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(増補版)597E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年5月~1894年6月)

2018-05-30 04:42:48 | 日記
題:(増補版)597E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年5月~1894年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年5月、片倉兼太郎が、諏訪に三全社を設立した。
  片倉兼太郎(かたくらかねたろう、1850年1月12日~
 1917年2月13日、67歳)実業家、製糸資本家。
  現在の片倉財閥の基礎を築く。
  1850年、片倉兼太郎は、信濃国諏訪郡三沢村(長野県岡
   谷市)の豪農の家に生まれる。
  1873年(23歳)実弟・光治と共に10人取りの座繰製糸
   を始め・・さらに・・
  1878年(28歳)32釜の器械製糸場を自村の天竜川河畔
   に設置した。
   後に、光治のほかの弟や従弟らも経営に参加し、得
   られた利益を共有資産として、一族一致団結して器
   械製糸経営を拡大させていった。
  1894年(44歳)10月6日、長野県諏訪郡川岸村に川岸製
   糸所(三百六十釜)を新設し、三全社と称した。
  1895年(45歳)片倉組を結成し、片倉組本部を三全社
   に置き、ここに松本製糸場及び三全社は片倉組所属
   として垣外製糸場(百六十釜)のみを開明社に属せし
   めた。
   兼太郎自らは、組長となり、一族の経営を統率した。
   明治後期以降、県外にも多くの製糸工場を設置して
   行き、
  1903年(53歳)以降、一族は北海道、朝鮮などで農場・
   山林経営に乗り出すとともに、両大戦間期には保険
   業、化繊工業などへの経営多角化を進めて地方財閥
   のひとつに数えられるに至った。
  1910年(60歳)60歳を超えても、「まだ尋常小学校を
   卒えたくらいにしか思っていない」と語ったという
   ほど、常に若々しく精力的な活動を続けた。
  1920年、没後のこの年に、片倉組の製糸経営を継承し
   て設立された片倉製糸紡績株式会社は、世界最大の
   製糸会社といわれた。
   末弟・佐一が養嗣子となり、初代没後、襲名して2代
   兼太郎となる。
  1934年、2代兼太郎没により、嗣子脩一が襲名し3代兼
   太郎となる。
   いかにも豪農の家と思わせる茅葺屋根の生家は現存
   している。
  ・・そして、片倉財閥は・・、
  1873年(23歳)片倉市助が、長野県諏訪郡川岸村(現
   在の岡谷市)で座繰り(ざぐり)製糸を開始したの
   を嚆矢(こうし、物事のはじめ)とする。
   「シルクエンペラー」と呼ばれた二代目片倉兼太郎
   (片倉佐一)の手により、製糸業から発展する。
  1895年(45歳)片倉組を設立し、東京京橋に進出する。
   以降、業容を拡大し、一財閥を形成した。
  戦後の財閥解体で解散となる。
  創立50年を記念して、諏訪市に温泉施設片倉館を建設。
  2017年、施設は現在も現役。
   一部は国の重要文化財に指定されている。
  <参考文献>足立栗園『初代片倉兼太郎君事歴』、『片
 倉製糸紡績株式会社20年誌』

1894年5月、『西鶴全集』(博文館刊)など発禁となる。
  博文館は、東京の出版社で、明治時代、国粋主義的な
 雑誌を創刊した。
  そして、取次会社・印刷所・広告会社・洋紙会社など
 関連企業も次々と創業し、日本最大の出版社となった。
  帝国文庫、軍書、稗史(はいし、世間のうわさなどを歴
 史風に書いたもの)、人情本、黄表紙、洒落(しゃれ)本な
 どを網羅(もうら)していた。
  《真書太閤記》は、よく売れた。
  この帝国文庫が発禁処分を受けた。
  1893年3月から刊行を始めた『帝国文庫』は、江戸時代
 の歴史、小説、歌舞伎、浄瑠璃、随筆、紀行文などを収
 録した全50巻で、後に続編50巻が出版され、計100巻とな
 った。
  この当時、類例のない大規模な出版だった。
  大量廉価販売の先駆けとなった。
  本文総ルビ、各冊約1000ページ、一冊50銭・・画期的
 だった。
  好評で、多くの人たちに歓迎され、刊行を重ねた。
  出版開始の翌年・1894年5月、及び、6月に刊行した『
 西鶴全集』上下巻が、風俗紊乱を理由に発禁処分、発売、
 頒布が禁止された。
 この『西鶴全集』は、尾崎紅葉、大橋乙羽による校訂で
「好色一代男」、「好色一代女」、「日本永代蔵」などの
 西鶴の主要な作品がほとんど網羅されていた。
  あらかじめ風紀上問題になりそうな部分は○○という
 伏字とした。
  しかし、発禁処分を受けた。
  新聞に取り上げられ、『読売新聞』は、翌日に、「西
 鶴死す」という見出しで報じた。
  さらに、その後、政府の処分を批判する「西鶴全集の
 発売禁止」を掲載した。
  博文館は、ただちに「発売禁止に着き謹告す」という
 いう新聞広告を掲載し、その中において、同書の発行は
 好評を博し、初版を売り尽くして、再版に移ろうとした
 矢先だったと記し・・、
  「然れども西鶴の遺著尽く風俗を害するものにあらず、
 あに一部の貯めに其の全部を埋没するに忍びんや、故に
 他日其・・」と、将来の再出版を約束した。
  そして、1903年8月、『校訂西鶴全集』の上巻刊行で実
 現した。
  しかし、これが、また、発禁処分を受けた。
  平田禿木から西鶴全集二巻を借用して熱心に読みふけ
 った樋口一葉は、「之があると本当に心強い」と述べた。
  『西鶴の書誌学的研究』の滝田貞治は、この『西鶴全
 集』を、「小説のほとんど大部分を結集したのは、まさ
 に、西鶴復刻史上の画期的事業であった。
  それが、発禁の災厄にあったので、ますます紙価を高
 からしめた」と書いた。

1894年6月2日、閣議が、清国が朝鮮へ派兵したことを受け
 て、朝鮮へ混成一個旅団の派遣することを決定した。
   朝鮮国内乱ニ関シ兵員派遣ニ関スル方針ノ件
  朝鮮国内乱ニ関シ兵員派遣ニ関スル方針 右御覧ニ供ス
  明治二十七年六月六日 内閣総理大臣伯爵伊藤博文 明治
 二十七年六月二日 朝鮮国乱民内ニ起リ京城駐在公使官ヨ
 リノ来電ニ拠ルニ官兵頻ニ敗レ乱民益々猖厥ヲ窮ムルノ
 勢アリト云将来乱民京城又ハ其他ノ日本人居留地ニ侵入
 スルコト無キヲ保チ難ク従テ公使館及国民ヲ保護スル為
 ニ兵員ヲ派遣スルノ必要アリ 天津条約第三款ニ依ルニ朝
 鮮国変乱又ハ重大事件アルニ当リ日支両国又ハ一国兵ヲ
 派スルトキハ行文知照スヘシトノ明文アリ故ニ出兵ニ当
 リ将来或ハ清国ト往復関係スヘキノ時機ヲ生スルモ料ル
 ヘカラズト雖、今度ノ事ハ急速ノ事変ニ係リ我カ兵ヲ以
 テ我カ国民ヲ保護スルヲ怠ルヘカラザルカ為ニ清国ト連
 合

1894年6月2日、閣議、朝鮮派兵決議して、衆議院解散。
  この時、西欧列強は植民地争奪合戦の真っ最中で、そ
 の様な世界情勢の中で、日清戦争へ至って行く・・特に、
 アフリカとアジアは、『ヨーロッパ列強(イギリス、フ
 ランス、ドイツ、ベルギー、ロシア)』のアフリカ、ア
 ジア分捕り合戦が同時進行していた。
  特に、地理的に近いアフリカは、弱肉強食の様相で、
 ヨーロッパ列強の最大の餌食となり、領土と資源・利益
 が収奪の的(まと)となっていた。

1894年6月4日、李鴻章が、朝鮮に援兵派遣指令。
  1894年の春、朝鮮の地方の小さな反乱からはじまった
 甲午農民戦争(東学党の乱)。
  この農民軍は、全羅道内全域を解放して、朝鮮政府の
 派遣した中央直轄軍をも撃退し、さらに北上する気配を
 示した。
  李氏朝鮮政府は、袁世凱(えんせいがい、中国・清の
 軍人)の示唆により清国へ援軍を求めた。
  清国の北洋大臣・李鴻章(りこうしょう)は、これに
 応じた。
  そして、1894年6月4日、清国の陸海軍を派遣した。
  そして、1885年4月の朝鮮の甲申政変の際に、日清間
 で結んだ天津条約に基づき、清国は日本へ通告した。
  日本は、早い時期から甲午農民戦争のゆくえを注視し
 ていたが、情報は、6月2日に、朝鮮政府が、清国に出兵
 を要請するとの情報を得た。
  日本の対応も速やかだった。
  閣議を開き6000人の派兵を閣議決定し、6月5日、大本
 営を設置、6月12日、派遣軍が漢城(現在のソウル)近郊
 に、既に来ていた清国軍と朝鮮の布陣となった。
 こうした状況の中、朝鮮政府は、6月10日、農民軍と和
 約を結んで事態を収拾した。

1894年6月5日、大本営を参謀本部内に設置した。
  1893年5月19日、大本営が、勅令第52号戦時大本営条例
   によって法制化された。
   そして、日清戦争において初めて設置された。
  1894年6月5日、この大本営が、東京の参謀本部内に設
   置され、
  1894年8月1日、皇居内に移った。
   その後、当時、東京を起点とする鉄道網の西端であ
   ったこと(広島駅)、また、大型船が運用出来る港
   (宇品港、現・広島港)が有ったことで、前線に向
   かう兵站基地となった広島市に移ることとなった・・
   そして・・
  1894年9月13日、大本営が宮中からこの地に移転した。

1894年6月5日、政府が、ペスト流行の調査のため、北里柴
 三郎らを香港に派遣した。
  この後、ペスト菌を発見する。

1894年6月7日、政府が、清国に朝鮮への派兵を通告し、こ
 の日、日清両国が、相互に出兵を通告した。
  1894年5月、朝鮮で甲午農民戦争が起ると・・、
  1894年6月、李朝朝鮮政府は、鎮圧のために清国に援兵
   を依頼し、そして、次いで日本に援兵を依頼した。

1894年6月7日、長崎港にペスト患者の発生したアメリカ船
 ペリュー号が入港した。
  長崎の人々の不安を呼んだ。
  ペストが怖い病気であるという事は知られていた。
  1899年、神戸で、ペストの疑似症状で13歳の少年が病
   死した時は、新聞は、「ペスト、神戸に侵入」の見
   出しでこれを報じた(「国民新聞」1899年11月11日
   付)
   周辺諸国からの、日本へのペスト来襲を懸念した政
   府は・・、
 1899年11月18日、官報号外で勅令第434号を公布、内務大
  臣は、伝染病予防のために必要と認めるときは物件の
  種類を限りその輸入を禁止できることとした。
  そして、同日、これを施行した。
  勅令公布と同時に、内務省は省令第54号を発令、ペス
  ト予防のため、インド・清国諸港・香港・台湾からの
  襤褸(ぼろ、使い古しの布)・古綿・古着・古紙・古
  皮革・古羽毛類の輸入を禁じた(「国民新聞」1899年
  11月19日付)
  そして、この年・1899年、大阪株式市場で株価が下落
 したが、その原因は、ペストの流行とその検疫励行によ
 って物流や人の移動が阻害されたためと噂された。
  事実、ペストの侵入地と目された神戸付近と、その以
 西の鉄株は、特に売り方が多かった(「国民新聞」1899
 年11月19日付)
  1899年のペスト患者は、「時事新報」(1900年1月1日
 付)によると、総計49名(内・死亡40名)で、内訳は、
 神戸市22名(内・死亡18名)、大阪市21名(内・死亡17
 名)、姫路で1名、そのほか広島・福岡・和歌山・長崎・
 静岡で死亡者各1名ずつと発表された。 
  このままでは、ペストが、神戸・大阪・岐阜を経てや
 がて沼津に至り、鉄路を伝わって東京へ侵入するやも知
 れない・・、
  そう危惧した松田東京市長は、一つの奇策を1900年12
 月27日の東京参事会に提案した。
  それが、鼠20万匹の買い上げ作戦であった(「報知新
 聞」1900年12月30日付)

