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(増補版)370E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年1月~1882年1月)

2016-06-22 04:09:16 | 日記
題:(増補版)370E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年1月~1882年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1882年、住:
・1882年11月1日、米国のブラッシ会社より、初めて発電機
 が移入され、銀座二丁目に2000燭光の弧光燈の電燈が灯
 された。
  東京・銀座に灯された日本初の電灯(アーク灯)には、
 連日、大勢の人が見物に訪れた。
  翌年の1883年には、京都の祇園に、この電気の街灯が
 登場し、
  そしてまた、その翌年の1884年には、大阪の道頓堀に
 設置された(その場に据え付けたバッテリーから電力を
 供給する形だった)
  発電所からの電力供給が始まったのは、1886年で、
  室内電燈は、1887年1月に、鹿鳴館の室内に、日本で初
 めて、室内電燈が灯った。
  次いで、皇居に、1889年1月6日に、電燈が灯され、
  営業用に電燈が使われるようになったのは、1890年11
 月の浅草・凌雲閣だった(12階の塔、お雇い外国人のイ
 ギリス人の設計、関東大震災で倒壊)
  東京電燈(日本で最初に誕生した電力会社)は1886年
 に設立され、火力発電所を、日本橋・茅場町や、麹町な
 ど、5か所に建設した。
  その後、次々と電力会社が誕生し、
  1888年:神戸電燈、
  1889年:大阪電燈、京都電燈、名古屋電燈、
  1890年:品川電燈、横浜共同電燈、深川電燈、熊本電
      燈、
  1891年:帝国電燈・・などが火力発電所を建設した。
  1894年に、日清戦争が始まると、電力が不足し、東京
 電燈は集中発電所として、浅草発電所を完成させた。
  浅草発電所の発電機は、石川島造船所が制作したもの
 で、交流200kw。
  ドイツのアルゲマイネ社の発電機を併用した。
  この発電機が50サイクルで、
  同時期に大阪電燈が採用したGE社の発電機が60サイク
 ルで、この違いが、現在まで続く日本の周波数の違いの
 起源となった。
1882年、その他:
・1882年6月25日に、東京で、鉄道馬車(てつどうばしゃ)
 が開通した。
  都市交通機関の軌道上に馬車を走らせるという輸送手
 段の東京馬車会社が、
  新橋~日本橋間の開通・開業させたのが最初。
  1882年10月1日までに、日本橋~上野~浅草~本石町~
 日本橋の循環線を完成させた。
  1372ミリメートル幅の軌道上を、定員24~28名の客車
 1両を、2頭の馬が牽引(けんいん)した。
  乗合馬車に比べてたいへん快適とされ、この後、主要
 都市の市街交通機関となった。
  1891年に大阪に、そして、1898年には函館(はこだて)
 でも開通した。
  しかし、京都の市街電車をまねて、東京でも1903年(
 明治36年)、東京馬車鉄道が電車に変わった。
  そして、地方都市でも、次第に、鉄道馬車は電車や、
 ガソリンカーに代わり、市街電車の普及により廃止され
 て行った。
  1914年の第一次世界大戦前までには、ほぼ姿を消した。
  尚、これにさかのぼること1869年、北海道茅沼炭坑で、
 軌道上を牛が炭車を引く方式が採用されたが普及しなか
 った。
  因みに、鉄道馬車の普及の前に、普及していた乗合馬
 車は、1877年9月には、雷門~新橋間のものだけで、車両
 数が87もあり、また、1日の平均売上げが、100円にも達
 するという盛況を見せた。
  しかし、1882年6月に、鉄道馬車が開設されると、次第
 に、中央部から駆逐され、
  1910年には、東京市内の乗合馬車はまったく姿を消し
 た。
・民の中に、馬にひかせる二輪車が使われ出した。
  日本における馬車の歴史は・・、
  運搬の手段としての馬は、古くから用いられていて、
  古代律令(りつりょう)制においては、駅制が整備され、
 駅馬も制度化された。
  しかし、これは、車を引かせるものではなかった。
  馬に人が乗ったり、馬の背に荷物を乗せて運んだので、
 こうした車を使用しない馬の使用は、ずっと後まで続い
 た。
  畜力による車としては、牛車(ぎっしゃ)だった。
  しかし、牛車に乗れる人は貴人に限られ、一般庶民は
 徒歩がほとんどで、
  駕籠(かご)や、馬の背を利用できる人も限られた人た
 ちだった。
  荷物を運ぶのも、人や馬の背によって行われ、駅から
 駅を付け通しする中馬(ちゅうま)制度も、車を用いるも
 のではなかった。
  日本における馬車の出現は遅く、幕末になってからで、
 横浜居留地の外人が私用に使ったり、
  外国の公使館が、幕府のある江戸とを往復するために
 用いたのが最初といわれている。
  こうした、馬車の使用を見た横浜の川奈幸左衛門ら数
 名が、1869年(明治2年)2月、乗合馬車の営業を出願し、
 出願者が共同で、成駒屋(なりこまや)という店名で、
  1870年9月、営業を開始した。
  2頭立てで乗客は6人、東京までの所要時間:4時間、運
 賃は75銭だった。
・共同運輸会社・大日本山林会・大日本水産会が設立。
 ☆共同運輸会社(きょうどううんゆかいしゃ)は、
  三菱会社の海運独占による高運賃に対抗し、1882年、
 三井資本を中心に、政府出資も得て、設立された海運会
 社だった。
  維新政府の海運振興策によって、1875年以来、船舶の
 払下げや助成金の交付などで、特別の保護・助成を受け
 て来た三菱会社との間に、
  運賃ダンピングによる死闘が展開された。
  両者が共倒れの危機となって、こうした状態を是正を
 し、海運業の一層の発展を図るため、政府が、仲介し、
  (政府は、三菱の海運界の独占を是正したいと、共同
 運輸会社の設立に対して、半額出資していた)
  1885年9月、三菱と共同運輸は合併し、10月、半官半民
 の日本郵船として開業となった。
 ☆大日本山林会(だいにほんさんりんかい)は、
  この会が設立されたのを契機として、全国各地に組織
 された民間の林業を指導した。
  大日本山林会は、1879年に、山林に関する学術知識を
 交換論究するために設立された山林学共会を先駆として、
  そして、この年・1882年に、山林共進会の開催を機に
 設立され、
  国内外の森林・林業の発展を図ることを目的とする公
 益社団法人。
  初代会頭:伏見宮貞愛親王(1882年1月~1915年4月)
  事業:
  (1)森林・林業に関する指導・普及・普及
  (2)森林・林業に関する政府への提言
  (3)森林・林業に関する調査・研究
  (4)雑誌『山林』の発行
  (5)小林記念林業文献センターの運営
 ☆大日本水産会(だいにほんすいさんかい)は、
  水産業者の養成を目的として設立した民間の教育機関。
  水産業に関係する生産者、加工業者、流通業者、小売
 販売会社など、約400の会員で構成される業界団体(一般
 社団法人)。
  沿革:
  1882年2月、「大日本水産会」が創立され、
  小松宮彰仁親王を会頭に奉戴し、品川弥二郎を初代幹
 事長に選出した。
  事業:
  (1)水産業会の意見を国の施策に反映させる。
  (2)漁業における国際会議や地域管理機関などの活動
   をNGOの立場で支援する。
  (3)漁船から食卓までの品質衛正管理の向上を目指す。
・この年になされた郵便関係のこと:
  ・郵便葉書取扱手続を制定した。
  ・郵便集配人の被服制定が改正された。
  ・駅逓局に運輸課が置かれた。
  ・外国書留郵便物の事故には、万国郵便連合条約によ
   り弁償金支払。
  ・郵便物の留置は私書函貸与に限ること:受取人の願
   による取扱禁止。
  ・郵便条例公布。
   1873年太政官布告97号・1873年制定された郵便規則
   により郵便事業官営と全国均一料金制を採用。(後に、
   郵便条例(1882年)などに整理される)
  ・郵便条例公布:郵便為替を12章に、駅逓局貯金を13
   章におさむ。
  ・府県管内地方郵便を「約束郵便」と改称。
・慈恵病院が創業した。
  1882年8月 高木兼寛が、有志共立東京病院を開院。
  1887年4月 当時の皇后陛下(明治天皇陛下の皇后・昭
 憲皇太后)より、「慈恵」の名を賜り、東京慈恵医院と
 改称した。
  現:東京慈恵会医科大学附属病院
・この年のコレラ流行で、3万3784人が死亡する。
  幕末から明治にかけて「三日コロリ」「虎列刺(これ
 ら)」「虎狼痢(ころり)」「暴瀉病(ぼうしゃびょう)」
 とよばれ、非常に恐れられた。
  1877年には、西南戦争の戦線でコレラが発生し、帰還
 兵によって全国に感染が広がった。
  以後、1879年、1882年、1886年も多くの犠牲者が出た。
  この様な事態に、明治政府は、衛生、防疫体制の整備
 を急ぎ、
  1879年に「虎列刺病予防仮規則(太政官布告第23号)」、
  1880年には「伝染病予防規則(太政官布告第34号)」
 を公布した。
  伝染病予防法心得につき県達前書、明治14年11月11日
  目今、本邦流行伝染病中、最モ予防注意ヲ要スヘキハ
 虎列刺、腸窒扶私、赤痢、実布垤利亜、発疹窒扶私、痘
 瘡ノ六病トス。
  而テ各種ノ病症ニ従ヒ、予防ノ法モ亦其趣ヲ異ニスト
 雖モ、其要領ハ之ヲ約スルニ四項ニ出テス。
  其一ハ、病毒ノ萌動及ヒ蔓延ノ因ヲ除却スルニアリ(
 即チ清潔法)
  其二ハ、各人体中有スル所ノ感受性ナカラシムルニア
 リ(即チ摂生法)
  其三ハ、病毒伝播ノ媒介ヲ隔離スルニアリ(即チ隔離
 法)
  其四ハ、伝染病毒ヲ消滅スルニアリ(即チ消毒法)
  右ノ四項ニ依リ、予防ノ事ヲ施サヽルヘカラス。
  故ニ其大意ヲ示スコト左ノ如シ(後略)
・下岡蓮杖が、浅草に写真館を開業した。
  1862年、蓮杖は、40歳で、横浜の野毛、ついで、弁天
 通5丁目横町で写真館を開業した。
  これが、横浜における営業写真館の最初であるという。
  明治15年(1882年)、蓮杖は、浅草公園第五区に写真
 館を移した。
・田鎖綱紀(たくさりこうき)が、速記文字を創案、習う
 者多し。
  大学南校で鉱山学をまなぶかたわら、在学中、偶然に
 目にした欧米の速記記号に興味を抱いて研究を始め、
  グラハム式の英語速記法をもとに、日本語速記法を考
 案した。日本語速記術の創始者。
  欧米の速記術を研究して日本語速記法を考案、明治15
 年(1882年)に、「日本傍聴筆記法」を発表し、速記普
 及につとめた。
  弟子たちは、帝国議会発足と同時に貴族院、衆議院の
 速記者として活躍したが、
  自らは、仕官を好まず、もっぱら速記普及の全国行脚
 に努めた。
  終生、速記記号を日本文字にとの願いを失わなかった。
  明治27年、藍綬褒章。著作に「新式速記術」など。
・スダレを豪州に輸出した。
.
