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(増補版)499E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年11月~1889年11月)

2017-02-24 03:08:55 | 日記
題:(増補版)499E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年11月~1889年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年11月15日、内務省が、裸体美人画の発売頒布を禁止
 した。
  内務省告示第39号が出され、裸体画の発売を禁止とし
 た。
  この告示が発せられた背景に・・、
  この年・1889年1月の『国民之友』第37号に掲載された
 山田美妙の小説『胡蝶』の裸婦の挿絵で、裸体画論争が
 起こっていたことがあった。
  そして、人々の訪れる博覧会の性格から、裸体画論争
 も誘発されていた。
  日本では、この様な「裸体画論争」が度々起きていた。
  この内務省告示第39号は、裸体美人画類の出版物・印
 刷物が、風俗を壊乱するものとして、その発行を禁じた。
  (清水友美氏の論文を参考にした)
1889年11月15日、東京湾汽船(後の東海汽船)が設立され
 た。
  渋沢栄一の構想、指導のもとに、東京湾その他周辺の
 海運会社4社が合併して設立された・・と記されている
 が?・・別史料によると・・、
  フリー百科事典ウィキペディアにより、「平野富二」
 という人物が「東京湾内汽船」および「東京湾汽船」の
 設立に尽力した・・という記述があった・・、
  『平野富二伝』(古谷昌二/編著 朗文堂 2013 船
 橋市北図書館所蔵)によると、
  1881年6月、平野富二は、発起人6名の総代として東京
 湾内汽船安全会社の設立を申請し、
  1881年8月、許可を得た。
  1882年、発起人の1人稲木嘉助が死亡したため、上記
   東京湾内汽船安全会社は解散となり、
  1885年、平野は、新たに個人経営の平野汽船組を設立。
  1886年、株式組織の東京平野汽船組合が認可された。
  1889年、東京平野汽船組合を含めた東京湾内を運行す
   る汽船会社を統合して、有限責任東京湾汽船会社が
   設立された。
  1889年11月、このため東京平野汽船組合は、この時に、
   廃業届けを東京府に提出、
  1890年1月、解散した。
  有限責任東京湾汽船会社設立にあたり統合された汽船
 会社は情報源により若干異なるが、
  『郵便報知新聞』1889(明治22)年10月23日付記事、
  『東海汽船80年のあゆみ』、
  『にっぽん全国たのしい船旅 2014-2015』(イカロス
 出版 2014)などで確認できる。
  その後、有限責任東京湾汽船会社は・・、
  1890年4月、商法公布により社名を東京湾汽船株式会社
   に、
  1942年8月、東海汽船株式会社に社名を変更し、現在に
   続いている(レファレンス協同データベースを参考
 にした)
  渋沢栄一のみを書くデーターが氾濫していて、平野氏
 を書くデーターは少ない・・注意を要する。
1889年11月16日、内閣記録局篇「法規分類大全」が刊行さ
 れた(12月か?)
  慶応3年10月から明治23年12月に至る法令等を部門別に
 編集した法令集(国立公文書館ホームページより)
  「賞恤門 ; 文書門、内閣記録局編輯」「刑法門」「外
 交門」「兵制門」「財政門」「租税門」「政體門」「警
 察門」「官職門」「治罪門」「衛生門」「各廰會計」「
 外交門」「刑法門」「陸軍海軍二省 ; 官制収兵制門」
 「司法省 ; 文部省 ; 農商務省 ; 逓信省」「官職門」
 「郵便條例 ; 郵便税 ; 郵便物 ; 郵便集配 ; 郵便遞送」
 「治罪門 ; 警察門」「租税門」などがある。
1889年11月18日、北海道炭鉱鉄道会社が設立された。
  北海道炭礦汽船株式会社(ほっかいどうたんこうきせ
 ん)は、石炭の輸入販売やガラス製品の加工販売を行う
 日本の株式会社で、通称は北炭(ほくたん)・・と説明
 があるが・・、
  かつては、北海道で多くの炭鉱を経営し、財閥解体ま
 では三井財閥に属し・・、
  現在は、ロシアからの石炭輸入を中心とする専門商社
 で非上場(かつては上場企業)。
  従業員数:22人(2016年3月末現在)
  この日本に貢献した会社の・・現在に至る道程は・・
  1890年(明治23年)現在の夕張市に夕張炭鉱を、現在
   の歌志内市に空知炭鉱を開設。
    炭鉱の開発と並行して炭鉱から港までの鉄道を建
   設し、小樽港(小樽市)、室蘭港(室蘭市)を石炭
   の積み出し港として整備した。
    石炭を輸送する船を所有し、海運業も営んだ。
  1906年(明治39年)10月1日、鉄道国有法に伴い、北海
   道の幹線鉄道約200キロメートルを国に売却し、
    北海道炭礦汽船株式会社に社名変更。
  1907年(明治40年)11月1日、イギリスビッカース・ア
   ームストロング社と共同して株式会社日本製鋼所を
   設立。
  1909年(明治42年)7月23日、輪西製鐵場(現在の新日
   鐵住金室蘭製鐵所)が操業開始。
  1982年(昭和57年)10月9日、夕張新炭鉱閉山。
  1995年(平成7年)6月23日、会社更生手続き開始の決
   定を受ける。
  2005年(平成17年)1月31日、会社更生手続完了。
  今、従業員数は22名であるが・・、
  かつては、日本を支えてくれた偉大な会社だった・・
  ありがとうございます。
1889年11月20日、両毛鉄道の小山駅~前橋駅間が開通し、
 日本鉄道と接続した。
  日本鉄道の小山駅から延伸された両毛鉄道は、この時
 に、利根川東岸の現・前橋駅まで開業した・・そして・・
  1889年12月、利根川に橋梁が開通し、
   日本鉄道も、両毛鉄道前橋駅まで乗り入れた。
   東京方面からの直通列車も運転され、県都である前
   橋市の玄関口としての役割を果たしてきた。
1889年11月21日、歌舞伎座が開場した(11月10日説あり)
  歌舞伎の専用劇場で、福地源一郎(桜痴)が、東京市
 京橋区木挽町(現:東京都中央区銀座)に建設した。
  外観は洋風で、内部はすべて日本風の、3階建て檜造り、
 客席定員1824人、
  舞台間口 13間(約23.63m)、奥行 16間(約 28.96m)、
 回り舞台直径 9間(約 16.29m)と 7間(約 12.67m)の
 蛇の目回し、本花道 5尺(約 1.52m)の機構であった。
  演劇改良運動の熱心な唱導者福地源一郎が、自分たち
 の理想を実現すべく日本一の大劇場を目指して作った。
.
  (今日の言葉)
.
  題:日本よ! 自分の足でしっかり立て・・
.
紀元前7万年前、人間の認知能力が、この頃、より向上した。
  (参考)認知:にんち、ある事柄をはっきり認める事。
  (参考)認知考古学:にんちこうこがく・・
     心の進化を研究する進化心理学を取り入れ、遺
     物・遺跡の分析から
      古代人の精神状態を解明しようとする、新し
     い研究分野。
.
1830年、インディアン強制移住法
  アメリカ第37代大統領アンドリュー・ジャクソンが、
 インディアン強制移住法によって、約10万人のインディ
 アンの方々を強制的に移住させた。
  先住の民・アメリカ・インディアンの方々が、先祖代々
 の地を、アメリカ白人たちに追われた・・、
  ミシシッピ川の西のオクラホマや、アリゾナなどへ
 強制的に移住させられた。
  白人アメリカ人、キリスト教プロテスタントに、『何
 の正義があるというのだ』・・追い出す権利があるとい
 うのだ・・
.
1863年、南北戦争のチャンセラーズヴィルの戦いで、北軍
 のフッカー将軍が、南軍のロバート・E・リー将軍に対し
 て惨めな敗北を喫した。
  このことは、アメリカで、一番知られていることであ
 る・・が・・、
  このフッカー将軍・・南北戦争に売春婦を連れて行っ
 たことでも有名(従軍慰安婦である)
  (参考)ジョセフ・フッカー(1814年11月13日~1879
     年10月31日)は、アメリカ合衆国の職業軍人で
     あり、南北戦争のときは北軍の少将を務めた。
      フッカーは、南北戦争の全体で従軍し多くの
     実績を挙げたが、1863年のチャンセラーズヴィ
     ルの戦いで大敗北を喫す。
.
1911年12月16日、トーマス・ブレーク・グラバーが死んだ。
  武器商人として幕末の日本で活躍し、暗躍した。
  イギリス人(スコットランド出身)の商人。
  その長崎のグラバーさんが、『牛が食べたい』と言え
 ば、幕府は、牛屠場を、その最適地を探して作って上げ、
 その要望に寄り添ってあげた。
  それに対しオーストラリアは、その反対だった。
  オーストラリアの国が出来る前から・・日本はクジラ
 獲りをしてきた。
  そのオーストラリアの国の歴史より古い日本のクジラ
 獲りを『止めろ』と言った。
  その理由が・・勝手な理由で・・キリスト教では、ク
 ジラは知恵があって、高い地位にいる動物だからだと言
 う。
  カンガルーを殴り殺しているオーストラリア。
  自分のやっている事は、何ら気付かず、正しいという。
  キリスト教は、祭りだと言っては七面鳥を食うが、そ
 れは問題外なのか?
  ケルト人は殺すし・・、ヨーロッパ大陸から居なくな
 ってしまったではないか・・
  自分たちがやっていることは良いのだと来る。
  自分たちがやってないのは違和感がある、『だから・・
 やめろ』・・と言う。
  こんな論理を正しいとしている方が「野蛮ではないの
 か?」。
  その「各々には、文化があり尊重しなければならない」。
  クジラを食べるのも食の文化。
  牛を食べる文化と同じなのです。
  散々、クジラの油が欲しいと、クジラを殺して来たの
 に、急に、手のひらを返したように日本を悪者にする。
  本音は、牛肉を買ってくれ・・なのだろー・・、
  もっと、正直に、まともに言って下さい・・キリスト
 教の性悪説のごとき『曲がった言い方』は止めて下さい。
.
1945年8月8日、深夜、ソ連が日ソ中立条約を破棄、日本に
 宣戦布告した。
  ソ連、対日宣戦布告し・・、70個師団(約70万人)も
 のソ連赤軍が、怒涛の如く満州など各地へと進撃して来
 た。
  満州の日本人などの殺戮の限りを尽くした。
  戦車で踏みにじられた・・機関銃の乱射で殺戮された・・
  アメリカのルーズベルトは、秘密裏に、ソ連へ武器を
 渡していた。
  ソ連軍は、この満州の他、朝鮮・咸鏡北道などへも侵
 攻を開始した。
  ルーズベルトは、強烈なキリスト教信徒で、強い者の
 支配が正しいというキリスト教的考え方にあった。
  やはり、強いキリスト教信徒だった進化論のダーウィ
 ンも『強者の適者生存』の論理を展開した。
  因みに、ダーウィンは、後半生は、キリスト教から離
 れている。
  これは、逆に言えば、弱者の生存に配慮しない考え方
 であり、その様な考え方の宗教であった。
  (強者は生き残る権利がある・・だから弱者のものを
 奪うのは正当なのだ・・の考え方・・聖書に書いてある・・
 が、しかし、こんなことは隠している・・)
  キリスト教聖職者の父に育てられたダーウィンも「強
 い者の適者生存の進化論を唱えた」。
  しかし、研究の進んだ今・現代、そのダーウィンの進
 化論は、多くの点で間違っていると指摘されている。
  ルーズベルトの思考も、強者の生存論であった・・
  「異教徒で・・有色人種で・・しかも、敗者・日本に
 何ら配慮はなされなかった」
  (無条件降伏と原爆による完全破壊・・そこからしか
 平和は生まれないに洗脳されていた・・)
  「力ある戦勝国だけの考え方から、新しい秩序が生ま
 れる」とした。
  ルーズベルトは、キリスト教の「シャローム」の教義・
 考え方にマインド・コントロールされていた。
  「平和は、『すべてが破壊された中』から生まれるの
 考え方」から行為を進めて行った・・、
  「今、この時点で、アメリカなどの占領軍は、その占
 領地において、すべてを所有している」とルーズベルト
 は言った。
  他の国・他の民族の生命・財産まで手玉に取って、自
 由できるとした。
  イギリス外相のイーデンは、ヤルタにおける会談の中
 で・・ルーズベルトについて言った・・、
  「ルーズベルトは、老練に、確実に、手に入れ、
  その能力を見せたが・・、
  しかし、残念ながら、この才能ゆえにか、長期ビジョ
 ンがない」・・、
  ルーズベルトは、ペテン的な「エサで吊る話」で会談
 を進め・・、
  日本の正当な権利・領土まで、ソ連への手土産にして
 しまった。
  (アメリカの損は、まったくない状態の中で仕組んだ)
  引っ掛け交渉をして、成果があったと考えるのは間違
 い、次世代へ、禍根を残すやり方だった。
  逆に、『大きな・新たが問題』を作ったルーズベルト
 だった。
  成果など、まったくなかった。
  東欧も、すべてが共産化した。
  東欧での、ソ連の進出について、ルーズベルトは、完
 全にソ連の進出を認めてしまった・・
  ルーズベルトのアメリカは、東欧の共産化を認めた・・
 そして、何ら手を打たなかった・・
  ポーランドへも・・ソ連の進出を受け入れたルーズベ
 ルトだった。
  この様に・・広汎な地域を売り渡した。
  そして、たっぷりとお土産を貰ったソ連・スターリン
 は、日本とソ連の中立条約が、現存しているにもかかわ
 らず、臆面もなく、その条約を勝手に破棄し、
  1945年8月8日、70個師団ものソ連赤軍を怒涛の如く満
 州などへ進撃させ、
  満州の日本人を殺戮の限りを尽くした。
  ルーズベルトは、この様なソ連による日本人への殺戮
 行為の御膳立てをした。
  もともと・・アメリカは・・ルーズベルトは、ただ、
 中国の利権を手に入れたいだけだった。
  日本の主権のある地・千島列島・北方四島などまでも
 売り渡し、
  終戦となっても、戦後になっても、このソ連は、戦争
 を止めず・・、
  日本軍は、敗戦になって撤退し、居ない地・北方領土
 などへも侵攻して奪い取った。
  降伏を宣言していて戦争も何もない時に、その様な地
 へ、軍隊を上陸させて、「占領した」と宣言したって、
 そんな宣言が成立するわけはない。
  ソ連は、日本が降伏宣言する事を焦っていた。
  日本が、降伏の宣言をすると日本の領土が取れなくな
 るからだった。
  しかし、そのソ連の参戦は、「滑り込みアウトだった」。
  しかし、ソ連は、卑劣にも戦争が終わったにもかかわ
 らず、奪い続け・・奪ったことにした。
  千島列島の国守島の戦いは、日本の軍が優秀で強く、
 日本勝利で終戦を迎えた。
  しかし、終戦を向かえたので、敗戦しているソ連に対
 し、日本は武装解除して、武器を置いた。
  終戦状態にした。
  ソ連も、その終戦を受け入れた。
  そして、日本の武装解除を行なった。
  日本が終戦状態であるという日ソの合意がこの行動を
 起こさせた。
  ソ連の正規の軍がである・・その行為をした・・
  しかし、にもかかわらず・・ソ連は、この同じ千島列
 島の南の日本の領土の北方領土で、
  戦争は終わっていないと偽りを言って・・嘘を言って
 ・・ソ連の奪い取り行為を続けた。
  このソ連の屁理屈の「戦争は終わってない」は成立す
 る訳がない。
  日本の領土・千島・北方四島の「無法占拠」が続いて
 いる。
  無法矛盾の理屈を振り回し、自分に都合の良い行動を
 している。
  筋が通る正論であるわけはない。
  この様な、ソ連の卑劣な行為は、ヨーロッパでも行な
 われていた。
  アメリカのルーズベルトの、禍根を残すソ連へのそそ
 のかしは、この様な現実を引き起こしていた。
  こんな卑劣な現実を引き起こしていた。
  朝鮮半島では・・
  ソ連は、朝鮮半島の半分を奪い、何のいわれのない、
 何ら筋の通らない「金日成という男」を送り込んだ。
  自分の近くに居た・・というだけの理由で・・
  『ルーズベルトの仕掛け』・・これで、一番広大な地
 を拡げて得る事が出来たのは・・ソ連だった。
  中国の利権が欲しかったアメリカは、ルーズベルトの
 策に溺れた形で終わった。
  その目的の中国は・・結果的に、中国もまた、共産圏
 政権となった。
  そして、朝鮮では、また、夥(おびただ)しい血が流
 される事になる(数年後に朝鮮戦争が起きる、その金日
 成が引き起こす)。
  本当に、愚かなルーズベルトは、後々まで禍根を残し
 たアメリカ大統領となった。
  そして、その中国・共産圏政権は、今・現在、アメリ
 カの脅威となった。
  また、日本の脅威となった。
  また、アジアの、オーストラリアの、インドの、など
 々々の脅威となった。
.
