ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

 2008年10月から「第2マキペディア」として続けることにしました。

「天タマ」第13号の2

2006年09月24日 | 教科通信「天タマ」
「天タマ」第13号の2

     (その1から続く)

         教師の実力

──先生の実力は誰が一番よく分かるのだろうか? 生徒なのか、
同じ教師なのか。高校生くらいになれば、この先生はよく勉強しい
てるなとか、教える意欲があるなとか、教え方が上手だなというの
が分かってくる。学校の先生が勉強を教えるというけれど、学校の
先生より塾の先生の方がよっぽど教え方が上手いし、分かりやすく
工夫されているし、分かるまで教えてくれる。私は、学校の先生に
教えてもらったというより、中・高と、塾の先生に教えてもらった
ことの方が印象的だし、覚えている。

 教師も塾の先生も同じ勉強を教えるという仕事なのに、こうも違
うのは何故だろう? それは、塾の先生には、自分の専門教科を学
習する時間があるし、塾によっては生徒による評価もある。学校の
先生は公務員であったり、教師という組織の中で守られている。実
力主義ではない。塾は実力主義である。この違いも大きいと思う。
もっと教師は自分の専門性を理解し、自分の仕事をしてほしい。組
織に甘んじてはいけないと思う。

        学校カウンセラー

──先週の学校カウンセラーのVTRを見てカウンセラーの存在の
大きさを知った。私は不登校の経験はないが、ちょっと悩み事のあ
る時はいつも保健室に友達と行ったのを覚えている。進路のことと
か、特に私が看護学校を受験しようと決めた高校3年の夏以降は、
けっこう聞きに行った。誰かに自分のことを聞いてもらう、誰かに
自分の意見を受け止め、共感してもらうということは、すごく心強
いことがということを感じた。

          親に感謝

──最近、私の両親の子育て、私が受けてきた社会での教育(学校
)を振り返り、私の両親がこの両親でラッキーだったと思う。愛情
等はもちろんだが、それは別として、しつけに限らず、教養をつけ
てくれたと思う。私の中では出来上がってないものの、感性や性格
、教養など、本当にお金では買えないものを与えられた。今のとこ
ろ自分を好きでいられる自分があり、感謝している。

       俵万智と読む恋の歌

──俵万智と読む恋の歌は心あたたまるものでした。そして、すご
くその場の雰囲気が伝わってきます。そして、自分も「ある、ある
」と、うなづいてしまうものでした。ただの男友達だったのに、ふ
とした時に2人になってしまい、ドキッとしてしまったことなど、
思い出しました。やっぱり2人ともギクシャクしてしまい、思い出
しても笑ってしまうような行動をとってしまいました。これも青春
の1ページなんだと思いました。あの時、もっと女らしくしていた
ら~と後悔することもあったけど、彼とは今でもいい友達です。

──私は銀色夏生さんの詩がけっこう好きです。こんど本を全部集
めようかと思っています。心にジーンときたり、妙に納得してしま
う詩ばかりです。

         ピカソの絵

 これは極端に二つの意見に別れるようです。

──私はピカソの絵のどこがいいのか分からない。それは価値観の
違いだと思う。お金持ちの人がピカソの絵を売ってくれると言って
も、お金を出してまで欲しいと思わないし、タダでくれるといって
も迷うかも~。目の左右上下がバラバラで,鼻がどっか向いてて、
顔が青くて~などという絵はスバラシイのか? 発想は豊かだと思
うけれど。芸術とは難しい。

──ピカソは、不思議な絵しか見たことがなかったので、小さい頃
の絵を見てびっくりした。笑っている顔や、楽しそうな絵は1枚も
なかった。どんな気持ちでかいたのだろう。どんな人だったのだろ
う。もっと知りたくなった。

──私はピカソの不思議な絵になんとなくひかれます。画家になっ
た頃の絵は、自分の目に写ったそのままを描いていたような気がす
るけれど、不思議な絵は違います。不思議な絵には、絵の中に出て
くるものの訴え、雰囲気など様々なものが読み取れるし、またピカ
ソ自身の感情も読み取れるような気がします。いつも何か考えさせ
られるような感じだけど、あの絵にはピカソの人間全部が出ている
ような感じがします。

