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(増補版)358E1/3:気になった事柄を集めた年表(1879年8月〜1879年12月)

2016-05-27 03:32:30 | 日記
題:(増補版)358E1/3:気になった事柄を集めた年表(1879年8月〜1879年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1879年8月、東京大学医学部成る(氷川清話)
1879年8月、勤倹の詔下る(氷川清話)
1879年8月、流行:ウサギを弄ぶこと再び流行
1879年9月15日、製茶共進会を、初めて横浜に開催(産業一
 種目の共進会はこれを端となす)
  明治前期における政府の殖産興業政策の一つ。
  内国勧業博覧会と並ぶ明治政府の勧業政策。
  明治政府の工業化政策は、1873年の内務省設置以後、
 大きく変化した。
  財政難や貿易収支の悪化によって、工部省の直営事業
 に対する批判が高まり、『民業の育成』が緊急の課題と
 して強調されるようになった。
  試験場・学校の経営、民業助成などに当たる勧業寮(1877
 年に勧農局と改称)や、各種博覧会事務局が、内務省内に
 設けられた。
  共進会は、産業の振興を図るため、産物や製品を集め
 て展覧し、その優劣を品評する会。
  明治初年代より各地で開催された。
  各地方の代表的な物産や技術を一堂に集め、一般の観
 覧に供するとともに、生産者、販売者に優劣を競わせて
 品質改良、産業振興を図らせた。
  1879年9月、横浜で開かれた製茶共進会と、
  1879年11月、生糸繭共進会が最初で、
  明治期に殖産興業政策の一環として生糸、茶、織物な
 どを中心に各地で催された。
  特に、輸出奨励の観点から生糸類と製茶、また、輸入
 防遏(ぼうあつ、侵入や拡大などを、防ぎとめること)の
 観点から綿、砂糖、織物の共進会が重要視された。
1879年9月29日、教育令(きょういくれい)の制定
  文部卿・寺島宗則が、教育令を布告した。
  この時、学制を廃止し、公布された学校制度全般に関
 する基本法令である教育令(明治12年太政官布告40号)
 が制定された。。
  全文が47ヵ条で、学制に比べて簡略であり、また、教
 育を地方の管理にゆだねた。
  1880年12月、太政官布告59号をもって改正し (通称、
 改正教育令) 、地方官の権限を強め、また、就学義務な
 どを強化した。
1879年10月1日、長崎商法会議所を築町に創立
  初代会頭に、松田源五郎が就任した。
1879年、電気通信連合に加盟した。
  電気通信連合は、国際電気通信連合(略称ITU)の前身
 で、
  このITUは、電気通信分野での国連専門機関の一つ。
  本部は、ジュネーブ。
  加盟国数は、193か国(2012年)。
  通信の設備と運用の標準化、無線通信業務別の周波数
 割当、衛星軌道割当、通信の世界的拡充の計画と調整が
 任務。
  現存の国際組織のなかでもっとも古く、
  1865年に、ヨーロッパの20か国が設立した国際電信連
 合(万国電信連合。日本は1879年に加盟)を起源とし、
  その後の国際無線電信連合を合体して、マドリード国
 際電気通信条約(1932年作成、1934年発効。日本は原加
 盟国)により今日のITUの形となった。
1879年10月13日、川路利良(かわじとしよし)が没した。
  警察制度の創設者(45歳)。
  薩摩藩の城下士、郷士と足軽との間の与力の家柄に生
 れた。
  大久保利通の腹心として日本の警察制度の確立に努力
 し、西南戦争では陸軍少将として警察隊を率いて従軍し
 た。
  明治5年には、西郷隆盛の推挙もあり、各国警察制度視
 察のために渡欧をしていた。
  大久保利通のもとで、終始、警察権力の強化をはかる
 ことにつとめた。
1879年10月25日、目黒火薬製造所
  日本海軍の目黒火薬庫を白金火薬庫に移転し、目黒火
 薬庫の跡地に火薬製造所を建設する事にした。
  明治維新後、明治政府は、薩摩藩が1863年に建設した
 敷根火薬製造所を海軍に移管し利用した。
  しかし、1877年3月10日の西南戦争の際に、西郷軍の手
 に渡るのを恐れて、政府自ら同製造所を焼き払ってしま
 った。
  このため、火薬をすべて輸入する事になるが、
  経済的な理由や、軍事上、兵器の国内生産が必要なこ
 とから、
  東京近辺に火薬製造所を設置することにした。
  当時、火薬製造は、水車で行ったので、水利と、製造
 した火薬の運搬に適した土地を探していた。
  江戸時代末に刊行された「武江年表」の、文久3年(
 1863年)9月の項の一節に・・、
  「同時二十六日昼、四半(よつはん)時頃、荏原郡目
 黒在三田村、合薬(鉄炮に用ふる所の品なり)の製所に、
 過って火を発す。其響四、五里に聞えたり。即死・怪瑕
 の者七十余人といふ」
  幕府が三田村に建設した砲薬製造所の数回にわたる爆
 発の記録がある。
  安政4年(1857年)幕府は、軍事上の必要から三田村の
 新富士辺より一軒茶屋上、広尾水車道までの約4万坪の地
 域に、それまで千駄ヶ谷にあった焔硝蔵(えんしょうぐ
 ら、火薬庫)を移転し、
  さらに、中目黒村内の三田用水より上目黒村・中目黒
 村・下目黒村の田んぼへの分水口下に、砲薬調合用の水
 車場を建てる計画を打ち出した。
  村民らは、火薬の爆発を恐れたが逆らえず、その代わ
 りに用水の分水口を村の決めた所に作ること、地代金を
 支払うことを幕府に認めさせた。
  こうして目黒砲薬製造所がつくられた。
  明治政府になって、新政府は、国防と内乱鎮圧などに
 備え、兵器・火器の補強を図る必要があった。
  そのために、新たに火薬製造所の建設場所を捜してい
 た。
  そして、旧幕営砲薬製造所跡の目黒の三田村が候補地
 となった。
  三田村は、目黒川・三田用水・豊富な湧水など水利に
 恵まれ、茶屋坂上の高台から目黒川にかけての傾斜地が、
 火薬生産に必要な鉄製水車を回すのに適していた。
  1869年(明治12年)、田畑をつぶし、道路を開き、水
 路工事に反対する村民の抵抗をしりぞけて、三田用水に
 玉川上水をひき入れ、
  翌年の1870年に、東西1町16間、南北4町10間、面積
 2,000坪に及ぶ目黒火薬製造所が完成した。
  ドイツ製の設備を導入し、ドイツ人を製造技師に迎え、
  1885年(明治18年)、操業を開始した。
  そして、製造した火薬は、海軍や鉱山用に使われ、生
 産額もしだいに増加して行った。
1879年10月27日、徴兵令改正(免役条項を縮小、輜重輸卒
 を説く)
  (参考)輜重輸卒(しちょうゆそつ)旧日本陸軍で、
    輜重兵の監督のもとに輜重の輸送に従事した兵卒。
     のちに輜重特務兵と改称。
  (参考)兵卒(へいそつ)1 最下級の軍人。旧日本陸
    軍では兵長以下。 2 軍人。つわもの。軍兵。兵。
  (参考)輜重(しちょう)軍隊の糧食・被服・武器・
    弾薬など、輸送すべき軍需品の総称。
  (参考)輜重兵(しちょうへい)旧日本陸軍で、輜重
    の輸送を任務とした兵種の一。また、その兵士。
1879年10月28日、札幌測候所が国営移管。
  文部省所管となり、中央気象台札幌支台へ改称した。
1879年10月28日、水上警察署を東京に開設した。
  都道府県警察は、海、空を含む都道府県の区域全域に
 ついて治安維持の責務を担っているが、
  海、河川、湖沼等の水上において行われる警察業務を
 とくに水上警察と呼称し、警察庁地域課が指導調整して
 いる。
  水上警察制度は、1877年(明治10年)2月の河海警察規
 則の制定、および、東京警視本署(警視庁)の河海警察
 仮出張所の設置に始まり、
  同年・1877年8月、河海警察が水上警察と改称され、
  さらに、1879年10月、水上警察所が廃止され、水上警
 察署が設置されてその確立をみた。
  そして、現在に至っている。
1879年10月、自由民権期の政論雑誌の『嚶鳴雑誌(おうめ
 いざっし)』が創刊された(求友社)
  自由民権運動高揚とともにその言論の一舞台となり、
 月5回刊まで発展、部数も増加した。
  しかし、1883年5月10日に75号で終刊し、「東京輿論新
 誌」と合併した。
1879年11月1日、横浜で、生糸の共進会が開催された。
1878年11月5日、共同競馬会が設立され、
  11月30日に、第1回共同競馬会が開催された。
  競馬の歴史・・
  1860年(万延元年)横浜本村(現在の元町商店街あた
 り)で日本初の洋式競馬(馬蹄形の馬場)が開催された。
  因みに、この年に、咸臨丸がアメリカへ出発した。
  1862年(文久2年)10月1日〜2日、横浜居留地(現在の
 中華街あたり)にいた居留外国人のレクリエーションと
 して、現在の競馬の原型となる近代競馬が始まった。
  (環形馬場で正式に番組を決めて実施した)
  1865年(元治2年)横浜のイギリス第20連隊駐屯地で競
 馬が開催。
  1866年(慶応2年)横浜の根岸に、幕府の手によって
 「根岸競馬場」が竣工した。
  1867年(慶応3年)1月「根岸競馬場」で競馬開催。
  1869年(明治2年)神戸の生田神社東側の競馬場で居留
 外国人による競馬が開催
  1870年(明治3年)九段(靖国神社境内)で、最初の招
 魂社祭典競馬を開催
  1872年(明治5年)札幌神社で祭典競馬を開催(札幌競
 馬の発祥)
  1875年(明治8年)函館招魂社祭典競馬を開催、
  御所内の吹上御苑(円周馬場)で天覧競馬開催。
  西郷従道が、根岸競馬場にて、日本人馬主として最初
