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(増補版)541E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年10月~1891年10月)

2017-07-24 03:37:52 | 日記
題:(増補版)541E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年10月~1891年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年10月7日、文部省が、小学校の修身教科書の使用を通
 達した。
  1890年(明治23年)10月30日、「教育ニ関スル勅語」
 が出され、
  1891年(明治24年)「小学校教則大綱」(11月制定)
 と、「小学校修身教科用図書検定基準(標準)」(12月
 制定)が策定され、修身教科書の発行へ・・、
  1893年(明治26年)に至り、検定を受けた教科書がで
 き、
  また、この翌年・1894年(明治27年)4月から使用が開
 始された。
  ・1892年、東久世通禧『尋常小学修身書』4冊
  ・1893年、東久世通禧『高等小学修身書』4冊
  ・1892年、末松 謙澄『修身入門』1冊
  ・1892年、末松 謙澄『小学修身訓』3冊
  ・1892年、末松 謙澄『高等小学修身訓』4冊 
  ・1892年、末松 謙澄『修身女訓』4冊
  ・1893年、渡辺 政吉『実験日本修身書』入門共8冊
  ・1900年、普及舎編輯所『新編修身教典』(尋常科・
       高等科・女子用―各4冊)
  ・1900年、文学社『小学新修身』(尋常科・高等科・
       女子用―各4冊)
  因みに、アメリカでは、「初代大統領のワシントンは、
 桜の枝を折ったことを正直に言いました」という徳目主
 義があるが・・、
  これは、アメリカの初代大統領のワシントンを崇拝す
 る動きに於いて、この様な逸話が、1806年頃に作られた
 (その他、様々なこの類の行為を、アメリカは行なって
 いる)
1891年10月7日、鉄道庁旅費規定を改正(8月16日から適用)
1891年10月15日、東京に吊り橋「お茶の水橋」が落成し開
 通した。
  「お茶の水」の名の由来は、二代将軍の徳川秀忠が、
 この近くにあった高林寺の湧水で淹れた茶が気に入った
 ため・・、
  この付近一帯が、「お茶の水」と呼ばれるようになっ
 た。
  この初代の橋は、1891年、原龍太によって、日本人の
 設計としては初の鉄橋として架けられた。
  構造は、長さ38間(約69m)・幅6間(約11m)の上路式
 トラス橋だった。
  因みに、1904年に、橋の下に甲武鉄道(現在のJR中
 央本線)御茶ノ水駅が開設された。
  そして、1923年の関東大震災に会い、この橋の橋板に、
 木材が使われていたため、焼失した。
  神田川は、土砂崩れでせき止められた。
  1931年5月10日になり、震災復興事業として、架替が完
 成した。
  新たな橋は、橋桁と橋脚を一体構造にした鋼製ラーメ
 ン橋で、耐震性に優れ、現在まで至っている。
1891年10月28日、早稲田文学が創刊された。
  前年新設された早稲田大学の前身・東京専門学校文学
 科の機関誌として創刊された・・が・・、
  これは、第一次の早稲田文学で、
  現在まで、八次にわたって継続して発行されている文
 芸雑誌。
  第1次は、1891年10月~1898年10月の全156冊で、坪内
 逍遙が主宰だった。
  最初は、講義録風なものであったが、次第に逍遙、島
 村抱月、綱島梁川らの論文がふえていった。
  また、森鴎外との間で没理想論争を展開したりしたが、
  「文学」に対する理解の未分化な時代に、明治文学の
 嚮導者(きょうどう、先に立って案内すること)として
 果たした役割は大きい。
  発行所は、当初は東京専門学校、
  49号より早稲田文学社。
  最初の講義録的なものが変わって「記実主義」の方針
 を打ち出し、当時の文学状況を伝える「時文評論」や、
 文学界の動向を概括した「彙報(いほう)」欄に特色をみ
 せるようになった。
  そして、文学科卒業生の金子筑水(ちくすい)、水谷不
 倒(ふとう)、島村抱月(ほうげつ)、後藤宙外(ちゅうがい)、
 五十嵐力(ちから)らが誌面で活躍しはじめて、文芸誌と
 しての色彩を強まった。
  ほかに、高山樗牛(ちょぎゅう)、綱島梁川(つなじまり
 ょうせん)などが執筆に加わった
1891年10月28日、濃尾大地震
  岐阜県、愛知県、倒壊焼失家屋:約26万8000戸、死者
 数:約9万6000人。
  早朝、6時38分50秒、濃尾地方で濃尾地震が発生。
  直下型地震で美濃・尾張地震とも言う。
  震源:岐阜県本巣郡根尾村、北緯35度35分、東経136度
 20分の地点
  規模:M8.0(8.4?)、モーメントマグニチュードは、
 7.4と推定されている。
  根尾谷断層帯が活動した典型的な直下型地震で、日本
 の陸域で発生した地震としては最大規模。
  濃尾地震の被害は、濃尾2県はもとより、近隣の滋賀県
 や福井県にも及んだ。
  別史料に、死者7273人、負傷者1万7175人、全壊家屋
 14万2177戸、半壊8万戸。
  また、別史料:死者7466人、全壊:14万2177戸。
  岐阜県を中心に、岐阜、大垣、名古屋で被害甚大。
  西根尾(ねお)村(現=岐阜県本巣市)で、80kmにわ
 たる断層が発生した。
  名古屋・清洲・一ノ宮・木曽川・大垣の各駅本屋全壊、
 岐阜駅本屋大破、木曽川・長良川・揖斐川の各橋梁破損
 のほか線路等に大被害(完全復旧までに6か月を要した)
  なお、罹災者に対する救恤品は無賃、
  救護材料の運賃は、半額(災害罹災者に対する救恤品の
 無賃輸送および救護材料の運賃割引の最初)
  (参考)救恤(きゅうじゅつ):「恤」は、めぐむ意
     で、困っている人に見舞いの金品などを与えて
     救うこと。
1891年10月30日、帝国議会第二回仮議事堂が竣工した(第
 二次仮議事堂落成)(10月20日説あり)
  日本に議会が開設された1890年(明治23年)から現在
 の議事堂が完成するまで46年間がある。
  第1回帝国議会から第69回帝国議会まで、木造の仮議
 事堂を使用していた。
  1881年(明治14年)10月12日、明治天皇陛下から「明
 治23年を期し議員を召し国会を開く」旨の国会開設の勅
 諭が発せられ、
  そこで、1886年(明治19年)2月、内閣に臨時建築局が
 設けられ・・、
  議事堂建築が、スタートすることになった。
  不平等条約の改正に取り組む政府は、外交上の政略等
 もあって、外国の技術者を招聘することとし、ドイツか
 ら建築家を招聘した。
  日本からも、技師をドイツに派遣するなど準備に着手
 し、
  1887年(明治20年)4月の閣議において、議事堂建築
 予定地を麹町区(現在の千代田区)永田町1丁目に決定
 した。
  ドイツ人建築家により議事堂の設計(エンデ及びベッ
 クマンによる案)がなされ、
  中央諸官庁の集中建築計画が立てられた。
  ・・が、計画に従えば多大の経費を要すること、議事
 堂のような大建築物を造り上げるには、帝国議会の開設
 があまりにも切迫していたことから、議事堂の本建築は
 中止され・・、
  麹町区内幸町2丁目(現在の千代田区霞ヶ関1丁目経
 済産業省の区画)に仮議事堂を建築することとなった。
  仮議事堂は、2度火災で焼失したため、都合3回にわ
 たって建築された。
  第1回仮議事堂は、1890年(明治23年)11月24日、(
 第1回帝国議会召集の前日)竣功した。
  木造洋風2階建て。
  同年・1890年11月29日に、貴族院議場において、開院
 式が行われ、我が国最初の議会である第1回帝国議会が開
 会された。
  しかし、翌・1891年(明治24年)1月20日未明、突如出
 火し、数時間で、焼失してしまった。
  原因は漏電。
  議会開会中のため、貴族院は華族会館(旧鹿鳴館)、
 衆議院は東京女学館(旧工部大学校)に議場を移した。
  貴族院は、のちに華族会館が手狭なため帝国ホテルに
 移転した。
  第2回仮議事堂は、第1回仮議事堂の焼け跡に、1891年
 (明治24年)10月30日に竣功した。
  木造洋風2階建て。
  外観は、第1回仮議事堂とそれほど変わらなかったが、
 中央に1か所だった玄関が、貴族院と衆議院の両院に、
 それぞれに設けられ・・、
  防火壁、議場の音響効果改善など、細部に工夫が凝ら
 された。
  しかし、また、この議事堂も、1925年(大正14年)9月
 18日に焼失する事になる。
  補修工事業者の不始末からの火災だった。
  (参議院ホームページを参考にした)
.
  (今日の言葉)
.
  題:1時間後には、やった方(攻撃した方)も、ほぼ居なくなる・・
.
1773年、アメリカのマサチューセッツで、知的な指導的
 黒人の方々が、『奴隷制度は自然権に反する』と主張し
 た。
  それ故、彼ら黒人奴隷にされている人々にも自由が与
 えられるべきだと主張した。
  そして、植民地議会に請願を行なった。
  1773年~1780年までに、マサチューセッツ、コネティ
 カット、ニューハンプシャーで行なわれた自由を求める
 黒人の方々の集団請願が、10数本にもなった。
  また、多くの黒人の方々が、個人的に、また、集団的
 に逃亡し、抵抗した。
  自由獲得への意思表示をして抵抗した。
  そして、また、多くの黒人の方々が、直接に革命軍に
 身を投じ、イギリス軍と戦った。
  また逆に、狡猾なイギリス軍は、この黒人の方々の逃
 亡奴隷の革命軍への参戦を利用して、1775年11月、イギ
 リス軍に味方して革命軍と戦う奴隷には、『イギリス国
 王の軍に参加した時点で、すべての奴隷を解放する』と
 布告した。
  このイギリスの国王軍には、卑劣にも大プランターが
 多く居て、多くの黒人の方々を奴隷にして虐(しいた)
 げていた。
  その様なイギリス軍だった。
  欺瞞的行動を悪びれず行なう卑劣なイギリス国王軍だ
 った。
  黒人の方々は、悲しいかな、この狡猾な「イギリスの
 引っ掛け」に引っ掛かってしまっていた。
.
1775年4月、アメリカの黒人の方々が、奴隷制反対協会を設
 立した。
  アメリカ初代大統領ジョージ・ワシントンからして奴
 隷所有者という遅れた国家であり、また、人間だった。
  この様なアメリカにおいて、1775年4月、アメリカ最初
 の奴隷制反対協会が、フィラデルフィアに設立された。
  そして、ついに、1794年1月に、フィラデルフィアで
 全国大会が開かれた。
.
1943年4月、バミューダ会議
  アメリカとイギリスの高官レベルの会議で、ユダヤ人
 の方々を、ナチスの手から助ける事に対して、「放棄す
 る」ということが、この会議で決定された。
  また、大量の難民発生に対し、アメリカ・フランス・
 トルコ・イギリスなどの大使館は閉鎖した。
  ユダヤ人の方々の受け入れの拒否行為をして対策した。
  それを、日本は、大使館などの館を開けていて、ユダ
 ヤ人の方々の受け入れをしていた・・受け入れを良いと
 していた。
  このため・・キリスト教が嘘宣伝する杉原千畝が褒め
 られるのではなく、日本の国・自体が褒められる事なの
 だ。
  第二次世界大戦中、ドイツで公然と行われたユダヤ人
 迫害に関して、アメリカも、また、ヨーロッパの国々も、
 長い間沈黙を守った・・というより、口をつぐんだ。
  また、ユダヤ人の方々を進んで救おうとするまとまっ
 た動きもしなかった。
  その挙句(あげく)の・・大使館閉鎖だった。
  1943年4月、アメリカとイギリスの高官レベル会議(バ
 ミューダ会議)で、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害政策
 に対しては、何もすべきではないことが正式に決まり、
 大量救出のためのあらゆる計画が放棄された。
  ユダヤの方々の流入が、「救出するより怖い」と判断
 したアメリカ・ヨーロッパ諸国だった。
  そこには、キリスト教の「主(イエス)殺しのユダヤ
 人」という差別の洗脳が働いた。
  この事を後世に残すために、世界記憶遺産に登録し、
 且つ、アメリカ各地にこの像を建立せよ!
.
1945年、下記は、第二次世界大戦で戦死された方々の人数
 (軍人+一般の方々)で・・、
  その当時の国民数に対する戦没者の方々の割合で順位
 づけらている。
  当時の国民数に対して、ポーランドの方々が一番多い
 割合(16.7%)で犠牲となられている。
  01・ポーランド、5,820,000人(16.7%)
  02・ソビエト連邦、28,000,000(16.61)
  03・ナウル、500(14.7)
  04・リトアニア、350,000(14.33)
  05・ティモール、70,000(14.00)
  06・ドイツ、9,000,000(12.88)
  07・ラトビア、230,000(11.78)
  08・ルアンダ=ウルンディ、300,000(7.1)
  09・シンガポール、50,000(6.87)
  10・ユーゴスラビア、1,027,000(6.67)
  11・フィリピン、1,057,000(6.6)
  12・ハンガリー、580,000(6.35)
  13・フランス領インドシナ、1,500,000(6.1)
  14・オランダ領東インド、4,000,000(5.76)
  15・ギリシャ、335,100(4.5)
  16・エストニア、50,000(4.44)
  17・日本、3,120,000(4.37)
  18・ルーマニア、800,000(4.01)
  19・中華民国 重慶国民政府、20,000,000(3.86)
  20・オランダ、301,000(3.45)
  21・チェコスロバキア、325,000(3.15)
  22・南洋諸島、57,000(3.00)
  23・アルバニア、30,000(2.81)
  24・フィンランド、97,000(2.62)
  25・マラヤ連邦、100,000(2.28)
  26・朝鮮、483,000(2.06)
  27・オーストリア、120,000(1.80)
  28・ビルマ、272,000(1.69)
  29・フランス、550,000(1.35)
  30・パプアニューギニア、15,000(1.17)
  31・ベルギー、88,000(1.05)
  32・イタリア、454,600(1.03)
  33・イギリス、450,900(0.94)
  34・ニュージーランド、11,900(0.73)
  35・インド、2,587,000(0.68)
  35・ルクセンブルク、2,000(0.68)
  37・オーストラリア、40,500(0.57)
  38・マルタ、1,500(0.56)
  39・カナダ、45,400(0.40)
  40・ブルガリア、25,000(0.38)
  41・アメリカ合衆国、418,500(0.32)
  41・ノルウェー、9,500(0.32)
  43・アイスランド、200(0.17)
  44・南アフリカ、11,900(0.12)
  45・デンマーク、3,200(0.08)
  46・エチオピア、100,000(0.6)
  47・タイ、7,600(0.04)
  48・モンゴル、300(0.04)
  49・ニューファンドランド、100(0.03)
  50・ブラジル、2,000(0.02)
  51・スウェーデン、600(0.01)
  51・イラク、500(0.01)
   ・キューバ、100(0.00)
   ・イラン、200(0.00)
   ・アイルランド、200(0.00)
   ・メキシコ、100(0.00)
   ・スイス、100(0.00)
   ・トルコ、200(0.00)
   ・ネパール、
   ・スペイン、
  計 85,000,000人(4.00%)
  因みに・・、第一次世界大戦の犠牲者数は・・、
  協商国(アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、イ
 タリア、ルーマニアなど)・・9,407,136人(1.19%)
  中央同盟国(ドイツ、オスマン帝国、オーストリア=
 ハンガリー帝国、ブルガリア王国)・・3,0022,000(5)
  中立国(ノルウェー、スエーデン、デンマーク)・・
 3,491(0.03)
  計 5,893,000人(1.75%)
  ・・となっていて・・、
  第二次世界大戦の戦没者数は、この14.4倍の戦没者数
 という激烈な人数となっている。
  (一般人の犠牲者数の激烈な増加)
  しかし・・、第三次世界大戦の核戦争になると・・
  1時間後には、地球上の人類の約半数が死ぬと言われ
 ている。
  そして、一旦、核戦争になれば、その放射能で、人類
 のすべてが生き残れない。
  「人類の殺傷技術の進歩」と言えば卑劣であるが、愚
 かな人類の歩みは、その様な時代を作ってしまった。
  より強烈になってしまった兵器を持つ愚かな人間が、
 今現在、地球上に居る。
  何百万年も、営々と築いて来た人類の叡智・・
  「その叡智の一端で、この様な兵器を創り、一瞬にし
 てすべてが崩れ、人類の生存はおろか、地球上の全生物
 が抹殺されるという時代」となっている。
  その様な事態が起きる歯止めの技術の進歩は・・、
  『まったくない』・・
.