──先月、名古屋市美術館にピカソ展を見に行った時のことを思い
出しました。それまでの私のピカソに対するイメージは、理解でき
ないようなキバツな絵を描く人といった感じだった。そのピカソ展
では、ピカソの絵が時代にそって飾られており、その時代のピカソ
がどんな感じだったのかなどの説明もついていて、今まで理解でき
なかった絵も、なんとなくその思いを感じることができた。ピカソ
展では「青の時代」というシリーズにとても心がひかれた。VTR
にも出てきた「自画像」も青の時代の内の1枚だ。あのなんとも言
えないような青い色が今でも心に残っている。・・

 ★(絵画のシロウトとしての講師の感想)

 人間は対象を自分の主観を通して受け取ります。印象派の絵でも
同じことだと思います。ただピカソなどではその「主観」が必ずし
も分かりやすいものではないだけではないでしょうか。対象に対す
る理解と愛情をどうしてもこのようなデフォルメ(変形)や色によ
ってしか捉えられず、表現できないその画家の心の必然性に、鑑賞
者がどこまで共感できるかの問題ではないでしょうか。

 ピカソの大作「ゲルニカ」を見たことがありますか。スペイン内
戦の時、ファシスト・フランコの軍がゲルニカという町を無差別爆
撃しました。爆撃された民衆の阿鼻叫喚(あびきょうかん)を描い
ています。民衆に対する愛情とファシストに対する怒りがひしひし
と伝わってくる名画です。

       アンケート

──この前、他の授業でアンケートを書く機会がありました。6段
階評価だったので、何を基準にしてよいのか分かりませんでした。
ここで哲学の授業のことを思い出しました。しかし、結局自分の中
で勝手に基準を決めて評価しました。みんな、どうやってつけてい
るのか気になりました。

 ★ 私も色々なアンケートをしてみて、アンケートを取りさえす
れば好いという考えは間違いだと分かりました。授業を良くしたい
という意思が教師と生徒に共有され確認されていて、或る程度以上
の信頼関係が必要だと思います。教師は返事をすること、それによ
って生徒は「これが授業の改善に役立つ」と知っていること、こう
いった前提が必要だと思います。しかし、哲学の無記名のアンケー
トでも全ての項目に「3」を付けた人もいます。人間というのはな
かなか難しいものです。

          哲学の授業

──前回のレポートの感想に「あなたのレポートの雰囲気が以前よ
り落ちついてきたと思います」と書いてありました。それをみてち
ょっと驚きました。私はレポートが苦手で、このレポートを書くの
もいつも必死で書いていました。考えがなかなかまとまらず、あせ
ってしまうのです。何度も書いて慣れてきたのでしょうか。もっと
レポートがうまく書けるようになりたいです。

 ★ そのテーマについて思い出すままに箇条書きにする。全部書
き出してから、どう書こうかと考えて書きはじめる。これを実行す
るだけでも随分上達します。

──哲学は、今までの授業とは違った感覚があり、楽しかった。こ
れを続けていけば知的な人になれる気がする。人間は、広い範囲の
知識があると、頭がよく思える、私は。はじめは牧野先生とはどれ
ほどの人物かと思ったけど、結構笑顔のすてきな良い人でよかった
。あまり気合を入れすぎないようにして下さい。

──私はこの授業を受けて、自分の社会への関心のなさに気づかさ
れ、とても恥ずかしく思った。今後はもっと自分の身の回りからま
た日本や世界まで、深く考えられるような知識を身につけていきた
いと思う。

──今日でレポートも終わりということで、少し淋しい気がします
。90分という時間がそれほど長くないと感じられていたのは、その
時間、自分がいかに集中できていたかの表れだったと思います。私
でも集中できるのだということが分かり、それにはやはり授業の内
容というものが大きく関係しているということを実感できました。
このような授業に出会えて、本当によかったと思います。哲学とい
うものがどういうものであるのか、分かってきた気がします。これ
からも、筋道を立てて考えるということができるようになるために
、いろいろなことを考え続けていきたいと思います。