 の勝利を挙げた。
  1878年(明治11年)横浜レースクラブ、横浜レースア
 ソシエーションが解散し、新たに横浜ジョッキークラブ
 が発足した。
  1879年(明治12年)祭典競馬が契機となり、各地に競
 馬場が開設し、共同競馬会社が発足した。
1879年11月7日、愛國社が、再興後の第3回大會を大阪・江
 戸堀で開催した。
  愛国社第3回大会開催し、国会開設請願を決議する。
1879年12月6日:北海道・函館で大火。
  33ヶ町がした焼失。焼失家屋2326戸。
  魚市場より要塞付近まで、焼死者多数。
  焼跡に対し、前年同様の道路の大改革を行なう。
1879年12月10日、印刷局が、当用日記帳(懐中日記)の刊
 行を始めた。
  日本で最初に印刷製本して出版された日記帳は、大蔵
 省印刷局の初代局長の得能良介が、この年・1879年に、
 官吏に配った『懐中日記』とのこと。
1879年12月20日、青森県・尻屋埼灯台に霧笛が設けられた。
  青森県下北半島北東端の尻屋崎燈台に日本で初めての
 霧笛が設置された。
1879年12月26日、東京・日本橋・京橋の大火
  東京・日本橋・京橋で大火。
  日本橋区箔屋町から出た火の手は、屋根の瓦が飛ぶほ
 どの強い北西風にあおられて、たちまち現在の日本橋2
 丁目から3丁目、京橋1丁目、2丁目の一部に延焼し、
 八丁堀、新富、入船、湊、新川の一部、さらには、佃の
 一部を焼く大火となった。
  被害は65ヶ町、全焼1万613戸、
  焼損面積7万4234坪(24万4972平方メートル)。
1879年12月31日、人口調査
  現在の国勢調査にあたる「全国の総人口の現在調査」
 (当時は「現在人別調」と称した)を志し、
  その調査方法や問題点を把握するために、1879年(明
 治12年)に、日本における国勢調査の先駆となる「甲斐
 国現在人別調」を甲斐国(山梨県)で実施した。
  同年・1879年の12月31日午後12時現在人を対象として
 行い、
  調査人:2,000人、
  調査費用は、約5,760円、
  そして、調査対象となる甲斐国の現在人数は、397,416
 人という結果を得た。
  いきさつは・・、
  杉亨二(すぎこうじ、日本近代統計の祖と言われてい
 る)が、人口調査の必要性を説いた。
  国勢調査の試験調査とも言うべき「甲斐国現在人別調」
 を実施した。
  「現在人別調の調査は根本である。国家必要なる事で
 ある」として、全国総人員の現在調査を計画し、
  実施の前に、具体的な実施方法、調査の問題点、調査
 経費等の大体の目途を知るため甲斐国で実施調査した。
  甲斐国を選んだ理由は・・、
  (1)人口の規模が適当である
  (2)管内の人口の移動が比較的少ない
  (3)東京に近く指導、連絡等が便利である
  戸籍法の戸口調査が、戸籍編成のために戸籍上の人を
 実地に点検調査したのと異なり、
  実際の住人を調査地域こそ甲斐国に限られたが、近代
 センサスとして我が国の国勢調査の先駆をなすもの
  「我が国における国勢調査の最初の試験調査」と位置
 づけられる
  調査員の2千人が、1人の調査員=1日平均39軒調査
  結果(甲斐国現在人数)=39万7416人
  調査費用=5759円99銭5厘8毛(1人当たりの費用=1銭
 4厘4毛9絲)
1879年12月、盲人学校の校舎が落成した。
  1875年5月に、古川正雄・津田仙・中村正直・岸田吟香
 らが集まって盲人教育の必要について話し合い、
  盲人学校を設立するための主体として「楽善会」を発
 足させることを決めた。
  翌年・1876年、前島密・小松彰・杉浦譲・山尾庸三が
 加わり、
  また、1876年には、楽善会訓盲院の設立認可が下り、
 東京府より3000円が下賜された。
  校舎は、築地3丁目、約4783坪。
  1879年12月に、総面積約100坪、総レンガ造りの2階建。
  室内は総漆喰塗りの校舎が落成し、
  1880年より、授業が開始された。
1879年、アメリカのカリフォルニアの「州憲法」で、中国
 人の参政権を剥奪し、拒否した。
  正常な中国の方々を、精神異常者と同様な処置とした。
  完全な人権侵犯・人権侵害行為で、
  州として国として、一番大切にしなければならない基
 本的人権を侵犯する非民主国家的行為で、最低の行為で
 ある。
  アメリカは時々このような事をする国で、どこに民主
 的な国家制があると言うのだ。
  人権尊重は第一義に守るべきもので、人権を踏みにじ
 るこの様な行為は、人類の皆を敵にしている。
1879年1月11日〜7月4日、ズールー戦争が起きた。
  イギリスと南アフリカのズールー王国との間で戦われ
 た戦争。
  最新式の銃を用い、先進的な兵器を持ったイギリスが、
 弱い者いじめをした戦争。
  (強い者による、領土略奪・軽蔑行為)
  相手のズールー王国の方々は、槍と盾しかもたないと
 いう現地の方々に対し、血なまぐさい戦争行為をした。
  植民地欲しさの戦争。
  イギリスは、本国から大部隊をどんどん送り込んだ。
  敗ける訳はない、この様なやり方をした。
  そして、ズールー国家は滅亡した。
  イギリスによって、桁違いのズールーの方たちが殺さ
 れた。
  この戦争にもキリスト教がからんだ。
  現地のキリスト教宣教師が戦争を煽った。
  戦勝したイギリス軍指揮官に、ヴィクトリア十字勲章
 をイギリス国家は授与した。
  イギリスは、望まぬ戦争をしたとプロパガンダしてい
 るが、応援部隊の増派や、勲章授与など国家主導の戦争
 だった。
   望まぬ戦争ならば、戦争を止めさせることもできた
 のに、その様な行動はまったく無く、遅れた武器しか持
 たない人々に対して、卑劣な殺戮の戦争が続けられた。
  それも、体制を立て直して、また、戦争開始するとい
 う二度もの戦争が、南アフリカ共和国(アパルトヘイト
 の酷い行為もあった)の地で行なわれた。
1879年10月22日、アメリカのトーマス・エジソンが白熱電
 球を発明した。
  トーマス・エジソンが炭化した紙を使用したフィラメ
 ントで白熱電灯の実験に成功した。
  12月31日の公開実験で、40時間の点灯に成功した。
  (別の説)エジソンは、日本産の竹を焼いて作った炭
 素を用いた白熱電球を完成させる。
1879年10月7日、ドイツ・オーストリア同盟(〜1918年)
  ドイツとオーストリアの間に存続した対ロシア防御同
 盟。
  1878年のベルリン会議以後、ドイツとロシアとの関係
 が悪化したので、ビスマルクは、オーストリアとの結合
 を強めた。
  そして、1879年10月7日に、両国間の秘密軍事同盟が、
 ウィーンで調印された。
  この条約は、締約国の一国がロシアから攻撃された場
 合、他の一国が共同して戦うこと、
  また、ロシア以外の国からの攻撃をうけたときには、
 好意的中立を守ることなどを義務づけた。
1879年11月、アルタミラの洞窟が発見された。
  人類最古の美術である洞窟絵画の第1号が、スペイン北
 部で発見された(洞窟長さは270メートル)。
  発見者は12歳の女の子。
  この地方の領主であり、アマチュアの考古学者である
 マルセリーノ・デ・サウトゥオラ侯爵は娘と洞窟に入っ
 て行った。
  そして、偶然に発見した。
  アルタミラ洞窟壁画は、先史ヨーロッパ時代の区分で
 主にマドレーヌ期(約18,000年前〜10,000年前)と呼ば
 れる旧石器時代末期に描かれた野牛、イノシシ、馬、ト
 ナカイなどの動物を中心とする壁画だった。
  侯爵は、これらの絵が旧石器時代のものであると考え、
 1880年に発表した。
  しかし、当時は、旧石器時代の絵が知られておらず、
 学界からは侯爵の捏造だと疑われた。
  20年ほどの間に、他の地でも、いくつかの洞窟壁画の
 事例が報告されたが、
  何と、これらの絵にも当初は否定的な見解がなされた。
  侯爵は、失意の中、1888年に、57歳でこの世を去る。
  しかし、1900年代に入ると、科学的な調査も進み、こ
 れらの洞窟壁画は間違いなく旧石器時代の絵だと認識さ
 れるようになった。
  侯爵の死から15年後、侯爵の論文を否定したトゥルー
 ズ大学のカルテラック教授は、洞窟壁画に関する肯定的
 な論文を発表し、
  かつて、侯爵の論文を否定したことを謝罪した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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(増補版)357E1/3:気になった事柄を集めた年表(1879年6月〜1879年8月)

2016-05-24 02:32:27 | 日記
題:(増補版)357E1/3:気になった事柄を集めた年表(1879年6月〜1879年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1879年6月27日、コレラ予防法を定める。
  1879年(明治12年)と1886年(明治19年)には、死者
 が10万人の大台を超えた。
  コレラは、コレラ菌(Vibrio cholerae)を病原体とす
 る経口感染症の一つで、コレラ毒素を産生するコレラ菌
 によって発症する。
  強い感染力があり、特に、アジア型は、高い死亡率を
 示し、ペストに匹敵する危険な感染症、
  最も重要な感染源は、患者の糞便や、吐瀉物に汚染さ
 れた水や食物で、
  消化管内に入ったコレラ菌は、胃の中で多くが胃液の
 ため死滅するが、
  少数は、小腸に到達し、ここで爆発的に増殖する、
  そして、コレラ毒素を産生する。