 (今日の言葉)
.
  題:アメリカが言う屁理屈・・
.
  その言葉は、人類の『負の遺産』。
  人類の『負の遺産』に、まさになろうとしている。
  後々の世まで、大きな弊害を、人類に与え続けて行く・・
  その、計り知れない大きなマイナス要因を人類社会へ
 与えている。
  その様な・・恐ろしさがある・・、
  アメリカのその屁理屈は・・キリスト教の教義「目に
 は目を」の「同罪報復」から来ている・・
  「同罪なら報復しても良い」という考え方・・その教
 義に・・
  考え方を、洗脳され、マインド・コントロールされ・・
  アメリカは・・これによって・・「広島・長崎に原爆
 を投下した」・・実行した・・
  「広島・長崎の原爆投下」は、『真珠湾の報復だった』
 ・・『報(むく)いだった・・』・・だから・・だから、
 アメリカは、正しいのだ・・投下は正しいのだと言う・・
  そして・・また言う・・「広島・長崎に原爆投下をし
 なかったら」・・もっと多くのアメリカの青年が死んで
 いたと、だから、広島と長崎に原爆投下したのだと、
  アメリカは悪行を糊塗して言った・・が・・しかし・・
  これは、研究者が間違いだと指摘している・・
  この様な論理や数字は成立しないと・・
  「広島・長崎の原爆投下による死者の数の方が多い」
 と言う・・しかし・・
  しかし、しかし・・このキリスト教的な・・同じ数な
 ら同罪報復だから良いとか・・多い死者数だから投下し
 て良いとか・・、低劣きわまりない・・キリスト教的発
 想・考え方の低劣さ・・??
  恐ろしい正当化の理論である・・、
  誰が何と糊塗しようと・・何しろ、このキリスト教の
 教義の考え方は、正しくない・・正義でも何でもない・・、
  ある話を・・する・・、
  もしもの・・仮定のはなし・・、
  Rや・・Cという国が・・、
  「Aという国は、自分を正当化して・・なんだかんだ
 と無実の人々を、何人も・・、
  歴史の今までに、何人も・・何人も・・殺して来た。
  だから、これから先も、この様に・・何人も、何人も、
 人々を・・無実の人々を殺して行くだろう・・だから・・
  だから、だから・・その様なことをしない様に・・こ
 のAなる国へ、原爆を投下しても正義なのだ・・」・と、
  これから、Aの国に殺される多くの人々を救う事にな
 るから・・と・・
  こういう論理が成立するのだ・・と・・
  こんな論理は・・屁理屈だ・・成立しない・・する訳
 ない・・
  アメリカの屁理屈は・・世界へ言えば言うほど・・
  世界に公言して憚(はばか)らないアメリカの行動・
 発言・・
  愚かなことを言い続ける・・そして、もしも・・もし
 も・・この事を正義と勘違いして・・実行してしまう・・
 恐ろしさ・・
  キリスト教の教義は、この様な論理・考え方を・・正
 義だというように勘違いさせて、
  これまでの歴史の様に、そして、今・現代も・・
  そして、つい先ごろの事もそうだが、悪行をやって来
 た・・、
  アメリカの「広島・長崎の原爆投下のキリスト教教義
 からの理論は・・大間違いなのだ」・・、
  「20万人~30万人殺されるだろうから、先に、20万人
 ~30万人殺した」・・、
 というキリスト教の教義の理論は大間違いなのだ・・、
  「一人、殺されようが・・」、「二人、殺されようが
 ・・」「スペインのキリスト教徒とキリスト教聖職者た
 ちが、南米などで一千万人以上の人々を殺した」様に、
 その人数は波及していく、
  その考え・教義が間違っているのだ・・
  キリスト教の教義の大罪なのだ・・、
  「一人であろうが」「二人であろうが」「一千万人で
 あろうが」・・何人・・殺そうが・・
  殺人は・・『絶対悪』なのだ。
  殺人を正当化する論理は、「まったく存在しないのだ」
 ・・「正当化理論は、まったく無いのだ」。
  こんな論理が分からないで・・キリスト教にマインド・
 コントロールされ、アメリカは、洗脳されて、さも正義
 の様に思って、今・現代も同じことを・論理を言ってい
 る、言い続けている。
  そして、「広島・長崎の原爆投下は正しかった」と、
  恐ろしい事は・・人類の歴史に・・原爆投下の正当化
 の『愚かな先例』が刻み込まれた・・若しくは、刻み込
 まれようとしていることだ。
  キリスト教の遅れた教義・考え方に毒されている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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(増補版)369E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年12月~1882年1月)

2016-06-20 04:09:46 | 日記
題:(増補版)369E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年12月~1882年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1882年、出来事:
・デフレーションですべて産業に陰り。
  松方財政によるデフレーション政策は、繭の価格や米
 の価格などの農産物価格の下落を招き、農村の窮乏を招
 いた。
  このデフレーション政策に耐えうる体力を持たない窮
 乏した農民は、農地を売却し、都市に流入し、資本家の
 下の労働者となったり、自作農から小作農へと転落した
 りした。
  一方で、農地の売却が相次いだことで、広範な土地が
 地主や高利貸しへと集積されていった。
  一部の農民は、経済的困窮から、蜂起活動に走り、各
 地では自由党による激化事件に参加して反政府的な暴動
 を引き起こすようになった(当時、農村は自由党の支持
 基盤だった)。
  また、官営工場の払い下げにより政商が財閥へと成長
 して行った。
  しっかりした資本家層が生まれ、一層、労働者層との
 分離が進んだ。
  資本主義経済の醜い面が、より一層強く日本に形づく
 られて行った。
1882年、流行・世相:
・東京にコレラが大流行し、全国に伝染して行った。
・世相:東京で開店や売り出しに景品を付ける富籤(とみ
 くじ)に似た行為が流行 → 各警察署が取締
  また、この取締り強化で、興農競馬会社は、富くじ付
 き前売り入場券が、発売できなくなり収入は激減した。
・1882年11月1日、東京・銀座にアーク燈がともった。
  東京電灯会社による、日本最初の電気街灯建設の地=
 東京都中央区銀座2丁目に電気街灯がともった。
  アメリカ製の可搬型小型発電機を使って、直流110ボル
 トの電気がが供給され点灯された。
  それまで、1874年に、銀座~京橋間に85本のガス灯に
 よる街灯が点灯された。
  また、この年・1874年は、日本橋馬喰町に石油ランプ
 の街灯が灯されている。
1882年、データ・物価:
・新聞・雑誌の発行禁止・停止処分件数 132件。
・鉄道運賃
  (3等・新橋起点)品川まで6銭、大森まで10銭、
 横浜まで30銭、京都まで3円75銭、大阪まで3円97銭、
 神戸まで4円13銭、
1882年、本:
・ 「民約訳解(みんやくやくかい)」(著:ジャン・ジャック・
 ルソー/訳:中江兆民)
  兆民主宰の仏学塾出版局発行の雑誌《政理叢談》に、
 原著の第2編第6章までが訳載された。
  全訳は、1877年および1883年に、兆民以外の人によっ
 てなされた。
  兆民は日本語訳でなく、漢文訳だった。
  兆民は、漢文の簡潔で豊富な表現力に傾倒し、その素
 養を深めることこそ文に長ずる道とみて、
  その文人・兆民の漢文修業の労苦の結晶であった。
  兆民の「解」が付してあり、兆民は「東洋のルソー」
 と言われた。
  この『民約訳解』は、民権派人士に歓迎され自由民権
 運動に大きな影響を与え、理論的支柱となった。
  しかし、後に、批判が加えられるようになり、時代遅
 れの理論とされるようになった。
  しかし、兆民の普遍的価値に接近していこうとする態
 度などから「東洋のルソー」と言われる機縁となった。
  兆民の「ルソーの本著の精読」から・・、
  『民権至理也自由平等是れ大義也』という確信は、
  『民権自由は欧米の専有に非ず』とする認識へ結び付
 いて行った。
  『古来、日本にもあった』と言いたかったのだろう・・
・ 「良政府談(りょうせいふだん)」(原題・ユートピア/著:
 トマス=モア/訳:井上勤)
  因みに、この頃までのユートピア文学で表現されてき
 た「理想郷」に共通する特徴は・・、
  (1)周囲の大陸と隔絶した孤島。
  (2)科学と土木によって、その自然は、無害かつ幾何
   学的に改造され、幾何学的に建設された城塞都市が
   中心となっている。
  (3)生活は、理性により厳格に律せられ、質素で規則
