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(増補版)619E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年1月~1895年1月)

2018-11-21 04:27:32 | 日記
題:(増補版)619E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年1月~1895年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
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1895年1月20日、威海衛の戦い(~1895年2月12日)
  日清戦争における戦いで、日本の陸海軍が共同で行っ
 た作戦。
  制海権を完全に掌握するため、威海衛に立てこもる中
 国・清の北洋艦隊の残存艦艇の撃滅と海軍基地の制圧を
 行った。
  日本の勝利で終わった。
  1895年1月20日、「八重山」など4艦の艦砲射撃による
 援護のもとに、第1野戦電信隊と海軍陸戦隊が山東半島先
 端の成山角灯台を制圧した。
  そして、電信線を切断した。
  つづいて、第2師団の歩兵第16連隊を先頭に第一次揚陸
 部隊が、栄城湾の東端に上陸し、栄城県城を制圧した。
  1895年1月21日の翌日、第2師団の残りが上陸し・・
  1895年1月22日、第6師団が上陸した。
  1895年1月25日、大山巌第2軍司令官が栄城県に到着。
  1895年1月26日、第2師団を左縦隊に、第6師団を右縦隊
   に並進した。
  1895年1月30日、第6師団が、百尺崖・摩天嶺での激戦
   をへて威海衛湾の南岸要塞群を制圧した(移動距離
   約60km)。
    また、第6師団の攻撃にあわせて第2師団が、南岸
   要塞群の西側、鳳林集の東南高地を制圧した。
    中国・清軍は、防衛線の一角を破られたこともあ
   り、威海衛市街とその周辺、北岸要塞群などを放棄
   し、撤退。
  1895年2月2日、第2師団が、北岸要塞群などを無抵抗で
   制圧。
    威海衛湾の山東半島側が日本軍に占領された結果、
   湾の出入口にある要衝、劉公島と日島の守備隊、北
   洋艦隊の残存艦艇14隻が孤立することになる。
    また、1月30日、占領した百尺崖砲台にて望遠鏡で
   敵情視察中の歩兵第11旅団長大寺安純少将が敵艦の
   砲撃を受け戦死し、『二六新聞』記者遠藤又市も死
   亡。
    孤立しても、劉公島と日島の守備隊、北洋艦隊の
   主力艦は健在であり、視界に入る日本軍を「定遠」
   の30センチ砲などで砲撃した。
    日本軍は、当初、陸軍が小口径の陸上砲で応戦す
   るが、北洋艦隊の主力艦による艦砲射撃は圧倒的で
   あり、地上からの攻撃による北洋艦隊制圧は難しい
   と判断された。
    海軍(連合艦隊)に応援を要請し、海軍は水雷艇
   部隊を威海衛湾内へ突入させて襲撃する作戦を決行
   した。
  1895年2月5日午前3時20分、2月4日の夜から闇にまぎれ、
   清軍によって仕掛けられていた防材をかわして威海
   衛湾内へ侵入した日本海軍の水雷艇部隊は、予定ど
   おり襲撃を決行した。
    衝突事故を起こしながらも魚雷攻撃を行なった。
    北洋艦隊の旗艦「定遠」が大破、「来遠」「威遠」
   等3隻を撃沈、
  1895年2月9日、明け方、日本軍は水雷艇部隊を威海衛
   湾内へ突入させ、2回目の襲撃を行い「靖遠」を撃沈。
   この攻撃において、日本軍は、水雷艇を突入させる
   だけでなく、日本艦隊の艦砲と制圧した湾対岸にあ
   る砲台の備砲が北洋艦隊の牽制を目的とした支援射
   撃を行った。
    威海衛湾に安全な場所が無くなった清軍の水兵が
   反乱を起こした。
    清軍の陸兵と、清国へ派遣されていた外国人軍事
   顧問は北洋艦隊の丁提督に降伏を求める。
  1985年2月11日、降伏を拒否していた丁提督が、李鴻章
   に宛てて「艦沈ミ人尽キテ後チ己(や)マント決心
   セシモ、衆心?乱今ヤ奈何(いかん)トモスル能ワ
   サル旨」と決別の打電を打ち、後に服毒自決した。
  1985年2月12日、「定遠」艦長と劉公島の地上部隊指揮
   官も自決。
  抗戦派幹部の自決後、包囲されていた清側は、伊東祐
 亨連合艦隊司令長官に丁汝昌名義の請降書(2月12日付け)
 を提出した。
  1895年2月14日、清軍の降伏と陸海軍将兵の解放につい
   て両軍が合意し、
  1895年2月15日、調印が行われた。
  1895年2月17日、清の陸兵すべてが日本軍の前哨線外に
   解放された。
    また、商船「康済号」が丁汝昌の亡骸と清国海軍
   将兵1,000名余りと、清国側の外国人軍事顧問将校を
   乗せて威海衛湾から出航。
    作戦を完了した日本軍は、劉公島だけを保持する
   こととし、砲台など軍事施設を爆破した。
    作戦に参加した第2・第6の両師団は、第二期作戦に
   そなえて旅順に移動。
  なお、伊東長官が鹵獲艦船の中から商船「康済号」を
 外して丁汝昌の亡骸を最大の礼遇をもって扱い、
  また、清の将兵の助命嘆願を容れたことは、当時の世
 界常識として例を見ない厚遇であった。
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1895年1月、北海道炭砿鉄道が、北海道移民を無賃輸送とし、
 また、その携帯日常品(家具・衣類・農具)も無賃輸送し
 た。
  そして、すべての乗客で60マイル以上の乗客に対して、
 運賃の5割引を実施した。
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1895年1月、樋口一葉の小説「たけくらべ」が、雑誌「文学
 界」で連載がはじまり、評判となった(~1896年)
  森鴎外、幸田露伴、斎藤緑雨に激賞された。
  東京下谷大恩寺前を舞台に、
  遊女となる運命が予定されている大黒屋の美登利と竜
 華寺の跡取りになる内気な少年・信如との淡い恋を中心
 として、
  田中屋の正太郎などを交え、
  酉の市(とりのいち)などの風物も描かれ、
  吉原の花街近くに住んで、思春期にさしかかろうとす
 る少年少女の姿を、
  吉原遊郭周辺と四季の移りかわりを背景にして、抒情
 的に描く・・、
  明治文学の中でも、最も完成度が高い短編と言われる。
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1895年1月、『小国民』、手旗信号の個所が機密維持法違反
 で告発さた。
  また、後に、治安妨害の理由で発禁に、1895年11月『
 少国民』になる。
  『小國民』の内容は、歴史、地理、理科、修身読み物、
 子どもたちの投稿文から成った。
  科学読物に重点が置かれ、事実に基づいて書くことが、
 基本的姿勢とされた。
  しかし、「海軍の信号」という絵入り手旗信号の記事
 により、海軍の機密維持法違反で告発された。
  さらに、「嗚呼露国」が治安妨害に当たるとして発行
 禁止処分を受けた。
  2ヵ月後、『少國民』と改題し発行を続けた。
  しかし、発行元の学齢館が経営不振に陥り、発行所が
 北隆館に移った。
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1895年1月、ロシアの暗躍
  日清戦争の当時、西欧米の列強はまったくの門外漢で
 あったかと言えば、当然、中国や朝鮮半島に利権を持っ
 ている西欧や米の列強は、まったくの門外漢であるはず
 はなかった。
  朝鮮自体が、中国の冊封体制により、長らく属邦化政
 策がなされて来ていて・・
  朝鮮は、その中国の政策から抜け出したいとロシアに
 接近していた。
  1885年4月15日には、巨文島事件が起きる。
  イギリス東洋艦隊が朝鮮の巨文島(くもんとう)を占
 拠していた。
  これは、朝鮮に進出しているロシアを阻むために、イ
 ギリスが行なった。
  この様に日清戦争は、単純に日本と中国の清との対立
 という構図で行われたのではなかった・・そして・・
  ロシアが、不凍港が喉から手が出るくらい欲しいとい
 う理由の一つを上げれば・・、
  1895年当時、ロシアのウラディヴォストーク港は、冬
 期の4か月間結氷し、この間、ロシア太平洋艦隊は、日本
 の港湾で過冬していた。
  ロシアが、この状況を解決しようと画策するのはこの
 一例をもってしても分かる・・そして・・
  1895年1月、ロシアは、英仏に対し日本に講和を勧告し、
 かつその条件を開示すべく申し入れることを提議した・・
  イギリスは、直ちにこれに応じ、露仏と共に、対日申
 し入れを行った。
  結局、英露協調は、4月初めの下関講和会議において、
 日本が提示した講和条約案(遼東半島割譲を含む)に反
 対しないという決定をイギリス政府が下したことにより、
 崩壊した。
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  (今日の言葉)
.
  題:中国が、100万人以上を原爆投下をして殺していた(2008年)
.