1894年6月9日、清国軍が、朝鮮の牙山(あさん)に上陸し
 た(日本は6月12日) (6月8日説あり)
  牙山は、ソウルより南に85km・大田広域市より北北西
 65kmに位置している。
  1894年6月8日、葉志超(ようしちょう)総督と、聶士
 成山西太原鎮総兵に率いられた清国軍(北洋陸軍、歩兵
 約2,500名、山砲8門)が牙山に上陸した。
  1894年7月24日時点で3880名に達した。
  (参考)聶士成(じょうしせい):清の軍人。
      日清戦争の際には、提督:葉志超に従って朝
     鮮に赴き、牙山に駐屯した。
      遼東では、大高嶺一帯で日本軍の旅団長・富
     岡三造を戦死させるなど勇戦し、直隷提督に任
     命された。
      下関条約後、清朝は、陸軍の軍制改革を行い、
     北洋陸軍を武衛軍と改め、聶士成率いる30営を
     天津近郊の蘆台に駐屯させ、ドイツ式の軍事教
     練を行った。
      1900年、義和団の乱が発生すると聶士成は、
     鎮圧に努め、京津鉄道を保護した。
      八か国連合軍が侵攻すると、6月13日より天
     津の守備に就いたが、7月9日に戦死した。
      後に、忠節の諡号を贈られた。
  (参考)山西太原:たいげん、中国の山西省の省都。
      黄河の支流、汾河(ふんが)の東岸にあり、製
     鉄・機械工業が盛ん。
      明代に建造された正方形の城壁が残る。
      人口、行政区256万(2000年)
.
  (今日の言葉)
.
  題:規制の効く日本と、ホッタラカシにして来た北朝鮮の
    アメリカの姿勢が・・この、今の状況となっている。
    アメリカは韓国から撤退し、38度線は対馬海峡となり・・
.
1866年8月16日、ジェネラル・シャーマン号事件
  1866年7月、アメリカ合衆国の帆船であるジェネラル・
 シャーマン号(武装商船)が、李氏朝鮮の羊角島に来航
 し、事件を起こした。
  目的は、通商を求めたとされる・・が・・、
  朝鮮住民の方々が殺戮され、略奪を受けた。
  これに対し、朝鮮側は焼き討ちをし、撃退した。
  当初、朝鮮側の平壌の地方官は、難破船として処理し、
 食糧や薪・水を支給し、退去を命じる方針だった。
  しかし、朝鮮側の使者の舟が、シャーマン号側によっ
 て転覆させられ、使者は捕らえられた。
  そして、さらに、沿岸の朝鮮住民が砲撃を加えられ、
 川を遡行しはじめられた。
  この異常行動に、朝鮮側も攻撃を開始し、数日間の交
 戦状態となった。
  しかし、シャーマン号は座礁し、動けなくなったとこ
 ろを・・、
  1899年9月20日、焼き討ちした。
  そして、乗組員全員を殺害した(焼死や溺死との説も
 ある)。
  1867年1月、アメリカは、アジア艦隊を向かわせ、交渉
 させた・・この交渉は、数度におよんだが黙殺された。
  1871年、アメリカは、この事件の謝罪を求め、再度、
 アジア艦隊の軍艦3隻を向かわせた・・そして、朝鮮半島
 中西部の江華島で交戦した。
  しかし、アメリカは撃退され、開港交渉は失敗した。
  この結果、李朝朝鮮王朝は、一層、鎖国政策を強化し
 た。
  このアメリカのシャーマン号は、ヨーロッパの雑貨を
 積んで、通商を求める目的だったという話もあるが・・、
 平壌に散在する墳墓から宝貨を盗掘する目的もあった。
  朝鮮側は退去を求めたが、強引に開港を迫って来て、
 朝鮮の軍使や積荷を拉致(らち)された。
.
1910年8月29日、日韓併合
  日本と大韓帝国は、1905年、大韓帝国を「保護国」と
 する日韓保護条約を締結した。
  そして、この年・1910年に、「韓国併合に関する条約」
 を結び、この条約に基づいて日韓が併合された。
  1910年8月22日、韓国併合条約が、漢城(現在のソウル
 特別市)で、寺内正毅統監と李完用首相により調印され、
 1910年8月29日、裁可公布により発効した。
  しかし、今・現在における韓国の言い方は・・
  日韓併合をしてからの状況について、韓国の子供たち
 の歴史教科書にも書いているが・・、
  韓国は、「日本に虐(しいた)げられた」と、当然の
 ごとくに書いている。
  これ等の事は、後から立場が変わってから言い出した
 ことで、条約締結時の言い方とまったく逆の言い方とな
 っている・・、
  後からでは、何とでも言えるのであるが、あまりにも
 節操のない言い方である・・
  韓国は、この様な態度は、歴史上、何度もやっている
 事であるが・・恩を仇で返すやり方となっている。
  日韓併合されて、韓国が見違えるように良くなったこ
 とは、種々のデーターや記録が示している。
  だから、日韓併合時には、その様な日韓併合状態であ
 ることが、韓国にとって都合が良かったのだ・・だから、
 条約も結んだのだ。。
  韓国は、後になって、事実をまったくひん曲げている。
  朝鮮・韓国は、江戸時代も、その様な態度を、日本に
 対してとって来た。
  そこに、中国に冊封される韓国があった。
  また、日本に虐げられたと、韓国はデーターを使って
 説明しているが、そのデーターは不確かなデーターであ
 って・・間違いデーターであることが証明されている。
  最近でも、青山学院大学の木村光彦教授の説明でも、
 その韓国の主張は否定されている。
  その1例が、日韓併合によって、韓国・朝鮮人の「米の
 消費量が減った」という韓国の主張があるが・・、
  日韓併合によって、日本が、韓国の米を持ち去った如
 くに言いたいのだろうが?・・これは違う・・間違いだ
 と木村教授は言う。
  これは、このデーターを調査した調査官自身が、デー
 ターを修正しているごとく、間違いデーターである。
  そして、減っているのでは無くて、大した変わりはな
 く・・変化はしてないのである。
  今まで、日本を貶(おとし)めたいという気持ちの韓
 国が、今まで、この間違いデーターで、プロパガンダ(
 嘘宣伝)して来た。
  日本によって、「韓国・朝鮮社会は、激しく窮乏化を
 した」と・・韓国は、自国民にだけでなく、世界へと言
 っているが、間違いデーターに基づく発言となっている。
  人口が3倍に増え、環境改善も著しく、鉄道を張り巡ら
 せ、日本国内より立派なぐらいの学校を建て、ダムを造
 り・・経済発展して、豊かになっているのに、何を言う
 かである。
  まったくひどい韓国の言い方である。
  韓国の子供たちの歴史教科書も、謝罪記事を含めて書
 き直しをしなければならない。
  逆に、日韓併合に刺激された韓国農民の方々が、主体
 性を持って努力し、米の収穫量は拡大しているのである。
  この農業の他にも・・韓国は、会社設立も認められな
 かったと言っているが、これも嘘である。
  実際、朝鮮人による企業設立も多く見られ、朝鮮社会
 の工業化が、急速に進んでいる。
  経済も順調に成長して行った。
  青山学院大学・木村光彦教授は、この様な実際の現実
 を明らかにされている。
  そして、日本は、今・現在につながる、先を見た将来
 展望に基づく開発も朝鮮・韓国にしている。
  朝鮮半島北部のウラン採掘まで・・この当時に、すで
 に、しているのである。
.
1945年5月2日、ベルリン陥落。
  ソ連軍が、ドイツ国会議事堂に赤旗を掲げた(ライヒ
 スタークの赤旗)
  このドイツ国会議事堂(ライヒスターク)は、1933年
 の放火事件以来、ナチス体制下では、公式の目的では使
 用されておらず、完全な修復も成されていなかった。
  この建物内での猛烈な戦闘の末に、1945年5月2日、ソ
 ビエト赤軍は議事堂を制圧した。
  このような時、日本の敗戦も決定的になっていた。
  第二次世界大戦に勝つ見込みは、日本には「まったく
 無かった」。
  この頃、日本は、一生懸命、和平をアメリカやソ連、
 そして、スイスなど連合国側へ働き掛けていた。
  しかし、国民へは、可哀想だが、「あくまで戦うのだ」
 の意思表示をしていた。
  和平を一生懸命に投げかけている日本へは、言を左右
 にして応じる様子を見せなかった「アメリカ・ルーズベ
 ルトと、ロシアのスターリン」だった。
  スターリンは、日本からの和平の働きかけの内容をル
 ーズベルトに話し、その状況、及び、内容は、アメリカ
 に筒抜けだった。
  その様な状況の中で、ルーズベルトとスターリンとの
 間で話がなされたことが、「日ソ中立条約を破棄して日
 本領土を奪え」というアメリカ・ルーズベルト大統領の
 ソ連・スターリンへの『そそのかし』だった・・卑劣な
 事である。
  その為の戦いの準備のためのソ連の時間稼ぎと、アメ
 リカのソ連への武器援助・・ソ連へその為の武器弾薬を
 運ぶ時間が欲しいアメリカが、そこに居た・・(実際、
 アメリカは、船で、日本攻撃のための武器弾薬を、ソ連
 へ運んでいる)・・
  そして、それと、アメリカには、これからの重要な新
 兵器となる原爆の威力を試したいという欲望があった。
  そして、世界へ、その原爆の威力を示す・・その為の
 時間が欲しいアメリカが居た。
  それ故に、和平を進めて、終りにしたくないという事
 情があった。
  だから、この時、日吉に移った日本の地下司令部は、
 苦悩の時間だけが過ぎる場となっていた。
  その日吉の地下司令部を、最初に見た時、この様な事
 情を知らなかった・・その感想・・
  題:終戦間近の最末期・・はっきり見えた・・
    そして、戦争は、そこまで破壊していたのか?
  悲しいことだが、終戦間近の最末期の姿が、はっきり
 見えた気になりました。
  第二次世界大戦の戦争末期、旗艦まで軍艦として戦う
 ため、旗艦に乗っていた海軍司令部は陸(おか)にあが
 った。
  それが、日吉の慶応義塾大学の敷地内の地下に、陸に
 上がった海軍司令部がある。
  ここを見て、ここまでして戦う意味があったのかと、
 まず、思った。
  毎日、何万という膨大な大切な命を失って、日本の方々
 が各地で亡くなっていく・・死んでいる時に、決断でき
 ない最高のトップが居た・・慶応に行って思った、見え
 た。
  当時の、この戦争の責任者、指揮官方の・・トップの
 最上位の人たちは、ただ流されるように、右往左往して
 いた姿が見て取れた。
  勝つ見込みは無いことを、遠の昔に十分わかっている
 のに、そして、いま、その手が打てない状況の中で、こ
 の穴倉の中で、何をしていたのか?
  自分に死がおよぶことを恐れていたのか・・?
  その感がする。
  自分の死に、恐れをなしていた姿が、見れたような気
 がした。
  悲しい、本当に悲しいことだが・・・。
  停戦のボタンが押せないでいたトップたちが、ここへ
 行って、はっきり見えた。
 (参考)き‐かん【旗艦】艦隊の司令長官・司令官が乗
    って指揮をとる軍艦。マストにその司令官の階級
    に応じた旗を掲げる。
  終戦の詔を聞いて、最高戦争責任者の中に、腹に銃を
 発射し、自殺を図った人がいた。
  腹であったため死ねなかった。
  A級戦犯となり「死刑」となった。
  腹に撃っては死ねない。
  知っているはずなのに。
  この地下司令部の壕は、慶応大学の隣の民間人の地へ
 も伸びていた。
  緊急極秘につくられたが、この壕は、アメリカ軍に攻
 撃され、不幸なことに、この隣の民間人の方が亡くなら
 れている。
  送受信アンテナも、離れて設けたりしていたが、アメ
 リカ軍には、はっきり分かっていたようだ。
  誰が戦争を止める「 断 」をするかが、まったくう
 やむやだったとの事・・
  その様な状況の中に「ふわふわ」とあったような・・
  意志を出せない中で、時間だけが過ぎる組織だったよ
 うだ・・
  戦争は、「 そこまで破壊して居た 」のか・・
  ・・と、上記の様に、見学直後に感じたが・・
  実際は、日本は、和平を、一生懸命にしていたが・・
 それに応じない連合国側が居たことが・・その後になっ
 て分かった。
  ルーズベルトは、「アメリカの若者が死なないためと
 称して、原爆を落としたのは・・完全な嘘。
  戦後を見据えて・・日本をモルモットにしたのだった。
.
1945年5月頃、木銃で下から敵を撃滅せよ・・
  弾もでない木の銃で、子供に何をさせようとしたのだ
 ろうか・・
  私の履歴書:商船三井最高顧問・生田正治氏(抜き書き)
  1944年7月には、サイパン島守備隊が玉砕し、本土への
 空襲激化は時間の問題となったため、主要13都市で学童
 疎開が開始された。
  毎朝10時以降に警戒・空襲警報が出れば、昼の給食用
 の芋や代用食のドングリでこしらえたコッペパンなどを
 受け取り、地域ごとに走って帰宅することになった。
  10時以前だともらえないので、毎日10時になってすぐ
 に警報が鳴らないかと、不届きなことを願う日々だった。
  家に帰っても遊び道具はボール一つなく、もっぱら道
 路で仲間と軍艦ゴッコなどの戦争遊びや、高射砲弾の破
 片集めに興じた。
  父に2度目の召集令状が来たのは1944年の夏頃だった
 ろう。
  近くの東横線都立高校駅まで見送り、せみ時雨(しぐ
 れ)の中で敬礼をして乗車していく父の後ろ姿に手を振
 ったのが別れになった。
  1945年2月になると、縁故疎開先もなく、まだ、東京に
 いる全学童に強制集団疎開命令が出た。
  5年生以上約100人は、数人の先生に引率されて4月早々、
 山梨県・小渕沢に向かった。
  当時の小渕沢は文字通りの寒村だった。
  私たち男子約50人は駅前の「寿旅館」に、女子は近く
 のお寺にお世話になることになった。
  朝早く起きて近くのお宮の庭掃除と、荒削りの木銃で
 の厳しい軍事教練。
  何でも米軍は、九十九里浜上陸に合わせて甲府盆地に
 落下傘部隊を降下させるので、その時は、この木銃で下
 から敵を撃滅せよとの命令だった。
  弾も出ない木の銃で、子供に何をさせようとしたのだ
 ろうか。
  毎日午前中は自習だった。
  本を読んだり手紙を書いたりしてなんとなく過ごし、
 午後は勤労奉仕で山に枝払いや薪取りに行かされた。
  いつも腹をすかせていた。
  主食は大豆が8割で、残りの2割が米、麦と雑穀。
  炊くと大豆は膨らむので、見た目には大豆だけのよう
 だった。
  下痢をする者が多かったが、申告しても薬はない。
  決まって絶食療法を言い渡されるのがわかっているか
 ら、食べ盛りの私たちは、誰もがギリギリまで我慢した。
        (参考:日本経済新聞、2011年1月4日)
.
1945年8月6日、アメリカの卑劣な広島への原爆投下
  日本政府の 原爆投下に対する抗議
  カッセーゼ教授は、
  日本政府が、広島に原爆投下に対して、
  「それは、不必要な苦痛を与える非人道的兵器の使用
 を禁ずる国際法原則に違反する」との理由で、
  スイス大使館を通じてアメリカ政府に抗議を行った事
 実に触れ、
  短文の通諜ではあったが、
  立派な主張を提示したと述べている。
        (本:世界が裁く東京裁判、41頁)
  (参考)つう‐ちょう【通牒】 [名](スル)
    1 書面で通知すること。また、その書面。
    2 「通達1」の旧称。
    3 国際法上、国家の一方的意思表示を内容とする
     文書。「最後―をつきつける」
       ・
       ・
2010年12月2日、アメリカが、「世界の警察」を任じられな
 くなった時、日本は?
  景気低迷で疲弊するアメリカ・・、
  横浜で、オバマ大統領と会談した日本の菅首相は、思
 いやり予算の削減が頭にあったが、逆に、オバマ大統領
 から「増額」を求められた。
  厳しい見方の米国議員・・、
  その1:中国の軍事的脅威が増すのに、日本はアメリ
 カ軍のありがたみが分かっていない。 
  その2:沖縄の1万5000人の海兵隊員が中国に上陸して、
 何百万もの人民解放軍と戦うなんて誰も思っていない・・
  在日米軍の大規模な撤収を提唱。
  米国の2010会計年度の赤字、約135兆円・・、
  アフガニスタン戦費が重荷。 
  アメリカ議会の本音:地球の裏側まで面倒を見切れな
 い。
  オバマ大統領は、今のところ、アジアへの軍事的方向
 性は、強める方向。
  しかし、厳しい財政から続けられるかに大きな疑問符
 が周囲に・・。 
  北朝鮮とは事を荒立てたくないという心持ちか?
  アメリカ国防総省のラパン副報道官の言葉:在韓米軍
 を増強する予定はない。
  アメリカ軍のある幹部の言葉:北朝鮮の軍事施設を空
 爆するのは簡単だが、中国がどう反応するかが分からな
 い。
  軍事行動はあり得ない。
  危機管理が専門のユーラシア・グループのイアン・ブ
 レマー社長の言葉:北朝鮮は、ソウル攻撃以外の挑発な
 らば反抗はないと算段しているとみえる。 
  長引くアフガン戦争、長引く景気低迷で、疲弊するア
 メリカ・・、
        (参考:日経新聞、2010年12月2日)
.
2018年3月、中国の全国人民代表大会で・・、
  習近平国家主席は、21世紀半ばまでに、世界一流の軍
 事力を備えた「社会主義現代化強国」と、
  「一帯一路」の推進による中国主導の「人類運命共同
 体」を建設すると宣言した。
.
2018年4月17日、中国依存のドイツが味わう「ゆでガエル」
 の恐怖・・という記事が掲載された。
  ドイツの怖(こわ)いところ・・、
  ドイツは、ここ10年間、中国に非常に接近している。
  長いことドイツは、中国の政治体制に目をつぶり、中
 国と一体となって『儲けの話に加わってている』。
  ドイツの頭にあることは、『儲かれば良いのだ』にな
 っている。
  中国主導で進められているAIIB(アジアインフラ
 投資銀行、2016年1月16日に開業式典を行った)にどっぷ
 り浸(つ)かっている。
  アジアでインフラが進み、投資家は儲かる。
  アジアは、徐々に近代化されて行く。
  良さそうに見える。
  ここが落とし穴。
  ここで豊かになるのが、一部の投資家だけ。
  中国と強く結びついた一部の投資家だけ。
  「今までの植民地体制」も、宗主国と一部の民が搾取
 した。
  その宗主国にドイツが加わっている形。
  問題なのがAIIBに「貧困対策が無いこと」。
  民主主義ではない政治体制の国・中国、
  独裁体制の国・中国が、この金のかかわりで影響力を
 強めて行く。
  ドイツは、中国が民主主義国家ではないという大切な
 ポイントに目をつぶっている・・見落としている。
  将来、この様な経緯で、「世界中に、民主主義ではな
 い国々が増えても良い」くらいに考えている。
  政治体制が独裁的で、中国を頂点とする植民体制が広
 がって行く。
  中国の「一帯一路」にはそのような形がある。
  中国の「大きな問題である人権問題」に目をつぶり、
 中国の「勝手な軍事的行動」にも目をつぶっている危険
 がある。
  基本的人権などもない国家・中国と共同歩調をとって
 いる。
  ドイツは、必死で守らなくてはいけないものまで「捨
 て去っている」。
  人民抑圧している国家を許し過ぎていることを、ここ
 で、見直さねばならない。
  中国は、この論に反対したいのなら、「一回でも、自
 由選挙を行なえ」。
  (最新情報資料):中国依存のドイツが味わう「ゆで
       ガエル」の恐怖(2018・4・17)・・
       [15日 ロイター]
        独建設器械大手のバウアーBSAG.DEは、こ
 の数十年間、中国に積極投資を行った多くのドイツ企業
 に比べて、優位な立場にある。
  ドイツ南部バイエルン州を拠点とする、1790年創業の
 バウワーは、中国合弁パートナーの顔色をうかがう必要
 がない。
  上海と天津にある2つの工場は、100%自社で所有して
 いるからだ。
  また、同社が製造する特殊建設機械は、アジア全体で
 販売されており、不安定な中国建設市場における景気の
 波に左右されずにすむ。
  しかし、それでも一族経営の7代目にあたるトーマス・
 バウアー最高経営責任者(CEO)は、中国における自
 社事業の状況や、これまでドイツ企業と政治家が「確実
 に儲かる賭け」とみなしてきた中国との経済関係全般に
 ついて、危惧していると語る。
  「ドイツは、1つのバスケットに卵をたくさん入れす
 ぎた。
  そのバスケットとは中国のことだ」と話す62歳のバウ
 アー氏。
  バイエルンのアクセントが強く、陽気なバウアー氏は、
 ミュンヘンから車で約1時間の距離にあるシュロベンハ
 ウゼンの本社でロイターの取材に応じた。
  同社の懸念は、ドイツで広まりつつある恐れを示して
 いる。
  ここ10年以上、ドイツ経済は、世界金融危機やユーロ
 圏債務問題、大量の難民流入などにも耐え、欧州成長を
 けん引してきた。
  その強さの裏側には、2つのエンジンがあった。
  ドイツの革新的企業が、成長経済が必要とするハイエ
 ンド(高性能、あるいは最高級であるさま)な製品を数
 多く生産してきた。
  また、ドイツは、オープンでルールに沿った世界貿易
 システムから利益を上げることに長けており、そこから
 競争力を得ていた。
  中国は、この両面で重要だった。
  この10年、外国企業に対して徐々に門戸を開く中で、
 中国は、ドイツ製の自動車や機械を驚くべきペースで買
 い上げている。
  ドイツの自動車メーカーは、昨年だけで、米国販売の
 3倍以上に相当する500万台近くを中国で売り上げた。
  しかし、依然として好況が続いているものの、「ドイ
 ツ株式会社」の中国市場に対する見方には、劇的な変化
 が生じつつある。
  習近平政権の下で、中国の開放政策が逆回転を始めて
 いるだけでなく、中国企業も、ドイツ側の予想を大きく
 上回るスピードでバリューチェーン(価値連鎖)の上流
 へ移動してしまったのだ。
  ドイツが抱える中国のコナンドラム(謎)は、欧州が
 直面する、より広範な試練の一角だ。
  ここ数年、内向きな危機対応に追われていた欧州は、
 今後待ち受ける地政学的、経済的リスクに対応するには、
 政治的に分断されており、まだ準備不足の状態だ。
  欧州大陸はいまや、自己主張を強める中国と「アメリ
 カ・ファースト」を掲げるトランプ米大統領の間で、板
 挟みになるリスクに直面している。
  中国におけるドイツ企業の窮状を、密かに「ゆでガエ
 ル」に例える企業幹部もいる。
  常温の水にカエルを入れ、徐々に過熱すると、熱湯に
 なった時には跳んで逃げることもできず、ゆで上がって
 死んでしまうのだ。
  ドイツのクラウス駐中国大使は、ベルリンで先月開か
 れた企業経営者との会合で、ドイツと中国の関係に「地
 殻変動的な変化」が起きると警鐘を鳴らした。
  同会合の出席者が明らかにした。
  「中国とのパートナーシップの新時代について、われ
 われは心構えを呼びかける必要がある」と、ドイツ最大
 の産業グループであるドイツ産業連盟(BDI)の幹部
 は話す。
  「まだ今は黄金時代だが、今後何が起きるかについて
 は重大な懸念を持っている」
  <国家の役割>
  ドイツ企業は、先頭を切って中国進出を果たし、中国
 経済の発展に伴ってドイツに有利な状況をもたらした。
  2国間貿易は昨年、過去最高の1870億ユーロ(約24.7
 兆円)に達し、中国との貿易高がそれぞれ700億ユーロ程
 度だった英国やフランスを大きく凌駕している。
  2017年のドイツの対中貿易赤字は140億ユーロだったが、
 米国が抱える対中貿易赤字3750億ドル(約40兆円)に比
 べればわずかだ。
  世界70カ国で1万1000人を雇用するバウアーは、1990
 年代半ばに同社にとって初の中国生産施設を建設した。
  その当時は、高層ビルや発電所、空港などの基礎工事
 に必要な、同社が誇る黄色の巨大で複雑な掘削機を生産
 可能な中国企業は1社も存在しなかった。
  だが、2013年までに、そうした掘削機を生産できる中
 国の競合企業が36社に増加。
  バウアーCEOは、欧州サプライヤーが共同開発した
 部品を中国に売却したことで、シフトが加速されたと指
 摘する。
  10年前、バウアーの中国工場には1億ユーロ超の売上
 げがあった。
  続く9年のうち5年の年間売上げは、その半分に達しな
 かった。
  現在では、バウアーを含めたドイツ企業は、中国政府
 が自国経済に及ぼす役割を、何よりも懸念しているとい
 う。
  中国は、昨年、サイバーセキュリティ法を制定し、外
 国企業が本社との機密連絡に使う仮想プライベートネッ
 トワーク(VPN)を含めたインターネットに対する国
 家統制を強化した。
  最近では、複数のドイツ企業が、中国合弁パートナー
 の取締役に共産党役員を受け入れるよう圧力を受けてい
 ると苦情を申し立てている。
  バウアーCEOは、習近平国家主席が唱える「中国製
 造2025(メイド・イン・チャイナ2015)」戦略が、ドイ
 ツ製造業の優位を直接脅かすのではないかと懸念する。
  同戦略では、ロボティクスや航空産業、クリーン動力
 で動く自動車など10分野を重点分野に指定している。
  バウアーCEOは、自社の強みを維持するため、デジ
 タル化を急がせている。
  「これは模倣者との競争ではない。
  これは、われわれに取って代わろうとする革新的エン
 ジニアとの戦いだ」と、バウアーCEOは言う。
  「早期に答えを見つけ出さなければ、非常に悪い結果
 を招くだろう」
  <トランプ関税>
  ドイツが抱える不安は、中国に対して数百億ドル規模
 の追加関税を突き付けたトランプ米大統領の懸念に似て
 いる。
  しかし、ドイツ主要企業があまりにも中国市場への依
 存を深めていたため、独政府は中国との衝突を避けてき
 た。
  独自動車大手ダイムラー(DAIGn.DE)は2月、いかに一
 部企業が中国政府を怒らせないよう臆病になっているか
 を自ら体現している。
  チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世の言葉
 を引用した、高級車ブランドのメルセデス・ベンツのイ
 ンスタグラム広告が、中国で大きな反発を呼んだことを
 受け、同社はこの広告を削除した。
  その上で、同社のツェッチェCEOは声明を出し、「
 不注意で無神経な過ち」により、中国人に「痛みと悲し
 み」を与えたとして、深い遺憾の意を表したのだ。
  「ドイツの人々が、中国について話すことと、彼らが
 実際に考えていることの間には大きな違いがある」と、
 ベルテルスマン財団のベルンハルト・バーチ氏は言う。
  同財団は、「10年後には、中国が欧州の政治・経済シ
 ステムを大きく損なっている」と題する討論会を、ベル
 リンに本拠を置くメルカトル中国研究所(MERICS)
 と合同で今月行う予定だ。
  中国で活動するドイツ企業のムードも冷めつつある。
  中国のドイツ商工会議所が、昨年後半に行った調査に
 よると、中国内の新たな場所に投資を計画している企業
 数が、久しぶりに会員企業の半数を割り込んだ。
  また、中国に進出したドイツ企業の13%近くが、今後
 2年以内に撤退する可能性があると回答した。
  過去数十年間、中国に対するドイツのアプローチは「
 通商を通じた変化」という言葉で説明することができた。
  だが今や、この戦略は崩壊した。
  政府関係者からは、「ウィン・ウィンの新しい意味は、
 中国が2度勝つということだ」といったブラックジョー
 クも聞こえてくる。
  「緊密な経済関係が、開放を促進することを期待して
 いた。
  だが、明らかにそれは誤った期待だった」と、ある政
 府関係者は語る。
  「彼らは、口ではわれわれが聞きたがっていることを
 言うが、その正反対の行動を取る」
  ドイツ政府も、方針転換を始めている。
  昨年、中国家電大手の美的集団(000333.SZ)による独ロ
 ボット大手クーカ(KU2G.DE)の買収が批判を浴びたことで、
 ドイツ政府は外国企業の投資に対する規制を強化し、欧
 州における買収審査に関する新ルール策定に向けて動き
 始めた。
  昨年12月には、中国当局がソーシャルメディア上の偽
 アカウントを通じてドイツの政治家情報を集めていると
 独情報当局が指摘し、中国側を激怒させた。
  このように公然と非難することはまれで、中国にメッ
 セージを送る意図があったとドイツ政府は述べている。
  今年、予定されているドイツと中国の首脳会談におい
 て、独側はより強硬な姿勢を取る方向だと、政府高官は
 語る。
  しかし、その一方で、欧州連合(EU)の内部分裂や、
 単独歩調を崩さないトランプ米政権と欧州との距離が広
 がっていることから、中国政府に方針転換を強いるのは
 困難だと認識している。
  「中国が、本当に心配しているのは、欧州と米国が、
 中国に対して共同歩調を取ることだ」と、ドイツ政府関
 係者は語る。
  「その意味で、トランプ大統領はまさに中国にとって
 天の恵みだ」
.
2018年5月20日、この日の読売新聞に・・、
  「『日米欧』対『中国』の競争の時代」として、『世
 界秩序』はどの方向へ進んで行くのか・・についての意
 見が記載されていた。
  論者は、JR東海名誉会長の葛西敬之(かさいよしゆ
 き)氏である・・
  それを参考に、その抜粋を以下に記す・・
  「世界秩序は今、第二次世界大戦後、最大の転換期に
 入って来ている。
  それは、中国が世界秩序に対してとって来た曖昧な態
 度を改め、独自の価値観に基づいた新しい秩序作りに着
 手する姿勢を鮮明に打ち出したことで顕在化した。
  米国や欧州は、これまで、中国を国際市場に受け入れ
 て、経済的発展を支援すれば、やがて、中国の民主化が
 進み、自由と民主主義を基盤とする世界秩序に同化する
 と考えて来た。
  だが、中国政府は、自国の市場を閉ざしたまま、自国
 企業の海外市場への進出を強力に支援して、経済成長を
 遂げる一方、国内では、民主的な動きを警戒して、市民
 に対する言論統制を強め、軍備の近代化と増強を急速に
 進めている。
  3月の全国人民代表大会で、習近平国家主席は、21世紀
 半ばまでに、世界一流の軍事力を備えた「社会主義現代
 化強国」と、「一帯一路」の推進による中国主導の「人
 類運命共同体」を建設すると宣言した。
  これを見て、米欧は、中国が権威主義的な価値観に基
 づく独自のシステムを構築し、既存の世界秩序に挑戦す
 る意思表示と受け止め、対応を転換しつつある。
  世界は、異なる価値観に基づく二つのシステム、すな
 わち「自由・民主主義システム」と「新・中華システム」
 の間での競争時代に突入した。
  日本は、「自由・民主主義システム」の最前列に立つ
 ことになった。
  日本にとって喫緊(きっきん)の問題は、勿論、北朝
 鮮の核武装であり、その速やかな非核化である。
  但し、それは、北朝鮮の主体的な動きとして捉えるの
 ではなく、中国の前衛として、さらには、米中関係の一
 端として見るべきである。
  加えて、北朝鮮と国境を接する韓国の北朝鮮への傾斜
 が事態をより複雑にしている。
  韓国の文在寅大統領と北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員
 長による南北首脳会談が4月27日に行われ、「板門店宣言」
 が発表された。
  宣言には、抽象的な言葉が羅列されているが、その含
 意は明らかだ。
  「核のない朝鮮半島」という表現には、北朝鮮の核だ
 けでなく、米国の核をも争点にする底意が感じられる。
  また、「南北終戦宣言と平和協定締結」は、国連軍司
 令部を解散し、在韓米軍を形骸化する狙いをにおわせる。
  しかも、速やかに北朝鮮を非核化する意思は感じられ
 ない。
  総じて板門店宣言は、中国にとっても好ましい内容と
 なっている。
  こうした中で、日本にとって寛容なのは、日米同盟に
 依拠して揺るがない基盤を築くことである。
  力強く自信にあふれて日本と共に行動する米国と、そ
 れを同盟国として支える日本の覚悟が問われている。
  板門店宣言を一読して、「米国は、早晩、在韓米軍の
 撤退を提起するだろう」と感じた。
  韓国の強い要請と積極的な協力が無ければ、在韓米軍
 は機能しない。
  いずれ、撤退を決断せざるを得ないのであれば、「早
 く提起する方が賢明」という判断には理があると思う。
  北朝鮮の核に対する米国歴代政権の曖昧な姿勢が韓国
 民の不安を招き、今日の朝鮮半島情勢の流動化につなが
 ったとも考えられる。
  故に、米国が、新たな決意のもとに、韓国民の真意を
 問い直すことは意味がある。
  その場合、日本の立場は難しい。
  在日米軍に反対する勢力は勢いづくだろう。
  しかし、現実を直視すれば、日本の安全と独立が、今
 日ほど危機に瀕し、日米同盟による抑止力が死活的に重
 要だったことはない。
  「逆もまた真なり」で、米国にとって、日本の防衛と
 その為の米軍の存在は、ますます死活的になる。
  こうした中で、大切なのは強固な日米同盟を堅持する
 事であり、社会・産業分野においても、日米の連係を強
 める必要がある。・・以下略・・
  以下は、TPPへのアメリカの復帰を促す・・と、日
 米の「5G]技術の構築・・「第4次産業革命」の競争
 優位を持つ(中国も、戦略として5G分野を握り、中国
 企業の技術的優位性を保持させ(デジタルシルクロード
 の展開)・・情報戦略・・アメリカは、その中国戦略に
 対抗し、中国企業のアメリカの通信インフラでの使用リ
 スクを回避しようとしている・・この面での競争激化・・
 国家統治の安全保障・・
.
2018年、アメリカは、コントロールが効く日本に、「核を
 持たせたくない」と、「核は持たせない」と、やって来
 た。
  そして、アメリカは、日本の世論操作までした。
  アメリカは、韓国には『論外の国だ』という厳しさで
 やって来た。
  やはり、韓国も核は持ちたいと意識していたが、この
 様なアメリカに不満を持ち、秘めていた。
  ここで、今(2017年)、北朝鮮が核保有国になった。
  そして、この北朝鮮と韓国は、中国の冊封国、もしく
 は、冊封国への道を進んでいる。
  韓国は、「北朝鮮と一体となった国」になりたいと思
 うのと共に、この北朝鮮の「核の傘の下に入りたい」と
 も思っている。
  この意味で、今・現在(2018年)、韓国のアメリカ離
 れが進んでいる。
  あるのは、核保有国となる韓国である。
  北朝鮮の金日成の時からの方針である「核保有」は、
 今・現在、北朝鮮は達成し、韓国と共に核保有の軍事態
 勢に成功したとされる直前となっている。
  規制の効く日本と、ホッタラカシにして来た北朝鮮の
 アメリカの姿勢が・・この、今の状況となっている。
  アメリカは韓国から撤退し、38度線は対馬海峡となり、
 その先には核保有した朝鮮が居るという状況となる。
  その日本では、相変わらず国家の防衛論よりモリカケ
 論に終始する状況が続いている・・
  このまま、なし崩し的に・・隣の家までが核を持つ、
 それに怯(おび)え続ける日本となって行くのか??
  中国に脅されて重要技術を取られるという様な事が、
 隣国へもするような日本となるのか・・??
  そして、新聞に以下のことが記されていた・・
  「中国は、巧(たく)みに日本の親中派を厚遇し、批
 判的な人を冷遇して来た。
  しかし、そうすればするぼど、戦略思考を持つ政治家
 とのあいだの対話が成り立たず、利害調整がしにくくな
 って来た」・・と・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)596E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年5月~1894年5月)

2018-05-26 03:40:34 | 日記
題:(増補版)596E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年5月~1894年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年5月16日、北村透谷が自殺(縊死)
  北村透谷(きたむらとうこく、1868年~1894年)評論
 家、詩人。)
  1868年12月29日、相模国足柄下郡小田原で没落士族の
   家に生まれる。
  1881年(13歳)一家で上京し、東京の数寄屋橋近くの
   泰明小学校に通う、翌年、卒業。
  1883年(15歳)横浜のグランド・ホテルのボーイとな
   り、この年、東京専門学校(現:早稲田大学)政治
   科に入学。
  1886年(18歳)この頃まで、東京専門学校に籍を置く
   が、左翼と知り合い、自由民権運動に参加する。
   学校は卒業はしていない。
    自由民権運動は閉塞してゆく・・、
    大阪事件の際、同志から活動資金を得るため強盗
   をするという計画を打ち明けられ、その行動を勧誘
   された・・苦悩のうちに参加を拒絶し、絶望してそ
   の運動を離れる。
  1888年(20歳)数寄屋橋教会で洗礼を受ける。
  1888年(20歳)石坂ミナと結婚、キリスト教への入信
   を支えにする。
    通訳として麻布教会へ通う。
  1889年(21歳)『楚囚の詩』を自費出版したが、出版
   直後に、その出版を後悔し、自ら回収し、みずから
   廃棄した。
   第一::曽《か》つて誤つて法を破り
   政治の罪人《つみびと》として捕はれたり、
   余と生死を誓ひし壮士等の
   数多《あまた》あるうちに余は其首領なり、
   中《なか》に、余が最愛の
   まだ蕾《つぼみ》の花なる少女も、
   国の為とて諸共《もろとも》に
   この花婿も花嫁も。
   第二::余が髪は何時《いつ》の間《ま》にか伸び
  ていと長し、
   前額《ひたい》を盖《おお》ひ眼を遮《さえぎ》り
  ていと重し、
   肉は落ち骨出で胸は常に枯れ、
   沈み、萎《しお》れ、縮み、あゝ物憂《ものう》し、
   歳月《さいげつ》を重ねし故にあらず、
   又た疾病《しつぺい》に苦《くるし》む為ならず、
   浦島が帰郷の其れにも
   はて似付《につ》かふもあらず、
   余が口は涸《か》れたり、余が眼は凹《くぼ》し、
   曽《か》つて世を動かす弁論をなせし此口も、
   曽つて万古を通貫したるこの活眼《かつがん》も、
   はや今は口は腐《くさ》れたる空気を呼吸し
   眼は限られたる暗き壁を睥睨《へいげい》し
   且つ我腕は曲り、足は撓《た》ゆめり、
   嗚呼《ああ》楚囚! 世の太陽はいと遠し!
   噫《ああ》此《こ》は何の科《とが》ぞや?
   たゞ国の前途を計《はか》りてなり!
   噫此は何の結果ぞや?
   此世の民に尽したればなり!
   去《さ》れど独り余ならず、
   吾が祖父は骨を戦野に暴《さら》せり、
   吾が父も国の為めに生命《いのち》を捨《すて》たり、
   余が代《よ》には楚囚となりて
   とこしなへに母に離るなり。
  1889年(21歳)日本平和会の結成に参画、機関誌『平
   和』に寄稿。
  1891年(23歳)5月、『蓬莱曲』を自費で出版する。
    劇詩で、キリスト教的世界観からインド仏教的世
   界観への屈折がみられる。
    養真堂刊という形で自費出版した。
    蓬莱山つまり富士山の麓(ふもと)・中腹・絶頂を
   舞台に設定、現世を捨ててここにきた気性鋭い内攻
   的な青年に、大魔王が自分こそこの世の物質的な繁
   栄を支配していると同時にその破滅をも支配してい
   る、と告げ、自分に服従せよというが、青年はそれ
   を拒み富士山頂で死ぬ。
    青年は、作者透谷のおもかげを宿す。
    未完の『蓬莱曲別篇(べつへん)』が付載されてい
   て、そこでは青年の恋人の愛が彼の霊を彼岸(ひがん)
   での救いに導く。
  1892年(24歳)評論「厭世(えんせい、この世・人生
   をはかなむ)詩家と女性」を『女学雑誌』に発表。
   「恋愛は人世の秘鑰(ひやく、秘密のかぎ)なり」
  1893年(25歳)島崎藤村らと創刊した『文学界』誌上
   に「人生に相渉るとは何の謂ぞ」、「内部生命論」
   など多くの文芸評論を執筆する・・しかし、ロマン
   チシズムの文学論は透谷自体を追い詰め、病気、貧
   困なども加わる。
  1894年(26歳)次第に精神に変調をきたし、評論『エ
   マーソン』を最後に、芝公園で首吊り自殺をした。
    原罪を意識させ、自分は悪いのだを洗脳させるキ
   リスト教・・この様な希望のない性悪説ではなく、
    一切衆生悉有仏性・・皆が持つ希望の仏性・・の
   未来の希望はあるの考え方を持つように・・
  (参考)大般(だいはつ)涅槃経に、「仏身常住(ぶ
     つしんじようじゆう)」:悟りを開いた仏の身
     体は法として永遠に存在する・・
      「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうし
     つうぶつしよう)」:すべての方々、また、生
     きとし生けるもの、すべてが、生まれながらに
     して、仏となりうる可能性(仏性)を有し、す
     べてを悟り得る存在です・・、