   的で、一糸乱れぬ画一的な社会。
    ふしだらで豪奢な要素は徹底的にそぎ落とされて
   いる。
    住民の一日のスケジュールは、労働・食事・睡眠
   の時刻などが厳密に決められている。
    長時間労働はせず、余った時間を科学や芸術のた
   めに使う。
  (4)人間は機能・職能で分類される。
    個々人の立場は、男女も含め、完全に平等だが、
   同時に個性はない。
    なお、一般市民の下に奴隷や囚人を想定し、困難
   で危険な仕事をさせている場合がある。
  (5)物理的にも社会的にも衛生的な場所である。
    黴菌などは駆除され、社会のあらゆるところに監
   視の目がいきわたり犯罪の起こる余地はない。
  (6)変更すべきところがもはやない理想社会が完成し
   たので、歴史は止まってしまっている(ユートピア
   は、ユークロニア(時間のない国)でもある)。
・ 「露国虚無党事情」(訳:西川通徹)
  虚無党(きょむとう):1、帝政ロシア時代、チェル
 ヌイシェフスキーを指導者とする革命的民主主義者の党
 派の称。
  2、ロシア皇帝暗殺などの非常手段に訴えた1870~80
 年代の革命家たちを、非難してよんだ語。
  (参考)虚無(きょむ):
  1、何物もなく、むなしいこと。空虚。
  2、この世に存在するすべてのものに価値や意味を認
 めないこと。
・ 「人権新説(じんけんしんせつ)」(著:加藤弘之)
  優勝劣敗の社会進化論を肯定し、
  天賦人権(てんぷじんけん、天がすべての人に対して
 平等に、分かち与えた権利)の存在を否定。
・イタリアの作家コローディ『ピノキオ』を発表。
1882年、衣:
・銀座に丸善・森村・大倉組などの洋服店ができた。
  洋服は、1871年(明治4年)頃より普及が始まった。
  丁稚奉公人として入店し、10年の年季奉公を済ませ、
 その後に、洋服職人として2年か3年のお礼奉公をし、
 独立開業して巣立った。
・二重マワシを着るものあり、横浜で金巾の輸入が、最も
 盛ん。
  「二重回し(にじゅうまわし)」は、この頃に生まれ
 たケープコート(ポンチョ風コート)、主に、紳士向け
 の外套だった。
  また、金巾(かなきん・かねきん)は、綿布の一種で、
 固くよった糸で目を細かく織った薄地の広幅綿布。
  白足袋(しろたび)、割烹着(かっぽうぎ)、和服の
 裏地に使われた。
・浅草で学生カバン製造され、漸次普及する。
  折鞄とも言われ、材料はズック製で、後に皮革等でも
 作られ、寸法は45cm~78cm位。
  革の工人、革具師、馬具師、文庫職人等々に依る発想
 で、1869年(明治2年)頃から1877年(明治10年)頃にかけ
 て通称、胴乱が鞄になり、
  「鞄」漢字の常用は1881年(明治14年)頃。
  (参考)胴乱(どうらん):皮または布製の四角の袋
    で、印章や薬などを入れて腰に下げるもの。
     もと、鉄砲の弾丸を入れるのに用いた。
1882年、食:
・神戸港で米の輸入が始まった。
  日本の米の輸入量と、輸出量は・・、
  1868年(明治1年)輸入:436千円、輸出:不明、
  1869年        4432千円    不明、
  1870年        14598千円    不明、
  1871年        1260千円    不明、
  1872年          0千円    不明、
  1873年         30千円    553千円、
  1874年         24千円    316千円、
  1875年         22千円     16千円、
  1876年          1千円    810千円、
  1877年(明治10年)    0千円    2269千円、
  1878年          0千円    4644千円、
  1879年         248千円    417千円、
  1880年         435千円    211千円、
  1881年         135千円    262千円、
  1882年         20千円    1652千円、
  明治維新にもとづく内乱と凶作の為、1869年と1870年
 に国内不安を鎮めるために輸入した。
  1870年の米の輸入額は、すべての輸入の43パーセント
 が米の輸入額という大量の輸入量となった。
  明治政府は、この時、米の輸出禁止令を出した。
  その結果、1872年以降は、米の輸入は、ほとんど皆無
 に近くなった。
  逆に、1873年7月15日の米輸出禁止令が解除になると、
 輸出される量が、急激に伸びた。
・搾乳場
  大阪に七つの搾乳場あり、牛乳過剰で、バター製造を
 始めた。
  1874年(明治7年)に、愛媛県の下井小太郎氏は、乳用
 牛を飼育し、搾乳し、粉乳製法を研究している。
  1863年(文久2年)に、横浜で牛乳の生産を開始した。
  これにより庶民でも牛乳を手に入れる事ができるよう
 になった。
  1876年(明治9年)、北海道根室に東梅牧場(柳田藤吉
 による国内初の大規模な近代牧場)が築かれて以降、北
 海道において欧米の酪農技術を取り込んだ近代的な酪農
 経営が行われるようになった。
・松本市で馬肉を食べ始めた。
  因みに、キリスト教の宣教師フランシスコ・ザビエル
 は、日本の僧の食習慣を真似て肉食をしなかった。
  また、1863年(文久3年)の遣欧使節団としてヨーロッ
 パへ派遣された一行は、肉食はもちろん、パンも牛乳も
 喉を通らなくなっていった・・とある。
・神谷伝兵衛コウザン蜂印ブドウ酒製造に成功する。
 伝兵衛は、浅草の神谷バーの経営者。
  この年に、ブドウ酒を発売した。
  そして、伝兵衛は、1882年~1886年頃、速成ブランデ
 ーを製造・販売した。
  この頃、大流行していたコレラに効くと大いに宣伝さ
 れた。
  この後、また当時、流行していた「電気」という語を
 冠して「電気ブランデイ」を売り出した。
  電気ブランは、浅草の神谷バーの名物として愛飲され
 た。
  甘く強い酒で、飲み過ぎると足を取られ、店ではカッ
 プ3杯以上は売らなかった。
  電氣ブランデー(デンキブラン)の説明に・・「ブラ
 ンデーベースのカクテルで、ジンや薬草などが使われて
 いて、アルコール度数は40度。 当時、洋風の洒落たもの
 には『電気』の名をつけた」とある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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(増補版)368E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年10月~1881年12月)

2016-06-18 02:36:03 | 日記
題:(増補版)368E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年10月~1881年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1881年10月21日、陸軍・大山巌と、海軍・川村純義を参議
 兼任に任命した。
  (参考)大山巌(おおやまいわお)1842年~1916年、
  薩摩(鹿児島)藩士の生まれ、西郷隆盛の従弟。
  陸軍軍人、元帥・陸軍大将、公爵、元老、
  1862年(20歳)に、大坂に出て倒幕運動に参加。
  薩英戦争でイギリス艦の大砲の威力を認識し、戦後、
 江戸の江川塾で砲術を学ぶ。
  1868年(26歳)の戊辰戦争では、薩摩藩兵の砲隊長。
  維新後の1869年(27歳)に、欧州に派遣され、砲術を
 研究する。
  そして、普仏戦争で勝利したプロシア軍に従ってパリ
 入城をする。
  1871年(29歳)再び渡欧、
  パリ・スイスに住んでフランス語・砲術を学ぶ。
  1877年(35歳)の西南戦争では、旅団司令官として西
 郷軍とたたかう。
  1880年(38歳)、陸軍卿となって、以後は陸軍内部の
 薩摩閥の首領の地位を占め、長州の山県有朋とともに陸
 軍を2分した。
  陸相・参謀総長を務め、日本陸軍の創設にあたった。
  1884年(42歳)には、陸軍の俊秀をひきいて渡欧し、
 各国の兵制を視察し、帰国後、陸軍大臣として軍制改革
 を行った。
  1894年(52歳)日清戦争では第二軍司令官、
  1904年(62歳)日露戦争では満州軍総司令官をつとめ
 た。陸軍大将、元帥、
  因みに、イギリス軍楽隊長のJ・W・フェントンが国歌
 の必要を説いたとき、
  大山巌が、薩摩琵琶歌の「蓬莱山」から「君が代」を
 歌詞として選定したという。
  (参考)川村純義(かわむらすみよし)1836~1904、
  薩摩(鹿児島)藩士の家に生れる。
  軍人、参議兼海軍卿、海軍大将、伯爵、枢密顧問官、
