ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

 2008年10月から「第2マキペディア」として続けることにしました。

教育の広場、第 228号、小沢民主党への期待

2006年04月10日 | マ行
 (2006年)04月07日、民主党の代表選挙があり、小沢一郎氏と菅直人氏が争い、小沢氏が選ばれました。

 2人の意見発表を聞きました。

 菅さんの長所は「失敗から学ぶ力」だと思っています。これあればこそ、市民運動から出発して大政党の実力者にまでなったのだと思います。具体的な例としては、最初の代表の時は「イラ菅」とか「独断専行」とか言われて散々でしたが、2度目の代表の時はそういう批判は聞きませんでした。

 それどころか、小沢自由党とも合同して、2003年秋の総選挙では小泉自民党に後一歩という所まで迫りました。実質的には勝利と言ってもいいくらいでした。 しかし、ある意味ではこの「勝利」こそがその後の菅さんの反省を妨げたのかもしれません。未だに、菅さんは党の末端の日常活動の重要性とその活性化策に思い及ばないようです。

 氏の意見発表を聞いていましたら、「民主党がまとまれば自民党に負けないだけの力がある」という趣旨のことを言っていました。しかし、ここで念頭に置いていたのは国会議員のことだけだったと思います。つまり、党が、国会議員がまとまれば2003年の時と同じやり方で勝てるという意味だと思いました。

 それに対して小沢さんの意見発表は全体としても堂々とした構成になっていましたが、その最後で「私自身も変わらなければならない」と言いました。そして、それに続いて、「民主党の改革」という言葉を口にしました。具体的に何を考えているのかなと後を期待しましたが、何もありませんでした。少しがっかりしましたが、ともかく後援会ではなく党組織というものが頭の中にあるだけましです。

翌04月08日付けの朝日新聞を読んでいましたら、こう書いてありました。「小沢氏は次の総選挙での政権交代を公言し、そのために年明けから全国の党員・サポーターの数や支持動向を分析するなど、ひそかに~準備を進めていた」と。

 (もちろん後援会も重要ですが)後援会ではなく党組織、しかも末端の党組織こそが一番重要だと考えているのです。

 同日の同紙静岡版にはこんなことが書いてありました。自民党静岡県連の前沢幹事長が小沢氏の政治手法について、「市町村支部の活動や党員の拡大などを重視する『自民党的』」と分析している、というのです。

 敵は核心を見抜いているようです。

 私も政権交代論者としてささやかながら民主党を応援してきましたが、民主党の人からはついぞこのような言葉を聞いたことがありませんでした。しかし、この「市町村支部の活動や党員の拡大などを重視する」という正攻法が党のトップからなされる可能性が出てきたのです。もちろんまだ「可能性」にすぎません。その「重視」も自民党と同じようなものかもしれません。

 現に、09日の朝日によりますと、小沢代表は「来年の参院選に向け、候補者発掘に自ら全国を回る考えだ」そうです。

 もちろんこれだけでは不十分です。しかし、組織運営の基本が、言葉としてはではありますが、しかもほんの少しですが、ともかく出てきたのです。しかも党のトップからです。期待していいでしょう。期待するしかないでしょう。

 公正を期して菅さんのために付け加えておきますと、小沢代表と菅代表代行と鳩山幹事長の3人で週に1回程度、定期的に会合を持って話し合うことになったそうですが、これは菅さんが提案したそうです。これは当然の事ながらよかったと思います。なぜなら、組織運営の基本には「定期的に」会合を開くということも含まれているからです。

 スターリン時代のソ連共産党とか毛沢東時代の中国共産党とか現在の北朝鮮の労働党とかは定期的に党大会を開いていません。

 ここまで問題を大きくしないでも、民主党の次の内閣は定期的に「閣議」を開いているでしょうか。県連は役員会を定期的に開いているでしょうか。総支部は総支部大会を最低でも年に1回開いているでしょうか。少なくともそれぞれのホームページにその報告は載っていないと思います(例外はあったとしてもごく少数でしょう)。

 これに対しては、必要な時に開けばいいという考えがあると思います。こういう意見に対しては、それこそが組織の何たるかを知らないコドモの考えだ、とだけ言っておきます。

 支部の活動を全ての党活動の基礎として重視すること、上から下までそれぞれのレベルで定期的に会合を開くこと、内容のある通信を発行すること、この3つを認識し実行するならば、民主党は本当に生まれ変わると思います。

  (2006年04月10日発行)