1894年5月26日、山形市大火。
  この大火は、山形市南大火と呼ばれ、蝋燭町(ろうそ
 くまち、現:十日町の嘯月あたり)を火元とし、強風に
 よって火の手は四方に広がり、約10時間燃え続け、十日
 町・八日町・三日町・小姓町など、市外南部を中心に、
 17ヶ所に及んだ。
  焼失したのは本家数だけで1,608軒。
  因みに、 ろうそくの製造を家業とする職人が住んでい
 たことから名付けられ・・、
  当時の絵図には「アカシマチ」となっている。
  この町の最上ろうそくは明るく長持ちすると大変好評
 で、徳川家康が夜宴を開いた際、暗いので最上ろうそく
 に取り換えさせたというエピソードがある。
  領主の最上家の将軍家への土産品にも蝋燭は欠かせな
 いもので、慶長10年(1605年)に、家康を訪問した際に
 は千挺(ちょう、1000本)も献上した。

1894年5月26日、綿糸輸出を促進するために、綿糸輸出関税
 を撤廃した。
  この頃、綿花輸入税・綿糸輸出税の廃止運動が行なわ
 れていた・・これは・・、
  1890年に、日本の綿糸生産量は、原料綿花の輸入量を
 上回るようになったからだった。  
  国内の綿花栽培農家を保護するための綿花輸入税や、
 綿織物生産業者を保護するための綿糸輸出税の存在は、
 力がついて来た日本の紡績業の国際競争における足かせ
 となって来ていた。
  そのため、大日本綿糸紡績同業連合会は、1888年以後、
 両税の廃止を働きかけた・・また・・、
  1891年以後に、商業会議所などを巻き込んで本格的な
 運動を開始した。
  これに対して、大日本農会は、国内農家保護の観点か
 ら反対運動を起こし、帝国議会でも議論が行われた。
  だが、郵便報知新聞・日本・東京経済雑誌などの主要
 なマスコミが両税廃止運動を支持した。
  因みに、綿花輸入関税の撤廃は、1896年。
  開国後の近代化で、日本には、綿糸製造産業が、欧米
 の技術を導入して各地に設立されていた。
  そして、その産業を保護するために、産業が確立され
 るまで、その製品の綿糸が外国に流れて、日本の産業が
 育たないことにならない様に、綿糸輸出関税をかけてい
 た。
  しかし、日本の綿糸生産が、外国からの原料(綿花)
 の輸入量を超えるくらいに育ったため、そして、その育
 った日本の綿糸が輸出しやすくするために、綿糸輸出関
 税を撤廃した。
  また、綿花を国内で生産をしていたとしても、日本の
 経済成長、工業発展もあって、綿花を輸入せざるを得な
 い状況になっており・・、
  また、綿花栽培農家は、他の生産物への転換が容易だ
 ったことによって、綿花栽培農家のための保護関税を撤
 廃し、原料綿花のコスト低減のための綿花輸入関税の撤
 廃を行なった。

