ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

 2008年10月から「第2マキペディア」として続けることにしました。

「菩提樹」の解釈(02、関口存男氏の説明)

2009年08月30日 | ハ行
 お断り・関口氏の『接続法の詳細』(三修社)の299頁以下に次の説明があります。知られていないようですので、ご紹介します。

     ──────

 まずドイツ語の原文を全部掲げます。下線部に注意して一応、全部お読みください。

     Der Lindenbaum
             一Wilhelm Müller

  Am Brunnen vor dem Tore,
  da steht ein Lindenbaum;
  ich trämt' in seinem Schatten
  so manchen süßen Traum.

  Ich schnitt in seine Rinde
  so manches liebe Wort;
  es zog in Freud’und Leide
  zu ihm mich immer fort.

Ich musst' auch heute wandern
  vorbei in tiefer Nacht;
  da hab ich noch im Dunkeln
  die Augen zugemacht.

  Und seine Zweige rauschten,
  als riefen sie mir zu:
  Komm her zu mir,Geselle,
  hier findst du deine Ruh’!

Die kalten Winde bliesen
  mir grad ins Angesicht,
  der Hut flog mir vom Kopfe,
  ich wendete mich nicht.

Nun bin ich manche Stunde
  entfernt von jenem Ort,
  und immer hör' ich's rauscben:
  Du fändest Ruhe dort!

 幼い時に抱かれた母の胸、幼い時に歌った唄のメロディー、幼い時に遊んだ樹の下、──それらは一生涯かけて吾人の気持の基底をなしてしまいます。吾人がそれを意識するとせざるとに拘らずです。それは上海で算盤(そろばん)を弾いている事業家の潜在意識の中にも眠つています。それは鬼畜の如き前科者の胸の中にも時々寝返りを打ちます。そしてそれが30年後40年後に何かの機会に眼ざめると(たとえば久し振りに故里へ帰って、井戸のある菩提樹の側を通ったりすると)、──人間は泣きます! たとえ二三十年間泣いたことのない人間でも泣きます。そして、その場の彼が、少し生活に疲れ人生に倦んだような気持の瞬間であったり、おまけに菩提樹の下が古井戸だったりすると……あぶない。非常にあぶない。

 この詞の主人公はそうした危機を無事に通過したのです。相当危なっかしい無事ではあったけれど、眼をつぶって、「桑原々々」と云いながら、後をも見ずにさっさと通ってしまったのがよかったのですね。

 通る時に菩提樹の枝は風にざわめきながら何と云ったか? Hier findst du deine Ruh’!と云った。即ち、「少し冷めたいかも知れないが、思い切ってドブンと飛びこんでごらん。あとはさっばりして好い気持だよ。お母さんのところへ帰ったようなものだ。勿論世間では一時さわぐかも知れないけれども、わたしに抱かれてぐっすり死んでいりゃ誰も何とも云いはしない、あとはわたしが引受けるから、思い切って飛び込んでごらん!」、菩提樹はこう云ったのです。菩提樹は母か乳母のような気持で云うのだから、決して悪い事は云わない。

 けれども詩の主人公は、まだ生きるつもりでいる。生きていたらまだ何か好い事があると思っている。人間て奴はみんなこんな馬鹿野郎です。菩提樹のいう事や母の云う事なんてものは、よく腑に落ちれぼ落ちるほど益々分かったような分からないような顔をしてブイとそっぼ向いて駈け出して行ってしまう。40になっても50になっても子供ですな人間と云う奴は!──

 菩提樹も、「頭が禿げて白髪が混るほど大きくなっていながら、うちの坊やはどうしてこう聞き分けが無いのだろう‥‥‥」と溜息つきながら後を見送っている。

 菩提樹の危機をやっとのがれた主人公は、ほっと一安心して、まあよかった、と思うと同時に、心の中に、母なる菩提樹の愚痴を開きます:Du fändest Rube dort!