教育の広場、第 227号、朝日新聞綱領の検討

2006年04月05日 | 政治関係
教育の広場、第 227号、朝日新聞綱領の検討

 (2006年04月05日発行)

 朝日新聞社には朝日新聞綱領というものがあるようです。4月2日の一面
に載っていました。まずそれを写します。

 一、不偏不党の地に立って言論の自由を貫き、民主国家の完成と世界平和
  の確立に寄与す。
 一、正義人道に基づいて国民の幸福に献身し、一切の不法と暴力を排して
  腐敗と闘う。
 一、真実を公正敏速に報道し、評論は進歩的精神を持してその中正を期
  す。
 一、常に寛容の心を忘れず、品位と責任を重んじ、清新にして重厚の風を
  たっとぶ。

 まず気になったことはこれを社是と言わないで綱領としたことです。普通
の会社では社是と言うのではないでしょうか。綱領などと聞くと、左翼政党
のような感じがします。

 では社是と綱領はどう違うのでしょうか。学研の大辞典を引いてみました
。社是には「その会社の基本的な経営方針」とありました。

 綱領には「ある物事・方針などの大元になる要点」というのと、「〔政党
・団体などの〕政策・運営方針のよりどころとすべきものを示したもの」と
がありました。

 ほとんど違いはないと思います。会社か団体かの違いくらいです。すると
、新聞社は普通の会社と違うから社是にしないで綱領にしたのでしょうか。


 まあ、それはいいとしましょう。しかし、ここではっきりさせたい事は左
翼政党(特に共産党)の場合、その党の本質を表現したものは綱領なのかと
いう問題です。

 どうも一般にはそう思い込まれているようです。少し古い話ですが、民主
党の管直人さんが、共産党との協力ができない理由として「綱領があるから
なあ」(多分、「綱領に社会主義、共産主義社会を目指すと書いてあるから
」という意味)のことを言っていたと思います。

 共産党を理論的に批判する人もたいてい綱領を批判します。規約を批判し
た人は、多分、私しかいないでしょう。

 しかし、私見では、共産党の本質を最もよく表すものは規約だと思います
。規約の冒頭には組織の目的が書かれてありますし、目的こそその組織の本
質だからです。

 今は変わりましたが、昔の規約には長々とした「前文」があり、そこにも
本質的な事が書かれてありました。

 分かりやすく言うならば、共産党は全体主義の党だと思いますが、なぜそ
うなったかと言いますと、その民主集中制が正しく理解されていないからな
のです。そして、それをねじ曲げる梃子が「理論と実践の統一」であり、「
批判と自己批判」なのです。これらは規約に書いてありました。

 綱領という日本語は多分「プログラム」の訳語だと思います。ですから、
その意味は規約で定められた目的を達成するために、現下の情勢分析に基づ
いてどういう手順を取るかを定めたものなのです。

 朝日の綱領に返ります。これは4つの項目から成っています。最初の2つ
は目的の表現でしょう。後の2つは手段を述べているのでしょう。言論機関
として、自分たちはどういう性質の言論を使うかを述べているのだと思いま
す。

 民主社会とか世界平和とか進歩的言論とかを言うことはそれ自体が既に1
つの立場であり、従って本当は不偏不党ではないのですが、そこまでは言い
ますまい。不偏不党とは「特定の政党、宗教、団体に与しない」という意味
に解釈しましょう。

 手段としての言論についてだけ言います。「真実を公正敏速に報道し、評
論は進歩的精神を持してその中正を期す」がやはり不正確だと思います。

 第1に、「真実」はここでは「事実」を強調した表現のつもりでしょうが
、実際の言論では、部分的事実と全体的真実の区別が大切です。部分的事実
に捕らわれることなく全体的真実を追求することがジャーナリズムでも学問
でも大切です。これの違いを知らないために沢山の間違いや混乱が起きてい
る現実に鑑みて、この用語は是正すべきでしょう。

 第2に、評論の中正という点については、紙面の現状から推測して、中正
な評論を掲げるという意味だと思いますが、それが正しいか疑問です。私見
では、或る評論への批判的な評論は読者からのものであっても、原則として
載せる、つまり「議論を尊重する」というスローガンを掲げるべきだと思い
ます。

 もう随分昔の事になりますが、国語学者の大野晋さんが「日本語の起源は
タミル語ではないか」という説を朝日紙上で述べた時、他の学者が批判し、
それが載りました。大野さんは答えました。すると又、批判者が批判しまし
た。そしてかなり何回も議論があり、ついに大野さんが「もう止めたい」と
言って打ち切りになりました。