 日本海軍の創設者の一人。
  戊辰(ぼしん)戦争で活躍。
  1877年(41歳)西南の役征討に軍艦を行動させて参軍
 し、活躍。
  1878年(42歳)参議兼海軍卿。勝海舟の後任の海軍卿
 となる。
  薩摩勢力を海軍部内にのばした。以後、海軍充実に尽
 力した。
  上記の大山巌の普仏戦争の観戦について・・、
  1870年8月15日、大山巌(28歳)らは、普仏戦争観戦を
 命ぜられ、8月28日、横浜から米飛脚船クレド・ハフリッ
 ク号で出発した。
  太平洋を横断し、サンフランシスコからニューヨーク
 経由で大西洋を渡り、
  10月23日に、ロンドン到着、
  閏10月23日に、ベルリン着、
  11月11日(西暦1871年1月1日)以後、普仏戦争を観戦
 した。
  フランス政府が、プロシヤに降伏後、大山はパリに入
 り、3月19日に、マルセーユから日本への帰途についた。
  5月5日(明治4年3月16日)横浜に帰着した。
  すでに、1870年12月の勅使・岩倉具視らが鹿児島を訪
 問したとき、
  藩主の依頼により鹿児島県大参事の職にあった西郷隆
 盛は、岩倉に提出した改革意見二十五箇条の中で、
  明治新政府の軍事力を世襲の士族軍隊を中核とするこ
 とを主張していた。
  翌年・1871年2月13日に、政府は、薩長土3藩の兵を徴
 して御親兵の編成を命令した。
  そして、4月25日に、大山巌は、その御親兵を統括する
 兵部省の役職兵部権大丞に任命された。
1881年10月28日、日本語速記術の発明
  田鎖綱紀(たくさりこうき)が、日本語の速記術を発
 明し、講習会を開いた。
  大学南校(政府所轄の洋学校)で鉱山学を学ぶかたわ
 ら、グラハム式の英語速記法をもとに日本語速記法を発
 明した。
1881年10月29日、自由党の結党式
  東京にて、板垣退助を総裁とする急進主義の自由党が
 結成された。
  我が国最初の組織政党として全国の農村に根を張るこ
 とになる。
1881年11月11日、最初の私鉄・日本鉄道会社が設立された。
  日本最初の民間資本による鉄道会社である日本鉄道が
 設立された。
  代表は岩倉具視。 上野~熊谷間開通(1883年)
  運行期間:1883年~1906年
  今のJR東日本の路線の多くを建設し、運営した。
  横浜の実業家の高島嘉右衛門(たかしまかえもん)が、
 1872年5月、東京から青森に至り、北海道開拓を支える鉄
 道の建設を政府に建言し、却下されるも、高島は、政府
 要人の岩倉具視を説き、
  鍋島直大、蜂須賀茂韶をして、明治天皇陛下および当
 時の政府に、
  『華族と士族が家財をもって会社を建て、東京と青森、
 あるいは、東京と越後新潟に鉄路を敷き蒸気機関車を走
 らせることを補す』ことを建言させた。
  こうした経緯を経た1881年8月1日、岩倉具視をはじめ
 とする華族などが参加して私立鉄道会社「日本鉄道」の
 創立が決定し、
  同年・1881年11月11日、設立特許条約書が下付され、
 初代社長に吉井友実を選出し、会社が設立された。
1881年11月、 日本初の官製唱歌集『小学唱歌集』が刊行さ
 れた。
  君が代・蝶々・蛍(蛍の光)などを収めた『小学唱歌
 集(しょうがくしょうかしゅう)』初編を刊行した。
  文部省音楽取調掛が編集した日本最初の音楽教科書。
  明治14年に初編、~明治17年(1881年~1884年)刊。
  初編に「蝶々」「蛍の光」、
  第二偏に「霞か雲か」、
  第三編に「仰げば尊し」「庭の千草」などを収録。
1881年12月7日、紅綬・緑綬・藍綬の褒章が定められた。
  太政官布告第63号の褒章条例(1881年)で定められ、
  初めは、紅綬褒章、緑綬褒章、藍綬褒章の3種で、
  紅綬褒章:自分の危険を顧みず人命救助をした人に、
  緑綬褒章:孝子(孝行な子)・節婦(節操堅固な婦人)・
 徳行卓絶なる人や、実業に精励して一般人の模範たるべ
 き人に、
  藍綬褒章:教育、衛生事業、学校・病院建設、道路・橋
 梁などの修築、田野の開墾、森林の栽培、水産の繁殖、
 実業の発達などに貢献した人に与えることとした。
  1918年に、公益のために私財を寄付した人に授与する
 紺綬褒章が加わり、
  1955年、政令により、条例の一部が改正され、業務に
 精励し衆民の模範である人を緑綬褒章から切り離して黄
 綬褒章の対象に、
  また、従来は藍綬褒章に含まれていた学術・芸術・発
 明などの顕著な功績に対し新たに紫綬褒章の各褒章がで
 き、6種となった。
  勲章が、国家に功績ある者に与えられるのに対して、
 社会や公共のため尽くした人々に与えられる栄典だった。
1881年、アメリカの野心を訴えるハワイ王国の国王
  原因に・・そこには・・巧妙に「ハワイ」を手に入れ
 ようとするアメリカ合衆国があった。
  ハワイには「ちゃんとした政府があって」「チャント
 統合する国があって」「チャント統合する王が居て」「
 ちゃんとその王国・政府に従う人々が幸せに生活してい
 る」というのに・・、
  そこが弱者の国だと思うと・・自分のものにしたくな
 ったアメリカ合衆国だった。
  当然、そこに、何らの正義は無かった・・まったく、
 無かった。
  この年に、ハワイ王国のカラカウア王一行が来日した。
  予定の行事をこなしながらの或る日、王は、付き纏(
 つくろ)うアメリカ随行員の目をくらまして赤坂離宮を
 訪ね、明治天皇陛下(当時29歳)との極秘会談に及んだ。
  カラカウア王のこの行動は、外国の『国家元首』の最
 初の明治天皇陛下への訪問となった。
  王は、その場で、次のように訴えた。
  意訳概要:
  「我が国は、主権を持つ独立国家である。
  その我が国に対し、アメリカ合衆国が太平洋上の拠点
 にしようという野心を抱いている。
  今や列強諸国は利己主義に走り、相手国の立場を尊重
 する気持ちが微塵も無い。
  アジア諸国は列強の支配を受けながら、互いに孤立を
 深めている。
  この状況を抜け出すには、各国が一致団結して欧米列
 強諸国に対峙することが急務です。
  日本の進歩には実に驚くべきものであり、
  アジア連合を起こすとすれば、その盟主には日本以外
 には無い。
  また、天皇陛下こそが相応しい。
  日本は、今、列強諸国に治外法権(不平等条約の改正)
 を認めさせようとして苦労していると伺います。
  日本なら連合実現が、より容易にできるはずです。
  どうか協力してアジア諸国連合を結び、その盟主とな
 っていただきたい。
  そうなれば私は、陛下を支え、大いに力をお貸しさせ
 て戴きたいです。
  私は、その証として、姪であり皇位継承資格を持つカ
 イウラニ(Kaiulani)王女を差し出します。
  日本とハワイの絆の為、是非もらって戴きたい。
  私は、貴国の良い返事を待ち続けます」
  (「明治天皇紀」のカラカウア王の言葉)。
  そして、この後・・、
  「明治天皇陛下とカラカウア・ハワイ国王の極秘会談」
 は、直ちに外務卿・井上馨に伝えられた。
  井上馨は、伊藤博文を後継し、明治政府の重要な地位
 に居る人だった。
  ハワイ王国の国王による国王間直訴は・・その後・・、
  1882年(明治15年)3月22日になって、ハワイ国王・カ
 ラカウアによる日本との連合計画提案に対し、明治政府
 の回答がカラカウア王へ届けられた。
  「政府に、そこまでの余力はない」との内容だった。
  また、カイウラニ王女と日本の皇族の結婚に関しても
 最終的にはウヤムヤとなって行き・・幻となった。
  井上馨は・・、
  「カイウラニ王女の話はうまく運ぶだろう」という見
 解を示し、
  伏見宮邦家親王の第17王子の山階宮定麿親王(当時15
 歳、後に海軍兵学校卒業後、英国プレスト海軍兵学校留
 学、小松宮依仁親王となる))との「将来の御成婚」が、
 画策された。
  ・・が、しかし、懸念材料はアメリカだった。
  アメリカとの関係の悪化を懸念する意向が前面に出て、
 幻となって行った。
  かくて、「カラカウア王の望み(秘策)」は潰(つい)
 えてしまった。
  カイウラニ王女は・・その後・・、
  1889年に、カラカウア王の指示で、イギリスへ留学し
 た。
  そして、その留学中に、カラカウア王は死去されてし
 まった。
  カイウラニ王女は、叔母のリリウオカラニから王位継
 承権第1位に指名され、
  美貌の彼女は、ヨーロッパ社交界の教養を身につけ、
 英仏社交界の華になった・・が・・、
  アメリカの思惑(アメリカ帝国主義によるハワイの地
 の取得)がうごめくハワイの政変が続くハワイの事情か
 ら・・帰国が出来ず・・帰国が延び続けるという状況と
 なった。
  日本とハワイの連邦化を夢見ていたハワイ王国は・・
 消滅し・・そして、ハワイはアメリカ化し・・今、アメ
 リカ合衆国の州となっている。
1881年2月24日、イリ条約