1934年初頭、この頃から投入された中国の中央軍、広東軍、
 湖南軍135万に紅軍は耐えられず、この年の1934年11月か
 ら江西中央ソビエト区を放棄して紅軍(中国共産党軍)
 は「長征」を開始した。
  この当時の共産党の実質的最高指導者は毛沢東ではな
 く秦邦憲(しんほうけん)だった。
  (参考)秦邦憲:1931年1月~1935年1月の中国共産党
     の最高指導者の一人だった。
      モスクワに留学している。
      秦邦憲は、コミンテルンより派遣された軍事
     顧問オットー・ブラウン(中国名:李徳)の提
     言を鵜呑みにし、塹壕戦を展開した。
      1934年4月の広昌(こうしょう、江西省撫州市
     に位置する)失陥(しっかん、攻め落とされ失
     うこと)に際して、1万以上の兵力を失うという
     大敗を喫し、瑞金(ずいきん、江西省贛州市に
     位置する県級市)の陥落は避けられない情勢と
     なった。
      1934年7月から、ばらばらと福建省方面などへ
     と脱出する。
      南下を始めた共産党軍は、明確な目的地は無
     く、ただただ逃げ惑う軍団だった。
      1934年12月には、3万余りの兵力に激減してい
     た。
      1935年1月、遵義会議(じゅんぎかいぎ、中国
     共産党中央政治局拡大会議)で指導権を毛沢東
     に奪われた。
  そして、その毛沢東の中国共産党軍が、蒋介石の中国
 国民党軍に大敗して、その存亡が危ぶまれていて、延安
 という中国の奥地の奥地へ逃げ込んでいたその頃・・中
 国国民党の蒋介石は、抗日運動家を逮捕したりして居た。
  抗日する中国国民を捕まえていたのである。
  日本に迎合しようとする蒋介石だった。
  それは、日本に敵対すると中国沿岸部の経済建設が出
 来なくなると考えていたからだった。
  経済建設に「日本の力を借りたい」と考えていた。
  都市部に基盤を置く蒋介石・国民党は、この方針を重
 要と考えていた。
  そして、1936年12月12日、蒋介石が張学良に監禁され
 るという西安事件が起きる・・これが転換点だった。
  そして、中国共産党から「内戦停止」と「一致抗日」
 を迫られる。
  そして、その翌年の1937年9月に、第二次国共合作が成
 立する。
  日本との協調路線の流れが変わる西安事件だった。
  そして、1937年7月7日には、中国側の発砲で盧溝橋事
 件が起きている。
  この事件の時は、日本と国民党軍は戦戦を拡大させな
 い様にとの協定を結び、戦闘も収まっていた。
  しかし、1937年8月、上海で戦いが始まる。
  アメリカに武器を援助された蒋介石の大部隊が、上海
 の「イギリスの租界などもある国際租界」の中の日本租
 界に攻めてくる。
  そして、南京まで戦いは続いて行く。
  中国の泥沼の長い戦争が始まる。
  国際租界がある上海という地域は、世界の関心の集ま
 っていた地域だった。
  蒋介石は、その世界的な注目を集まる状況を利用しよ
 うとした。
  そして、日本を貶(おとし)めるプロパガンダを盛ん
 に行う。
  まったく関係のない中国共産党が(中国国民党が関係
 しているのに)、今・現在に至っても「起きてもいない
 南京事件をでっち上げてプロパガンダしている」。
  また、この当時、今・現在とは違う世界のつながりが
 あった・・ポイントは、イギリスがナンバーワンで、ア
 メリカが育って来ているという状況だった。
  日英と日米・・
  そのナンバーワンのイギリスと日本は日英同盟(1902
 年以来)の関係にあった。
  軍事力も強大化して来たアメリカは、イギリスという
 ナンバーワンの国を「乗り越えたいとする国」だった。
  1922年のワシントン会議(第一次世界大戦後の会議)
 で、アメリカは、この日英同盟の関係を潰したかった。
  そして、この会議で、日英同盟は廃棄させられた。
  日本にとって不利な状況となった。
  日本とイギリスの繋(つな)がりが無くなった。
  そしてまた、これは、これは、アメリカの「イギリス
 の力も削ぐという目的」でもあった(日本の力を削ぐと
 いう目的だけではなかった)
  日英が同盟してくっついていては、アメリカにとって
 都合のよくない不利な状態だった。
  大きな植民地の領土を持つイギリスは、何しろ強大で、
 大き過ぎた。
  イギリスは、この広がり過ぎたイギリス帝国の領土に
 ついて、日本を頼りにしていた。
  中国大陸において、イギリスは日本に統治を頼み、日
 本の軍事力に期待していた。
  そのような関係(日英同盟の関係が深化する関係)を
 アメリカは恐れていた。
  日本とイギリスは、まったく敵対する関係なんていう
 関係ではなかった。
  アメリカはこれを恐れ、ワシントン会議で日英同盟の
 解消に努めた。
  この後の歴史の流れは・・日英同盟が米英同盟の流れ
 になって行く。
  これが、アメリカの戦略だった。
  幕末から世界をリードして来ていたイギリスの国際社
 会が、アメリカの主導となって行く。
  アメリカの軍事力が、イギリスを凌駕(りょうが、他
 の者を越えてそれ以上になること)して行く。
  18世紀は、イギリスの植民地だったアメリカだった。
  それが、20世紀には、アメリカが、イギリスを軍事援
 助した。
  この様な歴史の変遷の中で、アメリカを仰ぎ見る様に
 なったイギリスは、1943年、次のような事を言う・・
  (イギリス首相のウィンストン・チャーチルの言葉)・・
  「イギリス政府は、同盟国(アメリカ)との協力は惜
 しまないが、イギリスの植民地統治はあくまでもイギリ
 ス政府がこれを維持する。
  植民地共同統治のごとき思想には、断じて賛成できな
 い」と。
  アメリカに、イギリスの植民地を盗み取られることを
 恐れたチャーチルの言葉だった。
  アメリカは、イギリスの植民地さえ得たいと思ってい
 た。
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2008年、中国が、100万人以上を原爆投下をして殺していた。
  札幌医科大学の高田教授が、カザフスタンのデータと
 NEDIPS、RAPSの計算システムにより分析して、
 100万人以上の死傷者、被曝者がでたと推論した。
  (参考)NEDIPS:科学シミュレーション用のデ
     ータフロー計算機・・
      文献、特許などの情報をつなぐことで、異分
     野の知や意外な発見などを支援する新しいサー
     ビス
      データ・フロー・イメージ処理システム(NEDIPS)
     におけるSARデータ処理
  中国の行なう核実験の中でも、「地表核爆発」は、地
 表物質(砂礫など)と混合した核分裂生成核種が大量の
 砂塵となって、周辺および風下へ降下するため・・、
  空中核爆発と比べて核災害の範囲が大きくなる。
   (参考)核分裂生成核種:核分裂によってできた核
      種、またはそのような核種(核分裂片)から
      放射性の崩壊によってできた核種をいう。
  このような危険な実験を、中国は、ウイグル人の居住
 区で行った。
  また、実験場から1000キロ離れたカザフスタン、キル
 ギスタンでも、人体が影響される放射線量となっている。
  核実験は、1996年まで行われ、現在も、東トルキスタ
 ンの人々の健康被害と環境被害とは続いている。
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2008年4月26日、北京五輪・聖火リレー中の長野県で、中国
 政府に動員された中国工作員や在日中国人留学生などの
 中国勢力が、中国政府による弾圧に抗議するチベットの
 方々へ暴力行為に及んだ。
  国際問題的であったので日本の警察などの公権力も控
 えめであったが、逮捕者も出た(但し、中国人に対して
 は逮捕をしなかった・・逮捕されたのは日本人だけ)。
  中国国旗が何本もはためく長野県の公道は、さも中国
 によって日本が占領された如くであった・・
  その様な中で行なわれたのが、中国勢力によるチベッ
 ト民族の方々への弾圧のごとくの行為で、今・現在、チ
 ベットで起きていることが日本でも起きている様だった。
  中国の公権力の者が私服を着て参加していたと言われ
 ている。
  この状況は、完全なる中国による日本の主権を侵害し
 ている行為だった。
  メディアの調査によると・・中国人参加者2000人とい
 う数字や・・、また、長野駅前だけでも1万人を超える数
 だったともいう。
  また、警察発表では4000人の中国人留学生が長野に集
 まったとされている。
  バスツアーで6万2千人の応募があって、ツアー個人旅
 行を含めて1万人が参加したとの推測もある。
  中国人学生だけでなく、明らかに中国マフィアと思わ
 れる風体の者もいたと言われる・・
  自動車から大きな中国国旗を何本もはためかせて、長
 野県の公道を疾走する中国人の姿・・
  日本を、さも従属国の如くの行為だった・・堂々とし
 た行動という声もあり・・まったく日本を馬鹿にした行
 動だった。
  また、道路交通法違反のハコ乗りで、長野県の公道を
 走り回る中国に、何もしない日本の警察に長野市民から
 の抗議の声が沸いた。
  (参考)ハコ乗り:走行中の乗用車の窓から身を乗り
     出すこと。
      道路交通法の違反行為。
      よく知られたな話として、鈴木宗男氏の箱乗
     り選挙運動が、一時期、問題とされ騒がれた。
  特に、長野駅周辺で危険行為を繰り返す中国人・・そ
 して、無視状態の日本の警察官の大群・・
  街頭で暴力を振るう中国人は、日本の警察官に制止を
 されても無視するという態度の中国人だった・・「日本
 の官憲なんて関係ない」という態度だった・・
  長野駅前のバスロータリーの・・街の中のその高台に、
 中国国旗を何本も立てて・・その何本も旗をはためかさ
 れるという状態は、日本が占領され、占領完了の様であ
 った・・武器こそ持っていないから良いようなものの、
 勝ち誇ったような中国人たちであった・・
  日本のバスなどの交通機関は最徐行・・長野の街には
 大声の中国語が響き、騒いでいた・・
  チベット国旗もはためくが、中国国旗に圧倒されてい
 た・・
  中国人だけが行なう暴力行為に、見ている日本人から
 は、「中国人は中国に帰れ」のシュプレヒコールが沸い
 た・・
  この騒ぎで日本側に19人の負傷者が出た・・
  長野県という日本の主権のある地で、白昼の街中で、
 堂々と中国人による不正(違法行為や暴行)が繰り返さ
 れていた。
  日本の官憲は何もしないで通してしまった・・
  常識ある日本の知識人たちは立ち上がった。
  その一人である「殴る・蹴るをされたジャーナリスト
 の水間正憲氏」は、その不正をテレビで説明した・・
  「フリー、チベット」と言っている人たちへ中国国旗
 で殴りかかって来る中国人・・
  また、直系5cmの金属棒で殴りかかって来る戦闘的な
 中国人・・
  中国のこの類を専門とする集団という風体だった・・
  この輩は、相手に抗議するという事なしに、いきなり
 襲い掛かって来る集団だった・・
  頭という急所を狙って殴りかかる行動だった・・
  頭部挫傷と首の頸椎捻挫の負傷者もいる・・もっとひ
 どく殴られた人も居るという状態・・
  https://www18.atwiki.jp/nihonnkiki/pages/28.html
  日本政府は、中国大使館が招集をかけ、旗や横断幕の
 準備をしたと確認している。
  ここで、優遇される留学生が問題となる・・
  2008年3月25日、参議院文教委員会で谷岡郁子議員が
 質疑した・・
  国費留学生の給付総額223億円
  大学院:17万円(月額、学部:13万4千円(月額)
  ※留学生の大半が中国人という状態
  さらなる優遇策は・・日本政府は、留学生に、この「
 奨学金(返還不要)」を与えている。
  長野の聖火リレーに集結し、この様な状況を起こした
 中国人留学生の多くも、この恩恵を受けているだろう。
  しかし、日本人学生には厳しい日本の政府で・・「奨
 学金」という名のローンを押しつけている。
  また、この事件で、旅行業免許がないのに「不特定多
 数」へ呼かびかける行為をした・・中国人留学生で組織
 する「全日本中国留学生学友会」(李光哲会長)が、26
 日に長野で行われる聖火リレーに向けて2000人を動員し
 て行う大規模ツアーが、旅行業法に抵触する可能性があ
 ることが分かった
  テレビ朝日 2008年4月24日(ワイドスクランブル)で、
 中国人の旅行業法違反の疑いについて報道された。
  NHK総合、2008年2月14日、スピルバーグ氏が、北京
 オリンピックの美術顧問を辞退した・・これに対して、
 中国は遺憾の意を示した。
  映画監督のスティーブン・スピルバーグ氏が、中国の
 スーダンのダルフール紛争に対する姿勢に対して北京オ
 リンピック開会閉会式の美術顧問を辞退する声明を発表
 した。
  アルピニスト野口健氏は・・
http://megalodon.jp/2010-1010-1035-58/blog.livedoor.jp/fuji8776/archives/51052593.html
  平成20年3月22日付の「チベット動乱~北京五輪出場へ
 の条件~」 「チョモランマは私にとっての聖地でもあり
 ます。 中国にとってタブー中のタブーであるチベット
 問題について発言を繰り返せば、二度とチベットに入れ
 なくなるかもしれない。
 すでにその手の忠告がないはずもない。ひょっとすると、
 もう二度とチョモランマに帰れないかもしれない。私の
 故郷が一つ奪われてしまうかもしれない。
  極めてデリケートなテーマだけに正直、発言に躊躇も
 したが、しかし、現場を知っている人間は逃げられない。
 そして、語らないことは加担する事と同じだ。
  確かに一登山家に出来る事は限られている。しかし、
 私にも何かが出来るはず。そうせめて声を上げ続けてい
 きたい」
  実際、これ以降、中国政府は、野口健氏へ入山許可を
 出さず、野口健氏を支えていたスポンサーが降りるとこ
 ろも現れた。
  しかし、野口健氏は臆することなく人権侵害への抗議
 の声を挙げ続けている。
  当日のテレビニュースや翌日の朝刊等には、日本側の
 負傷者のことは一切出なかった。
  それどころか、中国側にけが人が出たと伝えた。
  これは、中国が軽いケガでも救急車を呼び、日本側は
 簡単に救急車を呼んではいけないという良識が働いたと
 いう差が出た。
  日本側は、当日、長野中央警察署に2名が被害届を出し
 ているが、けが人の発表は、消防側にあるため日本人は
 ゼロとなった・・中国側の作戦勝ち。
  TBSの取材が来た・・チベットサポーターの1人が、
 「日中記者交換協定があるから映せないのか?」とアナ
 ウンサーに聞いた。
  TBSアナウンサーは、「はっ?勝手に叫んでれば?」
 と吐き捨てて消えた。
  (参考)日中記者交換協定には、「日中双方の記者は
     駐在国の外国新聞記者に対する管理規定を遵守
     する」、
      また、「駐在国が外国新聞記者に与えるのと
     同じ待遇を受けるものとする」。
      付属文書として、「日中両国は、政治の体制
     を異にするけれども互いに相手の立ち場を尊重
     して、相侵さないという原則を確認した」・・
     などとある。
  TBS、2008年4月13日、サンデーモーニングのコメン
 テイター浅井信雄氏の捏造と思われる発言・・
  「聖火リレーは大成功とイギリス新聞は報じた」と。
  (実際の大騒ぎの状況を口にしないで、実情がまった
 く伝わっていないコメント)
  浅井氏のコメントは・・
  「英紙タイムズは、聖火リレーは大成功と書いている。
 つまり、マスコミは騒ぎになったことを繰り返し報道す
 るが、全体としては成功と英国の一流紙が書いている」
 と、この様な発言をした・・
  しかし、実際は全く逆で・・
  以下のような英国各紙の報道となっていて、TBSの
 浅井氏はとんでもない嘘つきコメンテーターとなってい
 る。
  聖火リレーの妨害は「民主主義の勝利」と英各紙は好
 意的に報じた・・
  タイムズ(The Times)は、「中国は今回のデモで、五
 輪を自分たちの都合で捉えることは できないと気づいた
 はずだ」。
  「聖火リレーは、あらゆる権利を象徴するもので、中
 国の栄光を示すためのものではない」。
  「むしろ(ロンドンでの聖火リレーは)チベット問題
 への抗議を浮き彫りにしただけでなく、統制の及ばない
 不穏や混沌を内在するのが寛容な社会の本質だというこ
 とを示す機会となった」との評論を掲載した。
  しかし、日本のテレビの「日本テレビ」は・・、
  チベット人が、中国人にかまれたと言うと笑って去っ
 て・・流血したと騒ぐ中国人の主張を取材し、血をふき
 取ってティッシュを日本テレビのカメラに向け、「みな
 これ見てよ、中国人の血よ」と言う始末。
  NHKは、リレーの途中で妨害が相次いだと報道・・
 抗議ではないと報道した・・また、亡命チベット人をた
 だの台湾人と報道した。
  チベットからの亡命者であることを隠したNHKだっ
 た。
  また、中国人の日本人に対する暴力などは一切報道し
 ないNHKで・・中国寄りのNHKだった。
  日本政府の高村正彦外務大臣は・・、
  「中国人もチベット人も一人も逮捕されてないんです
 よ」と、何もなかったと言いたいような態度だった。
  また、テレビ朝日の報道ステーション(2008年4月18日)
 で・・高村正彦外務大臣は・・、
  「中国側は、アジアの中でチベット問題に注文を付け
 ているのは日本だけだ」と言って、事実と違う、中国寄
 りの代弁者の様な発言だった。
  長野県警は、中国人の暴力行為を多く見ていながら逮
 捕しようとまったくしなかった。
  それは、長野県警の警備の3000人を上回る中国人の数
 に対してその様な態度をとったのか?