  コレラ毒素は、上皮細胞を冒し、その作用で細胞内の
 水と電解質が大量に流出する。
  そして、いわゆる「米のとぎ汁様」の猛烈な下痢と嘔
 吐を起こす。
  潜伏期間は5日以内、普通は2〜3日だが、早ければ数時
 間。
  症状が非常に軽く、1日数回の下痢で数日で回復する場
 合もあるが、
  通常、突然腹がごろごろ鳴り、水のような下痢が、1日
 20〜30回も起こる。
  腹痛・発熱はなく、むしろ低体温となり、34度台にも
 下がる。
  急速に脱水症状が進み、血行障害、血圧低下、頻脈、
 筋肉の痙攣、虚脱を起こし、死亡する。
  極度の脱水によって皮膚は乾燥、しわが寄り「洗濯婦
 の手(指先のしわ)」、「コレラ顔貌(がんぼう、かお
 かたち)」と呼ばれる特有の老人様の顔になる。
  治療を行わなかった場合の死亡率は、アジア型では75
 〜80パーセントに及ぶが、エルトール型では10パーセン
 ト以下、
  現在は、適切な対処を行なえば死亡率は1〜2パーセン
 ト。
  治療方法は、失われた水と電解質を補給することでコ
 レラによる死亡はきわめて効果的に抑制できる。
  しかし、経口補液のORS治療は、先進国ではまったく
 おこなわれない。
  コレラ罹患時には脱水のみならず消化管を休めること
 が大切なので、先進国医療では絶食・水分経口摂取禁が
 基本。
  患者が意識を失う重症例では、点滴による輸液で水分
 と電解質の補給を行う。
  治療薬:抗生物質による治療は、脱水症状の改善とは
 無関係で、菌体数を減らし、毒素産生を減らす。
  点滴治療と組み合わせてつかう。
1879年6月、東京の遊技場統計調べ
  煙草卸人 382、  同小売人 2,548、
  飲食店 1,262、  玉突き場 53、
  楊弓場 227、  室内射的場 17、
  投扇競場 3、  吹き矢場 6、
  待合茶屋 247、  遊船宿 70、
  理髪店 2,397、  浴場 1,051、
  人寄せ場 190、 (東京府統計表)
1879年6月、勝海舟、西郷南州自筆の詩を石に刻み、南葛飾
 郡大木村上木川浄光寺内に小池を買い、これを建て記念
 とす(氷川清話)
1879年7月3日、アメリカ前大統領のグラント将軍夫妻が来
 日。
  (氷川清話)米国前大統領グラント将軍来る
  グラント将軍は、南北戦争の英雄。
  この人気で、アメリカ合衆国の大統領を1869年〜1877
 年までの2期、8年にわたって務めた。
  グラント大統領時代、1871年(明治4年)秋に、サンフ
 ランシスコに到着し、翌年・1872年1月、ワシントンを訪
 れた、日本からの特命全権大使・岩倉具視に率いられた
 視察団が大歓迎を受けている。
  日本の国書を受け取ったグラント大統領は、岩倉具視
 に、
  「閣下が奉命する、公法に基づく条約改正の交渉は、
 我輩の喜びであり、
  両国間の貿易方法の修正は重要で、望むところでもあ
 り、
  国交の増進は決して怠ってはならず、真実この美事に
 賛成するところである」
  ・・と言ったほどに、日本の条約改正を支持し歓迎し
 た人だった。
  しかし、この後、条約改正の事は、順調には進まなか
 った。
  4年半後の、1876年(明治9年)6月に、当時の外務卿・
 寺島宗則からの指示で、
  駐米特命全権公使・吉田清成が、フィッシュ国務長官と、
 日本が、関税自主権を回復する改税条約交渉を開始した。
  そして、次の大統領のヘイズ大統領の時、1878年7月25
 日に、「吉田・エヴァーツ条約」と呼ばれる新改税条約
 の調印がなされた。
1879年7月4日、来日中のアメリカ前大統領グラント将軍(
 第18代大統領)来朝参内する。
  グラント将軍は、グラント将軍の後に大統領となった
 ラザフォード・ヘイズの大統領が就任した後、
  1877年5月17日に、フィラデルフィアを出航し、世界周
 遊の旅に出発していた。
  フィラデルフィアから船でデラウェア川を下り、大西
 洋を渡り、リヴァプールからロンドンに向かった。
  出発に際し、当時のエヴァーツ国務長官が、各国駐在
 アメリカ公使宛てに出した、その年の公式書翰を見ると、
  前大統領であり、かつ、南北戦争を終結させ、国家再
 統一への勝利に導いたグラント将軍への特別な対応であ
 った(北軍の政権が続いているから・・)。
  日本へは、グラント将軍を乗せた軍艦・リッチモンド
 号(2600トン)は、1879年6月21日に、長崎に入港した。
  日本初の元首クラス国賓としての夫妻の来日だった。
  6月22日には、丸馬場で開催中の博覧会を視察し、記念
 に夫妻でアコウの木を植樹した。
  そして、福済寺において、大歓迎会が開かれた。
  町芸者30人が音曲歌舞を演じた。
  揃いの衣装は、特別に京都に注文し新調した紫縮緬に
 ぼかしの模様だった。
  また、グランド将軍へ、西洋料理店「福屋」にて西洋
 料理が準備された。
  そして、長崎での、6月23日の公式歓迎夕食会の席上、
 長崎県令・内海忠勝が、グラント将軍の歓迎の意を表し、
 健康を祝す乾杯の後、
  グラントは、日本や東洋諸国に対するアメリカの基本
 姿勢について短い演説をした。
  内容は、グラント大統領の第1期目の就任演説でも明
 らかだったが・・、
  アメリカは、日本も含めた諸外国と、公正な関係を築
 くというものであった。
  そして、日本とも常に公正な友好関係を築く努力をし
 てきたし、
  近年の素晴らしい日本の発展もあり、こんな関係の永
 続を願う・・という主旨だった。
1879年7月10日、東京大学卒業生に初めての学位(学士号)
 授与した。
  医学本科18名、製薬本科19名の計37名
1879年7月14日、検疫制度を開始した。
  虎列刺(コレラ)病伝染予防規則が公布された。
  日本の本格的検疫制度が始まった。
  伝染病予防の法令「海港虎列刺(コレラ)病伝染予防
 規則」が公布さる。
  日本最初の統一された国内予防規則
  1879年7月21日、「検疫停船規則」(太政官布告29)に
 改正し公布。
  規則に基いて設立された長崎及び神奈川の両地方検疫
 局が業務を実施。
  わが国における来航船舶に対する海港検疫が初められ
 た。
1879年7月16日、日本最初の考古学研究書完成(モースの
 「大森貝塚研究報告」)。
   報告書が出版された。
  このモースの他に、大森貝塚の発掘には、フィリップ・
 フランツ・フォン・シーボルトの次男であるハインリヒ・
 フォン・シーボルトが関わっている。
  ハインリヒは、考古学に精通していたが、学者ではな
 く外交官(通訳官)だった。
  モースとハインリヒは、第一発見者の功を争った。
  ハインリヒは、大森貝塚の発見を彼の師であるコペン
 ハーゲン国立博物館館長・J.A.ウォルソーに、1878年
 (明治11年)7月20日に報告しており、
  この報告によれば、ハインリヒの大森貝塚発掘は、そ
 の前年の1877年秋、モースの発掘の前に行われた可能性
 がある。
  モースも、後に『日本その日その日』として翻訳され
 た、モース自身の日本滞在の回想記『Japan Day By Day』
 において、
  「発掘調査開始にあたって誰かに先を越されることが
 心配だった」と言っている。
  ハインリヒは、1878年1月31日号に、自身が大森貝塚を
 発見したとの記事を寄せ、モースを激怒させている。
  ハインリヒは、本業である外交官業務が多忙を極め、
 考古学研究から遠ざかったことが決定的となった。
  因みに、「考古学」という日本における言葉は、ハイ
 ンリヒによって出版された「考古説略」から使われ始め
 ている。
1879年7月、東京・上野公園の中に、東京府癲狂(てんきょ
 う)院が設立された。
  後の、巣鴨病院・松沢病院。
1879年8月1日、日本最初の損害保険会社が開業した(東京
 海上火災保険会社)
  東京・南茅場町で海上保険会社が営業を開始。
  日本で最初の保険会社。
1879年8月10日、明治天皇陛下、濱離宮に臨幸(アメリカ前
 大統領グラント将軍を引見し給う)
  天皇陛下と浜離宮で会談。
  8月25日、上野公園で歓迎大会を開催。
1879年8月15日、東京府が本所にコレラ患者隔離のための
 避病院を開設した。
1879年8月25日、車駕上野公園に臨幸し、犬追物天覧(アメ
 リカ前大統領グラント将軍陪観する)
  (参考)犬追物(いぬおうもの):鎌倉時代から始ま
    ったとされる日本の弓術の作法の一つ。
     流鏑馬(やぶさめ)、笠懸(かさがけ)と共に
    騎射三物の一つに数えられる。
1879年8月31日、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇陛下)御
 降誕。
  (氷川清話)皇太子御降誕
  明治天皇陛下の第3皇子。
  名は嘉仁(よしひと)、称号は明宮(はるのみや)。
1879年8月31日、坂本乙女(さかもとおとめ、坂本龍馬の姉)
 が、壊血病に罹り、没した(48歳・満47歳)
  身長5尺8寸(約174cm)・体重30貫(約112kg)の文武
 両道の女性だった。
  1846年に、母・幸が死去すると、龍馬の母親代わりを
 務め、書道・和歌・剣術などを教えた。
  1856年に、典医・岡上樹庵と結婚し、一男一女(赦太
 郎・菊栄)をもうけるが、家風の相違や夫の暴力・浮気
 などが原因で、1867年に離婚し、実家に戻る。
  龍馬のよき理解者。
  近年の史料では、乙女は、お龍(龍馬の妻)に対し親
 身に接していたことが明らかにされている。
  壊血病に罹った原因として、当時、死の病でもあった
 コレラの感染を恐れ、野菜を食べなかったことが原因と
 言われている。
.