1946年6月1日、日本人将兵によってベトミン軍のクァンガ
 イ士官学校が設立された。
.
1946年12月7日、シベリア引揚第1船が舞鶴に入港した。
.
21世紀、この21世紀は、多極化の時代を向かえると、中西
 輝政教授(京都大)は言われる。
  「アメリカ一極」の時代は去ると・・。
  教授は、2010年代は、その流れが顕著になると言われ
 る。
  今・2016年、アメリカは、トランプ氏が、次期大統領
 に決まり、氏は「強いアメリカにする」と盛んに演説を
 している。
  そして、次期国防長官の候補者の名を公表した。
  イラクで、盛んにイラクの方々を殺し、アフガニスタ
 ンでも、「悪者は殺すんだ」と、盛んに「自分の考えで
 判断し、人々を殺戮した」というその様な人を指名した
  (このイラクの時も、キリスト教に強く洗脳されたブ
 ッシュ大統領が悪かった・・『現代の十字軍になる』と
 宣言した大統領の蛮行だった)。
  人々を殺すことが・・「強いと言えるのか?」、
  その様な「選択センス」で人選したのか?
  強いアメリカになるというのは、その様に「暴力的に
 強くなる」という意味か?
  そうであるなら、強くなるという意味を「はき違えて」
 いる。
  「アメリカ一極」が終焉したという、次の幕が開(あ)
 く、今・現在、空(むな)しいのあくにならないように・・
  アメリカは「アメリカ一極」が崩れ、焦(あせ)って
 いるのだろうか・・
  日本も、この多極化の時代、その一極として自分の足
 でしっかり立て・・その様な時代になっている。
.
21世紀、この21世紀という世紀は・・、「米」「中」「ロ」
 「印」「欧」の五局の国際政治の構造となり、日本は、
 中国に呑み込まれてしまう可能性が高いという。
  国を疎(おろそ)かにしている今、その到来を速めて
 いる。
  「アメリカは、いずれ東アジアから撤退していく」と、
 ハンティントンは明言している。
  関連する・・バンドワゴンの話・・、
  『バンドワゴンする国』は・・、
  『外交や国防で致命的な失敗をする確率が高い』と・・
 これを指摘する学者は多い。
  キッシンジャー、ミアシャイマー、モーゲンソー、ケ
 ネス、ウォルツ(カリフォルニア大学とコロンビア大学)、
 ポーゼン(MIT)などが明言している。
  過去、1700年以降の300年間のアメリカ、イギリス、ロ
 シア、フランスなどの歴史を見ても明らかだと・・、
  これらの覇権主義国は、同盟国を何度もだましたり、
 裏切ったりして来ている・・と・・
  バンドワゴンする国は・・、
  自主防衛せず、他の強国に依存(もしくは追従)して
 生きていこうとする外交の国・・、
  一般的に・・「時流に乗る」「多勢に与する」「勝ち
 馬に乗る」などと説明されている・・が・・、
.
2020年、中国が・・アメリカを越える。
  中国は、過去20年間、毎年、二ケタの伸び率で軍拡を
 続けてきた。
  そして、アメリカの国防予算は、今後6年間は停滞する
 と予測されている
  2010年の予測で、2020年ごろには、中国の軍事予算は、
 アメリカを抜いて世界一になるだろうと予測されている。
  また、北朝鮮は、日本を直撃できる弾道ミサイルを300
 基を保有している。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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(増補版)498E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年11月~1889年11月)

2017-02-22 16:57:34 | 日記
題:(増補版)498E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年11月~1889年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年11月3日、嘉仁親王、立太子式典が挙行された。
  嘉仁親王(よしひとしんのう、大正天皇陛下)が、立
 太子礼を行われた。
  東宮立太子(氷川清話)
  因みに、即位礼は、1915年(大正4年)11月10日、於:
 京都御所だった。
1889年11月4日、横浜共同電灯会社が設立された(7月説あ
 り)
  1889年7月に、横浜共同電灯会社(後に横浜電気と改称)
 が県の許可を得て設立され、初代社長に高島嘉右衛門が
 就任した。
  「関内及び外国人居留地」を営業区域として許可を得
 たが、英国人商会の競合があり居留地の売電が進まず、
 関外の営業権を持つ会社も吸収合併するが、苦戦が続く。
  1890年、横浜共同電灯会社が、発電所の建設や電線の
 架設など開業の準備を整え、
  1890年9月に、試験送電を始めた。
   試験送電は、事務所内の電灯を点灯してのデモンス
   トレーションが行われた。
   当初の出力は100キロワットの直流式、灯数は700灯
   ほどであり需要は少なかった。
  1890年10月から営業を開始した。
   初めて電灯を点火した。
  1896年に、居留地内の英国人経営の電灯会社経営権を
 買収した。
  競合が解消し、収益性が確保できるようになった。
  この時、英国人商社の電灯線は、地中埋設線による電
 力提供を行っていた(電柱の無い方式)。
  1903年12月30日、横浜共同電灯会社が、高島町に発電
 所を竣工させた。
  発電所は、エジソン直流三線式発電方式を採用した石
 炭火力発電所。
  1921年に、東京電力の前身である東京電灯と合併した。
  因みに、当初、競合する電気事業出願者があったが、
 再三に渡る官庁に対しての許可の督促や競合者との折衝
 を経て営業許可を受けるに至っていた。
1889年11月7日、代理公使・近藤直鋤が、朝鮮政府に対して
 咸鏡道防穀令施行は、通商章程違反と抗議し、損害賠償
 を請求した(1891年12月説あり)
1889年11月15日、門司、四日市の両港が開港した。
  北九州の工業力と結びついて、大陸貿易の基地となり、
 最盛期には、1ヶ月に200隻近い外航客船が入港した。
  国内航路を含めて年間600万人近い乗降客となった。
  明治の初期、外国貿易は、開港と朝鮮貿易のための特別
 貿易港に限られていた。
  石炭などの特定の産品を輸出するためには「特別輸出
 港」という制度が導入され、
  北九州の筑豊は石炭の主産地であり、取れた石炭は「
 川ひらた」「五平太」などと呼ばれる川舟を使用して、
 遠賀川及びその支流を利用して水運輸送され、若松港か
 ら積み出されていた。
  しかし、若松港は水深が浅く、大型船の入港には不向
 きであった。
  北部九州の港が、特別輸出校に指定されれば、石炭輸
 出が可能となり、地域経済の発展も期待できる。
  小倉港はじめとしたその他の北部九州の港も、外国貿
 易を行なうには問題があり、大型船が入港できる港湾の
 整備が求められていた。
  門司港は、水深が深くできた。
  また、本州と九州の結節点に位置し、石炭輸出だけで
 なく物流の面でも利便性が高かった。
  鉄道で、九州各地に輸送できるという地の利があった。
  四日市港は、今の四日市市中納屋(なかなや)町で回船
 問屋を営んでいた稲葉三右衛門 は、改修の必要性を感じ、
 三重県に働きかけましたがみとめられず、自分の財産を
 なげうって四日市港を改修する工事を始めた。
  この努力によって、1884年には、現在の四日市港の基
 礎ができていた。
  そして、この年に、外国貿易が出来る港としての開港
 場(かいこうじょう、特別輸出港)となった。
  そして、日本国籍の船舶として外国貿易が初めて行わ
 れた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:実は・・帝国主義の国だった・・アメリカ・・
.
1890年代、バッファロー(アメリカ・バイソン)が、アメ
 リカの大地から姿を消す状態になった。
  絶滅寸前となった。
  千頭を割った(約750頭というデーターがある)。
  白人のキリスト教徒が現れる前のアメリカバイソンの
 生息数は、何と約6000万頭も居たという。
  99.9987パーセントのアメリカバイソンは、殺してしま
 ったというアメリカ人だった。
  0.0012パーセントしか生き残っていなかった。
  日本に鯨のことでとやかく言う資格はない。
  更にひどい事に、この様にした行為の原因は、このバ
 イソンは、アメリカインディアンの方々、この先住民の
 方々の大切な食料だった。
  アメリカインディアンの方々の絶滅作戦の一環でこの
 バイソンを射殺しまくったのだった。
  非人道的な極悪行為である。
  そして、そのバイソンを食べる訳でもなく、そのまま
 放置した、腐るがままにしたというから、動物愛護の話
 もあったものでもない。
  1870年代中期の写真というのがあるが、バイソンの頭
 骨を積み上げた山の写真がある。
  その山の頂上でアメリカ人が立っているが、この関係
 者が集めただけでもこのような山のようにバイソンが殺
 されたことを示している。
  20メートルの高さがあろうかという巨大なバイソンの
 頭蓋骨の山である。
  本当に可哀想という心が起きる写真である。
  今現在、そのアメリカ・インディアンの方々が絶滅に
 瀕(ひん)している。
  非人道的な話この上ない卑劣な話である。
  衣食住のすべてを、バイソンに支えられていたアメリ
 カインディアンの方々だった。
  長い長い歴史の中で、このように暮らしを育んで来た
 アメリカ・インディアンの方々のすべてを奪い取って、
 自分だけ良ければ良いというキリスト教の教えに洗脳さ
 れて、この様な最悪行為をしたのだった。
  アメリカ政府がその行為を率先して奨励してやったと
 いうのだから卑劣である。
  博愛のかけらもないキリスト教徒のアメリカ人の仕業
 (しわざ)だった。
.
1890年12月29日、ウーンデッド・ニーの虐殺、
  アメリカのサウスダコタ州ウーンデッド・ニーで、ミ
 ネコンジュー他のスー族インディアンの種族に対して、
 アメリカ軍の第7騎兵隊が行った民族殺戮、及び、民族
 虐殺。
  この虐殺を白人側は「ウーンデッド・ニーの戦い」と
 呼び、虐殺を実行した第7騎兵隊には名誉勲章まで授与さ
 れている。
  しかし、インディアン側では、これを「ビッグ・フッ
 ト一行に対する虐殺」と呼んでいて、インディアン戦争
 の象徴にもなっている。
  そして、日本では盛んに国づくりが行われている頃、
 アメリカでは卑劣なインディアンの方々に対する非人道
 的行為が、盛んに行なわれていた。
  アメリカの先住民のアメリカ・インディアンの方々と、
 アメリカに新しくやって来た占領者のイギリスなどから
 の白人たちが、盛んに戦いそして虐殺行為が行われてい
 た。
  そして、この年に、忌わしい白人による大虐殺が、イ
 ンディアンの方々に対して行われた。
  そして、駆逐されたアメリカ・インディアンの方々は、
 可哀想に、この後、広大な領土を奪われて、狭い保留地
 に閉じ込められる。
  インディアンの方々が持っていた固有の文化もことご
 とく破壊された。
  アメリカのキリスト教の白人たちは、自分たちのもの
 が良いのだと、自分たちのものを押し付けた。
  この様な名分のもとに破壊を行なった。
  ことごとく理屈抜きの「キリスト教の神の義の下の行
 為で正しいのだ」とされた。
  卑劣な解釈においての卑劣な行為だった。
  尊い命をはじめ、すべてが、インディアンの方々は奪
 われた。
  アメリカ・インディアンの方々は、この強制に対して
 も戦った。
  自分たちの持つ文化を守る抵抗行動をして行った。
  基本的人権が奪うという遅れた行為の中にキリスト教
 に洗脳されたアメリカの白人たちは居た。
  『民族の自決権』なども完全に奪われた状態の中に置
 かれたアメリカ・インディアンの方々だった。
  アメリカはこの様な行為に対して謝罪していない。
  インディアンの方々が虐殺されて、南ダコタの雪の中
 に横たわっている記録写真がある。
  悲惨な事ではないか。
  子供たちも大勢(おおぜい)いる。
  100万人以上いたというアメリカ・インディアンの方々
 は、そのあらかたが殺されてしまった。
  4分の3の方々は確実に殺戮された状態だった。
  このウーンデッド・ニーの戦いの抵抗が最後の抵抗と
 なった。
  アメリカの最新兵器を持った軍団のやりたい放題の殺
 戮だった。
  名誉も何もない、卑劣な行為のみが残った。
  この後、白人たちが勝手に決めた居留地にインディア
 ンの方々は閉じ込められた。
  そして、更に卑劣な事は、この後、「ドーズ法」を作
 って、残り少なくなったインディアンの方々の土地をさ
 らに奪った。
  負の世界遺産として登録せよ!