  または、「中国国旗を掲げていると逮捕できない」と
 判断したのか?
  集団で暴行を加えていても、旗竿のアルミパイプで暴
 行していてもまったく逮捕せず・・
  日の丸を持っている日本人さえ旗を持っていると攻撃
 対象になった・・日本という国の中であるのに・・
  中国人は、大声で「中国は一つ」と叫んでいた・・そ
 して、「日本を潰せ」という声で叫んでいた・・
  日本人が抗議すると、その抗議された日本の警察官は
 「逮捕すると暴動になるから」と逮捕しない理由を言っ
 た・・だから、長野県警は「日本人だけを逮捕した」。
  中国政府、および、中国大使館は、日本の警察を褒め
 た・・
  日本のマスコミも中国にしばられていて・・、
  また、日本の警察も中国に縛られていて・・
  これが日本かというような・・日本が、中国にがんじ
 がらめにされている・・そして、正義が通らなくなって
 来ている・・
  この様な事が、日本の中心である東京で起きる可能性
 を日本は、この時、知った・・
  「外国人に参政権を与えよ」という陰謀の叫びもある
 日本となっている・・
  この時のこのような事態で、駐日の中国大使館には、
 このような力があることを知らしめ、長野で実証された・・
  青山繁晴氏は、この重大性を知っていて・・「長野聖
 火リレー」と呼ばずに、『長野事件』と呼ぶべきだと言
 った・・「これは事件」という認識・・
  2020年の東京オリンピックの時も、この様な事は起こ
 るだろうと予測される・・
  より発展した形で起きる可能性が大きい・・
  テロ事件が併発することが恐れられている・・
  「暴行を堂々としている中国人を逮捕しなかった長野
 県警」は、悪い先例・先行事例を与えてしまった。
  国家が持っている主権、その主権を行使する警察が、
 怖気(おじけ)づいたという事例となってしまった。
  中国の毒餃子事件の時も、苦しんでいる被害者が居る
 のに・・福田総理は、「中国は前向きにやっているのだ」
 とおべっか発言をした・・この様な日本となっている。
  それに対して、怒りの声を発した大臣・議員・官僚は
 わずかだった・・
  中国の属国化している日本が・・そこにある・・
  逆に、日本の警察は、チベット支援者の行動を法的な
 根拠がないのに制限する行為に出た。
  そして、逆に、同じことを、「中国人たちに許した」
 という筋の通らないことをした・・
  それを指摘する日本人に対し「無視する警察だった」。
  「明らかに、中国人を優先する警察」に怒りの声を上
 げて抗議する日本人たちだった。
  しかし、逆に、その日本人に対して、「脅したりする
 警察」だった。
  自動車から身を乗り出して中国国旗を掲げて走る違反
 行為に何もしない日本の警察だった。
  日本の警察官が、この明らかな道交法違反行為に、「
 何の違反をしているの?」ととぼける始末・・
  中国人も、日本の警察を馬鹿にして、無視し、制止も
 何もあったもんじゃない状態・・
  チベット国旗を掲げただけのオートバイ運転手には国
 旗を降ろすようにと言う警察・・
  中国へのゴマすり警察の姿・・
  式典会場の隅に追いやられたチベット支持者たち・・
 式典が見られないという状況・・
  移動したいと言うと「移動許可」は出してないと言う・・
  中国人たちは、式典会場のそばに陣取っているという
 異常さがあった・・
  日本の警察は、「何があっても中国人を逮捕しない」
 という怪しい話が事前に知られていた模様・・
.
2017年、インドには、今でもインドの土地を所有するイギ
 リス人が居る・・
  植民地時代からの収奪者となっている。
  昔、インドの方々を虐(しいた)げ尽くしたイギリス・・
  このイギリス人が・・こんな昔から・・今も・・大き
 な茶園を経営し、所有する大地主におさまって居る(名
 義上での大地主で経営者・・利益収奪者)。
  インドの方々は、皆、お茶を飲む習慣を付けられ、こ
 のイギリス人ブルジョアのフトコロが潤っている。
  そして、このブルジョアイギリス人は、イギリスのグ
 ラスゴーの豪邸に住んでいる。
  インドに住みもしないイギリス人が、金だけはインド
 から巻き上げている。
  遠い昔から、インドの方々のものであるものを収奪し
 て、今なお利益を収奪するイギリス。
  この様な外国人所有の土地には、目から火が出るほど
 の税金をかければ良いのに・・、
  日本も、北海道や沖縄などに・・いざという時に拠点
 にしようとする土地が外国人に買われている・・特に中
 国・・この様な土地には・・べらぼうな税金を掛けよ!
.
2018年、日本政府へのお願い文
  題:アイヌは先住民ではありません。
    決議のお願い・・
.
  拝啓
  御公務、ありがとうございます。
  アイヌは先住民ではありません。
  種々の歴史的史実が示す様に・・少し、歴史を調べた
 だけでもその事実が判明します。
  しかし、キリスト教が支援したりして、国連機関など
 はプロパガンダされて、間違った認識を持っています。
  その間違ったアイヌへの認識を持つ国連機関の日本へ
 の働きかけから、日本はその対処に明確な態度を避け、
 不明確な決議などをしております。
  ここで、明確に、「『アイヌは先住民ではない』とい
 う決議」をして戴きたい。
  お願い申し上げます。      敬具
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)618E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年1月~1895年1月)

2018-11-15 03:53:52 | 日記
題:(増補版)618E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年1月~1895年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
.
1895年1月14日、日本領の尖閣諸島を編入した。
  尖閣諸島は、閣議決定で沖縄県に編入された日本固有
 の領土で、周辺海域に石油資源などが埋蔵されている可
 能性が指摘された1970年代になって、急に、中国が領有
 権を主張するようになった・・主張すればいいというな
 ら誰でも何でも言える・・この逆のことだって言える。
  古来から日本領だった尖閣諸島は、現在、日本が有効
 に支配しており、領土問題は存在していない。
.
1895年1月15日、有栖川宮熾仁親王が薨去、61才。
  有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんの
 う、1835年2月19日~1895年1月15日)有栖川宮9代親王。
  有栖川宮幟仁(たかひと)親王の第一王子。
  1851年(嘉永4年)(16歳)仁孝天皇皇女・和宮親子内
   親王と婚約したが、和宮内親王が将軍・徳川家茂に
   降嫁のため沙汰止みとなった。
  1858年(23歳)日米修好通商条約の調印に反対して尊
   王攘夷(そんのうじょうい)運動を支持し主張した・・
  1864年(29歳)国事御用掛に任ぜられたが・・攘夷(じ
   ょうい)論を主張・・以来国事に奔走。
  1864年8月26日(29歳)禁門の変で長州藩士に荷担した
   ゆえをもって謹慎を命ぜられた。
   この後、国事御用掛を罷免され謹慎の身となる朝譴
    (ちょうけん、おとがめ) を受けた・・が・・、
  1867年12月(32歳)王政復古とともに新政府の総裁職
   に就任した。
  1868年1月27日(33歳)鳥羽・伏見の戦い(~1868年1
   月30日)・・
  1868年2月(33歳)戊辰戦争では、征東大総督として官
   軍を率いて東下、江戸に入り・・鎮定に功を立てた。
   のち兵部卿、福岡藩知事、元老院議長・参謀総長等
   を歴任した。
  1877年(42歳)西南戦争では征討総督となり、
   戦後、陸軍大将となる。
  1889年(54歳)参謀総長に進み、
  1894年7月25日(59歳)日清戦争(1895年4月17日)に
   は広島大本営に軍務をとったが・・、
  1895年(61歳)病を得て没した。
   陵墓は東京都文京区大塚5丁目豊島岡墓地。
.
1895年1月15日、播但鉄道(ばんたんてつどう)の寺前駅~
 長谷駅間が開通した。
  播但鉄道は、現在の西日本旅客鉄道(JR西日本)
  播但線の大部分が私設鉄道だった。
  兵庫県の播磨地方と但馬地方を結ぶ鉄道として建設さ
 れた。
  山陽鉄道の国有化と同時に官設鉄道の一部となった。
  1876年、現在の姫路市飾磨と生野銀山の間には生野鉱
   山寮馬車道が整備された。
  1887年、内藤利八、浅田貞次郎ら地元の数名が馬車鉄
   道で結ぶ計画を兵庫県知事に提出、「生野ヨリ(中略)
   飾磨港ニ達スル」経路で鉱山と港を連絡する意図で
   将来は蒸気鉄道にする計画だった。
.