1949年、1949年のこと・・、
  GHQは、アメリカのマッカーサー司令官の独裁的支
 配機関であった。
  占領政策の中で、マッカーサーは、WGIP(War
 Guilt Information Program/ウォー・ギルト・インフ
 ォメーション・プログラム)を実施した。
  これは、日本人に「罪悪感を植え付け」て・・、
  戦前日本の文化・教育などのあり方をすべて否定させ
 て・・、
  日本人から愛国心と自信を奪い取る・・
  ・・という、プログラムであった。
  1949年になって、日本を、あまりにも自分の考え方だ
 けで規制しているのを反省したのか・・GHQは、それ
 まで映画を検閲していたが止めた。
  時代劇も駄目だったが、時代劇もできるようになった。
  それから、約5年後くらいの1950年代後半に、日本は、
 映画全盛期を迎える。
  観客数ピークは、1958年に、11億2745万人。
  因みに、2015年は、1億6700万人。
  別史料に、GHQの下部の組織であるCIE(民間
 情報教育局)によって、日本の映画は管理されていたが、
 1952まで続いたとされている。
  また、戦争に協力したとして、1947年に追放された監
 督らが、その追放の処分解除が、1950年になされた。
  また、1951年に、サンフランシスコ講和条約が締結さ
 れると、その翌年の1952年に、GHQによる映画検閲が
 廃止になった。
  そして、これによって、上映禁止となっていた時代劇
 が復活した。
  1951年には、黒澤明の「羅生門」が、ベネチア国際映
 画祭グランプリを受賞した。
  また、GHQによって制限されていた戦争映画の制作
 がされはじめ、
  1950年には、関川秀雄の「きけ、わだつみの声」がで
 きた。
  因みに、ルーズベルト米大統領のブレーンの多くは、
 共産主義者だった。
  終戦を迎える以前の1943年から、アメリカにはOSS
 (Office of Strategic Serevices/戦術局)かあった。
  そこでは、日本が敗戦した後に、どのように日本を支
 配していくかを話し合っていた。
  OSSの中心的な構成員は、ドイツから亡命してきた
 マルクス主義を基にするフランクフルト学派のユダヤ人
 達であった。
  彼らは、日本をマルクス主義の実験場にしたかった。
  東西冷戦が起きた。
  当時のアメリカにとって、ソ連は、日本・ドイツ・イ
 タリアを共に攻める同盟国であったため、社会主義国に
 対する警戒意識は、当時、まだ持っていなかった。
  ルーズベルト大統領も、左翼思想の持ち主であり、彼
 のまわりは左翼思想家ばかりが取り巻いていた。
.
1949年、フーバー元アメリカ大統領の回想録「フリーダム・
 ビトレイド(FREEDOM BETRAYED、裏切られた自由)」が
1948年4月に出版された・・しかし・・
  1949年のこの年に、ダグラス・マッカーサーGHQ司
 令官は、日本での翻訳と、出版を禁じた。
  (卑劣な口封じ)
  第二次世界大戦は、日本は、『防衛のため』やむを得
 ず戦いをした・・と書かれている。
  このアメリカの不利な言説を、GHQは封じようとし
 た。
.
1963年、中性子爆弾の最初の実験が行われた。
  中性子爆弾(ちゅうせいしばくだん)は、核兵器の一
 種で、核爆発の際のエネルギー放出において、中性子線
 の割合を高め、生物の殺傷能力を高めたもの。
  放射線強化型核爆弾とも呼ばれる。
  中性子線は透過力が強く、薄い鉛などの金属板も透過
 する。
  地下鉄程度であれば透過するため、都市圏であればほ
 とんど助かる可能性はない。
  爆発による破壊よりも、人間を初めとする生物には放
 射線障害による死傷を与えることができ、爆風などの被
 害半径よりも中性子線による被害半径のほうが大きくな
 っている。
  中性子爆弾は、戦術核兵器として使用後の占領時に市
 街の建造物やインフラ設備を利用できるようにするため
 に爆発力を縮小させており、主として自軍地上部隊の行
 動を視野に入れた運用が考えられていた。
  そのため、弾頭威力も核兵器としては小さく、残留放
 射能も少量になるように設計されている。
  1ktの弾頭ならば、被害半径を1000m程度に抑えられる
 こともあって、戦術核兵器としての利用が考えられた。
  最初の実験は、1963年に、アメリカのネバダ核実験場
 で行われた。
  1970年代には、スプリント弾道弾迎撃ミサイル用のW66
 に中性子弾頭が使用された。
.
2017年、核戦争が一旦、起きたら、一時間後には、地球上
 の人類の『約半数が死ぬ』と言われている。
  その様な『はかない状況』の中に人類は生存している。
  (その後まで続くのであれば、人類絶滅へ、強烈な放
 射能もある状態で、人類は、誰も逃れる事は出来ない・・
 生き延びる事は出来ない)
  今現在、広島・長崎型原爆より、べらぼうに大きい核
 兵器・原爆を持つという人類となっている。
  北朝鮮のICBMは、約30分後には、アメリカに着弾
 する。
  ヨーロッパは、北朝鮮から遠いからなんて、言ってい
 られない・・今現在なのだ。
  また、その放射能と言えば・・「福島原発事故どころ
 ではない」・・、
  全地球が、高濃度の放射能でおおわれる・・、
  今でも、福島は、帰還が出来ない・・帰ることが不可
 能な地域である・・この様に、長い年月、全地球が、そ
 の高濃度の放射能に汚染された状態となる。
  生物の・・『生存が許されない地球』となる。
  そして、1時間後には、やった方(攻撃した方)も、
 ほぼ居なくなる核戦争の「核兵器システム」。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)540E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年8月~1891年10月)

2017-07-18 02:44:19 | 日記
題:(増補版)540E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年8月~1891年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年8月11日、日高藤吉郎が、日本体育会を創立した。
  東京・牛込区原町の成城學校(現・成城中学高等学校)
 内に設立された「體(体)育會」(翌1892年に「日本體(
 体)育會」と改称)を起源とする日本體育會体操練習所、
 (のちの学校法人・日本体育大学)が創立された。
  建学の精神に、創設者の日高藤吉郎は・・、
  「全国民が強健な体力を保持しなければ、国家の発展
 は望めない」との信念を持つに至り・・、
 「體育富強之基」(たいいくふきょうのもとい)を掲げ
 ている。
  国民体育の振興、真に豊かな国家・社会を実現するた
 め、体育・スポーツの普及・発展を積極的に推進し、
  健全な心身を兼ね備えた全人格的な人間を育成するこ
 とを建学の理念としている。
  この校風は、「質実剛健・団結和協」「知徳兼修・体
 育奉公」と校歌の詞にも謳われている。
  体育・スポーツの殿堂で、體(体)育會の下に設置され
 た体操練習所(のち体操学校)からスタートした体育系
 大学(体育学・体育科学・スポーツ科学)の中心である。
  また、本学は、体育学から波及した色々な学科をいち
 早く取り入れた。
  その一例である「健康学科」は、体育系大学では初め
 て設置され、保健分野(養護「保健」学・生理学・健康
 学・公衆衛生学)でも主流をなし、
  伝統の体育指導者(体育教員・スポーツ指導者・スポ
 ーツ科学者等)の輩出のみならず、
  養護教員・小学校教員・特別支援学校教員・医療関係
 従事者のOG・OBも多く輩出している。
1891年8月20日、九州鉄道会社線の鳥栖駅~佐賀駅間(24.7
 km)が開業した。
1891年8月21日、関西鉄道会社線の亀山駅~一身田駅間(12.1
 km)が開業した。
1891年8月27日、露仏同盟が調印された。
  これは、政治協定および軍事協定で、最終的には、1894
 年1月4日に締結された。
  ドイツ・オーストリア・イタリアによって構成される
 三国同盟から一方の当事国が攻撃を受けた場合、他方の
 国が軍事的支援を行うことが定められた。
  1890年、ドイツが再保障条約(1887年、ビスマルク時
 代のドイツが、ロシアとの間で締結した秘密軍事条約)
 の継続を拒否し、それが解消されたため、
  反発したロシアが、1891年からフランスに接近した。
  ロシアは、フランスからの金融援助を期待して締結す
 るとともに、バルカン方面でのオーストリア=ハンガリ
 ー帝国への牽制になることを期待した。
  フランスも、ドイツ・オーストリア=ハンガリー・イ
 タリアの三国同盟の脅威に備えること意図した。
  1871年の普仏戦争で、フランスは、プロセインに敗北
 して以来、ヨーロッパでの孤立化状態を脱することを期
 待した。
  両国の利害が一致して、1894年までに、同盟関係が形
 成された。
  1904年の日露戦争の開戦後に、英仏協商が締結され、
  また、日露戦争後の1907年に、英露協商が締結された
 が、三国同盟に対抗する「三国協商」の一部を構成する
 こととになった。
1891年8月30日、筑豊興業鉄道会社線の若松駅~直方駅間
 (25km)が開業した。
  旅客等級は、「特等」と「並等」で、
  賃率は、並等が1マイル(約1.6㎞)当り1銭2厘だった。
1891年8月、京都停車場に、錬鉄製跨線橋が架設された。
  技術が進んで、明治期の後半には、橋梁材料が錬鉄か
 ら鋼に切り替わって行くが、
  日本は、明治年間を通じて、まだ一貫して欧米の橋梁
 メーカーの製作に依存して来た。
  1896年(明治29年)に架設された土浦線(現:常磐線)
 の隅田川橋梁(200ft=約61m)は、材料が錬鉄から鋼に
 切り替わった時代の橋梁。
  錬鉄は、炭素の含有率を低く抑えた軟鉄で、エッフェ
 ル塔も錬鉄製である。
  錬鉄(れんてつ)は、鋼鉄の大量生産手段の発明以前
 に、古典的な製鉄方法のパドル法で主に製造され、
  ある程度の量産ができ、鋳鉄(ちゅうてつ、鋳物製品
 に使われる)に比べ強靭だったので、19世紀を中心に、
 鉄道レールや建造物の構造材料として利用された。
  しかし、鋼鉄の大量生産の手法が発明されると、姿を
 消した。
1891年8月、東京市15区と八王子市で、土葬が禁止となった。
  土葬(どそう)は、遺体をそのまま埋葬することであ
 るが、因みに、キリスト教は、火葬に対して否定的で、
 宗教的理由から土葬する。
  明治政府は、仏教での葬法としての火葬に、反対する
 神道派の主張を受け入れて、1873年(明治6年)7月18日
 に、太政官布告によって火葬禁止令を出した。
  しかし、仏教徒の反対や、衛生面からも火葬が好まし
 いとの判断から、
  1875年(明治8年)5月23日に、火葬禁止令を解除した。
1891年9月1日、東京~青森間が全通した。
  日本鉄道会社線の上野駅~青森駅間の東北本線が、全
 線開通した。
  盛岡駅~青森駅間の工事が完成(204.2km)開通し、
 上野駅~青森駅間(732km)が全通した。
  上野、および、青森から、1日1回の長距離直通列車を
 運転し、1往復運転がなされた。
  所要時間は26時間半。
1891年9月10日、硫黄島・北硫黄島・南硫黄島が、東京府に
 所属された(9月9日説あり)
  島北部には、戦前、元山部落、東部落、西部落、南部
 落、北部落、千鳥部落の6つの集落があり、元山部落には、
 硫黄島尋常小学校と硫黄島神社が置かれ、島の中心とな
 っていた。
  また、島には、父島から派遣された警察官1名が駐在し
 ていた。
  島南部は、旧海軍省によって要塞地帯に指定され、一
 般島民の立ち入りは制限されていた。
  当時の島内の産業は、硫黄採取鉱業、サトウキビ、レ
 モングラス等の栽培農業、近海沿岸漁業等で、
  これらの産業は、硫黄島産業株式会社が取り仕切って
 おり、島民の大半は、同社に直接、間接的につながって
 いた。
  1945年2月19日~1945年3月26日に、日米間に激戦がな
 された。
  物量共に不利のなかで、また、日本軍に増援や救援の
 具体的な計画は当初よりなく、
  戦闘が不利に経過する中・・、
  栗林忠道陸軍大将を最高指揮官とする大日本帝国陸軍
 は、バンザイ突撃を禁じて激しい抵抗戦を繰り広げた。
  その戦闘を試みた栄光の将兵の遺骨は、まだ、島に残
 されている。
  (アメリカ軍は、その日本将兵の遺骨をそのままにし
 て、その上に滑走路を構築した)
  1968年に、同島の施政権が日本に返還され、この時、
 国土地理院発行の地形図上の呼称は「いおうとう」に戻
 された(「いおうじま」から)
  現在、原則として基地に勤務する自衛隊員、及び、建
 設業者等の関係者以外の上陸は禁止されているが、戦没
 者の慰霊祭が現地で開催される際等には、旧島民や遺族、
 それに戦没者の遺族等の上陸は許可されている。
  旧島民の帰島の希望は叶(かな)えられていない。
  歴史
  江戸時代、幕府の船によって、既に、その探査は行わ
 れていた・・、
  1873年(明治6年) 小笠原の領土所属をめぐって日英
   米間で論争がさかんに。
   明治政府は、小笠原を領有統治する方針を固める。
  1875年(明治8年) 外務省官吏・田辺太一等の調査団
   が父島・母島に派遣され、小笠原の住民に対して日
   本の所属となることを宣言した。
  1876年(明治9年)3月、小笠原を内務省所管とする。
   10月、諸外国に小笠原が日本の領土と通告し、日本
   領土と確定。
  1887年(明治20年)11月1日、高崎五六東京府知事が、
   灯台巡視船・明治丸で横浜港を出帆、三宅・八丈・
   小笠原諸島を巡回。
   11月10日、硫黄島を探査。
  1889年(明治22年) 6月、田中栄二郎が硫黄島へ渡航。
   北硫黄島にも寄る。
   8月3日、南硫黄島で4年間生活していた遭難者発見。
   12月、小笠原島庁荒川義邦が硫黄島調査。
  1890年(明治23年)小美田利蔵が硫黄試掘願を農商務
   大臣に提出。
  1891年(明治24年)9月9日、勅令をもって硫黄列島が
   東京府小笠原島庁管轄となる。
   北硫黄島、硫黄島、南硫黄島と名称を定めた。
   11月、小笠原島庁の公標が硫黄島に建つ。
  1892年(明治25年)5月16日、硫黄鉱山試掘願が農商務
   大臣によって許可された。
  1896年(明治29年)石野平之丞が北硫黄島に上陸。
  1898年(明治31年)硫黄島からの輸出用・運送用に艀
   漁船・小廻船2艘と年2回の定期船便を利用。
   そのうちの1回を南硫黄島まで迂回させ、遭難者の有
   無の確認することに。
  1899年(明治32年)石野平之丞が母島から北硫黄島に
   移住、開拓を開始。
  1902年(明治35年)北硫黄島に私設小学校が開校した。
1891年9月11日、山陽鉄道会社線の笠岡駅~福山駅間(14.3
 km)が開業した。
1891年9月12日、日本鉄道会社が、甲と乙の定期割引切符の
 発売を発表した。
1891年9月12日、群馬県が、1893年末を以て公娼を廃止する
 と布告した。
1891年10月1日、スタンフォード大学が創立された。
  アメリカ合衆国カリフォルニア州スタンフォードに本
 部を置く私立大学。
  校訓は「自由の風が吹く」。
  サンフランシスコから約60 km南東に位置して、地理上
 も、歴史的にも、シリコンバレーの中心に位置している。
  現在、スタンフォード研究所 (SRI) は、大学本部の管
 理下にはなく、大学発のインキュベーションやベンチャ
 ー企業の支援を目的とした独立した組織として運営され
 ている。
  (参考)インキュベーション(incubation)「抱卵・
    培養・保育の意」で、
     設立して間がない新企業に国や地方自治体など
    が経営技術・金銭・人材などを提供し、育成する
    こと。
1891年10月2日、東京市が、市区改正費のため公債1000万円
 を募る(市民公債の始)
  市区改正(しくかいせい)は、明治時代から大正時代
 に行われた都市計画、都市改造事業のことで・・、
  都市部では、文明開化で、馬車や鉄道などの新たな交
 通機関が登場したが、江戸時代の城下町等を部分的に改
 変して対応していた。
  さらなる発展のための、上下水道・電気・市街電車な
 どのインフラストラクチャーを導入し、そして、都市を
 近代化して行くためには、大規模な都市改造、市区改正
 が必要だと、課題になった。
  1889年に、委員会による計画案(旧設計)が公示され、
 事業が始まった・・が・・しかし、
  財政難のため事業は遅々として進まなかった。
  政府は、その前年の1888年3月、東京市区改正条例案を
 元老院の議に付していた。
  しかし、同年1888年6月、元老院は、同条例案を否決し
 た。
  理由は、『首都』東京の改造費の半額は国庫から補助
 している状況のなか、
  現状は、不穏な清国などの情勢もあって、軍備増強が
 急務ではないかとの意見だった。
  これに対し、山県内務大臣と松方正義大蔵大臣は、翌
 月の1888年7月、元老院の否決理由に反論したうえで、
  原案の東京市区改正条例案は、「断然決行」すべきで
 あるとして、条例案を再提出した。
  提出案には、元老院案に対する山県・松方両大臣の反
 対意見を盛り込んだ閣議請議を求める文書だった。
  閣議はこれを容れ、同年・1888年8月16日、「東京市区
 の営業衛生防火及通運等永久の利便を図る」東京市区改正
 条例が公布された。
  東京市の歴史を見ると・・、
  江戸時代の最盛期に100万人以上といわれた人口も・・、
  1872年(明治5年)には、52万人に減った。
   この年、大火で焼失した銀座れんが街の復興は、都
   市改造事業の最初のものであった。
  1878年(明治11年)に、67万人に、
  1887年(明治20年)には、106万人に回復した。
  1888年(明治21年)には、東京市区改正条例が公布され、
   皇居周辺と下町の一部を対象として、道路の新設・
   拡張、河川・橋梁・公園の整備が行われた。
   しかし、この間に日本の産業革命が進行して、東京、
   大阪をはじめとする大都市や港湾都市の都市化が急
   速に進んで行った。
   ここに、東京市区の改正が必要となった。
  1897年(明治30年)には、133万人を数え、
  1903年(明治36年)には、181万人に及び、
  1912年(明治45年)には、200万人をこえる大都市に発展
 して行く・・、
  それまでの下町の高密度地域から、山の手の住宅地区
 や周辺の工業地帯が密集するようになった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:傭兵に頼っていた「カルタゴは滅んだ」
.
