」とか、「手続き上で必要」だとかと
 理由を付けて、黒人の方々の投票行動を排除し、差別し
 た。
  選挙投票の際に「読み書き能力テスト」を行なうとい
 う差別は有名・・悪名高き行為となっている。
  アメリカは、投票権行使における卑劣な人種差別国で
 ある。
  1964年、黒人の方々は、公民権法の制定を勝ち取った。
  そして、その翌年・1965年、投票権法を制定させて、
 一層の強化をした。
  そこには、「何人も、人種、肌の色、宗教、あるいは、
 出身国を理由に、次のような施設で差別、若しくは、隔
 離されてはならない」という一文がある。
  この様な法律を作らなくてはならないアメリカは、劣
 悪な遅れた国となっている。
  黒人の方々は、ホテル、レストラン、映画館、旅館、
 劇場、コンサートホール、スポーツ競技場、展示場、娯
 楽施設、教育施設などなど・・で差別されている。
  また、近年、「逆差別」という言葉を用いた差別が行
 われている。
  この事の発端は、そもそも、アフリカで、幸せな生活
 をしていた黒人の方々を、人権を無視して、白人アメリ
 カ人が、その黒人の方々を強引にアメリカに連れて来た
 事に始まる。
  まったく黒人の方々の意見や希望を無視して、アメリ
 カへ連れて来られた非人道的行為に始まっている。
  つまり、白人アメリカ人による「完全なる権利回復を
 行なう責任がある」。
  その為に、すべてを排して、目的達成に向けて努力せ
 よ、行動せよ・・、
.
2010年、ギリシャは、1,100億ユーロ(約16兆円)の支援を
 受けた。
  不誠実な行動をして、嘘をついたギリシャの末路。
  グローバルに連合しようという名目で出来たEU・・、
  そんな美しい話は、今(2018年)はないEU・・、
  そのEUの一員のギリシャは、大嘘をついた結果とし
 て、今は、『途上国のような国』に成り下がっている。
  その被害者は、ギリシャ国民の方々で・・、
  ギリシャ国民の方々は、高騰した医療費で、医者にも
 かかれる状態にない。
  最悪の異常状態となったギリシャ・・今、その救済に、
 戦場に駆け付ける「国境なき医師団」の方々が、乗り出
 すという状況となっている。
  最後の手段がとられねばならないギリシャの状況に陥
 (おちい)っている。
  まったく憐(あわ)れな状態の国となっている。
  それで、今は、ギリシャは、国全体が「うつ病」の様
 になり、また、栄養失調にかかった様になっている。
  これが、グローバリズムを標榜したというEUの加盟
 国かという状態となっている。
  「楽ばかりを追求」し、「プレゼント状態の金」を貰
 うギリシャの末路だった。
  2010年、ギリシャは、IMFとECBとEUから、
 1,100億ユーロ(約16兆円)の支援金を貰う羽目に陥った。
  その時の条件は、厳しい財政緊縮の条件「今までの様
 な、甘い、じゃぶじゃぶ金を使うようなことをするな)
 と言われ・・、
  また、金融引き締め(出費をしっかり押さえよ)と言
 われ・・、
  構造改革せよ(今までのような甘いやり方を変えよ)
 と言われた。
  ギリシャは、福利厚生費を切り捨てた(ここは、どこ
 の国でもやる事だが、ギリシャは切って捨てた。日本の
 ような教育補助や助成はもちろん無し・・そんな話は夢
 の夢)となった。
  ギリシャの産業は停滞した。
  失業者が、あっという間に、街にあふれた。
  今までのギリシャへ流れた金で儲けて、莫大な富を築
 いていたのは、一握りの「金融界の人間」と「実業界の
 人間」だけだった。
  ギリシャの一般国民の方々は・・被害者だった。
  国民の方々の生活は・・破壊させられた。
  ホームレスが増えた。
  自殺者が増えた。
  職のない人間が増えた。
  医療費が、ほぼ倍額となった。
  医療費補助は・・40パーセント削減となった。
  医療を受ける事の出来る国民は・・居なくなった。
  しかし、この国民の側に立って行動する政治家も・・
 居なかった。
  製薬会社は、多額の賄賂を病院や医者に渡した・・
 そして、儲けた・・医療制度が破綻し崩壊しているのに、
 利益を上げた。
  当然、「ギリシャ国債」なんて怖くて買われる状況で
 はなくなった。
  2011年9月、ギリシャ政府は、長期国債の金利を20%
 を越すような条件を付けて・・、やっと、売ることが出
 来た。
  金が無いので金を貸してくれ・・ギリシャ国債を買っ
 てくれ・・と言ったって、高い金利の支払いまで約束し
 て・・やっと買ってもらえた・・
  信用のない国にと・・落ちぶれた。