1895年1月16日、ハワイ人王政派が武装蜂起した
  アメリカの工作によって危うくなったハワイ・・先住
 し、ハワイの領有権のあるハワイ人の王政派が武装蜂起
 した。
  しかし、アメリカ軍によって短期間で鎮圧され、虐殺
 行為が行われた。
  この武装蜂起を支援したとしてリリウオカラニ女王が
 逮捕され・・幽閉された。
  原住民の大虐殺の後、ハワイを完全に乗っ取った。
  1865年5月9日、アメリカで南北戦争が終わる布告が出
 された。
  この南北戦争が終わった頃から、アメリカ本土では肉
 や砂糖価格が急騰した。
  このためサトウキビの栽培に適したアメリカ周辺の島
 がアメリカの餌食となる。
  アメリカの砂糖商人たちは、襲いかかるようにその島々
 の土地を買った。
  そして、すさまじい勢いで開発されていった。
  1860年代で、アメリカの白人たちは、すでにハワイ全
 土の4分の3の土地を取得した。
  そして、その土地をサトウキビのプランテーションに
 して行った。
  南のキューバ島と、西のハワイ島が欲しいアメリカ。
  その島々が餌食となり、砂糖商人たちの儲けの金庫と
 なった。
  今(2018年)、日本の北海道が同様に中国に買われて
 いる。
.
1895年1月20日、日本軍が、山東半島に上陸した。
  清国艦隊の北洋艦隊の拠点である威海衛の攻撃を行う
 ために海から山東半島へ進み、栄城湾からの上陸を行っ
 た。
  軍艦からボートに乗り換えて上陸を行った。
  この作戦が行われる2日前の1月18日に、連合艦隊司令
 長官の伊東祐亨海軍中将が本国の大本営に送った電文で
 は・・
  「翌日(1895年1月19日))の午後1時に、陸軍の運送
 船を護送して栄城湾に向かって出発する」ことが伝えら
 れている。
  また、作戦が行われた4日後の1895年1月24日の大本営
 が陸軍次官の児玉源太郎陸軍少将へ送った電文では・・、
  栄城湾からの山東半島上陸作戦に参加した薩摩丸から
 の報告内容として・・この作戦において、陸軍部隊の揚
 陸に先行して、海軍の陸戦隊が上陸したことや・・、
  この時に清国軍からの攻撃があったこと、戦闘の後に、
 順次運送船が到着し、陸軍部隊の揚陸が進められたこと
 が伝えられている。
.
1895年1月22日、ハワイ王国が滅亡した。
  リリウオカラニ女王が廃位させられて、ハワイ王国が
 滅亡した。
.
1895年1月28日、九州鉄道の川尻駅~松橋駅間が開通した。
  その後、熊本方面と天草・島原との連絡のために、1899
 年12月25日に、宇土駅から三角駅までが開通して、宇土
 駅が分岐駅となった。
.
1895年1月28日、関西鉄道の柘植駅~奈良駅間の建設免許状
 が下付された。
  奈良鉄道によって京都駅~木津駅~奈良駅間が開通し
 た。
  関西鉄道奈良線と名付けられているが全区間が京都府
 内にある。
.
1895年1月29日、高等女学校規程が公布された。
  文部省令第一号 (明治28年文部省令第1号)
  高等女学校規程ヲ定ムルコト左ノ如シ
  明治二十八年一月二十九日文部大臣 侯爵西園寺公望
  高等女学校規程
  第一条 高等女学校ノ学科目ハ修身、国語、外国語、
      歴史、地理、数学、理科、家事、裁縫、習字、
      図画、音楽、体操トス又随意科目トシテ教育、
      漢文、手芸ノ一科目若クハ数科目ヲ加フルコ
      トヲ得
      外国語、図画、音楽ハ府県立学校ニ就キテハ
      文部大臣ノ許可ヲ受ケ其ノ他ノ学校ニ就キテ
      ハ地方長官ノ許可ヲ受ケテ之ヲ欠クコトヲ得
      又生徒ノ志望ニ依リ之ヲ課セサルコトヲ得
  第二条 高等女学校ノ修業年限ハ六箇年トス但土地ノ
      情況ニ依リ一箇年ヲ伸縮スルコトヲ得
  第三条 高等女学校ノ第一年級ニ入ルヘキ者ハ修業年
      限四箇年ノ尋常小学校ノ卒業生若クハ之ト同
      等ノ学力ヲ有スル者トス (以下略)
.
1895年1月31日、京都で、わが国最初の路面電車が開業した
 (電気鉄道のはじめ)(2月1日説あり)
  京都電気鉄道が東洞院塩小路下ル(京都駅近く)~伏
 見下油掛(京橋)間を開業した。
  当初は、停留場の概念がなく、電車は任意の場所で乗
 降扱いを行なった。
  この市街路面電車の歴史は、1978年9月30日(昭和53年)
 までの83年間だった。
  民営の京都電気鉄道会社(京電・きょうでん)が、東洞
 院(ひがしのとういん)塩小路(しおこうじ)下るの七条停
 車場(しちじょうていしゃじょう、京都駅)と伏見町(ふし
 みちょう)下油掛(しもあぶらかけ)間の営業を開始し、当
 時、先走りの少年が居た。
  開業の6か月後の1895年8月、雑踏や街角、そして、橋
 上では、電車の先五間(約9メートル)以内を先行して、昼
 は旗、夜は提灯をもち、「電車がきまっせえ。あぶのお
 っせえ」と叫びながら、線路を走る告知人がいた。
  告知人は、12歳から15歳の少年で、先走りと呼ばれた。
  この告知人制度は、府令第六十七号電気鉄道取締規制
 によるもので・・
  仕事は、危険な上に、汗とほこりにまみれての重労働
 で、少年が電車にひかれる事故が相次いだ。
  そのため、告知人制度は廃止に至った。
  また、動力の電気は、琵琶湖疏水(びわこそすい)の水
 力発電によって電力が供給されていた。
  そのため、疏水の流れが止まると、京電も休業となっ
 た・・疏水止まれば電車も止まる・・
  この京都の路面電車(京電)は、1912年6月、京都市営
 電車の営業が開始され、激しい客取り合戦が繰り広げら
 れる様になった。
  1918年7月(大正7年)京都市が京電を買収し、競合区
 間の路線が統一された。
  そして、大正中期から昭和初期まで、市電の黄金時代
 が続いた。
  そして、また、1959年~1964年から、市電と競合する
 市バスや会社バスが増加した。
  更に、自動車も多くなりはじめ、路線の自由がきかな
 い市電の経営は行き詰まりを見せた。
  1970年3月31日、日本最古の路面電車路線だった伏見線
 (塩小路高倉・しおこうじたかくら)と中書島・ちゅうし
 ょじま)間と、稲荷線(勧進橋・かんじんばし)と稲荷間
 が廃止されたのを皮切りに・・路線が次々と廃止され・・
  1978)年9月30日、残る外郭線(北大路・西大路・九条・
 東山・七条・河原町の各線)すべてが廃止された。
.
1895年1月、博文館が「太陽」「少年世界」「文芸倶楽部」
 を創刊。
  太陽は月刊の総合雑誌で、定価15銭だった。
  内容は、論説、史伝、地理、小説、雑録のほか、政治、
 法律、文学、科学、商業、農業、社会など・・
  執筆陣は各分野の知名人を網羅した。
  「日本は世界の大国になったのだから、欧米諸国に負
 けない総合雑誌を」という趣旨の「太陽発刊の主意」を
 発表し、その翌月「太陽」を創刊した。
  太陽の名が示す様に「国運隆昌(りゅうしょう)」を表
 わし、「公平不偏を以(もっ)て立つ」とした。
  しかし、大正デモクラシーの世相に乗り遅れ、対応し
 きれず、「中央公論」などにその地位を奪われて、廃刊
 に追い込まれた。
  文学作品は・・、
  斎藤緑雨:『雨蛙』(1895.5)樋口一葉:『ゆく雲』
 (1897.5)泉鏡花:『海城発電』(1896.1)斎藤緑雨:
 『おぼえ帳』(1897.4 - 12)二葉亭四迷訳:ツルゲネフ
 の『うき草』(1897.5)広津柳浪:『畜生腹』(1897.10)
 国木田独歩:『郊外』(1900.10)泉鏡花:『鷺の灯』
 (1903.9)正宗白鳥訳:チェーホフの『不運くらべ』
 (1904.6)永井荷風:『酔美人』(1905.6)、『夜半の
 酒場』(1906.12)、『旧恨』(1907.1)、『春と秋』
 (1907.10)、田山花袋:『少女病』(1907.5)永井荷風:
 『カルチェー、ラタンの一夜』(1909.1)(『おもかげ』
 と改題し『ふらんす物語』に収録)正宗白鳥:玉突屋
 (1908.4)森鴎外訳:リルケの『家常茶飯』(1909.10)
 久保田万太郎:『雪』(1912.5)・・など
.
  (今日の言葉)
.
  題:北海道には大変多くの縄文遺跡がある(紀元前3200年)
    それから4400年の後に、アイヌ文化は作られた(1200年頃)
    当然、アイヌは先住民族ではない。
.
