ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

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「天タマ」第18号

2006年09月30日 | 教科通信「天タマ」
「天タマ」第18号(1999年10月04日発行)

           市立看護専門学校 哲学の教科通信

 2回目のテーマは「先生と生徒は対等か」でした。ヒントの中の
「何が対等で何が対等でないか」が十分に考えられなかったようで
す。また、「対等」という言葉には、(1) 本来は対等である、とい
う意味と、(2) 現実に対等になっている、という意味と、2つの意
味がありますが、この両者を区別できなかった人もいるようです。
しかし、皆さん熱心に考えていました。

Aさんのレポートを紹介します。

──先生と生徒は対等かというと、理想としては対等であるべきだ
と思います。もちろん教える人・教えられる人としては対等ではな
いけど、人間としては対等であると思います。対等でなければ良い
授業は出来ないと思います。小中学校の事を思い出して、先生のイ
メージというと「こわい」ということが浮かんできます。今では考
えられないけど、あの頃は先生が平気で生徒をなぐったりして言う
ことを聞かせていて、先生の言う事に納得して従うのではなかった
ように思います。

 「先生」は確かに私たちより多くの知識を持ち、経験をつんでい
て、多くの先生はすごく尊敬の出来る人です。しかし先生の言う事
はすべて正しいと思ってしまうのは危険だし、学びながらも自分で
考えていくことが大切だと思います。先生がいつも上から見下すよ
うな態度だったら良い人間関係は作れないと思います。これは先生
と生徒の関係だけでなく、親子、友人関係でもそうだと思います。
やはり授業も対話といっしょで、相互作用が大切だと思います。

 だけど対等であるとしても、もちろん必要最低限、言葉使いや態
度は気をつけるべきだと思います。平等であっても友人と同じでは
ない事を勘違いしないようにしたいと思います。本校の先生は学生
の意見をよく聞いて下さる先生達ばかりなので、高校の時と違って
面白い授業が多いです。

 ★ これを「人格としては平等、権限としては不平等」とまとめ
ることにしましょう。

 第1点から「先生も生徒も互いに相手の人格を傷つけるような言
動をしてはならない」ということが出てきます。これが守られてい
ない場合があるのは残念です。

 第2点は「能力や理解力の不平等」から出てきます。しかし、こ
れは少し微妙で、スポーツや一部の芸術では、現役生徒の方が既に
現役を引退したコーチより能力が上である場合もあります。しかし
、経験や考え方などでコーチから学ぶものがあるのです。

 それと同時に第2点で大切なのは、生徒の方が先生を「自分の先
生」と思い、尊敬して従う気持ちになれることだと思います。しか
るに、学校では、多くの場合、先生が学校によって決められてしま
って、生徒に選択の自由がなく、尊敬できない場合があります。

   先生と生徒の対等を考えるその他の観点について

──先生と生徒の意見が違ったからと言って、議論をする必要はな
いだろう。議論をして、どっちが正しいかということを決定するの
ではなく、先生が意見を聞き入れ、考える余地を持ってくれればよ
いのだ。そうすることで、授業にも反映され、よりよい授業を作っ
ていくことができていくのではないだろうか。

──先生と生徒の意見が違った時、両者は議論すべきかというと、
私は、議論すべきであると思う。最終的な決定権は先生が持ってい
ると思うけれど、議論することで先生にも生徒がどういう意見を持
っているかが分かるから、議論すべきだと思う。こういう時、司会
をするのは先生でなくて、生徒がやった方が、生徒の意見を尊重で
きるし、先生と生徒が中立的な立場にいられるので、良いと思う。

──教壇は先生が生徒を見やすいようにある、と今まで思っていた
。しかし、先生が生徒より上であるということを示してもいるのか
、と感じました。対等ではないから一段上にいて当然なのだけれど
、先生は生徒より上であることをより一層生徒に植えつけているよ
うな気がする。

──先生は一番高い所で生徒が低い所にいるということはいちがい
には言えないと思う。大学は階段教室になっている所もある。そう
すると生徒の方が高くなる。

          先生の思い出

──私は高校時代の部活の顧問の先生を今でも心から尊敬している
。毎日毎日、怒られては泣きながら練習をしていた。しかし、どん
なに厳しくても、先生はいつも励ましつづけてくれた。先生を信じ
ていれば絶対に勝てる、と本当に信用していた。私が悩んでいる時
には、「試練は克服出来る者にだけ与えられる」という言葉をプレ
ゼントしてくれた。今、つらいことは乗り越えるためにあるのだと
、とても勇気づけられたてのをよく覚えている。先生と生徒の関係
。あたらめて考えてみると難しかったが、私にとって先生とは大切
な何かを教えてくれるかけがえのない人である。

          その他

──私は今、看護学生という生活がとても充実している。しかし東
京の大学に行っている友人はつまらないと言うことが多い。和敬塾
にいた大学生はとても楽しそうだったのに、どうしてこのような差
が生まれてしまうのか、疑問に思った。

 ★ 私は、和敬塾はそこの学生にとって第2のサークルなのだと
思いました。つまり、サークル活動が充実しているのです。授業が
つまらないという1年生の訴えに、4年生は「授業を面白いと思っ
ている学生が何人いるか」と答えていました。しかし、本当の学生
生活の中心は勉強を軸にした先生及び仲間との関係だと思います。
本校の皆さんは、これが充実しているのだと思います。ですから充
実といっても和敬塾の学生の充実と皆さんの充実は違うのではない
でしょうか。