  ロシアと中国(清国)との間で、1871年に起きた国境
 紛争事件(イリ事件)の条約が結ばれた。
  ロシアのイリ地方占拠を、清朝は左宗棠の働きで1875
 年から1877年にかけて排除した。
  しかし、1879年に、ロシアとのイリ返還を交渉した清
 朝の全権大使・満州貴族・嵩厚保がいったん領土を大幅
 に譲歩した条約を締結した。
  そのため、激怒した光緒帝が批准を拒み、改めて曽紀
 沢(曽国藩の子)が交渉に当たり、
  ようやく1881年に、イリ条約を成立させ、イリ地方は
 清に返還された。
  しかし、清朝もロシアに多額の賠償金を支払い、新疆
 全土を市場としてロシアに経済的に開放することを認め
 た。
1881年3月12日、ロシア皇帝アレクサンドル二世が暗殺され
 た(3月13日説あり)
  1867年、フランスを訪問中のアレクサンドル2世は、パ
 リで襲撃されたが、この時は難を逃れた。
  その後も、皇帝暗殺計画は再三にわたって企てられ、
  1880年2月には、アレクサンドル2世を狙った冬宮食堂
 爆破事件が起きて、多数の死傷者が出た。
  これをきっかけに、最高指揮委員会が設置され、下ヴ
 ォルガ臨時総督として暴動鎮圧に成果を収めたミハイル・
 ロリス=メリコフが委員長に任命された。
  政治を安定させ、内政の改革を進めることがテロや暴
 動の抑止になると考えたロリス=メリコフは、行政改革
 と財政改革を皇帝に進言し、
  これを受けて最高指揮委員会は解散され、ロリス=メ
 リコフが内務大臣となった。
  社会の不安を除くため、人々の怨嗟の的となっていた
 悪名高い秘密警察・皇帝官房第三部を廃止し、
  立憲制導入に向けてまず一種の「議会」導入を提案し、
 一般委員会や国家評議会にゼムストヴォの代表や大都市
 自治会の代表などを参加させようとした。
  1881年3月13日、アレクサンドル2世は、没落したシュ
 ラフタの家柄で「人民の意志」党員のポーランド人イグ
 ナツィ・フリニェヴィエツキの投じた爆弾(キバリチチ
 式手投げ爆弾)により、サンクトペテルブルク市内で暗
 殺された。
1881年5月、フランスが、チュニジアを保護国化した。
  1830年のフランスによるアルジェリア占領以後、
 フランスとイタリアによる植民地化の対象となった。
  ベクは、1867年立憲君主制憲法を制定し、トルコの力
 をかりて独立維持をはかった。
  1869年、チュニジアは財政破綻してイギリス・フラン
 ス・イタリアの管理下に置かれ、
  1873年~1877年の改革派官僚のハイルッディーンによ
 る改革が行われたが、宮廷内の保守派の反対で成果を上
 げることが出来なかった。
  普仏戦争でフランスが敗れるとイタリアがチュニジア
 に進出したのでフランスは危機感を強めた。
  1878年のベルリン会議では、イタリアとフランスが、
 チュニジアの鉄道敷設権を巡って対立したが、
  フランスは、チュニジアに於けるフランスの権利を認
 めさせ、
  最終的にイタリアが折れ、西欧列強によってチュニジ
 アにおけるフランスの優先権が確認された。
  フランスは、1881年に、軍隊を派遣し、首都チュニス
 を占領して、保護領とした。
1881年7月2日、アメリカ合衆国大統領の暗殺事件が起きた
  第20代大統領のガーフィルド大統領が暗殺された。
  ワシントンのボルティモア・ポトマック駅で大統領は
 銃撃され、9月19日に死亡した。
  暗殺犯のチャールズ・J・ギトーは、色々な職業に手を
 出して失敗していた。
  神学、法律実務、集金、オナイダ・コミュニティ(キ
 リストの再臨を信じる共同社会)だった。
  大統領は、就任から4か月の短期間だった。
1881年7月14日、ビリーザ・キッドが、満21歳で、射殺され、
 この日に死んだ。
  彼は、アメリカ西部開拓時代のアウトロー(犯罪など
 によって法の保護を受けられなくなった人)で、強盗な
 どを行なっていた(1859年~1881年)
  罪名:殺人と脱獄。
  職業:牧場手伝、ギャンブラー、牛泥棒、アウトロー。
  ニューヨークで生まれたらしい、西部のニューメキシ
 コ州で育った。
  偽名が多く、父親は良く分からない。
  12歳の時に、母親を侮辱した男を殺してアウトローに
 なったとされる。
  死ぬまでに21人を殺害したとするが、この人数の中に
 はインディアンの方々の人数は含まれてないとされる(
 有色人種への無視・軽視・蔑視)。
  アリゾナ、テキサス、メキシコ国境あたりをさすらっ
 たという。
  用心棒もした。この時、リンカーン郡戦争と呼ばれる
 騒動となった。この時、4人を射殺。
  1880年12月、友人でもあった保安官に、仲間と共に
 逮捕される。
  しかし、1881年4月18日に刑務所を脱走した。
  この事が、ニューヨーク・タイムズに報じられ有名に
 なる。
  1881年7月14日に、ニューメキシコ州フォートサムナー
 で、ギャレットに射殺された。
  鏡で銃を抜く敵を見て、振り返らずに撃ち殺したなど、
 嘘もあるだろうが・・彼の銃の腕前を示す話は多い。
  この様なアメリカ西部の様相の中で、西部は開拓され
 て行った。
  誠実に農地開拓をしている農夫の土地を、欲しがる牧
 場主が、プロの殺し屋を雇い、この正直な農夫を殺そう
 とする。
  その時、殺し屋は次の手を使う、
  町の酒場に農夫を呼び出し、この農夫に対して、あら
 んかぎりの嫌(いや)らしい事を言う。
  農夫は、愛する妻や子供も居るので我慢してその話を
 聞いているが、続けて、殺し屋は人格攻撃も含めて、い
 やらしい攻撃を続け、
  この続く人格攻撃などの中で、農夫は、やむを得ず腰
 のけん銃に手を掛ける。
  その途端、プロの殺し屋の銃が、いち早く火を噴く。
  可哀想に、この善良な農夫は殺される。
  キリスト教は、この様なこの行為を、この殺し屋の行
 為を悪くないとしている。
  だから、アメリカの西部では、この様に殺される人が
 多かった。
  キリスト教は、「(キリスト教の)神の義があれば、
 人を誅しても良い」と、神の義による殺人を是としてい
 る。
  この様な論理・教義で、隣国の富を奪いに行く。
  当然、戦争の頻発地となる。
  長い歴史、キリスト教の回りには多くの戦争の歴史が
 記録されている。
  キリスト教聖書に記されている「相手に警告を与えれ
 ば何をやっても良い」という教え・・、
  また、キリスト教の聖書記載の手順を踏めば、攻撃を
 加えて良いという教え・・
  「相手の町を包囲して、ぐるぐる回れば、何をやって
 も良い」とかと・・この様な記載が、色々多い。
  キリスト教には蛮行の実行につながる教義が多い。
  「目には目を」という教義は有名だが、「同罪報復を
 認める」教義である。
1881年9月、エジプトでアラービー=パシャの乱が起きた(~
 1882年)
  アフマド=ウラービー=パシャ・・エジプトの反イギ
 リス民族闘争の指導者は、
  1881年に、イギリス・フランスの支配に反発し、立憲
 政治実現を要求して革命を試みたが、イギリス軍によっ
 て鎮圧されてしまった。
  世界中で、武力によって、やりたいことをやっている
 イギリス、そして、ヨーロッパ列強のキリスト教国。
  パシャは尊称で、
  エジプト人の農民の子として生まれ
  軍人となり、
  ワターニューン(愛国者たちの意味、ワタン党ともい
 う)という秘密結社を組織して、
  ムハンマド=アリー朝を支え陸軍大臣にまで昇り、
  パシャの称号を認められ、ウラービー=パシャと言わ
 れた。
  19世紀中頃のエジプトが、イギリスとフランスの経済
 的支配を受けて、
  政治干渉も受けるという二国管理体制下におかれ、
  これに強く反発した(誰だって反発したくなるだろう
 よ)、
  エジプトの方々のエリート層や、高等教育を受けた
 方々は、ヨーロッパ人が、エジプト社会を牛耳ることに
 よって、
  自らの出世の道が閉ざされることも不安視した。
  また、農民は、課せられた重税に対して不平を募って
 いた。
  また、差別も存在した。
  エジプトは識字率も向上し、1870年代から188年代には、
 出版も盛んになり、新聞も発行されるようになった。
  人々は、社会の情勢・変化を知り、行動を起こした。
  1881年に、クーデターを起こして、エジプト王を退位
 させ、実権を握り、立憲政治の実現などの改革を進めよ
 うとした。
  しかし、イギリスが直ちにアレクサンドリアを砲撃、
 陸上からも攻撃し、革命を強烈な軍事力で抑えつけた。
  その結果、この出来事は〝反乱〟に終わった。
  ウラービー=パシャは捕らえられ、セイロンに流され
 た。
  彼が掲げた〝エジプト人のためのエジプト〟のスロー
 ガンは、
  その後のエジプト民族運動に受け継がれ、
  ウラービー運動といわれるようになった。
  → アラブ民族主義運動へ
..