  正直にやって来なかった「酬い(むくい)だった」。
  明日は野となれ山となれ式の計画放棄の無責任体質が、
 この様な状態を招いたのだった・・
  誠実な努力もしないでいたからだった・・
  国民は、苦しいと抵抗し、デモもしたが・・
  「IMFは、きっぱりと拒否した」・・当然だった。
  その国民の行動は、初めだけで・・消えた。
  正直が一番なのだ・・
  誠実が大切なのだ・・
  相手を騙(だま)したり・・嘘をついたりするするこ
 とは、駄目なのだ。
  キリスト教聖書には、「誠実に居よ」「正直にせよ」
 などと一言も書かれていない・・、
  うまく行くなら「嘘も言え的」な事ばかりである・・
 困ったら「隣の国の富みを奪え」である。
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2010年5月、ギリシャ救済の援助プランが実施され始めた。
  どうしようもないギリシャに、IMFとECBとEU
 は、必死に金の援助をした。
  2010年5月から2400億ユーロ(約34兆円)という莫大な
 金の援助プランを実行していた。
  その上に、2012年3月には、ギリシャの負債免除までも
 行なった。
  ギリシャの個人の債務者の負債の半分以上を「無いこ
 ととした」。
  一気にこれで、ギリシャは、1000億ユーロ(約14兆円)
 の借金を消してもらった。
  ドイツ国民は援助疲れしていた。
  国際機関が入ると、ギリシャの汚職体質が明るみに出
 た。
  また、放漫な経営体質も明るみに出て、その癒着の酷
 (ひど)さが次々と明るみに出た。
  誰も、ギリシャの自力更生を信じるものは居なくなっ
 た。
  ギリシャの緊縮財政は、当然、実施されねばならなか
 った。
  ギリシャは大不況となった。
  種々の機関が民営化され、外国資本の手に渡った。
  ギリシャへ投資する者もなく、投資話しは行き詰った。
  年金は削除され、賃金もカットされた。
  税金は増税となり、消費は落ち込んだ。
  失業者は街にあふれ、バブルで回していた経済は「完
 全にストップした」。
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2015年12月20日、変化するカナダ
  先住民族迫害を正式に認めた。
  そして、調査開始へ・・、
  世界中で右傾化が進む中、10年ぶりに保守党からの
 政権交代となったカナダでは、中道左派政党である若き
 自由党党首ジャスティン・トルドー首相(43歳)によっ
 て変革が進められている。
  多様性を重視する新閣僚。
  総選挙後の勝利宣言演説のなかで、「真の変化をもた
 らす」と約束した通り、11月4日に発表された新閣僚は、
 首相を除く30人が男女半数ずつ、年齢もバランス良く
 入閣。
  さらに、障害を持つケント・ヘ氏、先住民の血を引く
 ジョディ・ウィルソン・レイブルド氏、アフガニスタン
 から難民としてカナダに移住したマリアム・モンセフ氏
 (30歳)など、様々なバックグラウンドを持つ議員が入
 閣した。
  先住民族迫害を正式に認める。
  そして、ついに長年の問題となっていた先住民族の迫
 害を、トルドー首相が認め、先住民族の女性約1200
 人が殺害・誘拐等で行方不明になっている事件の調査を
 開始すると発表した。
  調査は、来年春に始まる予定で、2年間で4000万
 ドル拠出するとしている。
  連邦警察によると、1980年から2012年までの間に殺人
 事件の被害者となった先住民女性は1017人で・・、
  先住民女性がカナダの女性全体に占める割合は約4%
 だが、カナダで殺害された女性の約16%を占める(4倍)
  男性に関しても、先住民の男性が、殺害事件の被害者
 となる確率は、それ以外の男性の7倍にもなる。
  こうした現状に対し、先住民族や、活動家が、調査を
 開始するよう何度も政府に求めてきたが、ハーパー前首
 相は調査を拒否してきた。
  さらに、6月に発表された「真実と和解の委員会」の
 報告書では、1874年に始まったカナダ政府の同化政策に
 よって、先住民の子供が差別や虐待をされた事実が明ら
 かになっている。
  それによると、120年以上にわたって先住民の子供 約
 15万人が同化政策によって、「インディアン寄宿学校」
 に親元から引き離されて強制的に入れられ、差別や虐待
 を受けてきた。
  この寄宿学校は、1883年から1998年までの間に、カナ
 ダ各地に約130校存在し、政府の補助金を受けキリス
 ト教教会が運営してきた。