  負の記念碑を建立せよ!
.
1942年9月、アメリカの航空母艦「ワスプ」が沈没した。
  「ワスプ」と言えばWASPである。
  これは、白人・アングロサクソン・プロテスタントで
 ある。
  アメリカは、自国を「民主主義の国だ」と自画自賛す
 る。
  そして、民主主義を根付かせると言って・・腕力で、
 戦争で・・「その言葉を掲げ」て、卑劣な事をする。
  どこが・・民主主義国だ・・と、糾弾したい。
  帝国主義国そのものではないか・・と、言いたい。
  アメリカの民主主義と言ったって、黒人の方々が入っ
 ていない民主主義・・、
  そんなアメリカなのだ・・、
  ズーット・・悪い事ばかりして来た・・国。
  良いことをした年代はあったのか・・?
  『すべての人間は平等に創られている』・・と、アメ
 リカの独立宣言書に書かれているが・・まったくの『嘘
 である』。
  アメリカは、ネイティブ・アメリカン(アメリカン・
 インディアン)の先住民の方々を殺しまくっているし・・、
  結局、WASPである。
  WASPの価値観で動いている国だ。
  かつての移民たちである。
  そのWASPが、今・現在、大多数の座から降りよう
 としている。
  これまで・・嫌というほど・・マイノリティの方々を
 虐(しいた)げて来たが・・自分たちがマイノリティへ
 の道を進んでいる。
  WASPたちは焦(あせ)っている。
  WASPは、「ホワイト・アングロサクソン・プロテ
 スタント」の英語( White Anglo-Saxon Protestant)の
 頭文字をとった略語。
  白人・アングロサクソン人種・キリスト教プロテスタ
 ントの宗教者たちである。
  殺戮と戦争の限りを尽くして、アメリカを奪った。
  マイノリティーの方々は殺されて、消えて行った。
  因みに、ワスプ(USS Wasp, CV-7) というアメリカ
 海軍の航空母艦は・・、
  航空母艦の名前にするぐらいのWASPなのだが・・、
  この名のアメリカ海軍におけるワスプの名を受け継い
 だ艦は8隻ある・・こんなに重きを置いている・・、
  この8隻目の艦は・・1942年9月、日本の潜水艦『伊-19』
 の魚雷攻撃を受け、大火災の後に沈没した。
.
1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下された。
  投下時間は午前8時15分だった。
  広島市の人口の35万人の半分近くの16万6000人の方々
 が亡くなった。
  避難所へたどり着いた方々も、また、担ぎ込まれた方々
 の70%~80%が亡くなった。
  被爆した方(小学生の女性、Kさん)は、その時の思
 い出を語る・・、
  櫛で、私の頭の毛を梳(と)いてくれたお姉さんたち
 の手、
  そのすべての方の手や唇はくっついていました。
  20歳代の女性の方たちでした。
  原爆が落ちなかったら、エノラ・ゲイが落とさなかっ
 たら・・、
  このお姉さんたちの敵(かたき)を取りたいと思いま
 した。
  その後に、そのエノラゲイの副操縦士に会う機会があ
 りました・・、
  アメリカのテレビ局で・・会った時は、「飛行機に乗
 ってた奴だ」・・と、思いました。
  私の父は、被爆したその様な女学生を見た時は、「あ
 ー、すまない」と思ったと・・言いました。
  父は・・キリスト教国・アメリカが落とした・・、
  アメリカは、謝らなければいけない・・と、父は言い
 ました。
  ニューヨークの病院が、無料でその女性の方たちを治
 療すると申し出ました。
  しかし、お姉さんたちは、軍用機に乗りたくないと思
 いました。
  アメリカのテレビに出る事になり、1956年5月11日、ア
 メリカのテレビ局のホールに入った。
  Kさんは、その時、5年生(11歳)だった。
  副操縦士のロバート・ルイスが居た。
  私は・・そのおじさんをにらんだ。
  午前2時45分:テニアン島を出発したと言った。
  広島・長崎・小倉が目標だったと言った。
  そして、投下後、確認のため、投下した広島を機上か
 ら見た・・その時・・、
  その時、「神様、私たちは何ていうことをしたんだ」
 と思いました・・と・・言った。
  広島は・・消え・・て・・い・・た・・、
  涙があふれた。
  それを見てショックを受けた・・副操縦士は言った・・
  その状況を語っていた「鬼だと見ていた副操縦士」か
 ら涙が出ました。
  私は正しい人と思っていた・・が、しかし・・心は変
 わった。
  少し経って・・旧ABCC(原爆傷害調査委員会)の
 『屈辱的な調査』を受けた。
  それは、原爆投下後の状況(原爆の効果)を調べたア
 メリカの研究所だった。
  多感の女の子を裸にしてまでして、色々、調べた研究
 所だった。
  屈辱を受けたその場に、研究所の場所に、当分、来れ
 ないという・・場所に・・なっていた。
  それほど・・Kさんの心を・・傷つけていた。
  忌まわしい場所(研究所の講堂)となっていた。
  アメリカの研究所は・・そこまでした。
  極悪行為の後の・・アメリカの指示した・・調査だっ
 た。
  その屈辱は、その後、忘れられない事となった。
  広島に住みたくないとまで思った。
  被爆の重荷を背負いたくなかった。
  しかし、被爆者と分かり、婚約が破棄となった。
  婚約者の・・婚約相手の叔父さんが医者で、その被爆
 の悪さを知っていて、婚約相手に伝えられた。
  原爆投下をした者・・テレビ局で会ったルイスに会い
 たかった。
  ルイスに会った時、ルイスは精神病院に入っていた。
  彼は、アメリカのテレビに出たのを、アメリカは、彼
 を非難した、彼は非難を受けた。
  Kさんは、日本に帰って、彼の死亡記事を見た。
  爆弾投下から、彼は心に重みとなって心を病んでいた。
  Kさんは、結婚した。
  虎の門病院で妊娠して居るのが分かり、「大丈夫です」
 と言われた。
  しかし、流産した。
  養子を引き取ることにした。
  今、2人の娘がいます。
.
2017年1月30日、この日の新聞広告に・・、
  (読売新聞、2017年1月30日)の広告に・・、マックス・
 フォン・シュラー氏という元アメリカ海兵他の兵士だっ
 た人が以下の事を言っている・・、
  ・マニラの戦いでは、10万人ものフィリピン人が死亡
   したが・・、
  アメリカ人は、強暴な日本兵がレイプや殺人を犯した
 からだと言います。
  実際はアメリカ軍の砲爆撃によるものでした。
  ・アメリカのフェミニストは、慰安婦は性奴隷と断面
 します。
  アメリカの歴史学者が、この考え方と違う事を書けば、
 職を失います。
  彼が止めるまで大学に圧力を掛けます。
  ・アメリカ人は、プロパガンダが巧みです。
  大東亜戦争(第二次世界大戦)について「日本人は、
 腐敗した指導者たちに騙されていた」とアメリカ人は言
 います。
  アメリカが、日本を戦争に追い込んだ事実を絶対にア
 メリカ人は認めません。
  ・真実を語ることは、それは『ヘイトスピーチ』では
 ありません。
  本「アメリカが隠しておきたい日本の歴史」
  出版社:ハート出版
  広告コピー:海兵隊出身の著者が、アメリカの嘘を告
 発する。
.
2017年2月12日、中国を出ていく人たち
  この日の読売新聞を参考に記すと・・、
  トランプ米大統領の移民政策が、世界の衝撃となって
 いる様に、今、中国でも「中国を出ていく移民」が話題
 となっているという。
  身近な人が、いきなり海外に移住するという現象が中
 国の人々を騒がせているという。
  1例・・、最近、中産階級層の北京の中年男性へ、スマ
 ートフォンに友人からメッセージが届いたが・・、
  それを読んで仰天したという。
  「今、アメリカだ」と・・移民して行った・・と。
  やはり、昨年にも、突然、アメリカから連絡があって、
 幼稚園のPTA仲間だった。
  資金を作って、移民をする人が身の回りで起こってい
 るという。
  週刊誌の人気時事漫画も、移民熱を取り上げている。
  北京の著名な移民コンサルティング業者の総裁は・・、
  「確かに、移民はどんどん増えています」と笑顔で言
 う。
  大金持ちの投資移民が増えただけでなく、若者も海外
 へ出て行くという。
  近年、欧州諸国などで、中国人移民へのハードルをグ
 ンと下がり、家1軒を買うほどの元手で、永住権を手に
 出来る国が増えたことも・・急増の要因だという。
  北京や上海の不動産を売れば、問題なく手が届く。
  移民の主な動機は、子女の教育、大気汚染など劣悪な
 環境からの脱出、移民先の手厚い社会保障への期待など
 ・・。
  元々、中国は、華僑・華人を世界に出してきた国。
  中国経済が非常に良かった2012年でさえ、約14万人が、
 人気のアメリカ・カナダ・オーストラリアの永住権を取
 得したという。
  今、中国は、資産家層が増えて、経済減速が長引いて
 いる、そこで、移民をするという人が増えているという
 状況。
  中国が気がかりとしているのは、知識人の移民が増え
 ていること。
  その人たちは、中国の国家の理性や、寛容さが、喪失
 していくことの暗さに、行動の原因があると。
  自由、民主、人権などの「西側的な価値観」を壊す習
 近平政権の思想矯正運動がある。
  1月、毛沢東をインターネットで批判し、揶揄(やゆ)
 した大学教授が、地方幹部らの毛沢東支持者に攻撃され
 た末に、相次いで解任された。
  数知れない知識人が迫害された文化大革命(1969年~
 1976年)を連想させる事件が起きた。
  中国共産党の利益の前には、知識人などは簡単につぶ
 されるという国だった。
  ある知識人は、スマホに「あなたは来ないのか」とい
 う海外からのメッセージを見て、自分の資産額を考える
 という中国となっている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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(増補版)497E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年10月~1889年11月)

2017-02-21 05:20:02 | 日記
題:(増補版)497E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年10月~1889年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年10月30日、伊藤博文の免官が発令された。
  10月11日に、枢密院議長の伊藤博文が、大隈重信の条
 約改正案に反対して辞表を出した。
  そして、10月30日のこの日に、免官発令がなされた。
1889年10月、山形県鶴岡町で、困窮家庭の児童たちへ、給
 食が配られ始めた。
  和尚さんたちの慈しみの心から生まれた『日本初の給
 食』だった。
  明治22年のこの年、鶴岡市の家中新町の大督寺境内に
 ある私立忠愛小学校で、
  生活が苦しい家庭の子どもたちへ、昼食を与えたのが、
 日本の学校給食のはじまりとなった。
  小学校で、ある日から数日続けて数人分のお弁当が盗
 まれる事件が発生した。
  悲しいかな犯人は子どもだった。
  しかも、その子は、昼はおろか、朝晩もまともな食事
 をとることの出来ない家庭の、可哀想な子どもであるこ
 とがわかった。
  そのことを知って心を痛め、「なんとかしてあげたい」
 との思いで給食が始まった。
  和尚さんたちは、お経をとなえ、一軒一軒家を托鉢し
 てまわり、
  その時のお米や浄財を資金にして、お弁当を持って来
 ることの出きない子どもたちのために給食を作った。
  日本の学校給食の始まりは、この山形の私立忠愛小学
 校で、無料で食事を配ったのが始まりだった。
  初めは、おにぎりと漬物だけという簡素なものであっ
 た(これが、当時の日本では当たり前の昼食)。
  その後、各地で、一部の子供に対して、つまり欠食児
 童への、パンなどが、一部の学校で配られるようになっ
 て行った。
  1930年代に入ると、学校給食臨時施設法が制定され、
 一部ではあったが、学校給食が実施されるようになった。
  残念ながら、1940年代に入ると食糧事情悪化の為に中
 断され、・・また・・、
  戦後1945年以降は、外国からの食料援助によって、児
 童の欠食対策として、徐々に、給食が再開され、
  1952年あたりからは、食糧事情の改善により、全国的
 に完全給食を実施することが可能になった。
  同時に、給食の目的は「欠食児童対策」から「教育の
 一環」と位置づけられ、
  また、「学校給食法」が制定され、
  財政力の弱い地方自治体でも、交付税と補助金によっ
 て、全児童への完全給食が可能となった。
  因みに、この私立忠愛小学校の設立の主旨は・・、
 貧しい子どもたちへも教育を与えたいと、やさしい和尚
 さんたちが、鶴岡の寺院が宗派をこえて、 1889年(明治
 22年)に、大督寺の本堂の一部を利用し、「私立忠愛学校」
 を開設した。
  また、このお寺は、藤沢周平作品の「義民が駆ける」
 に登場する浄土宗のお寺である。
  境内には、学校給食発祥の地の記念碑がある。
1889年11月1日、史学会の第1回会合が行われた。
  公益財団法人 史学会、
  設立趣旨:
  この法人は、広く世界を対象とする史学研究の発展を
 めざし、最新の研究成果を公表することに努める。
  この活動を通して、過去と現在とを結ぶ歴史認識を社
 会に普及することにより、わが国の知的文化の向上に貢
 献することを目的とする。
  沿革:
  1889年、史学会 発足
  1929年、財団法人史学会 設立
  2012年、公益財団法人史学会 移行
  設立年月日:1889年11月1日
  会員数:個人会員:2280(人)
  性別:男性会員:1882(人)、女性会員:398(人)
  団体会員:120(団体)
  刊行物・誌名(和文):史学雑誌
  発行部数:4600(部/回)
  活動:国内及び国際の学術連合体への加入
  史学会の歩み:
  東京大学で生まれた史学会が歩んできた歴史は、日本
 におけるアカデミックな歴史学そのものの歩みである。
  御雇外国人のルートヴィヒ・リース(1861年~1928年)
 は、ベルリン大学で、ハンス・デルブリュックに師事し、
 ランケが確立した近代歴史学を学んだ。
  帝国大学の招聘を受けての来日は、1887年で、1902年
 まで世界史、史学研究法を講じた。
  明治維新後、欧米の先進文化を取り入れるため、政治、
 法律、軍事、経済などあらゆる分野の御雇(おやとい)外
 国人が日本に来たが、
  彼が、日本にもたらしたものは、レオポルト・フォン・
 ランケらによって樹立された近代歴史学・・、
  つまり、史料(歴史資料)を収集し、それを批判的に
 分析し、事実を再構成するという実証的な歴史研究の手
 法だった。
  東京大学大学院法学政治学研究科長の西川洋一教授は、
 当時のリースの授業について次のように説明する。
  「ドイツの大学では、歴史研究の方法を学生に学ばせ
 るため、
  演習(ユープンク)という授業形式を重視していたが、
 リースも日本でそれを採用した。
  1例として、1888年の演習で取り扱われた島原の乱の研
 究では、日本側の史料だけでなく、オランダ商館やキリ
 スト教会関係などヨーロッパ側の史料を集め、
  それらを比較検討しながら、蜂起の経過から鎮圧の過
 程に至るまでを再構成し、
  成果は、論文として発表された。
  学生たちは、単に、リースの講義を聴講するだけでな
 く、日本語の古文書を英訳するなどして、史料分析に積
 極的に関わった。
  リースが、島原の乱を扱った演習の成果は、当時、学
 生だった磯田良氏によって論文にまとめられ、『史学雑
 誌』第1編13号に掲載された。
  リース自身も、1890年に、『ドイツ東アジア協会紀要』
 に同テーマの論文を発表した。
  磯田氏は、帝国大学の講師になった後、ドイツ、オー
 ストリアに留学。
  帰国後、東京高師教授をつとめた。
  正岡子規は、随筆『墨汁一滴』で、自分が帝国大学を
 落第したのは、リースの授業を落としたからで、その後
 もしばしば試験に苦しめられる悪夢を見ると告白してい
 るが、そのような学生は、子規だけに留まらなかった。
  「講義録を読むと、リースは、ドイツの大学で行われ
 ていたものと遜色のない、高いレベルの授業を行ってい
 たことがわかる。
  リースを知る在日ドイツ人の書簡には、彼が、学生に
 対して厳しすぎるので大学と揉めている、といった記述
 を見つけることができる」。
  日本に早く根づいた近代歴史学。
  リースは、また、帝国大学に国史科が開設したことを
 機に、同僚の重野安繹教授らに、学会の設立と雑誌の刊
 行を勧め、
  その結果、1889年11月1日に、史学会発表会を兼ねた
 第1回学会が、文科大学第10番教室で行われた。
  また、同年・1889年12月15日には、『史学会雑誌』(
 後の『史学雑誌』)の第1号が発行された。
  研究者のネットワークとしての史学会、および、研究
 成果公表のためのフォーラムとしての『史学雑誌』を設
 けることによって、東京大学に、日本の近代歴史学が誕
 生した。
  因みに、『史学雑誌』は、日本で最も古い歴史学の学
 術雑誌で、
  論文は、すべて厳しい査読を経て掲載されるため水準
 が高く、日本史、東洋史、西洋史に限らず、総合的に歴
 史を扱っている。
  そして、主要な歴史学雑誌として、最古のものである
 ドイツの『Historische Zeitschrift』の創刊は1859年、
  イギリスにおける歴史学雑誌『English Historical
  Review』の創刊は1886年、
  アメリカ歴史学会の『American Historical Review』
 の創刊は1895年で、
  ヨーロッパで生まれた近代歴史学の基礎は、驚くほど
 早い時期に、日本に根づいたことがわかる。
  『史学雑誌』は、2014年現在で123編におよぶ。
  また、毎年1回開催されている史学会大会も、関東大震
 災や第二次世界大戦、東大紛争による中止をのぞき、現
 在まで続けられている。
1889年11月1日、伊藤博文、および、黒田清隆に、元勲優遇
 の詔書(しょうちょく)が出された(11月21日説あり)
  天皇陛下より、「大臣の礼によって元勲優遇の意を表
 す」という詔勅が下された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:貶(おとし)められる日本・・事実から乖離して・・
.
