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嘘を言っても・・変えたい宗教・・、

2014-06-24 02:36:21 | 日記
 題:嘘を言っても・・変えたい宗教・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教の熱烈な信者である、作家の加賀乙彦氏・・、
 氏は、キリスト教を「砂漠の地で生まれた宗教」と言わ
れる事を嫌っている。
 それで、砂漠の地の宗教ではない、そうではないと言っ
ている・・が、嘘である。
 加賀氏が、砂漠の地の宗教と言われることを嫌う理由は、
 「砂漠の地の宗教が、『民族の生存』を祈った宗教」で、
その為の「民族生存のための殺戮が多い」という理由から
であった。
 しかし、古代の砂漠の地は、飢餓から逃れ得ない地であ
り、飢餓が、たびたび襲(おそ)った。
 当然、民族の生存を賭(か)けた、し烈な戦いが、果て
しなく繰り広げられる地という状態であった。
 また、少ない面積となっている『豊かな沃野』が、奪い
取りの『争いの地』となった。
 甘い蜜の流れる、花咲く沃野。カナンの地もその1つで
ある。
 キリスト教は、この沃野・カナンの地の『奪い取りの歴
史の物語』の宗教とも言える。
 その豊かな地の『奪い合いの戦い』が頻繁(ひんぱん)
に起きていた。
 また、隣国の、『異邦人の富への奪い取りの戦い』も頻
繁に起きていた。
 この地に生まれたキリスト教は・・必然・・、
 その地の民族の『生存をかけた戦い』の『戦勝を祈る宗
教』となった。民族宗教。
 加賀氏は、明らかにある、存在する、キリスト教の『こ
の様なDNA』を・・指摘されるのを・・嫌った。
 キリスト教の根拠地は、砂漠の地・エルサレムというの
は動かし難い事実なのだ。イエスの沃野の論理は排除され
ているのだ・・。
 加賀氏が、何と言おうがが、これは変わる事はない、変
わる事が出来ない。
 加賀氏は言う、「イエスもフランシスコも緑豊かな自然
の中にいた」・・と、加賀氏はそう言いたいのだろう。緑
豊かな地に生まれた宗教・・と、キリスト教がそうだと言
いたいのだろう。
 確かに、緑豊かなガリラヤの地に、イエスは生まれ育っ
た。
 しかし、キリスト教を、事実上、作った人=パウロは、
 その沃野に生まれ育った地のイエスを棄てた。
 パウロは、「イエスの刑死の血」と、「イエスの復活」
だけを使った。そして、エルサレムの宗教がキリスト教と
なった。ガリラヤの沃野の宗教ではない。仏教の様な沃野
の宗教と違う。
 加賀氏が言うところの、「緑豊かな自然の地・ガリラヤ
に生まれ育ったイエス」の、その「イエスの言葉」や、「
イエスの行動」を、パウロは棄てた。
 パウロは、事もあろうに、イエスを食い荒らした。
 今・現代のキリスト教は、このキリスト教である、パウ
ロ・キリスト教なのである。
 加賀氏の言葉は、「詳しく知らない人々」を繰(く)る、
マインド・コントロールるする。
 特に、キリスト教が、異邦人の地に入って行く時・・、
 異邦人の国・ヨーロッパには、「イエスが死んで復活し
たという出来事の使信(パウロの手紙など、使徒の言葉な
ど)を中心とする教義に変容され、これはイエスが、キリ
ストとして、この世に支配する死・罪・悪霊諸力に勝利し
た出来事と解された」。
 そして、イエス・キリストという名前を持ってすぐれた
意味の救済者であるとなった。
 パウロのキリスト教となった。
 キリスト教には、この加賀氏の様な、キリスト教の本当
の事を知りながら、「嘘を言って、不都合なところを繕(
つくろ)う輩が多いから、注意を要する。
 この加賀氏の他にも、関東学院大学の富岡幸一郎教授が、
これと同じ嘘を言っている。
.
 そして、次の話。
 キリスト教には「目には目を」という教義がある。
 「同罪報復」という教義である。
 例えば、目を潰(つぶ)されたら、潰した相手の目を潰
すという・・同罪を、相手に与えて、報復してよい・・と
いう教義である。
 イエスが、十字架刑となって死ぬが、その後、ユダヤ民
族は、キリスト教から、イエスを殺したと、「主殺し」だ
と、長い歴史、あらゆる場所で、殺戮され続けている。
 キリスト教の「目には目を」の、同罪報復の教義だとは
言え、その殺されたユダヤ民族の方々の数は、非常に多い
卑劣さとなっている。
 イエスの死と同罪と言うことなのだが・・、
 同罪どころか・・その熾烈さは・・キリスト教に弁解の
余地はない。
 卑劣な教義を持つキリスト教の・・その執念深さは・・
低劣の極みだ。
 また、その陰湿ぶりは・・筆舌に尽(つ)くせない。
 2000年間、キリスト教は、ユダヤ民族の方々を殺戮し続
けている。
 この他の、この様な事例も、キリスト教は多い。
 次世代に残してはいけない宗教、継いではいけない宗教。
 また、皆様も幸せにはなれません。
..
   (詳しくは、以下のブログへ)
URL:http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /

2 コメント

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真善美の探究 (Unknown)
2014-10-21 01:56:06
【真理と自然観】

《真理》

結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。

“ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのか, と。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”

私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。我々の世界は質感。また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居らず, この世界・感覚・魂の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。



《志向性》

目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を具現する場合の方向付けとなる原因・因子が具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。

『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』

『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』

我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でもその具現の条件となる感覚的対象がない場合これを生じない。但し意識を介さず機構(思考の「考, 判断」に関する部分)に直接作用する物が存在する可能性がある。



《思考》

『思考は表象である思と判断機構の象である考(理性)の部分により象造られている。』

思考〔分解〕→思(表象), 考(判断機能)

『考えていても表面にそれが現れるとは限らない。→思考の領域は考の領域に含まれている。思考<考』

『言葉で表すことが出来るのは思考可能な領域のみである。』

考, 判断(理性)の機能によって複数の中から具現可能な志向が選択される。


《生命観》
『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』

『再具現性を与える機構としての己と具現を方向付ける志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』


生命は過去の意識の有り様を何らかの形に変換し保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。

生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, その志向が作用して具現機構としての肉体に変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。


*己と自の発展
己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。

己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識(現象)から新しい志向が生み出され, その志向が具現機構である肉体と意識に連動して作用する。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により肉体を変化させ, 然としてある意識, 世界を変革する存在である。

『志向(作用)→肉体・機構』



然の理・然性
自己, 志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。

然の理・然性(第1法則)
然性→志向性(第2法則)



【世界創造の真実】

世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。

しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?

言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。

これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。

例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。

そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。

愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。

私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。

しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。

「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」

同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。

「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」

神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。

あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。



【真善美】

真は空(真の形・物)と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展とその理解。


善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。

△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)

千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。


美は活活とした生命の在り方。

『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』

予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることなく認識と相互してこれを成し遂げようとする生命の在り方。


Unknown (【【相手にするのやめなはれ!!!】】)
2014-10-27 19:57:36
しょうもない

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