紀元前4万3000年~紀元前2万6000年、この間に、ネアンデ
 ルタール人が滅んだ。
  この時に、ホモ・サピエンスが進出し、交替劇が演じ
 られたと考えられている。
  この交代劇は、争いや戦いが無い状態で行われたと考
 えられている。
  この交替についての説には、「疾病説」や、「環境説」
 や、「生存戦略説」があるが、
  環境説が有力と言われている。
  寒い環境のため、南へ移動して行った・・、
  そして、北アフリカと南ヨーロッパへと、
  そしてまた、カスピ海周辺から東へと・・、
  ネアンデルタールの谷というドイツの谷(タール)で
 最初の発見がなされた。
  その骨から復元すると、足は太く短く、胴は長く、筋
 肉はりゅうりゅうとし、
  目の上の骨は盛り上がり、火をおこし、狩りの生活を
 していた。
  美術解剖学によって、骨に肉を付けて行き、その様な
 ことが観察された。
  頭は非常に大きいと言え・・、
  700万年前に、人類が誕生し、猿人から原人へ(旧人、
 新人)、そして、ホモ・ハイデルベルゲンシスへ、
  (参考)ホモ・ハイデルベルゲンシス(ハイデルベル
     クのヒト)は、ヒト属の一種。
      ハイデルベルク人をホモ・エレクトスとは別
     種とするときの名称。
      ホモ・エレクトスに比べ脳容量が大きく
     (1100cc~1400cc)、より人間的な行動をとる
     ことができ、これを種レベルの違いであると考
     える場合に別種とする。
      種レベルの違いはなかったと考える場合は、
     エレクトスに含め、
      エレクトスの種内亜種として区別する場合は、
     ホモ・エレクトス・ハイデルベルゲンシス と呼
     ぶ。
      時期は、60万年前から40万年前。
  80万年前に、ヨーロッパに進出⇒ネアンデルタール人
 となった。
  アフリカに於いては、ホモ・サピエンスとなる。
  化石に作り方が違う、古い昔のまま再現したネアンデ
 ルタール人、
  作り方の学習研究から、新しい石器を作ったホモ・サ
 ピエンス、
  学習能力の進化、化石能機能研究、集団同士が文化を
 交流して進化したホモ・サピエンス、
  教えることをしないで、自主性を尊重する、狩猟採集
 民族、
.
1563年、関ケ原の戦いの37年前のこの時、家康に逆らった
 本證寺(ほんしょうじ、愛知県安城市)があった。
  寺の不入権(租税免除と治外法権)が侵害されたとし
 て、浄土真宗の同寺は、他の三河3寺とともに領主・家康
 と争った。
  三河一向一揆である。
  翌年・1564年に、和議が結ばれたが、門徒側が家康の
 一方的な改宗命令を拒否したため、僧侶衆は追放され、
 建物は破却された。
  許され、赦免されたのは、それから約20年の後だった。
  この後、家康は、堅固な信仰に参って、浄土真宗を内
 側に取り込むことで、地域の安定を図って行った。
.
1946年2月16日夕刻、新円切り替え
  旧円券を回収し、新円券に切り替えた。
  幣原内閣が発表した戦後インフレーション対策として
 行われた金融緊急措置令を始めとする新紙幣(新円)の
 発行と、
  それに伴う従来の紙幣流通の停止などに伴う通貨切替
 政策。
.
1947年5月17日、石橋湛山蔵相が公職追放となった。
  石橋は、戦勝国・アメリカに勇気ある要求をした。
  石橋は、国民から『心臓大臣』と呼ばれるもアメリカ
 からは嫌われた。
  1947年のこの年に、第23回衆議院議員総選挙で静岡2区
 から当選したが、卑劣にも、GHQは、公職追放令によ
 って公職追放した。
  この公職追放は、吉田茂が関わっていると云われた。
  1951年の追放解除後は、吉田の政敵であった自由党・
 鳩山派の幹部として打倒吉田に動いた。
  この時期、立正大学から懇請されて、学長に就任した。
.
2017年7月6日、(読売新聞、2017年7月6日)に、「各国の
 核弾頭保有数(2017年)」が記載されている。
  それによると・・、
  (1)ロシア、 7000発
  (2)アメリカ、6800発
  (3)フランス、 300発
  (4)中国、   270発
  (5)イギリス、 215発
  (6)パキスタン 130~140発
  (7)インド、  120~130発
  (8)イスラエル、80発
  (9)北朝鮮、  10~20発
  明確に、北朝鮮が、核保有国と記されている。
  また、同じこの新聞に・・、
  「北朝鮮のICBM」に対して日本の迎撃は困難」と
 ある。
  北朝鮮の核弾頭が、日本に飛来する場合もあるが・・
  日本の上空をアメリカへ向かって飛ぶ、その北朝鮮の
 ICBMを打ち落とすのは技術的に無理・・とある・・
  その概要を記すと・・、
  「北朝鮮が4日発射した弾道ミサイルを、米政府が、大
 陸間弾道ミサイル(ICBM)と認めた」・・
  「ティラーソン米国務長官は、声明でICBMだった
 との認識を示した」・・
  「アメリカは、当初、「中距離弾道ミサイル」と分析
 していたが、米国防総省も、同日、ICBMだったと断
 定した」・・
  「日本のミサイル防衛は、イージス艦搭載の迎撃ミサ
 イル(SM3)が最高高度約500キロの大気圏外で撃
 ち落とすシステムが主力であるが、
  これは、最高到達点から落下し始めるタイミングで迎
 撃することを想定している。
  しかし、アメリカに向かうICBMの場合、イージス
 艦が展開する日本海の上空を通過する時点では、(北朝
 鮮のICBMは)高速で上昇しているため、迎撃は困難」
 (防衛省幹部)・・
  「ティラーソン氏は、声明で、北朝鮮によるICBM
 は、アメリカや同盟国、(アジア太平洋)地域、そして、
 世界に対する脅威が、新たな段階にエスカレートした」
 と・・
  「北朝鮮国営の朝鮮中央通信は5日、4日に発射したミ
 サイルについて・・大気圏再突入時の高温でも、弾頭部
 内の温度は安定して維持され、核弾頭爆発制御装置は、
 正常に作動した・・と伝えた」
  「韓国の国防相は、5日の国会報告で、北朝鮮の核実験
 を行なう可能性について・・、
  (核開発は)北朝鮮の国家的な目標であり、可能性は
 高い」と述べ、
  「北朝鮮北東部・豊渓里(ブンゲリ)の核実験場は、
 いつでも核実験が可能な状態を維持している」と明らか
 にした。
  「日本の岸田外相は、5日、米国のティラーソン国務長
 官と電話で約30分間会談し・・制裁強化・日米共同行
 動・・」
.
2017年、アルティミット・イクォライザー(究極的な均等
 化武器)
  核の破壊力が絶大なため、その破壊力ゆえに、戦争抑
 止ともなる。
  どのような国(核兵器を、全地球を壊滅するぐらい持
 っている国)でも、安易にその核保有国への攻撃は出来
 ないとなる。
  北朝鮮を、アメリカ大統領がテロ国家だと言い、同じ
 テロ国家とされたイラクは亡ぼされてしまったため、北
 朝鮮は、必死に核開発をした。
  その結果が、今現在の状況であるが・・、
  戦車や大砲や戦闘機などの武器は、たくさん持ってい
 る国が有利という性格の武器である。
  例えば、戦闘機を一万機持っている大国と、戦闘機が
 百機しかない小国が戦争をする場合を考えれば、その戦
 いの結果はあきらかである・・、
  しかし、核兵器は・・その様な性格の武器ではない・・、
  イギリスやフランスは、発見しにくい潜水艦に搭載し
 た核ミサイルを持っている。
  これは、巨大な量の核兵器を持っている国に、その少
 量の核兵器で十分対抗できるからで・・、
  例え、核の量が百分の一であっても、潜水艦や地下ト
 ンネルに隠し持っている核は、十分その威力を発揮し・・、
  核超大国であっても、その少量の核で対抗できるとい
 う性格がある武器・・、
  核超大国が、その小国の核をすべてを一気に破壊する
 のは不可能であるため、その残った核による報復を受け
 るからで・・、
  核兵器の破壊力が超絶大なため、残った少量の核でも、
 その超絶大な破壊力の少量の核の破壊力で、十分対抗で
 きる・・、
  故に、この核兵器を、「究極的な均等化武器:アルテ
 ィミット・イクォライザー」と言う・・、
  核兵器の攻撃から逃(のが)れることができ、核攻撃
 への抑止力が働く・・、
  歴史に於いて、今まで、核大国は、核兵器の実施は行
 なわなかったが、
  しかし、歴史には、何度も、原爆の使用をするかどう
 かの瀬戸際があった・・愚かなことだが・・、
  広島・長崎のあまりにも悲惨な・・その結果を知って
 いてても、この様な事が何度もあった。
  幸い実行はされなかったが、愚かな人間が、愚かな最
 高権力者が、再び、今後、やる可能性は十分ある。
  あなたのお子さんが、あなたが、今、頼んだ、アイス
 クリームを食べ終わらないうちに・・核兵器が着弾する
 という時代が・・今・・北朝鮮から7分で着弾・・中国
 から10分で着弾・・、
  自分だけは特別という妄想は、根拠のない絵そらごと
 ・・、
  北朝鮮という、新たな核保有国が生まれ・・核保有国
 に囲まれた日本・・
  核抑止力が必要な時となった・・
.
2017年、カルタゴは滅んだ・・話し・・
  クラスの中でも暴力的に弱いNが・・、
  強力な腕力を持っている大きいAに・・、
  「いざという時には守って・・」と頼んでいた・・
  Aも了解していた・・、
  しかし、ある日、クラスの悪のいじめっ子のNCが・・、
  非情な強烈な武器を持って・・
  想像を絶する武器でもって・・
  そのNをいじめ、攻撃した。
  あまりにも強烈な武器であるため、Aは、自分へのダ
 メージを恐れ・・たじろぎ、ためらった。
  Aは、約束していたNを助ける行為はしなかった。
  可哀想にNの存在は・・?となった・・
  今までも、Aは、その様な強烈な武器を持った奴とは、
 戦うことをためらって来ていたが、今回もその通りとな
 った。
  傭兵に頼っていた「カルタゴは滅んだ」・・
  その様な・・史実が・・『ある』・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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(増補版)539E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年6月~1891年8月)

2017-07-12 06:35:25 | 日記
題:(増補版)539E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年6月~1891年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年7月1日、九州鉄道会社線の高瀬駅~熊本駅間(28km)
 が開通し、門司駅~熊本駅間(195.4km)が全通した。
1891年7月5日、北海道炭砿鉄道会社線の岩見沢駅~歌志内
 駅間(49.7km)が開業し、手宮駅~歌志内駅間の直通運転
 が実施された。
1891年7月5日、清国の北洋水師(艦隊)が、戦艦「鎮遠」
 「定遠」と軍艦他4隻で、示威(名目上は親善)活動の
 ため東京湾へ来航した。
  本「頭山満と玄洋社物語」(続)(平井晩村著1915年
 刊)の第10章に、
  「日本の海軍の10倍の「鎮遠」「定遠」の巨艦を擁し、
 東京湾にあらわれ丁汝昌は、『眼中に日本なし』とせせ
 ら笑い、長崎に寄港して横暴のかぎりをつくした」とあ
 る(日清戦争の遠因)
  日本は、戦争回避もあってか? 金を出し、長崎市と
 協力して歓迎大会を開催した。
  また、横浜、呉などにおいても大歓迎会を催している。
  しかし、長崎においては、前回の時と違い、上陸して
 くる清国水兵に復讐する者もいた。
  (前回、清国水兵の乱暴狼藉事件があったため)
  上泉少尉は・・、「折角、親善を標ぼうして、来朝し
 て来る者を遇する道ではない」・・と、清国艦隊が、日
 本を去るに際し、最後の交歓をなすべく率先奔走した。
1891年7月11日、卒業式で君が代が歌われた。
  東京音楽学校の卒業式で「君が代」が歌われた。
1891年7月14日、山陽鉄道会社線の倉敷駅~笠岡駅間(28.1
 km)が開業した。
1891年7月19日、讃岐鉄道会社が、定数乗車券(乗車回数30
 回、通用期間2か月、普通運賃の2割5分引きの記名式回数
 券乗車券)を発売した。
1891年7月27日、高等官任命及俸給令が公布された(勅令第
 82号、高等官官等俸給令は廃止)
  官吏(かんり)は、具体的な任命のあり方に応じて、
 親任官、勅任官、奏任官、および、判任官の身分的区分
 が定められた。
  そして、このうち、親任官、勅任官、および、奏任官
 は、高等官とされた。
  高等官には、文官と武官の区分があった。
  任用については、文官は、高等文官試験に合格した者
 を任用する方法があり、
  また、武官は、陸軍士官学校・海軍兵学校を卒業した
 者を任用する方法が、それぞれ主流としてあった。
1891年7月27日、判任官俸給令が公布された(勅令83号、8月
 16日施行、従来の判任官官等俸給令は廃止)
  判任官(はんにんかん)は、官吏のうち、高等官では
 ない官吏の事を言う。
  高等官(勅任官・奏任官)の下に位置していた。
1891年7月27日、「鉄道庁高等官俸給ノ件」公布(勅令第117
 号、8月16日から施行)
1891年7月27日、技術官俸給令が公布された(勅令第84号、
 8月16日から施行、従来の技術官官等俸給令は廃止)
  技術官は、工芸・技術に関する職務に従事した官吏の
 ことをいう。
  判任官を技手、高等官を技師と称した。
1891年7月、鉄道庁長官(井上勝)が、「鉄道政略ニ関スル
 議」を内閣総理大臣に提出した。
  5713.2kmの鉄道建設が必要であるとして、第1期財源に
 充てるため公債募集を提議した。
  井上勝(いのうえまさる、1843年~1910年)は、山口
 県出身で、子爵になった人。
  1863年(文久3年、20歳)に、伊藤博文らとともに渡航
 し、ロンドン大学で鉱山・土木工学を学んだ。
  この時の5人を「長州五傑・ちょうしゅうごけつ)」と
 言い・・、
  長州藩から清国経由でヨーロッパに派遣され、主にロ
 ンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジなどに留学した。
  井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博
 文)、野村弥吉(井上勝)の5名の長州藩士を指す。
  武器商人のトーマス・ブレーク・グラバー(グラバー
 商会)らの協力を得て成し遂げられた。
  この5名は、ロンドン大学に、「長州ファイブ(Choshu
 Five)」として顕彰碑が建てられている。
  1868年(明治元年、25歳)に帰国し、以後、井上勝と
 称した。
  1871年(明治4年、28歳)工部省鉱山寮鉱山頭兼鉄道寮
 鉄道頭、
  1872年(明治5年、29歳)鉄道頭専任となり、京阪神間
 鉄道の建設に尽力。
  1882年(明治15年、39歳)工部大輔、
  1885年(明治18年、42歳)内閣鉄道局長官兼技監など
 を歴任。
  1890年(明治23年、47歳)貴族院議員、内務省鉄道庁
 長官。
  1891年(明治24年、48歳)鉄道国有論を主張して、「
 鉄道政略ニ関スル議」を提出し、鉄道敷設法制定の契機
 となった。
  1896年(明治29年、53歳)汽車製造合資会社を設立し、
 社長に就任。
  鉄道院顧問となり渡欧したが、病にかかり、ロンドン
 で、1910年(67歳)客死した。
1891年7月、欧字新聞の検閲が始まった。
  1883年に軍隊や軍艦の動静(どうせい、物事の動き、
 様子、消息)の掲載などの禁止がなされた。
  そして、外交上の秘密事項なども加わった。
  1891年の大津事件は戦争に至る可能性もあったため、
 軽率なる報道への検閲の必要性があった。
  また、清国の不穏な日本を馬鹿にし、また、蔑視する
 行動などもあった。
1891年8月5日、世界初と言われるトラベラーズ・チェック
 (旅行小切手)が発行された(アメリカン・エキスプレ
 ス)
  因みに、現在、クレジットカードの普及など決済サー
 ビスの多様化に伴って、近年では利用が減少し、日本で
 唯一販売を続けていたアメリカン・エキスプレスは、2014
 年に販売を止めた。
1891年8月7日、日本最初の魚形水雷の試射(相州浜にて海
 軍省技師、喜志・坂本両氏による)
  1861年~1895年の間、清朝政府は、造船を最も重要な
 ものとし、4つの造船所と2つのドックを柱とする官営造
 船機構の整備を進めた。
  それは、江南機器製造総局(濾局)、福州船政局(閾局)、
 天津機器総局、黄哺船局並びに大沽ドック、旅順ドック
 である。
  そして、特に、中国の北方地域、首都・北京と港湾都
 市・天津、及び、その周辺地域において造船関連産業を
 振興させることが急務としていた。
  そして、防衛上の要衝地・天津に最新鋭の西洋式軍事
 機器を製造する天津機器総局を創設するべきとした。
  この1例の様に、中国は軍事化、そして、その近代化に
 邁進していた。
  実施する規模も雄大であり、最新の機器が備えられて
 行った。
  御雇い外国人も多数、要請していた。
  その分局の一つの東局の例を見ても、技師と技術労働
 者2000名を擁し、弾薬、銃砲、水雷および各種の軍需機
 器を製造していた。
  第二弾薬工場など新機器工場などと共に、建設計画が
 続いた、火薬工場なども・・諸処の工場には、イギリス
製の製造装置も備えられ、火薬工場は世界最大規模と言わ
れた。
  また、当時では最先端研究となる潜水艦の研究も進め
 られ、新しい船種、船型の建造が極秘裏に進めてもいた。
  日本よ!このままで良いのか?という状況だった。
  まったく、今現在と同じ・・、
  また、清国は、1866年~1868年の間、イギリスやフラ
 ンスから続々と軍艦を購入していた(澄波号など)。
  1873年には、自国建造修理も行い、洋式の進んだ銃砲
 の製造も行ない始めた。
  清国の状況は概略しか記せないが、あらゆる面を積極
 的に進めていた。
  1880年には、すでに、李鴻章は、イギリスやドイツか
 ら11隻の軍艦を購入して、海軍を創設していた。
  また、1882年~1913年の間に、大沽ドック゚だけで大小
 38隻の艦艇が建造されていた。
  それに対して、日本は、1891年に至ってやっと魚形水
 雷を試射するという段階だった。
  (参考)水雷:すいらい、多量の爆薬を詰め、水中で
     爆発させて艦船を破壊する装置。
      魚形水雷(魚雷)・機械水雷(機雷)など。
.