1911年2月21日、日米通商航海条約を調印した(小村条約)
  種々の段階がある日米通商航海条約のうち、明治44年
 (1911年)調印の新条約(小村条約の通称がある)。
  これによって、関税自主権が完全に回復したが・・、
 昭和14年(1939年)に、日本の中国の行動を不満として、
 アメリカは、破棄を通告し、1940年1月26日に失効した。
  日米の開戦の原因の一つとなる強烈な『準宣戦布告的』
 なアメリカの行動だった。
  1894年、1899年(陸奥条約)と続く日米通商航海条約
 で・・1911年に締結された日米の条約だった。
  不平等条約であった江戸末期の日米修好通商条約を、
 陸奥宗光(むつむねみつ)外相の時、日英通商航海条約同
 様に、法権を回復させ、
  次いで、日露戦争勝利後、日本の国際的地位向上を背
 景にして関税自主権を完全に回復させた条約。
  ☆不平等条約であった江戸時代の日米修好通商条約(
 1858年)を改め、明治政府がアメリカとの間で法権を回
 復した条約。
  1894年11月22日、陸奥宗光外相のとき、栗野慎一郎駐
 米公使と国務長官グレシャムW.Q.Greshamが調印し、
  翌年・1895年3月24日、公布した。
  1899年7月17日から実施された。
  1894年7月16日に調印された日英通商航海条約と同じ内
 容のものであった。
  (1)安政(あんせい)五か国条約の一つとして結んだ日
 米修好通商条約にかわり、
  1894年(明治27年)11月22日調印、5年後の1899年7月
 17日効力を発生した条約。
  通商航海の自由と内国民待遇を原則とし、領事裁判権
 を撤廃し、多少の束縛を除き関税自主権も回復した。
  (2)1911年(明治44年)2月21日、調印の日米新通商
 航海条約。
  旧条約には、日本人移民をアメリカ政府が国内法で制
 約できる留保条項があった。
  日本人移民は、アメリカのハワイ属領制実施の1900年
 から著しく増加、日本政府は、差別的法律が制定される
 のを防ぐため、1907年、1908年に日米紳士協約を結び、
 自主的に移民を制限した。
  しかし、移民問題は解決されなかったので、旧条約の
 終了と同時に有効となる新条約を結び、留保条項を削除
 し関税自主権を完全に回復した。
  日本政府は、同時に、紳士協約の維持宣言をアメリカ
 政府に伝えたが、アメリカは、1924年(大正13年)排日
 移民法により紳士協約を『一方的に廃棄した』。
  1939年(昭和14年)7月26日、アメリカは、日本の中国
 での行動に抗議して条約の廃棄を通告した。
  野村吉三郎(きちさぶろう)外相は、グルー駐日大使と
 暫定協定締結を試みたが成功せず、1940年1月26日失効
 した。
  (3)サンフランシスコ講和条約の発効に伴って1953年
 (昭和28年)4月、調印された日米友好通商航海条約。
  日米間の通商、および、投資交流の促進のための最恵
 国、および、内国民待遇の原則を基礎としている。
  日本が、第二次世界大戦後に旧連合国と締結した最初
 の通商条約。
.
1937年7月29日、通州事件(中国共産党の扇動)
  日本人の多数が虐殺された事件。
  この事件は、中国共産党の扇動であったと判明したと
 (産経新聞、2017年1月4日)が報じた。
  蜂起した地方政権の中国人部隊が、中国共産党の扇動
 工作を受けていたことが、研究の結果、明らかとなった。
  「抗日民族統一戦線」の結成を急ぐ当時の中国共産党
 が、敵対する親日政権の軍や警察組織に離反する事を働
 きかけた。
  そして、日本人を襲うという惨劇につながる蜂起とな
 ったことが裏付けられた。
  (参考)通州事件は、北京の東にある通州(現:北京
     市通州区)で、親日地方政権(殷汝耕・いんじ
     ょうこう政務長官)の保安隊が蜂起した事件。
     自治政府、日本軍の関係機関のほか、日本人居
     留民が襲撃され、朝鮮半島出身者を含む200人あ
     まりが死亡した。
      多くの女性や子供が、極めて残虐な方法で殺
     害されたことで、日本の国内世論を激高させた。
  国民党政権の軍・地方長官と保安隊幹部の通牒が判明
 した。
  また、共産党の関与は、党史や地方史に関する報告と
 して、河北省唐山市の機構が運営する研究サイトや、歴
 史専門誌などで、近年、新事実が相次ぎ公表された。
  河北省周辺での地下活動を統括した共産党北方局(劉
 少奇書記)の下で、工作員が、1935年の自治政府の成立
 直後から、保安隊や第一総隊長や第二総隊長と関係を持
 った。
  この関係で、共産党は、「抗日救国に一致団結する大
 義」を植え込んだりして、保安隊内への浸透をして行っ
 た。
  さらに、盧溝橋事件に始まる日中の戦い以前に、華北
 一帯で頻発した抗日活動も、「共産党が工作を行って」
 功を奏していた。
  1例として、1936年11月、河北省を列車で移動中の山海
 関守備隊長、吉田竜三少佐ら日本軍将校5人が、同じ保安
 隊の兵士に拉致された事件について、共産党に洗脳され
 た張硯田の指示と判明した。
  1935年~1936年当時、毛沢東が率いる共産党は、陜西
 省(せんせいしょう)北部の根拠地で、国民党軍の包囲
 を受けつつ、党勢の立て直しを模索、国民党や親日勢力
 を取り込む「抗日民族統一戦線」の構築を方針に掲げ、
 国民党などの支配地域で地下工作を進めていた。
  通州事件で、保安隊は、7月28日の深夜から行動に移り、
  第一総隊が、日本軍守備隊へ攻撃、
  第二総隊が、外部との連絡切断、
  教導総隊が、駅の制圧と日本軍増援部隊の阻止を担当
 した。
  蜂起を指揮した張慶余らは、通州事件の後、国民党軍
 の中将となり、戦後まで生存した。
  中国では「抗日将領」として評価されている。
.
1945年9月8日、アメリカが、南朝鮮を占領した(~1948年
 8月15日)
  そして、アメリカに直接統治された。
  近代産業の中心をなしていた重化学工業は、物的施設
 を残すのみで霧散し、
  日本経済との連関において編成されていたその他の鉱
 工業もマヒ状態に陥らざるをえなくなった。
  解放後の「南北への分断は、単なる地理的な分断では
 なく、韓国産業の構造的な切断とも言うべきもので、日
 本の支配下にあって築き上げた産業体系と、その基礎を
 解体する結果を招来した。
  この様な経済状況に於いて、北緯38度線以北から越南
 する者や、
  日本及び満州、その他各地から朝鮮人労務者などが一
 斉に帰還する事によって失業や食料、住宅問題が激化し
 た。
  しかし、この状況を、アメリカによる占領期の救護政
 策について何ら研究が見当たらない・・が・・
  アメリカが南朝鮮を統治する占領政策についての「民
 政に関する書記基本指令」がある。
  これは、1945年10月中旬、在朝鮮アメリカ司令官へ送
 付された。
  運営する人員についても、「軍事要員の節減を最大限
 に実施するため、朝鮮人をできるだけ行政上の地位に登
 用する」(第2節)ことを規定していたが、適当な者が
 見出せない場合、日本人、および、日本人に協力した朝
 鮮人を一時的に任用することを許可していた。
.
1946年1月9日、生田警察署襲撃事件(第2回)30-40人の朝
 鮮人が、検挙された賭博団の奪還を目的に署内に侵入、
 進駐軍の協力を得て鎮圧した。
.
1946年9月24日、南朝鮮でアメリカ占領政策反対ゼネラル・
 ストライキ
  アメリカが、南朝鮮における占領政策を進める上で、
 うまく出来たのか?
  そのアメリカの占領政策の腕前について記すと・・、
  結論を先に記すと・・日本人が優秀である事と、日本
 人が、朝鮮の方たちと仲良く・巧(うま)く行政を行な
 って来ていた・・その為、アメリカの占領政策に於いて、
 日本が敗戦となったからと言って、日本人を解任する事
 は出来なかった。
  日本人の優秀な能力と、朝鮮の方々との誠実な仕事ぶ
 りをそのまま使うしかなかった。
  その事を記す・・研究論文には・・、
  在朝鮮米軍司令官・ホッジ中将は、統治開始後まもな
 く、朝鮮総督府官僚を解任していく。
  1945年9月12日、総督室において安部総督に辞任を要求
 した。
  しかし、同席していた遠藤政務総監に対しては、政務
 総監としての官職を退いて、顧問として『残るように依
 頼した』のだった。
  そして、同日午後2時30分、政治・文化団体代表を参集
 した会合が、府民館で開催された。
  ホッジ中将は、その会合で、安部総督を解任し、アー
 ノルド少将を軍政長官に任命すると発表した。
  その3日後に、ホッジ中将は、新聞を通じて、12日に総
 督と警務局長を解任し、15日に、その他の各首脳部をす
 べて解任した、と発表した。
  そして、同月20日付をもって軍政庁の機構が決定し、
 朝鮮総督府の機構を、ほぼ踏襲した米軍政庁の各局長に
 米国人将校が任命されるのであった。
  しかし、1945年9月12日に、ホッジ中将が依頼したよう
 に、朝鮮総督府の日本人官僚であった遠藤政務総監以下
 各局長は、一旦は「解任されたが、そのまま行政顧問と
 して残ること」となったのである。
  このように、ホッジ中将が、日本人官僚を行政顧問と
 して残留させたことについて、ホッジ中将の政治顧問で
 ある国務省から派遣されたペニングホフは、同月15日付
 の報告書で次のように述べている。
  「日本人官僚の排除は、世間の見地から望ましいもの
 であるが、当分その実現はむずかしい。
  名目的には、彼らを職位から解除することができるが、
 実際には、仕事を続けさせなければならない」、
  その理由は・・、
  「政府機関、公共施設、報道機関を問わず、下級職員
 を除くと、資格をもつ朝鮮人職員が存在しないからであ
 る。
  終戦直後の南朝鮮における朝鮮総督府の日本人官吏の
 総数は、朝鮮関係残務整理事務所の調べによると、4万
 841人であり、嘱託以下の者も含めると5万4920 人であっ
 た。
  その内訳として、勅任官と奏任官は4,848 人であった。
  末期の朝鮮総督府で勤務していた日本人官吏の総数や、
 朝鮮人官吏の総数は、資料の関係上、明らかにすること
 は困難であるが、南朝鮮地域の「総督府高級官吏(勅任
 官と奏任官)のうち、末期の10年間、朝鮮人の占める割
 合は18~22パーセントを上下するレベルであった。
  絶対数で言えば、1942年の例であるが442人ほどであ
 った。
  仮に、20パーセントと設定した場合、終戦直後の南朝
 鮮地域における、日本人・朝鮮人の総督府高級官吏(勅
 任官と奏任官)の総数は、6,060人となり、その内、朝鮮
 人官吏は1,212人であったことになる。
  いずれにせよ、解放後の行政活動を実施しようにも、
 その経験が乏しい朝鮮人しか見出せないため、または、
 経験があったとしても日本に協力した朝鮮人であったが
 米軍政としては、一時的に、日本人を任用するほかなか
 ったのであった。
  ホッジ中将は、南朝鮮の民衆に対して、このような任
 用が一時的なものであると、1945年10月16日付の『毎日
 日報』で説明している。
  軍政庁では、「日本および親日官吏は、優秀な朝鮮人
 と可及的速やかに更迭となっている」ことや、
  「官吏地位、各階級に朝鮮人を配置するまで、その他
 朝鮮人官吏を養成中である」と述べていた。
  このように、統治開始直後の軍政庁にとって、行政を
 運営する人員の確保や、訓練が緊急の課題であった。
  朝鮮人職員の任命については、「日本の制度中、勅任・
 奏任の別は、現在は軍政庁に於いては其の区別の必要な
 きを以って一括高等官として統一す。
  又、勅任官は、日本天皇の任命なりしも、現在之等の
 官職は軍政長官の任命に属し、判任官は、中央及び地方
 の長官之を任命」して、軍政庁は、それらの朝鮮人職員
 を訓練していくのであった。
  (論文「米軍政期の南朝鮮救護政策に関する一考察」
 を参考にした)
.