  (今日の言葉)
  沖ノ鳥島について・・、
  沖ノ鳥島(おきのとりしま)は、太平洋上に位置する
 サンゴ礁の島であり、東京都小笠原村に属する。
  小笠原諸島の中では最南端の島である。
  日本の領土として最も南にある島である。
  東京から1,740km、硫黄島から720km、
  フィリピン海プレートのほぼ中央、九州・パラオ海嶺
 上に位置する。
  太平洋の絶海に孤立して形成された南北約1.7km、東西
 約4.5km、周囲約11kmほどのコメ粒形をしたサンゴ礁の島
 である。
  北回帰線の南に位置するため熱帯に属する。
  干潮時には、環礁の大部分が海面上に姿を現している
 が、
  満潮時には、礁池内の東小島(旧称・東露岩)と北小
 島(旧称・北露岩)を除いて海面下となる、
  ・・と説明されているが・・、
  中国がやっているように、更なる埋め立てを進めるべ
 きである。
  東京都が、しっかりした形にはしてくれているが・・、
  国として、もっとしっかりした形に埋め立てを、さら
 に、進めて行くべきだ。
  島を失った時に、その価値の大きさに気づくだろう。
  また、実効支配をしっかりし続けるべきだ。
  気象観測をする目的などで、気象観測員の駐在をする
 べきだ。
  また、国防業務の一端であり、作戦上の重要拠点にな
 り得る。
  自衛隊員の駐在意義がある。
  ヘリポートなど必要施設も設置すべきだ。
  日本固有の領土は大切にして行くべきだ。
  「遠く離れているからおろそかにする」というのは
 逆である(ニュース報道でその傾向にあると感じる)。
  島周辺の警備も取り止めると報じていたが・・、
  台湾が「岩だと言った」、
  それで、沖ノ鳥島の海域の利用について、台湾と協議
 に入るという。
  これは、おかしいのではないか?
  「台湾(若しくは中国)に何らかの権利を与えるとい
 う事にする」ということになる。
  台湾が中国にはっきりと帰属する、もしくは、民族自
 決権で独立をする・・という・・過渡期にある今、
  今日のニュースの内容であるなら、政府の方針は間違
 っている。
  周辺海域に貴重な海底資源があると確認されている今、
 もっと日本の固有の領土として大切にして行くべきだ。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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(増補版)356E1/3:気になった事柄を集めた年表(1879年1月〜1879年6月)

2016-05-22 04:35:47 | 日記
題:(増補版)356E1/3:気になった事柄を集めた年表(1879年1月〜1879年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1879年1月1日、広島測候所が創設された。
  政府に、国営で整備する余裕がなく、広島県が、広島
 測候所を創設した。
  そして、気象観測を開始した。
  1939年(昭和14年)11月1日に、国営へ移管され、中央
 気象台広島測候所となった。
1879年1月8日、済世館、開院式
   山形県立病院・済世館の開院式が行われた。
  太政大臣・三条実美(さねとみ)が命名して揮毫した
 「濟世館」の額が披露された。
  県令の三島通庸の「山形の近代化を図りたい」と、
  また、「東北地方で最も早く西洋医学を取り入れ、診
 療の他に医学校も併設したい」との意欲で行われた。
  オーストリア人医師・ローレツを金沢医学校から招聘
 し、経営された。
  建物は、東北地方の大規模な洋風化の歴史を示す資料
 として、国の重要文化財となった。
1879年1月15日、大阪商法會議所 開所式
  1878年7月に、設立願書が、府に提出され、
  1878年8月に、大阪商法会議所が設立された。
  設立の儀願書を提出した有志15名は・・、
  中井由兵衛、白木保三、斉藤慶則、磯野小右衛門、
  芝川又平、藤田伝三郎、井藤儀兵衛、妹尾平次郎、
  山本忠、高田伝蔵、金沢卯右衛門、沢田世範、
  広瀬宰平、中野梧一、五代友厚
1879年1月21日、五島列島住民のイギリス艦の援助
  夕方、英国の帆船「スター・クイーン号」が石炭を積
 み上海へ向けて長崎港を出港した。
  乗員乗客は女性2人、子供2人を含む33人(マレーシ
 ア人、中国人の乗組員の他、数人の欧州人の客)
  船長は、英人アンガス・F・マッキントッシュ。
  ジャーディン・マセソン商会がチャーターした。
  午後8時頃、伊王島灯台を通過し、五島列島南方に差し
 かった頃、折からの強い南東の風にあおられ船は操舵不
 能になった。
  みぞれ混じりの豪雨の中、五島列島南端の黄島沖で座
 礁した。
  最初の衝撃で、トップマストが折れ、海中に落下した。
  救命ボートは、荒波に持っていかれた。
  海水が船内になだれ込む、
  マッキントッシュ船長は、落下していたマストに当た
 り即死しており、夜明けまでに死者は22人になった。
  五島住民は、遭難した乗員乗客を自宅に向かえ援助し
 た。
  そして、生存者は、1週間後に長崎へ戻れた。
  マッキントッシュ船長の遺体は、大浦国際墓地54番の
 2に埋葬され、葬られた。
1879年1月25日、大阪朝日新聞の創刊
  朝日新聞社が大阪江戸堀南通に創立された。
  そして、「朝日新聞」創刊第1号を発行した。
  総ふりがな、さし絵入り小型4ページ、
  定価:1部1銭、1か月18銭、
  1日平均部数:約1千部
  創始者:村山龍平、従業員約20人、
  1〜4号は3千部印刷した。
  「朝日」の由来は「旭日昇天 万象惟明」をもとに、編
 集主幹の津田貞の「毎朝、早く配達され、何よりも早く
 人が手にするもの」から由来、
  1888年7月10日、東京の「めさまし新聞」を買収して、
 改題し「東京朝日新聞」を創刊した。
  社屋は、京橋区元数寄屋町。
  号数は、自由燈・燈新聞・めさまし新聞を引き継いで
 1076号からスタートした。
  1889年、大阪本社発行の新聞を「大阪朝日新聞」と改
 題した。
  1940年9月1日、大阪朝日新聞と東京朝日新聞の題号を
 「朝日新聞」に統一した。
  創刊当時は、小説と通俗記事を中心として大衆向けの
 絵入り「小新聞(こしんぶん)」だった。
1879年1月29日、万国電信条約に加盟した。
  外国電信業務を開始した。
1879年2月、医療文化の開化
  内務省が、医師開業試験規則を布告した。
  医師に資格試験を導入した。
  内務省は「医師試験規則」を各県に達し、全国統一の
 試験を実施した。
  大学卒業者等に対しては、無試験で開業免許授与した。
  医術開業試験では、西洋医学の知識を問う問題が出題
 された。
  それまで、医師といえば、医師は漢方医が主流であっ
 た。がしかし、この医術開業試験の導入により、新規に
 開業する医師は西洋医学の知識が必須となった。
  これは、近代日本での医師の西洋化において、画期的
 な出来事であった。
1879年3月3日、東京・上野に、貧民救療のため同愛社が開
 かれた。
  高松凌雲(たかまつりょううん、医師)が、1879年に、
 医師仲間と「同愛社」を設立し、貧民施療に努めた。
  同愛社は90万人余を救済したと言われている。
