ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

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「天タマ」第02号

2006年09月07日 | 教科通信「天タマ」
 (1998年10月16日発行) 市立看護専門学校 哲学の教科通信

患者が「あなたじゃ心配だから、他の看護婦に代わって」と、新人看護婦を断った。これをどう考えるか。

 次のAさんのレポートが標準的な考えのようです。それをまず掲げます。

・・例に挙げられた看護婦の話は難しいところだと思った。私たち看護婦側からいうと、やはりそれなりの経験を積んでいるのだし、経験の浅さだけで全面的に否定されるのは辛い。でもやはり患者さん側から言えば、新米看護婦に任せるのがこわいのも仕方ないと思う。

 学校では、「堂々とした態度で接して患者に不安が伝わらないようにする」と教わっているが、経験の浅さや不安がどうしても表れてしまうと思うし、患者さんは自分に対してだけでなく、他の患者に対しての看護婦の失敗なども覚えているのだと思うから、十分に実力をつけることが私たちにとってまず大切なことだと思った。

 ★ これを中心にして、

 「一年目の看護婦だからといって、技術や知能が他の先輩看護婦より劣っていると、頭ごなしに決めつけるのは、まちがっていると思う。新米看護婦だからこそ、初心を持って慎重に看護行為を行うものだし、ベテラン看護婦にも、慣れたころにおこるミスがあると思うから」、「患者もあるがままに振る舞うのではなく、一人の人間としてその場に在ってほしい」という意見と、

 「そういう患者の気持ちを理解してあげられる看護婦になりたい」、「看護婦の誰もが通る道なので、気にせず仕事に励んでほしい」と看護婦を励ます意見とに分かれるようです。

 更に分析して、「看護婦のケアは医療的なものと身の回りの世話に分かれる。医療的なことで新人が拒否されても仕方ない面もあるが、身の回りの世話まで拒否するのは偏見ではなかろうか」という意見もありました。

 実習の中で同じような事を言われた例を挙げます。

- このままじゃ〔あなたは〕絶対に看護婦にはなれないね、と言われた。
- 先生には話してくれるのに、私たちには話してくれなくて、悲
しく悔しかった。
- 9月の実習で患者に「自信をもってケアしろ」と言われた。
- 1人でやろうとしたら「看護婦呼んでこい」と怒鳴られた。

 ★ 対策としては、「先輩看護婦に付いていてもらって援助を行う」という意見が多数ありました。ここの病院ではこういう事は認められているのでしょうか。「甘ったれるな」と言われるような事はないのでしょうか。又、「なんで嫌なのかその理由を後で聞いて、それに対応する」という意見もありました。

 自分に密接な関わりのあることなので、よく考えたと思います。しかし、考え方としては、看護婦個人の問題として考える域を出る発想はなくて、もの足りません。私は、
 ① 病院のシステムの問題として考えること、
② 患者と看護婦の関係だけでなく、生徒と教師とかいった病院以外の世界に広げて考えること、の2点を求めていました。

①は、患者が看護婦や医者に不満を持った時、それを処理するシステムがあるか、又看護婦が困った事があったら、仲間で相談する場が設けられているか、ということです。

②は分かるでしょう。皆さん自身、「こんな先生代わって欲しい」と思ったことがあると思います。それなのに、その時どこにもそれを言えなかったと思います。この患者にしても、看護婦だから言ったけれど、医者には不満があっても言わないと思います。力関係で言える関係になったり、言えない関係になったりするのは、民主的な社会ではありません。

縦の関係をより良くするために

 「他の学年との接触がないからといって特に困ったこともないし、今更縦の関係を良くしたいとは思いません」という意見も少数ながらあるようです。高校の関係や寮の関係で個人的に良い関係を持っている人も何人かいるようです。が、全体としてはもう少し良くしたいという意見が圧倒的に多数のようです。

 その関係の中身については「先輩とも友達と呼べるような関係が築けたらいいな」が多いと思います。

 その方法としては、
 ① 体育祭をクラス対抗ではなくて、混成チームにする、
 ② 3学年交流会を2回でなく、もっと多くする、グループの人数を減らし、内容も工夫する、時期も4月でなくもう少したってからにする、
 ③ 可能な授業(例えば哲学など)は3学年合同にする、
④ サークルを多くする、がありました。

③は私も望む所ですが、現実には難しいでしょう。④は生徒が自由に作れるのではないでしょうか。

ある中高一貫校では「姉妹遠足といって中1から高3まで各学年1人ずつのグループを作り、遠足に行ったり、掃除も一緒に行ったりした。そのため先輩や後輩と仲良くなれた」という経験の紹介もありました。

学校における上下関係の経験は社会に出た時の勉強になる、という意見があります。しかし、これは日本社会が「タテ社会」(中根千枝)と言われる特異な社会であることを無批判に肯定した意見で、賛成できません。日本社会自体を考え直す視点がほしいです。私は、先生と生徒も友達のような関係でよいと思います。では、その時、先生と生徒の最後の一線はどこに引かれるのか。これが問題です。

 いずれにせよ、中学時代のいびつな上下関係で傷ついた人も多いようです。残念な事です。問題は校長にあると思います。「学校教育は校長を中心とする教師集団の行うもの」です。この集団がしっかりしていれば、大抵の事は出来ます。「校長が変われば学校が変わる」という報告もあります。校長の責任は重大です。しかし、この事が十分に認識されていません。

 3年になると卒業生の現役看護婦の話を聞く会もあるようです。

ディベートのビデオについて

 ここに出てくる高校生のしっかりしていることに、又ディベートの迫力に皆さんびっくりしたようです。相手を言い負かそうという感じに付いていけないと思った人もいたようです。しかし、それは誤解だと思います。ディベートはどこでも通用する訳ではありません。今アメリカでは対話の重要性ということが言われているそうです。どっちが勝つかではなくて、話し合いの中からより良いものを、一緒にやっていける方法を見いだしていくマナーです。対話の必
要な時には対話が、ディベートの必要な時にはディベートが出来る社会人を目指すべきではないでしょうか。

 又、反駁者が答えを途中で遮ったことが気になった人もいます。これも誤解です。反駁者は、答弁がスムーズでないとか冗長と判断した時は遮ってよいのです。そうでないと、時間を引き延ばされて自分の聞きたいことを全部聞けなくなりかねません。しかし、その判断が間違っていて、答弁がスムーズなのに遮った場合は「非礼行為」として減点されます。つまり、審判の判断によるのです。

講師から

 名前を出さないでくれと言う人が出ました。皆さんは2回分を見て、名前を出すことについてどう思いますか。載った人、まだ載っていない人、両方の意見を聞きたいです。

 今年の授業は今までになく順調にスタートしました。協力に感謝します。今後一層盛り上げていく工夫を考えています。乞御期待。乞御提案。

 新しい事も始めました。しかし、教科通信を出すこと、レポートの感想をワープロで書くこと、成績の根拠を説明すること(その準備をしていくこと)は、かなり大変だということも分かりました。が、もう少し頑張って続けてみます。

 9日はとても早口になってしまいました。自分の話す時間を制限したのに、話したい事が沢山出てしまったからです。この矛盾に困っています。

 私の声はビートたけしとかいう人に似ているそうです。去年も言われました。

 昔、東京の或る高等専門学校で哲学を持っていました。面白い生徒がいて、試験の答案を中断して、こんな名句(?)を書いていました。

 ここで一句。
   名調子、そら始まった牧野節