 これからがいよいよ文法上の問題です(文法というものは興醒めなものです)。

 Du fändest Ruhe dortと、最後は findestの代りに fändestが使ってある。安楽に成仏出来るの「だろうになあ」という事です。と云うのは勿論「わたしの云う事を聞いてわたしの膝元へかえるとしたら」です。最初の findstの時には、本人を前に置いて飛び込むことをすすめる最中だから、実現の可能性を前提して直接法が用いてあったが、今度はもう駄目だとあきらめた後のこと故、愚痴のように fändestと云っています。

 この詩の最後のところが、幽(かす)かに、静かに、ゆるやかに、嘆くが如く、訴うるが如く、かこつが如く、溜息つくが如く、嫋々(じょうじょう)たる鈴音を以て ausklingen(後を引きながら鳴り止む)しているのは、主としてこの「仮定話法の結論部の独立用法」のためであると云えましょう。試みにそのつもりで一つ読み直して味って見て下さい。findstのところはゾットするほど「物凄い」。fändestの所は天籟(てんらい)の如く幽かに妙えなる響を持っています。

 ついでに。Du fändest Ruhe dortは、散文口調ならば Du hättest dort Ruhe gefundenでしょう。Du würdest dort Ruhe findenも考えられますが、この方はあまり面白くない。やはり hättest gefunden の方が「恨む」意味がはっきりと出ます。一たい完了形にする方が非現実的色彩がはっきりと現れます。


原発の後始末

2009年08月26日 | カ行
 日本原子力発電東海発電所を訪ねた。日本初の商業炉として1966年に営業運転を始め、1998年に現役を退いた原発だ。

 2001年末から17年がかりの「後始末」が続いている。出てくる金属やコンクリートの廃棄物はざっと20万トン。核分裂生成物などの高レベル廃棄物は含まれないが、3割余りは放射性のものだ。

 このうち2万3500トンは、放射線の程度に応じてさまざまな深さに埋める。なかでも、原子炉や周辺設備のように最も程度の高い1500トンは、深さ50~100㍍の地中に管理施設をつくって埋設しなければならない。どこに施設をつくるのかは、まだ決まっていない。

 一方、年間の放射線量が一般人の被爆限度の100分の1以下の4万トンは、法律上、放射性廃棄物として扱わなくてもよい。一部は屋外ベンチやコンクリートブロックに再生されているが、さすがに一般の公園で使うのは難しく、原子力関連施設の施設内で使うにとどまる。

 「後始末」の段階でも、原発には放射性廃棄物の問題がつきまとうのだ。

 昨今、原発は二酸化炭素(CO2)を出さないので地球温暖化防止に役立つといわれる。確かに、その一面はある。新潟県中越沖地震で東京電力柏崎刈羽(かりわ)原発が止まった2007年度、日本の温室効果ガス排出量は過去最悪になったのだから。

 ただ、CO2は出さなくても、さまざまな放射性廃棄物は出す。脱温暖化に貢献しても、やっかいな問題が消えてなくなるわけではない。
   (朝日、2008年11月28日。村山知博)

少人数学級

2009年08月24日 | サ行
 日本の小学校の1学級あたりの児童数は28.2人。経済協力開発機構(OECD)加盟国では下から2番目の低水準だ。

 中学校も下から2番目の33.2人で、OECD平均の23.8とは約10人の開きがある。

 文部科学省の幹部も「日本は学級規模で言えば後進国」と認める。

  (朝日、2009年08月24日)

  小話・少人数学級とは25人以下のクラスのことを言う。

 昨年(2001年)の4月に高校標準法が改正されて40人未満の学級編成ができるようになったそうです。その結果「少人数学級」が実際に作られる例が出てきて、それが新聞記事になっています。歓迎するべき事だと思います。

 しかし、1つだけ気になる事があります。それらの記事を読んでいますと、そこで「少人数学級」と言われているものの1クラスの人数は25人以上なのがほとんどなのです。

 (2002年)02月15日付け朝日新聞に載っていた例も「県立高校で少人数学級」とした上で、「25~36人」とありました。こういうのでも「少人数学級」と呼ばれる日本という国は本当に教育後進国だと思います。

 国際的には25人以下のクラスだけが「少人数学級」と呼ばれるということをしっかり確認しておきたいと思います。(メルマガ「教育の広場」2002年02月27日発行から)