ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

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「天タマ」第09号

2006年09月18日 | 教科通信「天タマ」
「天タマ」第09号(1998年11月30日発行)

         市立看護専門学校 哲学の教科通信

 2週間ぶりのレポートとなり、又テーマも多かったので、皆さん
沢山書いて下さいました。講師の都合で1度には全部を扱えないの
で、2回に分けて考えることにします。

        アンケートの反省

 教師に対して公正な成績を求め、「どういう根拠でその成績をつ
けたのか」を教えて欲しいというなら、生徒が授業を評価する時に
も客観的な根拠に基づいて公正に行わなければならないのではない
か、と問題を提起しました。無記名のアンケートから4つを選び、
カンファレンスをし、やり直してもらいました。レポートの中から
力作を紹介します。

──あんなに色々と考えながらアンケートを書くのは初めての経験
だった。あれだけ時間をかけたのに2問しか答えられなかった。多
分、このペースでいけば、この前のアンケートは2時間以上かかっ
ただろう。

 先生が言う通り、確かに何を基準として評価したのか分からなけ
れば、公平なアンケートとは言えない。でも、私が思ったのは、5
段階で評価する事そのものが難しいということ。

 5段階で5が「非常に優れている」、4が「優れている」、3が
「普通」~となっているが、こんな言葉だけでは表現できない。5
と4の間が私の気持ちにピッタリだと思ったり、3と2の間がピッ
タリなのに、という時もある。でも、5と4の間の気持ちは5段階
アンケートでは表現できない。だから、私はこの5段階アンケート
は好きではない。

 何も考えなくても○さえつければいいから簡単だけど、5段階ア
ンケートが私の本当の気持ちではない。だって、自分でさえ何が基
準でなぜこの数字をつけたのか分からないからだ。はっきり言うと
、「なんとなくこのぐらいかな」という程度の気持ちである。

 それに、1つの質問について、「この部分は5といえるけど、あ
の部分は3かな」と思うことが多い。そうなると、5と3を足して
2で割った平均値の4をつけるという事になるけど、それもなんだ
かしっくりこない。とにかく5段階アンケートではどこかしら落ち
つかない気分になる。

 だから私は記述式のアンケートに力を入れている。5段階に比べ
て、的確に先生の好い所や直してほしい所を表現できるから。本当
のことを言うと、前はアンケートなんて簡単でいいかげんな5段階
でいい、と思っていたけれど、やっぱり、好い先生や好い授業に出
会った時は、その人にどんな所が良かったのか伝えたい!と思うよ
うになる。

      VTR「福祉オンブズマン」を見て

 社会的な機関なり活動なりを外部の人に見てもらって反省する方
法として、先に医療評価機構を勉強して考えてみました。今回はも
う一つのあり方として、最近増えてきているオンブズマン(オンブ
ズパーソン)制度を勉強してみました。知らなかった人も多かった
ようですが、皆さん、とても好感を持ったようです。

──福祉オンブズマンのビデオを見て、こういう人の存在って大き
いなと思った。施設を利用している人→オンブズマン→施設を経営
している人。とてもうまくいっていた。

 ビデオに出てきたオンブズマンの人はとても優しそうで、暖かい
雰囲気を持った人だった。しかも、しっかり会話の中はポイントを
押さえて、利用者の人と会話していた。オンブズマンの役割とはち
ょっと違ってきてしまうが、そういう「この人になら話せる」って
いう雰囲気も大事だと思った。私も看護婦として、人として、そう
いう雰囲気を持てる人になりたい。

        東芝の議論の3原則

 これは「天タマ」第7号に紹介したものですが、20日の授業で詳
しく検討しました。

 これについても多くの人が「この3原則が守られれば好い話し合
いになる」と感心したようです。自分がどこかでリーダーに成った
とき実行してみようという意見もいくつかありました。第3原則の
「話し合いが付かない時はリーダーが独断で決める」という点につ
いては、疑問も少し出ていました。

──東芝の3原則を読んでまず私はなるほどと思った。この3原則
になぜ私は気づかなかったのだろうと思った。しかし次の瞬間には
、実際にこの原則を守って議論するのは大変だと思った。

 まず(1) の全員対等というのは、クラスでの議論ではみな対等に
言えるけど、先生や先輩看護婦と議論になったら対等に言えるかと
いったら、言えないと思う。それは普段から上下関係がはっきりし
ていて対等という立場になったことがないからだと思う。

(2) の「中傷する言葉を言えば即退場」は、当たり前だけど、実
際にはあまり行われていないと思う。それは、その言葉が中傷した
という判断を下す人がいないからだと思う。それをはっきりと判断
できる司会の役割は大きいと思う。今まで私は、司会は進行役だと
思っていたけれど、他にも大きな役目があったんだと、分かった。

(3) の「決着がつかなければリーダーが独断で決める」というの
を読んで、リーダーはいいなと思った。でも、その判断の責任はリ
ーダーが取らなければいけないので、大変だと思った。前まで、自
分が婦長になった時話し合いのシステムをどうするかについて、自
分は意見を持っていなかったけど、もし私が婦長になったら、この
3原則を取り入れていきたいと思った。

