ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

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「天タマ」第03号

2006年09月08日 | 教科通信「天タマ」
1998年10月19日発行  市立看護専門学校 哲学の教科通信

 授業もレポートも3回目となって、皆さん益々乗ってきたきたようです。

ここの病院の苦情処理システムの現状とその改善案

 これについては、①患者の病院に対する不満、②実習生の病院に対する不満、③患者の実習生に対する不満の言い方に対して、と3種に分けられます。

①についての代表的な意見を紹介します。

- 今、ここの病院には苦情を言えるシステムなどない。苦情がくるといえば、患者の家族が直接ナースに言いにくるくらいだろう。しかし、実際には患者が病院に対して不満を持っている事は多い。ただ病院に苦情を言える設備がないだけのことである。

 私も実習を通して患者の不満の声をいくつか聞いた。例えば「ロッカーがないから荷物を置けない」、「ここではCTばっかりとっているが、体に害はないのか。それにお金がかかってしょうがない」、「看護婦さんはすぐどこかへ行ってしまって、私の話を親身になって聞いてくれない」等である。

 これらは患者から見た不満であるが、私達学生から見ても看護婦さんに対して不満がある。例えばお風呂に入れない人に対してタオルを配っているが、検査等で病室にいない時もタオルを配っているので、冷たいタオルで体をふいている患者さんがいたり、食事の30分前からエプロンをさせられ車椅子に抑制されテーブルの近くに座らされているお年寄りの患者さんがいたりする。

 本当に患者さんのための看護をするためには、やはりアンケートを配ったり、苦情について医療従事者が話し合う場をつくらなければならないと思う。

 ★ その他。前回の実習の時、患者さんが「ドクターにいろいろ聞きたいけれど聞けないのよ。みんなそう思っているわよ」と教えてくれたとか、「態度の悪い看護婦に患者さんが激怒して怒鳴ったという事件があったそうだが、その時に看護婦が『何を言っているの、この人は』という感じで、笑って済ませるという様子で、特別な謝罪はなかったらしい」という噂を紹介していた人もいます。

 逆に、患者が褒めていた例としては、「婦長は他のナースと違って全体をみて行動しているから、ちょっとの事でもすぐ気がつく」と或る患者が言っていた、というのもありました。

 改善案としては、看護婦に(は忙しくて)できない事を学生が(時間があるので)できるようにするというシステムが提案されていました。

 又、改善点を提案し合うための悪意のない自由な苦情処理システムがあるといいと思うという意見ももっともだと思います。

 他の病院の実例として、入院時に患者に1冊のノートを渡し、毎日、そこに色々な思いを書いてもらって、患者と看護婦の交換日記みたいなものにしている、という実例の紹介がありました。

 問題点も解決案の核心も出ていると思います。要するに、学校とか病院とかは、原則として、大きくなればなるほど悪くなりがちである、ということです。

 市看は割合に好い学校だと、私は気に入っていますが、その理由は、①小さいこと、②国家試験があること、によると思います。そして、人間関係では、人間の中にある負の要素=悪意を直視すること、人間は誰でも悪く言われるのは嫌なこと、を考慮する必要があると思います。

 では、どうしたらよいか。その時、どんなシステムも結局は人であり、組織はトップで8割決まるということを知っておくことだと思います。つまり、トップにやる気があって、改善しようという雰囲気が全体にあることです。

 それを偶然にしないために、トップと組織全体を外部から評価するような制度を作ることが、そういうシステムの根本だと思います。

 ② 実習生としての不満もかなりあるようです。次のは必ずしも代表的な意見というわけではありませんが、明確に不満点を挙げているものを紹介します。

──私たちも病棟に実習に行って結構不満を感じています。(本校の)先生は病棟の看護婦さんとそれほど深く接していないから気づかないようですが、直接指導してもらっている私たちは不満をもっています。

 私たちは学校の物品であればどこに何があるのか、どういう風に使ってよいのか分かるけれど、病棟のものはどこにあるか分からなかったり、どうしていいか分からずに看護婦さんに聞くと、すごく無愛想に言う。

 また、私たちが選んで午前中から病棟に行くのではないのに、或る看護婦さんは「なんでこんなに忙しい時にくるのかねえ。午後からにしてほしい」と、私たちに聞こえるように言った。

 私たちではなく、先生に直接言ってくれれば、なぜ午前中から来るのかという理由も分かりそうだし、病棟の意見も私たちに伝わってくる。だから、私たち学生の不満、病棟の看護婦の不満を伝える機会を作ってほしい。

 ★ この点については、実習の最後に、婦長が「不満があったら言ってほしい」と意見を求めたという話もいくつありました。しかし、それでも言いにくいようです。

 これは実習生と看護婦(病院)との関係だけでなく、看護婦同士、医者と看護婦、看護婦と看護助手といった間にもあるようです。これが大問題なのです。

 根本的には私は①と同じだと思います。人間は誰でも否定的な事を言われると好い気持ちがしないという人間心理をどう処理するかに関係します。しかし、特殊的には、看護婦が忙しすぎるという労働条件的な面も考慮する必要がありそうです。

 ③ 実習生としての態度について患者から間接的に不満を言われたことを取り上げている人が一人いました。

- 実習中の私たちの態度を看護婦に、学校に電話のみで「態度が悪かった」と言われたりしますが、直接でなく、学校の先生を通しての間接的な形では、納得できないと思ったりします。おまけにこちらはこの先就職の事とかいろいろあるから、強く言えない。

 指導してもらう時も「私たちのためを思って言ってくれるんだ」と思う時もありますが、なんか明らかに悪意を感じるという時もあります。

 患者も言いたい事がいろいろあるだろうと思う。学生にそれを言う患者さんもいます。でも私たちが言われた事を報告しようと思っても、病棟の誰に言ったらいいのか、分からない。ソーシャルワーカーがやってくれるのかな、と今までは思っていたけれど、違うのでしょうか?

