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(増補版)402E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年11月~1884年12月)

2016-08-17 16:51:41 | 日記
題:(増補版)402E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年11月~1884年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1884年11月16日、猿若座が、浅草西鳥越町に移り、新築開
 場式を挙行した。
  これは、後の、中村座で、
  1624年(寛永元年)に、猿若座(さるわかざ)という
 名前で作られたのが始まりの、江戸で最も権威のある芝
 居小屋だった。
1884年11月20日、産業教育が始まった。
  JR八高線の児玉駅から 南西に約300メートル。
  児玉公民館の前に 「産業教育 発祥之地」の碑が建つ。
  この地は もと埼玉県立児玉農工高等学校があった場所
 で、さらに、その起源をたどると、
  1884年(明治17)年に、「競進社養蚕伝習所」が開設さ
 れ、養蚕技術の教育が行われた場所であり、
  その歴史によって 産業教育発祥の地とされている。
  副碑には・・、
  明治17年(1884年)、 木村九蔵は この地に競進社養蚕
 伝習所を開設、養蚕技術の研究と普及に務めた。
  これが、本県(埼玉県)における産業教育の始まりと
 されている。
  さらに、この競進社養蚕伝習所は、明治32年(1899年)
 競進社養蚕学校として発足した。
  これは、本県最初の農学校の誕生であった。
  その後、競進社養蚕学校は、競進社実業学校、児玉農
 学校、学校法人児玉農業高等学校と校名を改め、
  昭和47年(1972年)、 県に移管され、埼玉県立児玉農工
 高等学校となり、
  昭和49年(1974年) 児玉町金屋へ移転した。
  同校の創立90周年を機会に、この地を、本県の蚕業教
 育発祥の地として、地域社会、地域住民の誇りをこめ、
 この記念碑を建立するものである・・とある。
1884年11月28日、朝鮮問題対策において乙案を採用した。
  壬午事変(じんごじへん、1882年)にかかわった朝鮮
 の開明派の金玉均は、アメリカ公使フートと、イギリス
 領事アストンと頻繁に接触した。
  情況や意向を伝えたが、フートもアストンも、朝鮮独
 立と改革への意志を評価しながらも、『時期尚早』との
 態度を示した。
  そして、アメリカもイギリスも、自国が直接支援に動
 かないと否定した。
  日本は、1884年11月2日に、朝鮮の竹添公使が、朝鮮王
 の高宗王に謁見し、村田銃16丁などを献納して、壬午軍
 乱の賠償金の残り40万円を日本が放棄することを伝えた。
  この頃、案が2つあった。
  甲案は、金玉均は「日本が支援してくれれば、開明派
 は、すぐ行動を起こす」と言っていた路線で、朝鮮国王
 の依頼から王宮を守衛する案だった。
  乙案は、清国と事を構える事を避け、経過を見て行く
 という案だった。
  そして、この日に、乙案が採用された。
  しかし、1884年12月4日に、甲申政変が発生する。
1184年11月29日、小学校の教科に、はじめて英語が登場し
 た。
  明治期を通じて、小学校から英語教育が排除されたの
 は、1879年(明治12年)の「教育令」から、1884年(明
 治17年)の「小学校教則網領」の間のみであった。
  因みに、明治期の小学校は、1886年(明治19年)より
 尋常科と高等科に分かれ、
  その尋常科、高等科ともに4年間であったが、義務教育
 は尋常科の4年間だけで・・、
  小学校に制度としての「英語科」が設けられたのは、
 高等科(10~14歳)の方で、それも随意科目(選択科目)
 としてだった。
  以上の様に・・、
  1872年(明治5年)学制頒布。
  「小学」の規定に「外国語学ノ一二」とあることから
 外国語は状況によっては教えてもよい科目となった。
  1879年(明治12年)「教育令」によって、小学校の教
 科目から外国語が除外された。
  1884年(明治17年)「小学校教則網領」で、土着の状