1894年5月30日、甲午農民戦争で、東学党軍が、ほぼ朝鮮全
 羅道を制圧した。
  李朝朝鮮政府は、清国に援助を要請した。

1894年5月31日、朝鮮農民軍が、全州占領。朝鮮内乱重大化。
  甲午農民戦争(東学党の乱): 乱徒が朝鮮全州を占領。

1894年5月31日、衆議院が、内閣弾劾上奏案を可決した。
  この年の3月1日の第三回総選挙は、自由党は30近く議
 席を回復し、硬六派は180から40議席も減少していた。
  そして、景気は良く、経済情勢には対立激化の要因は
 なかった。
  しかし、対外硬の面で、激しい対立が続いた。
  野党はなお130の議席を確保した。
  そして、さらに、無所属切り崩し、衆議院を制圧でき
 る可能性出て来た。
  また、マスコミも、国粋派の新聞「日本」や、民友社
 の「国民新聞」にまで反政府側だった。
  そして、また、枢密院や貴族院の一角までが、条約励
 行案支持となっていた。
  対外硬派の狙いは、藩閥政府の打倒にあった。
  しかし、この狙いを越えた行動・・対外硬の行動とし
 て現れて行った。
  また、中国・清側も、日本を弱小国としてみて、強硬
 な態度に相変わらずいた。
  ここに、朝鮮世情の不安定さが加わった。
  始まりは・・6月1日の李朝朝鮮政府が、東学党の農民
 軍に大敗したことにあった・・
  李朝朝鮮政府は、清国に出兵を要請した。
  日本も、清国との申し合わせによって出兵した。
  1885年に、日本と清国は、朝鮮に出兵する時には、事
 前にお互いに、相手側へ通知し合うという条約を結んで
 いた。
  この事態になるまでに、日本国内にも、マスコミが騒
 ぐ状況が起きた・・
  清の中国軍の朝鮮出兵に対し新聞論調は一夜にして急
 変した。
  国民新聞を先頭に朝鮮出兵を叫び始めた。
  対外硬もたちまち対清硬に変じた。
  1894年6月2日、衆議院の上奏が却下され、解散した。
  そして、1894年6月4日、出兵が開始された。
  そして、1894年6月5日、大本営が設置された。
  そして、この当時の国際的重要国であるイギリスと、
  1894年7月16日、日英日英通商航海条約の新条約が調印
 された。
  これは、イギリスの日本への支持を示すものでもあっ
 た。
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国は色々な民族の地・・
    中国は、種々の民族が入れ代わり立ち代わり領有(りょうゆう、
   領地として持つこと)した・・
    例えば・・唐が「漢民族を名乗った」のは、「中原の支配権を正当化するため」に
   自身が漢民族の末裔であることを主張したかった。
.
紀元前1万4000年、今から16,000年前の縄文時代の人骨から
 分かること・・、
  《古人骨と食べ物》 
  米田 穣氏(東京大学大学院新領域創成学研究科准教
 授):
  縄文や弥生の時代の人骨を分析して、当時の日本人が
 何を食べていたかを探る研究が進んでいる・・、
  同位体生態学・・、
  骨を分析すれば、そこから食べていたものを突き止め
 られる・・、
  古人骨に含まれる元素の重い同位体や、軽い同位体の
 比率を調べる・・
  およそ1万6000年前に始まる縄文時代の人骨・・
  亜寒帯の北海道、温帯の本州、亜熱帯の沖縄・・
  北海道では、オットセイの様な海生哺乳類、鮭などの
 魚を主なタンパク源とエネルギー源にしていた。
  本州は、氷河期が終わって森で覆われていて、クリな
 どの木の実を主食にしエネルギー源とし、魚をタンパク
 源としていた。
  これに対し、沖縄では、サンゴ礁で採れる小魚や貝類
 が主体で、これをタンパク源としていた。
  紀元前800年頃に始まる弥生時代は、稲作が伝わる。
  「縄文時代の後期に、本州の人口が減少する・・、
  森で何かが起きて、木の実が採りにくくなったのが原
 因と思われている・・、
  そこで、弥生時代には、稲を積極的に導入し、タンパ
 ク源は、従来同様、魚に求めていた・・、
  米と魚に象徴されるスシ文化は・・弥生時代に確立さ
 れたともいえる。
  でも・・、植物のデンプンをエネルギー源に、魚をタ
 ンパク源にする伝統的な日本食文化の起源は・・縄文時
 代に確立していた・・
  私たちの祖先が、アフリカのジャングルで暮らしてい
 た頃は、果実など植物質の食べ物で胃袋を満たしていて、
  サバンナに出てくると、肉食に転換した。
  初めは、猛獣が食べ残した動物の骨を石器で砕き、骨
 髄などを食べていたと考えられる。
  アフリカを出て・・欧州で進化したネアンデルタール
 人の骨を分析した結果、大型の哺乳類を主に食べていた
 事が分かっている。
  これに対し、人類学の分類上、人と直接つながるクロ
 マニヨン人が、魚や小型の動物を食べていたようで、最
 終氷期(8万~2万年前)の終わり頃、温暖化に向かう
 中で、植物を食事に取り込むようになった。
  火で加熱して糖分に替えたりして、植物のデンプンを
 食べるようになった。
       (参考、日本経済新聞、2010年9月18日)
       ・
       ・
907年、中国の唐が崩壊した。
  これは中国の統一王朝だった。
  これ以来、中国は群雄割拠の分割政権が続く。
  この唐以来の中国統一政権を樹立したのが元(げん)
 だった。
  唐の滅亡後、五代十国となる。
  そして、宋となるが、西夏や遼があり、中国統一王朝
 ではなかった。
  唐は、李淵(りえん)が、隋を滅ぼして建国した。
  李淵は、唐の初代皇帝となり、漢民族だと言われるが、
 漢民族ではない・・、
  学説での実際は・・「鮮卑系の出自であり、本来の姓
 も大野氏である」とある・・、
  鮮卑(せんぴ)は、紀元前3世紀~6世紀にかけて、中
 国北部に存在した遊牧騎馬民族であり、漢民族ではない。
  プロパガンダが働いている・・
  五胡十六国時代、南北朝時代に南下して中国に北魏な
 どの王朝を建てているが・・、
  この唐が「漢民族を名乗った」のは、「中原の支配権
 を正当化するため」に自身が漢民族の末裔であることを
 主張したかった。
  そして、この唐が滅ぶと・・中国は五代十国時代とな
 る・・これは・・
  黄河流域を中心とした華北を統治した5つの王朝(五代)
 と、華中・華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十
 国)とが、興亡する漢民族を含む『色々な民族』の時代
 だった。
  そして、宋の時代になるが、この王朝は、中国全土を
 配下に収めることが出来ず、遼や西夏が存在した。
  そして、宋は、趙匡胤(ちょうきょういん)が五代最
 後の後周から禅譲を受けて建てた国だった。
  趙匡胤は、河北省古安県の人で、父は後唐の禁軍将校
 だったから「漢民族と名のるだけの人」だった(実際は、
 鮮卑系の人・・遊牧騎馬民族)。
  そして、元(げん)が中国統一王朝を造るが・・、
 モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した王朝であ
 った。
  この様に、漢民族が『中国の地の民族などとはまった
 く言えない』・・その様な歴史が存在しているのである。
  この漢民族の現政権の中華人民共和国が、「漢民族が、
 中国古来からの民族だ」の様に言うのは、完全なプロパ
 ガンダ(嘘宣伝)で、この論理でチベット、ウィグル、
 内モンゴルの諸民族の地を、漢民族の領土にしようと暗
 躍しているのは、まったくの侵略行為となっている。
  そして、元(げん)民族に中国が駆逐され、制覇され
 た時、その国の広大さは、中国全土を飲み込むどころか、
 西は、ヨーロッパの地にまで達した。
  「漢民族の中国」などというイメージは、何処を見て
 も完全に影も形もなく、消え去っていた。
  だから、元(げん)民族が、中国の土地は我が民族の
 土地だと、現政権の中共の如くに言っても同じ理屈で言
 ってもよい・・だから、内モンゴルを漢民族の国土だと
 画策するのは侵略であり、間違い。
  その他の地も、漢民族の屁理屈で奪うのは侵略行為。
  この元(げん)は、東は、朝鮮を、いとも簡単に飲み
 込んだ・・そして・・、
  さらに、その東の日本を駆逐し、太平洋へ出たいと、
 突然の如くに、日本にやって来た。
  13世紀末の事であった。
  しかし、日本を駆逐する事は・・できなかった。
  大軍でもって、二度、日本に襲来を試みたが、目的は
 達せられなかった。
  その二度の日本襲来の軍船を造るために、朝鮮の山の
 木は伐られ、朝鮮の山は、どこも禿山(はげやま)とな
 った。
  三度目の日本襲来を計画したが、朝鮮には、その軍船
 を造るための木は乏しかった。
  そして、時代を経て・・その朝鮮の禿山に緑林したの
 が、日韓併合時の日本だった・・献身的な日本だった。
  この事例もそうだが・・日韓併合時は、日本は、一生
 懸命に朝鮮の国づくりを行なった。
  朝鮮戦争の時、その日本が植林した山に、この様な山
 に復活させた事情をよく知るアメリカ兵が、朝鮮戦争の
 戦いの為、この朝鮮の山へ砲弾を撃ち込むのが忍びなか
 ったと言っている。
  日本が、この様に、美しく復活させた植林した山だと
 思っていたと・・、
       ・
       ・
1941年半ば、徹底的に分析された幻の報告書
  第二次世界大戦の戦争の開戦の前に、日米比較が徹底
 的になされ、現状分析がなされた・・幻の報告書
  戦争開戦前に、現状を詳細に分析した報告書が存在し
 た・・
  しかし、現状認識を封印し、戦争は始められた・・
  その結果は悲惨そのものだった・・報告書の通りだっ
 た・・、・
  70年前の日米開戦前に、日本の国力を正確に予測しな
 がら、葬り去られた幻の報告書が存在した。
  戦争が始められる2年3ヶ月も前・・1939年9月、関東軍
 参謀部で満州国の建設主任から急きょ帰国した陸軍中佐
 の秋丸次朗は、「戦争経済研究班」を取り仕切って、そ
 の報告書を作成した。
  同班は「秋丸機関」と通称され、知られた。
  秋丸は、米英との戦争に耐えられるかどうかの分析を
 命じられ、東大教授の有沢広巳、後に、一橋大学学長に
 なる中山伊知郎らの学者を集め、徹底的に調べた。
  20~30人の研究チームだった。
  調査対象は人口、資源、海運、産業など広い分野に及
 んだ。
  資料収集に苦労を重ねた。
  経済封鎖をさせられている日本。
  軍需産業育成にどれだけ力を注げるのか。
  米英との力の差は。
  分析が進んで行った。
  調査開始から1年半後の1941年半ば・・、
  1941年12月8日の日米開戦まであと数カ月の時期に、陸
 軍首脳らに対する報告会が催された。
  秋丸は意を決して言った。
  「日本の経済力を1とすると、英米は合わせて20。
  日本は2年間は蓄えを取り崩して戦えるが、それ以降は
 経済力は下降線をたどり、逆に、米英は上昇し始める。
  彼らとの戦力格差は大きく、持久戦には耐えがたい」。
  これが秋丸機関の結論だった。
  列席したのは杉山元参謀総長ら陸軍の首脳約30人。
  じっと耳を傾けていた杉山がようやく口を開いた。
  「報告書はほぼ完壁で、非難すべき点はない」と報告
 書の分析に敬意を示し、そして続けた、「その結論は国
 策に反する。
  報告書の謄写本はすべて燃やせ」。
  会議から帰って秋丸は報告書を焼却した。
  有沢は、直ちに活動から手を引くように命じられた。
  秋丸機関はほどなく解散し、現状認識を封印した戦争
 が始まった。
  結果は悲惨そのものであった。
  報告書の一部が、秋丸の死後、遺品の中から発見され
 た。
  詳細を極めた報告書であった。
         (参考:日経新聞2011年1月3日)
.
1954年、中国は、ソ連からの原爆技術供与の交渉に成功し
 た。
  毛沢東は、アメリカによる、日本への原子爆弾投下以
 来、原子爆弾を持ちたいと強く願い続けた。
  原爆を使ったアメリカに恐怖した・・
  そして、朝鮮戦争中に、そのアメリカから、核攻撃を
 暗示された。
  その際に、毛沢東は、スターリンに原爆製造技術供与
 を要請した。
  この時、ソ連側は、技術供与に消極的だった。
  しかし、その後の1954年、台湾海峡危機や、ハンガリ
 ー動乱を巡るソ連内部の政治混乱が起き・・これを機会
 に、中国はソ連からの技術供与交渉に成功した。
  そして、中国は、1960年代初頭に設立した第9学会(
 北西核兵器研究設計学会)により、核兵器の開発が進め
 た。
  そして、1964年10月16日、新疆ウイグル自治区のロプ
 ノール湖にて初の核実験が行なわれた。
  また、1967年6月17日、初の水爆実験が行われた。
  中国は、アジア初の核保有国となった
.
1964年10月16日、中国が、新疆ウイグル自治区のロプノー
 ル湖にて初の核実験を行なった(コードネーム596)
  中国は、1964 年から1996 年まで、東トルキスタンの
 ロプノールの核実験場において、延べ46回、総爆発出力
 22メガトン(広島原爆の約1370発分)の核爆発実験を行
 った。
  1964年10月16日の第1回には、20キロトンの地表爆発型
 の実験を始めて行った・・空中爆発である・・
  そして、最大の核爆発は、1976 年11月17日の4メガト
 ンの地表核爆発だった・・これも空中爆発だった・・
  中国の核実験の実態は、長い間、秘密にされ、不明だ
 った。
  日本放射線防護センター代表の高田純氏は、新疆ウイ
 グル自治区で行われた核実験について・・、
  1964年~1996年に行なわれた中国の核実験によって、
 ここの住民、計19万人の命が奪われたと推定した・・
  また、劣悪な医療環境などの影響もあって・・影響は
 広がり・・約75万人の死者が出たという。
  そして、日本のNHKは、西遊記の製作のために、こ
 のウイグル地域に入った。
  1978年と1979年と、2度も続けて・・、
  このために、女優の夏目雅子さんが、この地へ行った。
  その後、夏目雅子さんに癌ができる。
  1981年の2年後に、甲状腺が腫れ(バセドー病)、この
 手術をした・・、その後に、また、瞼が腫れた・・
  1892年には、腎盂炎になり、そして、子宮内膜症にな
 る・・
  そして、夏目雅子さんは、1985年2月に白血病となる。
  そして、1985年9月に亡くなられた。
  そして、このNHKの番組「シルクロード」を見た日
 本人・27万人がシルクロードへ旅行した。
  その様な時のある日本人青年の体験は・・、
  ローカルバスで南新疆に向けて走っていると、突然、
 「ピカッ」っと光るものを見た。
  その後、バスの中を見渡すと同乗者の皆が「鼻血」を
 流していた・・その光景は、その青年には滑稽にさえ思
 えたという・・しかし、その青年も、自分の鼻に手を当
 てると自分も同じように血を流していたという。
  バスの中は騒然となったという・・
  その後、あの時、被爆したのだと思っているという・・、
  札幌医科大学教授・高田純氏は、中国西域の観光から
 帰国した後に「白血病」「肺がん」「悪性リンパ腫」を
 発症したという方や、その家族から情報が寄せられてい 
 るという・・
.
1964年10月27日、中国が、核弾頭を装備した東風2号Aミサ
 イルが酒泉衛星発射センターより発射され、20キロトン
 の核弾頭が、ロプノールの標的上空569mで空中爆発させ
 た。
.
1967年6月17日、中国が、初の水爆実験を行なった。
  威力2メガトンの熱核爆発で、爆発高度地表130メート
 ルの空中爆発の核実験が行われた。
.
1970年、中国は、この年初頭から1971年にかけて、核兵器
 をチベット高原に輸送し、青海省アムドの北西部先端に
 あるツァイダム盆地に、DF-4ミサイル発射用地を完成さ
 せ、核ミサイルを配備した。
  現在もチベット四川省のツァイダム(二カ所)、テルリ
 ンカ、青海省と四川省の境界の四カ所にミサイル発射用
 地が整備されている。
.
1973年6月27日、中国が、航空機からの原爆投下をした。
  航空機からの投下、威力2.5メガトンの熱核爆発の核実
 験を行なった。
  カザフスタンの報告では、爆発高度は1000メートル。
.
1992年、大量の死者が出された中国の原爆
  この年に、ウイグル人のアザト・アキムベク、ユシュ
 ムべク・ムフリーシ氏は、世界核被害者大会で被曝の状
 況を訴えた。
  そして、1998年に、イギリスのチャンネル4で「Death
  on the Silk road(死のシルクロード)」というドキュ
 メンタリーが放送された。
  日本では、あまり東トルキスタンの被曝の状況が知ら
 されることはなかった・・報道が隠されていた・・
.
2002年8月、中国の核による被害調査を、日本人の大学教授
 が行ない・・、
  核防護学者・高田純札幌医科大学教授による2002年8月
 以降の調査では・・、
  中国が、ウイグル地区で実施した核実験によって、同
 自治区のウイグル人を中心に19万人が急死した・・
  そして、急性放射線障害など健康被害者は129万人に
 のぼり・・、
  そのうち、死産や奇形などの胎児への影響が3万5000人
 以上、白血病が3700人以上、甲状腺がんは1万3000人以上
 に達すると発表した。
  また、被害は、シルクロード周辺を訪れた日本人観光
 客27万人にも及んでいる恐れがあり、影響調査が必要で
 あると同教授は指摘した。
  高田教授による調査は、1996年までの中国の46回の同
 地区における核実験の爆発威力や放射線量、気象データ
 や人口密度などを基礎データとした。
  楼蘭遺跡の近くで実施されたメガトン級の核爆発では
 高エネルギーのガンマ線やベータ線、アルファ線などを
 放射する「核の砂」が大量に発生し、東京都の136倍に相
 当する広範囲に及んだ。
  同教授によれば、中国の核実験は、核防護策がずさん
 で、被災したウイグル人への医療ケアも施されずに、広
 島原爆被害の4倍を超える被害者を出した。
  高田教授は「人道的にもこれほどひどい例はない。中
 国政府の情報の隠蔽も加え、国家犯罪にほかならない」
 と批判した。
  このような状況の中で「(中国政府に)実験のモルモ
 ットにされた」と訴えるウイグル人も現れた。
  ウイグル人医師のアニワル氏は、「中国では、被曝者
 が団体を作ることも、抗議デモをすることも許されない。
  また、国家から治療費も出ない。
  中国政府は、『核汚染はない』と公言し、被害状況を
 隠蔽している。
  そのため、海外の援助支援団体も入れない状況となっ
 ている。
  原爆症患者が、30年以上も放置されたまま」・・
  ・・などとして、中国政府の対応を激しく批判した。
  また、核実験場は、最も近い居住エリアから10キロし
 か離れていなかった。
  そのため、ウイグル人の悪性腫瘍の発生率が、中国の
 他の地域の漢人と比べて、35%も高くなっている。
  そして、漢人であっても、ウイグル自治区に30年以上
 滞在しているものは、ウイグル人と同じ発生率となって
 いる。
  また、先天性異常のために歩くことも話すこともでき
 ない「障害児ばかりが生まれる地域」もある。
  中国による同地区核実験については、イギリスBBCが、
 1998年8月に、隠し撮りによるドキュメンタリー「死の
 シルクロード」(27分)を報道し、
  この作品は、ローリー・ペック賞を受賞した。
  アニワル医師も、同作品に同行した。
  この様な事は、中国に利する事ばかりしている日本の
 NHKは行わないだろう。
.
2010年、西側諸国が民主化を煽った。
  「アラブの春」と・・美しい世の中が来ると煽った。
  そして、今、「難民受け入れ」を人道的な問題に絡め
 てとやかく言っているが・・それは、「事後処理をして
 いるごとく」で問題だ。
  これを、とやかく言う前に、この様な難民を発生させ
 ている原点・発生点の問題を追求しなければならない。
  難民を発生させているシリア内戦は、大国によってつ
 くられた紛争である。
  2010年より西側は、民主化を煽った。
  「アラブの春」と美しい世の中が来ると煽った。
  既存の政権が、「遅れた態勢で悪い」ように見せた。
  既存の政権を、次々と壊して行った。
  西側は、「民主主義を根付かせるのだ」が最終目標だ
 った・・が、民主主義が根付いた国は無かった。
  エジプトは、結局、軍制になってしまった。
  リビアは、国の体制がシッチャカ、メッチャカのまま
 で混沌の中にある。
  西側諸国が、かえって悪いことをした結果となった。
  西側諸国は、シリアも、アサド政権の独裁体制を倒し
 たかったのだろうが、難民を生む結果となって、泥沼が
 続いている。
  最初、西側は、アサド政権を倒したいとイスラム国と
 称したISを応援し・・武器を渡した。
  次に、クルド族を応援した。
  アメリカとEUは、このクルド族へ武器を渡してIS
 と交戦させた。
  アサド大統領は、最初から、「我々の敵は、テロリス
 トだ」と言っていたが、アメリカやEUは、聞く耳を持
 っていなかった。
  そして、結局、今・現在(2018年)の泥沼の悲惨な結
 果となっている。
  ロシアは、アサド政権を応援し、大国の代理戦争の様
 相になった。
  ロシアは、IS及びアサド反対派への空爆をしている。
  この難民もEUへ行く。
  アメリカは、何千機ものミサイルをアサド反対派の応
 援のために渡した。
  このミサイルによる難民もEUへ行く。
  EUのドイツは、第二次世界大戦の罪滅ぼしだと、難
 民を受け入れている。
  「非生産的なサイクルだけ」が回っている。
  「みんなが不幸になるサイクルだけ」が回っている。
  アメリカ・ロシアの代理戦争で難民にされた人々が、
 EUに流れ込む。
  そのどばっちりをトルコやEU周辺国などが受けてい
 る。
  トルコの難民は、何と、200万人を越えている。
  かつて、ユダヤの方々が世界中をさ迷ったが、このト
 ルコの難民の方々が世界へさ迷わないで済むようにしな
 ければならない。
  そして、元の国へ帰れるようにしなければならない。
  トルコは、トルコのお金でこの難民を救済している。
  アメリカやロシアは、このトルコを支援していない。
  また、トルコは、EUに支援を要請したが、EUは知
 らん顔をしている。
  何度も無視されている。
  難民の方々は、アメリカ・ロシアを目指せ、問題を作
 った国を目ざせ。
  トルコを反民主主義だと批判するのは間違いだ。
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2015年9月10日、「ディー・ツァイト」紙に、スラヴォイ・
 ジジェクという哲学者の論文が掲載された。
  (参考)「ディー・ツァイト」紙:ドイツ・ハンブル
     クに本拠を置く、週刊発行される全国新聞。
      質の高い新聞としての評価されている。
      発行部数:488,036、推定読者数:200万人以
     上。
      最も広く読まれるドイツの新聞の一つ。
  (参考)スラヴォイ・ジジェク:スロベニアの哲学者。
      難解で知られるラカン派精神分析学を映画や
     オペラや社会問題に適用してみせ、一躍、現代
     思想界の寵児となった。
  スラヴォイ・ジジェク氏は、この論文の中で・・
  「現在、EUを危機に陥(おとしい)れている難民問
 題は、グローバリズムが原因で、それは新たな奴隷制度
 を形成して行くだろう」と結論付けた。
  そして、そのEUの理念は、「美しく『統合』という
 所に立っている」が・・、
  しかし、それは、美しくEU内だけが統合されている
 だけであって・・
  その美しいEUの統合の外側には、「EUが、自由に
 搾取できる広大な地域・世界が広がっている」という状
 況の中に「美しく統合を目指すEU」がある。
  EUの外側世界が搾取される1例を示せば・・
  2001年、国連が、中部アフリカのコンゴにおける資源
 の不法な搾取について調査した。
  コンゴには、豊かな地下資源がある・・
  それは、ダイヤモンド、金、コバルト、コルタンだっ
 た。
  この豊かな資源を巡って、奪い合いの戦争が起きた。
  コンゴ内戦などである。
  (参考)コンゴ内戦には、コンゴ動乱(1960年~1965
     年)、第一次コンゴ戦争(1996年~1997年)、
     第二次コンゴ戦争(1998年~2003年)がある。
      結局、1960年~2003年、戦争状態が続いた。
      この地には、この他にも、コンゴ共和国内戦
     として(1993年~1994年)(1997年~1999年)
     がある。
  その奪い合いの戦争に・・欲深いグローバル資本があ
 った。
  コンゴは、壊されていた。
  もはや、国家と言えるものは無かった。
  資源を搾取する側のEU諸国をはじめとする外国資本
 が、うごめいていた。
  その外国資本が、コンゴの各部族と結び付いて、利権
 を奪いあい・・追い求めていた。 
  EU諸国をはじめ、その外国資本は、コンゴという国
 家を無視し、コンゴの各部族の首領と結び付いて利得を
 追求していた。
  軍隊を作らせ、麻薬中毒にした少年兵にまで戦わせて
 いた。
  巨額の利益が、EU諸国をはじめとする外国資本へ入
 った。
  その利益が、コンゴの人々へ入ることは無かった。
  コンゴの人々は、鉱山で奴隷のごとくの労働をさせら
 れた。
  または、コンゴの人々は、住民の方々は、「難民とな
 って逃げた」・・逃げ惑った。
  西側が奪った、西側に入った資源は、パソコンやスマ
 ホなどのハイテク機器に使われた。
  1514年から1566年の長きにわたって、EUのスペイン
 のキリスト教徒とキリスト教聖職者たちは、南米・中米・
 北米メキシコ、および、その離島で、インディアスの方々
 の1000万人以上を殺しに殺したが・・このEU諸国など
 の1960年代の蛮行は、そのかつての16世紀の極悪蛮行を、
 再び、現代に行ったごとくだった。
.
2015年10月10日、ドイツのベルリンで、TTIP反対デモ
 が行われた。
  代々のアメリカの政権は、その政治は、一握りの者た
 ちに握られ、繰られている。
  本来ならば、大衆の意思が反映されるべき政治の権利
 が、その大衆が持つべきものが・・奪われている。
  大きな資金を寄せた者・・その寄付した者の力が牛耳
 っている。
  金によって有利に・・金を寄せた力が利する政治へと
 繰られている。
  政治を行なうものは、当然、金を必要としているため、
 金を持つ力に繰られてしまうという状態になっている。
  「その意に沿うという政治」が行われる。
  そこにはアメリカの人々・民衆は登場していない。
  これが、ここアメリカだけの問題に終わらない所に大
 きな問題がある・・世界に波及して行くのである。
  民主主義のアメリカ・・アメリカは戦争をしてまで・・
  「民主主義を根付かせるのだ」という大義を立てて戦
 争までするアメリカが・・その民主主義をないがしろに
 しているという状況になっている。
  この様に、民主主義を売り込むアメリカで、民主主義
 が崩壊している。
  この金を持つ力は、世界で莫大に稼いでいる。
  その稼ぐ力の「稼ぐ行為」に抵抗し、逆らう状況を生
 むのが、世界の各国の法律である。
  その1例を言うならば・・農業・・
  農業の遺伝子組み換え作物の数々の事例がその1例・・、
  例えば、EUでは、ほとんどと言ってよいほど「遺伝
 子組み換え作物は禁止」されている。
  しかし、EUの基準は、アメリカ基準より厳しいので、
 アメリカの輸出サイドは困るのである。
  アメリカは、トウモロコシ、大豆、サトウキビなど、
 そのほとんどが、90%が、遺伝子組み換え作物である。
  だから、ここで、アメリカは、このEUの基準を変え
 させようとする。
  色々と・・言いがかりをつけて・・
  EUで遺伝子組み換え作物で儲けたいからである。
  その他、アメリカは、ホルモン剤で成長を速めた牛を
 売りたがっている。
  また、塩素消毒した鶏肉なども、アメリカは、甘い基
 準でOKとなっている。
  このアメリカの甘い規準に、他国に合わさせようとし
 ている。
  今、EUで問題となっているのが、TTIP(環大西
 洋貿易投資パートナーシップ協定)である。
  アメリカの基準の押し付けで、「どこが、パートナー
 だ」と叫びたい状況にある。
  ここで、アメリカ規準が押し付けられている。
  こんなメカニズムで、アメリカの政治を牛耳った「金
 を持った力」が、他国の基準を変えてまでして、輸出し
 て、儲けようとしている。
  民主主義の欠片(かけら)もない。
  一部の特権セクションの言う事を聞くアメリカ政治で、
 圧力を行使するという一部の君主制の如くの政治的圧力
 行動がなされている。
  2015年10月10日に、ベルリンでTTIPの反対デモが
 行われた。
  このデモは空前の規模となった。
  主催者は、25万人と発表した。
  EUの人々の96%が、このTTIPに反対していた。
  人々は、『消費者の安全がないがしろにされている』
 と主張した。
  このアメリカの甘さが、EUの甘さとなり、「消費者
 の安全基準」の劣化・低下が恐れられている。
  そして、この様なアメリカのやり方を、「民主主義の
 崩壊のシステムだ」と糾弾し、主張している。
  民主主義の本家のアメリカが、自分が、「民主主義を
 壊す最右翼に居ること」に気づいていない。
  お粗末の限りである。
  そして、このTTIPにある『ISD条項(投資家対
 国家間の紛争解決条項)』が曲者(くせもの)である。
  つまり、ある企業が、外国で、現地の企業に比べて不
 当に扱われたと感じたとき、その国の政府を、訴える権
 利があるとしている。
  「感じる」という主観的な、曖昧な、怖さもある。
  その様な曖昧な感じから、「調停裁判所」に訴えられ
 たら、そこでの審議は秘密の非公開で行われ・・
  (直接、利害関係のある人々・大衆が知らない所で審
 議される)。
  そして、その決定が最終決定で、上告もできない。
  そして、この決定(判決)には拘束力があり、従わさ
 れるという状況となる。
  その国にある、各国の法律は無視され、その「各国の
 法律よりも強い決定だ」とされている。
  アメリカという「裁判マニア」の国の御都合に沿って
 いるようになっている。
  『暗黒の決定に従う』、それも、何やら分からぬ仲裁
 裁判所という私的な組織の決定に従わされるという・・
 民主主義のひとかけらもない。
  アメリカ政権に、大金を献金するだろう「ある民間営
 利企業の利益」のために、締結国の法律が無効にされる
 という落とし穴を持っている。
  各国には、今まで、修正したり、改正したりして来た
 洗練された法律がある・・その様な法律を、種々、持っ
 ている。
  その総ての法律が「ないがしろにされ」、その法律よ
 り強い決定だというやり方に、何ら民主主義のやり方で
 ないものが、大手を振って歩き出そうとしている。
  人々の税金などの資金が、その様なやり方で奪われ、
 吸い取られ、吸収されそうになっている。
.
2015年11月12日、難民を受け入れていたスウェーデンが、
 入国検査をするという決定をした。
  これは、事実上の『難民の受け入れ拒否』を意味した。
  これをさかのぼること5年の2010年、「アラブの春」と
 呼ばれる民主化運動が、アメリカやヨーロッパ諸国の西
 側諸国に煽(あお)られて、2010年より始まっていて、
 そして、既存の政権が次々と倒された。
  その結果、よりよい政権が生まれたかと言えば、まっ
 たく違っていた。
  庶民の方々は、その混乱の中に投げ出された。
  西側諸国の横暴で「不幸の中に落とされた」という結
 果となった。
  西側諸国は、民主主義を根付かせるのだとした。
  その結果は、成功したかと言えば、成功した例は「ま
 ったく、無かった」。
  ただ、荒れすさぶ国々ができただけだった。
  そして、その荒れすさぶアフリカ諸国から、地中海を
 渡って、難民の方々が、ヨーロッパへ渡るという事態が
 起きた。
  2015年11月11日、EUとアフリカ諸国の首脳が、総勢
 60人が、マルタ島に集まって、サミットが開かれた。
  議題は、アフリカ情勢を安定させて、難民発生を抑え
 る事だった。
  しかし、EUがすることが出来たことは、アフリカ諸
 国への経済援助しかなかった。
  EUの難民を救済するという理念は悲鳴を上げていた。
  そして、この翌日・2015年11月12日、難民を受け入れ
 ていたスウェーデンが、難民の入国検査をするという決
 定をした。
  これは、事実上、難民の受け入れ停止を意味した・・
 難民受け入れ拒否を意味した。
  スウェーデンは、方向転換した。
.
2015年11月、EU・・「難民問題でゆれて」見えたもの・・
  EU・・「統合だ」「グローバリズムだ」・・と美し
 い理念で始まったEU・・、
  そのEUに、「難民」の話が起きて、ある意味EUの
 実態が見えた、
  難民問題は、ある意味、「リトマス試験紙」だった。
  EUの中から「キリスト教徒なら受け入れる」という
 声が出た・・
  「家族を呼び寄せるのは駄目だ」の声・・
  「EU国境線でしっかり入国審査をする」・・
  「地方自治体の首長の難民拒否の意思表示・・我が町
 で増えてもらいたくない」
  「EU議会内でのドイツ批判・・ドイツの行為はスタ
 ンドプレーだ」
  「ドイツに付き合っていられない」
  「ドイツが難民を呼び込んでいる・・迷惑だ」
  「ドイツが、今さら、連帯なんて言わないでくれ」
  「ドイツは、二つの顔を使い分けている」
  「喜んで難民を受け入れるEU内の国は皆無だ・・難
 民の押し付け合いの戦いの状態」
  「EU国境の防衛だ」との政治家や民の声がする。
  ドイツ国民も、二つに分かれて、シッチャカ、メッチ
 ャカになった。
  難民の受け入れに積極的なメルケル首相の支持率も急
 落した。
  ここまでで・・見えて来た事は・・
  「難民は迷惑」
  「難民はEUに入れない」
  「EU国境で審査する仕組みを作る」
  「世界を感動させた『ワンダフルEU』は、急速に過
 去の話になった」
  「美しい理想で始まったEUは、難民処理で可視化さ
 れ、当初の目標であった統合は、そっちのけで各国が、
 それぞれ自国の利益を死守しようとする姿が・・はっき
 り見えた」
  「人道主義や善意は、背に腹は代えられないになった」。
  難民の方々が、逆に、可哀想な状態に置かされるとい
 うEUの形となった。
  EUなんて営利団体・・結局、自分たちがその特典を
 維持し、あるいは強化する目的の団体と化した・・
.
2015年11月21日、ベルギーは、最大のテロ警戒態勢を引い
 た。
  民主主義。
  アメリカやヨーロッパが、民主主義の教えを垂れよう
 と、その国に関わる(余計なおせっかいを始める)。
  民主主義は良い主義なのだから、我々の行動は正しい
 のだの論理でやる。
  この関わりから事が広がって、その国の利益を収奪す
 る様になる。
  特に、アフリカ・・、
  様々な西側資本が、最後には、アフリカの搾取に余念
 がなくなる。
  巧妙なる収奪行為を行う。
  結局、やっていることは、最後に悪となる。
  草刈り場は、アラブからアフリカへ移った。
  新しい草を刈り取りたいと、年がら年中、こんなこと
 をしている。
  アメリカ・ヨーロッパの街がきれいなのも、この様な
 収奪の結果なのだ。
  そして、難民が生まれる。
  哲学者のスラボイ・ジジェク氏は言う・・、
  「難民が出ないようにしたいのならば、やるべきこと
 は簡単だ。
  それは、それらの国々で儲けている西側資本が手を引
 けばよい」・・と・・、
  そして、さらに、「資源の利益が(西側諸国が収奪し
 ないで)現地に還元される様になればさらに良い」と。
  アラブやアフリカの国家の崩壊は、その諸国が悪いの
 ではなく、欲の深い西側諸国が利益を収奪している結果、
 起きていることなのだ。
  この様な国ばかりになっている。
  強国が、弱い者いじめをしているのだ。
  この荒れた国々からテロリストも発生し、悲惨な事件
 も起きるのだ。
  その様な一つが、2015年11月21日、ベルギー政府は、
 ブリュッセル首都圏に、深刻なテロが発生する可能性が
 あるとして、警戒を最高レベルに引き上げた。
  地下鉄は止まり、店は閉まり、町はシーンと静まり返
 った。
  その街を重装備をした警察官と兵士がパトロールする。
  ベルギーは、コンゴからうまい汁を吸った。
  かつての宗主国だった。
  その様に好きにして来た国々から難民が生まれている。
  難民が出ないようにしたいなら、今までやってきた欲
 深い行為を止め、それらの国々で儲けている西側資本(
 グローバリズムを良い事に儲けまくっているグローバル
 企業)が手を引けばよいだけの話。
  そして、資源の利益は、横取りしないで、現地へ還元
 されるようにしなければならない。
  アラブの国家は、そして、アフリカの国家の崩壊は、
 現地だけの問題ではない。
  西側資本が、利益を収奪することが問題なのだ。
  西側強国が、経済的植民地にしている結果なのだ。
  ヨーロッパ列強が、利益を得つづけたアラブ諸国から、
 また、西側資本が、様々な収奪・搾取を余念なくやって
 きたアフリカから、今、難民がなだれ込んでいる。
  この様な状況となった責任は、なだれ込まれているヨ
 ーロッパ列強諸国にある。
.
2016年2月15日、「アラブの春(2011年)」から5年が経ち、
 アラブ世界の状況はかつてないほど悪いが・・と、一方
 の陰の仕掛人のイギリスのエコノミスト誌が、この日に
 言った・・
  「アラブの春」は、ほとんどの当事国にハッピーエン
 ドをもたらさず、リビアとイエメンは内部崩壊、エジプ
 トとバーレーンは以前より強硬な独裁制となり、シリア
 は奈落の底に・・、
  また、他のアラブ諸国も状況は悪く・・イラクは事実
 上、クルド、シーア派、IS支配地域に分裂した。
  アルジェリアとスーダンは、略奪的な軍事政権に支配
 され、パレスチナは孤立と弱体化を深めている。
  富裕な湾岸諸国でさえ、石油価格の急落や増える若年
 層の高い失業率等、体制が揺さぶられるような深刻な事
 態に直面している・・と・・報じた・・
  「民主主義は良い制度だ」と西側諸国が仕掛けた・・
 だからと言って「よくない方法で根付かせよう」とした・・
 ここが悪かった・・ここから難民が発生した。
  ドイツは、第二次世界大戦で卑劣な事をした、だから
 と、罪滅ぼし的に難民受け入れの基本法を持った。
  しかし、その法は、何ら、「悲惨な難民発生を未然に
 防ぐこと」に寄与していない。
  この点に関して、「無力な対応なのだ」。
  例えば、シリアの内戦は、イラクやリビアと同じく、
 「作られた戦争」で、これに対し、まったく関係ない、
 無力の存在。
  西側諸国は、「民主主義を根付かせるのだ」と、2010
 年から、「アラブの春だ」と煽った。
  そして、次々と既存の政権を壊した。
  しかし、前記した様に、不安定な争いの社会ができた
 だけだった。
  この2015年から2017年と、世界を心配させている難民
 問題も、「シリアのアサド政権を倒すのだ」と西側諸国
 が煽った。
  そして、ISへ武器援助をして戦争を作った。
  そして、卑劣な事に、クルド族へ武器を渡して、IS
 に対峙させた。
  アメリカやEUは、戦争づくりをしている。
  そして、収拾の付かない事態となっている。
  ただ、戦争とまったく関係ない人々が殺され、亡くな
 っている・・そして、難民の方々ができた。
  ロシアの大国も参戦して来て、アメリカとロシアの代
 理戦争の状況となった。
  この逆をされたらどう思うのか?
  この主義が良いのだと、勝手な主義の政権を良いと押
 し付けられたら、アメリカやEUはどう思うのか?
  トルコには、200万人の難民の方々が居る。
  こんなにまで大勢の難民数にならなければならないく
 らい問題はこじれている。
  そして、このトルコの難民は、EUには来てもらいた
 くない。
  EUに行きたい難民の方々が、トルコに留まっている。
  トルコは、その難民にかかる費用を援助してくれ、増
 額してくれと、何度もEUに言っているが、EUは、ま
 ったくの知らん顔となっている。
  逆に、苦しんでいるこのトルコを、ドイツは、「反民
 主主義だ」などと非難した。
  ドイツも厳しい状況に置かれているんだろうが・・
  2019年のドイツの生活保護を受ける人の数は、100万人
 増えると推計されている。
  難民の方の一人当たりかかる費用は、医療費を含めて、
 1ヶ月およそ1000ユーロ。
  1ユーロが約130円だから、130円×1000×12ヶ月×1000
 万円は、1.7兆円が・・今までとは別に増える。
  お荷物のギリシャも面倒を見なければならないし・・?
  結局、ドイツの方々に、先々のドイツの崩壊が見えて
 来た・・、その心配が浮上して来た・・、
  ドイツ国内の難民の方々の宿舎に火がつけられる事件
 が起きるようになった。
  こんな事件が、相次ぐようになった。
  難民を受け入れる態度を表明する自治体の町長に、脅
 迫状が送られて来ることなども起きた。
  キリスト教に偏するNHKは、日本を貶(おとし)め
 る放送はするが、この様な放送はまったくしない。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)595E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年3月~1894年5月)

2018-05-15 03:53:37 | 日記
題:(増補版)595E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年3月~1894年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年3月29日、日本鉄道本社汽車課直轄の工場を大宮に
  設け、12月10日、操業開始した。
  (1896年9月1日、汽車課から分離し、大宮工場となる)

1894年3月、村井兄弟商会が、両切り紙巻煙草「ヒーロー」
 を発売した。
  紙巻きたばこの起源は、1853年~1856年のクリミア戦
 争の戦地で、パイプを失った兵士が、火薬を包むための
 紙で、刻みタバコ葉を巻いて吸ったのが始まりと言われ
 ている。
  しかし、コロンブス以前に、アメリカ・インディアン
 は、乾燥させたタバコの葉を刻んで植物などで巻いて吸
 うことを行っていた。
  1700年には、ラテンアメリカからスペインに向けて紙
 巻たばこ用の紙が輸出されている。
  クリミア戦争以前にも、特に、スペインでは紙巻たば
 こが吸われていた。
  紙巻たばこが、主流となったのは、ヨーロッパや日本・
 中国では第一次大戦後で、アメリカでは第二次大戦後。
  また、一般大衆を欺いている行為が・・ライトたばこ
 など、低タールをうたう製品は「ごまかし」がある・・
 大衆を欺いている。
  欧州では、「ライト」「低タール」といった用語の使
 用を禁止しているくらいである・・
  これは、実際には、減少したニコチン摂取量を補うた
 めに喫煙するたばこの本数が増えたり、より深く吸い込
 むことに、はっきりつながっていて、肺腺がんリスクを
 増大させている。
  マイルドやライトでも、吸い方によって吸い込むニコ
 チン量が急増している。
  2009年、アメリカに、タバコに起因する死亡は、44万
 3,000人であり、アルコールは9万8,334人というデーター
 がある。
  また、たばこを吸う人のうち、約半数は、たばこに関
 連した病気で死亡しているとする調査報告があり、
  たばこを吸う人は、そうでない人に比べて寿命が約14
 年短くなるという指摘もある。

1894年3月、朝鮮国内で東学党の乱。

1894年4月2日、日英通商航海条約交渉が開始された。
  この日、ロンドンで、第1回、日英条約改正委員会が
 開かれた。
  調印は、1894年7月16日・・、
  治外法権が撤廃された。
  これは、イギリスが、ロシア帝国の南下に対して、力
 の増した日本に期待した結果だった。
  内容は、内地開放を代償として、領事裁判権を撤廃さ
 せ、関税自主権も部分的に回復させた。
  また、片務的であった最恵国待遇を相互的だとした。
  この条約の調印の時、イギリス外相のキンバーリー伯
 は、日本の青木駐英公使に対して・・、
  「日英間に対等条約が成立したことは、日本の国際的
 地位を向上させるうえで清国の何万の軍を撃破したこと
 よりも重大なことだろう」・・と、日清戦争が起きると
 いう状況を掴(つか)んだ上で語っている。
  また、独り立ちした日本を承認したという形となり・・
  以降、この年の1894年から翌年の1895年にかけて、同
 内容の条約を、アメリカ、フランス、ドイツ、ロシア、
 オランダ、イタリアなど14カ国に調印させた。
  これによって、日本は、法権のうえで、欧米列国と対
 等の関係に入った。

1894年4月8日、ブルックナーの交響曲第5番が初演された。
  グラーツオペラ座(Grazer Oper)

1894年4月10日、愛媛の道後温泉に、道後温泉本館が完成
 した。  
  道後温泉本館は、愛媛県松山市の道後温泉の中心にあ
 る温泉共同浴場で・・別名:愛称が「坊っちゃん湯」。
  1890年、道後湯之町の初代町長として伊佐庭如矢(い
   さにわゆきや)が就任し・・、
    この頃、町の最大の懸案は、老朽化していた道後
   温泉の改築であった。
    伊佐庭は、町長就任に際して、自らは無給とし、
   その給料分を温泉の改築費用に充てることとした。
    総工費は13万5千円。
    当時の小学校教員の初任給が8円といわれた時代で、
   あまりに膨大な予算に町民は驚き、町の財政が傾き
   かねない無謀な投資だと非難が渦巻いた。
    反対運動は激しさを増し、伊佐庭が命の危険を感
   じるほどだったが、伊佐庭は決定を貫き通した。
    棟梁は、城大工の坂本又八郎を起用し、姿を現し
   た木造三層楼は、当時でも大変珍しがられた。
    伊佐庭は、さらに道後への鉄道の引き込みも企図
   し、道後鉄道株式会社を設立した。
    一番町~道後、道後~三津口間に軽便鉄道を走ら
   せ、客を温泉へ運んだ。
    関西からの航路が開かれるなど、道後温泉が発展
   して行った。
  1895年、本館完成の翌年のこの年、文豪・夏目漱石が、
   松山中学の英語教師として赴任した。
    漱石は、その建築に感嘆し、手紙や、後の小説『
   坊つちやん』の中で「温泉だけは立派なものだ」と
   絶賛し、実際に、頻繁に通った。
    手紙では、8銭の入浴料で、「湯に入れば頭まで石
   鹸で洗って」もらえ、3階に上れば「茶を飲み、菓子
   を食う」ことができた・・と・・
    小説では「住田」の温泉として登場する。
    これにあやかって、「坊っちゃん湯」という。
  1994年、国の重要文化財(文化施設)に指定された。
  2009年3月、ミシュランガイド(観光地)日本編におい
   て2つ星に選定された。
  2007年3月、美しい日本の歴史的風土100選に、松山城
   と共に選定された。
  2009年、経済産業省「近代化産業遺産」に認定された。