  (今日の言葉)
.
 題:あられもない教義に・・
.
1000年頃、イタリアのウンブリア山村の民衆は、キリスト
 教隠者の聖ロムアルドゥスを危うく撲殺しかけた。
  誠に愚かなことだが、それは、彼を失いたくなかった
 ための行為だった。
.
1231年11月17日、エルジェーベト (ハンガリー王女)が没し
 た。
  (参考)エルジェーベト(1207年7月7日~1231年11月
     17日)は、ハンガリー王エンドレ2世とメラーノ
     公女ゲルトルードの娘。
      テューリンゲン方伯ルートヴィヒ4世の妻。
      ドイツ名のエリーザベトでエリーザベト・フ
     ォン・ウンガルン、あるいは、エリーザベト・
     フォン・テューリンゲンとも呼ばれる。
      また、キリスト教のローマ教皇グレゴリウス
     9世により列聖された。
      聖エルジェーベト、聖エリーザベト、聖エリ
     ザベートなどと呼ばれる。
  そして、このテューリンゲンの聖エリザベートの遺体
 が、まだ埋葬されなかった時、善男善女の一群が、彼女
 の顔に巻き付けてあった布片を切り取ったり、引き裂い
 たりして持ち帰った。
  彼女の髪や爪を切り取り、果ては、耳や乳房までもち
 ぎり去った。
.
1274年に、トマス・アクィナスが、フォッサ・ヌォヴァの
 僧院で没すると、そこの修道士たちは、貴重な遺物が彼
 らの手から失われるのを恐れ、気高き師の遺体を文字通
 り漬け込んでしまった。
  つまり、頭を切り離し、煮て、調理してしまったのだ
 だった。
.
1441年頃、キリスト教は、古い昔から有色人種を軽く見て
 いた、卑劣な事である。
  それは、キリスト教の教義から来ていた。
  古代は、このキリスト教の教義に洗脳されたキリスト
 教徒によって、エチオピアの黒人の方々などが奴隷にさ
 れた。
  キリスト教聖書に書かれているので、まったく罪悪感
 は無かった。
  近年になっても・・、
  ポルトガルのエンリケ王子は、「できるだけ多くの土
 人(アフリカの黒人の方々の事)を生け捕りにして、持
 ち帰れ」・・と、命令を出した。
  コロンブスが、アメリカ大陸に達する半世紀前の頃(
 1441年頃)に、ヌニョ・トリスタンというポルトガル人
 (武装帆船の船長で、騎士の身分)は、アフリカ人の集
 落を襲撃した。
  そして、激しい戦闘の後、男女と少年の10名を生け捕
 りにした。
  こうして生け捕った12人を、リスボンに連れ帰り、エ
 ンリケ王子の所へ連れて行った。
  エンリケ王子は、大いに喜んだ。
  キリスト教に洗脳された頭には、まったく罪悪感は無
 かった。
  また、ローマ法王へも特別使節をたてて、このことを
 報告して説明した。
  ローマ法王も、大いに喜び、歓迎した。
  そして、『あらゆる罪が赦免される』という言葉を言
 った・・、
  「この戦いに従事する者すべてに対し、あらゆる罪の
 完全な赦免を与える」・・と、卑劣な事である・・
  この言葉によって・・、
  『以後、アフリカの方々を奴隷にする事が罪にならな
 くなった』、
  また、そればかりか、『過去の罪も完全に赦免される
 こと』になった。
  まったく、キリスト教の最高の頂点に立つ者であるの
 に、卑劣この上ない言葉だった。
  アフリカの方々に対する人権への意識は皆無だった。
  キリスト教に洗脳された者たちの頭には、有色人種を
 奴隷にする事は、あたかも物を分捕って来るがごとくの
 行為となった。
  そればかりか、それに加えて、過去の罪まで許される
 という事になった。
  キリスト教により『精神的未開人状態になっている』
  人権への自覚は・・まったく無かった。
.
15世紀中頃、屈辱の奴隷貿易が、この頃に始まった。
  ポルトガルによって行なわれた・・白人・キリスト教
 徒の奴隷貿易・・、
  人身売買・・人の売り買いが、この卑劣行為がなされ
 るアフリカの海岸を「奴隷海岸」というが・・、
  この行為を恥じたのか? 
  この非人道的行為を恥じたのか? 
  この「奴隷海岸」の名を消したいとしている。
  この白人キリスト教徒にとっての不名誉な事柄(奴隷
 海岸の名)は、負の人類遺産として長く記憶にとどめる
 べき事柄である。
  また、世界記憶遺産に登録すべきである。
  ・・が、しかし、この卑劣な非人道的行為を・・忘却
 の彼方に捨て去りたいとしている。
  19世紀には、また、卑劣なアフリカ侵略をしたヨーロ
 ッパの白人キリスト教徒たち、卑劣なアフリカ侵略の行
 為をした輩たち・・、
  近代植民地主義の低劣行為の限りをし尽くしたヨーロ
 ッパ・キリスト教国・・、
  その搾取の卑劣さには言葉を失して、嫌悪の情が湧く。
  低劣な人間たちが、無実の方々の『人間の尊厳』を無
 謀に奪った。
  それだけでなく、そもそも人間が人間である事さえ完
 全に否定するというキリスト教教義そのものを行なう。
  動物のレベルで、「奴隷狩り」という観念で、何世紀
 も奴隷貿易をした。
  16世紀~17世紀初頭には、スペインやポルトガルのキ
 リスト教国から始まった。
  独占的に行い、大きな儲けを享受した・・人間の売り
 買いで・・。
  何世紀も奴隷貿易をし、そして、イギリス、オランダ、
 フランスも、この巨大な利益を自分たちも得たいと・・
 この最悪の悪行為を引き続き行っていく。
  この人肉史上に、アメリカが首を突っ込んで、黒人の
 方々を、アメリカが最大に苦しめた。
  美味しい分け前をくれと主張し始め、この展開が、最
 悪の人肉市場を育てた。
  卑劣なアメリカであった。
  ジプシーの名も変えたいとしているが、散々、ジプシ
 ーの方々を虐げ、差別して来ていながら、その汚名を消
 したいとしている。
  だから、ジプシーの名を変えたいとしているのは、そ
 の本源的解決から逃避していて、ジプシーの方々の根本
 的救済にはなっていない。
.
1510年~1511年、ポルトガルが、ゴアやマラッカを征服し
 た。
.
1533年、スペインのピサロが、むごたらしい南米のインカ
 帝国征服を行なった。
.
1565年、スペインが、フィリピンを占領した。
.
1580年、スペインが、ポルトガルを併合した。
.
1595年、スペインが、奴隷貿易に関し、スペイン王室によ
 る独占的請負制だと主張し、この制度を導入した。
  従来の許可制から、よりおいしい利益を得たいと、こ
 の非人道的行為に関与した。
  この美味しい権利には、ヨーロッパのキリスト教国が
 群(むら)がり、取り合った。
  1640年は、ポルトガルからオランダへ奪われ。
  さらに、1701年には、フランスへ奪われ。
  1755年には、イギリスが奪った。
  儲けの多いこの非人道的行為に、ハゲタカの様にキリ
 スト教諸国は群がり、美味しい汁を吸った。
  皮肉な事に、アメリカへの最初の奴隷船は、「希望号
 (デザイヤー)」という船名が命名された。
  まったく、罪悪感のない輩たちだった・・軽蔑さるべ
 き輩たち。
.
1618年11月、巨大な彗星が現れる。
  あられもない事を言って世を惑(まど)わすキリスト
 教・・、
  「総(す)べてが破壊されて後に、平和は訪れる」と
 いう「キリスト教のシャローム(平和)」の教え・教義。
  この最悪の教え・教義によってアメリカ大陸のインカ
 帝国などのインディオの方々は大殺戮され、全滅させら
 れた。
  また、広島・長崎に原子爆弾が、キリスト教に酷く洗
 脳させられているアメリカ大統領によって投下された。
  1618年11月、この年、巨大な彗星が現れた。
  あまりに巨大なこの彗星は、天を焦がす如くに人々に
 は見え、人々は慄(おのの)いた。
  キリスト教に洗脳された天文学者兼占星術師パウル・
 ナーゲルは、まったく科学的な裏付けのない、口から出
 まかせの事を言った・・、
  「サートウルヌス(土星)とユピテル(火星)の影響
 だ・・云々・・」・・と・・、
  この男は、1577年の時にも、キリスト教聖書のヨブ記
 にある、巨獣ビヒモスと海獣リヴァイアサンに関連して、
 適当な事を言っていた、
  「混乱、悪の権化となって、キリスト教の創造の神に
 反抗する」・・と・・、
  「だから、キリスト教の神の恐ろしい刑罰がヨーロッ
 パに迫っている」、「目の前に迫っている」・・と・・、
  このナーゲルは、1621年に死ぬ、しかし、一旦は葬(
 ほうむ)られたが、
  その後、その適当さと不穏な言い方(預言)が断罪さ
 れ、墓は掘り返され、野に晒(さら)された。
.
1661年、アメリカのバージニア州の議会が、黒人の方々を
 『終身奴隷』とした。
  「役畜、家財道具、皿、書物などと同等に見なされる
 ことが、法律によって定められる」という卑劣なアメリ
 カだった。
  デュボイスは、「はりつけ、火あぶり、断食などは奴
 隷を罰する法律的やり方である」と、アメリカ卑劣さを、
 皮肉って言った。
  黒人の方々の一挙手一投足までも規制する法律=黒人
 奴隷取締規則(スレイブ・コード)が制定された。
  そして、1661年、バージニア州の議会が、黒人の方々
 を『終身奴隷』とした。
  この後、マサチューセッツ州(1641年)、
  コネチカット州(1650年)、
  ロードアイランド州(1652年)、
  メリーランド州(1663年)、
  ニュージャージー州(1664年)、
  ニューヨーク州(1664年)などなど・・
  アメリカ諸州が、白人だけに都合の良い、そして、非
 人道的な黒人奴隷制度が法律で決められて行った。
  卑劣で、遅れているアメリカだった。
  これと軌を一にして、益々、黒人奴隷数を増加させる
 というアメリカという低劣国だった。
  アメリカの独立当時の1776年頃には、総人口が約250万
 人の内、黒人奴隷が50万人も居た。
  また、その後の1790年には(最初の国勢調査)には、
 総人口392万9000人のうち、69万8000人が黒人奴隷(自由
 黒人を含めた黒人数は75万7000人)であった。
  黒人の方々の『血と汗と涙で出来たアメリカ合衆国』
 だった。
  黒人の方々へ感謝すべきである。
  そして、この国民の感謝日を創るべきである。
.
1672年、イギリスが、大々的に奴隷貿易の乗り出した。
  ヨーク公はじめ王侯貴族、大商人、大プランター(経
 営者)などが、こぞって奴隷貿易に関与した。
  その卑劣な巨大な儲(もう)けを受けるため、巨大な
 奴隷貿易独占会社である『王立アフリカ会社』を作った。
  日本との貿易なんて関わっていられなかった。
.
1754年、7年戦争が起きた。
  1754年~1763年まで戦われたイギリスとフランスの植
 民地も関係した戦争で・・、
  発端に、1740年~1748年の戦争・オーストリア継承戦
 争がある。
  このオーストリア継承戦争は、神聖ローマ帝国の皇帝
 位とオーストリア大公国の承継問題が係争点だった。
  何でも武力に訴えるキリスト教諸国の戦争ばかりの状
 況だった。
  この愚かさに引きずられて来たこの7年戦争は、イギリ
 スとプロイセンを主役とし、それに対して、その他の諸
 国(フランス、オーストリア、ロシア、スペイン、スウ
 ェーデン)が争った。
  この当時のキリスト教諸国のすべてが争った。
  悲しいかな植民地とされたインドにまで波及した(イ
 ギリスがベンガル地方を奪おうとした)。
  結果は、イギリスが勝って(フランスが凋落し)、イ
 ギリスは、時代の寵児となって行く・・、
  そして、イギリスは、インド・中国など世界各地で卑
 劣な極みの事をしでかして行く・・、
.
1755年、フレンチ・インディアン戦争(フレンチ・アンド・
 インディアン戦争)が起きた。
  1755年~1763年まで、北アメリカで行われた戦争で、
 世界的な戦争となった。
  (7年戦争ともいうが、ヨーロッパでは、この戦争に関
 し、決まった呼び名はない・・汚辱のこの戦争を歴史か
 ら消したいとしている・・卑劣な君たちがしでかしたこ
 とだ・・甘受せよ!)