 私は議論ではルールを明確にし、又ルールを時々見直しながらしなければ
ならないと思っています。基本的には2往復までで止めるべきです。

 それはともかく、民主社会だというのに、世間には議論が少なすぎると思
います。特に議論を中心にしなければならない学校とか言論機関でそれが少
ないのは問題です。

 ついでに、なぜ学校などで議論が敬遠されるかと言いますと、「実り多い
議論」「やってよかったなと思える議論」のためにはルールと方法と司会者
のリーダーシップが必要なのですが、ではそういうルールや方法とはどうい
うものか、どういうリーダーシップが必要かが研究されておらず、理解され
ておらず、知られていないからだと思います。

 最後に、1人の人にコラムを担当させるのも例えば10年とかの時間的上限
を定めたらどうでしょうか。具体的には、朝日新聞の夕刊の加藤周一さんの
「夕陽妄語」とか吉田秀和さんの音楽時評とか、ファンも多いと思いますが
、あまりにも長すぎるのではないでしょうか。

 これも朝日新聞に送ってみますが、多分、「参考にします」という答えく
らいしか返ってこないでしょう。


号外、ご説明

2006年04月03日 | 挨拶
 ご説明

 このブログ「教育の広場」は2005年06月09日に始めました。

まず、メルマガ「教育の広場」を掲載すると同時に、そのバックナンバー
も逆上って掲載しようと考えました。

 そのため、メルマガ「教育の広場」を第 201号から順に掲載する一方、第
200号から逆に逆上って掲載するということにしました。その結果、2つの
方向が混在することになりました。

 2006年04月02日に第01号を掲載しました。これでバックナンバーをすべて
掲載したことになります。

 今後は毎日新しいものを載せるということはできないと思います。新しい
メルマガを出した時、こちらにも掲載するという形が主になります。

 もちろん「 NHKの広場」とか「業績一覧」とかは、該当する記事が出来ま
した時に追加するつもりです。

 2006年04月03日、牧野 紀之

教育の広場、第01号、悪貨が良貨を駆逐しないために

2006年04月02日 | 教育関係
教育の広場、第01号、悪貨が良貨を駆逐しないために

(2000年10月08日発行)

 (2000年)10月03日付け朝日新聞の声欄に次のような投書がありました。

「2番目の子が小学3年の時だ。もうすぐ夏休みが始まるというある夜、何
か一生懸命に書いている。何をしているのか見ると、担任の男の先生の通信
簿をつけていた。

例えば、算数では『分かりやすく教えたか』『後ろまで声が届いたか』、
体育なら『安全に教えていたか』『楽しく授業ができたか』などだ。どの教
科も5項目の評価になっており、それぞれの欄の『できる』『ふつう』『も
うすこし』に子供たちが印を付けるようになっていた。自作の通信簿だった
が、先生を採点する通信簿は初めて見た。

彼は、教職試験に合格するまで5年かかったという。初めての保護者会
で、産休教師や児童館の臨時職員などを経て、やっと念願の教師になれたと
話してくれた。そんな初々しい笑顔を思い出しながら、子供たちの自分への
評価を、これからの努力目標として頑張ろうという情熱が伝わってきた。

子供が書いた先生への評価を見ると、すべて『できる』に印が付いてい
た。すごいねと言うと、『先生、頑張っているもん』と言った。3年前の出
来事だが、この先生は今も頑張っている。こんな先生がたくさんいるといい
な。」

 投書者は東京都練馬区の主婦で43歳のMさんとなっている。

 実際、こういう風に自分の通信簿を生徒に付けさせる先生は少ないと思い
ます。高校でも大学でも「学生による授業評価」は少しずつ行われているよ
うですが、まだあまり広がっていないようです。それどころか、熱心な先生
が圧迫されたという例を聞くことの方が多いようです。

 或る中学校で或る先生が頻繁に学級通信を発行した所、同じ学年の他の
クラスの担任から「そんなにやられると私が迷惑する」と言われたという
話を聞いたことがあります。

 つい最近も「大学の授業を考える会」のホームページにこんな話が載って
いました。それはこの「学生による授業評価」が悪用されているというもの
です。つまり、評価のよすぎる教員に対してやっかみ、難癖をつけて解雇す
るというのです。

 残念ながら、教師社会の実情はこのようなものなのです。この投書で報告
された先生は、幸い、まだ頑張っているようです。それはそれで嬉しいこと
です。しかし、これから先、何かの事情でこの熱意が冷めてしまう可能性も
あると思います。それに対して我々はどういう応援の仕方があるでしょう
か。

 このように投書をするということもたしかに一つの行動ではあると思いま
す。しかし、良貨を駆逐しようとする悪貨の力に比べると、それはあまりに
も小さな行動ではないでしょうか。ではどうしたら好いのか。このメルマガ
ではこういう事も考え合っていきたいと思っています。

教育の広場、第02号、教育改革「市民」会議を!