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(増補版)367E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年9月~1881年10月)

2016-06-16 16:44:39 | 日記
題:(増補版)367E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年9月~1881年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1811年10月1日、國會期成同盟 第3回大会
  第三回大会は自由党結党の会だった。
  1881年(明治14年)10月に開かれる予定の第3回国会期成
 同盟大会での重要議題は、各地で作成された「憲法私案
 の審議」であった。
  また、10月1日~10月2日の幹部相談会では、常務委員
 の林包明(はやしほうめい、自由民権運動家、自由党幹
 事となる)を中心として、
  大日本国会期成有志公会と自由党(準備会)を糾合して、
 新党を結成する相談がなされた。
  そうした中、開拓使官有物払下げ事件が明るみとなり、
 政府側を追求した。
  その結果、明治十四年の政変(1881年8月31日)が起こ
 った。
  大隈重信は、政府から追放された。
  ・・と同時に、政府は批判をかわすために・・、
  1881年(明治14年)10月12日に、『国会開設の詔を発
 布』し、
  1890年(明治23年)に、国会を開設することを決めた。
  国会開設の目的は達せられた。
  この様ないきさつから、目的達成と判断した自由民権
 運動家達は、大会での憲法私案の審議を見送った。
  そして、「政党を樹立すべき」との意見が、大勢を占
 めた。
  しかしなお、地方出身者層と都市出身者層との間で意
 見の相違は発生していた。
  そのため、嚶鳴社(おうめいしゃ、自由民権系の政治
 結社)の沼間守一らは、新党結成から離脱した。
  1881年10月18日に、東京の井生村楼(いぶむらろう、
 浅草にあった演説会場として利用された会場)に全国各
 地から代表78人が集まって大会が開かれた。
  大会では、議長に後藤象二郎、副議長に馬場辰猪が選
 ばれた。
  そして、翌日の1881年10月19日には、自由党盟約・規
 約が作成され、
  1881年10月29日には、総理(党首)に板垣退助を、副
 総理に中島信行が選び、自由党を発足させた。
1881年10月2日、大日本自由政党結成會を組織した。
1881年10月9日、黒田清隆が、大隈重信の「国会開設早急
 論」に反対し、そして、三条実美へ趣意書を提出した。
  『開拓使官有物払下げ事件』:
  北海道開拓使長官の黒田清隆は、1881年に、開拓使の
 廃止方針が決定したため、この開拓使の事業を継承させ
 るために、官有の施設・設備を安値で払い下げる事にし
 た。
  黒田は、その払下げ予定事業が赤字であったため、非
 常な安値で払い下げ価格を設定した。
  払下げの対象は、船舶・農園・炭鉱・ビール・砂糖工
 場などで、
  例えば、「1400万円の国費を投じたもの」を「38万円
 (無利息30年賦)」という破格の低価格だった。
  その払い下げを受けたのが、関西貿易商会(黒田と同
 郷の薩摩出身者・五代友厚ら)だった。
  破格の値段の払下げ先が同郷の薩摩だったので、薩閥
 政治への不満が高まって行った。
  当然の様に、この方針に、政府部内の薩長出身参議は
 賛成した。
  しかし、政府内でも批判の声が起こり、特に、払下げ
 の規則を作った前大蔵卿の大隈重信が反対した。
  この経緯(いきさつ)を新聞がすっぱ抜いた。
  この秘密をリーク(意図的に秘密や情報などを漏らす
 こと)したのが「大隈だろう」と疑われた。
  さらに、大隈が登用した大蔵官僚の間にも、払下げ中
 止を求める意見が出された事から、
  払下げ中止を目的として「大隈が仕掛けた」という話
 が広まった。
  この様な中、黒田清隆は、天皇陛下の裁許を戴いて払
 下げを決定してしまった。
  しかし、批判の声は、ますます高まった。
  そして、大隈が、東京を離れた間に、伊藤博文らは、
 収拾策の方針を決定し、天皇陛下に裁許を仰ぎ、大隈の
 追放、国会開設の詔勅(藩閥政治への不満への対応)、
 払下げ中止などを発表した(明治十四年の政変)。
  その後、黒田も開拓使長官を辞め、内閣顧問の閑職と
 なった。
  薩長閥でない大隈が退かされた、薩長閥主導の時代と
 なった。
  薩長閥の黒田は、問題視され無かった。
  民意を尊重する政治・・、
  日本には、明治以前から、早々と、民意を受けて、民
 意によって政治を司るという考え方はあった。
  そして、明治になって草々の1868年の「五箇条の御誓
 文」・・第一条「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」
 と形となって・・議会開設の理念は示されていた。
  この様な流れから、大隈の「国会即時開設論」はその
 流れの中にあった。
  しかし、政府は漸近主義をとり、
  その中に、「イギリス型の議院内閣制か」、「ドイツ
 型の超然内閣の選択か」などの思考があった。
  大隈らはイギリス型案だった。
1881年10月11日、明治十四年の政変
  伊藤博文らが、大蔵卿参議・大隈重信を追放、罷免し
 た(10月12日説あり)
  自由民権運動の嵐が吹き荒れる世のなかで・・、
  また、その方向へ世の中が流れるなかで・・、
  憲法制定論議が高まり、政府内でも、君主大権を残す
 「ビスマルク憲法」か、「イギリス型の議院内閣制の憲
 法」とするか・・で争われていた。
  前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する
 大隈重信と、ブレーンの慶應義塾門下生らを、政府内か
 ら追放した。
  クーデター状態だった。
  明治10年代の政治は・・、
  大久保利通亡き後は・・、国会開設運動が興隆して行
 った。
  政府が、いつ立憲体制に移行するか・・という課題の
 ある・・問題が持ち上がっている時代だった。
  この様な時代の流れの中にあって・・、
  政府は、消極論者の右大臣・岩倉具視を擁しながら、
 漸進的な伊藤博文・井上馨(長州閥)と、
  やや急進的な大隈重信(参議・大蔵卿・肥前藩出身)
 を中心に運営されていた。
  この頃は、政治への介入工作などもあって、政情は不
 安定の中にあった。
  「薩長土肥」四藩の連合が変化し、「薩長」二藩至上
 主義的方向へ姿を変えて行った。
  そして、明治14年の政変は・・起きた。
1881年10月12日、国会開設の詔
  1890年(明治23年)に国会開設の詔勅。
  明治天皇陛下が、来る明治23年を期して、10年後(1890
 年)国会を開設する旨の詔書を下し給う。
  天皇陛下が、行幸から帰京された10月11日に、御前会
 議の裁許を得て、
  翌日・1881年10月12日のこの時、「国会開設の詔勅」
 などが公表された。
  また、大隈邸を、伊藤と西郷従道が訪れて、辞表の提
 出を促し、大隈は了承した。
  なお、この際に、
  「建国の本各源流を殊にす(とりわけ、格別)。彼れ
 を以て此れに移すべからず」という政府首脳間の合意が
 為された。
  そして、結果として、自由民権運動や大隈の唱えるフ
 ランス流やイギリス流を否定したものの、
  岩倉らの進めようとしたプロシア流についても、一旦
 は白紙撤回された。
  ドイツ憲法に傾いていくのは、岩倉が公家出身という
 立場も関係した。
  政変で下野した官僚:犬養毅、牛場卓蔵、大隈英麿、
 尾崎行雄、小野梓、河野敏鎌、島田三郎、津田純一、中
 野武営、中上川彦次郎、前島密、牟田口元学、森下岩楠、
 矢野文雄、
  (注)国会開設奏議、明治十四年十月十一日
  「国会開設ノ期限ヲ定ムル勅諭ノ事」 『岩倉公実記』
  日本憲政基礎史料:
  諸參議連署の立憲政體に關する建奏(明治十四年十月
 十一日):
  憲法を定める標準に至ては臣等竊に以為く建国の本各
 源流を殊にす。彼を以て此れに移すべからず。祖宗基を
 始め伝うるに神器を以てす。民と之を守る万世不易の道
 なり。陛下時期を照鑑し古今を変通し将に政権を分て之
 を衆庶に公にせんとす。蓋、実に祖宗の遺烈を掲げ懿訓
 を広むるに過ぎざるなり。今民間政談を為す者を視るに
 好で欧米詭激の説を主張し国体の何たるかを省みざる者、
 往々之れ有り。臣等、実に之を危む。竊に願くは憲法の
 成各国の長を採酌するも、而も我国体の美を失わず広く
 民議を興し公に衆思を集むるも而も我皇室の大権を墜さ
 ず乾綱を総攬し有極を建立し以て万世不抜の基を垂れん
 ことを。…
  以上陳ぶる所を総ぶるに、国会の開設の期を予定する
 は大政の向う所を公示する所以なり。憲法を定めるに国
 体を重んずるは篤く祖宗の遺業を守る所以なり。…
1881年10月18日、自由党、結成
  板垣退助らが、自由党(自由主義派)を結成した。
  初の政党(総理・板垣退助)。
  この日・10月18日に、東京・浅草の井生村楼で自由党
 結成会議が開催された。
  10月29日に、板垣退助を総理に選び、副総理・中島信
 行(のぶゆき)以下の本部役員を選出し、盟約3章と規則15
 章を決定して正式に発足した。
  日本最初の近代的な政党。
  1881年8月以後に起草した植木枝盛の「東洋大日本国国
 憲按」(私擬憲法)が作成されていた。
1881年10月21日、参事院(さんじいん)が設置された。
  この日、太政官布達89号によって、官制改革太政官に
 参事院が設置された。
  初代の長は、参議・伊藤博文。
  1872年7月の太政官達で設けられた正院法制局を受継い
 だもの、
  尚、1885年12月22日に、内閣法制局発足とともに廃止
 された。
1881年10月21日、松方デフレの開始
  松方の前々任者の大隈重信は、1873年10月25日に大蔵
 卿に就任し、1880年2月28日まで務めた。
  そして、この大隈の後は、大隈と「同じ肥前閥」の佐
 野常民が、この1880年2月28日に就任し、1881年10月21日
 まで務めた。
  そして、この日・1881年10月21日に、閥が変わって、