            冬

──12月になって寒くなってくると恋しいのは鍋。今、私の家族の
中で人気なのがキムチ鍋。骨つきの鶏肉を水から入れて、アクを取
るのは大変ですが、後は切ったごぼうやきのこ類、しらたき、そし
てキムチなどを入れて、だしの素で味をととのえれば出来上がり。
これは簡単で私でも作れるので、私がキムチ鍋の係みたいになって
います。体もあたたまって最高です。

──今年、私は初めてスノボ(スノーボート)をやる予定です(冬
休みに)。去年まではスキーだけで十分だと思っていましたが、オ
リンピックでの里谷たえさんの金メダルを見たり、雑誌や友達から
の情報をもらったりと、どんどん夢はふくらむようになって、つい
に今年スノボをやることにしました。先週の土曜日にスノボ用品を
集めて買ってきて、家に帰って着てみたりして、今からワクワクし
ています。

──もうすぐお正月です。私の家は何かあるごとにお餅をつきます
。私は小さいころからお餅つきに参加していましたが、これが結構
大変なのです。朝早くから薪で火を燃やし、釜でもち米をたくので
す。つくのにもかなり力がいるし、もち米自体が熱くて火傷するこ
とがあります。ふつう四角もち、あんころ餅、きなこ、鏡餅なども
作ります。でも、小さい頃から食べているせいか、店で売っている
ものより、つきたての自分で作る餅の方がとてもおいしいです。ち
なみに、もち米も自家製です。

       クリスマスとキリスト教

 間もなくクリスマスです。彼との楽しい時間を夢見ている人も多
いでしょう。しかし、この機会にクリスマスとキリスト教について
少し考えてみませんか。

 イエス・キリストというのは全体が個人の名前なのではありませ
ん。イエスだけが個人の名前です。苗字ではなく、名前の方です。
昔の人は出身地と名前で呼びました。「どこそこの誰々」と。イエ
スは「ナザレのイエス」と言いました。次に、キリストとは、元の
意味は「油を塗られた者」という意味ですが、そこから転じて「救
い主」、もっと正確に言うなら「旧約聖書でヤーヴェの神が約束し
てくれた救い主」という意味です。ですからイエス・キリストとは
「ナザレのイエスこそがキリストである」という判断を含んでいま
す。「帝王カラヤン」とかいうのと同じで、評価を含んだ通称なの
です。ですからキリスト者以外の人は本当はイエス・キリストと言
ってはならないのです。ユダヤ教の人達はイエスをキリストと認め
ませんから、絶対にイエス・キリストという言い方をしません。

 クリスマスはそのイエス・キリストの生誕を祝うキリスト者の祭
礼です。一度でいいですから、クリスマス・イヴを教会で過ごして
みることをお勧めします。


「天タマ」第13号の1

2006年09月24日 | 教科通信「天タマ」
「天タマ」第13号(1998年12月14日発行)

        市立看護専門学校 哲学の教科通信

 11日はレポートの最後の日となりました。2回分のテーマをみな
、黒板に書くとよかったのですが、それをしなかったので、例えば
学校カウンセラーについて、又1組では7日に読んだ「恋の歌」に
ついて書く人が少なかったです。

 講師の考え方についての印象をまとめてもらうことが中心でした
。やはり哲学の授業では、講師の考え方と対決するということが一
番大切な事だと考えたからです。「考え」と「考え方」とを混同し
た人もいたようですが、皆さんしっかり考えていたと思います。授
業全体のまとめになったようですので、沢山の人の意見を収録した
いと思います。

      講師の考え方について

──先生の考え方は、1つの文があったとしたら、その文を2通り
で考えている。私は文を深く考える方ではないので、1つ文があっ
たら、読んでいる時に理解した意味で考えている。しかし、この授
業で先生の話を聞いていて、1つの文にも2通り、又は3通りとい
ういろいろな考え方ができることを知った。そして、確かに1つの
文を1つの意味だけで考えてしまうのはどうかな?と思うようにな
った。そのため、最近は、この文はこうも考えられると、自分の中
で1つの文を2通りで考えるようになった。