 病院も内側から変わらなければダメだと思う。病院の職員には、サービス業だっていう自覚のない人もいろいろいると思う。

 ★ 批判は直接が好いか、それとも間接が好いか、という問題はよくよく考えるべきでしょう。授業で取り上げましょう。これはアンケートは匿名か記名かというテーマとも関係します。

 尚、ここの病院には意見箱みたいなものも置かれているようですが、あまり知られていないようですし、大して機能していないのではないかという意見が大勢でした。投書は、どういう投書があったか、それをどうしたか、を発表すべきであるという意見がいくつかありました。

 私も、かつてはアンケートへの返事を伝えませんでした。レポートへの感想も書きませんでした。悪かったと思っています。感想を書いて返すようにしたのは3年前からです。皆がとても喜んでくれるので、今では過去を取り戻すつもりで熱心に書いています。

学校の苦情処理システムについて

 これは、学校によって実に様々のようです。投書箱への投書などをきっかけとして、頭髪自由化が実現されたという例もあります。高校でも、生徒会の要望が実ってスニーカーの色が5色になった、という例もあります。又、相談室があって、先生が相談にのってくれた所もあるようです。小中では日記を毎日書いていて、担任との意見交換が出来たという人もいます。

 しかし、中学と高校、特に高校では先生と学校に対する不満がとても強いようです。

- 自分の苦情が事件として取り扱われることがある。私もこれらの事で様々な思いをしてきた。現在では、もう先生に言ってもしょうがないと思う気持ちで一杯である。やはり日本の学校にも苦情を受け入れてくれる人が必要である。

 アメリカでは学校カウンセラーが各校に一人ずついて、このような役割を果たしてくれる。私はこのような人は、教職とは無関係で独立した立場の人でなくてはいけないと思う。つまり、生徒と教員の間に立つ人でなくてはならないと思う。生徒が素直に苦情を出せる場が必要である。そして、それを正確に、かつ人権を守って教員に伝える技術を持った人が必要である。

 ★ 或る高校では、投書箱に投書した苦情について、朝礼で先生がそれを読み上げて、「こんな事を書いた人がいる」などと怒ったそうです。こうして、生徒は諦めていくのです。

 しかし、ここは分析すると、①生徒の教師や学校への要望や批判は、どんな事でも好い、どんな言い方でも好いということではないから、その内容自体は何らかの形で問題になりうる、②しかし、それを朝礼で一方的に「失礼だ」と決めつけてよいかは又別である、の2点を区別して考えて下さい。

 意見の内容とその表現形式の区別、言われた側が反論する権利とその方法の区別です。これはこれからの授業のテーマです。「苦情を伝える側にもそれなりの態度と感情に流されない理論が必要」という意見もありました。

 市看ではアンケートもあり、先生にも相談にのってくれる人が多いようですが、一部に「あなたはそんな事言える立場なの?」と言われて不満だった人もいます。しっかり授業を聞いていても分からない先生がいるのに、言うと「予習や復習をしないからだ」と言われて納得のいかない人もいます。又、講師の先生にも不満があるようです。

 根本的には、結論の如何ではなくて、話し合ってよかったという気持ちになれない所に不満があるようです。私は皆さんの気持ちに共感しますが、残念な点もあります。それは、自分が主任になった時にこうしようとか、立場的に下の人(例えば看護助手とかいずれ迎える看護学生とか自分の子供)の意見を聞くために自分はこうするといった、主体的な考えがなかったことです。これは縦の関係を論じた時もそうでしたが、皆さんは自分が上級生になった時どうい
う行動を取ったのでしょうか。こういう事は反省しなくて好いのでしょうか。

「天タマ」について

 「天タマ」はお蔭様で好評で、疲れも吹き飛びます。「いつもは読まないのにこれは読む」という人もいました。「哲学の授業内にとどめないで他の先生にも読んで欲しい」という意見もありました(哲学講師はこれ以上出しゃばっていいのでしょうか?)。

 名前の原則は「本人の意志による」です。講師の判断で匿名にすることもあります。

エピローグ

 私は中高一貫の学校でした。縦の関係もよく、先生の評判からあだ名まで、先輩から後輩へ連綿として受け継がれていました。先生の担当教科に関係した言葉を使ったうまいあだ名がありました。

 数学の先生に「π」(パイ)というあだ名の人がいました。その心は「割り切れない」でした。

 化学の先生で「ナフタリン」というあだ名の人がいました。その心は - 「虫が好かない」