  後に同愛病院となる。
  発起人の初代社長の高松凌雲は、戊辰の箱館戦争で戦
 傷病者の救療に当たった。
  賛同する医師14人を社員として結成した。
  毎月10日に会合をもち、運営等を協議し、上野桜木町
 の鶯渓病院を本社に、社員の自宅を分社として施療した。
  施療券は、郡役所や地主・差配人を通じて配布した。
  財政難のため、独自の病院建設は実現しなかった。
  1911年、済生会の設立後解散説もでたが、何とか存続
 した。
  薬代は、社員の出金・寄附・補助金でまかなわれた。
1879年3月3日:高岡で大火。焼失家屋2000戸。
1879年3月12日、最初の内閣書記官長に中村弘毅を任命した。
  (内閣書紀官設立は3月10日)
1879年3月14日、松山にコレラ発生し、全国に広がった。
1879年3月20日、東京府会、開会。
  東京府で府議会が開会。
  府県会規則による府県会の最初。
1879年3月27日、愛国社、第二回大会開催。
  大坂の江戸堀で、愛國社の再興後の第2回大會が開催さ
 れた。
1879年3月28日、初めての日本での蓄音機の吹込み
  エジソンの蓄音機は、1878年、当時のお雇い外国人で
 東京大学教授・J.A.ユーイング(イギリス人)によって
 実験されていた。
  福地桜痴は、これを「蘇音器」とよんだ。
  そして、1879年3月には、東京商法会議所で、ユーイン
 グが、自ら制作し、持参し公開した、このエジソン蓄音
 機によって吹き込み実験が行われた。
  蓄音機には、1857年に、フランス人レオン・スコット
 (1817年〜1879年)が発明した装置のフォノトグラフが
 あり、
  蓄音機が世に出るまでには、多くの人の考案、実験の
 業績があった。
  しかし、実際に音を録音し、再生することのできる蓄
 音機で、世に出たのは、アメリカのトーマス・エジソン
 の発明によるものであった。
1879年3月29日、梁川紅蘭(やながわこうらん、女流漢詩人)
 が没した(76歳)
  画家。梁川星巌(せいがん)の妻。美濃の人。
  14歳のとき、江戸遊学から帰郷した詩人・梁川星巌に
 ついて詩文を学び、17歳で星巌と結婚した。
  聡明にして詩文をよくし、中林竹洞に画を学んで山水
 花弁をよくしたと伝えられるが、確証はない。
  結婚後すぐに、星巌は、「留守中に裁縫をすること、
 三体詩を暗誦すること」を命じて旅に出てしまう。
  帰ってきたのはそれから3年後であり、
  紅蘭は、命ぜられた三体詩の暗誦をやってのけたばか
 りでなく、一首の詩を詠んでいる。
  常に星巌に随って、諸国の山川の勝を探り、一対の好
 夫婦と賛えられた。
  その作品の多くに夫の賛がある。
  頼三樹三郎等の志士が出入したため、幕吏の疑うとこ
 ろとなり、安政の大獄には、星巌はコレラにて歿してい
 たものの、
  紅蘭は捕らえられ、投獄されたが(夫の身代わりに投
 獄)、遂に、正義をつらぬき許された。
  一説では、捕らえられる前に星巌と交流のあった人物
 (吉田松陰、橋本左内など)との手紙などの書類を焼却
 していたという。
  出牢後は、星巌の遺稿を出版、
  晩年は、京都に出て、私塾を開き、余生を送った。
  生涯で400以上の漢詩を示した他、絵画も残した。
  出身地の岐阜県大垣市曽根には、梁川星巌記念館があ
 り、近くの曽根城公園には、星巌と紅蘭の銅像がある。
1879年4月4日、琉球藩を廃止、沖縄県とする。
  琉球処分(沖縄縣 設置)
  (氷川清話)沖縄県を併合。
  県庁は首里。
1879年4月、集治監(しゅうじかん)が設置された。
  東京・小菅に東京集治監(現在の東京拘置所の敷地)
 が、宮城の宮城集治監とともに設置された。
1879年5月9日、官吏の公開の場での政談演説を禁止する。
1879年5月13日、陸軍幕僚参謀条例が定められた。
1879年5月15日、山林局を内務省に改称し、設置。
  江戸時代以前の山林は、幕府所有と藩所有で、御林山・
 御山・御立山(おたてやま)などと呼ばれた。
  この内、領主に預けて利用させた御預山(おあずけや
 ま)と言われる山林もあり、
  また、村所有の地下山(じげやま)、
  そして、私有林の入会山もあった。
  しかし、「所有」という概念は明確にないまま管理・
 利用されて来た。
  明治政府は、これらをとりあげて、官民有の区分を、
 1874年に開始した。
  政府直轄の国有林である「官林」と、県庁所管の「官
 有地」を定め、
  また、一部は、慣行の入会権を認めて、地元の共有林
 や私有林として払い下げた。
  特に、北海道の官林は巨大な規模となった。
  所管は、民部省と大蔵省をへて、内務省地理局山林課
 があたった。
  1879年に、内務省山林局になった。
  1881年に、農商務省が発足し、林野行政は境界査定の
 測量を含め、同省山林局に移管された。
  1886年には、林区署官制により大林区署、小林区署が
 設置され、境界調査などが行なわれた。
  北海道の官林だけは、1886年の北海道庁開設にともな
 い、内務省直轄の同庁へ移管され、第二次大戦終了時ま
 で継続した。
  また、1885年には、宮内省に御料局が置かれた。
  1889年、1890年に、官林から御料林に移管されたもの
 が多くあった。
1879年5月20日、清が、日本政府に琉球処分について抗議
  日清間において、琉球問題はくすぶり続けたが、
  最終的に、日清戦争(1894〜95)で、日本が勝利する
 ことにより終止符が打たれた。
1879年5月21日、政府の支持を得て、長崎造船所に東洋一の
 立神船渠(たてがみせんきょ、現:第1ドック)が完成し
 た。
  総長140メートル、幅:入口部37.17メートル、内部31
 メートル、深さ10.40メートル、
  費用総計40万2600余円
  後に、500瓲クラスの船舶までは、小菅修船場(通称:
 ソロバンドック)で引き受けた。
  それ以上の内外国船は、立神ドックを使用した。
1879年6月4日、靖国神社と改称
  九段坂上の東京招魂社を別格官幣社に列せられ、社号
 が靖国神社と改称された。
  内務・陸軍・海軍3省の共同管理とした。
  招魂社建立(1869年)
  戊辰戦争終戦後の1868年(慶応4年)旧暦6月2日に、東
 征大総督・有栖川宮熾仁親王が、戦没した官軍(朝廷方)
 将校の招魂祭を、江戸城西丸広間において斎行した。
  また、同年・1868年、旧暦5月10日に、太政官布告で京
 都東山(現:京都市東山区)に、戦死者を祀ることが命
 ぜられたり(現:京都霊山護国神社)、
  同・1868年、旧暦7月10・11の両日には、京都の河東操
 錬場において、神祇官による1853年(嘉永6年)以降の殉
 国者を慰霊する祭典が行われる等、
  幕末維新期の戦没者を慰霊、顕彰する動きが活発にな
 った。
  その為の施設である招魂社創立の動きも各地で起きた。
  それらを背景に、大村益次郎が、東京に招魂社を創建
 することを献策した。
  そして、明治天皇陛下の勅許を受け、
  1869年(明治2年)旧暦6月12日に、現社地での招魂社
 創建が決定された。
  同・1869年、旧暦6月29日(新暦8月6日)に、五辻安仲
 が勅使として差遣され、時の軍務官知事・仁和寺宮嘉彰
 親王を祭主に、戊辰の戦没者3,588柱を合祀鎮祭し、「東
 京招魂社」として創建された。
..