紀元前3200年、北海道には大変多くの縄文遺跡がある。
  その一つ・・大船遺跡(函館市)
  太平洋に面した海岸段丘上に立地し、縄文時代前期後
 半から中期後半(紀元前3,200年~紀元前2,000年頃)の大
 規模な集落遺跡で・・、
  100棟を超える竪穴建物跡からなる住居域と大規模な盛
 土遺構があり・・、
  その南西には、墓や貯蔵穴を含む100基以上の土坑墓群
 が確認されている。
  北海道や北東北の縄文遺跡群は、津軽海峡を挟んだ日
 本列島の北海道および北東北に位置し、縄文時代の各時
 期(草創期、早期、前期、中期、後期、晩期)における、
 人々の生活跡の実態を示す遺跡(集落跡、貝塚、低湿地遺
 跡)や、祭祀や精神的活動の実態を示す記念物(環状列石、
 周堤墓)で構成された17遺跡からなる考古学的遺跡群であ
 る。
  縄文時代を彷彿とさせる植生や地形など、豊かな自然
 環境が保全されている遺跡が数多くあり・・、
  縄文人の傑作とも言える土器や土偶などの遺物が数多
 く発掘されている。
  それらは、長く北海道で生きて来た縄文人の生活を彷
 彿(ほうふつ)とさせる。
  1、大船遺跡(函館市):大型の竪穴住居が特徴的な
    大規模集落遺跡
  2、垣ノ島遺跡(函館市):国内最大級の盛土遺構を
    持ち、異形土器などが出土した集落遺跡
  3、キウス周堤墓群(千歳市):掘り下げた土を周囲
    に環状に盛った大規模な周堤墓
  4、北黄金貝塚(伊達市):保存状態の良好な埋葬人
    骨や動物遺体が各種出土している貝塚
  5、入江・高砂貝塚(洞爺湖町):周辺の自然環境、
    生活や生業(なりわい)、人類学的形質や葬法を
    あらわす貝塚
  6、鷲ノ木遺跡(北海道森町):北海道内最大規模の
    環状列石
  7、三内丸山遺跡(青森市):人々の縄文時代観にも
    大きな影響を与えた我が国を代表する集落遺跡
  8、小牧野遺跡(青森市):大規模な土地造成と特異
    な配石によって構築された環状列石
   9、大森勝山遺跡(弘前市):全国でも数少ない縄文
    時代晩期の環状列石
  10、是川石器時代遺跡(八戸市):漆・木製品の優品
    が数多く出土した集落遺跡
  11、田小屋野貝塚(つるが市):日本海側における数
    少ない貝塚
  12、亀ヶ岡石器時代遺跡(つるが市):亀ヶ岡文化の
    名称の由来となった代表的な集落遺跡
  13、太平山元遺跡(外ヶ浜町):日本最古とされる約
    16500年前の土器が出土した集落遺跡
  14、二ツ森貝塚(七戸町):東北地方有数の大規模な
    貝塚
  15、御所野遺跡(一戸町):焼失した土屋根住居が確
    認されている大規模集落遺跡
  16、大湯環状列石(鹿角市):万座・野中堂の2つの
    大規模環状列石を主体とする我が国を代表する遺
    跡。特別史跡になっている。
  17、伊勢堂岱遺跡(北秋田市):4つの環状列石を主
    体とする大規模な祭祀遺跡
  18、長七谷地貝塚(青森県八戸市):東北地方に数少
    ない縄文時代早期の貝塚
      ・
      ・
      ・
      ・
1200年頃、アイヌ文化が作られた。
  アイヌ文化が、今から800年ほど前(1200年頃、本州は
 鎌倉時代)に成立した。
  この文化は、擦文文化の伝統的な暮らしを受け継ぎ、
 さらに、本州やサハリン以北の地域の人々との交流で形
 作られた。
  (参考)擦文文化:北海道、東北地方北部に分布し、
     北海道の続縄文文化に本州から北上した土師器
     (はじき)を伴う文化が接触してできた。
      アイヌ文化に先行する文化。
      おもな生業(なりわい)は漁労で、方形の竪
     穴住居にはかまどがあり、粟、ひえ、そばなど
     が出土する。
  (参考)続縄文文化:北海道、東北地方北部の弥生・
     古墳文化に並行する時代の文化。  
      寒冷の為、稲作は行わなかった。
      石器、骨角器を利用する縄文土器の影響を強
     く残す狩猟、漁労の文化。
  中世(本州の鎌倉時代から安土桃山時代:約800年から
 450年前)のアイヌ文化の遺跡は、上ノ国町や松前町など
 の道南地域や、平取町などの日高地方で多く発見されて
 いる。
.
1599年、北海道の松前藩は、豊臣秀吉に直接臣従していた。
  しかし、1599年のこの年、徳川家康に服して蝦夷地の
 支配権を認められた。
  始祖は室町時代の武田信広(甲斐源氏、若狭武田氏の
 子孫)で、上国守護に任ぜられ、北海道の渡島半島に地
 位を築く。
  (参考)渡島半島:おしまはんとう、北海道南西部に
     ある半島。
  アイヌの首長のチコモタインやハシタインとも和睦し、
 豊臣秀吉に直接臣従した。
  1599年には、徳川家康に服して蝦夷地の支配権を認め
 られ・・、
  また、徳川家康は、蝦夷地の交易独占権を認めた。
  アイヌの人々も、この松前藩だけとの交易だけではな
 く、本州に出かけて交易を普通に行っていた。
  5代将軍・徳川綱吉(在任、1860年~1709年)の時、旗
 本待遇となる。
  1719年、1万石格の大名に列席する。
  江戸時代の1833年までには、松前は、人口が1万人を超
 える都市となっていて、繁栄した。
.
1673年、北海道の江差に檜山奉行を置いた。
  檜山は、厚澤部川流域から上國天の川流域の森林地帯
 であり、ヒバをヒノキと称した地域の俗称そのままに檜
 山とされた。
  檜山奉行所は、この森林地帯を7箇所に区分し・・、
  1673年2月に、樹皮剥ぎや稚木伐採を禁止し、また、野
 火を放つことを禁じる等の天然林の保護策を定めた。
  また、アスナロ等の材木を造船や他藩との交易物とし
 て活用する一方で、伐採を出願制としたことから他藩か
 らも山師が訪れるようになった。
  こうした山師による伐採の運上金は、松前藩の財政の
 一端を担った。
  しかし、1695年4月、檜山で山火事が発生し、過半数の
 樹木が消失したことから、かねてから他の地域で伐採を
 請願していた山師の飛騨屋久兵衛からの訴えが認められ、
 池尻別・沙流久寿里(釧路)厚岸・夕張・石狩等におけ
 るエゾマツの伐採が許可された。
  山師により伐採されたエゾマツは、石狩川等の川を下
 って石狩川口から本島へ船で運ばれ、江戸や大阪でその
 材質の高さから障子や曲物へと加工され流通した。
.
1756年、弘前藩勘定奉行であった乳井貢が、津軽半島で漁
 業に従事していたアイヌに対し、同化政策を実施した。
  以後、本州からアイヌ文化が急速に失われた。
  (参考)乳井貢:にゅういみつぎ、1712年~1792年。
      陸奥(むつ)弘前(ひろさき)藩(青森県)藩士。
      1753年、勘定奉行となり、貸借証文の破棄、
     貯米の実行など藩の財政再建につとめる。
      宝暦5年の大飢饉の際は、果敢に対応して領内
     から餓死者を出さなかった。
      和算、儒学、農学など諸学に通じた。
      著作に「志学幼弁」「初学算法」など。
.
18世紀後半、マレーシアが、イギリスの侵略に屈服し、直
 接統治される。
  さかのぼること15世紀、マレーシアのマラッカ王国が、
 ポルトガルに屈服して支配されていた。
  17世紀には、今度は、オランダの支配を受けた。
  18世紀後半に入るとイギリスが侵略し・・、
  イギリスは、ペナン・シンガポール・マラッカを海峡
 植民地として一帯を直接統治した・・、
  さらに、北ボルネオ・マライ半島へも侵略して支配し、
 イギリス植民地は強化された・・
  1895年、マライ連邦となる。
.
19世紀、タイが、イギリスに侵略され、また、フランスに
 も侵略される。
  13世紀のタイは、最初、スコータイ王朝が、民族統一
 国家をつくった。
  14世紀からは、アユタヤ王朝となり400年間続いた。
  1782年、今日のバンコク王朝が創設された。
  19世紀~20世紀、イギリスとフランスからの侵略を受
 けた。
  そして、ラオス・カンボジア・マレーにある領土を取
 られた。
  しかし、インドシナ半島のイギリス・フランス両国の
 緩衝国家として独立は保った。
.
1868年~1869年、亘理伊達氏(わたりだてし)が北海道へ
 移住した。
  陸奥国伊達郡(宮城県亘理郡亘理町)が出身地・・、
  1603年2月、亘理郡亘理城主になったのが始まり・・、  
  江戸時代には、2万4000石以上を領した。
  しかし、第14代当主の時、戊辰戦争に敗れ(1868年~
 1869年)所領を100分の1に減封された。
  数百名の家臣と共に北海道伊達市に移住し・・、
  家臣と共に伊達市を開拓した。
  1892年、その功が認められ、男爵位を授けられた。
  亘理伊達家の北海道への開拓移住に際して、アイヌの
 人々の手助けがあった・・あい和した開拓だった。
  当主であった伊達邦成は、家臣たちに対して、「アイ
 ヌの人々を尊重すべき」の内容の規則を作ったりて、尊
 重し、良好な関係を築いていた。
.
1875年5月7日、樺太・千島交換条約の後、物資の補給と防
 衛上の理由から、千島のアイヌの方々は、そのほとんど
 が当地を領有して領土だった日本政府によって、日本領・
 色丹島(しゃこたんとう、今・現在、ロシアが不法占拠
 している、また、日本領・千島も不法占拠している)へ
 移住して、安全に守られた。
.
1899年、清水港が開港した。
  「お茶場唄」あるいは「お茶場節」と呼ばれる古謡が
 ある。
  これは、横浜から盛んに日本茶が輸出されていた19世
 紀後半に誕生した。
  しかし、1899年に、全国最大の茶の産地の静岡県の清
 水港が開港して、横浜の製茶貿易が衰微した。
  しかし、歌は、その後も、長く歌い継がれた。
.
1937年12月、この時、南京事件が起きたとされている。
  中国は、南京事件の主張において殺された人数をだん
 だん増やしてきた。
  世界へ、日本を貶(おとし)めるために言う人数は、
 より多い方が都合が良いとして増やし、とうとう30万人
 だと言い出した。
  南京に居る人数より多い人数を言い出したので、中国
 は、「当時、南京には50万人が居た」と言い出した。
  そして、「30万人が殺されたので20万人になってしま
 った」と言った。
  まったく馬鹿々々しい言い方をする中国で、この様な
 言い方で思い出すのが「小学校の算数の問題」。
  これは、半分、笑い話なのだが・・、
  「木に鳥が10匹、とまっていました。狩人が1匹、撃ち
 落としました。残りは何匹ですか?」という問題で・・、
  算数の問題として答えるならば、10-1=9で9匹と答え
 るところを、ある子供が0と答えた。
  残りの鳥は、銃声で「すべて逃げた」と答えた・・と
 いう話である。
  つまり、中国の作り話も、これで・・、
  南京に50万人の人が居ました・・この人たちよりはる
 かに少人数の日本兵に・・木の鳥のように逃げもしない
 で、30万人が殺された・・だから、南京の人たちが20万
 人になってしまいました・・と、中国は馬鹿々々しいプ
 ロパガンダ(嘘宣伝)をした。
  まったく馬鹿々々しい中国のプロパガンダ(嘘宣伝)
 である。
  そして、中国のおかしな所は、当時の南京の自治委員
 会の記録を秘密にしている。
  この資料や記録を見れば、当時の南京に居た人数が分
 かるが、中国は公開しない。
  中国という国は、今まで公開していた資料でも、都合
 の悪い所が出て来ると非公開にしてしまう。
  そのような卑怯な卑劣な国である。
  まったく信用の出来ないアン・フェア(不公正)な国
 である。
  そして、最近は、私的な会話や、インターネット上で、
 中国の研究者の中に「南京の大虐殺は事実でない」とい
 う人が出て来ている。
  「南京事件は事実ではないので、その様なことを言い
 つのるのは日中友好にマイナスになる」と言う人が出て
 来ている。
  しかし、世界は、中国が必死にプロパガンダすること
 が事実だと思っている。
  英語版で出版された「ザ・レイプ・オブ・ナンキン(
 アイリス・チャン著)」などを事実と思われされている。
  特に、アメリカでは、このプロパガンダ本が真実と思
 い込まされている。
  この本の嘘が日本の研究者によって「嘘であると立証
 されている」。
  日本の研究者によって真実が示されている。
  日本の研究者は、一つ一つその真実を発掘して行った。
  今、世界は、中国が、この様な嘘行為をする、「嘘の
 プロパガンダばかりする国だ」と知り始めている。
.
1941年12月8日、大東亜戦争(第二次世界大戦)が始まり、
 東亜(とうあ)永遠の平和を確立を期す(きす、心に誓
 う)
  太平洋戦争開戦の詔勅(米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)
.