 況によって英語を加えることができる・・となった。
  1886年(明治19年)小学校令の改正により、小学校が
 尋常小学校(4年間)と、高等小学校(4年間)に分かれ、
 尋常小学校の4年間が義務教育期間とされ、
  英語は、高等小学校で教えられた。
  1907年(明治40年)尋常小学校が6年間、高等小学校が
 2年間となった。
  英語は、それまでより2年遅れてスタートすることにな
 った。
  1911年(明治44年)小学校の英語は、「商業」の授業
 に含められることとなった。
1884年11月29日、同業組合準則を制定した。
  当時の事業者団体の主目的は、職工争奪の防止などで
 あり、同業者の協調にあった。
  しかし、1892年に、紡績連合会が、生産制限を実施し
 た。
  これは、カルテル(市場支配などの目的の企業連合)
 活動だった。
  法的整備では・・、
  この年の1884年に、同業組合準則、
  1890年に、産業組合法の制定で、これにより、中小企
 業者の組織化が図られ、
  同年・1890年の商業会議所条例、
  1897年の重要輸出品同業組合法の制定によって、大企
 業者の組織化が図られ、
  その後、第一次世界大戦後の恐慌のもとで、生産制限
 の色彩が濃い重要産業統制法が、1931年に制定された。
1884年11月、築地訓盲院を訓盲亞院と拡大した。
  盲人の方だけでなく、聾唖者の教育も行なうという観
 点から聾唖者を受け入れることとなった。
  また、そのため、訓盲唖院と改称した。
1884年11月、フランス人ルルーが来日した。
  シャルル・エドゥアール・ガブリエル・ルルーは、フ
 ランス生まれの音楽家、作曲家、フランス陸軍大尉。
  軍楽の指導を通じて、日本への近代音楽の普及発展に
 貢献した。
  その作品『扶桑歌』『抜刀隊』の二つを編曲した『陸
 軍分列行進曲』は、現在も、陸上自衛隊、及び、日本警
 察の観閲式などで行進曲として使用されている。
  勲四等瑞宝章、勲五等旭日章、レジオン・ド=ヌール(
 シュバリエ)勲章を授賞されている。
  この年・1884年に、第3次フランス軍事顧問団の一員と
 して来日し、
  前任のギュスターブ・シャルル・ダグロンの後を受け
 て、草創期の日本陸軍軍楽隊の指導にあたった。
1884年12月1日、横浜正金銀行ロンドン支店が開業した。
1884年12月4日、甲申事変(こうしんじへん、甲申政変とも)
  この甲申の年に、朝鮮のソウルで、改革を目的として
 閔(びん)氏政権を打倒し、国王親政の下に、国政を改革
 しようとした政変が起きた。
  その改革を目ざした派を、「開化派」と言った。
  1882年の壬午(じんご)軍乱以後、朝鮮の対外的危機が
 切迫していた。
  その朝鮮の悪い状況を、支配層内部でも、実学の流れ
 をくむ洪英植(こうえいしょく/ホンヨンシク)、金玉均
 (きんぎょくきん/キムオクキュン)、朴泳孝(ぼくえいこ
 う/パクヨンヒョ)らを中心とする開化派は、
  日本の明治維新をモデルに、朝鮮も近代化を図りたい
 とした。
  留学生の派遣や、『漢城旬報』の発刊などに努めてい
 た。
  一方、朝鮮王の高宗(こうそう)とも連絡を密に取り、
 啓蒙(けいもう)にも努力した。
  しかし、当時、清(しん)国と結んだ守旧派が、政権を
 握っていて、この改革を阻んでいた。
  1884年には、中国の清とフランスが、ベトナムの領有
 を巡って戦った。
  その清仏(しんふつ)戦争で、清国が敗れたのを機会に、
 開化派は、日本の援助を得て、守旧派を排除したいとし
 て、打倒の行動をとった。
  12月4日に、郵政局の落成式典に守旧派の大官を招待し、
 隣家に放火し、逃れる閔泳翊(びんえいよく/ミンヨンイ
 ク)らを殺傷した。
  そして、王宮に居る高宗を保護・掌握した(国王は、
 日本へ協力を求めた)。
  この行動は、一時的には成功し、開化派は、新政府を
 樹立した。
  1884年12月6日には、14か条からなる新政綱を発表した。
  内容は、門閥の廃止、人材の登用、地租法の改革、特
 権商人の廃止、軍制の改革など、諸制度を近代的に改革
 し、
  冊封されていた中国(清国)に対しては、自主外交を
 実行するという綱領を発布した。
  これは、市民革命の志向を反映していた。
  しかし、6日、清国が軍を介入した。