 「薩摩閥」の松方正義が、参議兼大蔵卿に就任し(~
 1885年12月22日)、方針は転換された。
  大蔵卿に就任した松方正義は、薩摩閥の地で発生した
 西南戦争による戦費調達で生じたインフレーションを解
 消しようと、デフレーション誘導の財政政策を行なった。
  世はデフレ不況へ向かって行く・・、
  この松方財政(まつかたざいせい)の緊縮財政によっ
 て政府は、紙幣の回収を進めた。
  紙幣価値の安定と、正貨の蓄積を図る「松方財政」を
 推し進めた。
  松方正義は、また、欧州各国の中央銀行をモデルに、
 「一国の金融の心臓」として日本銀行の設立を提案し、
  紙幣発行権を、日本銀行に集中させ、兌換券の発行を
 目指した。
  1877年の西南戦争の戦費の大半を、紙幣増発でまかな
 ったことなどから、政府紙幣の整理の問題が焦点となっ
 ていたからだった。
  松方は、大隈が進める外債による政府紙幣の整理に真
 っ向から反対していたのだった。
  それによって、1年半まえの1880年2月28日には、松方
 正義は、伊藤博文の配慮によって、内務卿に転出する形
 で大蔵省を去っていたのだった。
  松方は、1877年(明治10年)には渡欧して、経済を勉
 強していた。
  1878年(明治11年)3月~12月には、第三共和制下のパ
 リを中心とするフランスに滞在し、
  フランス蔵相レオン・セイ(「セイの法則」で名高い、
 フランスの経済学者のジャン=バティスト・セイの孫)
 から3つの助言を得ていた。
  (1)日本は、発券を独占する「中央銀行」を持つべき、
  (2)その際、フランス銀行やイングランド銀行は、そ
    の古い伝統故に、モデルとならない、
  (3)従って最新のベルギー国立銀行を例として、これ
    を精査すること・・を、勧められた。
  1881年(明治14年)7月に、帰国した松方は、「日本帝
 国中央銀行・説立案」を含む政策案である「財政議」を
 政府に提出した。
  そして、政変によって大隈が失脚すると、
  参議兼大蔵卿として復帰し、日本に中央銀行である日
 本銀行を、ベルギーの中央銀行制度を原型にして創設し
 た(1882年10月10日)。
  この後の1883年(明治16年)に、松方は、明治天皇陛
 下に奏上して、恩になったレオン・セイに、勲一等旭日
 大綬章が贈られるように図っている。
  そして、1885年の内閣制度発足と同時に、大蔵大臣に
 就任し、兌換銀行券条例に基づき兌換券(銀貨兌換)を
 発行した、
  さらに、1886年に兌換を開始し、近代的信用制度の確
 立をはかった。
  松方は、財政家として、政府紙幣の全廃と、兌換紙幣
 である日本銀行券の発行による紙幣整理と、
  煙草税や酒造税や醤油税などの増税による歳入増や、、
  政府予算の圧縮策などの財政政策や、
  官営模範工場の払い下げなどによって、財政収支を大
 幅に改善させ、インフレーションも押さえて行った。
  ただ、これらの政策は、深刻なデフレーションを招い
 たために、「松方デフレ」と呼ばれ、世論の反感を買う
 こととになった。
  物価が急落し、そして、景気が、急速に下降し
 インフレを終息させることには成功したが、農民の方々
 の多数が土地を失うなど、
  農民の方々への被害が、特に、甚だしく大きかった。
  地主制の成立の促進の現象となった。
  農民層の分解が進み、資本主義的体制の基礎を作った
 という別の一面が語られた。
  明治新政府は金が無かった。
  不換紙幣を乱発して世はインフレとなり・・、
  地租を確保しようとしたら、世は一揆が一斉に起き、
  外債を発行して、海外へ資金を求める大隈政府だった。
  松方正義大蔵卿は、支出を削減しながら、官営事業を
 払い下げたりして・・金を作った。
  富岡製糸は、31万円で整備したが、三井への払下げの
 売却は12万円だった。
  院内・阿仁鉱山は、古川へ売却し、
  兵庫造船は、川崎に売却し、
  長崎造船は、三菱に売却したが、
  いずれも破格の値段で、格安払下げをし、政府の儲け
 はなかった。
  ただ唯一、三井炭鉱は、三井が競り落としたが、整備
 費の6倍となり、政府に金が入った。
  この様な中で、間接税である消費税の大増税を行なっ
 た。
  煙草も課税の対象にしたが、その他、醤油税、菓子税、
 酒造税などを行ない。
  酒税は、1875年に250万円の収入となり、1884年には
 1400万円と5~6倍となった。
  因みに、松方正義は、オックスフォード大学の名誉博
 士である。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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(増補版)366E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年3月~1881年9月)

2016-06-15 03:21:18 | 日記
題:(増補版)366E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年3月~1881年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1881年4月5日、大日本農会が、東京に創立された。
  公益社団法人大日本農会(だいにほんのうかい)は、
 元農林水産省生産局所管の公益社団法人。
  主な目的は、農業の発展・農村振興など
1881年4月7日、農商務省が設置された。
  農林、商工行政を司る中央官庁の農商務省を置き、農
 林・水産・商業・工業・鉱業などの産業行政一切を担当
 した。
  明治政府は、日本の産業の資本主義的発展を達成する
 ために、殖産興業政策を、その課題として掲げた。
  そして、農・商・工の各分野で、行政指導を懇切丁寧
 に進めて行った。
  欧米の機械制工場制度の移植や、鉄道・電信の導入な
 どを促進した。所管する役所は工部省(1870設立)、
  そして、農政を所管した内務省(1873創設)、
  さらに、大蔵省が、当時の産業振興の重要な部門であ
 った。
  工部省中心の移植産業政策と、内務省中心の在来農業
 の資本主義化政策は、1870年代になると、めまぐるしく
 機構の改廃が行われた。
  また、その統合を重ねるという過程で、相互に補完し
 あいながら、資本主義育成策の重要な部分をなして来た。
  ただ、これまでの産業行政や殖産興業政策は、内務省・
 工部省・大蔵省などに分散していたことが、官業政策の
 限界と、殖産興業経費の過重が明らかとなって来た。
  そのために、政策の転換と、産業行政の一元化を図る
 ため、1880年に、工場払下概則を発令し、この年・1881
 年に、農商務省を設け、統合した。
  外務卿・河野敏鎌(こうのとがま)を農商務卿に任命
 した。
  因みに、この農商務省は、1925年に、農林省と商工省
 に分け、分離して、発展解消された。
  現在の農林水産省と通商産業省の前身。
1881年4月8日、三省堂書店(さんせいどうしょてん)が創
 業した。
  この日、亀井忠一・万喜子の母子が古書店として創業
 した。
  日本初の「日本百科大辞典」などを刊行した。
  三省堂書店は、書店ゼロの留萌に進出した。
  これは、「子供に必要」と地元の訴えに応えたもので、
 日本経済新聞が、2011年7月22日に報じた。
1881年4月25日、陸前・福島の大火(約1780戸焼失)
1881年4月26日、初めて、天皇陛下の主催で、吹上御苑で観
 桜御会が開かれた。
  皇族、大臣、参議、各国公使、来日中のシャム王族な
 どが招かれた。
  これは、不公正条約の条約改正を促進させる意図のも
 とに開かれた。
1881年4月、東京に、12か所の憲兵屯所が新設された。
  1881年3月には、フランスの憲兵制度を模範にして、憲
 兵条例が制定され、
  その第一条に、憲兵の役割を「陸軍大臣ノ管掌ニ属シ
 主トシテ軍事警察ヲ掌(つかさど)リ兼テ行政警察司法警
 察ヲ掌ル」と規定した。
1881年4月、自由・民権などを凧に託して凧揚げ大会が開か
 れた。
1881年5月4日、小学校教訓則領(しょうがっこうきょうそ
 くこうりょう)が定められ、初等・中等・高等に区分し
 た。
  初等科3年、中等科3年、高等科2年の計8年。
1881年5月8日、鶴見~横浜間が複線化した(5月7日説あり)
  鶴見~横浜間の鉄道の複線化工事が完成して、新橋~
 横浜間が複線運転になった。
  単線が複線化して、ますます鉄道ダイヤが密となり、
 使いやすくなり、だから人々も利用するという好循環で
 日本の鉄道は、急速に敷設距離数が伸びて行く。
  そして、今、鉄道技術は、日本の得意の技術・お家芸
 となっている。
1881年5月31日、勤王家・蒲生君平(がもうくんぺい、学者)
 に正四位を追贈。
1881年5月、五代友厚(ごだいともあつ、実業家)が、関西
 貿易会社を設立した(1835年~1885年)
  薩摩藩出身、長崎の海軍伝習所で航海や砲術を学び、
 勝海舟・榎本武揚・寺島宗則・佐野常民・高杉晋作らと
 交遊し、また、トーマス・グラヴァーとも親交を重ね、
 開明的知識を得た。
  1859年(24歳)の時、水夫として上海に行きドイツ汽
 船を購入した。
  1863年(28歳)の時、薩英戦争が起こると、寺島宗則
 と共に、イギリス艦隊と交渉し、戦い、捕虜となり、横
 浜に拉致された。
  釈放後、武州、長崎などで亡命生活を送ったが、帰藩
 を許され、
  1865年(30歳)の時に、薩摩藩留学生の引率者として
 ヨーロッパ(イギリス・ベルギー・フランス)を視察し、
 紡績機械や武器を購入、また、貿易商社設立契約や、万
 国博への出品委託を行なった。
  渡欧中、薩摩藩主へ富国強兵に関する18カ条の建言書
 を送った。
  1866年(31歳)に帰国して後、御用人席外国掛に任ぜ
 られ、外国貿易や鹿児島紡績所の建設・長崎小菅修船場
 の建設・薩長合弁商社設立の計画を行うなど、薩摩藩の
 殖産興業政策を推進した。
  そして、藩の開明派の指導者となり、藩の貿易発展に
 活躍した。
  明治維新後に、外国事務掛、外国官権判事、大阪府判
 事を歴任、大阪を中心として外交・貿易事務、造幣寮の
 建設にかかわるとともに、通商・為替会社設立などを契