  天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇
 ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス
  朕茲ニ米國及英國ニ対シテ戰ヲ宣ス朕カ陸海將兵ハ全
 力ヲ奮テ交戰ニ從事シ朕カ百僚有司ハ
  勵精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ盡シ億兆
 一心國家ノ總力ヲ擧ケテ征戰ノ目的ヲ
  達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ抑々東亞ノ安定
 ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄與スルハ丕顕ナル
  皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ拳々措
 カサル所而シテ列國トノ交誼ヲ篤クシ萬邦共榮ノ
  樂ヲ偕ニスルハ之亦帝國カ常ニ國交ノ要義ト爲ス所ナ
 リ今ヤ不幸ニシテ米英両國ト釁端ヲ開クニ至ル
  洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ中華民國
 政府曩ニ帝國ノ眞意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ
  東亞ノ平和ヲ攪亂シ遂ニ帝國ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラ
 シメ茲ニ四年有餘ヲ經タリ幸ニ國民政府更新スルアリ
  帝國ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ重慶
 ニ殘存スル政權ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ
  相鬩クヲ悛メス米英両國ハ殘存政權ヲ支援シテ東亞ノ
 禍亂ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ
  逞ウセムトス剰ヘ與國ヲ誘ヒ帝國ノ周邊ニ於テ武備ヲ
 增強シテ我ニ挑戰シ更ニ帝國ノ平和的通商ニ有ラユル
  妨害ヲ與ヘ遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ帝國ノ生存ニ重大ナ
 ル脅威ヲ加フ朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ囘復
  セシメムトシ隠忍久シキニ彌リタルモ彼ハ毫モ交讓ノ
 精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ
  益々經濟上軍事上ノ脅威ヲ增大シ以テ我ヲ屈從セシメ
 ムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亞安定ニ關スル
  帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝國ノ存立亦正ニ危
 殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衞ノ爲
  蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ皇祖皇
 宗ノ神靈上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ
  遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亞永遠ノ平和ヲ確
 立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス
  御 名 御 璽
   平成十六年十二月八日
 ・・現代語、読み下し文・・
  天佑(てんゆう)を保有(ほゆう)し、万世一系(ば
 んせいいっけい)の皇祚(こうそ)を践(ふ)める大日
 本帝国天皇は、昭(あきらか)に 忠誠(ちゅうせい)勇
 武(ぶゆう)なる汝(なんじ)、有衆(ゆうしゅう)に
 示(しめ)す。
  朕(ちん)、茲(ここ)に米国及(およ)び英国に対
 して戦(たたかい)を宣(せん)す。朕(ちん)が陸海
 将兵(りくかいしょうへい)は、全力を奮(ふる)って
 交戦に従事し、朕(ちん)が百僚有司(ひゃくりょうゆ
 うし)は、励精(れいせい)職務を奉行(ほうこう)し、
 朕(ちん)が衆庶(しゅうしょ)は、各々(おのおの)
 其(そ)の本分を尽(つく)し、億兆(おくちょう)一
 心(いっしん)にして国家の総力を挙げて、征戦(せい
 せん)の目的を達成するに遺算(いさん)なからんこと
 を期(き)せよ。
  抑々(そもそも)、東亜(とうあ)の安定を確保(か
 くほ)し、以って世界の平和に寄与(きよ)するは、丕
 顕(ひけん、大いに明らかなこと)なる皇祖考(こうそ
 こう)、丕承(ひしょう)なる皇考(こうこう)の作述
 (さくじゅつ)せる遠猷(えんゆう、遠い将来まで考え
 たこと)にして、朕(ちん)が拳々(きょきょ)措(お)
 かざる所(ところ)。
  而(しか)して列国との交誼(こうぎ、心が通い合っ
 た交際)を篤(あつ)くし、万邦共栄(ばんぽうきょう
 えい)の楽(たのしみ)を偕(とも)にするは、之亦(
 これまた)、帝国が、常に国交の要義(ようぎ、重要な
 意義)と為(な)す所(ところ)なり。
  今や、不幸にして米英両国と釁端(きんたん)を開く
 に至(いた)る。洵(まこと)に已(や)むを得(え)
 ざるものあり。豈(あに)、朕(ちん)が志(こころざ
 し)ならんや。
  中華民国政府、曩(さき)に帝国の真意を解(かい)
 せず、濫(みだり)に事を構えて東亜(とうあ)の平和
 を攪乱(こうらん)し、遂(つい)に帝国をして干戈(
 かんか、武器一般)を執(と)るに至(いた)らしめ、
 茲(ここ)に四年有余を経たり。幸(さいわい)に、国
 民政府、更新するあり。帝国は之(これ)と善隣(ぜん
 りん)の誼(よしみ)を結び、相(あい)提携(ていけ
 い)するに至(いた)れるも、重慶(じゅうけい)に残
 存(ざんぞん)する政権は、米英の庇蔭(ひいん、援助)
 を恃(たの)みて、兄弟(けいてい)尚(なお)未(い
 ま)だ牆(かき)に相鬩(あいせめ)ぐを悛(あらた)
 めず。
  米英両国は、残存政権を支援して、東亜(とうあ)の
 禍乱(からん)を助長(じょちょう)し、平和の美名(
 びめい)に匿(かく)れて、東洋制覇(とうようせいは)
 の非望(ひぼう)を逞(たくまし)うせんとす。剰(あ
 まつさ)え与国(よこく)を誘(さそ)い、帝国の周辺
 に於(おい)て、武備(ぶび)を増強して我に挑戦し、
 更に帝国の平和的通商に有(あ)らゆる妨害(ぼうがい)
 を与へ、遂に経済断交を敢(あえ)てし、帝国の生存(
 せいぞん)に重大なる脅威(きょうい)を加う。
  朕(ちん)は、政府をして事態(じたい)を平和の裡
 (うち)に回復せしめんとし、隠忍(いんにん)久しき
 に弥(わた)りたるも、彼は毫(ごう、きわめてわずか)
 も交譲(こうじょう、譲り合う)の精神なく、徒(いた
 づら)に時局の解決を遷延(せんえん、はかどらぜず伸
 ばす)せしめて、此(こ)の間、却(かえ)って益々(
 ますます)経済上、軍事上の脅威(きょうい)を増大し、
 以って我を屈従(くつじゅう)せしめんとす。
  斯(かく)の如くにして、推移(すいい)せんか。東
 亜安定(とうああんてい)に関する帝国積年(せきねん)
 の努力は、悉(ことごと)く水泡(すいほう)に帰し、
 帝国の存立(そんりつ)、亦(またこ)正に危殆(きた
 い)に瀕(ひん)せり。事既(ことすで)に此(ここ)
 に至る帝国は、今や自存自衛(じそんぼうえい)の為、
 蹶然(けつぜん)起(た)って、一切の障礙(しょうが
 い)を破砕(はさい)するの外(ほか)なきなり。
  皇祖皇宗(こうそそうそう)の神霊(しんれい)、上
 (かみ)に在(あ)り、朕(ちん)は、汝(なんじ)、
 有衆(ゆうしゅう)の忠誠勇武(ちゅうせいぶゆう)に
 信倚(しんい)し、祖宗(そそう)の遺業を恢弘(かい
 こう)し、速(すみやか)に禍根(かこん)を芟除(せ
 んじょ)して、東亜(とうあ)永遠の平和を確立し、以
 って帝国の光栄を保全(ほぜん)せんことを期(き)す。
  天皇の署名と印
   昭和十六年十二月八日
.
1945年7月12日、日本の交信を完全に傍受していたアメリカ、
 また、暗号を完全に解読していたアメリカ。
  その様な中で、1945年7月12日午後8時50分、日本の外
 相は、モスクワの駐ソ大使あてへ至急電報を打った。
  「ソ連へ依頼している『停戦への仲介』に対して何の
 反応も無いこと、天皇陛下が犠牲者の増加について御心
 配をなされ、早急な停戦を望まれて居られること」、
  そして・・、
 「大東亜戦争(第二次世界大戦)で、米英があくまで無
 条件降伏を主張する限り、我が国の名誉と生残(せいざ
 ん、生き残り)をかけて最後まで戦うしかない。
  だが、天皇陛下は、人類の幸福を思う気持ちを伝える
 ために近衛文麿公を特使としてソ連に派遣する事をお決
 めになった」。
  この時、アメリカのルーズベルト大統領が行なったソ
 連への対日本参戦をそそのかす行動、また、煽る行動・・
  『日本の領土(南樺太、千島列島、満州、北方4島)を
 盗ってしまえば・・」と、
  そして、「旅順や大連をソ連の不凍港にしたら・・」
 という誘い・・アメリカのルーズベルトのそそのかしに
 完全に乗っかっているソ連だった。
  その様なソ連には・・、「日本とアメリカの間で仲介
 をしようという気持ちは、まったく無かった」。
  日本の領土を手に入れたいというソ連が、そこに居た。
  「私は、戦争を作った」と言ったアメリカのルーズベ
 ルト大統領の、更なる罪だった。
  この後の日本の外相と、ソ連大使(佐藤大使〉との交
 信は、さすがに佐藤大使の「ソ連の見方は、正しく」て、
 その後の長い交信(2時間30分におよぶ駐モスクワ日本大
 使館と日本本国との交信)において、ソ連の対日本への
 参戦の可能性が高いことを指摘していた。
  ソ連の仲介は不可解とまで言っていた。
  ルーズベルトの不埒な言葉が完全に効(き)いていた。
  今だに、戦後70年以上経過した2018年でも、この問題
 が解決できなくて、もめている。
  卑劣な米ソだった。
  日本の「なりふり構わない仲介の要請」を体よくあし
 らい、また、無視し続けたソ連と、頭を地に付けんばか
 りの日本の仲介要請が良い展開へ動かず、膠着状況にあ
 った・・それが作戦で、引っ掛けであった。
  戦場は、戦争の終末期であり、毎日、多くの人々が亡
 くなる状況であった
  そして、日本の必死の米英との和平停戦仲介の外交努
 力・・そして、その結果において、最後に、ソ連から言
 われた事は・・、
  「ソ連政府は、明日、8月9日、日本に対し戦争状態に
 入る」。
  「ご了承ください」・・だった。
  日本の佐藤大使は、ソ連外相のモロトフから、無表情
 に・・そのことを言われた。
.
2009年12月、「アイヌの方々は先住民族ではない」が、キ
 リスト教の支援を受けて、アイヌ民族を先住民とする運
 動が行われている。
  2009年12月、「先住民族アイヌの権利回復を求める団
 体・個人署名の要請」が行われた。
  また、中国は、自国の民族弾圧問題(チベット民族問
 題、ウイグル民族問題、内モンゴル民族問題など)もあ
 って、「日本にも民族問題があるとしたい」として、こ
 のアイヌの方々の先住民とする運動の陰で暗躍している。
  日本には、4万年以上の5万年前から、アフリカの地を
 発したホモ・サピエンスの先住民が、日本の地へ、あち
 こちから移住して来ていた。
  北方から・・南方から・・海からと、あらゆる方向か
 ら移住して来ていた。
  今、紀元2018年であるが、その20倍から25倍の長い長
 い遠い昔からの期間、アフリカの地から日本へ来たホモ・
 サピエンスが移動して来たが・・その様に、日本に来た
 先住民たちは、日本中を歩き回っていた・・そして、通
 婚し、交雑し、その長い長い期間の間、日本人が形成さ
 れて来た・・それは、アイヌではないのは明白・・アフ
 リカからのその到達した人種がアイヌであるはずがない。
  今まで・・、
  2007年9月13日に国連総会で採択された先住民族の権利
 に関する国際連合宣言を踏まえて・・、
  2008年6月6日、アイヌを先住民族として認めることを
 政府に求める国会決議が衆参両院とも全会一致で可決さ
 れたが・・
  (あくまで「求める決議」で、「認めた」ということ
 ではない・・当然)
  しかし、北海道アイヌ協会が、北海道の区域外に居住
 するアイヌ認定事業をアイヌ政策関係省庁連絡会議申合
 せに基づき活動している。
  その際、家系図や戸籍謄本、除籍謄本等を判断資料と
 している・・また・・
  2008年5月12日に、鈴木宗男が国会に提出した「先住民
 族の定義、及び、アイヌ民族の先住民族としての権利確
 立に向けた政府の取り組みに関する第3回質問主意書」に
 対し、
  2008年5月20日の政府答弁書で「アイヌの人々は、いわ
 ゆる和人との関係において、日本列島北部周辺、取り分
 け北海道に先住していたことは歴史的事実であり、また、
 独自の言語及び宗教を有し、文化の独自性を保持してい
 ること等から、少数民族であると認識している」と答弁
 している。
  (ただし「先住民族」との認識ではない)
  2008年6月6日には、衆参両院の全会一致で「アイヌ民
 族を先住民族とすることを求める決議」がなされた。
  (ただし、「求める決議」で「認める決議」ではない)
  また、法的にも・・
  1997年、アイヌ文化振興法施行によって、北海道旧土
 人保護法は廃止された。
  しかし、このアイヌ文化振興法では、アイヌを先住民
 族と認定されなかった。
  また、アイヌ文化振興法によるアイヌ民族共有財産の
 返還手続きに対してアイヌ民族共有財産裁判が行われた
 が、2006年に最高裁で原告敗訴が確定した。
.