1894年4月13日、移民保護規則が公布された。
  日本人の海外渡航は、明治維新(1868年)とともに始
 まった。
  今までにない変わりゆく改革の中で、急速な近代化と
 社会変化が起きた。
  農業形態も、経済構造が変わっていくなかの改革で、
 農村部に余剰労働力が生まれた。
  国内や海外へ移動する出稼ぎ労働者が現われた。
  1868年、横浜在住のアメリカ商人ユージン・バンリー
 ドは、150人の日本人労働者をハワイの砂糖プランテーシ
 ョンへ送った。
  また、40人をグアムへ送った。
  この労働者は、「元年者」として知られている。
  日本政府の許可や旅券を受けることなく日本を出国し
 た。
  近代日本の最初の海外移民だった。
  しかし、この「元年者」は、渡航地で奴隷にも等しい
 酷(ひど)い取扱を受けた。
  明治政府が、救出に乗り出さなければならないほどだ
 った。
  国民を大切にする日本政府は、この「元年者」の失敗
 で、この後、20年間近く、日本人の海外移住を許さなか
 った。
  かわりに、北海道開拓を推進した。
  そして、17年後の1885年、ハワイ「官約移民」で再開
 された。
  これは、ハワイ王国の依頼でもあった。
  アメリカによるハワイ乗っ取りへの対応・・アメリカ
 の行動を抑えたいというハワイ王国の日本に頼った面も
 あった。
  日本人の本格的な海外移住が始まった。
  「官約移民」制度は、日本と独立国であるハワイ王国
 の条約に則った正式な正規な行動であった。
  日本人労働者を3年契約で砂糖プランテーションへ送
 るというものだった。
  1894年までの9年間に、総計2万9千人ほどの日本人が、
 この制度によってハワイへ渡航した。
  また、この時、数千人の日本人が、太平洋上の木曜島
 (イギリス領)、ニューカレドニア、オーストラリア、
 フィージーなどへ渡った。
  この頃の渡航者のほとんどが、海外への永住をめざし
 た移民ではなく、数年間の契約労働を目的にしていた出
 稼ぎだった。
  そして、1893年、外務省関係者、知識人、ジャーナリ
 ストなどが集まり「殖民協会」を設立された。
  これは、日本も、西洋諸国の様に、国外市場を拡大し、
 海外へ向けて発展しなければならないとしていた。
  この殖民計画事業は、イギリスのオーストラリア移住
 (侵略)などのようには行かず・・失敗した。
  1899年、南アメリカのペルーへ、最初の契約労働者の
 渡航が始まった。
  そして、ラテンアメリカへの日本人渡航は盛んになっ
 て行った。

1894年4月14日、アメリカのニューヨークで、キネトスコー
 プが公開された。  
  キネトスコープは、1891年、トーマス・エジソンによ
 って発明された(1888年説あり)
  撮影機の方は、キネトグラフといい、キネトスコープ
 より先に、エジソンが発明した。
  1893年、シカゴ万国博覧会に出展された。
  1894年4月14日に、ニューヨークのブロードウェイ1155
   番地に、世界初の映画館(キネトスコープ・パーラ
   ー)が設置された。
    キネトスコープは世界的に大ヒットし、その後、
   2年でアメリカのほとんどの街にキネトスコープ・パ
   ーラーが設置された。
    これは、スクリーンに映写されるのではなく、箱
   の中をのぞき込む形だった。
    当時、「ピープショー」とも呼ばれ、ピープ(peep)
   とは、のぞくという意味。
  1895年、一度に多くの人が鑑賞できるスクリーンに投
   影される形の映画(シネマ)が、リュミエール兄弟
   によって発明された(シネマトグラフ)
  1896年11月25日~1896年12月1日、日本で、エジソンが
   発明したキネトスコープが、神戸の神港倶楽部で初
   上映された。
  1897年、リュミエールが発明したスクリーン式の「シ
   ネマトグラフ」が、大阪の南地演舞場や京都で披露
   された。

1894年4月16日、東海道線が、西ノ宮駅~三ノ宮駅間で複線
 開通した。

1894年4月、甲午(こうご)農民戦争
  朝鮮の全羅道(チュルラド)一帯の農民が、東学教徒
 とともに蜂起した。
  これをきっかけに、各地で農民蜂起があいつぎ、東学・
 農民軍は、随所で政府軍を撃破した。
  全羅道と、その周辺の官庁をつぎつぎと占領し、5月末
 には、全洲(チョンジュ)を制圧した。
  朝鮮李朝政府は、清に軍の派遣を要請する一方で、東
 学農民軍の指導者である全琫準(ジョン・ボンジュン)
 と交渉し、両者は和解した・・が・・

1894年4月、北越鉄道株式会社創立願を逓信大臣に提出した。
  (7月26日仮免状下付)

1894年5月1日、中国鉄道発起人が、岡山駅から津山駅・勝
 山駅・米子駅を経て、境駅に達する鉄道建設を出願した。
  (1894年7月14日、線路を岡山駅~米子駅間に改める)
  (1896年4月30日、免許状下付、のち免許線路の短縮を
  申請し、津山駅以北取消した)

1894年5月4日、朝鮮で、農民軍が白山に集結して、甲午農
 民戦争が再び開始された。

1894年5月7日、文官高等試験細則を制定した(閣令第2号)

1894年5月12日、第6特別議会が召集された(開会、15日)

1894年5月14日、イギリスでブラックプールタワーが公開さ
 れた。
  ブラックプールタワーは、ブラックプールにある塔で、
 エッフェル塔に触発されて建設され、この日に開業した。
  高さ:158メートル
  エッフェル塔:324メートル
  東京タワー:332.6メートル

1894年5月15日、第六特別議会が開会された。
  第六特別議会は、1894年5月15日開会~1894年6月2日解
 散で短い議会だった。
  景気は良くなったが、対外硬で激しく対立した。
・伊藤内閣第六議会解散(氷川清話)
  (参考)対外硬:たいがいこう、
      日清戦争直前、反政府派が、国際協調政策を
     とる政府の外交を攻撃するために唱えた標語。
      ロシアの東アジア進出により緊迫した国際情
     勢であった。
      これに対し、新聞「日本」をはじめとする民
     友社の「国民新聞」に至るまで反政府側の日本
     主義派・・、
      そして、自由党、改進党などの民党連合は、
     政府外交を批判し、また、政費節減・民力休養
     路線と批判した。
      それは不平等条約によって侵されている国家
     主権の回復と、積極的な対外進出を主張してい
     た。
      また、それは、対等条約を実現するためには
     現行条約を励行して、条約の規定のない所で外
     国人を厳しく取り締まり、彼らに不利益を与え、
      対等条約の交渉に列強が応じない場合は、条
     約破棄もせよというものだった。
  この第六回帝国議会で、貴族院議員の近衛篤麿・小沢
 武雄は、議員の二条基弘ほか50人の賛成を得て、「北海
 道ニ鉄道ヲ敷設シ及港湾ヲ修築スルノ建議案」を提出し
 た(建設線路は、函館・小樽間、空知太、網走間、旭川・
 宗谷間)
.
  (今日の言葉)
.
  題:イタリアは敗戦国だ・・しかし、アメリカ・イギリスは戦勝国側にした。
    日本やドイツは、今だに、国連憲章の敵国条項に落としめられている。
.
紀元前160万年、人類の先祖が、この頃、草原の生活で洗練
 された歩き方を始めた。
 160万年前のホモエレクトスだった・・、
 画期的な進化が現れたのだった・・、
 垂直に立つことによって脳は進化し、重く、大きく・・
 言葉の話せる脳への進化だった・・情報伝達力の向上で
 あった。
 アファール猿人の場合は、喉の奥が広くなく、まだ、
 音の種類は狭かった・・が・・、
 まっすぐ立つことによって、喉の奥に空間が出来て・・、
 複雑な音が出せるようになった。
 この脳は、足や手が発達した後に与えられたものだっ
 た・・
 木から降りて、猿と違って、二本の足で立って歩く生
 活になって・・貴方の祖先も・・ここから・・アダムと
 イブもここから・・
  キリスト教のアダムとイブの話の前に、これが無いと
 始まりません・・そうでなければいけません・・その様
 な進化があったのでした・・『進化する力を持つ人間』
 が存在していた・・
  思考を固定化しては、発展はありません・・
  キリスト教は、この最初から間違っていました・・
       ・
       ・
紀元前2万年、フランスの遺跡で、人間が集団で、馬を崖下
 に落とし、狩りをしていた状況が発見された。
 集団で複雑な役割分担をし、言葉で情報をやり取りし
 ・・人間は、さらに、あらゆる面で進化して行きました。
  脳が大きくなった人間・・さらに、この様な複雑な方
 法も手に入れた・・そして、コンピューターにたどり着
 く・・
       ・
       ・
紀元前206年、中国の漢の王朝に、前漢と後漢がある。
  この年、秦が討たれ・・前漢への時代が始まる。
  やっと、漢民族が、歴史に登場・・現れました・・
  中国初の統一王朝だった秦王朝の華夏族・・この秦王
 朝が、この年・紀元前206年、滅亡した。
  (参考)華夏族:かかぞく、漢の時代以前に、中原の
     黄河流域に暮らしていた部族。
  この後、中国は、この秦朝・華夏族を討った漢民族の
 各軍の将帥による群雄割拠の時代となる・・
  漢中、及び、巴蜀(はしょく、現在の四川省)に封じ
 られていた劉邦(りゅうほう、前漢を興した人)が・・、
  紀元前202年に、垓下の戦いで、項羽を討って、中国を
 再統一した。
  (参考)垓下の戦い:がいかのたたかい、中国、漢の
     劉邦が、その勝利を確定的にした戦いで・・
      垓下(現在の安徽省宿州市など)を中心に行
     われた。
      しかし、この戦いが、実際あったのかどうか
     に対して、歴史家から疑問が出されている。
  この劉邦が開いた前漢と、いったん滅亡したのち劉秀
 によって再興された後漢の漢王朝は、あわせて400年と
 なる。
  今・現在、この漢民族が、チベット・ウィグル・内モ
 ンゴルを完全に漢民族国家にしようと暗躍している。
  また、南シナ海や尖閣諸島、および、沖縄などのその
 他の諸地域をも欲しいと狙っている。
  そして、この中国が使う手が冊封体制(さくほうたい
 せい)・・
  現在、この冊封体制下の国に北朝鮮・韓国が入ってい
 る。
  (参考)冊封体制:さくほうたいせい、中国の皇帝が、
     朝貢をして来た周辺諸国の君主へ、官号・爵位
     などを与えて、君臣関係を結んで、彼らにその
     統治を認める(冊封)・・、
      豊臣秀吉が、必死に、徳川家康を大阪城に来
     させようとしたことと同じ・・
      そして、この冊封は、宗主国対藩属国という
     従属的関係におくことをさす。
      朝貢とは、藩属国の使節が、漢皇帝に朝見し
     て土産の産物を献上することをいう。
      これに対し、皇帝は、回賜として、貢物以上
     の返礼物を与えて皇帝の威徳を示した。
      その状況から、朝貢は、君臣関係を表す政治
     的儀礼であった。
      歴史的に、この漢代における外臣の制度がそ
     の始まりと言われている。
      例えば、朝鮮半島北方に成立した渤海(ぼっか
     い)などは、中国・唐と冊封関係を結んだので、
     東アジアの国際情勢は、唐を中心とした冊封体
     制のなかに組み込まれた状態だったが・・、
      日本は、この時、この体制の外にあって・・
     中国とは対等の隣国関係を保持したなどの経緯
     が歴史上にある。
.
2世紀頃、日本で、一番古い『漢字』の記載事例・・
  日本で、これまで知られている漢字で、最も古いもの
 は、2世紀ごろの土器に書かれたもの・・、
  そして、中国の歴史書に、3世紀のころ、日本と中国
 との間で、手紙のやり取りがあったとする記述がある。
  優秀な日本人は、これを発展させて・・、平安時代に、
 中国にない表音文字の平仮名(ひらがな)や片仮名を発
 明した。
  9世紀前半に入ると、漢字と片仮名が混じった文章例が
 みられ・・さらに発展させた表記法を行なった・・
  表意文字と表音文字の混合させた・・世界にはこの様
 な事例なく、日本唯一の優秀な表記法。
  また、10世紀から、平仮名は、漢字と並ぶ文字として
 認められ、ひらがなで書かれた豊かな文学が花開いた・・
  豊かな芸術が花開き・・世界に誇る最初の長編小説や
 日記文学が書かれ、他国の追随を許さない『孤高の光』
 の輝きがあった・・それを、優秀な日本の女性方が成し
 遂げた・・
  この様な素晴らしさを理解の出来ない、戦後の進駐軍
 のアメリカ司令部のマッカーサーは、日本人を馬鹿にし
 て、こんなに多くの漢字を覚えている訳はないと、日本
 人の識字率テストをしたりした、そして、日本を英語化
 しようとした・・
  日本は、中国から漢字を伝えられたが、日本は、更な
 る、豊かな表現手段として平仮名・片仮名を発明し、表
 音文字・表意文字を駆使して美しく豊かな日本文化を発
 展をさせて行った・・
  今・現在でも、ノーベル文学賞を貰うべき方々は、数
 え切れないほど居られるが・・キリスト教に偏するノー
 ベル委員会が授与しないだけ(キリスト教国に偏る)・・
       ・
       ・
980年、キエフ公国は、黒海の北方のウクライナ、ベラルー
 シ、ロシアの西部を領する地であるが・・、
  この国のウラジミール1世(在位980年~1015年)の意
 向によって、キリスト教東方正教会が広まった。
  ウラジミール1世は、ユダヤ教、イスラム教、キリスト
 教を見比べた上で、キリスト教東方正教会を選んだ。
  それは、まったく個人的な好みの「卑劣な選択」だっ
 た。
  彼は、4人までの妻が持てるイスラム教に惹(ひ)か
 れた。
  しかし、禁酒の戒律が嫌だった・・それが、イスラム
 教にあったため、東方正教会のキリスト教を選んだ・・
 酒が飲みたかった・・
  これによって、東方正教会がスラブ人の間に広まった。
  キエフ公国は、バザール・ハン国を滅ぼした後、モス
 クワ近くまで支配した。
  しかし、13世紀半ばに、この国は、モンゴル人によっ
 て滅ぼされた。
.
1008年、日本の才女・紫式部が、源氏物語の執筆を始めた。
  古い時代から女性に優しかった日本・・男女平等をは
 じめ、平等の国・日本の才女・紫式部・・、
  この日本の女性が、世界で最初の長編文学を著わした。
  紫式部は、幼いころから聡明な女性だった。
  彼女の父も、式部省に勤める学者として名高かった。
  この父親が、彼女の弟に漢文を教えていると、そばで
 聞いていた紫式部の方が先に覚えてしまったという話が
 伝わっている。
  20歳代の頃・・紫式部は、国司として赴任する父親に
 従って越前(福井県)に赴(おもむ)いた。
  彼女は、藤原宣孝(のぶたか)から求婚されていた。
  しかし、この宣孝は遊び者であった。
  それで、紫式部は、返事を先延ばしにしていた。
  その様なところだったので、この事もあって、紫式部
 は、京を離れたのだった。
  越前では、父の秘書として、才能を発揮し、その役割
 を果たした・・そして、広い知識も収めた。
  結局、紫式部は、藤原宣孝と京で結ばれたが、夫に先
 立たれた。
  その後、一条天皇の后(きさき)の彰子(しょうし、
 藤原道長の娘)に仕えた。
  才女の集まる宮廷は、優雅で、知的な社交の場だった。
  優秀な才媛らと、その才能を競った。
  そのような環境から、世界に誇る優れた文学が生み出
 された。
  紫式部日記もこの環境を伝える文学となっている。
  宮仕えを終えた紫式部は、1008年頃から、不朽の名作
 「源氏物語」の執筆にとりかかった。
  全54巻にもおよぶ長編小説だった。
  現代に至っても、なお燦然と輝き続ける人類の宝とな
 っている。
.
1297年、ベネチア共和国の第49代元首のピエトロ・グラデ
 ニーゴは、政治改革案を提案した。
  ベネチアの政治は、非常に民主的な政治を目指してい
 た。
  ベネチアの考え方は・・「この世の仕組みは、あくま
 でこの世の民が決める・・(キリスト教の神ではない・・
 また、その代理人であるキリスト教聖職者でもない)」・・
 とした。
  故に、ベネチアは、力を誇示するローマ法王の「支配
 を及ぼそうとする権力」と対峙した。
  ローマ法王(教皇)が嘆いたほどだった・・「教皇で
 ある自分は、ベネチアだけは違う(支配は出来ない)」・・
 と・・、
  べネツアは、キリスト教司祭でさえベネチアの民・住
 民が選び、ローマ法王の権力を排除した。
  ベネチアの政治体制は、ローマ帝国の長さと同じ500年
 間も続いた。
  ベネチアの為政者の選出も神経を使っていた。
  まず、複雑な手順で、その「選出のための有権者」が
 決められた。
  それから、その有権者らの投票で、元首(ドージェ)
 が選出された。
  そして、さらに、専制的にならないように、元首が、
 補佐官の数名と相談して事を為すというシステムになっ
 ていた。
  それでも・・同じ家から二代目、三代目と続かないよ
 うに・・、
  そして、いつの間にか「君主制に転じていた」なんて
 ならないように注意していた。
  今、世の中が進んでいる21世紀だというのに、独裁的
 な国家・・タミの声を聞かない「中国」や「北朝鮮」が
 存在し、その独裁者が、大量殺戮兵器の核ミサイルを世
 界へ向けている。
  このベネチアの元首・グラデニーゴが、1297年に、政
 治改革案を提案したのも、民主政が形骸化して、ダンド
 ロ家やティエポロ家、モロシーニ家といった名門から元
 首が選ばれることが多くなり、金銭が絡む不正や衆愚政
 治的な動きによって政治が左右されることが多くなった
 からだった。
  しかし、この時、グラデニーゴの提案が受け入れられ
 て、改革が行われたと思ったが・・しかし・・、
  中産階級が大幅な増員という形となって、発言力が増
 していた。
  確かに、上流階層の発言力は抑えられたが、また、以
 前から発言力のない下層民衆と共に、この発言を抑えら
 れた・・
  そのため、上流階層と下層民衆の双方から、グラデニ
 ーゴは攻められた。
  また、ローマ法王もベネチアの台頭を快(こころよ)
 く思っていなかったため・・奸計(かんけい、悪意ある
 はかりごと)を巡らせた・・
  ローマ法王は、反対派と共に、グラデニーゴの失脚を
 画策した・・
  よく歴史上で、政治に首を出すキリスト教法王だった。
  1310年6月15日に、クーデターが勃発した。
  だが、グラデニーゴの対応によって、このクーデター
 は失敗に終わった。
  そして、政治改革を行なうのであるが、グラデニーゴ
 は、何故か?、この翌年、急死する・・毒殺?・・
  反対派の毒殺説が存在する。
  ピエトロ・グラデニーゴ:1252年生まれで、1311年に
 59歳で没した・・、
  元首としての在任は、1289年(37歳)から1311年(59
 歳)の22年間だった。
.
15世紀、この頃になると、スラブ人のモスクワ大公国の勢
 力が拡大し目立った。
  キリスト教東方正教会は、キリスト教の三大分流の一
 つだが・・、
  1054年、東ローマ帝国圏のコンスタンティノポリスと
 ローマの総主教座が、東西に分裂し・・、
  以後、西方のローマ‐カトリック教会に対して、正(
 オーソドックス、正統だの意味)教会として発展した。
  15世紀頃になると、ギリシャ正教会が、オスマン帝国
 の支配を受けるようになり・・主流が、ロシア正教会
 (ハリストス正教会)に移った。
  モスクワ大公国のイヴァン3世(在位1462年~1505年)
 は、ロシアをほぼ統一させ、ビザンツ帝国の最後の皇帝
 の姪を妻に迎えた・・、
  この後、ロシア人が、スラブ系の諸勢力の中心となっ
 て、キリスト教の東方正教会の主導権を握った。
  そして、20世紀になって、その多くが・・共産圏へ入
 った。
.
1637年、哲学者・デカルトの最初の著書「方法序説」が書
 かれた。
  この中で、デカルトは、キリスト教のイエズス会のラ・
 フレーシュ学院で学んでいたが・・キリスト教の数々の
 論理矛盾に対し・・そして、これを、伝統的に受け入れ
 ているだけの学問に対し・・批判した。
  当然、その結論は・・そこには、確実なものは「ほと
 んど見当たらない」と・・、
  最新の科学にも通じていて・・「このデカルトやパス
 カル」は、その合理主義を取った。
  そして、科学的思考も重んじた・・非科学的な論理矛
 盾だらけのキリスト教を嫌悪した。
  デカルト等は、「人間の理性は、非合理なものを断ち
 切る知恵を持つ」・・と説いた。
  そして、絶対王政の下で、「キリスト教会が定めた戒
 律」より・・「個々人の理性による判断」の方が確かだ
 ・・と・・
  そして、その思考法を重んじる近代哲学が広まって行
 った。
  近代哲学は、科学的根拠のないキリスト教の宗教行事
 も・・、
  イエスやマリヤの像を拝(おが)むなどの現世利益を
 求めるキリスト教の非合理なすべての事々を、当然、指
 摘した。
  「誰が救われ、誰が救われないかなど、あらかじめキ
 リスト教の神(主)によって決められている」という陳
 腐さなどを指摘した。
  同時に、キリスト教によって権威づけられた国王の統
 治に対する疑問へも気付かされる。
  また、権威づけられた国王・諸侯側も、キリスト教側
 へ種々の利便を与えた。
  デカルト派の近代哲学者は、「人間が理性を持って判
 断したことに『誤りはない』」と断言した。
  ここから、「より多くの人々が理性的判断を下す」と
 いう『民主主義の望ましさが認識されて行った』。
  民主主義の目覚め・・
  そして、「国王は、キリスト教の神(主)から授けら
 れたものであるから、国王は思いのままの政治を行なう
 ことが出来る」という『王権神授説』は、『否定されて
 行った』・・キリスト教の虚構は崩れて行った・・
.
1918年11月11日、第一次世界大戦が終結した。
  ヨーロッパ諸国やアメリカは、あれほど強烈に「植民
 地の収奪をしておきながら、その植民地諸国に対して、
 謝罪など一度もしていない」・・、
  朝鮮は、中国に冊封されていて、なんだかんだと中国・
 清朝の翼下に入りたがっていた。
  強いものに付くという状況だった。
  1894年3月29日に起きた甲午農民戦争の朝鮮国内の反乱
 が抑えきれないと見ると、「中国・清の出兵を要請し、
 助けを求める」というような李氏朝鮮の状況だった。
  日本が、力を付けて、中国・清と対等に行動できるよ
 うになると、朝鮮の態度も変わった。
  そして、日清戦争に日本が勝利すると、朝鮮は清から
 独立することが出来た。
  それとともに、日本の翼下に入って来た。
  日本と朝鮮・・日朝はこの様な関係にあった。
  誠実な日本は、朝鮮の国づくりを一生懸命に行なった。
  他国がしない様な投資を、日本は、一生懸命、朝鮮に
 した。
  しかし、時を経て、時代が変わると、朝鮮は、日本が
 『植民地支配をした』と言い出した。
  日本へ、その謝罪の要求さえもした。
  「もう二度と、この様な謝罪要求などしないから」と
 いう言葉に引っ掛かって、ならば・・と、友好のためと、
 日本が謝罪をすると・・、
  その後に、その様な経緯は捨て去って、その後、「日
 本が謝罪した」と世界に喧伝した。
  ヨーロッパ諸国やアメリカなどより、日本は、朝鮮の
 国造りに貢献しているという日本に対して・・、
  二度と謝罪要求しないという前言はどこ吹く風と、何
 度も謝罪を要求するという態度をとった。
  ヨーロッパ諸国やアメリカは、植民地に強引に自国の
 法律や習俗までも押し付け、植民地収奪をするという事
 までしていた。
  キリスト教の自国の宗教でさえ押し付けた。
  ヨーロッパ諸国やアメリカの強国の植民地へのあくな
 き要求・欲望は極まっていた。
  世界大戦まで引き起こした。
  (第一次世界大戦では、オスマントルコの領有した中
 近東の広大な地域を、イギリスやフランスの勢力下に入
 れた)
  日本の対応は、善意に満ちていた。
  その何よりものその証拠が、朝鮮の人口が3倍にもな
 った。
  衛生状態も、見違えるほど向上した。
  日本と同等、または、それ以上の教育の充実にも、日
 本は努力した。
  産業も起こし、鉄道も朝鮮じゅうにくまなく敷設した。
  ・・など、その例は、枚挙にいとまがない。
  朝鮮からの感謝の言葉もない。
  この貢献の事実は、朝鮮は、認識し、認めよ。
  日本の国民の資金・税金が投入されて、なされたこと
 なのだ。
  また、因みに、第一次世界大戦の勝利側は、イギリス
 帝国、フランス共和国などの連合国側で・・
  一方、敗戦国側の中央同盟国側には、ドイツ帝国、オ
 ーストリア=ハンガリー帝国のほか、オスマン帝国が居
 た。
  このオスマン帝国の中近東の広大な領土が、イギリス・
 フランスの勢力下に入り、この後、色々な問題を引き起
 こす。
.
1944年8月、国際連合憲章が、アメリカ合衆国、イギリス、
 ソビエト連邦、中華民国の代表がワシントンD.C.郊外の
 ダンバートン・オークスで会議を開き(ダンバートン・
 オークス会議)、憲章の原案となる「一般的国際機構設
 立に関する提案」を作成した(~1944年10月)
  そして、1945年6月26日、サンフランシスコ会議におい
 て、51ヶ国により署名された。
  そして、この国際連合憲章の第53条第1項後段(安保理
 の許可の例外規定)は、「第二次世界大戦中に連合国の
 敵国だった国」が、戦争により確定した事項を無効に、
 または排除した場合、国際連合加盟国や地域安全保障機
 構は安保理の許可がなくとも、当該国に対して『軍事的
 制裁を課すことが容認』され、この行為は『制止できな
 い』としている。
  また、敵国の侵略政策の再現に備える地域的取極がな
 されている場合も、安保理の許可がなくとも『敵国に対
 して軍事的制裁を課すことができる』としている・・
  そして、馬鹿らしくも、戦後、70年以上も経た今でも、
 『有効だ』とされている・・「時代遅れの国連憲章」と
 なっている。
.
1945年10月24日、国際連合が活動を開始した。
  国際連合憲章の発効に伴って、国際連合が発足した。
  本部は、アメリカのニューヨーク市のマンハッタンに
 ある。
  韓国は、日韓併合で、第二次世界大戦を、「れっきと
 日本と共に戦った」のに、中国の上海か?どこか?に居
 た日本と対決していた小さいわずかなグループを引き合
 いに出して、都合よく・・「そのグループの後を引き継
 いだ」という言い方を言い出した。
  『だから、韓国は戦勝国だ』という卑劣な言い方を言
 い出した。
  日本にも、日本の敗戦を最初から予測し、確信してい
 た人は多くいた。
  つまり、日本国政府の意思と一致しない人々は多く居
 た。
  日本には、だから・・「その人々の意思を引き継いだ」
 なんて言い出す事はしない・・
  『卑劣な節操のない屁理屈は言わない』が・・
  韓国のその言い方は、『馬鹿者』と言いたいくらいの
 その様な恥ずかしいもの・・。
  韓国兵士・・当時は、日韓併合の兵士(東京裁判で、
 有罪となった兵士の方も居るという状況)も、勇敢に、
 アメリカやイギリスの連合国軍と戦い、日本の将校とな
 って、東京裁判でその軍事行為が裁かれた。
  韓国は、日本と同じ枢軸国として裁かれている。
  また、汚いのは「イタリアだ」。
  ドイツと一緒になって、あれほど戦い、その枢軸国に
 後から日本も加わって、戦って・・、形成が悪くなると、
 イタリアは、クルッと向きを変え、勝っている方へ加担
 して、最高位の人間・ムッソリーニを捕らえて、殺して
 (私刑・リンチ)、戦勝国に化けてしまった。
  そして、アメリカも、イギリスも、その様に遇してい
 るから・・おかしい???
  ドイツの裁判や、日本の裁判の様な事はしていない。
  すべてを不問としている。
  おかしいではないか・・おかしい事が起きているでは
 ないか・・
  誤魔化しが起きている。
  例えば、何人も殺してきた犯人が、ある時、クルッと
 態度を変えて、行動が変わったら、「犯人ではなくなっ
 てしまった」・・という様なもの・・
  こんな話は通らない・・こんな理屈は通らない・・イ
 タリアだって同じ様に裁判を受けるべき敗戦国だ。
  例えば、信長が本能寺で、明智光秀に討ち取られ「明
 智光秀の三日天下」となった。
  その後の豊臣秀吉との戦いに敗れた。
  しかし、秀吉は、光秀の首を取り損なっている。
  光秀の天下は、実態としては、秀吉に、その体制は崩
 されたが・・、
  もしかしたら、光秀は、どこかで態勢を取り直すとい
 う過程にもあった。
  つまり、光秀が敗れて、逃避行の身にはなったが・・
 戦に敗れた時点で終わったとしてはいけない。
  一分の可能性を持って信長を破って手に入れた、光秀
 の天下は続いている。
  実態は、天下は、秀吉に流れて行くのだろうが?・・
 しかし、100パーセントでは無い。
  そして、可能性を求めて逃げ延びた光秀は、逃避行途
 中の山の中で、落人狩りの百姓に討ち取られてはいるが、
 一分の可能性があった光秀の可能性が・・ここで無くな
 ったのである。
  その残っていた僅(わず)かな光秀の可能性を「その
 百姓たち」が奪ったわけである。
  光秀は、可能性はほとんどない状態に居たが、その僅
 かな可能性を、百姓たちが奪い取ったのである。
  つまり、可能性のほとんどない、その可能性は、その
 落人狩りの百姓グループに移った、99.99999・・パーセ
 ントの可能性は秀吉だろうが。
  しかし、秀吉は、この百姓から当然、その残りの
 0.000・・1%を取り返さなかった。
  秀吉は、「100%の天下人では無い」と言えるか??
  これは、屁理屈である。
  こじつけ論理である。
  くだらない論理である。
  しかし、「この様なこじつけ論理」が、イタリアの場
 合にも言われているのである。
  くだらない事に・・アメリカ・イギリスが、このくだ
 らない論理を振り回して、「正義だ」「正しいのだ」と
 言っている。
  アメリカ・イギリスは、この様に・・勝手に自分だけ
 の論理を振り回してやって来た。
  問われるべき罪もないのに・・罪があるのだとして殺
 して来た。
  また、罪を問うべきを問わないで・・公正・公平に行
 なわないで来た。
  お好みで、すべてを処して来た。
  イタリアは、連合国状態になってしまった。
  そして、日本やドイツに対して・・国連の敵国条項が、
 今だに、現在もまだ、存在しているという・・
  これが、アメリカに都合が良いと、いまだに、その状
 態を取って、世界中に、そして、日本・ドイツに押し付
 けている。
.
2014年、ロシアは、クリミアを強引にロシアへ併合させてし
 まった。
  クリミア半島は、地理的にヨーロッパの南端と言えた。
  これは、キリスト教圏とイスラム圏との境界でもあっ
 た。
  この様な位置関係から、古い時代から様々な多様な信
 仰を持った民族が、クリミアに侵入してきた。
  東ローマ帝国の系統の東方正教会のキリスト教徒が、
 ロシアやウクライナへ侵入し、また、クリミア半島へも
 入ってきた。
  また、オスマントルコが、クリミア半島に、イスラム
 教を入れた。
  この様な両宗教の地となって来た。
  また、モンゴル系のクリミアタタールの人々もいる。
  クリミアには、ロシア正教、ウクライナ正教、イスラ
 ム教スンニー派の3者の方々の複雑な宗教的関係がある
 状態となっている。
  大国や強国が、武力で解決する問題ではない。
.
2015年9月、EUへ向かう難民の方々・・それも豊かなド
 イツへ
  幼い3歳の難民の子供が波に漂(ただよ)う悲惨な姿
 はEU諸国へショックを与えた。
  豊かなドイツへ向かう難民の方々・・、
  そのドイツ・・なんとも歯切れが悪く・・その悲惨な
 幼児の姿を見て、難民の受け入れを決めた・・が・・
  元々は、ドイツには、難民を救済するとする基本法が
 あった・・第二次世界大戦時の卑劣な行為の罪滅ぼしで
 あったが・・、
  この頃になると、ニコニコ顔で受け入れるという当初
 のドイツではいられない・・当初とはだいぶ違っていた。
  この3歳児の悲惨な姿の報道後、一時は、態度を変えた
 が・・しかし、ドイツは、『入国審査を再開する』と言
 い出した。
  即刻、ドイツは、アウトバーンで「検問を復活させた」。
  このアウトバーンの検問は、30年ぶりだった。
  この様な事までやり出すドイツだった。
  アウトバーンは大渋滞となった。
  ドイツへ来る列車も運休にされた。
  押し寄せる難民の方々に対し、ドイツは、この様な事
 をした。
  列車で到着した難民の方々は、最初の3日間で3万1000
 人に達した。
  だから、他のEU諸国も、同様な態度を取り出した。
  オーストリアは、すぐさまハンガリー国境に軍隊を派
 遣した。
  チェコも、国境監視を始めた。
  EUの「自由往来」のシェンゲン圏内の取り決めは、
 まったく『無視』の「あるが無きのごとく」だった。
  EUの美しく飾り立てた理念「人、モノ、金、サービ
 スの自由な移動」は、どこかへ行ってしまっていた。
  「シェンゲン協定」も、「ダブリン協定」も、まった
 く捨て去ったEUだった。
  2015年9月だけで、難民の方々は、16万4000人が入国
 した。
.
2015年9月、EUへの、多くの難民の流入が続く・・
  ドイツの豊かさが私たちも欲しいと・・、
  それが得たいと・・難民となってドイツへ流入する、
 押し寄せる・・その難民を受け入れるドイツ・・そうし
 なければならないと・・、
  難民が押し寄せるような良い国に、ドイツの今のお年
 寄り方がしたのだが・・子供たちの為にと一生懸命に働
 いて・・国づくりに励んだ・・今のドイツはその努力
 の結果で・・
  2015年、ドイツの難民の入国数は「80万人と予想され
 た」。
  しかし、その流入は激しく、この数が、100万人に修正
 された。
  人口8000万人の国に、この年だけで100万人を受け入れ
 る。
  この難民の受け入れに「○○万人だ」と上限を決める
 事はおかしいと発言する声・・その様な論理があった・・
  しかし、無制限に難民が入ってくれば・・社会も、労
 働市場も、学校も、混乱してしまう。
  メルケル首相は、自身が、東ドイツ出身で、悲惨な東
 ドイツから豊かな西ドイツへ来たという体験をした人で
 あるため、難民の方々へ理解を示し、難民の方々の身に
 なった発言をしていた。
  そして、「できる」と発言した。
  ドイツ中が、この「できる」で高揚した。
  かつて、第二次世界大戦に至った、あの高揚の様な、
 似た状況にドイツはあった。
  少しでも異議を唱える人間には「非人道的」というレ
 ッテルが張られた。
  下手な発言は、極右だとされた。
  この様な中で、ドイツ社会の中に難民が入って来て、
 定着して行った。
  そして、ドイツが変わり始めた。
  ドイツ社会がきしみだした。
  問題の原点には・・難民を発生させる、そもそもの原
 因があるが、その解決が見えない中に、ドイツへたどり
 着いた難民の方々、そのたどり着いたその場の崩壊が、
 現実となって行った。
  警察沙汰が増加した。
  収容施設は、ぎゅうぎゅう詰めとなった。
  そこで、暴力沙汰が増えた。
  難民の民族と民族の、「民族の違いの闘争」が起きた。
  2015年9月27日、ヘッセン州の収容所で、コソボのアル
 バニア人とパキスタン人の大規模な闘争が起き、400人も
 の難民が暴れた。
  警察官も負傷し、難民の方々も負傷し、その他の多く
 の難民施設でも、一触即発の事態が続いているという状
 態になった。
  言葉も宗教も違い・・昨日までまったく知らない者同
 士が、狭い中に、ぎゅうぎゅうと押し込まれて居るとい
 う欲求不満の塊の社会ができていた。
  警察も限界に来ていた。
  民間の警備会社が投入されたが、警備員には移民系が
 多いので・・火に油を注ぐという結果になった。
  2015年9月28日、警察が、宗教別に収容すると発表した。
  この様な人々が、これからドイツ文化を受け入れて、
 静かに生活して行けるのかという事が「危ぶまれた」。
  この様な時に、ハンガリーは、国境を封鎖した。
  クロアチアも、続いて、国境封鎖した。
  EUの国境が・・閉じられて行った。
  それでも、難民の流れは止まらなかった。
  民族移動が、一旦、始まると止められないのごとくだ
 った。
  難民は、悪路でも、何でも、迂回したりして入って来
 た。
  ユーゴ内乱の時の地雷が残る「地雷地帯」にまで入っ
 てきた。
  10月になって、気温が下がっても、冷たい雨が降って
 も、道がぬかるんでも、難民の行軍はあった。
  スロベニアは、難民の数があまりにも多いので、その
 数に驚いて、軍隊を出し、流入を防ごうとした。
  しかし、その隣のクロアチアは、スロベニアにどんど
 ん難民を送り出していた。
  2015年10月17日、この難民問題が、からんでケルン市
 長の有力候補がナイフ刺された。
  犯人は、『難民政策が気に食わない』のでやったと言
 った。
  10月末の冷たい川に、首まで浸かってでも渡河してい
 る人々の様子が報道された。
  水温は8度だった。
  赤ん坊、お年寄り、子供が、どうなっているのかが心
 配された。
  この様な原因を作っている「元が悪いのだ」が・・?
.
2016年3月13日、テレビ報道は、年がら年中、日本国民の世
 論操作をしている。
  例えば・・
  ☆2016年3月13日、日本テレビ:
  自民党大会での安倍総理の「選挙の為だったら何でも
 する、こんな無責任な勢力に敗ける訳にはいかない」と
 の発言を、悪意ある編集をして内容をまったく変えた・・
  「安倍首相『選挙が為だったら何でもする』」と表示
 をして、「安倍首相の悪印象」を印象付けた。
  またこれは、総理という立場での指導的発言を、首相
 という国の代表に立場を変えるという悪意もある。
  国の責任者にある状況にして、異常発言の状態に編集
 し、放送し、悪印象へと操作をしている・・まったく許
 せぬ日本テレビの放送のやり方。
  日本テレビは、仏教蔑視の放送も年がら年中している。
  悪い場面で、お寺の鐘をゴーンとならしたり、仏壇の
 リンをチーンと鳴らしたりと、年がら年中している世論
 操作・印象操作ばかりする放送局となっている・・テレ
 ビコマーシャルを依頼している企業へも悪印象を与えて
 いる。
  ☆2014年9月10日、テレビ朝日:
  川内原発に関する報道で、原子力規制委員会の田中俊
 一前委員長がいくつかの記者の質問に対して回答を拒否
 した部分のみを放送して偏向した編集をして世論に偏っ
 た印象を与えた。
  ☆2015年6月5日、フジテレビ:
  VTR内で日本についてインタビューに答えている韓
 国人2人について、翻訳の字幕や日本語吹き替えの内容
 と異なる映像を使用し、韓国人が日本を嫌っているかの
 ように放送した。
  ☆2017年7月3日、TBS、
  小池百合子東京都知事が就任あいさつをした際に、握
 手をした映像をカットして「自民党の川井重勇都議会議
 長(当時)が握手を拒否」と放送して、全く事実と違う
 放送をした。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)594E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年3月~1894年3月)