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(増補版)355E1/3:気になった事柄を集めた年表(1878年12月〜1879年1月)

2016-05-21 03:43:40 | 日記
題:(増補版)355E1/3:気になった事柄を集めた年表(1878年12月〜1879年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
明治10年代(1877年〜1887年)、この頃の日本の風潮は、
  何でも、西洋は優れているという『明治の思い込み』
 だった。
  それは、西洋の宗教・キリスト教においても起きてい
 た。
  日本人のキリスト教の殉教のイメージは、キリスト教
 の宣教師のイエズス会士・ジャン・クラッセが書いた本
 によって大きく影響された。
  クラッセの本が、西洋の素晴らしさを持っているのだ
 と勘違いしてしまった。
  ジャン・クラッセは、日本の本当の事情を知らずに、
 西洋の頭の思い込みで、この本を書いてしまった。
  その様な『間違い本』によって、日本は影響されてし
 まった。
  ここに、明治初頭の『西洋は何でも優れている』とい
 う『明治初頭の思い込みの頭』の日本の劣等感が作用し
 た。
  彼の著書を、明治初頭の10年代に、太政官(だじょう
 かん)本局の翻訳官が翻訳した。
  本『日本西教史(せいきょうし)』という名で出版さ
 れた。
  ここで、この本の間違ったイメージが、強烈に日本に
 定着してしまう。
  この事は、日本の教科書にも記載されてしまう。
  また、解説書にも記載されるという、このキリスト教
 イエズス会士の間違い見解一色となってしまった。
  徳川幕府は、西洋がしたのと同様に、大弾圧をしてい
 たのだ・・と、なってしまった。
  事実は、『まったく逆である』。
  これによって、現代の日本人の殉教のイメージが決定
 づけられてしまった。
  事実は、まったく、本当にまったく、違っていた。
  徳川幕府の基本的な姿勢は・・
  「キリシタンの捕縛は、極力少なく収めたい」であっ
 た。
  今までの間違った情報に洗脳された頭で聞くと驚かれ
 ると思います。
  それだけ、キリスト教によるプロパガンダ(嘘宣伝)
 がなされて来ていた。
  幕府は、例え、キリシタンだと分かられてしまっても、
 知人・友人や親せきでも良いから、
  「キリスト教を棄教した」と、仮にでも言えば、捕縛
 には向かわなかった。
  誰でも、容易に捕縛から逃れられる様にと、『逃れの
 道』が作られていた。
  刑場でも、『矢来の一部を取り外した形にして、逃れ
 られる様に』していた。
  取り締まりを厳しくして、少しでも見過ごさなく捕縛
 するという姿勢では・・全くなかった。
  西洋での厳しい状況が、この様な状況が、イメージが、
 日本に持ち込まれ、その様にプロパガンダ(嘘宣伝)さ
 れていた。
  また、キリスト教は、殉教することが神の信仰にこた
 える道だと、美しく殉教をすることを勧めていた。
  親子連れで、わざわざ名乗り出たという事例が記録さ
 れている。
  卑劣な殉教の洗脳であった。
  また、今、キリスト教会が必死に宣伝している、子供
 向けの本「フランダースの犬」は、この殉教死の洗脳本
 で、
  殉教死をすることに「マインド・コントロール」して
 いる。
  また、「フランダースの犬」の本は、自殺奨励的にな
 っている。
  先日も、女学生二人が、手をつないで電車に飛び込む
 という痛ましい事故があったが、
  キリスト教は、大いに反省すべきだ。
  この様な事故を誘因している。
1878年1月28日、世界最初の電話機が、米国コネチカット州
 ニューヘイブンに架設された。
1878年2月19日、エジソンの発明の蓄音機が、ニューヨーク
 にて世界最初の特許権を獲得する。
1878年、イギリスが、キプロス島をトルコから奪った。
  そして、1925年に、イギリスの直轄統治領になる。
  第二次世界大戦後は・・反英テロが活発化する。
  イギリス本国と対立を深めて行く。
1878年3月3日、サン=ステファノ条約
  この年の、露土戦争の講和条約で、ロシア帝国とオス
 マン帝国の間で結ばれた。
  オスマン帝国は多額の賠償金とともに、
 (1)アルメニア、ドブロジャ、ベッサラビア、および
   アナトリア東部バトゥミ、カルス、アルダハン、バ
   ヤジト地方(トルコ語版)のロシアへの割譲
 (2)ルーマニア、セルビア、モンテネグロの独立の承認
 (3)ブルガリアへの自治権の付与(マケドニアを含む大
   ブルガリア公国が成立)
 (4)ボスニア・ヘルツェゴヴィナへの自治権付与
 ・・などを課せられた。
  しかし、ヨーロッパ南東部におけるロシアの影響力の
 拡大、
  特に、ブルガリアの領土がエーゲ海に接していること
 によりロシア海軍がエーゲ海北部に拠点を置くことを恐
 れたイギリス、オーストリアの干渉により、
  1878年6月のベルリン会議によって、ブルガリア国境が
 縮小されて、マケドニアはオスマン帝国に復し、ロシア
 は、バヤジト地方などの放棄を余儀なくされた。
1878年4月29日、ニューヨークに初めて高架鉄道が開通した。
  高架鉄道は、全部、鉄で作られた。
  車道の上方へ高さ3メートルから9メートルくらい(窪
 地は高くなる)に線路を敷設した。
  その車道に、太い鉄の柱がにょきにょきと立った。
  その鉄柱に支えられた鉄橋の上を汽車が走った。
  枕木は木であるが、すべてが鉄で、汽車が疾走して走
 ると、ゴーゴーと凄まじい音を出して走った。
  また、高架鉄道と言ったって、今の日本の高架鉄道の
 イメージとまったく違って、ハシゴを上って行って、汽
 車に乗った(乗車するまでの危険性があった)。
  汽車の燃料は、無煙炭にして、極力、煙が出ないよう
 にした。
  通勤のために利用する人が多く、朝晩は、満員状態が
 多かった。
  高架鉄道の下の道路にも、路面電車が走っていて電車
 の花盛り状態だった。
  町の景観は、今の日本の高速道路の様に、町が暗くな
 り、景観は悪くなり、また、苦情を抑えるため鉄道会社
 が周辺を買った。
1878年6月13日、ベルリン会議開催 (〜1878年7月13日)
  露土戦争の結果起こった国際紛争解決のために、ドイ
 ツのビスマルクが主催した国際会議。
  イギリス、フランス、ドイツ、オーストリア・ハンガ
 リー帝国、ロシア、イタリア、オスマン帝国の7か国が
 参加し、
  バルカン半島の新独立国の領域が決定された。
  バルカン問題:いわゆるバルカン諸国は、現在、旧ユ
 ーゴスラビア、アルバニア、ブルがニア、ルーマニア、
 ギリシャ、トルコ(欧州領)であるが、
  1878年のベルリン会議後、第一次世界大戦に至る時期
 の、この地をめぐる国際紛争は多発した。
  オスマン・トルコ治下の、スラブ系民族の独立運動、
 これに乗じたロシアの南下政策、ドイツの中近東3B政
 策、
  イギリスの東地中海政策など列強の帝国主義政策、
  また、オーストリア対セルビアの民族対立などを含む
 厳しい緊張が続いた。
  それ故、この地域は、「ヨーロッパの火薬庫」と言わ
 れた。
  バルカン戦争)1次=1912年、2次=1913年)を経て、
 サライェボ事件(1914年)が第一次世界大戦の遠因とな
 った。
  この地の民族問題は、今日の複雑なバルカン情勢の歴
 史的背景となっている。
1878年10月21日、ドイツの宰相ビスマルクが、「社会主義
 者鎮圧法(しゃかいしゅぎしゃちんあつほう)」を制定
 した。
  (1890年に廃止されたが、この制定によって逆に、社
 会主義者たちを団結させた)。
  これは、社会主義労働者党(後のドイツ社会民主党)の
 勢力の伸長が目覚ましかったため、
  その発展を恐れ 、弾圧するために発布した法律だった。
  この法律によって・・、
  社会主義的傾向をもつすべての結社、集会、出版を禁
 止した。
  また、特定地域の部分的戒厳令の施行、違反者の居住
 地制限などを既定した。
  社会主義者運動は・・大きな打撃を受けた。
  しかし、地下活動によって・・党勢は拡大して行った。
  ビスマルクは、この年・1878年に、皇帝狙撃(そげき)
 事件が起きると、この時がチャンスだと、これを口実に
 し、議会の協力を得て、この法律を制定していた。
  しかし、ビスマルクは、その後、同法のさらなる強化
 を図ろうとした。
  また、有効期限の延長をしようとした・・が、1890年
 1月、議会は否決した。
  そのため、1890年9月に失効し、ビスマルク退陣の一因
 となった。
1879年、出来事:
・演説会が盛んに行われた(自由民権運動)。
  多くの人へ・・国会開設の必要性を訴えるための方策
 は、演説会と新聞だった。
  そして、翌年・1880年に、演説会ブームが起きる。
  1880年の1年間で、東京の民権家が関東でおこなった演
 説会の回数は・・259回だった。
  また、植木枝盛が、1ヶ所の演説会に3日間、5回出演
 し、客は500〜800人集まったという事例がある。
  板垣が、大阪夷座で演説をしたときは、5000人分のチ