1946年10月1日、大邱10月事件(テグじゅうがつじけん)で、
 南朝鮮人230万人が、アメリカ軍政に抗議して蜂起した。
  米価が、日本統治時代に比べて10倍以上に高騰してい
 た。
  そして、この年5月には、南朝鮮全土にコレラが流行し、
 慶尚北道だけで、4000人が死亡した。
  その後、水害による交通破綻や、『強制拠出』なども
 あった。
  この年、10月1日に、大邱府庁前で行なわれた抗議デモ
 に対して、警察が発砲したことから、不満が鬱積(うっ
 せき)していた人々の抗議活動が、収拾がつかない事態
 となった。
  10月2日に、アメリカ軍が戒厳令を布告した。
  これに触発されて、南朝鮮全土で、230万人が参加する
 『騒乱』となった。
  事態を収拾するために、アメリカ軍や、南朝鮮防衛隊
 や警察が投入され、強引な取り締まりの結果、136名の犠
 牲者(死者)が出た。
  事件後、南朝鮮のアメリカ軍への支持が失われた。
  共産主義団体への支持が強まった。
  「飢えた腹を握りしめた小市民たちの抵抗運動」と報
 道された。
.
1948年8月15日、大韓民国の独立・建国。
.
1948年9月9日、朝鮮民主主義人民共和国の独立・建国。
.
1980年代、アメリカでエイズが広がり始めた。
  感染者が解雇されたり、学校から登校を拒否されたり
 する事例が頻発(ひんぱつ)した。
  エイズにおいても差別社会が現出した(人種差別国の
 アメリカにおける新たな差別が発生)。
.
1997年、パラノイア・アメリカ
  パラノイアとは・・、
  ある妄想を始終持ち続ける精神病。
  妄想の主題は、誇大的・被害的・恋愛的なものなどさ
 まざまである。
  偏執(へんしゅう)病。妄想症。
  不安や恐怖の影響を強く受けており、他人が常に自分
 を批判しているという妄想を抱くものを指す。
  自らを特殊な人間であると信じたり、隣人に攻撃を受
 けている、などといった異常な妄想に囚われるが、強い
 妄想を抱いている、という点以外では人格や職業能力面
 において常人と変わらない点が特徴。
  キリスト教の性悪説的な思考習慣からこの資質に取り
 込まれる。
  そして、パラノイア・アメリカについては・・、
  ドン・デリロとトーマス・ピンチョンは、1997年に、
 数ヶ月前後して長編小説を発表した。
  前者のUnderworld(地下社会)は、20世紀後半のアメ
 リカ史を背景とし、後者のMason&Dixon(メーソン&ディ
 クソン)は、18世紀半ばのアメリカ独立期の史実を描き、
 共に歴史を材料としている。
  しかも、両者は、産業資本主義社会の隠れた裏面に焦
 点をあて、その問題点を描いている。
  Underworldの場合、一見互いに無関係と思われる諸々
 の出来事が、パラノイア的に関連付けて描かれており、
 その関連性が特異な効果を作品に与えている。
  作品には、20世紀後半を特色付ける多くの要素・・冷
 戦、核実験、軍産複合体、人種差別とそれに起因する暴
 動、反体制運動、種々の凶悪犯罪、メディア、廃棄物と
 そのリサイクル、社会の底辺に生きる人々等・・が描か
 れているが、
  それらは、共通のイメージや場所、小道具、数字等に
 より相互が複雑に交錯し、関連付けられている。
  また、諸々の事柄を関連付けて解釈するパラノイア的
 人物さえ登場している。
  これらの関連項は、全てワールド・ワイド・ウェブ(
 インターネット上で提供される超越的なテキスト・シス
 テム)で最終的に収斂しており、ネット社会に突入した
 現在の状況を象徴している。
.
2015年12月13日、池上彰氏が、ひどいテレビの解説放送を
 していた。
  よく自虐的な、そして、日本を貶める放送をするNHK
 という放送局出身の池上彰氏であるが・・、
  池上氏も、NHKを退職したこの時も、民放で、NH
 Kと同様の日本を貶める放送をしていた。
  知人宅でのBSジャパンでは、午後15時53分、番組名:
 「池上彰の教科書に載ってない20世紀」
  池上氏は、終戦の3日後、日本政府が慰安所を作ったと
 言った。
  これは嘘である。
  アメリカが、東京都へ依頼した「慰安所設置の要望書」
 がある。
  そして、さらに池上氏は嘘を言った。
  その1年半後に、アメリカが「止めよ」と言ったという。
  これでは、『日本政府が作って、アメリカが止めよ』
 と言ったになってしまう。
  「アメリカが作ってくれ」と言って、後に、止めよと
 言ったが正解なのである。
  池上彰は、作れと言ったのは日本政府だと嘘を言った。
  これでは、まったく、アメリカが美しくなってしまう。
  日本政府の作った慰安所設置を、アメリカが止めよと
 言ったと、まったく、アメリカが美しいという話になっ
 てしまう。
  日本を完全に貶めている池上彰になったいる。
  テレビという強力な影響力を持つ放送媒体を使って、
 この様な卑劣な行為を、NHKと同様に行なっている。
  この番組の酷い所は、バックにキリスト教の讃美歌を
 流しているところだ。
  慰安所を止めよと、さも、キリスト教が言っている様
 に印象付ける様に放送している。
  関連している沢田美喜さんの話・・、
  沢田美喜さんは、1948年に、エリザベス・サンダース・
 ホームを設立された。
  これは、第二次世界大戦後に、日本占領のためにやっ
 て来たアメリカ軍兵士を中心とした連合国軍兵士と、日
 本人女性の間に・・、
  強姦や慰安所などで生まれたものの、アメリカ兵や周
 囲からも見捨てられた混血孤児たちのための施設として、
 1948年、三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の孫娘である沢
 田美喜さんが設立した。
  沢田美喜さんが設立したいきさつは・・、
  あまりに酷い性的に乱れた結果が残る状況を、沢田さ
 んは、アメリカGHQに、抗議した・・、
  「そんな子がいる訳ない」と、アメリカGHQは拒否
 した。
  そこで、沢田さんは、アメリカ兵と日本女性との間の
 混血の子を連れて行って、見せて、説明し、立証した。
  しかし、アメリカGHQは、それでも・・拒否した。
  沢田さんは、「よし、それなら」と・・、
  混血の子たちを連れて、アメリカ本土に行って訴えた。
  そして、寄付を募った。
  アメリカ本土の方々は、理解を示してくれた。
  寄付も戴くことが、やっとでき、三菱よりの資金と共
 に設立したのだった。
  この様な事も、本当に公正に説明しない池上氏だった。
  また、キリスト教は、この沢田さんの善行を、キリス
 ト教が良くやる嘘・「神の啓示だ」と作り上げている。
  神の声が聞こえた・・と・・
  また、GHQの上記の卑劣な対応などは一言も触れな
 い・・逆に・・美しく仕立てている・・そして、日本を
 貶める・・卑劣な『いつものパターン』となっている。
  設立時のアメリカGHQの対応も隠す行為をして・・、
  そして、最初の寄付者であるエリザベス・サンダース
 さんの話のみを大きく取り上げている。
  少額の寄付だが・・最初の寄付者ということで、その
 名がとどめられた。
  しかし、これを過大に美しくプロパガンダした・・
  また、当時の厚生省の調査結果によると、84%の子供
 が白人系で、11%が黒人系であった。
  これも、いやらしく説明した(ここに詳しく記すこと
 が出来ない)
  当時、アメリカGHQは、この問題から逃げていて、
 話題にされることさえ嫌い、当然、救済策も取ろうとし
 なかった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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(増補版)496E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年10月~1889年10月)

2017-02-19 03:03:35 | 日記
題:(増補版)496E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年10月~1889年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年10月15日、条約改正に関する御前会議、賛否対立し
 て結論出ず。
1889年10月18日、外務大臣:大隈重信襲撃事件
  この日、大隈重信は、御前での閣議で条約改正の審議
 を受けるが、山縣有朋内務大臣が、条約改正案に反対し、
 閣議は散会した。
  大隈外相は、午後4時過ぎ、馬車で霞ケ関の官邸に戻
 ろうとしたところ・・、途中、馬車が、外務省の門前に
 さしかかる頃、フロックコートに身を包んだ30歳前後の
 男が近づく・・、
  玄洋社の来島恒喜が、爆弾を馬車へ投げつけた。
  大隈重信は、右脚に重傷を負いながらも・・、
  ・・憤然と、兇徒を見て「馬鹿者めが」と大喝一声。
 膝の上に燃える断片を払う。
  兇行におよんだ男は、爆弾の破裂を見届けると即座に
 短刀で咽喉をかき切り、その場に倒れる。
  来島は自殺。
  暗殺未遂となる・・条約改正は中止。
  その後、大隈は、佐藤勇やドイツ人医師のエルヴィン・
 フォン・ベルツの手により右足切断手術を受けた。
  犯人は、日本の右翼活動家、テロリスト。
  筑前共愛公衆会で、国家主義組織・玄洋社の一員、来
 島恒喜(31歳)
  黒田内閣は総辞職し、三條実美暫定内閣へ・・、
  大隈は、その後、来島について・・
  「爆裂弾を放りつけた者を憎い奴とは少しも思ってい
 ない。
  いやしくも、外務大臣である我が輩に、爆裂弾を食わ
 せて世論を覆そうとした勇気は、蛮勇であろうと何であ
 ろうと感心する。
  若い者は、こせこせせず、天下を丸のみにするほどの
 元気がなければだめだ」と語っている。
  来島本人は、酒を受け付けず、大隈重信暗殺に出向く
 際、別れの盃は水であったという。
  来島が学んだ興志塾(通称:人参畑塾)の塾長・高場
 乱(たかばおさむ)は、来島自決の報を聞き・・、
  「ながらえて 明治の年の秋なから 心にあらぬ 月
 を見るかな」という嘆きの歌を詠んでいる。
  博多の侠客「勇敢仁平」の異名をとる大野仁平と乱闘
 となり、燭台で大野仁平の頭をたたき割っている。
  当初、大隈襲撃は、月成功太郎(首相・広田弘毅の岳
 父)と一緒の計画であったが、家族持ちの月成の事情を
 考え、欺いて単独襲撃となった。
1889年10月19日、首相・黒田清隆が、条約改正交渉の中止
 を決定した。
1889年10月21日、黒田首相が辞表を提出した。
  黒田の総理辞任後、2ヵ月間にわたって存在した内大臣
 の三條實美を首班とする三條暫定内閣(さんじょうざん
 ていないかく)となった。
  三條暫定内閣は、1889年10月25日~1889年12月24日。
  黒田内閣の役目は、憲法制定と議会開設によって再燃
 が予想された自由民権運動に対する取締り強化と、
  欧米列強との間に交わされたままとなっていた不平等
 条約の改正を実現することにあった。
  大日本帝国憲法、衆議院議員選挙法が公布された翌日
 (1889年2月12日)、黒田は、鹿鳴館で開催された午餐会
 の席上において、「超然主義演説」を行って、政党との
 徹底対決の姿勢を示した。
  しかし、その一方で、立憲改進党前総裁(実質は党首)
 で外務大臣の大隈重信を留任させて、条約改正の任にあ
 たらせた。
  また、文部大臣の森有礼の暗殺後、
  榎本武揚が、文部大臣に移動し・・、
  空席となった逓信大臣には、大同団結運動の主唱者で
 あった後藤象二郎を充てた。
  そのことによって、大同団結運動を骨抜きとなった。
  自由民権諸派の団結は阻止された。
  また、条約改正の分野でも、メキシコとの間に平等条
 約である日墨修好通商条約を締結することに成功した。
  そして、列強との条約改正交渉も順調に行くかに見え
 た。
  しかし、外務省が用意した改正草案に、妥協案として
 「外国人裁判官の任用」の条項が含まれていたことが明
 らかになると、大騒動となった。
  一旦解体したはずの大同団結運動が、今度は、板垣退
 助を擁して再燃した。
  政府内からも、山縣有朋や後藤象二郎、伊藤博文、井
 上馨らが、妥協案に反対する意志を示した。
  黒田は、大隈を擁護したが、条約改正交渉は、中断に
 追い込まれた。
  その様な状況の中、10月18日に、大隈が重傷を負うと
 いう事態となった。
  進退窮まった黒田は、一週間後の25日、全閣僚の辞表
 を提出するに至った。
1889年10月23日、電信の架設
  この日、横浜裁判所構内に電信機役所が設置され、
  東京~横浜間に電柱と電線を張る電信架設工事が着工
 された。  
  電話創業は1890年。
  因みに、日本で初めて電信の実験を試みられたのは、
 1854年(嘉永7年)2月24日だった。
  アメリカの提督ペリーが、二度目の来日の時、幕府へ
 贈った33種の土産物の内、蒸気機関車の模型と、電信機
 が、当時の人たちの興味をそそった。
  蒸気機関車の試運転は、同年1854年2月23日に行われ、
  引き続き、翌日の1854年2月24日に、横浜の弁天境内で、
 アメリカ人技師が、電信実験をやって見せた。
  約40メートルおきに、杉の柱を立て、その頭部にギヤ
 マンの壺を置き、これに針金を通し、一里離れた吉右衛
 門の屋敷まで電線を引いた。
  (別史料:この電信機のセットで、約1マイル(1.6km)
 の電線を用いて送信され、この時の電文は「YEDO、
 YOKOHAMA」(江戸、横浜)だったという)、
  そこで、双方から実験を行なった。
  前日の蒸気機関車の試運転で、驚きの状態だった幕府
 の役人達も、
  この日の電信の実験については、どうしても訳が分か
 らなかった。
  実験を行なう前に、一応の説明があったが、正しく伝
 えるべき通訳の役人が理解できなかった。
  電気について曖昧模糊たる中で実験は行われた。
  当時の機械は、エンボッシング・モールス電信機。
  1837年、サミュエル・モールスが電信機を発明してい
 て、それから、18年目だった。
  この時、発信・受信共に実験は成功した。
  そして、受信を、文字に書き代えて見せた。
  通訳が、「針金を引く距離は、もっと遠くても同様の
 実験ができるか?」と聞いた。
  答えは・・「十里が百里となっても完全に通信が出来
 る」・・だった。
  「ここでは、電線が引くのが大変だし、急場の間に合
 わぬので、こんなに近距離でやってみたが・・」・・と。
  当時の見聞記録にも、電信の事を「千里鏡」と呼び、
  或は・・「天連関理府」(テレガラフ)と漢字を当て、
 但書に、「電雷気にて事を告げる機械なり」・・と。
  実験後、この電信機械2台は、江戸城に収められた。
  当時、幕府は、風雲急を告げ、物情騒然たる折柄だっ
 たが、折角の文明の利器も殆んど顧みるものがなかった。
  それから15年目の1869年(明治2年)の夏、初めて横浜
 に電信線が架設された。
  そして、同年の1869年12月25日に、東京~横浜間に電
 信が開通した
  (別史料:1869年、イギリスの通信技師を招き、横浜
 燈台役所~横浜裁判所の間に、電信回線が敷設され、
  ブレゲ指字電信機(モールス信号ではなく針で文字を
 指す方式)による通信が行われた。
  また、1869年には、東京~横浜間で電信による電報の
 取り扱いが始まった。
  明治政府は、電信網の整備に力を入れた。
  東京~横浜間の電報の取り扱いが開始されてから、数
 年で電信網は全国に張り巡らされた。
  この電信網は、1877年(明治10年)の西南戦争におい
 ても大いに活用され、政府軍の勝利に貢献した。
  1871年には、デンマークの大北電信会社によりロシア
 のウラジオストクから長崎へ海底ケーブルが敷設され、
  シベリア経由でヨーロッパ、
  さらには、大西洋横断電信ケーブルを経て、アメリカ
 とも通信が可能となった。
  1871年11月に、欧州へと出発した岩倉使節団は、不平
 等条約の改正交渉の経過報告を、この出来たばかりの回
 線を使い行った。
  1873年には、東京と長崎間に回線がひかれ、東京から
 海外との通信が可能になった。
  1872年~1916年まで、ウィリアム・ヘンリー・ストー
 ンという勅任待遇のお雇い外国人が、対外通信に貢献し
 た。
  その後、電信網は全国に広がり、
  1880年頃には、大都市間に、
  1890年頃には、全国の県庁所在地が継った。
  因みに、1879年に、官報、事務報、私報を合わせ165万
 通の電報が打たれていて、日本の普及は早かった。
1889年10月24日、黒田清隆以下、大隈重信を除く各大臣が
 辞表を提出した。
1889年10月24日、防穀令事件
  朝鮮政府が、不作のため咸鏡道に大豆輸出を禁ずる防
 穀令を布いた。
  1889年、朝鮮咸鏡道で、凶作を理由に出された穀類輸
 出禁止令に対し、
  日本の貿易商が、大打撃を受けたとして、日本政府が
 賠償などを朝鮮に要求した。
  1880年の元山の開港以来、元山は、日本商人による大
 豆や米の輸出が盛んであった。
  しかし、咸鏡道観察使趙秉式(ちようへいしき)は、
 1889年10月、凶作による食糧難を理由に、穀物の道外へ
 の搬出を禁止した。
  防穀令は伝統的な救荒政策の一つで、条約上も認めら
 れていたが、日本側が強硬に抗議したため紛糾した。
  朝鮮政府は、同令を解除させたうえ趙を懲戒,更迭し
 て解決を図った。
  しかし、1891年12月になって、日本政府は、14万円の
 損害賠償を請求した。
  この事によって、両国間の外交問題に発展した。
  交渉は当初から難航した。
  日本は、1893年5月、国交断絶の圧力をかけた。
  朝鮮政府が、総額11万余円の支払いに応じることで決
 着をみたて、1893年、朝鮮政府は賠償金を支払った。
  朝鮮政府の主張は、1883年の日韓通商章程第37款に基
 づく輸出禁止令だった。
  輸出禁止令発布が正しいのか? 