2018-05-11 03:09:44 | 日記
題:(増補版)594E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年3月~1894年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年3月9日、明治天皇陛下大婚満二十五年祝典挙行
  明治天皇陛下銀婚式
  明治天皇陛下・御夫妻の「大婚25年祝典」(銀婚式)
 が行われた。
  記念日から1ヶ月遅れの開催だった。  
・大婚25年祝典(氷川清話)
  これより、日本で銀婚式が広まった。
  そして、この日、明治銀婚の記念切手が発売された。
  明治天皇陛下の大婚25年記年祝典で、逓信省が記念切
 手2種類をはじめて発行する。
  日本で初めての記念切手は、紅色が内地用で2銭、青
 色が外地用で5銭だった・・
  デザインは、菊の花の紋章にオスとメスの2羽のツル
 が描かれている。
  実は、外国人の新聞の投書がきっかけとなり、急に、
 記念切手の発行が決まったといわれ、日本最初の記念切
 手となった。
  この式典に、渋沢栄一は召されて参内しました。
  そして、栄一に同行した長女の穂積歌子(ほづみ・う
 たこ、1863年~1932年)は、その著書「はゝその落葉」
 の中で、この日のことを以下の様に記している・・、
  (上略)久かたの天の御柱めぐりめぐりて。
  廿年あまり五つとせと云ふにならせ給ヘバとて。
  やがて其年の春三月九日。
  御祝典取行はせ給ひ。
  勅任以上の司人。
  および民間にあるも四位以上の人々ハ。
  其夫人と共に九重の内に召しのぼせ給ひ。
  御代ことほぎの舞楽拝観をなんゆるさせ給ひける。
  されバ数ならぬ身も此おほん恵ミの露にもれざりし事
 こそいとうれしかりしか。
  大人にハ冠をかけ給ひしより。
  公の御儀式にたづさはらんも要なしとて。
  議会開院の式にすら出まし給はざりけれどこたびハあ
 まりの御めでたさに。
  始めて四位の大礼服調ぜさせられて参内せさせ給ひき。
  (下略)
  はゝその落葉、穂積歌子著、明治三三年二月刊
 
1894年3月12日、堀井新治郎が、謄写版(ガリ版)の特許を
 取得した。
  初代の堀井新治郎は、明治・大正時代の日本の発明家
 で、謄写版(ガリ版)印刷機の開発者。
  幕末のただなかにあたる安政3年9月16日(1856年10月
 14日)、近江国蒲生郡駕輿丁村の、菱田弥左衛門の次男
 として生まれた。
  内務省勧農局紅茶伝習所に入り、緑茶再生法伝習所等
 を経て・・、
  1879年(23歳)8月13日、岐阜県御用係となり、その後、
   農商務省製茶巡回教師になる。
  1883年(27歳)8月、滋賀県蒲生郡岡本村で、代々醸造
   業を営む堀井家の養子となり、亡夫と儲けた一児を
   連れた堀井ヒデと結婚して、第38代堀井家の家主・
   新治郎となる。
   滋賀県勧業委員や米質改良委員などを歴任した後、
  1893年(37歳)1月、新治郎は、簡易印刷方法研究のた
   め官職を退く。
    巡回教師活動は、多くの資料を複数部用意する必
   要があるが、当時の印刷は高く、一般が利用できる
   金額でないことから、同文を一括して印刷できる簡
   易な印刷方法の必要性を仕事を通じて痛感していた。
    仕事を通じて欧米で簡易印刷について調査してい
   たことから、開発の方向性は見え始めていた。
    なお、子息・耕造も、同時期に勤務先である三井
   物産を退職し、父と行動を共にし簡易印刷方法の研
   究に邁進することとなった。
    当時、日本で行われた簡易印刷としてはコンニャ
   ク版印刷があったが、多くて20枚の印刷が限界で、
   企業や役所・学校はより多数の同文書類を必要とす
   ることが多く、質の高い簡易印刷は様々な活動にお
   いて強く求められていた。
    簡易印刷の方向性が纏まりかけて来たことから、
  1893年(37歳)3月、シカゴ万博視察を兼ねて、印刷技
   術の先進国であるアメリカ合衆国に簡易印刷方法の
   情報収集・技術習得に出向く。
    アメリカでは、エジソンが孔版印刷ミメオグラフ
   (謄写版)の理論を、1861年に開発し、新次郎が渡
   米した頃、エジソンは原型を完成させた。
    その間、日本では、度重なる研究開発費に渡米費
   用等の資金を捻出するため、子息・耕造は、蒲生郡
   の自宅を含め、仏壇を除く資産を売却し、
  1893年(37歳)4月、その資金で、一家は東京府東京市
   神田鍛冶町へ転居した。
   家族の生活は極貧の状態であった。
  1893年(37歳)10月、視察を終えた新治郎は、日本に
   帰国した。
  1894年(38歳)1月、新治郎親子は、「蠟引きした原紙
   をやすり上におき、鉄筆で書いて製版する方法」を
   発明し、「謄写版」と命名し、発表した。
    この頃、謄写堂と社名を称する。
    また、速やかに特許出願を行うが、資金がなく自
   力申請した結果、書類に不備があって特許受理には
   至らなかった。
    堀井家にとっては早々の資金化が必要なことから、
  1894年(38歳)7月、ジャパン・ウィークリー・メイル
   (横浜居留地にて発行された在日外国人向けの新聞、
   明治維新期から近代化する日本の情報を世界に発信
   しつづけた英字紙)に謄写版の広告を出し、大きな
   反響を得ることができた。
    また、東京帝国大学講師ウエングステンからも優
   秀な発明との賞賛を得、横浜のモルフ商会他在日外
   国商社等から資金支援の申し出があったが、条件面
   での不満があって、これらの申し出を謝絶した。
    営業は主に耕造が担当したが、当時は簡易印刷へ
   の期待の高さから詐欺的営業も多く、堀井の謄写版
   に対しても世間の信頼を得ることはできなかった。
  1894年(38歳)7月、日清戦争が勃発すると、簡易印刷
   機は軍部においても必要なものであることから、陸
   軍省より堀井親子に多量の謄写版発注があった。
    製造途中において火災に遭い、印刷紙の多くを消
   失するなどの問題が生じたものの、新治郎親子の昼
   夜を厭わない作業により、期限内に完納することが
   できた。
  1895年(39歳)3月12日、2499号にて特許(謄写印刷紙)
   が認められた、加えて、軍への納入は世間に十分信
   用証明するものであったことから、以後は役所等よ
   り多くの注文を得るに至った。
    新治郎親子も営業に注力すべく行商活動する従業
   員を雇って販売を広げながらも、掛売りの焦げ付き
   などから資金面では厳しい展開が続いた。
    それでも、堀井親子の謄写版が簡易印刷の主流と
   なるに及んだ。
  1897年(41歳)3月、耕造が結婚し、5月には博覧会創
   設25年記念博覧会(京都)において賞杯を受ける。
  1904年(48歳)4月、新次郎は病に倒れて隠居し、子息・
   耕造が第39代堀井家家主となる。
  1916年(60歳)5月8日、緑綬褒章を受章し、
  1917年(61歳)新次郎は「新治郎」の名を息子・耕造
   に襲名させ、自らは「元紀」と名を改めた。
  1922年(66歳)4月29日、帝国発明協会優等賞を、
  1926年(70歳)9月17日、帝国発明協会最高賞である帝
   国表彰を、
  1929年(73歳)10月16日、特等賞を受賞した。また、
  1929年(73歳)11月30日、産業貿易功労者として子息・
   新次郎が表彰された。
  1932年(76歳)7月19日、新治郎(元紀)は目白台の自
   邸にて永眠する。
  生前特許出願数は647件、内特許件数433件(日本特許
 394件、イギリス・アメリカ・フランス・イタリアでの
 特許39件)に達した。

1894年3月28日、朝鮮の政治指導者・金玉均が、上海に誘い
 出され、拳銃で暗殺された。
  これは、李氏朝鮮の刺客だった。
  金玉均の遺体は、中国・清朝の軍艦で朝鮮に運ばれ、
 遺体になっても卑劣な刑(凌遅刑)が執行された。
  中国・清朝と朝鮮・李朝の示し合わせた暗殺だった。
  日本人の和田延次郎は、秘かに金玉均の髪と衣服の一
 部を日本に持ち帰り、浅草本願寺で葬儀を営んだ。
  金玉均には、凾館で知り合った妻が居たが、金玉均の
 暗殺が起きた直後、東学党の乱が起き、金玉均の妻子の
 安否状況が心配されたが、日本軍が、偶然、発見し、そ
 の妻と女の子を保護した。
  その時の二人の姿は、まったく憐れむべき状況・姿だ
 ったという。
  因みに、朝鮮は、この金玉均だけでなく、金玉均の朝
 鮮開花派の人々をも処刑した(問答無用の蛮行がなされ
 た)。
  暗殺者は、朝鮮帰国後、李氏朝鮮の高宗(第26代国王)
 から激賞され、要職に就いた・・そして、開化派を弾圧
 し続けた。

1894年3月29日、朝鮮南部の全羅道で、農民を基盤とする在
 地宗教の東学党が、圧政に抵抗して蜂起した・・甲午農
 民戦争が始まった。
  農民の蜂起の原因は、李朝朝鮮の圧政と腐敗で、その
 「腐敗した役人の追放要求」と、「利益を収奪する外国
 人の追放」だった。
  農民の勢いは強く、朝鮮半島の一部を制圧するほどだ
 った。
  兵力の弱い李氏朝鮮王朝は、清国に出兵を求めた。
  日本も、清国との申し合わせによって出兵した。
  そして、この後、日清両国に衝突が起きた。
  そして、このぶつかり合いが、拡大して行った・・
  日清戦争の原因となった。
  戦場は、拡大し続け、満州南部などに拡がった。
  これまで清国に劣勢だった日本の兵力は、この時点で
 は、陸戦でも海戦でも、清国と対等、もしくは、圧倒す
 るくらいまでになっていた。
  これまで、圧倒する清国に対して、日本は、努力を重
 ねて来ていて、「新兵器も用意し、装備していた」。
  また、「軍隊の訓練に励み、規律も優秀で優っていた」。
  そして、「日本人全体の意識が、国民として一つにま
 とまっていた」。
  因みに、1885年に、日本と清国は、朝鮮に出兵する時
 には、事前にお互いに、相手側へ通知し合うという条約
 を結んでいた。
  (参考)東学農民の蜂起の原因:この1894年に朝鮮南
     部で起きた農民戦争の原因は・・、
      外国貿易の開始による経済変動で、南部地方
     の農民は生活破たんを起こすほど悪かった。
      この様な苦境に直面している民に、新興の民
     族宗教東学は、こうした農民層に浸透し救済し
     た。
      また、李朝の郡守の圧政に怒った全羅道郡古
     阜の農民たちが、全琫準を指導者として、東学
     の組織を通じて決起した。
      この「東学党の乱、甲午農民戦争」と、苦境
     にあえいでいた農民の方々の大農民反乱に発展
     した。
      農民軍は、全羅道都の全州を占領、また、他
     国に軍事介入の口実を与えぬように、悪質李朝
     官吏の処罰や身分解放などを条件に李朝政府軍
     と休戦した・・が・・
  