 ケットが売り切れた。
・長崎造船所に、東洋一の立神船渠(たてがみせんきょ、
 現:第1ドック)が完成した。
  幕末に、幕府が力を入れていた造船も、花開いて来た。
  日本の柱になって行く・・その後に、三菱長崎造船所
 の主力工場となった。
1879年、論文・哲学:
・「民権自由論」(植木枝盛)
・ 「大森介墟古物編」(エドワード=モース)→大森貝塚の調
 査報告書。
 モースの日本初の発掘報告書 "Shell Mounds of Omori"
 が出版された。  大森貝塚発見(1877年)
・ 「天路歴程」(漢訳からの重訳・初めての口語体翻訳小説)
 (作・バンヤン、訳・佐藤喜峰)
1879年、流行:
・大八車が流行した。
・コレラが、松山から発生し、全国に蔓延・・そして、
  →迷信、まじないの類が・・流行した。
・撃剣会が、再度、流行し、道場が増加した。
・ウサギ飼育と、売買が流行した。
・官吏に・・髭を生やすことが流行した。
1879年、マスコミ:
・ 「朝日新聞」 が、大阪で創刊された。
・ 「山陽新報」 岡山で創刊。
・ 「福嶋新聞」 創刊。
・写真新聞 「歌舞伎新報」 創刊。
・東京絵入新聞が「毒婦お伝のはなし」を挿し絵入りで15
 回の連載をした。
1879年、娯楽・囲碁:
・灯火による講談 「磁石指北針」
  後に、機械の運動を映写して説明する会となる。
・村瀬秀甫〔しゅうほ〕(後の、本因坊)が、中川亀三郎、
 小林鉄次郎らと囲碁結社「方円社」を設立した。
1879年、衣:
・千住製絨所が成り、毛糸の生産も始まった。
・印刷局抄紙部でカセイソーダの製造がはじまり、洗濯石
 鹸もつくった(明治14年に廃止)
・唐チリメン(メリンス)の輸入が盛ん。
1879年、食:
・北海道紋別に製糖所が設置された。
・東京小石川興農社で、各種の缶詰をつくり利益をあげた。
・広島の博進社が、缶詰製造をはじめ、日清戦争以来、牛
 肉缶詰が盛んになる基となった。
1879年、その他:
・梟首刑(きょうしゅけい、さらし首)が廃止された。
・府県会が開始された。
・印刷局が、懐中日記を発行する。
  大蔵省印刷局が、フランスの日記簿を参考にして「懐
 中日記」を発行した。
・国立銀行150行に達する。
  新しく出来た銀行の信用度が低く、金兌換券(国立銀
 行券)を発行すると、即座に、金に兌換されてしまうた
 め、
  1876年6月末の国立銀行券残高は、わずか6万円になっ
 た。
  この様な状況では、十分な産業資金を供給できないた
 め、
  政府は、1876年4月に、国立銀行条例を改正した。
  国立銀行の設立要件を緩和し、金貨兌換性を停止した。
  この改正国立銀行条例によって、国立銀行の設立、お
 よび、経営が容易となり、また、有利でもあったので、
  国立銀行が、各地で、続々と設立された。
  その結果、紙幣は、増発されて、
 物価が騰貴して行く。
  国立銀行の行数の推移は・・、
  1873年: 2行、1874年: 4行、1875年: 4行、
  1876年: 5行、1877年: 26行、1878年: 95行、
  1879年:151行、1880年:151行、1881年:148行、
  1882年:143行、
・大阪に、硫酸製造会社が設立された。
  政府は、当初、大阪を首都しようとした。
  そこで、重要な造幣工場を大阪市に設置する方針をと
 った。
  1869年(明治2年)に、外国人技師を高給で迎え、最新
 技術を導入し、大阪市に造幣寮を設立した。
  造幣寮は、地金・地銀の分析のために硫酸を必要とし
 た。
  この硫酸製造のため、大阪アルカリ社の設立となった。
  初め、硫酸は、ドイツから輸入した。
  しかし、1872年(明治5年)に、イギリス人御雇外国人
 ローランド・フィンチを招いて、国内で硫酸を製造する
 ようにした。
  1875年(明治8年)のフィンチの帰国後、豊原百太郎と
 山口武が、硫酸製造を引き継いだ・・、
  その後、硫酸製造が、収益性の高い産業だと認識され、
  また、清に硫酸を輸出するようになり、
  1879年(明治12年)に、大阪アルカリ会社の前身であ
 る硫酸製造会社が創設された。
・姫路の私塾で、ルソーの「民約論」の講義をしたところ、
 警察官に中止させられた。
  『この本は、一昨年に、政府の許可で翻訳が出版され
 たのだ』と抗弁した。
  読むのはいいが、教えるのはいかんとの命令が出た(
 朝野新聞)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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(増補版)354E1/3:気になった事柄を集めた年表(1878年8月〜1878年12月)

2016-05-18 16:03:52 | 日記
題:(増補版)354E1/3:気になった事柄を集めた年表(1878年8月〜1878年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1878年8月30日、明治天皇陛下が巡幸される(〜11月9日)
  明治天皇陛下が、岩倉具視、大隈重信らと、北地巡幸
 に御発(北陸・東海道地方)
  明治期(1868年〜1912年)の、明治天皇陛下の地方巡
 幸は、97件。
1878年8月、夜間興行が、新富座で初めて行われる。
  ガス灯を設備し、夜間上演が可能という画期的な近代
 劇場だった新富座で、日本初の試みの夜間興行が行われ
 た。
1878年9月3日、観象台(かんしょうだい、東京天文台)が
 創設された。
  東京・本郷本富士町の文部省用地内に、東京帝国大学
 理学部の観象台が創設された。
  東京天文台の前身。
  1878年、東京大学理学部の観象台として本郷構内に発
      足した。
  1888年、旧内務省および海軍省の天文関係の業務が統
      合され、改称された。
  1921年、麻布飯倉の地に、東京天文台が設立され、
  1924年、三鷹に移転し、現在に至る。
1878年9月11日、愛國社 再興第1回大會
  大阪で、愛国社の再興大会が開かれた。
  1875年に、立志社が中心となって結成された日本で最
 初の全国的政治結社だったが、
  中心人物の板垣退助の参議復職で自然消滅した。
  しかし、1878年に、地租改正反対闘争が、各地で盛り
 上がるや、
  この年に、植木枝盛(えもり)らの主唱によって、再興
 大会がもたれた。
  翌年・1879年の第2回大会には、18県21社が結集した。
  これを契機として、自由民権運動が急速に発展した。
  1880年3月の第4回大会には、2府27県の国会開設請願
 署名者10万1161名の代表97名が大阪に結集した。
  名を国会期成同盟と改め、
  土佐立志社の片岡健吉、福島石陽(せきよう)社の河野
 広中(こうのひろなか)を代表に選んで、
  政府に「国会を開設するの允可(いんか)を上願する書」
 を提出した。
1878年9月15日、最初の鉄道事故
  新橋〜横浜間の河川が氾濫し、3日間の運転休止。
  因みに、世界で最初の鉄道事故は、1830年9月15日、イ
 ギリスのランカシャーのパークサイド駅で発生した。
  この日は、リバプール−マンチェスター鉄道の開業当
 日という記念すべき日だった。
  この日に、代議士が、知人に挨拶をしようと線路を横
 切ったところ、轢かれて死亡した。
  汽車の速度を知らなかったので予測できなかったとい
 う。
  日本の最初の鉄道事故として、標記の他に、1877年に
 発生した「東海道線西ノ宮列車正面衝突事故」とする説
 がある(これは、死亡事故としての最初)。
  死亡事故でなければ、さらにさかのぼって、
  1874年に、「新橋駅構内列車脱線事故」がある。
  ポイント故障で、機関車と貨車が脱線した(死亡は無
 し)。
  しかし、日本の鉄道が開業した1872年9月12日に、記念
 すべき鉄道開業式のこの日に、
  線路に入り込んだ見物人が、機関車に引かれて、指を
 切断している。
  (参考)「事故の鉄道史――疑問への挑戦」
1878年9月19日、佐野常民が、博愛社(日本赤十字社の前身)
 の存在と、その事業を社会に知らしめる為に、宣伝文を
 作成した。
  因みに、佐賀の七賢人と言われた佐野常民は、1878年
 6月に、博愛者副総長に大給恒とともに就任した。
  また、佐野常民は、1867年のパリ万国博覧会に、佐賀
 藩の団長として、
  そして、6年後のウィーン万国博覧会に、博覧会事務副
 総裁として渡欧した。
  そして、その時、西欧の先進的な知識・技術・思想の
 見聞・習得に努め、
  同時に、各国に赤十字社が組織されていることを知っ
 た。
  そこで、1877年の西南戦争の惨状に、博愛者の創設と
 西南戦争の救護活動の行動を起こした。
  10年後に、日本赤十字社となり、常民は、初代社長に
 就任した。
1878年10月1日、初めて、鉄道往復切符が発行された。
1878年10月8日、桂太郎が、「陸軍参謀局拡張の議」を太政
 官に上申した。
  陸軍省による参謀局の拡張上申は、軍令機関の組織・
 機構・権限の拡張で、
  その直後の軍令.機関の分離・独立を意味し、桂太郎陸