 機に大阪経済界とも接触した。
  そして、1869年(34歳)の時、その官僚や外交官を経
 て、実業界・実業家(政商)へ転じた。
  大阪株取引所(現:大阪取引所)や大阪商工会議所(
 1878年)の創設などに力を注ぎ、
  また、製鋼・貿易・銀行・鉄道会社の設立し、事業を
 おこすことにも尽力した。
  その主なものは、金銀分析所、弘成館(鉱山経営)、朝
 陽館(製藍事業)、大阪活版所、大阪製銅会社、阪堺鉄道、
 大阪商船、神戸桟橋会社、堂島米会所、大阪株式取引所、
 大阪商法会議所(現在の商工会議所)、大阪商業講習所(大
 阪市立大学の前身)など。
1881年6月18日、小学校教員心得を制定(6月17日説あり)
  「小学校教員ノ良否ハ普通教育ノ弛張ニ関シ普通教育
 ノ弛張ハ国家ノ降盛ニ係ル其任タル重且大ナリト謂フヘ
 シ今夫小学教員其人ヲ得テ普通教育ノ目的ヲ達シ人々ヲ
 シテ身ヲ修メ業ニ就カシムルニアラスンハ何ニ由テカ尊
 王愛国ノ志気ヲ振起シ風俗ヲシテ淳美ナラシメ民生ヲシ
 テ富厚ナラシメ以テ国家ノ安寧福祉ヲ増進スルヲ得ンヤ
 小学教員タル者宜ク深ク此意ヲ体スヘキナリ因テ其恪守
 実践スヘキ要款ヲ左ニ掲示ス苟モ小学教員ノ職ニ在ル者
 夙夜黽勉服膺シテ忽忘スルコト勿レ」
  尚、約1ヶ月前の1881年5月4日には、「小學校教則綱
 領(しょうがっこうきょうそくこうりょう)」(明治14
 年文部省達第12号)が出されている。
  第一条:小学科ヲ分テ初等中等高等ノ三等トス
  第二条:小学初等科ハ修身、読書、習字、算術ノ初歩
     及唱歌、体操トス
      但唱歌ハ教授法等ノ整フヲ待テ之ヲ設クヘシ
  第三条:小学中等科ハ小学初等科ノ修身、読書、習字、
     算術ノ初歩及唱歌、体操ノ続ニ地理、歴史、図
     画、博物、物理ノ初歩ヲ加ヘ殊ニ女子ノ為ニハ
     裁縫等ヲ設クルモノトス
  第四条:小学高等科ハ小学中等科ノ修身、読書、習字、
     算術、地理、図画、博物ノ初歩及唱歌、体操、
     裁縫等ノ続ニ化学、生理、幾何、経済ノ初歩ヲ
     加ヘ殊ニ女子ノ為ニハ経済等ニ換ヘ家事経済ノ
     大意ヲ加フルモノトス
1881年6月、「海員掖済会」が東京府南品川の心海寺の一部
 を借り受け「海員寄宿所」を開設した。
  実質的な事業の開始となる。
  海員の寄宿と、乗船の斡旋事業を開始した。
  また、高等海員養成所を併設し、高等海員の養成に着
 手する。
  後に、横浜、大阪、神戸、長崎と相次いで海員寄宿所
 を設け、主要な港に配置し終える。
  1886年(明治19年)3月、有栖川宮威仁親王を本会総裁
 に迎え、会名を「日本海員掖済会」と改称した。
1881年7月2日、パストゥール予防注射に成功。
  フランスの化学者で細菌学者のパスツールは、1880年、
 狂犬病の研究を開始し、
  1881年に、弱毒性変異炭疽菌株によるヒツジの免疫実
 験の成功を発表した。
  続いて、プュイ・ル・フォルにおいて炭疽免疫公開実
 験を行って、完全に成功し、
  同年・1881年、ニワトリコレラと炭疽のすべての成績
 をロンドンの国際医学会で発表した。
1881年7月6日、天皇陛下へ、岩倉具視が、憲法制定意見を
 上奏した。
  岩倉具視の憲法構想とは・・、
  憲法について岩倉具視が、上奏した意見書を、箇条書
 きで記したもので、起草者は、井上毅と言われている。
  (1)欽定憲法(きんていけんぽう、君主によって制定
 された憲法。大日本帝国憲法など)たること、
  (2)漸進主義をとること、
  (3)プロシアをモデルとすること、
  (4)内閣組織は議院と距離を保つこと、
  (5)二院制の採用、
  (6)選挙のあり方(制限選挙)など、
  その内容の大半が、明治憲法に採り入れらた。
  そして、この時・1881年、これを基にした「大綱領」
 が天皇陛下に上奏された。
1881年7月9日、明治生命が開業した。
  福澤諭吉門下の阿部泰蔵らにより、東京・木挽町に、
 有限明治生命保険会社が創業した(日本最初の生命保険
 会社)。
  設立は7月8日。三菱財閥系。
1881年7月、北海道・札幌農学校の演武場(現=札幌市時計
 台)が、玄関正面部と鐘楼を取り壊し、骨組みを強化し
 て日本初の時計台を設置した。
  「3面の文字盤を持ち、鐘の鳴る装置を備えた機械」を
 米・ハワード時計会社に注文したが、到着した機械が、
 予想以上に大きかったため、
  玄関正面部と、鐘楼を取り壊し、骨組みを強化して設
 置した。改修費は1329円。
  8月12日に、初めて4km四方に鐘を響かせて時を告げた。  
  この演武場は、1878年に建築されていた。
  尚、これは、開拓長官の黒田清隆の発案による。
1881年7月21日、黒田清隆が、北海道開拓使官有物の払下げ
 計画を太政大臣に申請した。
1881年7月29日、「中學校教則大綱」(文部省達第二十八号)
 が公布された。
  第一条:中学校ハ高等ノ普通学科ヲ授クル所ニシテ中
    人以上ノ業務ニ就クカ為メ又ハ高等ノ学校ニ入ル
    カ為メニ必須ノ学科ヲ授クルモノトス
  第二条:中学科ヲ分テ初等高等ノ二等トス
  第三条:初等中学科ハ修身、和漢文、英語、算術、代
    数、幾何、地理、歴史、生物、動物、植物、物理、
    化学、経済、記簿、習字、図画及唱歌、体操トス
    第四条 高等中学科ハ初等中学科ノ修身、和漢文、
    英語、記簿、図画及唱歌、体操ノ続ニ三角法、金
    石、本邦法令ヲ加へ又更ニ物理、化学ヲ授クルモ
    ノトス
  第五条:中学校ニ於テハ土地ノ情況ニ因リ高等中学科
    ノ外若クハ高等中学科ヲ置カス普通文科、普通理
    科ヲ置キ又農業、工業、商業等ノ専修科ヲ置クコ
    トヲ得
  第六条:普通文科ハ高等中学科中ノ三角法、金石、物
    理、化学、図画等ノ其科ヲ除キ或ハ其程度ヲ減シ
    修身、和漢文、英語、本邦法令等某科ノ程度ヲ増
    シ又歴史、経済、論理、心理等ノ某科ヲ加フルモ
    ノトス
  第七条:普通理科ハ高等中等科中ノ和漢文、英語、本
    邦法令等ノ某科ヲ除キ又ハ其程度ヲ減シ金石、物
    理、化学、図画等某科ノ程度ヲ増シ又ハ代数、幾
    何、測量、地質、重学、天文等ノ某科ヲ加フルモ
    ノトス
  第八条:初等中学科卒業ノ者ハ高等中学科ハ勿論普通
    文科、普通理科其他師範学科、諸専門ノ学科等ヲ
    修ムルヲ得ヘシ
  第九条:高等中学科卒業ノ者ハ大学科、高等専門学科
    等ヲ修ムルヲ得ヘシ
     但大学科ヲ修メソトスル者ハ当分ノ内尚必須ノ
    外国語学ヲ修メソコトヲ要ス
1881年7月29日、北海道官有物を、関西貿易商会に払下げ決
 定した。
  しかし、世論の反対で10月12日に中止に至る。
  7月21日に、北海道開拓使官有諸施設払下げ問題が起こ
 り、
  民権派は、激しく政府を攻撃した。
  これに対して政府は、10月12日、10年後に国会を開設
 するという詔書を出すとともに、大隈参議を罷免した。
  民権派は、10月29日自由党を結成した。
1881年7月30日、明治天皇陛下が、東北、北海道巡幸御発輦
1881年8月1日、開拓使官有物払下げ事件が起こる。
  黒田清隆が、官有物を格安で払い下げた。
1881年8月2日、「学生」の称の始り
  東京大学本科生が学生と呼ばれるようになる。
1881年8月19日「師範学校教則大綱」(文部省達第二十九号)
 が公布された。
  第一条:師範学校ハ小学校教員タルニ必須ノ学科ヲ授
    クル所トス
  第二条 師範学科ヲ分テ初等中等高等ノ三等トス
  第三条 初等師範学科ハ修身、読書、習字、算術、地
    理、物理、教育学学校管理法、実地授業及唱歌、
    体操トス
     但唱歌ハ教授法等ノ整フヲ待テ之ヲ設クヘシ以
    下之ニ傚フ
  第四条 中等師範学科ハ修身、読書、習字、算術、地
    理、歴史、図画、生理、博物、物理、化学、幾何、
    記簿、教育学学校管理法、実地授業及唱歌、体操
    トス
  第五条 高等師範学科ハ修身、読書、習字、算術、地
    理、歴史、図画、生理、博物、物理、化学、幾可、
    代数、経済、記簿、本邦法令、心理、教育学学校
    管理法、実地授業及唱歌、体操トス
  第六条 師範学校ニ於テハ土地ノ情況ニ因リ某学科ノ
    程度ヲ斟酌シ農業、工業、商業等ヲ加フルヲ得殊
    ニ女子ノ為ニハ本邦法令、経済等ヲ除キ若クハ某
    学科ノ程度ヲ斟酌シテ裁縫、家事経済等ヲ加フヘ
    シ
  第七条 高等師範学科卒業ノ者ハ小学各等科ノ教員タ
    ルヲ得ヘク中等師範学科卒業ノ者ハ小学中等科及
    初等科ノ教員タルヲ得ヘク初等師範学科卒業ノ者
    ハ小学初等科ノ教員タルヲ得ヘキモノトス
  第八条 師範学科ヲ修メントスル生徒ハ品行端正、体
    質強健、年齢十七年以上ニシテ小学中等科卒業以
    上ノ学力アル者タルヘシ
     但年齢ハ土地ノ情況ニ因リ十五年以上トスルモ
    妨ケナシ又初等中等学科卒業ノ者ハ高等師範学科
    第四年級ニ入ルコトヲ得
  第九条 師範学校ノ修業年限ハ初等師範学科ヲ一箇年
    トシ中等師範学科ヲ二箇年半トシ高等師範学科ヲ
    四箇年トス
1881年8月20日、勅を奉じて編纂せる元田永孚(もとだなが
 ざね、漢学者)の修身教科書「幼学綱要(ようがくこう
 よう、幼童のための欽定教訓書)」刻本(こくほん、印
 刷した本)完成する。
1881年9月、横浜に、連合生糸荷預所(れんごうきいとにあ
 ずかりしょ)が設置された。
  生糸取引方法の改革を主張する「生糸売込問屋」らと、
  それを阻止しようとする「外国商館」との間で紛争が
 生じた。
  茂木惣兵衛、原善三郎、渋沢喜作らの横浜生糸売込問
 屋は、従来、外国商館が現物を引き込んで検査、計量を
 行っていた取引は、弊害が多いと批判した。
  そして、検査・計量を、連合生糸荷預所で行う見本品
 取引に改めた。
  また、同所を通じて輸出生糸流通を独占的に掌握しよ
 うとした。
  外国商館は、一致して取引を拒否しつつ、対抗した。
  9月下旬~11月中旬まで、約2ヵ月にわたり外国商館へ
 の生糸売込みは途絶した。
..
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