石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

37 佐渡の石工の五百羅漢(富山・長慶寺)

2012-08-16 05:52:15 | 羅漢

NO14-16「佐渡相川の石造物」やNO33「よし子地蔵」でも書いたことですが、私の田舎は佐渡島です。

加齢とともに望郷の念は募るばかりで、「佐渡」という文字や言葉に過剰反応する自分に驚いてしまうほどです。

ですから、今年の夏、富山市の長慶寺を訪ねたのは、私としては至極当然なことでした。

長慶寺の五百羅漢は佐渡の石工の手になるもの、と聞いていたからです。

長慶寺は富山市の西部、富山駅から神通川を渡ると眼前に聳える呉羽山の北のはずれにあります。

現在は曹洞宗ですが、もともとは真言宗で、良弁開基と伝えられています。

参道を行くと右の崖下に墓地、墓地の向こうに広がる市街の先には立山連峰が望めます。

本堂はこの墓地と市街を見下ろす形でどっしりと構え、その左の石段の先の急斜面に五百羅漢はおわすのですが、境内からその姿を見ることはできません。

                                                              長慶寺本堂

石段を上る。

石段の両側に羅漢さまが整然と並んで姿を現します。

一体につき一塔の灯籠がついているのが、長慶寺五百羅漢の特徴。

完成してから150年、羅漢さまも灯篭も崩れかけたものが目立ちます。

完成してから150年と書きましたが、正確に言うと安政5年(1858)からですから、154年。

五百羅漢造立計画が始まったのが、寛政10年(1798)ですから、60年の大事業でした。

だから最も古い羅漢さまは214年の歳月、風雪に耐え、ここに座していたことになります。

その最古の羅漢さまが、最下段、最前列の左端から一番、二番と並んでいます。

           十六羅漢

しかし、これは五百羅漢ではありません。

十六羅漢なのです。

     十六羅漢第2番                    第3番

五百羅漢と十六羅漢の違いは、釈迦の弟子でより高位にあるのが、十六羅漢と言えるでしょう。

問題はこの十六羅漢の施主。

16体のうち14体までが、黒牧屋善次郎という富山の北前船商人の寄進によるものでした。

五百羅漢造立計画は、寛政10年(1798)、長慶寺三世雲外悦峰大和尚の「五百阿羅漢造立募縁之序」なる勧請文によりスタートしました。

 五百阿羅漢造立募縁之序

勧請文を広く配布し、信者に石仏の寄進を訴えたのです。

一体につき1両の高額寄進でした。

それにいち早く呼応したのが、黒牧屋善次郎です。

彼は長慶寺裏山の自分の持山にまず十六羅漢を安置します。

仲間の米穀商志浦屋新四朗、井沢屋八兵衛も一体ずつ受持ちました。

黒牧屋善次郎は、長慶寺五百羅漢のメイン施主であり、渉外、広報、営業担当でもありました。

長慶寺五百羅漢で特筆すべきは、全石仏の「施主名簿」が゛残っていること。

その施主名簿によれば、その大半は、越中国内の信者で、職業別では、商人をトップに、農民、薬売り、武士、僧侶、船頭、医師となっています。

国外は1割未満ですが、北は松前、東は江戸、西は伯耆、南は薩摩と全国的な広がりを見せています。

これは黒牧屋善次郎が北前船商人であったことと無縁ではないでしょう。

再び、最前列の十六羅漢に話を戻します。

 

 十六羅漢第一番賓度羅跋羅随闍尊者

第一の石仏本体の刻文は

「西瞿蛇尼洲中(せいくだにしう)
 賓度羅跋羅随闍尊者(びんどらばらだしゃ)
 佐羽茂郡松尾村 佛師義啓作」

そして、その台石には

「施主、家山」と彫ってあります。

ちなみに「家山」というのは、黒牧屋善次郎の戒名『家山傳盛居士』の法号です。

 家山こと黒牧屋善次郎の絵

長慶寺の五百羅漢は佐渡の石工が彫ったもの、という話はこの本体の刻文に因るものです。

実は、松尾村という村は、佐渡にはありません。

石工の村としては、小泊と椿尾があるので、多分、椿尾村の間違いでしょう。

問題は、佛師義啓。

五百羅漢の製作を依頼されるのですから、佐渡でも有名な腕の立つ石工であるはずです。

しかし、佐渡では、義啓の石工名は一切記録されていません。

佐渡の石工名の調査としては「佐渡島の石工在銘資料ー江戸時代ー」計良勝範(『日本の石仏』104号2002年)があります。

島内の石仏、石造物に在銘する石工名を皆悉調査した計良氏の労作ですが、ここにも義啓の名前は見られません。

計良氏は「義啓」を「美啓」と読みとっていますが、「美啓」でも見当たらないのは同様です。

電話で計良氏に問い合わせましたが、長慶寺五百羅漢を彫った佐渡の石工は誰か解らないというのが結論でした。

では、佐渡の石工製作はなかったのでしょうか。

そう断定するのも早計でしょう。

『佐渡志』には「小泊椿尾両村の石工は、石仏をつくることに巧みにして北陸七州と羽州の海浜村里までも彼像至らざる所なし」とあるように、石仏は佐渡の輸出産品の一つでした。

佐渡・赤泊郷土資料館(小木港から積み出した物として石仏が展示されている)