  自由な交易の阻害行為が悪く、それによる損害賠償の
 請求が正しいのか? ・・の問題だった。
1889年10月24日、黒田清隆内閣が総辞職した。
1889年10月25日、黒田清隆の辞表を受理し、三条実美が首
 相を兼任した(内閣総理大臣を兼職)
  他の閣僚の辞表は却下して、三条暫定内閣が成立した。
  内大臣・三條實美 臨時内閣 発足・・、
1889年10月25日、宮武外骨の控訴を棄却し刑が確定、石川
 島監獄に収監された。
  宮武外骨(みやたけ がいこつ、1867年2月22日~1955
 年7月28日)ジャーナリスト(新聞記者、編集者)、著作
 家、新聞史研究家、江戸明治期の世相風俗研究家。
  役所や図書館の窓口などで「号ではなく本名をお願い
 します」などとたびたび言われるのが癪だと言って、
 「是本名也」と彫った印鑑を用いたことも少なくなかっ
 たという。
  晩年に「外骨」の読みを「とぼね」に改めた。
  大日本帝国憲法発布をパロディ化して、不敬罪に問わ
 れ、禁錮3年の実刑判決となった。
  モットーは・・、
  「威武に屈せず富貴に淫せず、ユスリもやらずハッタ
 リもせず、天下独特の肝癪(かんしゃく)を経(たてい
 と)とし色気を緯(よこいと)とす。過激にして愛嬌あ
 り」・・と。
  外骨の出版した刊行物の中でも最も有名な『滑稽新聞』
 があった。
  現代の週刊誌に相当する内容で・・、最盛期の部数は
 8万部。
  この時代の雑誌としては、トップクラスの売れ行きだ
 った。
  類似誌も多数登場した。
  外骨は、「猿雑誌」と類似誌を評しつつ、『滑稽新聞』
 の影響力を自慢した。
  明治41年(1908年)10月、当局は、『滑稽新聞』に対
 して発行禁止命令を出した。
  外骨は、発行禁止に先んじて、173号を以て「自殺号」
 として廃刊した。
  しかし、翌月に、『大阪滑稽新聞』を創刊し、事実上
 の後継誌とした。
  この頃、安重根に伊藤博文が暗殺されるなどの事件が
 あり、安易な批評などが批判された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:浅薄な現世利益に呑(の)まれたような(アメリカの)
   合理化や利便性を追及する風潮を嘆く。
.
1850年頃、ソローは、世界を大きく俯瞰(ふかん)し、
 「浅薄な現世利益に呑(の)まれたような(アメリカの)
 合理化や利便性を追及する風潮」を嘆いた。
  2017年1月24日の日付の読売新聞で・・、
  立正大学の斉藤昇学長が深い話をされていた。
  今年は、「ソロー」生誕200年ということで・・、
  このソローと、今の世相の「利便性の向上と、効率を
 優先させる情報・技術改革」を対比され・・、
  本当の豊かさを考える記述だった。
  今、真に豊かなのか?
  少なからず、まず、大切な人の心が、どこかに置き去
 りにされている様な現代ではないか?・・と言われる。
  そして、不安感に苛(さいな)まれている現代ではな
 いか?・・と言われる。
  このソロー・・
  (アメリカ・ロマン派文壇の異才と言われ、ヘンリー・
 デビット・ソロー、1817年~1862年)は、
  「利便と効率の対極」を意識して、「質素の美徳」と
 「世の中の安寧」の重要性を説いた。
  当時、彼は、過度に物質至上主義に大きく傾斜してい
 くアメリカ先進資本主義の『行き先の不透明感』を危惧
 した。
  ソローは、それを危惧し、自身の魂の葛藤と悲痛の呻
 (うめ)きを発した。
  彼の作品の「ウォールデン、森の生活」や「市民的不
 服従」・・、
  前者は、森の中での自給自足の生活を綴る・・、
  後者は、非暴力主義を掲げた作品・・、
  ソローは、世界を大きく俯瞰(ふかん)し、「浅薄な
 現世利益に呑(の)まれたような(アメリカの)合理化
 や利便性を追及する風潮」を嘆いている。
  そして、世界の隅々までが安寧であることを、凛(り
 ん)として望んだ。
  「華やかに物に溢れた物質文明」の陰から、忍び寄る
 地球環境と人類社会の広汎(こうはん)な危機。
  それを憂うがゆえに、ソローは、その卓越した眼力で、
 鋭く時代を穿(うが)った。
  彼の作品群には、透き通る『慈愛』がある・・、
  そして、至極(しごく)『人間的な眼差し』がある。
  (斉藤学長の記述を参考に、記述した)
.
1942年3月21日、アメリカ議会、日系人強制収容命令承認
  この時の大統領は、フランクリン・ルーズベルトだっ
 た。
.
1942年4月~1945年9月、アメリカのラッシュ・ジョセフは、
 アメリカ陸軍航空部隊所属となり、天気予測班として国
 内勤務の間に、ルーズベルト大統領の妻エレノアと、シ
 カゴのホテルで密会しているところを、アメリカ軍防諜
 部隊に盗聴された。
  そして、それがもとで、盗聴をした防諜部隊隊員らと
 共に太平洋の最前線配属となった。
  もともと、盗聴せよと指示をしていたのはルーズベル
 トだった。
.
1942年6月、アメリカ、戦時情報局(OWI)発足
  アメリカ戦時情報局(OWI)ができた。
  日本の戦後をどの様にするかのアメリカの方針に、大
 きな影響を与えたオーウェン・ラティモアは・・、
  1943年~1944年1月の間、ここに勤務した(サンフラン
 シスコにあるこの部局=極東部主任の要職にあった)。
  ここは、海外向け戦時宣伝を目的にしていた。
  ラティモアは、日本の天皇制を崩したいと考えていた。
  また、「我々にとって、日本人ほど憎むべき敵はいな
 い」というラティモアの言葉があるように、この様な考
 えを持った人物だった。
  日本の自動車、航空機のエンジン製造を禁じなければ
 ならないと考えていた。
  また、軍工場、軍艦の造船所を取り壊すべきと考え、
 将来の日本は、第一級の工業国にしてはならないとした。
  そして、「日本を共和国に変える」と考え、天皇陛下
 とその後継者の皇族男子は、中国に監禁すべきだとして
 いた。
.
1943年12月1日以降、アメリカのルーズベルトが戦略の手の
 ひらを返した・・、アメリカは簡単に乗り換えた・・、
  この年のカイロ会談・テヘラン会談(1943年11月28日
 ~1943年12月1日)の後・・、
  ルーズベルト・アメリカ大統領が、中国・蒋介石を重
 要視しなくなった時は、それは、1943年のカイロ会談・
 テヘラン会談の後だった。
  テヘラン会談が、ルーズベルトが、チャーチルの練っ
 た通りに、あまりにも、その通りに行ったからだった。
  中国・蒋介石政府は、ある意味「用済み」となった。
  ここで、アメリカは、戦略の手のひらを返した。
  転換点だった。
  この時、マッカーサー(アメリカ南西太平洋方面司令
 官)は、海軍長官・フォレスタルへ言っている・・
  「中国軍を当てにした戦争は、もう意味がなくなった」、
  「我々は、満州に展開する日本軍をくぎ付けにするソ
 連軍の登場を待たなくてはならない」、
  「ソ連軍の侵攻後、ゆっくり日本本土に上陸すれは良
 い」・・と。
  アメリカは、完全に乗り換えた。
  日本参戦へのスターリンへの追加のエサ(大連と旅順
 の不凍港がソ連のものになる)で参戦が確実になった手
 ごたえを得たからだった。
  アメリカのルーズベルトは、あとは、中国が、日本に
 付くようにならないように注意するだけだと言った。
  「中国(蒋介石)は、日本との戦争を止める事がない
 ようにするのに必要なものだ」・・と、必要なら新たな
 戦争を作るというルーズベルトだった(ビルマ戦争)
.
1944年8月5日、オーストラリアのカウラ市内にあった捕虜
 収容所から、日本人が脱走を企てたとき、
  オーストラリア兵は、無差別に砲火を浴びせ、実に234
 人の日本兵捕虜を射殺した。
  そして、108人に重軽傷を負わせた。
  これに対し、この逆の話がある・・
  日本の長崎市に、戦時中、捕虜収容所があり、オース
 トラリア兵が収容されていた。
  アメリカが投下した原爆で、収容所が破壊されると、
 捕虜たちは脱出し、市民の中に交った。
  しかし、家族や友人を原爆で失い、連合国に原爆投下
 された極限状況下でさえも、日本人は、何ら彼らに危害
 を加えなかった。
  また、オーストラリアは、日本兵捕虜を飛行機から突
 き落として殺した。
  これも、リンドバーグが公表した。
  オーストラリアは、「日本軍は玉砕した」と嘘の報告
 をした。
  この行為は、1人、2人の行為ではなく、オーストラリ
 アは集団で行なった。
  リンドバーグは、この様な行為が、欧州戦線で行われ
 たであろうか?と、日本人が、「有色人種だから行われ
 ていた」との筆致で記述し、公表した。
  また、この頃のアメリカも、日本兵を「黄色い猿」と
 蔑視の表現して、キリスト教に洗脳された「人の肌の色
 で見分けし、有色人種を蔑(さげす)む」ことにマイン
 ドコントロールされた表現をした、そして、有色人種・
 日本兵の命を軽視した。
.
1945年3月9日、東京大空襲(~10日)無差別爆撃・・国際
 法違反・・一般市民の殺戮
.
1946年1月4日、GHQが、超国家主義団体の解体を指令し
 た。
.
1946年1月28日、GHQが、映画の検閲を指令した。
.
1946年2月3日、マッカーサー元帥が憲法3原則をGHQ民政
 局へ指示した。
.
1946年2月3日、通化事件が起き、中国在留日本人が多数殺
 害された。
.
1946年2月13日、GHQが、憲法改正松本試案を拒否し、G
 HQ案を日本側へ渡した(2月8日に正式に提出していた)
.
1946年2月23日、山下奉文元陸軍大将の絞首刑が執行された。
  違法なる執行。
.
1946年4月2日、マッカーサー元帥が、アメリカ将兵に、日
 本女性との醜行自粛を訓示した。
  あまりにもアメリカ兵の行動が乱れていた。
.
1946年5月、中華民国政府が南京に遷都した。
.