──無職氏の投書についても、私は「この先生はいい人だな」とか
、表面的なことしか考えられなかったが、牧野先生は無職氏の考え
方の間違いを指摘している。さらに、どこがどう違うかをきちんと
筋道立てて考えていてすごいなと思う。

──無職氏の投書の件でも、「指導歴がある」というのは、前の学
校の教師の判断で、間違っているかもしれない、「指導」したのだ
からその後改善されているかもしれないということ。あの投書を見
た時、そこまで考えはしませんでした。牧野先生はすごく深い所ま
で考えて意見を言うなと、思います。

──初めてのレポートで私は「授業の進行の説明や、成績のつけ方
など、しっかり説明してくれるし、生徒の意見も聞いていくなんて
、いい先生」ということを書き、「天タマ」に載り、問題としてあ
げられていた。そのレポートは哲学で初めてのレポートで、私なり
にいろいろ考えをめぐらせて書いたつもりだったが、先生の感想は
一歩奥まで入り込んだ感想だった。

 「先生の意見は自分の考えを押しつけているだけ」という生徒も
いるようだが、先生本人としては「押しつけているのではなく、あ
くまで参考に」と言っている。実際、私にとって本当に参考になっ
ていたと思う。

──牧野先生の考え方は常に現実に基づいて構成されているので、
筋道が通っていて、分かりやすいと思う。小・中学校の先生、一部
の高校の先生等の物事の善悪の判断についての考え方には、筋道の
通っていないことが多く、結局納得のいかないことが多かった。牧
野先生とどこが違うかと言えば、小・中学校、一部の高校の先生の
考え方は、「学生とはこうあるべきだ」という彼らの信念のもとに
私達を当てはめようとしていることだと思う。

 どうして「学生はこうあるべき」でないとだめなのかについての
根拠がない。少し疑問を問い掛けてみれば、一般常識という言葉だ
けで片づけられてしまった。生徒の意見に耳を傾けようとしてくれ
ない。哲学とは、物事を筋道を立てて考えることと先生は教えてく
ださいましたが、牧野先生の考え方は本当に細かく細かく筋道が立
っていると感じています。

──授業が始まった頃は、自分の考えだけが正しくて、他人の意見
に耳を貸さない人だなあ、というように思っていた。正直言うと、
最初の2・3回目くらいは哲学の授業が苦痛だった。その初めの印
象が、先生の話を聞く時に邪魔をしてしまい、全て、賛成できずに
いた。そのお蔭で、先生とは話が合わないのだろうかという思いも
出てきました。

 しかし、この間の、教師の仕事・役割は何であるかの事例につい
て、先生が話している時、初めて先生の考え方が自分の中で納得の
いくものとなった。今までの自分自身がどうしても或る一方向の考
え方しか持っていなかったという気づきにもなった。先生が人の意
見、他の見方をしないのではなく、自分が偏見にとらわれて、いろ
いろな角度から物事を推測できていなかったということを知ること
ができた。そういう意味でもこの気づきは自分の中で良いものとな
った。

──哲学という授業のイメージとのギャップから始まったこの講義
は、いつも新鮮な気持ちで受けられた。この授業をただ「哲学」と
いう名前のもとに終ってしまうのはもったいないような感じがする
。もっとふさわしいネーミングがあるのでは~。

──哲学の授業を通して先生の考え方をたくさん学びました。それ
まで当たり前のように流してきた会話の1つ1つに注目することで
、どれだけその言葉が理に合っていないかなどを知りました。私た
ちはよく「普通~だよね」とか、「みんな~って思ってる」などと
いう言葉を使い、知らず知らず他人をまきこんで会話を成立させて
いる。自分一人が違う意見を持つのが怖くてそうなっていると思う
。なぜ皆と一緒でなければ不安になるかといえば、それは自分自身
の考えに自信がないからだと思う。~