北前船を有する米穀商の黒牧屋善次郎が北海道に米を運び、その帰りに佐渡の小木港に寄って、石仏を乗せて富山へ帰ったことは十分ありうることだからです。

金北山神社に奉納された北前船の絵馬(佐渡・赤泊郷土資料館)

千石船の他にも地方(じかた)船と呼ばれる小型船が、氷見、伏木、岩瀬、魚津などの港から佐渡へと頻繁に往来していました。

越佐海峡を往来した最後の和船(佐渡・小木海運資料館)

富山と佐渡の距離感は、現代人より江戸時代の人たちのほうが圧倒的に短かったに違いありません。

正に一衣帯水だったのです。

重機やトラックがない時代、重い石仏を長距離輸送をするのなら船で、というのは常識でした。

重い石仏を「わざわざ」佐渡から取り寄せるのではなく、「手軽に」佐渡から運ぶ感覚だったはずです。

千石船で岩瀬港に着いた石仏は小舟で神通川を遡り、しかるべき地点で下ろされて、馬車、牛車で呉羽山まで運ばれました。

 

「長慶寺五百羅漢は佐渡産」を補足する資料がもう一点あります。

珍しいことに五百羅漢の原画ともいうべき図帳が残されているのですが、その画家は佐渡の尼僧だというのです。

  五百羅漢図帳から

しかも、尼さんはもともとは小木湊の遊郭の遊女で、五百羅漢の像は、彼女の昔馴染みの客の似顔絵をもとに彫られたと伝えられています。

小木湊の遊郭の客と云えば、北前船の船乗りたちでしょう。

   佐渡・小木港                         小木遊郭跡地

「板こ一枚下は地獄」の、命をかけた厳しい顔もあれば、緊張の毎日から解放されてほっと安堵の安らぎの顔もあるように思えます。

遊女と五百羅漢と云えば、西鶴の『好色一代女』の主人公は、天性の美貌と優美な肉体を武器に、幾多の、売春を目的とする職業を遍歴し、老境に至ります。

性の情欲が遠のいて生への執着を残す彼女は大雲寺をを訪れ、羅漢さまを眺めながら、過去の男性遍歴を思い出して反省し、解脱するという筋書きです。

かたや男性遍歴を思い出して反省し、かたや思い出して羅漢像を描く、似て非なる両者のありようです。

 

最後に富山県ならではの話。

明治維新時の廃仏毀釈は仏教界に大きな損失を与えましたが、中でも富山県は鹿児島県と並んで、行きすぎた廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた場所として知られています。

長慶寺の本尊は「桜谷大仏」と呼ばれる大仏でしたが、廃仏毀釈で打ち壊され、現在その頭部だけが残されています。

   本尊・桜谷大仏の頭( HP「珍寺大道場」より借用)

五百羅漢も無事ではありませんでした。

呉羽山の登山道の両脇に置かれていた五百羅漢は悉く倒され、そのまま放置されていました。

倒れた石仏に落ち葉が降りかかり、落ち葉は腐葉土になって、やがて羅漢は土に埋もれてしまいます。

これを憂えた長慶寺二十世清水泰慧禅師が羅漢修復運動を起こします。

廃仏毀釈から60年後の昭和2年のことでした。

埋もれ、壊されていた羅漢は全部、発掘、修理され、造成された現在地に移転、安置されました。

急斜面に設定された段は七段、中央の石段から両側に羅漢さんは整然と並んでいます。

最下段、最前列には左から十六羅漢、十大弟子と並んでいますが、五百羅漢は、これとは逆に、最上段の右端から一番、二番と左へ進み、左端で一段下がって、そのまま右へ番号数字が大きくなって行きます。

 

 

世の中には奇特な人もいるもので、「長慶寺五百羅漢尊者施主名簿」を手に150年後の子孫たちを訪ねる旅に出た人がいます。

奇特な人の名は、館森英夫さん。

その報告書(平成2年刊)によれば、姓名が判明している施主423人のうち63%の267人の子孫が確認されたのでした。

富山県の地方銀行の頭取、商工会会長、地方政治家、学者など各界の重鎮も少なくありません。

館森さんの調査網は全国的で、当然、佐渡へも足を延ばしています。

どうやら石工の村椿尾へも行ったらしいのですが、佛師義啓についての記述はありません。

施主名簿には、佐渡から二人の名前がありますが、当然、二人についても調べています。

「柳屋傳五右衛門 羅漢番号320 佐州小木港。寛文年中より町年寄、船問屋。天保九年巡見使石尾織部の本陣賄い掛。同年国中総代善兵衛の農民一揆により打ち壊される。」

「山城屋勘十郎内 羅漢番号420 佐渡国新穂町。元禄二年大宮二宮拝殿建立の棟札に『新穂村名主 山城勘ケ由左衛門』と記す。」

 『佐渡志』によれば、佐渡の石仏は「北陸七州(若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、佐渡)と羽州の海浜村里まで」行き渡っていたことになります。

多分、北海道にも運ばれているはずです。

現地調査をしてみたい、という思いは強いのですが、もはや70代半ば、果たしてどうなることやら。

石仏に興味を持ち始めたのがわずか3年前、せめて60代前半だったらと悔やまれてなりません。

と、愚痴って、今回は、ジ エンド。

 

                                    


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