 軍少佐 (参謀局勤務) の建議を基本にして行なわれた。
1878年10月12日、山県有朋陸軍卿が、「軍人訓戒(ぐんじ
 んくんかい)」を配布した。
  西周(にしあまね)が起草し、天皇陛下の絶対神聖、
 軍隊の中立化を説き、軍人勅諭の先駆となった。
  西南戦争後の近衛砲兵の反乱である竹橋騒動を起因と
 して、
  明治・大正時代の代表的な藩閥政治家であり、元老、陸
 軍の最長老として、山形有朋(やまがあありとも)が示
 した。
1878年10月16日、札幌農学校の演武場が完成(札幌時計台)
  基本構想図は、教頭のW・ホイラーが作成した。
  開拓使工業局主席技術者・安達喜幸が、設計・監督。
  費用は、3869円16銭3厘。
  演武場は、農学校生徒の兵式訓練や、心身を鍛える体
 育の授業に使う目的で建設された。
  2階は、兵式訓練や体育の授業などの屋内体育館や、中
 央講堂、
  1階は、研究室、講義室、動植物や鉱物の標本展示室
 など
  演武場が完成したときに、時計台はなく、小さな鐘楼
 のみ、
  開業式に出席した開拓長官・黒田清隆の発案で、時計
 の設置が決定した。
  1881年(明治14年)7月、玄関正面部と鐘楼を取り壊し、
 骨組みを強化して、時計を設置した。
  改修費は1329円
  北海道・札幌農学校の演武場(現=札幌市時計台)が
 落成する。
  演武場(Military Hallの訳)とは学生に軍事訓練を行
 う道場のことで、
  米マサチューセッツ農科大学のミリタリー・ホールを
 模して造られた。
  下見板張りの外壁の木造2階建て建築で、
  2階には、練兵場と武器室があり、兵式訓練や体育の授
 業などの屋内体育館や中央講堂として使用され、
  1階は、研究室、講義室、動植物や鉱物の標本展示室と
 して使われた。
  時計がつけられていなく小さな鐘楼(しょうろう)の
 みだったが、開業式に出席した開拓長官・黒田清隆の発
 案で、時計の設置が決まった。  
1878年10月20日、東京大学に生物学会が創立された。
  東京大学の初代動物学教授であった大森貝塚発見者の
 モース(E. S. Morse)が、東京大学、植物学教授・矢田
 部良吉とともに創立した。
1878年10月24日、体操伝習所(たいそうでんしゅうじょ)
 の設立(体操教育始まる)
  この年に、東京に設置された文部省直轄の西洋式体操
 の教育機関で、
  アメリカ人 G.A.リーランドを教師として西洋の体操を
 導入し、
  リーランドの退任後は、坪井玄道が、その後を継いで
 日本の学校体育の基礎確立の中心となった。
1878年10月28日、郡区町村制が決まり、町村に初めて自治
 体としての性格が与えられた。
  地方制度の根本となる郡区町村編成法、府県会規則、
 地方税規則に基づくもの。
1878年11月1日、明治天皇陛下が、車駕(しゃが、くるま。
 乗り物)東行し金原明善(きんぱらめいぜん)夫妻
 を召見(しょうけん、呼び寄せて対面すること)
  金原 明善氏:(1832年7月4日〜1923年1月14日)、明
 治時代の実業家。遠江国長上郡安間村(現浜松市東区安
 間町)出身。浜名郡和田村村長。
  天竜川の治水事業・北海道の開拓・植林事業など近代
 日本の発展に活躍した。
1878年11月2日、東京府、15区6郡を定める。
  東京府が、大区小区制を廃して15区6郡(麹町、神田、
 日本橋、京橋、芝、麻布、赤坂など15区)を定めた。
1878年11月2日、西南戦争の功により、有栖川宮熾仁を大勲
 位に叙す。
1878年11月2日、学校体操が、初めて東京女子師範にて実施
 された。
1878年11月16日、北海道・函館で大火。
  13ヶ町が焼失。焼失家屋954戸。
1878年12月5日、参謀本部條例
  陸軍参謀局を廃し、陸軍省に参謀本部を設置
1878年12月10日、教育総監部の前身となる監軍本部創設
  (中部は野津鎮雄、東部は谷干城、西部に三浦梧桜)
1878年12月10日、紙幣局を、大蔵省印刷局と改称
  大蔵省印刷局が創立(大蔵省紙幣局を印刷局と改称)。
  1871年7月27日、大蔵省内に紙幣司創設
  1871年8月10日、大蔵省紙幣司を紙幣寮と改称
  1872年9月20日、大政官正院印書局設立
  1875年4月、抄紙局設置(現王子工場)
  1875年9月4日、大蔵省紙幣寮と太政官正院印書局が合
 併され大蔵省紙幣寮となる
  1876年4月5日、抄紙局操業開始(現王子工場)
  1876年10月10日、印刷工場が東京大手町に落成
  1877年1月11日、大蔵省紙幣寮を紙幣局に改称、現業
 官庁となる。
  1877年、国産第1号紙幣を製造(国立銀行紙幣一円(新
 券)12月28日発刊)
  1878年12月10日、大蔵省紙幣局を印刷局と改称。
1878年12月13日、監軍本部條例
  陸軍監軍本部を置く (後の教育総監部)
1878年12月15日、停車場扱いの電信開始される(最初は新
 橋・横浜両駅のみ)
1878年12月24日、侍従長を置く(米田虎雄中佐任命)
1878年12月26日、従来の海軍始の儀式を廃せられる
1878年12月、東京の風月堂が、日本初の国産チョコレート
 を製造・販売する。
  輸入したチョコレートを加工したもの。
  新聞に掲載された日本初のチョコレートの広告には、
 「貯古齢糖」という漢字があてられた。
1878年12月末、井上良馨(いのうえよしか、軍人)が、艦
 の艦長となり初の国産軍艦「清輝」が出港、ヨーロッパ
 諸港を回航した。
  軍艦・清輝は、ヨーロッパ航海を最初に成し遂げた日
 本艦となった。
.
(今日の言葉)
  知人が幼い子供と散歩をしていた時・・、
  その子供との散歩のところへ・・、
  運悪く・・車が突っ込んで来た。
  知人は、とっさに逃げ、幸い、けがはなかった。
  しかし、子供は・・けがをしてしまった。
  奥さんは、知人を攻めた。
  何故?・・子供を抱いて逃げなかったの?・・と、
  知人を攻めた、
  問い詰めた。
  とっさの場合だったので、その様になってしまった・
 ・と、
  知人は「気詰まそうに」・・私に話した。
  幸い子供の怪我も大けがではなかったので、
 事は、話は・・おさまって行ったが、
  心に・・何かが残った。
  冷静に事を処すことが出来たら・・、
  当然、その知人は、自分の子供も一緒に抱いて逃げ、
 事を避け、無事に・・事態を収め得ただろう。
  それが、妻と一緒の散歩のときも・・その様に・・、
  家族全員を守ろうと・・知人は・・行動しただろう。
  その時・・、実の親、ご両親の場合も、
  知人は・・守ろうとしただろう。
  また、その時、妻のご両親の場合であっても、
  その様にしただろう・・と・・想像する。
  そして、親友だったら・・?
  近所の良く話しあう・・気の合った方々だったら・・
 と、考えて行くと・・、
  高校野球の場合もそうだ。
  自分の子供が甲子園に出ることになって・・、
  大変、うれしくて・・出るんだ、出るんだ・・と、必
 死に出るんだと周りの人に知らせ、必死に応援していた
 方が居たが・・、
  また、地元のチームが敗退したので、その隣の地域の
 チームを応援しています・・と、言う話も聞いた事があ
 ったが、
  守る、応援する、助ける・・という行為は、
  自分の周りの社会から始まって行く・・、
  オリンピックでも、日本の選手のメダル獲得を喜ぶ。
  これは、自然の心情なのだ。
  しかし、この自然の心情が・・尊いのだ。
  故に、当然に、
  愛する家族が、妻や子供が、そして、愛するご両親、
 親族、そして、地域の方たち、
  そしてそして、日本の方々へと・・その意識は広がっ
 て行く。
  その愛する方々が、危険に犯された時に、
  その意識のもとに・・行動を起こす。
  自動車事故から守る・・という話と、
  他国から危険にさらされた時、家族の生命も危うくな
 ると思われた時、守ろうという意識と、そして行動が起
 きる。
  俺は逃げるという事を言う人もいるだろう。
  一人で逃げるのかい?
  えっ! 家族は連れて行くって??
  ご両親は?
  兄弟は??
  そして、戦争が悪いのだ・・と言うのかい?
  そうだ。君の言う通り、戦争は悪いのだ。
  それで・・、そう言って・・そう言っていれば・・戦
 争は起きないのかい?
  起きなかったのかい??
  人間の歴史は、そんな簡単なことで、戦争を避ける事
 が出来てきたかい?
  歴史を見ても分かるように、
  「戦争は悪いのだ」と言って、戦争を避けることが出
 来なかったことを示している、
  あなたも分かっているでしょうが・・。
  戦争が起きて、家族が危険にさらされ、
  ご両親が危険にさらされ、
  地域の方々が危険にさらされ、
  国の人々が危険にさらされ・・
  自分だけ逃げることが出来ない時・・
  あなたはどうするのだ。
  その時、あなたには・・、
  家族を守り、ご両親を守り、兄弟を守り・・、
  地域の人を守り、そして、国の方々を守るという、
  『崇高な使命』があります。
..
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