──先日、「町長と町政を語る会」に出席したが、上座に町長と役
場の管理職がテーブルの前にネクタイ姿で座っており、何メートル
も離れて町民のための座ぶとんがテーブルもなく並んでいるという
会場で、「お上に直訴」の様なセッティングにがっかりした。

          その他

──「天タマ」を見ていたら、小学校の時にもらって製本してもら
った学級だよりを思い出し、押入れから引っ張りだしてきました。
小学1年生ということもあり、日本語がおかしく、笑えました。今
読むといろいろな先生の気持ちが伝わってきて、これを作ってもら
えてよかったと思います。「天タマ」も何年後かに読むと変わるか
なと思いました。

──哲学の授業配分が好きです。最初は、こんなに沢山の事、90分
じゃ終わる訳ないよ、無理!って思っていたけど、90分を細かく分
けることでたくさんの内容を教われるし、メリハリが出て、どの授
業よりも短く感じます。

──「組織はトップで8割決まる」を母親と話し合いました。私の
家も自営業をしているため、人を使っています。下で働いている人
たちが不満を言えるシステムが確立しているか、話し合いの場が持
たれているか、考えてみました。

 やはり、従業員間で人間関係の不満は少なからずあるようです。
家では、3ケ月に1度食事会を持ち、その中で意見・不満を聞くよ
うです。これは、働いている人が少人数だからできることです。母
親もこの議題に関して興味を持っているようで、「天タマ」を読ん
でいました。人間関係の不満はやはり対処に困るそうです。「難し
いねえ」と、母親がつぶやいていました。

 ★ 身の回りの大切な問題を直視して取り組んだの姿勢、それを
受けとめてしっかりと向き合ったお母さんの姿勢、これにとても感
動しました。

 思うに、哲学の最大の難しさは自分の生きている現実とごまかす
ことなく取り組むことの難しさです。たいていの人はここから逃げ
てしまうのです。そして、哲学と縁が切れてしまうのです。世の中
の哲学教授もこうして哲学から離れていくのです。

──この学校ですごいなあと思っていることがあります。ここの先
生は一人一人しっかり自分の意見を持っていて、それを根拠に基づ
いて、生徒や他の先生の前で堂々と発言します。会議中は先生同士
、先輩・後輩の関係なく、自分の意見を言っているようです。そこ
はすごいなあといつも感心しています。

──今日の「天タマ」に、お父さんと話をしない、ということがあ
りました。私も昔は父とあまり話をしませんでした。何故か、話づ
らいのです。でも最近はよく、いろいろなことを話すようになって
、父の好きな釣りの話とか、2人とも好きな映画の話とか、成人病
の一歩手前にいる父の健康の話とか、どちらかというと父親という
より、友だちのようです。

 今思うと、何故父親と話せなかったのだろうか、と思います。昔
は本当に一言も口をききませんでした。自分でも昔を振り返ると、
変な意味で感心します。
「昔は話しなかったのにねえ」、「そうだねえ」と、一緒にビデオ
を見ながら話していると、笑えてきます。父親って何だろうと思い
ました。

         十年振りのボッカ

 観音山(標高約 580m)の頂上からほんの少し下った所に、清水
寺(せいすいじ)があった。それを今度、で再建することにな
った。車で材料を近くまで運び、最後はの人達で担ぎ上げると
いうことになった。28日と29日の両日でそれを行うというのであ
る。

私は28日、予定通り出た。天気もよく風もなく、とても好い日だ
った。午前中は道普請(みちぶしん)をした。担ぎ上げる道の途中
の荒れている所を修理したのである。又、寺を建てる所も整地した
。午後、いよいよボッカとなった。荷物を担ぎ上げるのを山仲間は
昔「ボッカ」と言っていた。

日頃、の仕事に出ても、要領も分からずに大した事も出来な
い私であったが、そしてこの日も午前中は大した働きが出来なかっ
たが、この担ぎ上げだけは違った。

日頃鍛えた足腰で、山仕事や畑仕事の専門家の皆さんの2倍のス
ピードで担ぎ上げた。そもそも足拵(こしら)えが違う。皆さんは
地下足袋だが、私は登山靴なのである。こういう私がこういう所に
いることが本当は場違いなのだろうが、それを受け入れてくれるの
が我がの包容力である。全身に疲れを感じながらも、快い満足
感をもって帰宅し、風呂に入った。

 思うに、の仕事はたしかにそれ自体としての意味もあるのだ
が、それと同時にここに住む人達にとってはそれは一種の社交場な
のである。こういう機会にいろいろな話をし、情報を交換する。そ
れによって同じに住む者としての連帯感を養うのである。

 葬式の時も必要以上に沢山の人が出て手伝うが、その本当の趣旨
は同じことである。都合が悪くて来られない人もいる。しかし、絶
対に咎められない。後で何かの機会に働けばよいのである。「人を
責めない」──これがこのという共同体を成り立たせている。