牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

心が責められても

2017-08-03 18:13:27 | Weblog
;ヨハネの第一の手紙3:20-22 たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。

愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。

高校生の時、種子島でイエス‥キリストをアーメンと信じました。その十字架の愛で、すべての罪を赦され、神の子とされ永遠いのちを受け、恵みと愛に守られ平安で幸せです。

自分の心が責めても、十字架の血潮にきよめられ、大きな神の愛に包まれています。

恐れる事なく天のお父様、アバ父よと近づき祈れる幸い。

大胆に神の御前に出ることができます。

求めなさい。そうすれば与えられます。約束にアーメン。アーメンは題目でも呪文でもなく

神の愛の約束のことばに、本音で本当です。誠ですと答えているのです。

求めるものは何でも、神からいただくことができる幸い。

ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝してます。

天国言葉

2017-08-03 18:07:24 | Weblog
マタイの福音書15:11 口にはいる物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。」

レビ記には食べてはいけない食物の規定があり、食べる物によって聖となるか、汚れた者となるかに規定されていました。厳しい宗教的既定の中での発言ですから、そう信じて頑なに規定を守り、人々の生活までも規則で縛る人々にとっては耐え難い教えでした。その意味は、 口にはいる物はみな、腹にはいり、かわやに捨てられることを知らないのですか。しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。と、イエス・キリストは教えました。

口から出るもの=ことばです。ことばは口から出るから、それは人の心の思いです。心の思いが良ければ、良い言葉を語ります。

叶うと言う字は、口に+と書きます。口からプラスの聖書のことばを語れば、その通りにかないます。

吐くと言う字は、口に+ではなく土です。マイナスのことばを吐き散らせば、どろどろ人生です。

今日も天国ことば=前向きで、肯定的で積極的なプラスことばで、祝福の人生を歩みましょう。




恵みと愛とは 朝ごと日ごと 

主イエスの十字架 罪を贖い 

呪いを消し去り 病も癒し

心をきよめて ことばも変わる




豊かな恵みに つつまれ生きる

雪よりも白く 心洗われ

聖なる思いと 聖なることば

今日も天国 ありがとう感謝




主イエスは復活 共におられて

聖霊注いで 真理の道を

真すぐに歩ませ 実り豊かに

ハレルヤアーメン 天国の日々

アーメン




ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝してます。

あいはいのち

2017-08-03 17:48:24 | Weblog
マタイの福音書14:14 イエスは舟から上がられると、多くの群衆を見られ、彼らを深くあわれんで、彼らの病気を直された。
当時のガリラヤ地方は、南北80キロ、東西40キロの間に、204の町村があり、それぞれ1万5千人以上だったそうです。イエス・キリストは、病を癒し奇跡をすることで良く知られ、領主ヘロデでさえ、その噂を知り、自分が虐殺したバプテスマのヨハネが、死人の中から生き返ったんだと恐れるほどでした。
そんな中でガリラヤ湖の対岸に、難を避け、群衆から離れて休むために、船で逃れました。しかし、人々は町々から歩いて、イエス・キリストの後を追いました。休む間もない中で、多くの群集を見られ、
彼らを深くあわれました。平和と静寂と孤独を求めたのに、もう群衆に取り囲まれたのです。キリストは、腹を立て、うるさいという気持ちを、声を荒げて追い返しませんでした。彼らを深くあわれみました。
あわれみは、単なる気休めの同情心ではなく、はらわたがよじれるほどの断腸の思いです。
英語=compassion=人の痛みを理解し、何かをしてあげたいという、断腸の人道的な性質の現れです。そこから生まれる辛さや悲しみを自分のものと感じ、助け癒し救う力です。
へブル書2:18 主=イエス・キリストは、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。
4:15 私たちの大祭司=イエス・キリストは、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
そして、彼らの病気を直されました。奇跡は見世物や人寄せの手段ではなく、神の愛の現れです。
愛=Love
L=Listen=聴くこと
O=overlook=大目に見ること
V=voice=声をかけること
E=effot=努力すること
愛は、それなりの努力や時間を割くことなど犠牲を伴います。その犠牲とは思わない生き方です。愛こそが最高の憐れみです。その愛を十字架に見ます。
ヨハネの福音書15:13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。あなたがたはわたしの友です。
ペテロの第一の手紙2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
ありがとうございます。今日もまた憐れみ豊かな天国の一日です。感謝します。

裁き合うな

2017-08-03 05:20:21 | Weblog
信条の違いで裁き合うことなかれ

宗教的なしきたりや、伝統的な習慣に寄って、ある特定の日を、その他の日よりも重んじ、その日に特別な祭事を行い、それを守るべきだと考える人もいる。
しかし、神の前ではどの日も同じように大切であって、ある日を特別視をする必要はないと考える人もいる。
信仰を持つということは、このようなことで裁き合うことではない。
そんなことは、各々が自分の確信に基づき決めればよいことだ。

ローマ人への手紙14:1-21 あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。
何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。
食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。
あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。
ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。
日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。

私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。
もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。

それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。
次のように書かれているからです。「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。」
こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。

ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。
主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。
もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。
ですから、あなたがたが良いとしている事がらによって、そしられないようにしなさい。
なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。

このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。
そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。
食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません。すべての物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような人のばあいは、悪いのです。
肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、そのほか兄弟のつまずきになることをしないのは良いことなのです。