1950年、ダグラス・マッカーサーが、朝鮮戦争で、アメリ
 カ軍主力の国連軍司令官となった(~1951年)。
  1951年にトルーマン大統領によって解任させられた。
.
1951年5月3日、マッカーサー元帥が、アメリカ上院軍事外
 交委員会において、「日本の真珠湾攻撃は正当な『自衛
 権』の行使」と証言した。
.
1995年9月、沖縄のアメリカ軍兵士による少女暴行事件が起
 きた。
.
2004年、中国の平和的台頭はあり得ない・・と、アメリカ
 のミアシャイマーは言った。
  「目の前にある問題は単純にして深い。
  中国の平和的台頭は可能だろうか。
  私の答えは『ノー』だ。・・ジョン・ミアシャイマー
 は言った。
  何故、中国の平和的台頭はあり得ないのか?
.
2017年2月12日、この日の読売新聞に、安倍首相とトランプ
 大統領の首脳会談で・・、
  アメリカの核による日本防衛や沖縄県の尖閣諸島がア
 メリカの対日防衛義務を定めた日米安全保障条約5条の
 適用対象であることなどを共同声明に明記とした。
  日米首脳会談と共同声明のポイント。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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(増補版)495E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年10月~1889年10月)

2017-02-16 17:37:07 | 日記
題:(増補版)495E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年10月~1889年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年10月2日、第1回汎米会議
  アメリカの強引な外交(属国扱い)
  おとなしく言う事を聞く属国という前提の会議・・、
  この日、その第1回汎米会議がワシントンで開かれた。
  アメリカが提唱して開かれた。
  南北アメリカ大陸の諸国で構成する汎アメリカ主義の
 会議だった。
  兄貴分のイギリスの排除の第一歩が・・始まった。
  当然、アメリカの主導的立場が明確になって行った。
  アメリカにとっては、自国の工業化が進展したことに
 伴って、原料・食糧の供給地として、中南米地域を重視
 しなければならない状況となった(自分の都合から)。
  この南米大陸は、イギリスが、強い経済的関係を有し
 ていた。
  その為、アメリカは、残された地・カリブ海域の経済
 関係を強くする事から始めた・・
  カリブ海域との関係を持ちたいとした。
  アメリカは、「自国の裏庭的関係国」と位置づけるカ
 リブ海政策を展開した。
  セオドア=ローズヴェルト大統領(日本との第二次世
 界大戦を始めたフランクリン・ルーズベルトの叔父)に
 よって進められた(やることは一緒だった)。
  アメリカは暴力を用いた(この叔父にしても、この様
 な手段を用いた)。
  アメリカ=スペイン戦争によるキューバの保護国化、
  そして、テキサス・カリフォルニア・ニュージニアな
 どをメキシコから奪った方法と同じ方法で、パナマ運河
 獲得などを実現して行った。
  (パナマ国の分離・独立、そして、アメリカの利権獲
 得)
  みんな、自分・アメリカに都合の良い『奪い取り』だ
 った。
  アメリカは、棍棒外交の強引な手法を用いた。
  (参考)棍棒外交:(こんぼうがいこう、こん棒を持
    つごとく、強引な砲艦外交をちらつかせて行う)
  しかし、これも、当然、次第に通用しなくなった。
  アメリカは、よく民主主義を根付かせるためだという
 が・・、偽善の正義を掲げるが・・??
  『こん棒で殴りながら民主主義を説く』という自分勝
 手なやり方・論理で、嘘っぽい論理でやるアメリカだっ
 た。
  この逆を、もし、アメリカがやられるという事を、ア
 メリカは考えたことがあるのか?
  アメリカより強い相手国が、『自分勝手な擬似正義を
 を掲げて』、アメリカへ暴力を行使して来たら・・アメ
 リカは、それを、受け入れられるのか・・?
  一方的に・・正義なんだからと、言われる状態を・・
 受け入れられるのか?
  また、アメリカは、このやり方を『一種の侵略行為』
 であると自覚していないところに・・悲劇があった。
1889年10月4日、大阪天満紡績会社の職工が集合したが、警
 察の出動により説諭され、解散した。
1889年10月4日、日本法律学校が設立された。
  日本法律学校(にほんほうりつがっこう)は、日本の
 法律を研究し、国運の増進をはかる目的として設置され
 た私立法律学校。
  大日本帝国憲法が公布され、皇典講究所所長・山田顕
 義が、同じ趣旨で学校設立計画を進める法律学者らを全
 面的に支援して、日本法律学校(現:日本大学)は設立
 された。
  山田顕義(やまだあきよし)は、長門国出身。
  吉田松陰が営む松下村塾に最年少の14歳で入門、最後
 の門下生となる。
  25歳の時に戊辰戦争で討伐軍の指揮をとる。
  その際、西郷隆盛から「あの小わっぱ、用兵の天才で
 ごわす」、見事な軍才から「用兵の妙、神の如し」との
 名言がある。
  岩倉使節団の一員としてフランスを訪問した際、ナポ
 レオン法典と出会い、「法律は軍事に優先する」ことを
 確信し、以後一貫して法律の研究に没頭する。
  約9年間にわたり司法大臣として近代国家の骨格とな
 る明治法典を編纂した。
1889年10月7日、海軍旗章条例(旭日旗が軍艦旗となる)
  海軍旗章条例により、それまで日章旗であったものが
 旭日旗に統一された。
  この時、この条例で、軍艦の標識として、艦艇の後部
 に掲げられる「軍艦旗」とされた『十六条旭日旗』は、
  「聯隊軍旗」と呼ばれ、
  1874年に、日比谷操練場で、日本陸軍近衛第一・第二
 各聯隊に、天皇陛下から授けられた旗だった。
1889年10月8日、逓信大臣・後藤象二郎が、条約改正問題を
 以て国家の不利とし、反対の旨を奏上した。
1889年10月11日、枢密院議長・伊藤博文が、大隈外相の条
 約改正案に反対して辞表を提出し、閣内では、後藤逓相
 (ていしょう)らが強く反対した。
  1889年10月15日の御前会議でも決着がつかず、
  1889年10月24日、黒田清隆首相は、大隈を除く閣僚と
   ともに辞表を提出するに至った。
  1889年10月25日の翌日、首相の辞表は受理されたが、
   他閣僚の辞表は却下された。
    そして、内大臣・三条実美(さんじょうさねとみ)
   が、兼任首相となり、
    条約調印延期などの後始末にあたり、
  1889年12月24日、この日に成立した山県有朋(やまがた
   ありとも)内閣に引き継いだ。
1889年10月12日、第十八国立銀行本店の新社屋が完成した。
  築町の俵物役所跡にルネサンス様式で洋風煉瓦造2階
 建のモダンな第十八国立銀行本店の新社屋が完成した。
  沿革・・、
  1870年(明治3年)1月、協力社が設立された。
  1872年(明治5年)1月2日、合資会社「永見松田商社」
   を開業。
  1872年11月9日、「立誠会社」と改称。
  1875年(明治8年)9月15日、立誠会社を株式組織に。
  1877年(明治10年)5月16日、国立銀行願書を提出。
  1877年9月2日、国立銀行条例に基づき、「第十八国立
   銀行」として設立。
   資本金:16万円。初代頭取:永見伝三郎、支配人:
   松田源五郎、役職員:頭取以下21名。
  1877年12月20日、開業。
  1878年(明治11年)1月4日、開業式。
  1885年(明治18年)7月、政府紙幣5万円の下付を受け、
   洋銀買い付けを開始。
  1885年9月、洋銀鑑定人を採用。
  1886年(明治19年)3月1日、貯蓄預金業務の取り扱い
   を開始。
  1889年(明治22年)5月8日、東濱町(東浜町)の大火
   で本店が類焼。
  1889年10月12日、築町の俵物役所跡地に本店の新社屋
   が完成。
  1889年12月1日、本店を東浜町から移転。
  1897年(明治30年)7月1日、普通銀行に転換、「株式
   会社十八銀行」に改称し、営業を継続。(資本金100
   万円)
  1907年(明治40年)1月、株式の大暴落に端を発し、市
   場は混乱、金融界もその大打撃を受け、各所で取り
   付け騒ぎが起こる。
1889年10月13日、富山県魚津で米騒動が起きた。
  この年は、凶作で、
  1890年に入ると米価が暴騰し、
  1890年1月18日、富山市で貧民が救助を要求して騒動を
   起こしたのを最初として、
  1890年4月~8月にかけ、鳥取市、新潟県下、下関市、
   高岡市などで貧民の暴動が相次いだ。
   最大のものは、佐渡相川の暴動(6月28日~7月5日)
   で、鉱夫ら約2000人が蜂起(ほうき)し、軍隊が出動
   した。
   その後、福井、愛媛、宮城などの各県下にも騒動が
   起こった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカの・・常套手段・・
.
1820年代、アメリカの『メキシコ領土の奪い取り』
  アメリカのメキシコ領の奪い取りは、1820年代に始ま
 った。
  この頃、アメリカの公使として赴任したジョエル・ポ
 インセットは、卑劣な事に・・盛んに任地で、メキシコ
 政府に反駁する『反政府勢力を育てた』。
  まったく卑劣である・・後に自分のものにするために
 『政府転覆勢力を育てるのである』。
  この様なやり方は・・アメリカの常套手段だった。
  そして、メキシコの領土の方針が2つになったら、アメ
 リカが出て来る。
  アメリカは、その国が割れた状態にして、介入する。
  そして、植民地にする。
  この様なやり方をする。
  この状況を知ったメキシコ政府は、当然、怒って彼を
 追放した。
  しかし、アメリカは、懲りずにメキシコ領である『テ
 キサスの独立を企んだ』。
  そして、「独立を叫ぶアメリカからの開拓民」が、メ
 キシコ政府軍と戦い始める。
  そして、テキサス共和国として独立させる。
  そして、その9年後の・1845年に、奴隷制度を認める南
 部の一州・テキサスとして「アメリカに併合してしまう」。
  テキサス独立戦争(1835年から1836年)・・これは美
 しい表現の仕方・・策士・アメリカが、メキシコの領土
 を自分のものにして行く過程の暴力行為(戦い)である・・、
  アラモの砦の戦いは、アメリカからの開拓民の部隊が、
 サンアントニオ(テキサス州南部の都市)のキリスト教
 会に立てこもり、約3000のメキシコ政府軍(サンガ・ア
 ナ軍)と戦って全滅した戦い。
  アメリカは、この戦いを、当然、賛美した・・隣国の
 領土を奪うという下心の戦いを・・アメリカ国民の方々
 へのごまかしに・・「この悲劇の戦い」を使って行く・・、
  1836年2月23日から、アラモの砦となった教会に立て籠
 もった。
  指揮官はウィリアム・トラビス。
  また、伝説的英雄のデビー・クロケットらの部隊は、
 この年・1836年3月6日までに、非戦闘員を除く187人全員
 が戦死し・・陥落した。
  『アラモを忘れるな』は、以後、合言葉となった。
  1848年、アメリカは「尊厳を傷つけられた」という
 『名目』でメキシコに攻め入った。
  そして、カリフォルニアやアリゾナなどのメキシコの
 領土を奪った。
  メキシコは、国土の半分以上を奪われた。
  国土の52パーセントもの地域を賠償金だと「賠償金代
 わり」に、アメリカに奪われた。
.
1944年12月、報告書「米コミンテルン概略」が作成された。
  アメリカ大統領ルーズベルトの闇の情報屋と成り下が
 っていたFBIのフーバー長官は・・、
  「ホワイトハウス高官にソ連のスパイがいる」という
 情報を掴(つか)み、合法、または、非合法を問わず捜
 査を続けた。
  そして、ソ連が、アメリカに大掛かりなスパイ網を構
 築している事実を掴んだ。
  そして、この日、報告書「米コミンテルン概略」を作
 成した。
  アメリカ政府内部にも『ソ連情報網』があった。
  戦争中なので同盟国(ソ連)との関係悪化を懸念し、
 その配慮から、大袈裟にされずに済まされた。
  そして、そのソ連情報網の行なっている事は、「単な
 る情報収集」だけでなく、「アメリカの政策に如何に影
 響を与える」かを重視していた。
.
1945年、マッカーサーは日本語を無くそうとした。
  占領政策で、何でもできるという増上慢の上の行動だ
 った。
  グローバル化で英語だと来た。
  すでに、フィリピンで『実験済み』だが?
  フィリピンでも、大分、苦労し、もめめたが?
  フィリピンの方々は・・母国語を「もぎ取られる苦痛」
 を味わった。
  思考そのものが、酷(ひど)い状況になった。
  不慣れな、不器用な言葉の使用を強いられ、がんじが
 らめに縛(しば)りつけられている感じとなった。
  言うことが、一度で伝わらない世界、それも、中々、
 十分に理解してもらえない「もどかしさの中」に住む・・
 という悲しさがあった。
  高度な意見交換なんてできない。
  毎日、毎日、お天気の話のレベル。
  日本人は、漢字文化を、中国から導入して・・、
 平仮名(ひらがな)・片仮名(カタカナ)も自ら発明し、
 2000年の歳月をかけて磨いて来た現在の日本という世界
 に例を見ない言語。
  語彙は豊富だし、表音文字・表意文字と、豊富な語彙
 の中で深化した思索が行われ・・出来た。
  英語で代替できる訳がない。
  今、持っている良品質な質を劣化できるわけはない。
  1例として、あまたある一字一字に意味のある漢字の
 代替英語が有るのならば、示して戴きたい。
  漢字なら一字で済むものを、どんだけ長い英語の言葉
 で説明しなければならないかを思い知るだろう。
  「5・7・5・7・7」の短歌が、日本には有るが、英語
 には、この31文字で「一つの意味の単語」があるという
 から劣悪さであるから驚く。
  31文字をアルファベット文字で順列組み合わせをしな
 ければ、意味が表現できないという単語の存在の悲しさ
 の中にある・・という・・劣悪さなのである・・
  表音文字(表意文字ではない悲しさ)の数列・順列の
 英語はここまで行かないと、一つの単語が出来ないとい
 う悲しい事例の話なのである。
  表音文字と表意文字がある優れた日本語、それも、表
 意文字も数種類あるという世界一の素晴らしさだ。
  日本語で言えば・・平仮名の羅列の表音文字だけの英
 語が優れている訳がない。
  厚い英語の本を読んでいるからっと言って・・すごい
 話ではない・・平仮名の厚い絵本を読んでいる様なもの・・、
  こんな優れた日本語を、占領政策をしたアメリカのマ
 ッカーサーは、日本語を無くして英語化しようとしたと
 いうから・・愚かしい事をしてばかりいる状況だった。
  愚民化政策だった。
.