  そのため、新政権は三日天下に終わった。
  洪英植らは殺され、金玉均、朴泳孝は、日本に亡命し
 た。
  日本公使館は焼かれ、日本の公使・竹添進一郎は、仁
 川(じんせん/インチョン)に逃れ、
  ふたたび、守旧派の政権が樹立された。
  北朝鮮では、反封建・反侵略を目ざすブルジョア革命
 と評価しているが、
  支配層内の政権争奪戦とも言われている。
  (氷川清話)朝鮮の変、日清の駐兵互いに撤す。
1884年12月4日、飯田事件(12月6日説あり)
  名古屋鎮台や監獄襲撃の計画が発覚した。
  愛知県と長野県の自由党員らが、名古屋鎮台襲撃計画
 を立てていることが発覚し、村松愛蔵らが逮捕された。
1884年12月6日、朝鮮王国の閔妃らに要請された清国軍が、
 漢城王宮を奪回した。
  (京城にて、清国・袁世凱の兵2,000と、王宮の内外で
 衝突した)
  日本軍は撤収し、日本公使館なども放火され、開明派
 の行動は失敗に終わった。
  朝鮮の各派は、清国に応援を求めたり、日本へ応援を
 求めたりしている状態だった。
1884年12月12日、司法省法学校正則科を、文部省に移管し、
 東京法学校と改称した。
  1884年(明治17年)7月、第二期生卒業。
  入学生104名中、卒業生は37名(法律学士33名、成業4
 名)だった。
  同年・1884年10月、第四期生75名が入学した。
  同年・1884年12月に、文部省に移管されて東京法学校
 となった。
1884年12月14日、阪堺鉄道会社が設立された。
  阪堺鉄道(はんかいてつどう)は、南海電気鉄道の前
 身となる鉄道事業者。
  現在の南海本線難波駅~堺駅間を開業した。
  日本鉄道と東京馬車鉄道に次ぎ、日本で3番目の民営鉄
 道事業者(私鉄)であるという。
  また、日本鉄道は、政府の関係が強い半官半民会社、
 東京馬車鉄道は名前の通り市街交通としての馬車鉄道を
 運営していた会社であったことから、
  この阪堺鉄道会社を、日本最初の私鉄としているもの
 もある。
1884年12月15日、横須賀に鎮守府の開設を布告した。
  横須賀鎮守府(日本海軍の鎮守府)
  東海鎮守府を横須賀に移転し「横須賀鎮守府」と改称
 した。
  横須賀鎮守府とは、神奈川県横須賀市にあった旧日本
 海軍の鎮守府。
  1884年に、東海鎮守府が、横浜から横須賀に移転され
 るとともに、横須賀鎮守府と改称された。
  また、鎮守府条例が制定された。
  1886年4月22日、「海軍条例」において、全国に5つの
 「海軍区」を定め、横須賀鎮守府は、第一海軍区を所管
 した。
  所管は・・、
  「陸中陸奥国界ヨリ紀伊国南牟婁東牟婁郡界ニ至ノ海
 岸海面及小笠原島ノ海岸海面」とされた。
  また「鎮守府官制」により、鎮守府の組織として、参
 謀部・軍医部・主計部・造船部・兵器部・建築部・軍法
 会議・監獄署などを置いた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:そのすべてが不法だった。
.
1946年5月3日~1948年11月12日、東京裁判が行われた。
  イギリス人記者H・S・ストークス氏は、自著に、以
 下の様に書く・・、
  私は、市ヶ谷の防衛省内にある、かつて東京裁判が行
 われた講堂を、何度も訪れた・・・
  東京裁判の法廷を訪ねた。
  そこで行われた裁判は、悪意(イーヴィル)なものだ
 った。
  犯罪行為だった。
  戦勝国が、一方的に敗戦国を裁くことは、許されない。
  戦勝国が、敗戦国を裁いて、
  一方の将兵のみを、戦争犯罪人として処刑するのは、
 復讐であり、犯罪である。
  東京裁判を覆(おお)った空気について、多くの関係
 者から聞いたことがある。
  法廷の空気は、とても邪悪(イーヴル evil)で、毒気
(ポイズン・イン・ジ・エアー)が漂っていた。
  残忍(ナスティーネス)さが渦巻き、検察側には悪意
 が感じられた。
  このため法廷には、恐ろしい(ホリファイイング)気
 配が充満していた。
  東京裁判は数年に及んだ。
  そのすべてが不法だった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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