  イギリスとフランスの戦争であるが、先住民のインデ
 ィアンの方々にとって、今まで自分たちの国土が奪われ
 て来た痛みが痛切で、自分の国土を奪還したいと、悲し
 いかなインディアンの方々は、フランスと同盟を結んで
 戦わざるを得ない状況だった。
  まったく自分には罪がないインディアンの方々が、や
 むを得ないこの様なこの戦いによっても、民族としての
 消耗が行われた。
  (しかし、何といっても最大のインディアンの方々の
 民族の消耗は、アメリカによる虐殺である)
  しかし、狡猾なイギリスは、インディアンの方々と同
 盟を結んでいた。
  (悲しいかなインディアンの方々の各部族の連携は取
 られていなかった・・ただただ、自分たちの国土を取り
 戻したいという感情だけだった、その感情に付け入った)
  狡猾なイギリスは、故に、表題の様に、フレンチ・イ
 ンディアン戦争と呼び、呼ばせ、そして、世界にプロパ
 ガンダ(嘘宣伝)する・・根本は、イギリスとフランス
 のアメリカ領土の奪い合いの戦争である・・ヨーロッパ
 での戦争・衝突の延長でもある。
  この戦争に、アメリカ合衆国の初代大統領となったジ
 ョージ・ワシントンがイギリス側に加わっている。
  また、卑劣な事に、この戦争に於いてイギリスが、フ
 ランス側についているスペインからフロリダを割譲され
 たり、
  スペインは、その見返りとして、イギリスからキュー
 バのハバナを貰ったり・・、
  フランスが、同盟国のスペインに、ミシシッピー川以
 西のルイジアナを割譲したり・・アメリカの領土をやり
 とりした・・インディアンの方々は、ただただ、血が流
 れただけだった。
  結果、イギリスが、北アメリカの東半分を植民地とし
 て勢力支配地とした。
.
1757年、イギリスが、インドを奪った。
.
1763年10月7日、1763年宣言(1763ねんせんげん)
  イギリスが植民地に押し付けた宣言で、
  イギリスの国王ジョージ3世が、宣言を発した。
  アメリカのフランス領を、7年戦争に勝ったので、この
 得た広大は土地への入植や、土地の購入や、取引(毛皮)
 などの規則を定めた。
  インディアンの方々は、土地を奪われた(イギリスは、
 購入したと主張)・・それ故に、このアメリカの土地は、
 イギリスが、独占的に取引する権利を有すると宣言した。
  既に、土地を持っている入植者をはじめ、インディア
 ンの先住の方々の権利は無視された・・先に入植してい
 た入植者たちも憤った。
.
1763年、ポンティアック戦争 (1763年~1766年)
  この戦争は、以前から、フランスが、領有権を主張し
 ていた土地を、イギリスが奪い、そして、占有すること
 を阻止するために・・
  このインディアンの方々に対して現れた新たな土地を
 奪うイギリスという国に対し、
  先住民族である本当の土地所有者のインディアンの方々
 が起こした戦争だった・・が・・、
  悲しいかな不成功に終わった。
  「1763年宣言」は、ポンティアック戦争以前に宣言さ
 れていたが、紛争の勃発により、その実行が急務となっ
 た。
  イギリス政府の役人は、アメリカ・インディアンの方々
 に、イギリスの規則を認めさせようとし、また、それ以
 上の敵対的行動を抑えようとした。
.
1764年4月5日、「砂糖法」で金を巻き上げるイギリス。
  イギリスが、植民地に押し付けた規則「砂糖法」で、
 この規則などの植民地規制は、、植民地に大きな不満を
 引き起こした。
  砂糖法は、この日、イギリス首相のジョージ・グレン
 ヴィルの主導によって、イギリス議会で制定された。
  この規則は、関税に関する法律で、「アメリカ歳入法」
 「アメリカ関税法」とも言われた。
  序文に・・、
  「この王国(イギリス)の歳入を改善するには、新し
 い規定と規制を確立すべきである・・また・・歳入を高
 めるべく努めることは正当であり、不可欠である・・上
 述のものを防衛し、保護し、安全を確保する費用を負担
 するために」・・と、自分に都合良く述べられている。
  砂糖法の制定以前に、糖蜜法(1733年成立)があって、
  これは、イギリス領ではない植民地から輸入される糖
 蜜に、1ガロン当たり6ペンスを課すことによって、イギ
 リス領西インド諸島産の糖蜜のものだった。
  砂糖法は、関税率を1ガロン当たり3ペンスに減額する
 ことで、徴税の強制力を強めたものだった。
  また、課税対象が、ワイン、コーヒー、衣類などに広
 げられた。
  賄賂や袖の下が通用し・・密貿易者はその手を多用し
 た。
  それ故に、それを取り締まり役員・職員には、甘いも
 のとなった。
  イギリスは、フレンチ・インディアン戦争で負った莫
 大な負債を返済するため、資金集めという意図が強かっ
 た。
.
1765年3月22日、印紙税法(または印紙法)
  イギリスの植民地の方々を虐(しいた)げるこの「印
 紙税法」の制定に至り、その不満は、憤激に代わった。
  しかし、イギリスは、さらに、1767年に「タウンゼン
 ト法」を制定した。
  イギリスは、植民地政策を、一層、強化した。
  そして、1770年3月5日に『ボストンの虐殺』が起きて
 行く・・、
  この印紙税法は、この日、イギリス本国で、議会が制
 定した。
  新聞や公文書、そして、証書や手形など、植民地のあ
 らゆる印刷物に、所定額の収入印紙を貼ることを命じた。
  そこからの収入を、駐屯軍費用と密貿易取締り費用に
 あてようとした。
  年間・6万ポンドの税収を見込み、イギリス本国の財政
 窮迫にも対処しようとした。
  これは アメリカの13の植民地全体の商人、農民、漁民、
 弁護士、出版業者など・・あらゆる階層に、そして、職
 業に影響が及ぶものであった。
  しかし、横暴にもイギリスは、そうであるにもかかわ
 らず、植民地議会の同意を得ていなかった。
  これは、イギリス憲法によって保障されている植民地
 の権利を無視するものだった。
  「代表なくして課税なし」というスローガンに集約さ
 れる広範な反対運動を引き起した。
  反対運動は、植民地議会や、各地の反対決議、9植民地
 代表による印紙税法会議開催、街頭デモ、印紙指定販売
 人襲撃、イギリス製品の不買などの形をとり、イギリス
 本国でも反対運動が起り、翌年の1766年3月に撤回された。
.
1775年4月19日、レキシントン=コンコードの武力衝突。
  このアメリカとイギリスの武力衝突を経て独立戦争が
 始まる契機となった。
  マサチューセッツのレキシントン(ボストンの近く)
 にて、反乱者を逮捕しようと向かったイギリス軍と植民
 地軍(アメリカ)が交戦。
  ここから独立戦争が始まる。
  数で負けるイギリス軍はボストンへ逃げ込み、反乱軍(
 アメリカ軍)は街を包囲。
  その知らせを聞いた民兵たち(アメリカ軍)が、各地
 からぞくぞくと集まって来た。
.
1789年、アメリカ合衆国憲法ができた。
  しかし、卑劣な事に、その第4条第三節第二項において、
 アメリカ合衆国の広大な土地を「合衆国に直属する領土」
 として、
  先住民のインディアンの方々の権利を、ことごとく奪
 った。
.
1947年7月19日、エクソダス号事件
  イギリスは、ユダヤの方々を虐(しいた)げた。
  イギリスは、ユダヤ人難民4530人のパレスチナ上陸を
 拒否した。
  この方々は、ナチスの強制収容所で、幸い殺されず、
 生き残った方々だった。
  この時のイギリスのやり方は強引で、イギリス兵は銃
 撃した。
  武器のない難民の方々は、空き缶や野菜を投げて抵抗
 した。
  3時間の虐げの攻撃を受けた。
  また、エクソダス号は、体当たり攻撃も受けていたの
 で船は浸水していて、降伏した難民の方々は、別の船に
 乗り移らされた。
  イギリスは、ハンブルグ(ドイツ北部の都市)へ連れ
 て行き、強制的に下船させ、そして、リューベックの収
 容所へ入れた。
  ナチスの手をやっと逃れた方々を、再び、ドイツの収
 容所へ入れた。
  国際的な批判も受け、イギリスは、今後、難民の方々
 をヨーロッパへは戻さないと言った(ユダヤの方々に対
 し虐げのヨーロッパ世論でもあった)
  因みに、ハンブルグには歴史博物館があるが、その記
 述には・・
  「1933年にヒットラーが政権をとり・・、
  1938年11月9日~10日にかけて、ユダヤ人の方々への組
 織的迫害を始め・・、
  1941年秋には、ハンブルクのほぼ全員のユダヤ人の方々
 が、ミンスクやリガへ輸送されて行った。
  1933年のヒットラーが政権を取る以前は、17000人もの
 ユダヤの方々が居られたのに、
  1945年5月には、たった数百人のユダヤの方々しか居な
 かった」・・と・・、
  そして、この事件をモデルとした映画・栄光への脱出。
  Exodusは「大挙した脱出」という意味で、キリスト教
 の史実に実存しない「架空のデッチアゲ話の出エジプト
 記」になぞらえている(1960年、映画化)
.
1991年1月17日、湾岸戦争が始まる(気化爆弾が使われた)
  この戦争は、第41代アメリカ大統領ジョージ・H・W・
 ブッシュ(父)の主導で、イラクの空爆を行なうことで
 始まった。
  この時、気化爆弾が使われた。
  この爆弾は、爆発による破片による殺傷ではなく、急
 激な気圧の変化による内臓破裂などを起こさせる爆弾で、
 非常な威力があった。
  それは、人体が、1kgf/cm2 程度の爆風(=風)でも、
 急性無気肺や肺充血を起こすからで、
  また、さらに、一酸化炭素を大量に含んだ酸素バラン
 スが悪いガスが襲い掛かってくるため、酸欠と一酸化炭
 素中毒と呼吸困難を同時に起こすことになり、窒息死を
 したようになった。
  だから、建物に避難している人たちをも、無差別に殺
 された。
  (戦闘員だけを対象にした爆弾ではない・・その最初
 から無差別殺戮を目的としている非人道的兵器)。
  また、燃え残ったこの爆弾の燃料が、大地に広がった
 だけでも危険という代物(しろもの)。
  アメリカは、この兵器を開発して、保有しているが、
 積極的に使用したがっている。
  この湾岸戦争のとき、広範囲の砂漠に分散して砂中に
 隠されたイラク軍戦車部隊や、随伴歩兵らの兵力を削ぐ
 べく、この兵器が使用され、
  多数のイラク兵が、この兵器の作動時に発生する巨大
 な火球によって、塹壕(ざんごう)や戦車の中で蒸し焼
 きになって焼き殺された。
  また、衝撃波で(目立った外傷も無く)圧死させられ
 た。
  この爆弾は、BLEVE現象による殺戮となる・・
  (参考)BLEVE(ブリーブ、ブレビー)は、液体
     の急激な相変化による爆発現象。
      日本語では、「沸騰液膨張蒸気爆発」や「沸
     騰液体蒸気拡散爆発」などと訳す。
  この爆弾の研究は、第二次世界大戦中にドイツで始ま
 った。
  これは、爆発性の高い燃料を、ポンプで散布するので
 はなく、燃料自身の急激な相変化によって行われる。
  そのため、秒速2㎞もの超急速度で拡散する。
  このため、数百kgの燃料であっても、放出に要する時
 間は100ミリ秒に満たない。
  だから、爆弾が、時速数百kmで自由落下しながらでも、
 瞬間的に広範囲に燃料を散布できる。
  燃料の散布が完了し、燃料の蒸気雲が形成され、着火
 され、自由空間蒸気雲爆発が起きる。
  大きな破壊力を発揮する。
  爆鳴気の爆発で、空間爆発の強大な衝撃波を発生させ、
 12気圧に達する圧力と、2,500℃~3,000℃の高温が発生
 し、人体に多大な影響を与える。
  音速飛行の戦闘機や航空機でも投下でき、湾岸戦争の
 時、アメリカはヘリコプターで投下した。
.
2017年、偉大な日本人の発明がまた・・、
  ほとんどの物は、酸化(燃焼)するときに、熱を発す
 る。
  今・現在、炭素を酸化させて(燃やして)人類は、熱
 (エネルギー)を得ている。
  この事によって、人類は、文明が維持され、生活が維
 持され、保たれている。
  しかし、この炭素の燃焼は、炭酸ガスの発生による地
 球温暖化の問題を発生する。
  アルプスの氷河が無くなり、また、ハワイのワイキキ
 の浜辺が、海水面の上昇で無くなって来ている。
  この様な現状を打開する発明が、輝かしくも日本人の
 手によってなされ、このシステムが成立しつつ、ほぼあ
 る。
  偉大な日本人の偉業が、また一つ増えるという状況で、
 ノーベル賞の有力候補となっている。
  炭素の燃焼に、人類が頼(たよ)っているのは、その
 保存性と燃焼性であるが・・、
  その炭素に代わって、アンモニアを燃焼させようと、
 そのアンモニアの燃焼の欠点が、日本人の発明・研究に
 よって克服されつつある。
  実証実験の段階となっている。
  アンモニア燃焼の良さは、燃焼後の発生ガスが、水素
 と窒素であるため、地球温暖化の問題も発生しない。
  日本人研究者が、その燃焼性と保存性の解決策を発明
 した。
  有望な触媒による発明がなされて、解決し、また、一
 連のシステム成立の可能性が、現在、大いに高まってい
 る。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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(増補版)538E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年5月~1891年6月)

2017-07-05 03:20:45 | 日記
題:(増補版)538E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年5月~1891年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年5月27日、大審院長の児島惟謙が、政府の大逆罪適用
 の要求に反対し、津田に無期判決を下す(大津事件)
  大津事件に関する大審院が、大津地方裁判所で開廷さ
 れ、津田三蔵に対する死刑求刑に対し、謀殺未遂罪で無
 期徒刑の判決を下した。
1891年5月30日、ロシアが、シベリア鉄道を着工した(5月
 31日説あり)
  ロシアが、シベリア鉄道をウラジオストクで起工した。
  航空機が登場する前は、日本とヨーロッパを結ぶ欧亜
 連絡運輸において最速の交通路でもあった。
  後に、第二シベリア鉄道と呼ばれるバイカル・アムー
 ル鉄道(バム鉄道)が建設された。
  バム鉄道の西の始点は、シベリア鉄道との分岐点イル
 クーツク州タイシェトであり、
  東は、日本海に面したワニノを通りソヴィエツカヤ・
 ガヴァニの港へ至る。
  シベリア鉄道はバイカル湖の南を通るが、バム鉄道は
 北を通る。
  1850年代、シベリア鉄道の計画は、請願は多数に登っ
 たものの、いずれも実行に移されることはなかった。
  (イギリス人案、アメリカ人案などの外国人案もあっ
 た)
  1864年のヴャトカ飢饉を契機に、飢饉救済のため中国
 国境までの鉄道敷設に関心が払われるようになった。
  ロシア西部の鉄道が随時拡張されて来ると(1877年の
 オレンブルグ鉄道や、1878年のウラル鉄道の完成など)、
  ロシアの運河の完成とともに、鉄道により水路を連結
 し、鉄道と水路を併用する計画が生まれた。
  そして、水路と鉄道を繋げることによって廉価に交通
 が開発され、その輸送力でもって全通鉄道の工事の着手
 ができると見込まれた。
  そして、水路併設鉄道案が隆盛を見た。
  全長は約25715km、内、水路は16015km、鉄道は9700km
 程度となった。
  費用は鉄道に関するもので1625万ルーブル、水路は735
 万ルーブルの合計約2360万ルーブルと試算された。
  ただ、水路の氷結のため、1年の内、わずか4か月しか
 充分に使用できないという暗い見通しがあることも分か
 っていた。
  紆余曲折があって後、水陸併用線の欠点を踏まえ、こ
 れが否定され、シベリア貫通大鉄道の敷設が決定された。
  1891年3月29日、ツァーリー(君主の称号)のアレクサ
 ンドル3世は、勅諭をアジア各地へ訪問中の皇太子ニコラ
 イに与えた。
  その勅諭は・・「私は、今日、シベリア全土を貫通す
 る鉄道布設の詔勅を発し、天産富饒のこの地を、ロシア
 の線路に連絡させる。
  よって汝に命ず、東洋諸国の漫遊を終えた後に、シベ
 リアに至ったならば、私のこの意を諸有司に告げて、兼
 ねてシベリア大線路ウスリー線の第一軌鉄をウラジオス
 トクに布設するところに臨行せよ。
  この線路は、国庫の財をもって布設し、その監督もま
 た官の任じるものであり、まさに国家事業である。
  汝がこの事業に参与するのは、私がシベリアと他の領
 内との交通を便にし、シベリアの平和的発達を図る希望
 切なるを世に知らしめるためである」
  以上の勅諭を、皇太子は、1891年5月12日、ウラジオス
 トクにおいて宣揚し、シベリア鉄道定礎式の盛典を行っ
 た。
  建設は、露仏同盟を結んでいたフランス資本から資金
 援助を受けながら難工事を進めて行った。
1891年5月、東京浅草の12階建ての塔「凌雲閣」のエレベー
 ターの故障が、開業当日より頻発していたため、使用中
 止となった。
  1923年(大正12年)9月1日の関東大震災によって建物
