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キリスト教を創始したパウロは、「律法はいらない」と・・、他

2014-06-08 01:47:30 | 日記
 人を有罪にするキリスト教。魔女とか、悪魔とか、キリスト教は人々をもて遊ぶ。キリスト教は、世の中に居ないものを、さも居る様に言い、思い込ませ、マインド・コントロールする。心を陰湿に弄(もてあそ)ぶ。その様に心を害するキリスト教。キリスト教は人に罪があると、無罪である人間を、有罪にしてしまう。そのキリスト教の教義。人間を悪に考える教義で、人間の心を壊すキリスト教。そのキリスト教を信じるキリスト教徒の人たち。このキリスト教の教義の性悪説で認知症になる。これは科学的に証明されている。また、認知症がより悪くなることも証明されている。鬱(うつ)に悩む人も多い。すぐにキリスト教から離れなさい。
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 題:キリスト教を創始したパウロは、「律法はいらない」と・・、他
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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 キリスト教を創始したパウロは、「律法はいらない」と
棄てた。
 棄てたとは・・「棄てたとした」というのが正しい。
 実際、キリスト教には、「ああしなければいけない」「
こうしなければいけない」という取り決めが色々あり、実
質的には、厳然と律法が存在している。当然である。
 しかし、表面的な顔的には・・パウロの言う律法は無い
という宗教上の顔をしている。二重人格的な形と言える。
 キリスト教には、この様な1例の様に、心理的に惑わす
事項が実に多い。
 しかし、律法について、キリスト教徒のキリスト教学者
は、次のように言う。
 結論的に・・、
 このキリスト教学者は、律法を捨てたのは間違いと言っ
ている。つまり、パウロの律法を捨てた大原則は間違いと、
言っている。
 その論理・・、「律法」は、それ自身、神の要請にほか
ならない・・と。
 そこには、要請という神の支配がある・・と、言う。
 その神の支配の意志が、要請が、律法に、律法というと
ころに、現われている・・と、言う。
 律法否定は、その神の意志を拒絶している・・というこ
とになる・・と言う。
 キリスト教を作ったパウロは、この律法を『棄てろ』と
言ったが・・そして、今、キリスト教は、このパウロのキ
リスト教を実施しているとなっているが・・、
 この意味からも、今のキリスト教の方針は、論理的に・
・神の意志は無くなっている。
 この様に、キリスト教徒のキリスト教学者は、律法は神
の要請であり、『律法への服従』がそのまま人への定めで
あり、その定めで、人は創られ、立てられ、置かれている
・・と、言っている。
 そして、律法を棄てることは、神の言葉が、意志が・・、
「真」ではないと言っていることになり、その意味で、キ
リスト教は大矛盾を呈(てい)している。
 そして、この神の言葉の否定となる事は、人を創りし神
の言葉の否定となり、人間の創造の否定となり、つまると
ころは、人間の存在の否定にもなる・・と言う、その様な
今・現在のキリスト教の姿となっている。
 そしてそして、神の支配の否定にもなっている。神の希
望も成就しないということにもなっている。
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 そして、次の話、
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 題:立ち位置からからして・『罪作りな存在』なのだ。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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 イエスが、磔刑にあう時のこと・・、
 イエスは、弟子に言う・・、
 「あなたは、今夜、鶏が鳴く前に、三度、私のことを知
らないと言うだろう」・・と、(「マタイによる福音書」
26・34)、
 イエスが、弟子・ペトロに言った言葉である、これから
起こる事を言った予言である。
 イエスが居た、この頃には、予言者が、いっぱい居た。
 公(おおやけ)の身分を持つ予言者も居たが・・、
 イエスは、当然と言っていいのか? 私的な予言者だっ
た。
 公にはなれないだろう・・、体制側になれるような人で
はない・・、イエスの里のナザレでは、近隣の人が、昔の
イエスを知っている人は・・、「予言者とは、うまいこと
をやっているね」と、言ったというが・・、
 そして、この頃の預言者たちの大勢が、刑死させられた。
 そして、このイエスの言葉も・・、
 キリスト教徒が言う様に「予言」の言葉であることは間
違いないが、キリスト教聖職者は、イエスは預言者であっ
て、予言者ではないという。
 イエスは、これから起きることを予言する者などではな
く、神からの言葉を与えられる預言者なのだ・・と言うの
だ。
 このイエスの言葉を聞いたペトロは言う・・、
 「たとえ、一緒に死ななくてはならなくなっても、あな
たの事を知らないなどとは決して言いません」・・と、
 この後の話を知っている人は、この言葉を聞いて頭に来
るでしょう。本当に、ひどいことを言うペトロだと思う。
 イエスと一緒に死ぬことになっても、「イエスを知らな
い」なんて言いませんよ・・と嘘を言う、それも、イエス
の本人に、面と向かって・・言うとは・・??
 結果は、イエスの予想通り、『イエすなんて知らない』
と三度も言い、嘘をつくというペトロなのだ。
 ペトロは、『キリスト教会を託された』という男、キリ
スト教の重鎮だが、口の軽い輩だし、人徳なんてまったく
ないという男だ。
 イエスへ面と向かって嘘となる事を言ったのだが・・や
はり、イエスの言う通り、イエスへ言った口が乾かないう
ちに、「イエスなんて知りませんよ」と、嘘を言う。
 キリスト教には嘘がまったく多い。あちこちで、キリス
ト教で嘘にぶち当たる。
 このペトロもそう、最低な嘘つきだ、こんな人間に託さ
れたというキリスト教会(バチカン)も、その後の姿が知
れようというもの。
 バチカンの廊下を売春婦が品を作って歩き回ったという
話などなど・・。毒殺の横行などなど・・。
 そしてまた、キリスト教裁判所を作り、キリスト教聖職
者を裁判官にして、「裁くな」というキリスト教の教義が
あったって、「裁きに、裁いて」、魔女にされた女性の方
たちを、大勢、火あぶりの極刑にして殺し、その財産を奪
ったというキリスト教。
 キリスト教は、どこもかしこも、愚かな悪の行為に満ち
ている。キリスト教の聖書なんて、聖職者が率先して守っ
てない。馬鹿馬鹿しい話である。
 捕えられる前にイエスは祈った、その様な重要な時に・
・、
 キリスト教聖書には、まことしやかに、イエスの祈りの
言葉が記されているが、これは、嘘の記述だ・・嘘だ、作
り話だ・・と、すぐ分かる。
 イエスが祈っている時に、この緊迫した時に、イエスの
弟子たちは・・眠っていたのだ。
 誰が、イエスの祈りの言葉を聞いていたと言うのか?
 イエスが祈ったというその言葉を、弟子たちが伝えられ
る訳がない。眠っていた人に伝えられる訳がない。
 当然、聖書製作時には、イエスは生存していないし・・、
 眠っていたのだから、弟子も伝えることができる訳がな
いし・・、誰が伝えたというのか?
 何しろ、キリスト教の聖書のレベルが、こんなレベルな
のだ。キリスト教とはこんなレベルなのだ。
 内容も、文書としても、矛盾だらけ、成立していないの
だ。そして、ただの読み物というものと違い・・、
 その立ち位置からして・・『罪作りな存在』なのだ。
..
   (詳しくは、以下のブログへ)
URL:http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /

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