2006年04月01日 | 教育関係
教育の広場、第02号、教育改革「市民」会議を!

(2000年10月11日発行)

 総理大臣の「私的」諮問機関「教育改革国民会議」が先日、中間報告をま
とめて発表しました。その後、これについての議論がなされています。

 しかし、私はその内容上の問題ではなく、この中間報告の出され方及びこ
れに反対の立場を取る人たちの立ち向かい方について、つまりこの中間報告
を巡る形式面の問題について考えてみたいと思います。

 第1に、これを出したのは総理大臣の「私的」諮問機関だそうですが、こ
の「私的」というのはどういう事なのでしょうか。誰か知っている人がいた
ら教えてください。この「私的」が付かない単なる「諮問機関」とどう違う
のでしょうか。普通の日本語として理解すると、こういう大問題について「
私的な」ものが事実上「公的な」報告をまとめるということ自体、おかしい
のではないでしょうか。

 第2に、これに対して野党は批判的な見解を発表しています。共産党の見
解はどこを探したらいいのか分からなかったのですが、民主党と社会民主党
の見解はHPで簡単に分かりました。それらは共に3点にまとめられていま
したが、いずれもこの報告の「内容」に関するものだけでした。

 私は少し前に民主党のネクスト内閣の教育関係の部署にメールを送り、「
党内だけで議論するのではなく、国民会議のように幅広く外部から人を集め
て教育改革国民会議に対抗する会議を作って考えたらどうか」と提案しまし
た。しかし、このメールには返事がありませんでした。

 私の提案したいのはこの事なのです。特に民主党に言いたい事は、政権を
取るといい、ネクスト内閣を作るなら、政府のする事に対しては一つ一つそ
れに対抗するものを作って対処していくべきではないでしょうか。もちろん
政府に対抗して後から何かをするだけでなく、自分から先に何かを始めても
構わないと思います。とにかく、こういうふうに政府は国民の各層から代表
者みたいな人を集めて政策を立てているのです。それに取って代わるには同
じようにする必要があると思うのです。

 第3に、この事は新聞や雑誌に意見を発表している識者についても言える
と思います。皆さん立派なご意見を発表しておられると思いますが、「市民
会議を作って対抗しよう」という種類の発言は聞かれないのです。

 確かに会議を作るとなるとそれは組織ですから、管理・運営する人々が必
要になります。総理大臣の私的諮問機関の場合は、多分、文部省の役人か総
理大臣の部下がそれをしているのでしょう。

 しかるに、識者だからといって必ずしも管理・運営の能力があるとは限り
ません。ですから自分でしなくても好いと思うのです。しかし、「市民会議
を作る必要がある。私にはできないが、誰かがやってくれるなら私はそれに
参加してもいい」とは言えると思います。

 もちろん本当はこれを主催するのは野党の仕事であり、特に民主党の仕事
だと思います。この点は第2点に書きました。

 第4にお金の問題があります。こういう会議の委員になって会議などに出
席したりといった「活動」をすると、何らかの「手当て」が支払われるらし
いのです。この「私的」諮問機関でも多分、各委員には手当てが支払われて
いることでしょう。

 その金額はどのくらいなのでしょうか。どこかに公表されているのでしょ
うか。又誰が払うのでしょうか。来年4月から情報公開法が施行されると調
べられるようになるのでしょうか。知っている人は教えて下さい。

 私がS県の行政評価委員についてそれを県の総務課に問い合わせた所、S
県では会議などに1回出席すると各委員に1万2千円支払うそうです。委員
長は1万3千円だそうです(しかし、委員長は県立大学の教授なので実際に
は支払われない)。

 もし民主党でこの種の市民会議を作ったとしたら、やはり手当ては支払っ
た方がいいでしょうか。これも問題です。そして、支払うとするなら、やは
り民主党が支払うべきなのでしょうか。もちろんそのためのカンパも受け付
けていいとは思いますが。

 以上、私は教育改革国民会議を巡る形式面について問題を出しました。皆
さん、どのようにお考えですか。