1894年、横浜で鉄桟橋が完成した。
  横浜港は、1859年の開港以来、急増する貨物量に対し
 て、
  『イギリス波止場』(後の「象の鼻」波止場と呼ばれる)
 や、『フランス波止場』と呼ばれる艀荷役に必要な小規
 模の船溜まりこそあったものの・・、
  直接岸壁に接岸して荷役が行える施設はなかった。
  増加一途の貨物量は、艀荷役だけでは対応しきれなく
 なっていた。
  接岸荷役を可能にする近代埠頭の必要性は高まってい
 た。
  艀荷役が、慢性的な埠頭不足により、近代国家に相応
 しい埠頭を建設することが早急の課題とされた。
  明治維新直後から、井上馨大蔵大輔や、神奈川県知事
 はその建設を要請していた。
  1870年になって、工部省お雇い外国人の英国人技師リ
 チャード・ヘンリー・プラントンが、横浜築港桟橋計画
 の提案をした・・また・・、
  1874年にも、内務省お雇い外国人オランダ人技師ファ
 ン・ドールンも築港計画提案をした。
  大隈重信大蔵卿からも、接岸荷役体制に向けた築港計
 画が上申された。
  しかし、これ等の多くの要望があったが実現はできな
 かった。
  また、当時は、既に、「東京港の建設」の機運にあり、
 品川沖に築港する案もあった。
  しかし、その東京港建設案は、財政難や、横浜からの
 反対などもあり、実現はしなかった。
  1886年、横浜開港から27年が経過したこの年、機運が
 やっと高まった。
  内務省から、オランダ人技師デ・リーケへの設計要請
 があり・・また・・、
  神奈川県より、イギリス陸軍大佐であり技官であった
 ヘンリー・スペンサー・パーマーへの設計要請が行なわ
 れた。
  しかし、この両者の設計案は、政府内で議論が沸騰し
 た・・
  さらに、政府内にその上位案件として、東京港建設と
 横浜港建設のどちらを先行させるかといった議論が起き
 た。
  この時、外務大臣となっていた大隈重信は、横浜港建
 設を強く進言した。
  さらに、パーマーがイギリス・タイムス記者を兼職し、
 同紙上で、日本を好意的に報道した実績や、不平等条約
 改正に向けた日英同盟への働きなどがあり、
  正式に、パーマーの横浜港築港案が採択されるに至っ
 た。
  また、さらに、下関砲撃事件での賠償のうち、アメリ
 カへの支払った賠償金が、べらぼうな取り過ぎだったた
 め・・、
  1883年、グラント大統領、及び、アメリカ議会の承認
 により、日本への償還が承認された。
  この償還賠償金785,000ドルを充当させることで資金的
 な目処も立った。
  1889年、このようにして、やっと横浜築港第一期工事
 が始まった。
  待望した接岸荷役が可能な埠頭の建設が始まった。
  しかし、基礎に必要な螺旋杭は、当時の日本の精錬所
 からは供給できなかった・・まだ、技術の未熟な日本が
 そこにあった。
  大量の螺旋杭を輸入し、難局を乗り越え、建築された。
  1894年、こうして、現在の大さん橋の前身となる「鉄
 桟橋」が完成した。
  鉄桟橋は、陸地からの総延長738メートル、桟橋部分は
 457メートル、幅19.2メートルで・・当時の技術では最先
 端を行く近代埠頭だった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:仏陀の言葉:もろもろの事象は
          過ぎ去るものである
          怠ることなく修行を完成なさい。
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 11
.
  カクッター川
  水浴びをしている水牛・・
  それを見て・・気持ち良さそうだねー・・
  今は、その様な情景が流れる・・
.
  仏陀は、パーバ村とクシナガラの間に流れる、このカ
 クッター川のほとりにさしかかった時、ついに耐え切れ
 なくなります。
  ここで袈裟を敷いて腰をおろし、アーナンダに水を汲
 んで来るように頼みます。
.
  仏陀は、弟子に対して、こういう風に語る部分があり
 ます。
  非常になんか こう、人間味のあるエピソードなんで
 すけれど・・、
  それは そのー、もしも自分に何かあったならば、そ
 のことで、自分に供養の食事を出した鍛冶屋の子の責任
 が、問われる様なことになりはしないか・・、
  彼は、けっして悪くないんだと、彼がその事で自戒の
 念に悩まされ、自分に悪徳があるのではないのかと、こ
 ういう風に考えない様に、彼によく言って聞かせてくれ
 と・・、
  当時の鍛冶屋と言いますと、芸能人とかその他の職業
 と同じ様に、いわば当時は、カーストの外にあった、大
 変こう、大きな差別を受けていた階層の人たちですね。
  そういう人たちの供応を喜んで受け、そういう人々に
 心を配るという、そういう遊女だ、あるいはアウト・カ
 ーストの人だという人々にも、まったく平等に、自分の
 思いを伝え、接することを、日常の事としていた、仏陀
 の偉大さというものを、今の、近代を超えて来た私達、
 人権なんていう事をですね、改めて学んでいる私達以前
 に、仏陀は、自ら、率先してその事を教えてくれたよう
 な気がして、感動しない訳にはいきません。
.
  仏陀は、アーナンダに、今夜、クシナガラにある2本
 並んだ沙羅の木の間で、自分は死ぬだろうと予言をしま
 した。
  そして、こう続けました。
.
     アーナンダよ、
     鍛冶工の子・チュンダの後悔の念は
     この様に言って、取り除かねばならない
     『 友よ、
     修行完成者は、
     最後の供養の食べ物を食べて
     お亡くなりになったのだから
     お前には利益(りやく)があり
     大いに功徳がある。
     友・チュンダよ、
     この事を尊師から
     目の当たりに聞き、承った 』。
.
  仏陀が、35歳の時、悟りを開いたのは、供養の食事
 がきっ掛けでした。
  自らの死のきっ掛けとなるチュンダの食事も、それに
 劣らないほどの功徳があると、仏陀は言います。
.
     この二つの供養の食べ物は、
     正に等しい実り、
     正に等しい果報があり、
     他の供養の食べ物よりも、
     はるかに優れた、
     大いなる功徳がある。
     その二つとは何であるか?
     修行完成者は、
     供養の食べ物を食べて、
     無常の完全な悟りを達成したのと、
     及び、供養の食べ物を食べて、
     煩悩の残りのない、
     二ルヴァーナの境地に入られたのとである。
.
  クシナガラに達した仏陀は、もはや、動くこともまま
 ならず、頭が北向きになるように、床をしつらえさせ、
 病み、疲れた身体を横たえました。
  大パリニッバーナ経は、仏陀が横になると、沙羅双樹
 に変化が現れたとしています。
.
     さて、
     その時、
     沙羅双樹は、
     時ならぬのに花が咲き、
     満開となった。
     それらの花は、
     修行完成者に供養するために、
     修行完成者の身体に、
     降りかかり、
     ふりそそぎ、
     ちりそそいだ。
     また、
     天のマンダーラワ花は、
     虚空から降って来て、
     修行完成者に供養するために、
     修行完成者の身体に、
     降りかかり、
     降りそそぎ、
     ちりそそいだ。
     天の楽器は、
     修行完成者に供養するために、
     虚空に奏でられた。
     天の合唱は、
     修行完成者に供養するために、
     虚空に起こった。
.
  仏陀、入滅の地、クシナガラ。
  今も尚、仏陀の死を悼み、参拝に訪れる人が絶えませ
 ん。
  町の中心には、仏陀・入滅を祈念する涅槃堂が建てら
 れております。          (つづく)
.
  (参考)ニルヴァーナ: サンスクリット語の仏教用
     語で、涅槃(Nirvana) のこと。
  (参考)利益: (りやく)仏教の言葉。ためになる
     こと。法力によって恩恵を与えること。自らを
     益するのを功徳(くどく)、他を益するのを利
     益という。
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 12
  涅槃堂への道を・・歩く・・
  涅槃堂の鐘の音が・・響く・・
.
  敷地内には、沙羅双樹の木が、代々、植えられ涅槃堂
 を見守り続けております。
  (涅槃堂に入っていく、そして、涅槃像の前で座り・・
  祈る・・)
.
  仏陀が入滅されたときの姿を顕す大涅槃像。
  死を間近にした仏陀の周りには、多くの弟子や信者が
 集まったと言います。 
  大涅槃像の台座には、25年もの間、仏陀と共に歩ん
 できた弟子・アーナンダの像が刻まれています。
  今にも訪れるであろう師との別れを悲しみ号泣する・
 アーナンダ。
  仏陀は、アーナンダを呼び寄せ、こう、諭しました。
.
     止めよう、アーナンダよ。
     悲しむな
     嘆くな
     私は、あらかじめ、この様に、説いたではないか。
     すべての愛する者
     好む者からも
     別れ
     離れ
     異なるに至るという事。
     およそ、
     生じ
     存在し
     つくられ
     破壊さるべきものであるのに
     それが破壊しないようにという事が
     どうしてありえようか 」。
.
  仏陀は、死の間際まで、この世に残される者たちを、
 励まし続けました。
.
  涅槃堂から出て行く・・、出口のところで手を合わせ、
 静かにあたまをさげる。
.
  仏陀を辿る旅は、ここが終着点です。
  (大きく鐘の音が・・響く)
.
  理想的な死と言うものがあるのでしょうか・・
  その、問いに・・、
  それは・・、私・個人の事は、旅の途上で消える様に、
 死んで行ければ幸せだと思いますね。
  あのー、子供の頃から、ずーっと、小学校は4回転校
 し、中学校は3回変わり、ほとんど自分の家というもの
 を持たずに、転々と過ごして来ましたから・・、
  ずーっと自分の人生は旅だと考えて来ましたのでね。
  生涯の終わりというものも、何かの形での旅の途中で、
 世を去るというのは、本当に理想的な終わり方ではない
 かと思います。
  その意味で、仏陀の旅は、本当にうらやましい、齢80
 を重ねて、大変な旅だったでしょうけども・・、
  旅の途中で、しかも豪華な都や宮殿の中でなく、美人
 の中でもなく、
  そういう寂しい寒村の林の中で亡くなった、
  そういう仏陀の姿に、本当に共感と言いますか、憧れ
 と、尊敬というか、そういうものを感じます。
  人間の死に方と言うのは、その様なものだろうと感じ
 ます。
.
  仏陀は、自分が死んだ後、いかにあるべきかについて、
 修行僧たちに説きました。
  そして、最後に聞いておくべき事はないかと、三度、
 訊ねます。
  修行僧たちは、己のなすことを充分に理解し、黙って
 いました。
  そこでアーナンダは、この様に言いました。
.
     尊い方よ。
     不思議であります。
     珍しい事であります。
     私は、この修行僧の集いを
     このように喜んで信じています。
     仏陀に関し
     あるいは、法に関し
     あるいは、集いに関し
     あるいは、道に関し
     あるいは、実践に関し
     一人の修行僧にも
     疑う疑惑が起こっていません。
.
  満足した仏陀は、最後の言葉を口にします。
.
     さー、修行僧たちよ。
     お前たちに告げよう
     もろもろの事象は
     過ぎ去るものである
     怠ることなく修行を完成なさい 」
.
  ・・・と。
  こう、言った訳ですね。
  仏陀の生涯・悟った法というもの、まあーダルマと言
 いますか、
  宇宙・自然・人間存在の真理というもの、それを最後
 に一言で、もろもろの総てのものは過ぎ去るものである、
 変化しないものはない。
  こういう風に最後まで、修行僧たちへ告げて、そして、
 怠ることなく、その真理というものを学びなさいと、こ
 ういう風に、あたかも自分達の同胞・友達に向けて語る
 様に、語りつつ・・、
  仏陀は、ここで生涯を終える訳です。
  仏陀を考えて見ますと、仏陀は、求道(ぐどう)の人
 と同時に、
  そして、偉大なる求法(ぐほう)の人、あるいは、伝
 道の人であった。
  死の直前まで、人々に向かって自分の悟った真理とい
 うものを語り続けようとした。
  ここに、仏陀の宗教者としての存在、それから、人間
 としての魂のやわらかさ、そういうものを感じないでは
 いられません。
  体制の保持者である王とも語る、貴族とも語る、財界
 や商人たちとも語り合う、それでいて、差別された人々
 とか偏見を持たれた人々に対して、まったく率直に、そ
 ういう人々の立場に立って、ものを考え、法を説くとい
 う、こういう事を考えますと、仏陀の持っている現代性
 といいますか、こういうものの大きさを改めて感じたこ
 とでした。
  仏陀のイメージが随分変わりました。
.
紀元前483年頃、ブッダ最後の旅 13
  ブッダの入滅
  悟りを開いてから45年の間、苦しみの海に沈む人々
 を導き続けた仏陀。
  病と如何に向き合い、老いをどう受け入れ、そして、
 死にどう臨むのか・・、
  仏陀は、最後の旅で身をもって示しました。
  仏陀の遺体は、クシナガラで荼毘にふされました。
  その遺骨は、仏陀にゆかりの深い8ヶ所に分骨され、
 それぞれストゥーパに納められました。
  大パリニッバーナ経は、この様に締めくくられていま
 す。
.
     その遺功によって、
     この豊かな大地は、
     最上の供養物をもって飾られているのである。
     この様に、
     この眼のある人(=ブッダ)・仏陀の遺骨は、
     よく崇敬され、
     種々に、
     いとも良く崇敬されている。
     最上の人々によって、
     この様に供養されている、
     合掌して、
     彼を礼拝せよ。
     「 げにブッダは 
          百劫(ひゃくごう)にも
                  会うこと難し 」
                       (完)
  (参 考)五百塵点劫: (ごひゃくじんてんごう)
      とは、法華経如来寿量品で、釈迦の成道の久
      遠をたとえた語である。
       正しくは五百億塵点劫である。
       法華経の如来寿量品第16に・・、
        「今の釈迦牟尼仏は、釈氏の宮を出でて
       伽耶城を去ること遠からず、道場に座して
       阿耨多羅三藐三菩提を得たりと思えり。
        しかし、われは実に成仏してより已来(
      このかた)、無量無辺百千万億那由他劫なり」
      とあり、
       続けて・・
        「たとえば、五百千万億那由他阿僧祇の
      三千大千世界を、仮に人ありて抹(す)りて
      微塵となし、東方五百千万億那由他阿僧祇の
      国を過ぎて、すなわち、一塵を下し、かくの
      如く、この微塵が尽きんが如き(無くなるま
      で)、東に行くとしたら、この諸々の世界の
      数を知ることを得べしや、不(いな)や」と
      弥勒菩薩に質問している。
       これは、化城喩品第7にも同様の記述がある。
       「たとえば、三千大千世界のあらゆる地種
      を、仮に人ありて磨(す)りて墨となし、東
      方の千の国土を過ぎて、乃ち一点を下さん。
      大きさ微塵の如し」
       この化城喩品のたとえ話を三千塵点劫と称
      される。
       これに対し、寿量品(本門)の「五百千万
      億那由他阿僧祇」を、五百(億)塵点劫と称
      して、化城喩品(迹門)の三千塵点劫よりも
      はるかに長遠であるかが示されるようになっ
      た。
       法華経における釈迦成道は・・、
       「われは実に成仏してより已来(このかた)、
      無量無辺百千万億那由他劫なり」と説いてお
      り、経文の記述に素直に従うならば、この五
      百塵点劫はあくまでもたとえ話として出され
      ただけであって、釈迦が成道した時ではない。
       また、化城喩品の三千塵点劫も、たとえ話
      として持ち出された話に過ぎない。
       しかし、日蓮は、『釈迦御所領御書』など
      で・・、
       「過去五百塵点劫より、このかた、この
      娑婆世界は、釈迦菩薩の御進退の国土なり」
      などと、五百塵点劫の言葉に開近顕遠の意味
      を持たせたことから、釈迦が本当に覚った時
      と解釈されるようになった。
       なお、一般的に、釈迦は、インドで生まれ
      菩提樹下で成道したとされる。
       これを伽耶始成、また、始成正覚というが、
      法華経においては、釈迦は、そのようなイン
      ド応誕の仏ではなく、本当は、遠い過去に成
      道していた、と打ち明ける。
       これを久遠実成をという。
                 (Wikipediaより)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)593E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年1月~1894年3月)

2018-05-10 03:04:18 | 日記
題:(増補版)593E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年1月~1894年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年1月1日、イギリスでマンチェスター運河が開通した。
  マンチェスター船舶運河は、鉄道時代になってから建
 設されたが、鉄道に対して十分な競争力を持っていた。
  しかし、時代と共に外洋船が大きくなったため、その
 競争力は失われた。
  しかし、現代でも、その使用は可能の状態にある。
  この頃に、日本の琵琶湖疏水が建設されている。
  琵琶湖疎水の第一疎水は、1890年に完成している。

1894年1月4日、ロシア・フランス政治軍事同盟が締結され、
 正式に成立した(露仏同盟)
  1891年から1894年に、フランスと帝政ロシアの間に結
 ばれた政治協定であり、また、軍事協定であった。
  1894年1月4日のこの日、フランス側の軍事協定承認の
 通告をもって同盟の完成とされた。
  ロシア側は、1893年12月27日に批准していたが、1918
 年まで秘密にされていた。
  ドイツ、オーストリア、イタリアの3国の攻撃に対して、
 ロシアとフランスは、協力して戦おうというもので、そ
 の後、イギリス、フランス、ロシアの「三国協商」へと
 発展した。
  この条約は秘密条約で、初めは、対ドイツの防衛同盟
 の性格を持ったが、イギリスが加わって三国協商となっ
 た。
  この条約は、ロシアの苦しい状況があった。
  1890年に、ドイツ・ロシア間の再保障条約が満期とな
 り、その再延長をドイツが拒否した・・
  そこで、ロシアは、フランスに接近した。
  1891年に、政治協定を結び、
  1892年に、秘密協定の軍事協定を結んだ。
  そして、この1894年に、フランスが、軍事協定承認を
 通告して同盟関係が確定した。
  ロシアは、今までの歴史に於いて、一番条約を破る国
 となっている・・
  日本との中立条約も破って、日本領土を奪うようなこ
 とをしている・・、
  そして、その日本領の日本人たちを戦車などで、多数、
 殺戮し・・、
  また、シベリアへ、日本人を不法に、多数、拉致をし、
 多くの日本人をその極寒のシベリアで死に至らしめてい
 る・・亡くなっている・・
  しかし、ロシアは、この事例の様に、自分は、条約が
 無いと心配するというような国・・
  💢💢💢・・約束を守らない国が💢💢何を言うか・・と言
 いたい💢💢💢
  💢💢💢・・一番、歴史を汚してきた国・・💢💢💢

1894年1月4日、日本鉄道の八戸線の尻内駅~八戸駅間が開
 通した。

1894年1月7日、豊州鉄道会社が、伊田駅から奈良駅の線路
 延長の出願をした(1895年10月5日免許状下付)

1894年1月18日、初瀬鉄道の奈良駅~桜井駅間の建設仮免許
 状が下付された。

1894年1月24日、鉄道局歳入歳出出納規程が制定された。

1894年1月26日、天満紡績争議
  大阪天満紡績で、職工達が労務管理に反対して騒動を
 起こした。
  1887年に設立された天満紡績会社は、その翌年・1888
 年に、大阪府西成(にしなり)郡川崎村で開業した。
  1889年10月30日から翌月・11月6日にかけて、おりから
 の米価騰貴のなかで、賃金引上げなどを要求し、300~
 400名が職場を放棄のストライキをした。
  この時、会社側の賃上げの約束と憲兵の説得によって
 問題は収まった。
  そして、また、1894年1月26日、開業早々の第二工場に
 おいて、「賞与が出ないこと」と、「厳しい技師長に対
 する不満」から30名ほどが食堂に立てこもった・・そし
 て、罷業(ひぎょう、仕事を意識的に休むこと、ストラ
 イキ)を呼びかけた。
  別説では、1894年1月27日、夜勤を終えた工員たちが技
 師・工務係ら上司3名の解雇を求めて午前6時ころより食
 堂を占拠し、出勤してきた昼勤の工員たちに同盟罷業(
 ストライキ)を呼びかけ、これに従わない一部の工員に
 対して夜勤の工員が殴打した・・とある。
  そして、13名が勾引(こういん、尋問のため、被告人・
 容疑者を強制的に裁判所・警察署などに連れて行くこと)
 されたが、同日の夜業は3分の1運転にとどまった。
  争議は失敗に終わった。
  4名の男工が2か月の重禁錮を科された。
  多数の職工には、義捐(ぎえん)金を醵出(きょしゅつ)
 されたとされている。
  また、別の史料には、会社側の要請を受けた曾根崎警
 察署の警察官が、工場に入り作業を再開させる一方、会
 社側は、技師たちに解雇相当の理由はないとして工員た
 ちの要求を退けた。
  これに対し、工員たちの中には納得をせず退社する者
 も出た。
  なお、昼勤工員の殴打に関して、工員6名が暴行によっ
 て告発され、5名が有罪判決を受けてそれぞれ重禁錮2か
 月・罰金3円、1名はその後の控訴によって重禁錮1か月・
 罰金2円判決が下された・・とある。

1894年2月1日、富山の薬売り業者らが設立した私立の共立
 富山薬学校が開校した。
  (1894年は、発足との説がある)
  因みに、この年に、日本薬剤師会が発足している。
  そして、この後に、官立旧制薬学専門学校となり、富
 山大学の旧制前身校の一つとなる。
  富山市の補助金と、富山県内所在の複数にわたる製薬
 会社による寄付金で設立された。
  本科(修業年限2年、入学資格 満17歳以上)、速成科
 (修業年限1年、入学資格 満15歳以上)、選科を設置し
 た。
  1895年2月に、開校始業式が行なわれた。

1894年2月1日、関西鉄道、官設鉄道・参宮鉄道と旅客貨物
 の連帯運輸を開始した。
  私設鉄道は、官設鉄道との競争の中にあった。
  日本の鉄道敷設計画は、最初から、しっかりとした考
 えの筋が通っていた・・
  「しっかりとした日本の背骨にする鉄道計画」という
 視点・捉え方をした・・、
  また、日本の先人の偉い所は、外資が入ると日本の植
 民地化への道をひらくと、「外資鉄道計画をきっぱり拒
 否した」。
  しかし、スタートだけは、イギリスの資本と技術に頼
 らざるを得なかった。
  そして、1872年、新橋駅~横浜駅間が開業した。
  当然、目標としては、東京と関西圏を結ぶところに置
 いていた。
  そして、中山道ルートが想定されたが・・なかなか、
 その実現性・見通しは立たなかった。
  新政府の中心人物である岩倉具視は、鉄道建設により
 産業開発を図るという「日本鉄道計画」を作った。
  そして、 1881年、東京駅~高崎駅間と、東京駅~青森
 駅間の免許状下付を受けた。
  東京駅~高崎駅間は、政府が予定する中山道幹線鉄道
 の一部であった。
  また、青森への縦貫線は、東北地方の開発を目指すも
 のだった。
  1883年の上野駅~熊谷駅間の開業に始まり、翌年・
 1884年には、高崎駅まで全通した。
  明治天皇陛下をお迎えした開業式は・・まさに、日本
 の幹線鉄道の完成を祝うものだった。
  私設鉄道の免許状下付は、鉄道建設は官設で進めると
 いう方針を変えるもの・・、
  政府として、財政事情からのやむを得ない措置として、
 半官半民の会社で、鉄道建設を促進することとした。
  半官半民の日本鉄道より2年後には、純粋の民間資本に
 よる鉄道(阪堺鉄道)が登場した。
  短距離鉄道だが、地の利を得て業績は好調だった。
  この成功を見て、各地に鉄道会社が誕生した。
  1888年に、幹線鉄道として山陽鉄道が姫路まで開業し、
  また、難工事の中山道ルートから 東海道ルートへと変
 更がなされ・・順調に工事は進み・・、
  1889年、に全通した。
  そして、ようやく蓄積されて来た民間資本による鉄道
 建設が進んで行く。
  日清戦争時に、広島まで開通していた山陽鉄道が活躍
 し・・、
  1900年度末の鉄道営業キロは、官設鉄道1206kmに対し
 て私設鉄道4674kmと4倍近い差があった。

1894年2月8日、洋風に改装されていた京五条大橋が元に戻
 った。
  五条大橋の歴史・・
  1589年、桃山時代(天正17年)に、秀吉が五条大橋を
   作った、橋脚は石で造営した。
  1645年、江戸時代(正保2年)に、高欄に青銅の擬宝珠
   が左右に16基つけられた。
    五条大橋は、江戸時代に五度架け替えられた。
    鴨川と高瀬川の両方をまたぐ大橋梁で、中央の反
   り返りが高く、「虹のような橋であった」と言われ
   ている。
  1878年、明治時代(明治11年)に、高瀬川の小橋とは
   分けて、長さ48間、幅4間2尺の板橋に架け替えら
   れた。
    この時、擬宝珠がはずされ、洋風のペンキで塗装
   された。
    ここで、当然、景観論争が起きた。
    洋風のペンキで塗装された姿への批判・・
    「槇村知事が、洋風心酔により旧形を変じてペン
    キ塗りの嫌らしきものとなせし」と新聞で批判は
    高まった。
  1894年(明治27年)に、擬宝珠高欄のある現在の形に
   戻された。
    この完成時、渡り初めは、80歳以上の高齢者夫婦
   54組が行った・・元に戻され、京の人々は喜んだ。。
    擬宝珠のある五条の橋は、京都の人のあこがれと
   なっていて、明治27年2月8日、昔の通りなつかしい
   擬宝珠がつけられ、106歳の高橋茂兵衛氏は、立烏帽
   子の大紋をつけ、きれいどころも加わって雄々しく
   渡り初めがなされたという。
   (参考)立烏帽子:たてえぼし、烏帽子の一種。
       烏帽子の中で最も格式が高い 。