  1940年代には、先住民の学齢期の子供約3分の1が、
 これらの施設に入れられ、6000人が虐待によって死
 亡したとされている。
  この報告書では、これらの実態を「文化的ジェノサイ
 ド」と激しく非難している。
  この政府の同化政策に対しては、ハーパー前首相が
 2008年に、公式に謝罪し、政府の資金でインディアン寄
 宿学校で起こったことを調査し、記録するために「真実
 と和解の委員会」を設立。
  さらに、約4400億円を補償金として支払っている。
  一方、今でも、約140万人の先住民が存在している
 が、一般カナダ人と比べて収入は低く、失業率も高い。
  新政権は、まずは、殺害事件の全国調査を開始するこ
 とを発表したが、先住民の環境改善のためには、教育予
 算の大幅増額や、先住民法の見直しなど課題が多く残っ
 ている。
  変革するカナダ
  カナダでは、景気後退、格差拡大で不満が高まる中、
 中間層の所得税減税、富裕層の増税、インフラ整備など
 の経済政策への期待から政権交代が実現した。
  アメリカでも、中間層が過半数を割り、世界中で格差
 が拡大している。
  トルドー首相は、多様なバックグラウンドを持つ議員
 を入閣させた理由を、「2015年だから」としたが、他の
 国では、右傾化が進み、移民排斥など世界中での動きも
 出つつある。
  男女平等も程遠い。
  2015年になっても、20世紀と変わらず戦争は起こり、
 テロの恐怖に怯えている。
  世界各国が、シリア難民受入の縮小や空爆参加を決め
 る中、トルドー新政権は、2万5000人のシリア難民
 受入を発表し、ISISへの空爆参加を中止するなど独自の
 道を進もうとしている。
  また、イノベーション、サイエンス、経済発展省も、
 新たに発足、環境省を環境・気候変動省と名前を変え、
 先進国の中で最も対策が遅れている気候変動にも取り組
 む。
  さらには、ハーパー前政権時に定められた「着用禁止
 法」によって禁止されていたニカーブ(イスラム教徒の
 衣装)の着用も許可されることになった。
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2017年、中国へ逃げた北朝鮮の脱北者を、中国は北朝鮮へ
 その脱北者を渡した。
  渡された北朝鮮は、その脱北者が妊娠している場合、
 中国人の子だと、「北朝鮮の血が、けがれる」と堕胎さ
 せ、または、母親の眼の前で殺す事をした。
  この事は、国連も事実として、この事を掴んでいる。
  この事について、中国は目をつぶっている。
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2018年2月27日、まったく怪しい中国
  この日の読売新聞に、「FBI、孔子学院を捜査」「
 スパイ容疑か」「《親中派》育成に警戒」「アメリカ議
 会証言」という表題の記事があった。
  ・・その概要は・・
  アメリカ連邦捜査局(FBI)が、中国政府が国外で
 の中国語と中国文化の普及拠点としている「孔子学院」
 の一部に対し、捜査に乗り出している。
  FBI高官がアメリカ議会で証言した。
  アメリカ国内でのスパイ活動などへの捜査という。
  アメリカ国内では、孔子学院が「親中派」育成の場に
 なっているとの警戒感が強まっている。
  FBIのクリストファー・レイ長官は、孔子学院の活
 動が、アメリカ学術界で中国に対する「無邪気な(安心
 的見方)」を広める手段になっているとして「懸念」を
 示し・・、
  「我々は注意深く(孔子学院を)見ており、中には
 捜査に発展したものもある」と述べた。
  アメリカ情報機関が、孔子学院を通じて中国政府と直
 接の提携関係にあるアメリカ国内の100校以上の大学に
 ついて、中国のスパイ活動の潜在的拠点となりかねない
 として警戒している・・、
  中国は、2004年以降、世界120以上の国・地域に450ヶ
 所以上の孔子学院を設け、アメリカ国内でも約100ヶ所に
 開設された。
  孔子学院には「中国政府の意向が強く働く」ことから、
 「学問の自由や言論の自由が侵害される」との懸念も高
 まり、アメリカ国内では最近、孔子学院を閉鎖する動き
 も出て来た。
  孔子学院に対して透明性を高め、カリキュラムをアメ
 リカの大学側にすべて委ねることを求める法律案作りが
 着手されている。
  中国の宣伝工作へのアメリカの視線が今後も厳しくな
 るのは必至。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive