ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

 2008年10月から「第2マキペディア」として続けることにしました。

教育の広場、第 164号、主義を糧とする人々─映画『追憶』

2005年09月07日 | 政治関係
 NHKのラジオ深夜便でアメリカ映画「追憶」のテーマ音楽
を流しました。その時、映画の粗筋も話してくれました。曰く
。「政治にかかわらざるをえない妻と脚本家を目指す夫とがど
うしても一緒にやっていけず、愛し合っているのに別れなけれ
ばならない。マッカーシズムの吹き荒れる1950年頃の時代を背
景にして」と。

「へえ、そんな映画があったんだ」と、俄然興味を持ちまし
た。幸い、地元の図書館にビデオがありました。借りてきて見
ました。自分の考えをまとめようと思って、2回目は大事なセ
リフのメモを取りました。

まず、私が理解した限りでストーリーをまとめます。

主役の女性の名はケィティ、その相手たる男性の名はハベル
です。場所はニューヨークですが、時はスペイン内戦の1937年
ころです。2人は同じ大学の学生でした。ハベルはスポーツ万
能で有名な学生で、ケィティはアルバイトをしながら勉強して
いる貧乏学生ですが共産党系の活動家としてこれ又有名でし
た。

2人が一緒になるのは短編小説を書く授業でです。ハベルの
作品が先生から褒められます。猛勉強して書いたのに評価され
なかったケィティはがっかりして自分の作品をごみ箱に投げ捨
てて帰る途中、ハベルがビールを飲んでいる所を通り掛かると
いうわけです。

さて、そうして知り合ったのですが、ハベルは卒業後海軍に
入ります。時は過ぎで第2次大戦末期の1944年、ニューヨーク
で情報局に勤めているケィティは仕事の後、レストラン(バー
?)に行きます。するとそこにハベルが休暇か何かで来ていた
のです(映画はここから始まっていて、学生時代のことは回想
として描かれたことでした)。

酔っぱらったハベルを自分のアパートに連れて行ったケィテ
ィ。2人の間には当然の事が起きます。その後、戦争が終わっ
てからでしょう、一緒になるのですが、政治狂いのケィティと
は一緒にやっていけないとして、いったんは別れるのですが、
ケィティの方が頼んでハベルは戻り、2人してハリウッドに行
きます。ハベルが小説を映画の世界に売って生きていくためで
す。

これは成功して、そこで楽しくやっていくのですが、1950年
頃、マッカーシズムの嵐がハリウッドにも及んできます。ハベ
ルはケィティと一緒にワシントンまで抗議に行ったりはするの
ですが、やはり結局は2人は合いません。

ハベルは元の恋人(金持ちの娘)と一緒になってニューヨー
クに行ってテレビの脚本家になろうとします。ケィティはハベ
ルとの間に生まれた女の子と共に又別の男性と結婚し、原爆反
対の運動を続けています。駅頭で出会った2人は別れを惜しみ
ます。

下手な説明でしたが、こんな所です。さて、私が考えた事を
箇条書きにまとめます。

最初に私の観点を申し上げておきますと、私はケィティを私
の言うところの「チンピラ左翼」の典型と見て、ハベルは自由
主義的な市民の典型と見ます。もちろんこの「チンピラ左翼」
というものの本性について、その純粋な心情と幼稚な言動を考
えるのが本稿の目的です。私自身もその一人でしたから。

第1に問題にしたい事はスペイン内戦とソ連の評価について
です。

ケィティは1937年の学生の頃共産青年同盟の委員長で、もち
ろんソ連かぶれです。スペイン内戦における共和派支持の学生
集会で「スペイン内乱で市民を援助しているのはソ連だけだ」
とか「ソ連は人民を救おうとしている」などと演説します。

当時のアメリカやヨーロッパの知識人や青年にとってスペイ
ン内戦がいかに大きな問題だったかは、日本人の我々には想像
できないほどのようです。多分、ベトナム戦争が当時の日本人
にとって持った意味と同じ程度だったのでしょう。

しかし、今でははっきりしていることは、ソ連は必ずしも十
分に共和派を応援したわけではないことです。そして、共和派
の中にも義勇軍に馳せ参じて戦った人々と共産党系の人々との
間には大きな溝があったということです。この問題に焦点を当
てて描いた作品がオーウェルの「カタロニア讃歌」(1938年)
であり、ケン・ローチ監督のイギリス映画「大地と自由」(制
作年は知りませんが、日本で公開されたのは1997年だと思いま
す)のようです。

当時のケィティにこういった判断を要求するのは無理でしょ
うが、しかし、アメリカでは既にスターリンの暴政は伝えられ
ていたのです。学生たちがジョークで「スターリンの粛清」な
どという言葉を口にする場面が出てきます。

つまりチンピラ左翼はレーニンの言う「左翼小児病患者」で
あるだけでなく、左翼信仰者なのです。ですから大人にもそう
いう人は沢山いるのです。問題は、「科学的」社会主義を自称
する運動なり人々がなぜ信仰的になったのかということです。

 第2のそして最大の問題は、そのチンピラ左翼というものは
どう考えたらよいのか、です。

ハベルはケィティを批評してまず「君は何でもそう確信があ
るのか」と批評しています。つまり、チンピラ左翼の特徴の1
つは、自分の、あるいは自分たちの考えを事実上「絶対的真理
」と思い込んでいることです。これは弁証法的唯物論の立場か
らはもちろん、どんな哲学上の立場に立っても間違いなのです
が、人間誰しも一つの事を信じると、とかくこういう信念を持
ちがちです。

それと一緒になっている傾向は「君は美しい。だがムキにな
りすぎる」、「革命家にもユーモアが必要だ。〔君達は〕まる
で清教徒だ」、「努力しすぎる奴も困ったもんだ。いつも本ば
かり抱え込んで」と批評されています。

それは更に話題の乏しいことと結びついています。ハベル曰
く。「話題はいつも政治か?」。ハベル達は「最高のバーボン
は?」とか「最高のアイスクリームは?」とか「最高の美女は
?」といった「下らない」ことを言い合っては笑い転げていま
す。もう少し高尚だとしても、せいぜいファッションの話とか
クルマの話とかでしょう。

更に言い換えるならば、「君はひたむきすぎる。生活を楽し
むゆとりがない。遊びが無さすぎる」という批評になります。
これに対してケィティは答えます。「世の中をよくしたいから
よ。私もあなたも好くなるのよ。戦いよ、そして理想に向かっ
て進んでいくのよ。」

そうなのです。この「世の中をよくしたい」という気持ち、
理想に向かって進む人生にしか意義はないという考え、ここに
こそチンピラ左翼の本性がよく出ていると思います。その時、
「世の中をよくする」とはどういうことか、現在の生活は零点
なのか、自分たちと違うやり方で「世の中をよく」している人
はいないのか、「理想に向かう」にも世の中の仕組みを知らな
ければならないし、個人個人でやり方は違っていいといった反
省は全然ないのです。

ワシントンへ行って抗議行動をして傷ついた後、ハベルは
「民衆は臆病なのだ」といった事を言います。そして、更に
「〔こんな事をしても〕自分たちが傷つくだけだ。〔世の中は
〕何も変わりやしない」と言います。

それに対してケィティは「虐げられている人々を見殺しにす
る気? 仕事ほしさに」と反問します。ここにもチンピラ左翼
の特徴が好く出ていると思います。

「大切なのは人間だ。主義主張が何だ」と言うハベルに対し
て、ケィティは「主義こそ人間の糧よ」と答えます。

これらの問答は言葉こそ違え、多くの青年の間で、特に戦後
の学生運動の華やかりし頃、交わされたのではないでしょう
か。

最後に取り上げたい特徴は、「敵」ないし支配階級の人々よ
り、それと戦わない中間の人々を敵視する態度です。ケィティ
曰く。「恐ろしいのは平和のために立ち上がらない人々」だ、
と。

或る事柄で対立しているとすると、世の中には「悪」を押し
進める人々とそれに反対する人々の中間に「中立的な人々」が
いるものです。その時、悪を押し進める人ないし勢力より、こ
の中間派が悪を助けているから悪いのだと考える、これもチン
ピラ左翼の特徴の1つだと思います。

スターリンはかつて「〔帝国主義ではなく、帝国主義に対し
て軟弱な〕社会民主主義に主要な打撃を集中する」という間違
った「理論」を展開しましたが、スターリンはまさにチンピラ
左翼の権化だったのです。

こうしてまとめてみて気づいた事には、ハベルからのケィテ
ィ批評の言葉は沢山あるのに、ケィティのハベル批評は少ない
ということです。この事も特徴的なことです。つまり、チンピ
ラ左翼は自分の主観の中に閉じこもっていて、外を見る余裕が
ないということです。

しかし、少しは感想を述べています。ケィティはなぜか分か
りませんが、ハベルの小説が好きなのです。最初の先生にほめ
られた作品については「あなたの小説が大好き」と言っていま
すし、第2作については「小説、最高よ」と褒めています。し
かし、具体的な理由は述べていません。

ハベルから悪い所は言ってくれよ、と要求されて、「突き放
している」、「人間を遠くから見ている」と批評しています。
その具体的な根拠を求められて、ただ「全体として」と答えて
います。

これはやはりケィティの低さではないでしょうか。そして、
こういうのがチンピラ左翼の特徴ではないでしょうか。

外を見る余裕がないということは、自分の事を反省する力も
乏しいのだと思います。逆に、ハベルは最初の小説の主人公の
口を借りて、自分の事をこう言っています。

「彼〔登場人物〕は自分の育った国と似ていた」、「万事が
安易、彼自身それをよく知っていた」、「自分をいいかげんな
人間だと思うことがある」。

「何事にも確信を持っている」ケィティとの対照は鮮やかで
す。

これだけの事を考えさせてくれただけでもこの映画には感謝
しています。しかし、私の哲学的な観点からは、ケィティの共
産党の仲間たちの集まりの様子を少し描いてほしかったな、と
思います。それがどの程度本当に民主的な話し合いになってい
たか、ということです。

最後に、2人はその後どうなったのでしょうか。この映画の
主題ではありませんからもちろん描かれていませんが、私は勝
手に創作しました。

ケィティは戦いを続けるが、1953年のスターリンの死、特に
1956年のスターリン批判とそれに続くハンガリー事件で共産主
義に疑念を持つようになる。1959年のキューバ革命の成功は喜
ぶが、戦後のヨーロッパの社会民主主義の発展を知り、社会主
義国の内情が分かるようになって、スペイン内戦でのソ連の役
割も考え直すようになる。1960年前後の公民権運動に参加し、
60年代末の学生騒動には共感し、ベトナム反戦に加わる。

ハベルはテレビの世界で脚本家として成功するが、「これだ
けでいいのか」と反省するようになり、やはり公民権運動に参
加し、学生騒動には共感し、ベトナム反戦に加わる。この過程
のどこかで2人は3度出会って、又結ばれる。

1951年頃に生まれたことになっている娘のレイチェル(これ
はケィティの母の名をもらったもの)は自分の名が『沈黙の春
』の著者であるレイチェル・カーソンと同じであることに気づ
き、その偶然を単なる偶然と思わず、環境保護運動の活動家と
なる。

1937年頃に学生生活の最後を送ったことになっているから、
2人の生まれたのは1915年頃であり、2004年の現在、2人は生
きているとすれば89歳であり、レイチェルは53歳である。

2人はアメリカのイラク侵略に反対しただろう。レイチェル
は環境保護運動の先頭に立っているだろう。

お願い。「追憶」の制作年の分かる人は教えてください。ど
こかの画面に出ていたのかもしれませんが、分かりませんでし
た。

 (尚、この批評文は拙著『理論と実践の統一』(論創社)に
も収録されています)


    日  本  語  疑  典(牧野 紀之)

京舞の四世井上八千代さんがなくなりました。その評伝は次
の文で始まっています。

・・井上流といえば、能様式を取り入れた一点一画をゆるがせ
にしない舞が特色(2004,03,24, 朝日)・・

「一点一画を『も』ゆるがせにしない」ではないでしょうか
。「も」を入れるのと入れないのとでどう違うのでしょうか。

 「一点一画をゆるがせにしない」と言うと、「細かい点はゆ
るがせにしない」という意味であり、実際にはそう誤解する人
はほとんどいないでしょうが、言葉としては、「大きな点根本
的な点はいい加減である」という意味にもなりかねないと思い
ます。

やはり「一点一画を『も』ゆるがせにしない」と言うべきで
はないでしょうか。この「も」は「極端な例を挙げてほかも類
推させる」(角川必携)ということだと思います。

しかし、最近は、この「も」を省く言い方も時々見かけま
す。
(2004年04月01日発行)

1 コメント

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Unknown (猫楠)
2005-09-09 16:48:27
http://www.satonao.com/cinema/theway.html



この映画でしょうか。制作年は1973年と。

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