 牧野先生は、自分の意見を根拠に基づいて持っていて、何度も感
心させられました。今回の professorは「教授」(教え授ける人)
ではないという話はとても興味深かったです。生徒は聞く義務はあ
っても、必ずしもそれに賛成する必要はない。私は、これが哲学な
んだなあと思いました。授業を聞いて、自分と意見が合わない→つ
まらない。これまでは私はこうでした。しかし、意見が合わない→
自分の意見はこうである→それはこういう根拠に基づいていると、
そこから自分を発展させていけることを知り、とても感動しました


 ★ professor =前に運ぶ人=自分の考えを明確に述べる人

──授業以外にみんなのレポートを読み、まとめ、感想を一人一人
に書くこと、熱の入った授業がきっと今の私を変えたところもあり
ます。授業前に「天タマ」を読む。休み時間に授業の準備をするの
は哲学の授業だけのような気がします。

──「天タマ」やコメントを下さる様子からは、牧野先生は「言語
というものにとても誠実な人」という印象を持っています。私はこ
んなに言語(コミュニケーション)というものに真剣に取り組んで
いる人は少ないのでは、と思います。

──先生は大学教授は勉強が足りないとおっしゃっていましたが、
現在大学生である友人やS大生に授業はどうなのか、教授との関連
はどうなっているのか聞いてみました。すると、「ただ一人でしゃ
べっているだけで、さっぱり意味が分からない」とか、「私はこう
思うとか、こう考えたなどと言う教授は1年に1人会えれば良い方
だ」という返事でした。

 私は、大学ってもったいないことをしている、どうしてそうなっ
てしまうの?と思いました。市看の先生はよく勉強していると思い
ます。私たちと一緒に考え私達の何倍も勉強しています。「私はこ
う思う」とはっきり言う先生も多いと思います。

──私は先生の授業を聞いて、「考え方」と「考え」というのは微
妙ではあるが、異なるものだと感じた。「考え」というのは、人そ
れぞれのものを持っているので、異なるのは当たり前だし、また同
じになることもある。~でも先生の「考え方」というのは持ってい
る人が少ないように感じる。

 先生の「考え方」というのは、自分の意見を押しつけるのではな
く、いつも「こういう根拠のもとにこう考える」という、考えに対
する自分の導き方を話していた。冷静かつ豊富な知識・経験のもと
に導いてきていると思う。「考え」を教えるのではなく「考え方」
を教える。この2つは同じだと言う人もいるかもしれないが、私は
こう思ってしまったのである。

──最近の私は、先生が問題提起の前提として話すことを聞きなが
ら、ん?今日はどこがおかしいのかな?と、私なりにここはちょっ
とほっておけない問題だぞぉ、というのを探しながら聞いている。
先生と一致している箇所はあった時も1回や2回くらいあったと思
う。だが先生と自分の視点は違っていて、自分の中でもある程度「
ここが問題だ」と理論的に考えてみるのだけれど、結局先生の話を
聞いて「あっ、そうか」と納得してしまう。というのも、私が理論
的に考えたことはまだまだ中途半端であって、だからどうするべき
かという具体的な内容、解決まで達していないことが多いからであ
る。

──まさしく professor=自分の考えを前に出す人であると思う。
自分の考えを言わずして何が教師か、という考えに賛成です。この
20年間に私はこのような「教師」に出会ってきただろうか。いや、
きっと初めてだと思う。初めてだから最初は戸惑ったりもした。し
かし、今ではすっかり慣れてしまったし、牧野先生の言葉はストン
と胸に落ちてくる感じだ。「哲学は筋道をつけて考える」ことであ
る。物事に筋道をつけて考えるというのは実に「面白い」ことだと
思ってしまうのは不謹慎だろうか。

 授業前は一般論みたいな教科書に載っているようなことを学ぶこ
とが「哲学」であると考えていたが、実際に私達の生活している回
りにも「哲学」が生きていることを知るのと同時に、ずんぶん世の
中には「間違っていること」が当たり前のようにまかり通っている
な、という印象を受けた。「正しい」ことは「正しい」と言える、
そんな哲学の授業は大変興味深く、刺激を受けた。同時に自分の考
えを持つ(持ちつづける)ことの難しさも感じた。自分の考えを他
人に理解してもらい、受け入れられるのは何と大変なことだろうか
。私にはまだまだ努力と経験が必要なようである。