 の8階部分より上が崩壊した。
  この地震発生時には、頂上展望台付近に、12人~13人
 の見物者が居た。
  福助足袋の看板に引っかかって助かった1人を除いて、
 全員が崩壊に巻き込まれ即死した。
  1823年9月23日、経営難から、復旧困難となったため、
 陸軍赤羽工兵隊の手で、爆破解体され、その幕を閉じた。
1891年5月、大阪鉄道会社が、学校生徒の団体運賃割引制度
 を設け、人員および距離に応じて1割~5割までの運賃割
 引を実施した。
1891年6月7日、洋学者・教育家・文学者・啓蒙学者・法学
 者の中村正直(なかむらまさなお)が逝去した、60歳。
  1832年に東京に生れて、昌平黌(昌平坂学問所)に学
 び、後に、教授となる(儒学を佐藤一斎、蘭学を桂川甫
 周(国興)に学んだ)
  1862年(文久2年、30歳)幕府儒官となる。
  渡英し、帰国後、明六社の設立に参加し、啓蒙思想の
 普及につとめた。
  また、1871年(39歳)スマイルスの『セルフーヘルプ』
 を翻訳した『西国立志編』を出版した。
  1872年(31歳)ジョン・スチュアート・ミルの「自由
 之理」を翻訳し、新思想を紹介した
  私塾同人社を設け、「三田聖人」福沢諭吉と並び、「
 江戸川の聖人」と言われた。
  自由民権思想の紹介者。
  (参考)ジョン・スチュアート・ミル(1806年~1873
     年)は、イギリスの哲学者で、政治哲学者、経
     済思想家でもあり、
      政治哲学においては自由主義・リバタリアニ
     ズムのみならず、社会民主主義の思潮にも多大
     な影響を与える。
      晩年は、自ら社会主義者を名乗り、倫理学に
     おいて、ベンサムの唱えた功利主義の擁護者と
     して知られる他、
      論理学分野において、バートランド・ラッセ
     ルら後続の分析哲学にも強い影響を与え、初期
     科学哲学の重要な哲学者として存在する。
1891年6月17日、小学校祝日大祭日儀式規程を定めた。
  小学校祝日大祭日儀式規程の制定(御真影拝礼・教育
 勅語奉読などを規定)
1891年6月22日、鉄道庁が、勅令第27号に基づき、宿泊また
 は徹夜勤務者に食料支給を定めた(4月1日から適用し、
 従来の弁当料支給を廃止)
1891年6月23日、「言海」(大槻文彦)完成祝賀会(紅葉館)
  大槻文彦編の「言海」出版祝賀会が開かれ、政府関係
 者らが出席した。
  招待されていた福沢諭吉は欠席した(祝詞の順番が伊
 藤博文の後だったためと言われている)
1891年6月23日、『国民之友』に、メーデーの紹介記事が載
 った。
1891年6月、春日局が、東京歌舞伎座で初演された。
  歌舞伎座にて、演劇改良論者の福地桜痴居士作の「春
 日局」が初演され、9世市川団十郎が演じた活歴物の代表
 作で、団十郎の春日局が、好評を博した。
1891年6月、川上音二郎、藤沢浅二郎の書生芝居が、中村座
 に乗込み、意外の大入りとなる。
  東京における書生芝居の始めで、その後、各種の書生
 芝居、続々起こった。
  川上音二郎(かわかみおとじろう)は、この年・1891
 年、堺で川上書生芝居を旗揚げし、地方巡演ののち『板
 垣君遭難実記』で東京公演に成功した。
  またこの年・1891年、貞奴 (→川上貞奴 ) と結婚した。
  因みに、川上貞奴(かわかみさだやっこ)は、1871年
 7月15日(18日説あり)に東京で生まれ、女優。本名は
 小熊貞。
  15歳で芸者となり、東京葭(よし)町の美貌の芸者とし
 て知られ、伊藤博文や奈良原繁、福沢桃介らと知り合う。
  1891年、川上音二郎と結婚し、以後、川上のよき協力
 者となる。
  1898年、夫とともに渡米、サンフランシスコで、はじ
 めて舞台にたつ。
  欧米を『武士と芸者』などを売物に巡業し、「マダム
 貞奴」の名を高め、人気を得て知られた。
  「芸者と武士」などの演技に魅せられたひとりにジッ
 ドがあり、また、ピカソは素描を残した。
   1901年~1902年、再度渡米。
  帰国後、1903年から明治座をはじめ、日本の舞台でも
 活躍・・正劇の女優として活躍、人気女優となった。
  『オセロ』などに出演。
  1908年、帝国女優養成所 (のち帝劇附属技芸学校) を
 開設し、後進の育成に尽くした。
  1911年、音二郎と死別した後は、 次第に、劇界から孤
 立した。
  それとともに凋落して、1918年に引退した。
  (1917年の「アイーダ」が最後)
  1917年~1918年、明治座で引退興行をしたのち、一時、
 川上児童音楽劇団を主宰した。
  意外なことに、本人は役者が嫌いで、晩年は演劇界と
 関係しなかった。
.
(今日の言葉)
.
  題:南樺太と千島列島は、国連が預かっている状態。
    ロシアのものともは決定されていない。
.
1939年6月、ナチスに追われたユダヤ人の波が押し寄せ始め
 た時、
  アメリカは、1939年6月の「スミス法」で外国人受け入
 れ取締りを強化した。
  そしてまた、卑劣な事に、続いて、1941年11月には「
 ラッセル法」を制定してビザ発行を制限した。
  1939年5月には、すでに、アメリカは、ユダヤ難民を乗
 せ、ドイツからキューバに到着したものの、アメリカを
 目前にヨーロッパに送り返した。
  この『セント・ルイス号』の難民の悲劇ほど、ユダヤ
 難民の方々に対するアメリカの冷淡さを象徴する事件は
 なかった。
  また、1942年以降、ユダヤ人虐殺の悲報がホワイトハ
 ウスに届けられたにもかかわらず、ルーズベルト大統領
 は、何ら積極的な行動に出ようとはしなかった。
  さかのぼる事1938年8月15日、最初のユダヤ人難民が、
 オーストリアからイタリアの船で上海にたどり着いた。
  1939年の6月には、8,200人ものユダヤ人難民が到着し
 ていた。
  日本は、上海でも、ユダヤ人の方々を「亡国の民」と
 して保護した。
  上海には、日本の管理する租界があった。
.
1941年6月22日、ドイツの「ソ連侵攻」
  ドイツが、突然、ソ連に侵入し、戦争状態となった。
  アメリカ大統領のフーバーが書いた「フーバー大統領
 回顧録」という本があるが・・、
  この本でも、「日本の戦争は自衛戦争だった」と、フ
 ーバー大統領も認めていて・・、
  この本で、フーバーは言う・・、
  「ソ連共産主義を助けたこと」が、アメリカの最大の
 大きな過ちだった・・と・・、
  「アメリカの歴史の全史を通じてもっとも政治の大道
 が失われたのが、ヒトラーが、ソ連を、1941年に攻撃し
 たとき、アメリカが、共産・ソ連を支援し・・、
  アメリカとソビエト連邦が、『非公然の同盟関係にな
 ったこと』だった」・・と言った。
  その結果、「第二次大戦の唯一の勝者が、ソ連とスタ
 ーリン」になってしまった・・と・・
.
1945年5月7日、ドイツ降伏
  ドイツ国防軍最高司令部作戦部長、アルフレート・ヨ
 ードルがフランスのランスで降伏文書に調印した。
  第二次世界大戦の死亡者
  第二次世界大戦のヨーロッパ戦線では、ナチス・ドイ
 ツとソ連の激しい死闘があった。
  その死亡者は・・、
  ソ連   …2,000万人
  ドイツ  …  970万人
  ポーランド…  603万人
  フランス …   52万人
  イタリア …   40万人
  アメリカ …   33万人
  イギリス …   32万人
   ・   ・   ・   
  その他の虐殺・・、
  但し・・、ポーランドやウクライナやバルト三国や少
 数民族における虐殺は・・不明。
  キリスト教の考え方に影響されて、ナチス・ドイツの
 ホロコーストで、ユダヤ人の方々に対する虐殺が、600
 万人に達した。
  この様にキリスト教世界に於ける虐殺は、目を覆いた
 くなるほど悲惨だった。
.
1951年9月8日、サンフランシスコ平和条約が締結された。
  日本は、この条約締結国に対して、この条約の第2条
 (C)で、すべての権利、権原、及び、請求権を放棄し
 た。
  それ故、サンフランシスコ平和条約の上では、南樺太、
 及び、千島列島の最終的な帰属は、将来の国際的解決手
 段に委ねられることとなっている。
  だから、それまでは、南樺太、及び、千島列島の『最
 終的な帰属は未定である』ということ・・、
  以上が、日本の外務省の見解でもある。
  だから、南樺太と千島列島は、国連に預けてあるとい
 う状態で・・、
  ましてや、この条約の未締結国のソ連の領土という事
 には到底ならない。
  日本政府には、この事を、十分、検討し、交渉しても
 らいたい。
  北方四島は、当然の、日本の領土だけれど・・、
  中立条約を破棄して、南樺太、千島列島、北方四島に
 対して、日本が負けると決まっていた時に、ソ連は、そ
 の領土を取りに来た。
  アメリカにそそのかされて・・卑劣である・・
  これは・・強盗行為となる・・、
  ソ連へ、戦争の終結を依頼している日本に対して、ソ
 連は、中立条約を破棄する理由は皆無であるのに・・、
  また、日本と戦争をする理由は皆無であるのに対して・・
  領土が欲しいだけの理由で、ソ連は、中立条約を破棄
 して・・奪い取った。
  例えの話になるが・・、
  イラクとアメリカが戦争している時に、まったくの第
 三国が、急に、バクダットへ侵攻して、奪ってしまうよ
 うなものなのだ。
  アメリカは、ソ連に、その様なことをしろと・・日本
 に対して、その様な行為をそそのかしてまでしてやらせ
 た。
  そして、正当だとした。
  また、誰かが・・隣家に強盗が入っている時に・・、
  その様な隣家に、第三者が入って行って、金品を奪う
 行為をする様なもの。
  この様な行為が、正当である訳はない。
  成立などしない。
  正当である訳がない。
  逆に、この行為は、犯罪行為である。
  アメリカが、おかしな事を、ソ連にそそのかして、や
 らせただけで、まったく、成立しない・・正当ではない
 行為なのだ。
  だから故に、今・現在、ロシアにこの事を説明して、
 南樺太、千島列島、北方領土を、白紙から打ち合わせを
 するべきなのだ。
  成立しない、不正な行為なのだから、返すのが当然な
 のですと・・、
.
1961年10月30日、驚異の水爆(ツァーリ・ボンバ)の実験
 が、ロシアで行われた(広島の原爆の3300倍)
  第二次世界大戦で使われた「すべての爆薬量の10倍」。
  ツァーリ・ボンバ(「ツァーリの爆弾」の意)は、ソ
 連が開発した人類史上最大の水素爆弾の通称。
  正式名称はAN602。
  開発時のコードネームはイワン(Иван)。
  「ツァーリ・ボンバ」の名称は、西側諸国がクレムリ
 ンに展示されている世界最大の鐘ツァーリ・コロコル、
 世界最大の大砲ツァーリ・プーシュカになぞらえて付け
 たもの・・(現在はロシアでも広く用いられている)
  単一兵器としての威力は、人類史上最大。
  1961年10月30日に、ノヴァヤゼムリャで、唯一の大気
 圏内核実験が行なわれて、消費された。
  (以後製造されていない)
  TNT換算で99,000キロトン(約100メガトン)、
  実際の出力は、50メガトンに制限されたが、それでも
 広島型原子爆弾「リトルボーイ」の3,300倍(リトルボー
 イは15キロトン)に達した。
  何と! これは、第二次世界大戦中に全世界で使われ
 た総爆薬量の10倍の威力を持つといわれる。
  この100メガトン級(実際は50メガトン)核爆弾の核爆
 発は、2,000キロメートル離れた場所からも確認され、
  その衝撃波は地球を3周した。
  因みに、ノヴァヤゼムリャは、北極海に浮かぶ列島で、
 冷戦時代には軍事的に重要な拠点だった。
  ソビエト空軍は、島の南部にロガチェボ空軍基地を置
 き、初期にはインターセプター機(基地や艦隊の上空の
 防御を担当する戦闘機)を配備した。
  その後、1955年より、核実験のための戦略的な支援施
 設となった。
  ソビエト連邦は、冷戦の最中の1954年6月に、ノヴァヤ
 ゼムリャを核実験場とすることを宣言した。
  そして、この年・1954年10月に、早々と実験場の建設
 に着手した。
  現在も、ロシア連邦の核実験場として使用されている。
  現在まで、臨界前核実験などの未公表実験を除き、約
 224回程度の核実験が行われている。
.
1964年4月18日、ニール・ファーガソンが生まれた。
  彼は、イギリス人で、ハーバード大学教授で・・、
  歴史学者でジャーナリスト、専門は経済史、金融史な
 のだが、重要な事を発表した。
  このイギリスの歴史家ニール・ファーガソンが支持し
 ており、1943年、「(アメリカによる)秘密諜報報告に
 よれば、アイスクリームと3日間の休暇だけが約束され
 ており・・・(中略)・・・アメリカ軍将兵に降伏した日
 本将兵を殺害しないよう説得すること」としていると述
 べている。
  ファーガソンは、これらが、1944年後半、日本軍将兵
 捕虜が1:100の割合で処刑されたと述べている。
  ファーガソンは、連合軍司令部が、戦死者と日本軍捕
 虜の比率を改善する処置をとり、1945年中頃までには、
 1:7に改善されたと付け加えている。
  それでも1945年6月4日、沖縄戦においてアメリカ軍が
 捕虜を連行しないことは一般的に黙認されていた。
  (捕虜にしないで殺してしまえば済むと言う)
  また、アメリカの歴史家、ジェームズ・J・ワインガル
 トナーによれば、アメリカ軍の捕虜となった極少数の日
 本軍将兵は2個の重要な要因を含んでおり、日本軍将兵
 が降伏することを渋ることとアメリカ軍将兵の大部分が
 「日本人は「動物」か「人間以下の存在」であり日本軍
 将兵が通常の処置に値しないことで一致していた。
  さらにファーガソンは、ドイツ人がロシア人を見た
 ときと同じように、連合軍将兵も日本人を見ていた。
 「劣等人種として」としており、理由を補強している。
  また、アメリカ合衆国、オーストラリア将兵の書いた
 日記についての研究論文を発表したリチャード・オール
 ドリッチによれば、連合軍将兵は時折、捕虜を処刑した。
  また、オールドリッチによれば、アメリカ軍が捕虜を
 連れて行かなかったことはよくあることだとしている。
  そして、シュトラウスによれば、「それが不必要に部
 隊を危険にさらすという理由から上官は捕虜を連行する
 ことに反対していた・・・(後略)」、それでも捕虜を連
 行する場合、しばしば、「彼ら(捕虜となるべき日本将
 兵)を連行するにはあまりにも面倒があったため」輸送
 途中で射殺された。
.
2009年1月20日、アメリカのオバマ大統領(任期:2009年
 1月20日~2017年1月20日)は、ある意味、正直な大統領
 だった。
  TPPは自由貿易協定だとされているが、オバマ大統
 領は、「そうではない」という意味を口を滑らせた。
  年頭教書演説で、つい言ってしまった・・、
  「TPPで、アジアに、アメリカのルール、アメリカ
 のビジネスのルールを適用させるのだ」・・と・・、
  アメリカのルールで、アメリカの一人勝ちのルールを
 TPPで実現させる・・と。
  アメリカのルールを適用し、アメリカのエスタブリッ
 シュメント(ウォールストリートなど)が、第一に狙っ
 ている日本の甘い汁を吸うシステムにする・・と・・、
  第一に狙っているのが日本の郵貯・・
  そして、保険。
  それを、我々のルールの下で我が物にしたいという・・、
  また、農協にも美味しいものがあると、
  「農協改革だ」と銘打って、その美名の下に、
  農家の方々が地道に努力して積み上げて来たお金、
  JAバンクの96兆円(2016年3月:現在)も戴きたいと
 している。
  色々と日本を批判し、JAも解体させたいとしている。
  ルールがある所は・・「それは規制だ」と批判した。
  どこにだってルールはあるだろう・・と言いたいが、
 それは規制だと言いつのった。
  必要なルールは無くしたら駄目なのだ。
  その様なルールはあるのだ・・、
  君の国だってルールがあるように・・、
  美味しい汁を吸う作戦に従って、日本のルールを攻め
 て来る。
  医療に於いても、金持ちしか進んだ先端医療が受けら
 れないという状態になっているアメリカの様に、
  また、アメリカの貧困層の方々は、医療サービスを、
 まったく受けられないという現状の様に・・、
  アメリカは医療面でも差別社会となっているように・・、
  政府が、その様な格差をなくすようにしなければなら
 ない羽目にはまっているアメリカのように・・
  「国民の幸福を実現させなければならない」という当
 たり前のことに対し、
  ・・それと相反する様な・・多国籍企業の利益を享受
 するための行動を、日本に向かってしたいとしている。
  また、日本以外の『他国の市場』でも、なんだかんだ
 と美名をかこつけて活動し、利益を享受しようとしてい
 る。
  我々が活動しやすいグローバル化が良いのだと・・、
  そして結果、弱者の方々が見捨てられ、格差が広がり・・
 その様な現状を知っていながら、更なる利益をという欲
 の世界に入って行く。
  アメリカン・ルールが正義なのだと、臆面もなく押し
 付けて来る。
  その様なTPPで、グローバル論理だった。
.