1946年2月11日、秘密にされていた『ヤルタ協定』の全文が、
 やっと発表された。
  臆面もなくこの様な卑劣な事をする・・民を愚弄(ぐ
 ろう、人をばかにすること)している。
.
1946年4月9日、GHQは、日本の総選挙の投票・開票は、
 アメリカ軍が監視すると発表した。
.
1946年4月、日本の工業力を根こそぎ破壊する案、『敗戦国・
 日本への懲罰案』が提出された。
  ポーリーの「日本の懲罰事項などを記した報告書」が、
 正式に、トルーマン大統領に出された。
  敗戦国の経済問題を担当する『経済安全保障政策局』
 の局長だった経済学者のジョン・K・ガルブレイスは、
 エドウィン・ポーリーが懲罰的になっている状態・・、
  ある部下の言いなりに、懲罰的になっているのに我慢
 がならなかった。
  事前に見せられた草案は、日本の工業力を根こそぎに
 するものだった。
  ガルブレイスは、爆弾で破壊され、荒廃した日本の都
 市を見るにつけ、
  その上、そんな懲罰を加えることは耐えがたいと義憤
 に駆られていた。
  このポーリーという人物は、大手石油業者で、民主党
 への資金集めの功績と、トルーマンの個人的つながりを
 誇っていた男で、
  ルーズベルトの死の15日後、後継大統領となったトル
 ーマンが、連合軍委員会のアメリカ代表に、前任者のル
 ービンを排して、新たにポーリーをアメリカ代表に任命
 していた。
  ガルブレイスは、ポーリーを説得しようと思い、ある
 夜、ポーリを訪ね、説得した。
  「日本人だって何か着なければならないだろうから、
 繊維工業は除外しましょう」と言った。
  次に石油、そして、肥料工場というように進めた。
  「実に、骨の折れるものだった」と、ガルブレイスは
 言う。
  1946年4月、ポーリーの報告書は、正式にトルーマン大
 統領に提出された。
  ガルブレイスによって内容が弱められたが、まだまだ、
 厳しい内容であることに変わりはなかった。
  日本の占領政策を実質的に仕切るマッカーサーは、結
 局、その実施を渋った。
  時が移り、そのうち、その報告書は忘れ去られた。
  ポーリー報告書が実施されないまま、1948年3月、スト
 ライク使節団が新たな報告書を出した。
  そして、さらに、陸軍時間のウィリアム・ドレイバー
 が、別の報告書をまとめた。
  賠償額は、そのたびに減り、最終的にポーリー案の10
 分の1になった。
.
1946年5月、フ-バー元アメリカ大統領は、この時、来日し、
 日本の人々への食糧の配給が、ちゃんと行なわれている
 かどうかを検証した。
  そして、マッカーサーと、三日間にわたって断続的に
 会った。
  そして、「この戦争は誰がしたのだ」「あの狂気の男
 (ルーズベルト)だ」と二人は同じ見解だった。
.
1946年12月16日、GHQが、日本の国家予算の編成・実行・
 修正は許可が必要だと指令した。
.
1948年7月、アメリカ軍・GHQは、日本に圧力をかけて
 「紀元節」を廃止させた。
.
1950年代、アメリカで、『黒人差別立法』が改められるこ
 となく、黒人の方々を、相変わらず苦しめていた。
  南北戦争(北軍の代表のリンカーンだという、黒人の
 方々の解放者だとプロパガンダ(嘘宣伝)されている大
 統領と、アメリカ南部の南軍の戦い)が終わっても・・、
  なお、アメリカでは、北部でも南部でも、黒人の方々
 に対する蔑視は続いていた。
  19世紀末から20世紀初頭は、特に、卑劣なアメリカ社
 会で、人種分離政策が『合法的』に進められていた。
  この様な差別は、今・現代の21世紀社会でも、アメリ
 カで続いている。
  本当に、唾棄すべきアメリカ社会である。
  交通機関やレストラン、学校等の公共機関で、白人と
 黒人を分離するものや、
  (例えば1例、バスの前の席は白人専用の特等席で、
 黒人の方々は座ってはいけないとされた・・など)
  このほか、この様な差別行為が影響し、就学率が低く
 なってしまう黒人の方々が・・また、蔑視され、
  また、投票権を、事実上、制限されたり・・
  (卑劣な事に、アメリカ白人たちによる、黒人の方々
 の投票率が低くなるような法律が、色々と作られた)
  (黒人の方々への差別を「あらゆるいやらしい法律」
 を立法して行ない、次々と、悪法をつくったりした)
  何と、住宅を制限することも合法とされていた。
  全米黒人地位向上協会は、これらの差別に立ち向かっ
 た・・が・・、
  アメリカの北部を含む諸地域における黒人差別立法は、
 1950年代になっても改めることが出来なかった。
  その様な状況を変えようと、また、酷い状況に我慢で
 きなくなった黒人の方たちは・・、
  1950年代に入ると、差別を無くし、人間としての尊厳
 を取り戻すための闘いである『公民権運動』を展開して
 行った。
  しかし、キリスト教に洗脳された根強い人種差別の意
 識があるため、
  中々、黒人の方々をはじめ、有色人種に対する差別観
 を、アメリカ社会からぬぐう事は出来なかった。
.
1952年、移民国籍法が制定された。
  それでも、相変わらず、日本人は、自由にアメリカに
 移民は出来なかった。
  アメリカでの移民国籍法(すべての人種に帰化権を申
 請する資格を認めた法律)が制定されるまで、アメリカ
 は、日本人を含むアジア人や有色人種に対して冷たかっ
 た・・が・・、
  しかし、この法律が出来ても、移民数の割り当て規定
 が有り、移民と帰化は制限されたままであった。
  1965年の大改正(ハート=セラー法)は、出身国割り当
 て制限を撤廃し、西半球出身者と東半球出身者という大
 まかな枠で移民の数を決めることとし、
  特別な技能を持った人材を積極的に受け入れる姿勢に
 転じた。
  1986年の改正は、偽装結婚による永住権取得を困難に
 するもの。
  2001年9月11日の同時多発テロ以降は、移民を厳しく
 制限しようとする議論が巻き起こり、
  『テロリズムを摘発し阻止するため適切な手段を提供
 することによりアメリカを団結させ強化する法』(愛国
 者法)による修正が加えられた。
.
1955年12月、人種差別の国:アメリカ・アラバマ州モント
 ゴメリーで、仕事帰りに、バスの白人席に座っていた黒
 人女性のローザ・パークスさんが、混雑したバスで、白
 人に席を譲らなかったために・・『逮捕』された。
  バス運転手の命令により、しぶしぶ白人に席を譲った
 同乗の黒人の人達に対して、差別待遇に抗議心を持って
 いたパークスさんは動かなかった。
  アメリカでは、この様な些細なことで黒人の方々は逮
 捕されていた。
  この事件をきっかけに、黒人のマーティン・ルーサー・
 キング氏を中心に、黒人の方々の「バス・ボイコット運
 動」が起きた。
  初めは、パークスさんの裁判の日のみの予定だったが、
 ビラの配布や新聞記事によって、それが成功を収めると、
  キング氏は、運動の継続を決めた。
  黒人の方々は、徒歩や車に同乗して通勤した。
  町中のバスは空っぽになった。
  バス会社の収益はがた減りとなり、差別政策に反対す
 る世論も後押しして、
  ついに、1956年11月、「バスの人種差別は違憲」とす
 る最高裁判決が下された。
  遅れたアメリカ社会を象徴した判決だった。
  約1年に及ぶ運動は、黒人の方々へ、当然の勝利をもた
 らした。
  この運動から、キング氏による公民権運動が始まった。
  キング氏は、インドのガンジー師を尊敬していた。
.
1961年、この年のアメリカの風景、
  アメリカは、町に、サーカスがやって来て、仮設のテ
 ントを張って興行をする。
  そんなに、いつもあるという訳ではないので町中の人
 たちが見に行く。
  こういう時は、アメリカ人は家族中で行く。
  特に、子供連れで行く。
  こんな、サーカスの仮設テント、ここでも、黒人の方
 たちは、片隅の区切られた席に追い込まれていた。
.
1961年、アメリカは、この年になっても、黒人の方々に差
 別をしていた。
  アメリカは、黒人の方々を何百年もの昔に、奴隷とい
 う非人道的行為によって、アフリカから連れて来て以来、
 黒人の方々への差別を、人種差別を・・し続けている。
  この1961年のアメリカのテネシー州の町・ブラウンズ
 ヴィルの記録があるが、黒人の方々へ選挙権を与えてい
 ない。
  この町の人口は、5000人とも言われ、また、1万1700人
 とも言われている。
  その理由は、黒人の方々へ選挙権も与えず、人口把握
 もされてないから・・、卑劣な状態・・、
  セグリーゲショニスト(黒人差別派)の言葉・・
  「○○さんが、ニグロと一緒に、わざわざ、同じテー
 ブルで食事をさせるのは馬鹿げたことだ」、
  「二グロの方じゃ白人と一緒に、ご飯を食べたって、
 シャチこばって、目を白黒さえせるばかりで、おいしい
 とも何とも思いませんよ」・・と・・、
.
1961年、アメリカのテネシー州のブラウンズヴィルへ行く
 機会があり、バスで行くと、停留所の食堂の裏側に暗い
 穴倉の様な入り口があり、
  そこに「カラード」と黄色い殴り書きのペンキの文字
 が、
  そこは、黒人差別されたトイレだった。
  当然、白人用は食堂内にある。
  そして、テント・シティーの事を口に出したら、案内
 をしてくれている人が、「テント・シティーなんて、そ
 んなことを、君はいったい誰から聞いた」と息巻いて言
 った。
  「知り合いが・・」と答えると、
  「あれは黒ん坊が勝手にやっている事だから、俺たち
 は知らんさ」と言った。
  テント・シティーは、選挙の時に、選挙人登録に行っ
 た黒人たちが、町から追放され、
  やむなく、自分たちでテントを張って暮らして居る村
 だった。
  そして、さらに、「彼等には、それだけの能力がない
 からさ」と、選挙権を渡せない理由を言った。
  そして、「我々は、できるだけ彼等に教育を与えて、
 他の都会へ行ってもらいたいだけさ」と、黒人の分散政
 策をとっている事を言った。
  そして、言った、「ところが、彼等は働かん、1日働く
 と2日休む。
  それじゃ、どこへ行っても駄目さ」・・と。
  そして、この案内人の知る黒人の家に行って驚いた。
  10畳ほどの板の間に椅子が二脚、それきり。
  日本の場合、貧乏な生活でも、わけの分からぬ「ぼろ
 ぼろのもの」が部屋中に満ちている。
  しかし、ここは、それを通り越して、一体どうやれば
 取り散らかすことが出来るかと考え込んでしまうほど、
 部屋の中には、物が、何一つないのだ。
  逆に、貧しい清潔さと言える・・と思った。
.
1972年6月17日、ウォーターゲート事件の発端が起きた。
  この事件で、アメリカ大統領のリチャード・ニクソン
 が辞任するという事件だった。
  しかし、この話にルーズベルトが出て来た。
  ウォーターゲート事件とは、1972年6月にワシントンD.C.
 の民主党本部で起きた盗聴侵入事件に始まったアメリカ
 の政治スキャンダル。
  1974年8月にリチャード・ニクソン大統領が辞任するま
 での盗聴、侵入、裁判、もみ消し、司法妨害、証拠隠滅、
 事件報道、上院特別調査委員会、録音テープ、特別検察
 官解任、大統領弾劾、大統領辞任のすべての経過を総称
 して「ウォーターゲート事件」という。
  お粗末なアメリカというハレンチな事件だった。
  事件は、1972年の大統領選挙戦のさなかに、当時のニ
 クソン共和党政権の野党だった民主党本部があるウォー
 ターゲート・ビル(ワシントンD.C.)に、何者かが盗聴
 器を仕掛けようと侵入し警備員に発見されて警察に逮捕
 されたことから始まった。
  やがて、犯人グループが、ニクソン大統領再選委員会
 (CREEPまたはCRP)の関係者であることが分かり、当初、
 ニクソン大統領とホワイトハウスのスタッフは「侵入事
 件と政権とは無関係」との立場を取ったが、ワシントン・
 ポストなどの取材から次第に政権内部がこの盗聴に深く
 関与していることが露見した。
  さらに、事件発覚時に捜査妨害ともみ消しにホワイト
 ハウスが直接関わり、しかも、大統領執務室での会話を
 録音したテープが存在することが上院調査特別委員会で
 わかった。
  このテープ提出の拒絶や、事件を調査するために設け
 られた特別検察官を解任する(そのため司法長官と次官
 が抗議辞任)など、明らかな司法妨害が政権よりなされ
 た。
  こうした不正なニクソン政権の動きに世論が猛反発し、
 やがて、議会の大統領弾劾の動きに抗しきれなくなって
 アメリカ合衆国史上初めて、大統領が任期中に、辞任に
 追い込まれ、2年2ヶ月に及んだ政治の混乱が終息した。
  ニクソン大統領から指示され、盗聴行為を行なってい
 たのがFBI(連邦捜査局)だった。
  しかし、FBIを調査したアメリカ上院情報特別委員
 会は、徹底的に、FBIを調査した。
  過去にさかのぼって調査すると、「ルーズベルトのボロ」
 が出て来た。
  ルーズベルトは、自分の部下が、信じられなくて、何
 と側近のホプキンズを盗聴するように命じていた。
  しかも、このルーズベルトの盗聴は、徹底的になされ
 ているという、完全に部下を信じてないという盗聴数だ
 った。
  「人間には原罪がある」とするキリスト教を深く信仰
 するキリスト教徒のルーズベルトが、
  「人が信じられないとするキリスト教の大統領」が、
 やりそうな、悪意ある盗聴行為だった。
  側近として、身近で一緒に仕事をする人を信じられず、
 疑(うたぐ)り深く接するルーズベルトだった。
  例えば、ルーズベルトの盗聴指示の徹底ぶりは、1941
 年1月、この側近のホプキンズが、イギリスへ行くという
 「海外の行為」にまで盗聴させた。
  この時は、ホプキンズが、ルーズベルトが、第二次世
 界大戦へ参戦する予定だと、イギリス首相のチャーチル
 へ、ルーズベルト大統領代理で、赴いたときにも行われ
 ていた。
  ロンドンのクラリッジホテルでの会議や夕食会、そし
 て、イギリス代表団のグループが、ホテル内のカフェで
 ルーズベルト大統領の事を話題にしていたことも、その
 様な何気ない会話の一部始終までもが、FBI捜査官に
 よって盗聴されていた。
  ルーズベルト大統領は、「FBIたちが十分監視して
 いることを知り、満足した」と言った、意思表示した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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