 牧野先生に出会ったことで、自分は今まで何と片寄った視点から
しか物事を見られなかったのだろうと気づかされると同時に、うま
くは言えないが、目の前が切り開かれたような、今までごちゃごち
ゃしていた物事がスッと片づいていくような、そんな感じを受けた
。「筋道を立てて考える、相手のことを考えて発言する」ことを心
に留めておきたいと思った。

      ドイツの子どもの生活

──はっきり言ってうらやましいです。学校は1時で終わり、部活
などもなく、真っ直ぐ家に帰ることができるなんて。やっぱり日本
は勉強ばかりやりすぎだと思う。小学生でも部活をやったり、塾へ
行ったりと、家にいる時間がドイツに比べて少ない。だから、家族
がバラバラになったり、家族の会話が少なかったりするのではない
かと思う。

 小学校は10歳まででもう進路を決めることができるなんて、考え
られないことだと思った。もうそんな小さい時から選択できるなん
て、自立が早いなと思う。又、家庭を基本として、あったかい感じ
がするし、18歳をすぎたら大人ということで、一切指図されないな
んて、信用されてるんだなと思う。親と子のきずなが強いんだなと
思う。そう思うと、日本は教育がだめだったのかなという感じがす
る。受験戦争なんて親のエゴなのかもしれないと思う。

──〔幼稚園が〕環境の好い所にあるということは魅力的な事だと
うらやましく思えた。私は焼津なので、ほどよく緑もあって自然に
ふれて育った。小さい頃に自然にふれることはとても大切だと思い
ます。~部活は学校の仕事ではないということも印象に残りました
。私は中高と運動部で、休みもなく一番遅くまで残って部活をして
きました。やっている時は本当に辛かったけれど、今となっては良
い思い出です。

        学校と教師の仕事

──例えばこの学校の先生は私たちに看護を教えて下さるわけで、
みな看護婦です。その道の経験者で、専門職です。それではここで
先生の仕事は終わりかというと、そうではないと思います。みんな
、少々学校がきつくて嫌になった時、その他、悩みがある時、さり
げなく聞いてくれる先生が数多くいると思います。

 この学校は年2回ほど、担任の先生との面接があります。本当に
先生の仕事が看護を教えることだけだったら、個人のプライベート
にまで関わる必要はないわけです。そのような悩み相談は先生のプ
ライベートの時間が削られて行われるのではなく、学校の勤務内で
行われているのですから、教員として対処してくれているので、仕
事として行ってくれているのだと思います。先生の仕事は教えるこ
とだけとは限らないと感じます。

──神戸小学生連続殺傷事件のことで、先生は事件の前の暴力事件
の時、警察に引き渡すべきだったと言いましたが、それはどうかと
思う。まだ未成年であり、責任能力もなく、すごい負担になると思
う。世間体に関する事、重荷を一生背負っていくこと等、無理では
? だから、その時に違った方法で(カウンセラーなど)原因や次
の行動を予防すればいいと思う。

 神戸事件は結果的に最悪なことになったが、暴力事件の時の担任
はもっとその子に注意を向け、必要な対処法を見つけるべきだった
。「学校に来なくていい」は、他の生徒への〔同じ〕被害〔の発生
〕を防ぐためであったろうが、それでも家を訪ねてみたりする等、
少年に関心を持つべきだったのでは?

 ★(質問) あなたの考えではどういう場合なら警察に引き渡す
のも仕方ないということになるのでしょうか? 鑑別所や少年院な
どは原理的にあってはならないということでしょうか? あっても
良いとするなら、どういう人のためにあるのでしょうか。犯罪を犯
したなら、少年院等に入らなくても、重荷を一生背負う(償いの人
生を生きる)のは、当然ではないでしょうか? そこまで考えてみ
て下さい。

 (その2に続く)