2012年12月28日、北朝鮮による拉致被害者の方々は、868人
 に上ることが公開された。
  この日に、「救う会徳島」が、『行政機関の保有する
 情報の公開に関する法律』に基づき行った「情報開示請
 求」により、警察庁が公開した情報によると、
  2012年11月1日時点で「拉致の可能性が否定されない特
 定失踪者」として、捜査・調査が行われている対象者数
 が全国で868人にのぼっている。
  まったく、酷い話だ。
  この様な行為を未然に防ぐ法律を充実せよ!
  民進党も、この問題を前向きにとらえて、徹底的に検
 討せよ。
  ある日、あなたのお子さんも、ある日、突然、拉致さ
 れることも起き得る、横田めぐみさんの様に・・、
.
2017年、グローバリズムが良いのだという「作られた美名」
 のもとに、民族の固有の良さが消されて行く・・、
  そして、その民族の依(よ)って立つところの国も否
 定するグローバリズム・・、
  ある話し・・
  彼女は、「引っ越しばかりでした」と、寂しそうに言
 った。
  過ぎ去って行った時の中に、自分を包み込んでくれる
 何かが無いことを感じた。
  物足りなさを感じた。
  そのことを・・その様に表現した彼女だった。
  個性が形成される幼児期から、そして、人間形成の大
 事な時期の小学生の時期の自分にも、
  風に吹かれて・・ふわふわと飛ばされる花の種子の様
 に、一定地域に留まることなく、
  定まった地のコミュニティの中で、文化を味わい、雰
 囲気の臭(にお)いを嗅(か)いで、人と触れ合う温か
 さを感じ、環境に触れ遊び、育(はぐく)まれた時が無
 かった事を、言外に憂(うれ)いていたのだった。
  連綿と続く文化、
  そして、その連続性から、より高い繊細な文化へと昇
 華して行く。
  その様な歴史ある文化に育まれていく『幸せ』。
  その様な事が、無かったという嘆きだった。
  その様なことを否定するのが『グローバリズム』。
  今、アメリカは、「人種のるつぼ」と言われるのを嫌
 う。
  グローバリズムを標榜するなら、人種は、必然的に「
 るつぼ的になる」でしょう。
  それを嫌うなら、グローバリズムを標榜する資格は、
 ありません。
  近年、日本が、世界に誇れる日本文化が、意図あって
 消されている、その様に活動する輩たちが居る・・
.
2017年、南樺太と千島列島は国連が預かっている状態。
  ロシアのものともは決定されていない。
  この様な事を頭に起きながら、日本とロシアは、関係
 を強化していく必要がある。
  現状以上の関係を構築して行くという事に関し、深い
 検討の下での行動としたい!
  この原点で、この領域について、日本とロシアの共同
 の経済協力策を案出して行きたい。
  必要なら、この案件に於いて、アメリカの参画も打診
 し、米ロの関係強化に一役買って行なうべきだ。
  この三国による長期の経済関係が構築できるプランを
 練って行きたい(中国対策ともなる)。
.
2017年、自分勝手なアメリカの論理。
  アメリカは、ミャンマーに、「宗教が固定化している
 ではないか」と言った。
  「軍隊にも、仏教徒以外の信者がいるはずだから、そ
 の信仰の自由を認めるべきだ」・・と。
  アメリカは、この様な論理で、ほかの国にも、この様
 な要求ばかりしている。
  しかし、しかし、この逆は、まったくと言って「なっ
 てない」。
  アメリカン海軍兵学校も、また、アメリカの陸軍士官
 学校も、この様には、なってないと訪れた人が言う。
  「冗談言うな」・・と。
  アメリカの学内敷設の中には、キリスト教の教会しか
 ないではないか・・と。
  アメリカの物言いは、すべてこの伝で、このやり口で・・
 自分だけに都合よく言う。
  教育面でも宗教の公平性や宗教の自由度が無い。
  アメリカの小中学校には、卒業式や入学式といった式
 典の時のみ日の丸を掲示する日本とは違って、
  教室の黒板の横に必ず星条旗が飾られている。
  アメリカでは、学校教育のことあるごとに各教室にお
 いて、子供たちが星条旗の前で胸に手を当てて、「私た
 ちは(キリスト教の)神の下にひとつになった自由と正
 義の国、合衆国に忠誠を誓います」という『忠誠の誓い』
 を暗唱させられる。
  また、表面上は政教分離が設けられているが、大統領
 が、大統領就任式やその他の行事でも、ことあるごとに
 “May God Bless America” (アメリカに神の祝福があり
 ますように)とか、「神を信じる」と言ってスピーチを終
 えることがよくある。
.
2017年、馬淵睦夫氏は、元ウクライナ兼モルドバ大使など
 をされた方ですが・・、
  馬淵氏が言われることは、日本はユダヤの方々を差別
 していないから、杉原千畝のような行為は、どこの大使
 もやっていましたよ・・と言われる。
  何故、杉原千畝だけが、美談だとデッチ上げられるの
 だろうか?
  この杉原千畝のデッチ上げは、以前からズーッと、キ
 リスト教組織によってなされて来ていた。
  そこに、日本を貶(おとし)める嘘を入れることまで
 していた。
  日本が、ユダヤの方々を差別していたという嘘を言う
 のである・・デッチ上げるのである。
  そのキリスト教の嘘の言い方は、「日本は、三国同盟
 でドイツと同盟を組んでいたので、ユダヤの方々を虐げ
 ていた」・・という言い方で嘘を言った。
  日本が、ドイツの様なユダヤの方々の虐げ行為をして
 いたと嘘を言った。
  これは、「最悪の嘘である」。
  日本をナチと一緒にした。
  日本は、ナチスに、逆に、ユダヤの方々に対して共同
 歩調を取れと言われたのを、「拒絶しているくらいだっ
 た」。
  キリスト教組織は、その『真逆の大嘘』をでっち上げ
 た。
  この様な言い方を、日本のテレビや新聞までが同調し
 た。
  読売新聞や、キリスト教に偏するNHKや・・、
  そして、この展示会・・キリスト教組織が、この嘘の
 ストーリーで展示会を行なっていたので、この点を指摘
 すると、「まったく答えられない」という状況、展示責
 任者もすべて承知の嘘展示であった。
  展示場を貸している、公的機関の責任者にも話すと、
 そのことを、十分、知っていて、「個人名で開催すれば
 よい?」と屁理屈判断をしてその公的機関の最高責任者
 が許可をしたと言う。
  まったく卑劣この上ないこの嘘のパターンで、「ウソ
 の杉原千畝の展示」が、今、日本各地で行われている。
.
2017年、日米のある識者の対話
  ある日本の識者が言う・・、
  「日本は、3核武装国に囲まれており、しかも、今後
 ますますバランス・オブ・パワー環境が悪化して行く日
 本は、自主核を持って自主防衛をせざるを得ない」
  それに答えて、あるアメリカの識者が言う・・、
  「その意見は分かる。
  きわめて常識的なバランス・オブ・パワー外交論だ。
  しかし、日本人のいったい何人が、君のような普通の
 バランス・オブ・パワーのパラダイム(思考パターン)
 を使って議論しているのだ?
  日本の政治家と官僚が、国際政治に関して常識的なパ
 ラダイムを理解し、そのパラダイムに依拠してバランス・
 オブ・パワー政策を実行するというなら、私だって日本
 の核武装に反対しない。
  ところが、実際に日本国内の外交議論を見ているとど
 うだ。
  日本の政治家たちは、歴史論争とか、加計学園とか、
 靖国論争とか、知的に何の生産性もない議論にうつつを
 抜かして時間を浪費しているではないか。
  中国の政治指導者と外交官の方が、日本人より頭がい
 い、中国人には、戦略的な思考力がある」。
.
2017年、アメリカは、政教分離を国是としている。
  この政教分離をしっかりしている国で、アメリカとい
 う国のために殉じた戦没者に対して、年に3回の「戦没者
 追悼式」が、国の主動で行っている。
  国の式典として行っている。
  アメリカは、アメリカの首都のワシントンDCに隣接
 するバージニア州の国立のアーリントン墓地において行
 なっている。
  追悼式は、円形のキリスト教会のチャペルの中で、キ
 リスト教牧師によって行う宗教色で行っている。
  日本も、アメリカの様に、靖国神社で、年に3回の「
 戦没者追悼式を行なうべきである」。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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(増補版)537E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年5月~1891年5月)

2017-06-28 17:10:49 | 日記
題:(増補版)537E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年5月~1891年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年5月15日、イギリスが、ニヤサランド(後のマラウイ)
 を保護国化した。
  卑劣な事にイギリスは、先住民族の方々が法的な事に
 無知な事をいいことに、好き勝手をやっていた。
  (それはそうだろう、自分の好き勝手な法律を作り、
 自分の好き勝手な制度によってやっていれば、君だって、
 その様になるのです)
  虐げられた先住民族の方々は、熾烈(しれつ、燃え立
 つように盛んな、そして、激しいさま)な独立の努力を
 して行った。
  イギリス保護領となって以降、法的手続きに関する無
 知から先住民族の方々は、不利な立場に追いやられてい
 た。
  ・・が、しかし、徐々に、ヨーロッパやアメリカで教
 育を受けたアフリカ人のエリート達が、主張し、政治的
 活動を行うようになって行った。
  そして、この後の24年後の1915年に、ジョン・チレン
 ブウェによる反乱がおきた。
1891年5月15日、鉄道庁列車乗務者宿泊料、及び、乗務日当
 支給規程制定(列車務乗[乗務]員の宿泊料および乗務日当
 は、一般の宿泊料や日当とは区別されて支給される)
1891年5月16日、新聞・雑誌、文書図書の外交記事に関し、
 内務大臣に検閲・禁止権ができた。
  これは、大津事件に影響されていた。
1891年5月20日、畠山勇子が、大津事件を憂い、日本の危機
 回避を祈願し、京都府庁の門前で自殺した。
  5月11日、来日中のロシアのニコライ皇太子が、暴漢に
 襲われて重傷を負う事件が発生したが(大津事件)・・、
  そして、日本中が騒然となったが・・、
  そうした中、ロシア皇太子が、本国からの命令で、急
 遽(きゅうきょ)、神戸港から帰国の途につくことにな
 った。
  それを知った勇子は、帰郷するからと奉公先の魚問屋
 を辞め、下谷の伯父の榎本六兵衛宅に押しかけた。
  榎本は貿易商で・・、島津・毛利・山内・前田・蜂須
 賀らの大名家が、幕府に隠密に銃を買い入れていた武器
 商人だった・・、
  維新後は、生糸の輸出で財を得ていた。
  勇子は、伯父ならば、自分の気持ちを理解してくれる
 だろうと考えた。
  「このまま帰られたのでは、わざわざ京都まで行かれ
 て、皇太子を見舞い、そして、謝罪した天皇陛下の面目
 が立たない」と口説いた。
  伯父は、一介の平民女性が、国家の大事を案じても、
 どうなるものでもあるまい・・と諫めたが、
  思い詰めた勇子は、汽車で京都へ向かった。
  京都に着いた勇子は、京都で、様々な寺を人力車で回
 った。
  そして、その後、5月20日の午後7時過ぎ、「露国御官
 吏様」「日本政府様」「政府御中様」と書かれた嘆願書
 を、京都府庁に投じた。
  そして、府庁前で、死後見苦しからぬようにと両足を
 手拭で括って、剃刀で咽喉と胸部を深く切って自殺を謀
 った。
  しかし、すぐには死ぬことができず、すぐに、病院に
 運ばれた。
  治療が施されたが、気管に達するほどの傷の深さゆえ、
 出血多量で絶命した・・享年は27歳だった。
  この頃の日本は、まだ極東の弱小国であり・・、
  この事件を口実に、大国ロシアに宣戦布告でもされた
 ら、国家滅亡さえ危ぶまれる・・彼女はそう判断した。
  伯父や母、弟にあてた遺書は、別に、郵便で投函され・・、
 総計10通を遺していた。
  その壮絶な死は、「烈女勇子」と、メディアが喧伝し
 た・・、
  世間に広まって、盛大な追悼式が行われた。
  そして、末慶寺(京都市下京区)に葬られた。
  彼女の墓には、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)や、
 ポルトガル領事・モラエスも訪れた。
  モラエスは、また、リスボンの雑誌『セロエーズ』に
 彼女を紹介した。
  彼女の死は、ニコライ皇太子に宛てた遺書や、新聞の
 報道などによって、国際社会へも報道され、知らされて、
 国際社会の同情を買った。
  ロシア側の寛容な態度(武力報復・賠償請求ともに無
 し)につながったとの評価がある。
1891年5月20日、トーマス・エジソンが、キネトスコープを
 公開した。
  キネトスコープは、映画を観る装置で・・、
  撮影機の方は、キネトグラフといい、キネトスコープ
 より先に、同じくエジソンが発明していた。
  スクリーンに映写されるのではなく、箱の中をのぞき
 込む形になっていた。
1891年5月21日、屋井先蔵(やい さきぞう)が、電気時計
 を発明した(1885年説あり)
  因みに、先蔵は、乾電池も発明している。
  先蔵は、1864年1月13日(文久3年12月5日)に、越後
 長岡藩の士屋井家(300石)(現在の新潟県長岡市)に
 生まれた。
  1870年(6歳)父が死去し、叔父に引き取られた。
  1875年(かぞえ13歳で)東京の時計店の丁稚となった
 が、病気のため帰郷した。
  修理工として年季奉公した後、東京高等工業学校(現:
 東京工業大学)入学を志望したが受験に2度失敗。
  年齢制限もあって進学を断念し、それからの3年間は、
 独力で永久自動機等の研究を続けた。
  1885年、23歳のときに、電池(湿電池)で動作する連
 続電気時計を発明した。
  連続電気時計に用いられていたのは、ダニエル電池な
 どであり、電池の手入れが必要なことと、
  冬場は、電池の液が凍結するため使用できなくなると
 いった問題があった。
  屋井は、これら問題を解決する電池の開発に取り掛か
 った。
  連続電気時計は、1891年に、日本では初めてとなる電
 気に関する特許として認められた。
1891年5月26日、法相と内相が、児島惟謙、及び、裁判官の
 説得を図るが失敗。
  児島惟謙(こじまいけん)は、1837年、愛媛(伊予宇
 和島)に生まれた・・、
  幕末には、尊王倒幕の思想を抱いて、3度にわたり脱藩
 し・・、
  長崎では、坂本竜馬らと交わって、倒幕運動に参加。
  戊辰戦争にも従軍した・・明治期の裁判官で・・、
  各地の裁判所長を歴任の後・・、
  1891年、大審院長に就任した。
  大津事件で、内閣、元老の圧力(犯人・津田三蔵の
 死刑を要求)・・
  その政府に対し、条文にない刑罰は適用できないとし
 て排した。
  津田には、通常人に対する謀殺未遂の条文を適用すべ
 きことを強調し、司法権の独立を守った。
  この他にも、児島には多くの正義の判決があり「護法
 の神」と言われた。
  (参考)当時の青木外相の、ロシア公使に対する事前
     の約束にしばられた政府は、犯人津田三蔵に、
     皇族に関する刑法規定を準用して死刑とするよ
     う要請した。
      ・・が、児島は、外国皇族に関する規定がな
     い以上、通常謀殺未遂の罪をあてるよう担当裁
     判官を説得し、無期徒刑を判決させた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:そして、もう一度、「私は、無実です」と、静かに、
    はっきりと、付け加えて言った。
.