2018年10月28日、世界は、だんだん中国化するのか?
  この日の日付けの読売新聞に・・表題:「終わり見え
 ぬ『忍耐宣言』」として・・現在の台湾の苦悩がしめさ
 れていた・・以下、抜書き・・
  台湾の蔡英文総統が、10日の「双十節」(建国記念日
 に相当)に行った演説は、過去2回とはやや趣が違ってい
 た。
  中国の圧力による危機感をあらわにしていた。
  台湾は、今後も対立をエスカレートさせないし、圧力
 にも屈しないという決意だった。
  蔡英文総統は、2016年の総統選で「現状維持」を掲げ
 て、中国に急接近した国民党に圧勝した。
  この2年余り、中国は対話に応じず、統一への動きを強
 めた。
  台湾を5か国との断交に追い込んだ・・そして、台湾周
 辺で軍事訓練を繰り返し、中国に住む台湾人を社会保障
 などで中国人と同等に扱う政策も発表した。
  台湾では、「現状」が次々崩されても有効な手だてが
 打てない蔡政権への不満が広がっている。
  特に、民進党の支持基盤である独立派の失望は深く、
 抗議集会が開かれた。
  トランプ米政権は、台湾との関係強化に積極的だが、
 米国の基本政策は変わっていない。
  台湾が独立に向かい、中国との間で緊張が高まること
 は望んでいない。
  過去、2000年の台湾政権は独立に傾斜し、米国に失望
 され、国際的な孤立に陥った。
  問題は、台湾がいつまで耐えられるか、ということ。
  蔡政権の求心力が回復する兆しは見えない。
  2020年の総統選では、中台関係が最大の争点になる。
  中国は、今後も圧力をかけ、揺さぶり続けるだろう。
  残された時間は、決して長くはない。
.
2018年、ドイツは、第二次大戦の時、国民の半分がナチス
 党員だった。
  このナチス党員たちが、組織的にユダヤ人の方々を強
 制収容叙へ送った。
  ユダヤ人の方々のホロコースト(大虐殺)は、この様
 にして行われた。
  しかし、戦争が集結し、戦争の幕が下ろされても、こ
 のナチス党員たちの犯罪は問われることが無く、目がつ
 むられた。
  巨大な犯罪行為が厳然と存在しているが、罪を問う行
 為は行なわれること無く今日まで来ている。
  そして、ドイツでは、「ナチスが悪かったからだ」の
 大合唱をしている。
  「あなたたちが、ナチス党員だったのですよ」と、世
 界は言うだろう。
  本当に、この罪を逃れたナチス党員たちは、反省をし
 ているのだろうか?
  「あくまでもナチスの罪を問う」としたドイツは、都
 合のよいナチス党員たちだけの罪を追求する行為だけで
 済ませて来ている。
.
2018年、世界の脅威となっている中国
  戦後、中国で偶像的に崇拝され、今は廃(すた)れて
 いる毛沢東・・
  その毛沢東が、「日本資本の中国進出」に感謝した。
  その様な言葉を、訪中した日本の議員団に言った。
  また、毛沢東は、「日本の軍が中国へ行ったことさえ
 感謝した」。
  その様な日本の行動の結果で、今の中国があり、毛沢
 東の地位があるということを感じ、感謝した意思表示だ
 った。
  しかし、ソビエトのコミンテルンが、アメリカなどで
 暗躍し、様々なスパイ活動や謀略工作が功を奏し、美し
 く手を握った米ソの「ヤルタ・ポツダム体制」。
  (参考)ヤルタ・ポツダム体制:戦後(第二次世界大
     戦後)の世界秩序(戦後レジーム)を言い、Y
     P体制とも言う。
      戦後の世界秩序は、いわゆる「ヤルタ会談」
     によって決定づけられ、東西冷戦の対立構造で、
     米ソ二大国による覇権体制ができた。
      これによって、各民族が当然に持つべき権利
     である民族自決の権利が侵害される。
  しかし、その「米ソ同盟」が形成されるかに見えたの
 も『一瞬のあだ花だった』。
  戦争も終わらないうちに、アメリカの次なる敵として
 のソビエト連邦が見えて来た。
  そのソ連を威嚇するために、日本は、アメリカによっ
 て、二発の原爆を投下された。
  また、標記の毛沢東の日本への感謝の言葉の如く、中
 国共産党の対日工作も、功を奏し、毛沢東の感謝の言葉
 となった。
  そして、ソ連は、1970年代には「軍拡に邁進した」。
  そして、近年、そのソ連の軍拡と同じ行動をする中国
 の姿となった。
  中国の膨大な軍事費は、年々増加し、台湾や東シナ海
 への領土拡大に邁進している。
  新たな脅威が形成されている・・「アメリカ、日本、
 オーストラリア、アジア各国などを含めた世界の脅威」
 となっている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)617E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年1月~1895年1月)

2018-11-05 04:08:01 | 日記
題:(増補版)617E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年1月~1895年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
.
1895年、出来事:
・第2次伊藤内閣(1892年8月8日~1896年9月18日)
・第9議会召集(1895年12月25日)
・日清休戦条約が調印された(1895年3月30日)
・第4回内国勧業博覧会が開催された(1895年4月1日)
・尖閣諸島を日本領土に編入した(1895年1月14日)
・アメリカの工作によって危うくなったハワイ・・先住し、
 ハワイの領有権のあるハワイ人の王政派が武装蜂起した。
  しかし、アメリカ軍によって短期間で鎮圧され、虐殺
 行為が行われた(1895年1月16日)
  そして、ハワイ王国は滅亡した(1895年1月22日)、
 リリウオカラニ女王は廃位させられた。
.
1895年、世界情勢
  1895年のこの頃、日本が、清国と戦争をする頃、ドイ
 ツやロシアも、中国の利権あさりを必死に行っていた。
  すでに、美味しい汁を吸っているイギリスをはじめヨ
 ーロッパ列強諸国・・、
  そして、アジア各地で利権を得ている列強の版図は、
 塗り替えられる可能性が出てきた。
  その一つが、フィリピンを得ようとしているアメリカ
 だった・・アメリカには、アジアの利権も美味しく見え
 て来ていた。
.
1895年、世界情勢
  この1895年から約20年前の1875年頃、ヨーロッパのキ
 リスト教諸国が収奪し、所有したアフリカの土地は、ア
 フリカ全土の十分の一(10%)に過ぎなかった。
  (10%でも酷い行為だが・・)
  しかし、それが、20年経た「この1895年頃」になると、
 実に、アフリカ全土の十分の九(90%)にまで、ヨーロ
 ッパのキリスト教諸国は、我が物顔にアフリカを自分の
 ものとしていた。
  この時期に、独立を認められていた国は、わずかに「
 エチオピア」と「リベリア」の少数の国だった。
  このリベリアにしても、アメリカの黒人の方々を、体
 よく放逐した形の棄民政策を、アメリカのリンカーン大
 統領が推し進め、リベリアを建国するという経緯(いき
 さつ)があって独立した国だった。
  力による争奪戦が、ヨーロッパのキリスト教諸国によ
 って非人道的に繰り広げられていた。
  「槍(やり)」でしか戦うすべを知らないアフリカの
 方々を、卑劣にも殺戮し、そのすべてを手に入れて行っ
 た。
  まったく赤子の手をひねるがごとき非人道的やり方を、
 好き勝手にしていた。
  この戦争を、『スポーツのような戦争だ』と言ったヨ
 ーロッパの指導者が居た。
  対等な国同士の間のヨーロッパの地の戦争とは「ほど
 遠い」、あたかも盗むがごとき卑劣な略奪と殺戮だった。
  そして、それから、そこに住むアフリカの方々を家畜
 同然に使って、アフリカの方々の生活のための作物栽培
 を止めさせ、自分たちに利を生む作物だけを作らせる行
 為などの蹂躙を行なった。
  自分たちだけに利があればよいのだというキリスト教
 の教義そのもの・・キリスト教が教えるやり方で、利益
 の収奪が行われた。
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1895年、世界情勢
  アメリカの軍隊(海軍・海兵隊)がパナマ(コロンビ
 ア州)に上陸した。
  そして、サンティアゴ陥落の知らせに、アメリカのボ
 ストンからサンフランシスコまで、アメリカ内各地で、
 人々は警笛を鳴らし、旗を振って祝うというアメリカだ
 ったが・・、
  そして、ハワイは、宣教という名目で宣教師を派遣し、
 また、貿易商を派遣し、これを手始めに、結局は、この
 様な移民が続々とハワイ王国へ入国し、最終的にハワイ
 を乗っ取って行き、アメリカ領土としてしまった。
  そして、パナマ・・運河の構想がこの地を得たいとい
 う切っ掛けとなった。
  運河は、海洋貿易面で大きな利益をもたらす・・また、
 軍事的にも大きな戦略性を与えるということが明らかだ
 った。
  そして、この地域に勢力圏を得て行ったアメリカは、
 この運河に好適なコロンビア国の北部のこの地が、国家
 に反抗していることを利用した。
  1880年、この地のラファエル・ヌニェスが大統領に就
   任した。
  1890年、アメリカの海軍大学教官マハンが、「海上覇
   権論」でカリブ海の運河を着目させた。
  1894年、ラファエル・ヌニェスが死去する。
  1895年、アメリカ軍のコロンビア州への上陸・・
  1903年、コロンビア議会は、屈辱的なアメリカの高圧
   的態度に、アメリカの運河へ携わることを拒否する。
   これに怒ったアメリカは、パナマ地方の住民を扇動
   して、この地方を独立させようとする。
  アメリカは、軍艦を出動させ、コロンビア西部に圧力
 を掛け、この独立運動が成功する様に支援した。
  そして、パナマの独立を認めさせた。
  アメリカは、独立したパナマ政府から、運河建設のた
 めの租借権・工業権を得て・・、
  1904年に着工し、  
  1914年に開通させた。
  アメリカは、運河の完成後もパナマ内政へ介入した。
  海兵隊の上陸などの軍事介入も度々行った。
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1895年、世界情勢
  1895年4月17日、日清戦争での日本勝利を受け、下関条
 約が締結された。
  しかし、この下関条約が結ばれて後、日本は、アジア
 に出てきた黄色人種として「出る杭は打たれる」となっ
 て行く・・
  日本は、日清戦争に勝ったからと言って、アメリカや
 ヨーロッパの様な「自分の国が利益が得られれば良い」
 という利己的な条約を結んだのではなかった。
  日本は、朝鮮の事を思い、「中国・清は、朝鮮の独立
 を認める」という条項を約束させた。
  中国・清の「冊封体制を止めさせる」という事を約束
 させた。
  また、これまで・・問題となっていた台湾や、遼東半
 島を、日本が金を出して譲られるという決着をした。
  アメリカが『アラスカを、金出して領有した」様に・・、
  奪ったのではない・・
  日本は、当時の3年間分の財政収入に相当するという
 『大金を、中国・清へ支払った』・・
  これまでのアメリカやヨーロッパ諸国は、敗戦国から
 奪い取ったが、日本は、3億円(2億両)を支払った。
  当時、清は、「眠れる獅子」と言われ、その底力は恐
 れられていた。
  海軍力においても、清国の方が大きな軍艦を持ち、ま
 た、隻数も、日本を上回る艦数を持っていた。
  世界の予想は、完全に「日本が敗けるだろう」だった。