1894年2月14日、朝鮮全羅道で農民らが反乱を起こした。
  朝鮮官吏の汚職など政治は腐りに腐っていた。

1894年2月15日、また、朝鮮全羅道古阜で、農民反乱が発生
 する。

1894年2月16日、天満紡績騒動で、職工の指導者4人が重禁
 固刑となった。

1894年2月17日、出納官吏の身元保証金算率を制定(公達第
 83号)

1894年2月20日、信越線の客車、および、緩急車に真空ブレ
 ーキが取付けられ、技術の刷新がなされた。

1894年1月22日、葉山御用邸が完成した。
  1897年、隣接の旧紀州藩主徳川茂承邸を買い上げて葉
 山南御用邸とし・・、
  さらに、1905年には、三宮錫馬邸を編入し、葉山御用
 邸付属邸とした。

1894年2月23日、タカジアスターゼが発明された。
  日本の製薬会社三共の事実上の創業者である高峰譲吉
 は、麹菌からジアスターゼを抽出し、自身の名の「タカ」
 を冠してタカジアスターゼと命名し、世界最初の消化酵
 素薬剤の製造法を米国特許庁に出願した。  
  発売は1897年、
  日本での発売は1899年。
  1854年、高峰譲吉は、越中国高岡(現・富山県高岡市)
   の山町筋と呼ばれる御馬出町(おんまだしまち)の
   漢方医・高峰精一の長男として生まれた。
  1855年(1歳)父の学問所「壮猶館」の勤務のため加賀
   国金沢城下の梅本町(現・石川県金沢市梅本町)へ
   移住。
    幼い頃から、外国語と科学への才能を見せ、加賀
   藩の御典医であった父からも西洋科学への探求を薦
   められた。
    母は、造り酒屋(鶴来屋)津田家(塩屋弥右衛門)
   の娘で、名を幸子(ゆき)と言い、後年の清酒醸造
   の麹の改良にも繋がっている。
  1865年(12歳)加賀藩から選ばれて長崎に留学し、海
   外の科学に触れたのを最初に、
  1868年(14歳)京都の兵学塾、大阪の緒方塾(適塾)
   に入学、
  1869年(16歳)大阪医学校、大阪舎密(せいみ)学校
   に学ぶ。
    工部大学校(後の東京大学工学部)応用化学科を
   首席で卒業。
  1880年(26歳)英国グラスゴー大学への3年間の留学を
   経て、農商務省に入省。
  1884年(30歳)アメリカ、ニューオリンズで開かれた
   万国工業博覧会に事務官として派遣され、そこで出
   会ったキャロライン・ヒッチと婚約する。
    博覧会取材のラフカディオ・ハーン に会う。
  1886年(32歳)帰国後、専売特許局局長代理となり、
   欧米視察中の局長・高橋是清の留守を預かって特許
   制度の整備に尽力する。
  1887年(33歳)結婚。
  1890年(36歳)渡米し、アメリカへ永住することにな
   る。

1894年2月、奥羽線の福島駅~米沢駅間が着工された。

1894年3月1日、第3回臨時衆議院議員の総選挙が行なわれた。
  自由党が120人と議席をのばした。

1894年3月5日、イギリスで第5代ローズベリ伯爵内閣が成
 立した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:仏陀の言葉・・この世界は美しい、
            そして、
             人生は甘美である。
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 7
  病を克服した仏陀は、回復するといつもの様に托鉢に
 出かけました。
  後ろには弟子のアーナンダが従います。
  仏陀の従兄弟でもあるアーナンダは、25年にわたっ
 て、常に行動を共にして来ました。
  この日、托鉢から戻り食事を終えた仏陀が発した言葉
 に、周りの弟子達はおどろかされました。
  それは、何時も身近に居るアーナンダですら、始めて
 耳にする言葉でした。
.
  インドの子供達が、大喜びで水浴びする・・その姿を
 微笑みながら見る・・、
.
  アーナンダとの対話 アンバパーリーとのいきさつ、
 そして、仏陀の老いと病と、そういうものが、いくつも
 つき重なった場所なんですけど、この場所で、ある日、
 仏陀とアーナンダの間に、こういう対話があります。
  「仏陀・最後の旅」の中から、とても印象深い対話で
 す。
.
     さて尊師は、
     早朝に、内衣を付け
     外衣と鉢とをたずさえて
     托鉢の為にベーサーリー市へ行った。
     托鉢の為にベーサーリーを歩んで
     托鉢から戻って食事を済ませた後で
     若き人・アーナンダに告げた。
     アーナンダよ、
     座具を持って行け
     私はチャーパーラ霊樹の元へ行こう
     昼間の休息の為に。
     そこで尊師は、
     チャーパーラー霊樹の元に赴いた
     赴いてから、あらかじめ設けられていた座席に
    座した。
     若き人・アーナンダは、尊師に敬礼して一方に
    座した。
     一方に座した若き人・アーナンダに、尊師はこ
    の様に言われた。
     アーナンダよ、
     ベーサーリーは楽しい
     ウデーナ霊樹の地は楽しい
     ゴータマカ霊樹の地は楽しい
     七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい
     タフブッダ霊樹の地は楽しい
     サーランダ霊樹の地は楽しい
     チャーパーラ霊樹の地は楽しい。

  これは中村元さんが、パーリー語から訳された言葉な
 んですけれども、あのー、色々ありまして、サンスクリ
 ットの方から訳されたこのくだりにはですね、非常に印
 象的な言葉が加えられています。
.
     この世界は美しい
     そして、
     人生は甘美である
.
  まあ、こんな風に、サンスクリット語の本の方には書
 かれている訳なんですけれども、そこまで本当に、仏陀
 が、言われたかは分かりません。
  この物語を編んだ人が、霊樹の地は楽しいという言葉
 を、さらに、普遍して、その様に自分の思いを付け加え
 たかもしれません。
  この辺は分かりませんですけれども、人々が、仏陀に
 そういう風な言葉を言って欲しいなーという風に、心か
 ら思っていたことが伺えるのですね。
  仏陀の信仰と言いますか、法の教えの第一歩は、人生
 というものは、苦であるという、いわば、ネガティブ・
 シンキングと言いますか、どん底から出発する訳です。
  この世というものは苦しいものである、そして、生老
 病死、様々な苦しみに満ちている。
  この苦しみの中から人はどのように苦しみに耐えて生
 きていくか。
  仏陀は、その事を終生、ずーッと追求し続けた人なん
 ですが、
  それでも苦から出発したこの世界、この認識がですね、
 仏陀の最後の旅の「 末期の眼 」の中で、
  『 この世界は美しい、人生は甘美である 』、
  例え、苦の世界であったとしても、こんな風に、最後
 に、仏陀に呟いて欲しいと思った人々が、どれほど居た
 ことなんでしょうね。
  人間というものは、『 決定的な絶望の中に生き続け
 ることは、本当は難しいこと 』です。
  そして、私達・弱い人間というのは、どうしてもその
 様に、物語の中で自分達の思いを、仏陀に託して、そし
 て、こういう事を言って欲しかったという事を付け加え
 て、伝承というものが生まれてきます。
  ですから、それは、仏陀が、言った言わないとは別に、
 人々が、その様に、苦から出発して、あるいは楽の世界、
 醜の世界から美の世界、辛い世界から甘美な世界へ行き
 たいという願いを抱き続けて、2500年も生き続けて
 来たという事を表している訳ですから、それはそれで真
 実であろうという風に思う所があります。
.
  若き人・アーナンダに、尊師は、この様に言われた。
.
     アーナンダよ
     ベーサーリーは楽しい
     ウデーナ霊樹の地は楽しい
     ゴータマカ霊樹の地は楽しい
     七つのマンゴの霊樹の地は楽しい
     タフブッダ霊樹の地は楽しい
     サーランダ霊樹の地は楽しい
     チャーパーラ霊樹の地は楽しい。
.
  雨季が明け、再び、旅に出る日がやってきました。
  ヴァイシャリーの人々は、何時までも、別れを惜しん
 だと言います。
  町の郊外にあるレリック・ストゥーパは、ヴァイシャ
 リー王によって建立されたと伝えられております。
  小さな半円形のストゥーパからは、仏陀の遺骨の一部
 を納めたシャリ容器が、半世紀前に発掘されました。
.
  インド人のプッドゥ・バランさんは、このあたりで布
 教活動しているお坊さんです。
  バランさんは、ここで、毎日、お経を上げています。
  バランさんの言葉: 
   今から2500年も前の話になりますが、お釈迦様
  は、好んでこの地で法を説いていました。
   ある日、ヴァイシャリーの人々に、この様に語った
  と伝えられています。
.
     私は、この地にずっと留まることは出来ません。
     西にあるクシナガラという町へ向かいます。
     名残惜しいけれど、どうか、私を行かせて下さ
    い。
     この物語に基づいた歌を唄いたいと思います。
.
  インドのお坊さんの経: 
     ヴァイシャリーの人々は
     お釈迦様が歩き出すと
     泣き出しました。
     お釈迦様は、クシナガラの
     サーラの方へ出発しました。
     村の人々が、皆、泣き出しました。
                     (つづく)
  (補 注): アンバパーリーは、徹夜でご馳走を用
      意し、翌日、釈迦の一行が訪れた時は自ら給
      仕してもてなしました。
       食事が終わった時、彼女は、釈迦が留まっ
      た果樹園を教団に寄贈することを申し出て釈
      迦はこれも受けています。
       最後の場面はこんなふうに伝えられていま
      す。
.
     尊師は法に関する講話をもってかの女を教え、
     諭し、
     励まし、
     喜ばせ、
     座から起って、
     去っていった 。
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 8     
  インドのお坊さんの経: 
     お釈迦様が、
     ヴァイシャリーにいるときは
     いろんな処に
     仏教が広まっていきました。
     お釈迦様は、
     何事も正直に話すようにと
     繰り返し語っていきました。
     お釈迦様は、
     ヴァイシャリーの人々を
     誰よりも愛してくれました。
     お釈迦様が、
     クシナガラのサーラの森に行くときは
     老若男女、みんなが泣きました。
.
  お経を唱えながら、裸足で水に濡れた田の畦道を行く
 仏教僧の映像。
  畦の道に僧の経が流れて行く。
  ・・・。
  そして、悪路を車で進んで行く・・
  大きく左右にゆれる車。
  警笛を鳴らしながら、乗客を満載したバスと行き違う。
.
  イヤー、もう、照り返しがすごいですね。
  イヤー、もうこれは、死にそうだ。
  ナマステー。
  お茶を一杯下さい。
  (お茶の葉を沸騰している鍋に直接入れ、煮て、)
  なんか戦後を思い出すね。
.
  仏陀の足跡を辿り、連日、悪路を進む・・、
  旅は、まだ、半ばを過ぎたところです。
.
  ありがとう。
  あちちっ、・・・旨いですね。
  もう、極楽という感じだな。
  (多くのハエが・・ それを手で払う店の人、周りを
  飛ぶ)
.
  今までの旅の風情は?
  イヤー、なんか修行という感じですね。
  前にインドに来た時は楽な旅をしたもんですからね。
  本当は苦行修行の旅なんですね。
  こういう農村を見ないと、インドは分からないという
 のは、本当ですね。
  仏跡は地方の農村地帯に残っている。
  仏蹟探訪の旅 ロマンティックな感じはしますけれど、
 本当は苦行修行の旅なんですね。
  だから観光の積もりできたのでは、もうもたないでし
 ょう。
  お遍路の様な覚悟で、やはりやらなければならない旅
 ですね、苦行の・・・・。
  ナマステ。サンキュー。
  イヤー、またこれはひどい日差しだな。
.
  ヴァイシャリーを出た仏陀は、更に北に向かって
 歩き続けます。
  ヴァイシャリーから北西に、およそ50キロ、当時の
 ヴァッジ国の国境にあたる場所に発掘中の巨大な遺跡が
 あります。
  (ケッサリア・ストゥーパ)
  イヤー、これはすごい。あー。
.
  このストゥーパは、紀元200年~紀元700年の間
 に建てられたものと考えられています。
  本格的な調査が始まったのは、1998年。
  現在発掘されている部分だけでも、直径123メート
 ル、高さ31メートルにおよぶ、レンガ造りの巨大なス
 トゥーパです。
  さらに、この下にどれ程の遺跡が埋もれているかは、
 まだ、明らかになっていません。
 (遺跡を登り、進む・・)
  あー、ここに仏陀像があるんだね、あー、
  (頭を下げ、手を合わせる)
.
  大パリニッバーナ経によると、旅の途中、仏陀の前に
 悪魔が現れました。
  悪魔は、今こそ、尊師のお亡くなりになる時ですと告
 げます。
  まだ、その様な時期ではないと退けます。
  (カラスが、ぎゃーぎゃーと鳴いている)
  カラスがすごい。
  しかし、その一方で仏陀は、死に向かう準備を始めま
 す。
  (巨大ストゥーパの周りをくるくる歩く・・、
   何匹ものカラスが木にとまり、ぎゃーぎゃーと鳴く)
  ストゥーパだから、中に入る事はないんだね。
  (ストゥーパの上も、何匹ものカラスが飛び回る)
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 9
  ある時、アーナンダに向かって、仏陀は衝撃的な言葉
 を述べます。
  それは、「自分は、もう、3ヶ月後には、この世に居
 ないだろう」という、そういう予言です。
  アーナンダは、さぞかし、もう、驚愕し絶望したに違
 いありません。
  しかし、余命は、もういくばくもない、自分は3ヵ月
 後に、この世を去る。
  自分の言っていることは、決して間違いない。
  こういう風に、仏陀は、断定します。
  おそらく、仏陀の80年の生涯の中で、自分の人生の
 終わりというものを、すっきりと予感した。
  そういう瞬間だっただろうと思いますね。
  ・・・で、仏陀は、アーナンダに、「自分はこの世を
 去る・・
  去る前に、自分が、色々、言っておきたいことがある。
  だから、「修行僧達を沢山集めなさい」 こういう風に、
 アーナンダに命じます。
  そして、アーナンダが、集めた大勢の修行僧を前に、
 仏陀は、この様に言われたという風に、経典には書かれ
 ています。
.
     そこで尊師は、
     修行僧達に告げられた
     さあー、修行僧達よ
     私は、いま、お前達に告げよう
     諸々の事象は過ぎ去るものである。
     怠ることなく修行を完成なさい。
     久しからずして
     修行完成者は亡くなることだろう
     これから3ヶ月過ぎた後に
     修行完成者は亡くなるだろう・・と、
.
     尊師・幸いな人、
     師はこの様に説かれた。
     この様に説いたあとで
     さらに、
     次のように言われた
     我が齢は熟した。
     我が余命はいくばくもない。
     汝らを捨てて、私は行くであろう。
     私は自己に帰依することを成し遂げた。
     汝ら修行僧たちは、
     怠ることなく よく気をつけて
     よく戒めをたもて。
     その思いをよく定め統一して
     おのが心をしっかりと守れかし
     この教説と戒律とに務め励む人は
     生まれを繰り返す輪廻を捨てて
     苦しみも終滅するであろう・・と、
,
  物事は、移り変わるものだという様な事を、いくら口
 で言っても、どんなものでも流転するという様なことを、
 自分の身をもって、みんなに語ろうとしているんではな
 いでしょうか。
  例えば、仏陀という人が、尊敬され、そして、その教
 えが、広がれば広がるほど、その人を、偶像化して、永
 遠に戴いて崇拝していこうという気分というのは、強ま
 ってきます。
  どっかで自分は、もう、如何に仏陀といえども、自分
 も涅槃に入るんだという事を言って、それで、その時、
 突然、自分が居なくなって、周りが大混乱するよりも、
 あと3ヶ月というこの日々を、周りの修行僧やアーナン
 ダ達が、しっかり心に刻んで、あと1日、あと1日とい
 う風に、大事にして生きるようにという、生きるもの・
 残されたものへの配慮だという風に、思いますけどね。
  ・・・・・。
  あのー、僕自身はね、余命ということを考えないんで
 す。
  むしろ、天命という考え方、で、自分が何時まで生き
 るとか、
  何時、死ぬとか、そういうことはね、ほとんど考えた
 ことは無いんです。
  あのー、出来れば長く元気で生きられれば良いと思い
 ます
  けれども、人間の天寿というものは、あらかじめ決ま
 っているんじゃないかなーという事を考える事がありま
 してね。
  その天寿を全うしたい、ですから、世の中というのは、
 すごく不合理なもので、30歳の天寿の人も居れば、10
 代で亡くなる人も居る、90歳、100歳まで生きる人
 も居る。
  ですから、僕は自分の人生と言うのは、ある時期から、
 「いつでも」と言うのは、おかしいのですけれども、
 「もういいよ」という、声なき声が、聞こえてきた時が、
 自分の寿命の尽きる時だと思っていますし、寿命が尽き
 ると言うことがですね、何か終わるとか、無くなるとか、
 そういう風に考えていないのですね。
  ですから、何か新しい出発と感じもしますし、とりあ
 えず、与えられた、今日一日、明日の一日、仏陀の言葉
 の様にですね、
  元気を出して、苦しみに耐えてという風に思ってます
 ね。
  ですから、寝る時は、もう、明日は目が覚めないかも
 しれないという風に思いますし、起きた時に、「あー、
 今日一日あったな」と思いますし、あまり、そういう風
 に先の事を考えたことが無いですね。
.
  自らの死を予言した仏陀。
  別れを惜しむ人々が、数多く後を追ってきました、し
 かし、仏陀は、彼らに戻るように説き、形見として自分
 の托鉢の鉢を渡しました。
.
  インドの仏教歌: 
     金のお皿でご飯を
     食べて貰いましょう
     仏陀に乳粥(ちちがゆ)を
     差し上げましょう
     金の台の上に
     席を用意しましょう
     仏陀にお願いして
     座って貰いましょう
     ここで仏陀に
     静かに休んで貰いましょう
     私は、みんなに仏陀が
     来ていることを知らせます
.
  長い汽笛を鳴らして走り、そして去っていく列車
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 10
  霊鷲山を出てから、半年になろうとしていました。
  仏陀は、熱心な信者が居るパーバ村へ向かっていまし
 た。
  ナマステー。
  当時、この一帯にはマンゴー園が広がっていました。
  持ち主は、パーバ村の鍛冶屋の子・チュンダ。
  以前、仏陀が、パーバ村を訪れた時に帰依した敬虔な
 信者です。
  チュンダは、仏陀を歓迎するために、貧しいながらも
 できるだけの準備をととのえ、首を長くして待っていま
 した。
  燃料に使う、牛糞ですか?
  あれなんか、積み重ねているところなんかも、何千年
 も同じ様に、燃料に使っているわけなんですね。
  牛糞に、藁を混ぜて・・・。
  あっ、そのままでなくてね。
  あ、そうか、そのままでは燃えないのだ。やっぱり。
  あーそれじゃー、一応加工している訳なんだね。
  えー、だけど、昔の村らしい村ですねー。
  ナマステー。
  (加治屋さんのところに来て)
  あー、ふいごですね、昔のねー。
  あのー、なんか、鍛冶屋さんと言うにはあまりに素朴
 なー。
  でも、こんな風にして、農機具とか色々を作るのでし
 ょうねー。
  (あるインドの方へ)ナマステジー。
  あのー、仏陀が最後の旅の中で、この村で病気をした
 と、聞いたのですが?
  この村で言い伝えられてきた話によると、仏陀は、仙
 人に姿を変えて南から 来たそうです。
  日が暮れ始めていたので、仏陀は、この村に泊まるこ
 とにしました。
  村の誰かが、夕飯を用意したそうです。
  いろんな言い伝えがありますが、豚肉料理を出した
 という説と、ククルムタと呼ばれるキノコ料理を出した
 という話があります。
  (手を合わせて)ナマステジー。(お礼を言って立ち
 去る)
  (鍛冶屋さん、鞴・フイゴを手でこいで風を送っている)
.
  仏陀は、チュンダが用意してくれた食事を、快く受け
 入れました。
  しかし、口に入れて直ぐ、それが、食べてはいけない
 ものだと分かりました。
  ここで、仏陀は、チュンダにこう告げます。
  チュンダよ、
  残ったキノコ料理は、それを穴に埋めなさい。
  神々・悪魔・梵天・修行者・バラモンの間でも、
  また、神々・人間を含む生き物の間でも、
  世の中で修行完成者(=仏陀)のほかでは、
  それを食して完全に消化し得る人は見出せません
 ・・・と。
  「かしこまりました」と鍛冶工の子・チュンダは、尊
 師に答えて、残ったキノコ料理を穴に埋めて、尊師に近
 づいた・・・。
  近づいて尊師に敬礼し、一方に座した。
  チュンダが、一方に座した時に、尊師は、彼を教え・
 諭し・励まし・喜ばせて、出て行かれた。
.
  その時、仏陀は、激しい腹痛に見舞われていました。
  仏典には、こう記されています。
.
     さて、尊師が、
     鍛冶工・チュンダの料理を食べられた時
     激しい病が起こり
     赤い血がほとばしり出る
     死に至らんとする激しい苦痛が生じた。
     尊師は、
     実に、正しく思い
     良く気を落ち着けて
     悩まされる事無く
     その苦痛を堪え忍んでいた。
     さて、尊師は、
     若き人・アーナンダに告げられた
     『さー、アーナンダよ、
     我々は、クシナーラーに赴こう』・・・と。
.
  80歳の老いた身に、血が出るほどの激しい下痢。
  立っていることさえままならない身体を、引きずるよ
 うにして、仏陀は、自ら終焉の地と思い定めた、クシナ
 ガラを目指しました。
  パーバ村からクシナガラまでは、およそ20キロの道
 のりです。 
                     (つづく)
  (参 考):クシナーラー = クシナガラ
  (解 説):チュンダは、釈尊への尊崇の念で食事の
      供養をしようとして珍味のキノコ料理をさし
      上げたが、結果、釈尊の死を早めるに至った。
       釈尊は、チュンダが後悔して嘆くであろう
      し、また、まわりの者たちがチュンダを責め
      るようになるであろうと、チュンダに同悲さ
      れ、「私の生涯で二つのすぐれた供養があっ
      た。
       その供養は、ひとしく大いなる果報があり、
      大いなるすぐれた功徳がある。
       一つは、スジャータの供養の食物で、それ
      によって私は無上の悟りを達成した。
       そして、この度のチュンダの供養である。
       この供養は、煩悩の全くない涅槃の境地に
      入る縁となった。
       チュンダは善き行いを積んだ」と仰せにな
      った。
       最初のスジャータの供養とは、釈尊がさと
      りを開かれる前、
       極限にいたるほどの苦行をされていたが、
      極端な苦行は悟りへの益なきことを知り、そ
      れまでの苦行を捨て、村娘のスジャータから
      乳粥の供養を受けられた。
       それによって体力を回復し、菩提樹の下に
      座り、「悟りを開くまではこの座を決しては
      なれない」という決意でもって坐禅瞑想に入
      られた。
       そして、この上ない悟りを開かれたと伝え
      られている。
       スジャータの供養は、悟りに至る尊い縁に
      なったのである。
       そして、このスジャータの供養の功徳とひ
      としく、このたびのチュンダの供養は、大い
      なる涅槃に至る尊い縁となると、釈尊は、チ
      ュンダの食物の供養を讃えておられる。
       チュンダがさし上げた特別のキノコはどう
      やら食用に適さなかったようある。
       しかし、チュンダは自分のせいで釈尊を死
      に至らしめたという後悔をするだろうし、ま
      た、周りの僧俗がチュンダを責めるであろう
      と釈尊は思われ、チュンダの嘆きに寄り添っ
      て、「チュンダは大いなるすぐれた功徳を積
      んだ。
       チュンダの供養で、私は煩悩の残りなき大
      いなる涅槃に入ることになった。
       「チュンダは善いことをした」と、チュン
      ダの供養をほめ、起こるであろうチュンダの
      嘆きと周りからの責めをあらかじめ取り除か
      れたのである。
       ここに釈尊の慈悲の深さ、同悲のお姿が伺
      われる。
       仏教で言われる慈悲の行いとは、具体的に
      どういうものなのかがよく示されている。
       しかも、釈尊のチュンダへの言葉は、無理
      にチュンダを慰めているというものではなく、
      ご自分の死を「大いなる涅槃に入る縁」と見
      られてのものである。
       ご自分の死んでいくことに対して、不幸と
      もいわず、嘆きもせず、静かに受け止められ
      るばかりではなく、煩悩が全く消滅する大涅
      槃に入る尊い縁として見ておられるのである。
       そういう背景があってチュンダの供養を讃
      えておられるのであって無理にチュンダを慰
      めているのではなかろう。
       このことによって教えられることは、自分
      にふりかかるどのような〈災厄〉をも、転悪
      成善(悪を転じて善と成す)で、善き縁であ
      ると受け止める智慧があって、初めて他者へ
      の憎悪や責める心から解放されるのであろう。
       もし、自分は内心で嘆いているけど、人を
      悲しませてはいけないという愛情であれば、
      それはそれで尊いとしてもなお暗いものがあ
      る。
       このように釈尊は、ご自分の死を大涅槃の
      悟りに至る機縁と見られたが、この釈尊の死
      の意味は、浄土の教えを信じる者における死
      の意味と重なるものであろう。
       自らの死を大涅槃界である浄土に生まれる
      縁といただいている念仏の信心と、釈尊にお
      ける死への智見とは、内面的に連なるものが
      ある。
       真実の信心は、死をも浄土へ生まれる縁で
      あるとの智見を生むのである。
              (寺報「草菴仏教」より)
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