──集団生活に憧れる部分がある。スポーツをやっていた時、夏休
みに3泊4日で合宿した経験がある。練習じたいは毎日とてもつら
くて逃げ出したいほどだったが、宿に戻ってみんなでワイワイ遊ん
だり、悩みを相談しあって夜遅くまで過ごすのはとても楽しかった
。今はもうそういう機会もなくなってきてしまっているし、寮とい
うのもあまり見かけない。集団生活もいい所ばかりではないと思う
が、学生のうちにしか経験できない貴重なものでもある。

──「哲学」と聞いて固いイメージを持っていました。でも、予想
に反して、今までみんなが一度は考えたことのあることや、日常に
していることについてしっかり考えるものであって、考えれば考え
るほど深いものだと思いました。

──カンファレンスでは、今まで自分たちの話題のテーマにならな
いようなことで話し合うことで、いろいろな人の意見を聞くことが
できていい。

──先生はなぜ哲学を学ぼうと思われたのですか。又、先生はご自
身でどう生き、どう人生の最終を迎えようと思っていらっしゃるの
ですか。私は「自分らしくある」をポリシーにしていて、それは時
代や背景の中で少しずつ変化していくものです。私はそのあいまい
さも又自分が自分であるために必要なものだと考えているのです
が。

 ★ 人間は自分を突き動かしている根本の衝動みたいなものを完
全に自覚しているとは限らないと思います。それは不可能かもしれ
ません。しかし、後から振り返ってみると、客観的にはその人を根
本で動かしているものがあるようにも思えます。

 自己認識としては、感情的な態度が嫌いだったということがある
と思います。一番覚えていることは、社会問題などで、とても感情
的になって自説を主張した多くの人々です。高校時代、「数学みた
いに、社会生活の分野でも理論的に解決できるといいな」と思った
ことを覚えています。私自身が感情的になったこともあります。

 真理が貫徹する真なる方法は何か、これがテーマかな。人間の心
の中には天使と悪魔の両方が住んでいます。問題はその割合をどう
見るかです。昔は9対1くらいに考えていて失敗しました。今は半
々に考えて警戒するようにします。すると、悪魔も活動しにくくな
るようです。教科通信とか書き言葉を使った対話はとても有効だと
思っています。

 ターミナルのことは余り考えていない、と言うより、考えられま
せん。仕事が残っています。あと10年頑張って、社会的責任を果た
してから死にたいです。
 今日は第2回のテーマを更に深めることにしましょう。

 「先生と生徒は対等か」というテーマを深めるための事例研究

 「どんな組織でも人間には考えの違いや感情の行き違いがあるも
のだから、それをなるべく理性的に解決するためには苦情処理のシ
ステムを作っておくことが大切だ」ということを考えていた時の、
或る学校での或る生徒のレポートです。

──本校では全然、言えません。実際、すごくいい授業をする人に
は言うけれど、苦情なんてとてもとても。〔担任との定期〕面接の
とき、「授業はどう? 分かりにくいのある?」と聞かれて、本心
は「あなたの授業は分かりにくいです」と思いながらも言えない。

 でも、少し勇気を出して、「あのぅ、先生の授業ちょっと早すぎ
て、付いていけないとこがあります」と、言ってみたら、「アラー
、あの授業だけで理解できると思ってるの?予習とか復習してる?
」。(「してません」)。「それじゃあ、だめよ。これからもっと
付いていけないわよ」と、言われてしまいました。

 確かに予習や復習はしていないけど、でもしっかり授業聞いてい
るのに分からないのは、先生の教え方もまずいのではないか、と思
うんです。というか、私の訴えは全然受け入れてくれないし、反対
に説教されてしまったのが、すごく悲しかった。言わなければよか
った、と思いました。

 この事例を分析して考えて下さい。考えるべき点は次の通り。

 (1) この話し合いは公正に行われて正当な結論に達したと言える
でしょうか。
(2) イエスと思う人も、ノーと思う人も、そう判断する根拠を挙
げて下さい。
(3) この話し合いが不公正だったとしたら、誰にその責任がある
でしょうか。

 参考にして欲しいものは、第1に、「授業要綱」の次の言葉です
。「この授業が根本的に間違っていると考えた場合は管理者に相談
して欲しい。以下は、「この授業は根本的には適当だが、部分的に
改善して欲しい点がある」という立場で考えるものとする。」

 講師はなぜ不満ないし批判を根本的なものと部分的なものに分け
たのでしょうか。このように分けることが本当に正しいか、正しい
とするならなぜ正しいのでしょうか。

 第2に、『囲炉裏端』の「司会者の立場と討論者の立場」(87頁
)及び「ある体罰反対運動の民主主義」( 129頁)を読んでくださ
い。

第3に、次の諸点です。国会などで議長不信任動議を審議する時
、なぜ議長の任務を副議長にゆずるのか。議長と副議長はなぜ党籍
を離脱するのか。学校への入学の申込書はなぜ「願書」と言うの
か。

なお、授業のこと、対話のこと、先生と生徒は対等かという問題
について、家族とか友人とその後話し合った人はいませんか。あり
ましたら、それも報告してください。