1494年、この年に、卑劣な事に、ローマ法王(教皇)アレ
 クサンデル6世は、スペインに対して、アメリカ新大陸の
 征服の優先権を与えた。
  この事から、スペインによる大殺戮の行為、悪名高い
 スペインのアメリカ大陸の大虐殺の征服が始まる。
  ローマ法王アレクサンデル6世は、口ききをして、スペ
 インとポルトガルの間でトルデシリャス条約を結ばせた。
  スペインは、「新大陸」における征服の優先権が与え
 られた。
  (君に、何の権利があるのだ!と、怒りをぶつけたい)
  そして、悲劇の話が始まる・・その可哀想な、非人道
 的な、悲劇の話・・、
  メキシコとグアテマラの国境近くに「チャパス」とい
 うマヤ文明の名ごりの町がある。
  ここの住民は、スペイン人によって男は、皆、殺され
 た。
  そして、残された女性は・・強姦された。
  それ故、酷(ひど)い事に、今、ここに住む住民と言
 えば、その強姦したスペイン人との混血の「メスティー
 ソ」ばかりとなった。
  このローマ法王のからむ『悲惨な事実』を、この悲惨
 な歴史を、世界記憶遺産に登録せよ!
  また、この悲惨な出来事を、スペインのサクラダ・フ
 ァミリア教会に彫刻で、この悲惨な歴史を、事実を残せ!
  そして、さらに悲劇的なことは、このここの住民の男
 性がみな殺されて、女性の方々がスペイン人に強姦され
 て、混血にされた人間だけになったということを、「良
 い事なのだ」と洗脳し、洗脳されている。
  そして、スペイン文化ももたらされて、良かったのだ
 とあらゆる屁理屈で洗脳し、洗脳されている。
  卑劣なスペインである。
  懺悔(ざんげ)するどころか、反省するどころか、開
 き直っている。
  弱者の方々に対して、卑劣な極みの事をして、好き勝
 手をやって、命まで奪って、それで良かったという洗脳
 をしている。
  スペインに於いて、その様な事が起きた方が良いとい
 う論理なのか?
  自分に対して、その様なことが起きる事を是認すると
 いう事なのか?
  恥の上塗りの卑劣な事はするな!!
.
1517年、スペインのキリスト教宣教師が、黒人奴隷の所有
 の提案をした、影響力のある提案をした。
  スペインのキリスト教宣教師ラス・カサスは、黒人奴
 隷12人の所有を認める提案をした。
  これによって奴隷貿易が、活発となった。
.
1619年、アメリカの最初の奴隷
  奴隷の概念が、キリスト教の聖書に何回も何回も書か
 れているが・・、
  キリスト教の神が、「奴隷にせよ、奴隷にせよ」と叫
 ぶ卑劣さも書いてあるが・・、
  その卑劣な行為が、そのため。消えることなく、古代
 から人類の歴史と共にあったが・・悲しい事に・・、、
  古代から、キリスト教徒によって、アフリカのエチオ
 ピアの方々が奴隷にされて来た事例などなど・・、
  そして、アフリカの方々を、一番多く奴隷にした国・
 アメリカでは、1619年に、アフリカの方を、最初に奴隷
 にした記録がある。
  そして、この後、奴隷としてアメリカ大陸に連行され
 たアフリカ人は、黒人の方々独自の言語・宗教などを、
 いっさいを剥奪された・・卑劣な事である・・
  卑劣なアメリカは、卑劣な奴隷行為の他、言語や宗教
 をも剥奪するという、人権・人格をも剥奪するという卑
 劣の極みの行為をした。
  黒人の方々は、アフリカの地の宗教も、当然、持って
 いて、また、黒人の方々の独自の『黒人霊歌』も持って
 いて・・、
  この様な苦しい境遇・状況下で、ここからゴスペルは
 生まれて来た・・、
  この様に、黒人の方々の間から生まれたゴスペルが、
 今・現代では、白人のキリスト教会が利用し始めている。
  しかし・・直接的にこの様な状態になった訳ではなか
 った。
  この様に黒人の方々が関(かか)わったゴスペルの真
 の姿を伝えない解説が多い・・これも卑劣である・・す
 べてを隠すという状態で・・
  アメリカの白人支配層は、黒人の方々から宗教を剥奪
 (はくだつ)したが・・、
  黒人の方々も、奴隷解放の活動をして自由を獲得して
 来ると、キリスト教会へ、黒人の方々の来ることが拒否
 され、差別される状況の中に於いて(黒人の方々は、入
 れないレストラン、映画館、ホテルなどなどが、いっぱ
 いあるというアメリカに於いて、キリスト教会も黒人の
 方々が入れない状態だった)
  キリスト教聖職者も、その状態を打開する行動をせず、
 差別した。
  すべてが差別の状態にあるというアメリカの低劣な状
 態の社会だった。
  キリスト教の有色人種蔑視観もある状態で・・人種差
 別社会だった。
  黒人の方々が、やむなく作った黒人の方々のキリスト
 教会。
  その教会が、白人たちに襲われ、その教会に来ていた
 黒人の子供たちが殺されるという事件も起きたりする社
 会だった。
  (黒人の方々が、教会を作ることに反対だった)
  この様な宗教事情の中で、黒人の方々は、白人教会で
 歌われる賛美歌に抵抗感を持った。
  自分たちには黒人霊歌があった。
  そこで生まれたのが、教会で、黒人の方々の中にある
 黒人霊歌を謳う事だった。
  ここから、「黒人霊歌を起源に持つゴスペル」が生ま
 れた。
  今、ゴスベルの解説に、この様な真実が隠され、無反
 省の中に黒人の方々が関係する事が隠され、その様なゴ
 スベルの表面だけを美しく語る解説に満ちている。
  その1例が・・:「ゴスペルは、英語で福音の意味で、
 アメリカ南部の礼拝集会などで演奏され、発展した。
  今、癒しの音楽として受け入れられている」・・と。
  黒人の方々の苦しみや涙は、まったく説明されていな
 い。
  そして、強い白人キリスト教会は、美味(おい)しい
 所だけを取り去って、奪って行く。
  あたかも、インドで活躍したマザー・テレサ女史が、
 某マスコミに取り上げられるまで、見向きもしないで、
 また、手助けもしなかったキリスト教界が・・、
  マスコミに取り上げられると、手のひらを返して、マ
 ザー・テレサ女史を『広告塔にした』ごとくである。
  この様な真実が、最近は、特に、隠されている。
  また、マザー・テレサ女史は、「キリスト教の神は居
 ない」と言って亡くなられた。
  ・・が、しかし、この様な真実も隠されて来ている。
  インドのビンズー教の方々は、マザー・テレサ女史が
 来る前から、当初から、「インド人の死に臨む方々」に
 付き添うという活動をしていた。
  ・・その組織へ、マザー・テレサ女史が入って行った
 のだったのだが、この事実も完全に隠されている。
  ヒンズー教の寺で、マザー・テレサ女史が活動したこ
 とも隠されている。
  キリスト教は、マザー・テレサ女史を広告塔にして、
 「キリスト教の神の啓示を受けた」などなどのでっち上
 げの美化と共に、完全に勲章を我がものだけのものにし
 ている。
  このゴスペルも・・まったくこれと同じ・・、
  マザー・テレサ女史は、生涯、「キリスト教の神は居
 ない」という心の闇を持っていた・・
  神への渇望があるが、神は居ないと・・死ぬまでその
 思いを持っていた。
  それを、表わす手紙が下記・・、
  「私の魂の中には、あまりにも多くの矛盾があります。
  神への深い思慕の情・・神との触れ合いを渇望するそ
 の思いが、繰り返し私に苦しみを与えるのです。
  私は、神から求められてはいません。
  神から拒絶され、虚しく、信仰もなく、愛もなく、熱
 意もありません。
  私の魂には、何ひとつ魅力あるものがありません。
  天国は何の意味もありません。
  それは、私には空虚な場所のようにしか感じられませ
 ん」・・と・・、
  そして、「私は『神が居ない』という地獄の苦悩を少
 し理解しています」と・・、
  そして、年とともに「闇は大きくなるばかりです」と
 苦悩が広がることを告白する。
  「心には矛盾に満ちている」・・と。
  多分、自分だけに来る名声が広がるとともに、当初、
 共に働き、助けてくれた、そして、陰で支えてくれたヒ
 ンズー教の方々への思いが募ったのだろう。
  (日陰になって、何ら讃美されないヒンズー教の方々
 の一方の姿)。
  そして、年を経て・・
  「私には信仰がありません。
  言葉に出来ないほどの苦悩を、口にすることはできま
 せん。
  私は、それを打ち明けるのが怖いのです。
  それが、神を冒涜する事であると思うと・・。
  もし神が居られるのなら、どうか私を許してください」。
  不存在への確信に対して、許しを乞うている。
  キリスト教が真実を語り、ヒンズー教の方々も栄光の
 座に座ることが出来、世界の人々からこの陰になってし
 まった方々へ光が与えられたならば、マザー・テレサ女
 史の肩の荷も下り、
  共に栄光の中で過ごされたのだろうと言える。
  すべては、キリスト教の「自分一人だけの栄光」の独
 り占めの横暴が、マザー・テレサ女史の業績を喜んで受
 容できない苦悩の悩みの状態にした。
.
1829年、悲惨な、非人道的奴隷貿易の目撃談・・
  史上に、悪名高い「中間航路(ミドル・パッセージ)」、
  低い宗教性ゆえに行われた・・卑劣な行為・・、
  スペイン、ポルトガルの独占する奴隷貿易は、巨大な
 儲(もう)けを生んだ。
  これを、ただ、見ているだけで居られなくなった欲の
 皮の突っ張ったイギリス、オランダ、フランスが、真似
 をしはじめた。
  安いヨーロッパ製品をアフリカへ運び、アフリカの黒
 人の方々を奴隷としてこれと交換した。
  そして、卑劣にも奴隷を欲しがるアメリカへ、大西洋
 を越えて運んで行った。
  そして、また、アメリカの特産物や、その他の品々と
 交換し、ヨーロッパへ持って行って売った。
  ヨーロッパに、巨大な儲けが持ち帰えられた。
  イギリスは、ラム酒をアフリカへ持って行った。
  アフリカからアメリカへ渡る過程が地獄だった。
  キリスト教に洗脳された有色人種蔑視観から黒人の方々
 の人権など、まったく無視だった。
  1829年、R・ウォルシュ(イギリス)が見た光景は、
 「奴隷たちは、すべて甲板の下に鎖でつながれて詰め込
 まれて居た。
  その場所は非常に低いので、彼らはお互いの足の間に
 座わり、また、ぴっちり詰め込まれていたから、夜でも
 昼でも、横になることも、場所を変える事さえできなか
 った。
  彼らは、誰かに所有され、所有主とは別な人間によっ
 て輸送されて居たから、ひつじの様に、所有主の様々な
 形の『焼き印』を押されていた。
  胸の下、または、腕に焼き印を押され、そして、船員
 が、まったく冷然と教えてくれた所では、灼熱した鉄で
 焼かれたとの事であった・・・・」。
  この奴隷船には、男女合わせて505人の黒人奴隷が居て、
 17日間に55人が死んで、海中に棄てられたという。
  この三角貿易は、儲けの多い取引となっていた。
.
1955年、ローザ・“リー”・ルイーズ・マコーリー・パー
 クス女史(1913年2月4日~2005年10月24日)は、アメリ
 カ合衆国の公民権運動活動家で・・、
  1955年に、アラバマ州モンゴメリーで、公営バスの運
 転手の命令に背いて白人に席を譲るのを拒み、人種分離
 法違反の容疑で逮捕されて著名となった。
  (アメリカは、このバス運転手だけでなく、社会全体
 で、あちこちで、映画館で、レストランで、ホテルで、
 キリスト教会等々で、黒人の方々を差別していた。
  黒人用トイレとか、キリスト教会に来てはいけないと
 か・・とかとかと軽蔑すべき社会だった・・
  今・現在も続いている)。
  この女史の一件を契機に、モンゴメリー・バス・ボイ
 コット事件が勃発した。
  アフリカ系アメリカ人(黒人の方々)による公民権運
 動の導火線となった。
  このことで、ローザ女史は、アメリカ史における文化
 的象徴と見なされ、「公民権運動の母」と呼ばれている。
  最悪の事は、黒人の方々に、選挙権が与えられてない
 というアメリカ・・、
  「3割が白人で、7割が黒人だから」が、白人たちが言
 う「その理由」だという。
  ナッシュヴィルだけではない・・、
  町はずれにある「テント・シティー」は、選挙の時に、
 選挙人登録に行った黒人の方々が、町から追放され、差
 別されて作った。
  バスの座る場所も・・白人が前で、黒人は後ろ。
  日本人は、「名誉白人だと、馬鹿にされて言われた」。
  絶えず差別する白人によって、黒人の方々は、いや応
 なしに劣等感を植え付けられた・・
  このテント・シティーの事でも、白人のアメリカ人は、
 『あれは黒ん坊が勝手にやっている事だから、俺たちは
 知らんさ』・・と言い捨てた・・
  選挙権の事についても、「彼らに、それだけの能力が
 無いからさ」と・・切り捨てた・・
  白人アメリカ人に言わせれば、「黒人の『無知』を、
 俺たち白人が、必死に食い止めてやっているのだ」だっ
 た。
  我々の税金で作った黒人の工業学校で教育したって、
 皆(みな)、北部の資本家に吸い取られて行ってしまう
 (北部のために安価な労働力を、我々の税金で育成して
 いるようなものだ)
  キリスト教の聖書で、キリスト教の神が、「奴隷にせ
 よ、奴隷にせよ」と叫ぶが、
  人間を奴隷にしてはならず・・差別してはならず・・、
  また、奴隷と同様の地位に置いておくことが許されて
 いいはずはない。
.
1987年5月20日、キリスト教によって、有色人種に対して、
 差別観を植え付けられたアメリカは・・、
  可哀想な事に、黒人の方々が嘘の判決で、よく死刑に
 された。
  1987年5月20日、午前0時1分、アメリカのミシシッピー
 州サンフラワー郡パーチマンにある州立刑務所内のガス
 室で、チーク郡高等裁判所の判決により、26歳の一人の
 青年の死刑が執行された。
  刑の開始から5分後の0時6分、彼の心臓は、完全に停止
 した。
  処刑された若者の名は、エドワード・アール・ジョン
 ソンと言い・・、
  アメリカの人種差別と偏見の、特に強い地で成長した
 黒人の方だった。
  事件は、この8年前にさかのぼるが、白人女性が、何者
 かに襲われ、救助に駆け付けた白人警官が殺された。
  ジョンソンは、この犯人とされた。
  唯一のその理由が、現場から走り去った車と同じ型の
 車を、ジョンソンが持っていたという事だった。
  面通しも行われた。
  面通しした女性は、ジョンソンを知っていて、顔見知
 りだったので、すぐに、ジョンソンではないと分かった。
  そして、「ジョンソンではない」と、はっきり証言し
 た。
  ジョンソンは、当然の釈放となった。
  しかし、ジョンソンは、その後に、何の新たな証拠も
 示されない状態で、再逮捕された。
  そして、ジョンソンは、連行され、あらかじめ用意が
 なされていた嘘の自白調書に、無理やり署名をさせられ
 た。
  ジョンソンは、逮捕される前にも、捜査官と警察官の
 二人から、人気のない所で、「言う通りに答えろ、そう
 しなければ殺す」と脅されていた。
  言う通りしなければ、間違いなく殺されるという状況
 の、「程度の低いアメリカ」だった。
  警官に連れて来られて、署名を無理やりさせられた時
 も、「内容は気にするな。とにかく署名しろ」と脅され
 た。
  服役中も、看守も、そして皆も、誰もが、その様に犯
 人に仕立てられる黒人の方々が多いアメリカで、このジ
 ョンソンの場合も、仕立てられたと、ジョンソンは真犯
 人ではないと・・思っていた。
  再審や、刑の執行停止の申請も却下された。
  恩赦の申請も功を奏さなかった。
  刑の執行は予定通りだった。
  ジョンソンの最後の言葉は、「私は無実だ。誰も恨ま
 ない。今まで力になって戴いた方々に感謝します」だっ
 た。
  そして、もう一度、「私は、無実です」と、静かに、
 はっきりと、付け加えて言った。
  ジョンソンは、無実で処刑されたが、アメリカという
 国は、黒人の方が、白人に殺されるとき、その殺人犯の
 白人が、死刑にされる割合が極端に少ない。
  しかし、この逆は、卑劣にも、極端に多い。
  400パーセント以上の差がある。
  黒人の方々が、死刑にされる割合が多い。
  有色人種蔑視のキリスト教による偏見がある。
  これは、日本人とて同じ、ハロウィンで仮想した日本
 人青年が殺された場合もそうだった・・等々の事例があ
 る。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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