  しかし、新興の日本は、清に勝利した・・
  清が日本に敗けると、列強諸国のアメリカやヨーロッ
 パ諸国は、さらに清を侵食し始めた・・清を餌食とした。
  清は、分割の対象となった。
  日清戦争の後でも・・日本の立場は・・まだ、アメリ
 カやヨーロッパ列強の諸国から軽んじられていた。
  幕末以降から続く「弱小国・日本の状態だった」
  そして、戦勝国・日本に、遼東半島返還の圧力がかか
 って来る・・三国干渉が起きた。
  ロシアが、ドイツとフランスを誘って、日本へ圧力を
 かけて来た・・三国の強烈な軍事力をちらつかせた。
  『町のあんちゃん』の様なやり方だった。
  日本は、清と一対一で対決した「武士の世界」だった。
  いつもやる欧米列強の様な、卑怯なグル(悪事を企て
 る仲間)に「つるむ」ようなことは、「日本はしない」。
  しかし、東アジアの欲しいロシアは、ドイツ・フラン
 スとグルになって三国干渉の圧力を日本に加えた。
  日本は、遼東半島を清へ渡した・・清は、金を日本へ
 返還した(当然)。
  そして、列強諸国は、清を蝕(むしば)んで行く。
  ロシアの領土欲は強烈だった・・朝鮮へも手を伸ばし
 て行く・・
  ロシアは、強力な軍事力を、この地域に展開し、拡大
 して行く。
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1895年、世界情勢
  1895年、日本は、下関条約で清国から台湾の領有権を
 得たが、その後、烏山頭ダムを建設し、水政策の展開を
 行ったり、各種の社会資本投資をした。
  その効もあり、数年で日本の投資分も回収する事が出
 き、台湾にも良いし、日本にも良いという結果となった。
  インフラを投資してその資金を回収し、なお親日国と
 なっている台湾、
  一方、同様に、資金を投下したものの、その回収は出
 来ず、むしろ反日国として日本を貶(おとし)めようと
 する韓国。
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1895年、世界情勢
  1895年、日清戦争によって、日本が、中国・清に勝っ
 た・・という事は、朝鮮にとって天地がひっくり返るよ
 うな出来事だった。
  中華思想に「冊封体制」という思想があり、中華が周
 囲を冊封して行く、つまり、属領として支配して行くと
 いう思想で、「貢(みつぎ)を持って従属すれば良し」
 の思想で・・朝鮮はこの思想の体制に蹂躙されていた。
  中国は、その民族は色々と変わったが、この体制は、
 常に変わらず、同じ冊封体制がとり続けられて来た。
  朝鮮の歴史も、この中国の体制下に隷従させられ、従
 属させられて来ていた歴史だった・・朝鮮の2000年の歴
 史は、この思想の元での歴史とも言える。
  朝鮮は、古代から、中華の属領としての月日を過ごし、
 この属領である事をアイデンティティ(清への帰属意識)
 として来た。
  中華を主とする主従関係下に密接な関係を作り上げて
 来た。
  日本が、この朝鮮の主(あるじ)である中華・清を敗
 北させ、負かした事は、朝鮮にとって驚天動地のことだ
 った。
  そして、朝鮮は、中華・清から解放された。
  冊封体制のない状況の中に置かれた朝鮮は、その驚き
 の中で「独立した」。
  日本の中国へ出した書・・「日出ずる処の天子、書を
 日没する処の天子に致す。恙無(つつがな)しや」の遠
 い昔からの「日本の毅然とした対等の独立した立場」を
 とった日本だった。
  この時、冊封体制下の体制に入ると思っていた中華の
 煬帝は、怒りに怒ったという。
  日本の態度は、朝鮮とは、まったく違っていた。
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1895年、世界情勢
  1895年、孫文が日本へ亡命し、逃れて来た。
  清仏戦争の頃から政治問題に関心を抱き・・、
  1894年1月、孫文が、ハワイで興中会を組織した。
  1895年の翌年、日清戦争の終結後に、広州での武装蜂
   起(広州蜂起)を企てたが、密告で頓挫し、日本に亡
   命した。
  1897年、宮崎滔天の紹介によって政治団体・玄洋社の
   頭山満と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京
   での活動費と生活費の援助を受けた。
    また、住居である早稲田鶴巻町の2千平方メートル
   の屋敷は犬養毅が斡旋した。
    長い間、清朝の満州民族の植民地にされていた漢
   民族。
    その漢民族の孫文は、「独立したい」「辮髪もや
   めたい(満州族の風習)」と言ってきた。
  1897年、宮崎滔天らの援助で東京府池袋にて興中会、
   光復会、華興会を糾合して中国同盟会を結成した。
    ここで、東京に留学中の蒋介石と出会った。
    清朝没落の前後、中国各地は、革命軍が蜂起して
   大動乱の兆しが満ちる中国だった。
  1911年10月10日、共進会と同学会の指導のもと、武昌
   蜂起(ぶしょうほうき)が中国で起きた・・各省が、
   これに呼応して独立を訴える辛亥革命に発展した。
    当時、孫文はアメリカにいた。
    独立した各省は、武昌派と上海派に分かれ、革命
   政府をどこに置くか、また、革命政府のリーダーを
   誰にするかで争った・・、
  1911年12月25日、孫文が、上海に帰着すると、革命派
   はそろって孫文の到着に熱狂し・・、
  1912年1月1日、翌年になって・・孫文を臨時大総統と
   する中華民国が南京に成立した。
    孫文を大総統に推戴(すいたい、おしいただくこ
   と)する臨時政府が、南京に樹立されて、国号を中
   華民国と改め、黄竜旗を廃して五色旗を掲げた。
    しかし、間もなく、旧軍閥を背景とする袁世凱(
   えんせいがい)が、共和政体を宣言するに至ったの
   で、孫文は、事態を円滑に収拾するため、彼に地位
   を譲った。
    だが、政党の乱立と軍閥の割拠が前途多難を思わ
   せる時代だった。
  この様な中国に、各国が政治的介入をした。
  この様な中、袁世凱は、軍備と財政の強化を図りたい
 と、この各国から借款を仰いだ。
  これに、イギリスが大きくかかわった。
  中国には、大国の各国が、複雑に関わっていた。
  この様な形で強くなった袁世凱政権は、孫文の民主革
 命派に弾圧を加えた。
  敗れた孫文は日本に、再度、逃れ、中華革命党を組織
 した。
  1914年(大正3年)7月のことだった。
  この月に世界大戦が起こった、8月に、日本が参戦した。
  日本は、イギリス軍とともに協力して、青島(チンタ
 オ)のドイツ要塞を包囲し・・、海軍は、南下してドイ
 ツ領南洋諸島を攻撃し上陸した。
  1897年~1898年にかけて、列強各国は、中国に独占的
 な特殊権益を獲得して来ていた。
  例えば、
  イギリスは、長江流域に、
  ロシアは、東三省(とうさんしょう、中国東北部)、
  フランスは、広東、広西(こうせい、広西チワン族自
 治区)、雲南など・・
  日本は、この時、初めて、これ等の列強各国の様な山
 東省を得た。
  これまでのヨーロッパ諸国やアメリカによる中国大陸
 植民地化の歴史に、この時、日本も入った。
  また、満蒙に大きな脅威を築いてきたロシアに対して
 の、防衛地帯を築けた。
  日本産業の原料市場と消費市場が出来た。
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1895年、世界情勢
・キューバの対スペイン反乱・・アメリカは、強力なアメ
 リカ軍を利用して、巨大な植民地帝国となって行く・・
 力による収奪。
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1895年、産業:
・自動車の大量生産が始まった。
 ガソリンの需要が増加へ
・日本初の1千トン級貨客船「須磨丸」が竣工した(1895
 年4月5日)
・東京の大丸呉服店で、大売出しが行われた(1895年10月
 15日)
・東京電灯・浅草発電所の操業が開始された。
 このとき使用したドイツAEG製の発電機が50ヘルツで
 あったので、東日本が50ヘルツとなった。
・八王子電灯が設立された。
・ハーストが、各地の新聞を買収した。
・コダック社が、小型カメラを発売した。
・ケロッグが、コーンフレークを製造した。
・アメリカのニューヨークに、ピザの店が出現した。
・ジレットが、かみそりの薄刃を製造した。
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1895年、交通:
・京都で、わが国最初の市電・路面電車(京都電気鉄道)
 が開業した(1895年1月31日)
・政府が、官設鉄道における輸送力増加に対処するため、
 新たに既成各線の改良と、車両の整備を骨子とする改良
 計画を立て・・、
  また、同時に、東京市区改正事業に伴う市街高架線(新
 銭座・永楽町間)、および、中央停車場の建設を改良計画
 の中に入れ政府の事業として行なうことに決定した。
・鉄道技師・古川晴一が、「輾圧工形桁」の設計を完了し
 た。
・北海道炭砿鉄道が、自社の手宮工場で1C形テンダ機関車
 (大勝号、のちの7150形)を製作した。
・富山商業会議所が、官設鉄道信越線の運賃引下げを要求
 した。
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1895年、論・文学・本:
・樋口一葉の「たけくらべ」ができた。
・小栗風葉『寝白粉』(博文館「文芸倶楽部」)、兄妹の
 近親相姦、問題に立ち入ったため発禁となった。
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1895年、歌・流行・世相:
・男のイガグリ頭が流行し、バリカンが売れた。
・玩具:空気ラッパの製作
・鉄砲玩具の連発銃が発明された。
・屈辱外交を批判の演説会が開かれ、どの弁士の発言も中
 止を命じられた。
 詔勅を読みはじめても中止となった。
・かつては、岩倉様など敬称をつけたが、この頃は、首相
 を呼び捨てにする(経済雑誌)
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1895年、発明:
・リュミエール兄弟が、シネマトグラフという動画撮影・
 再生装置を公開し、映画の歴史が始まった。
・ドイツ人物理学者のレントゲンが、エックス線を発見し
 た(1895年11月8日)
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1895年、科学・建築:
・野中至・千代子夫妻が、気象予報の研究のため、富士山
 頂で観測を開始した(1895年10月1日)
・帝国京都博物館が完成した(1895年10月31日)
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1895年、スポーツ・科学・文化・物価・流行・世相:
・第1高等学校のベースボール選手だった中馬庚が、ベー
 スボールを「野球」と翻訳した(1895年2月22日)
・神田小川町にローラースケート場(車滑り場)が現れる
 (1895年8月)
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1895年、その他:
・西洋音楽家で幸田露伴の妹・幸田延が留学から帰国した
 (1895年11月5日)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive