地下鉄東西線落合駅を出て、早稲田通りを中野方向へ。
そこが、もう、上高田の寺町。
道の右側に八つの寺が行儀よく並んでいます。
いずれも明治39年から42年にかけて、浅草、牛込、赤坂などから移転してきたもの。
地図を左にスクロール、落合駅から二つ目の信号が新宿との区界。
その三差路に、六字名号塔がある。
区界の交差点、左のビルは東京愛犬専門学校 南無阿弥陀仏名号塔
西国坂東秩父百番供養塔を兼ねた「南無阿弥陀仏」の文字塔。
「寛政十二年(1800)庚申八月吉日」と刻まれている。
又、地図を左にスクロール。
寺町の東端、正見寺は、この六字名号塔から西へ3分もかからない。
早稲田通り。道の向こうに正見寺
浄土真宗本願寺派正見寺(上高田1-1-10)
境内に入る。
正見寺
石造物が皆無だから、真宗寺院だとすぐに分かる。
唯一の彫像、親鸞聖人銅像を見上げながら墓地へ。
墓地入り口に立つ親鸞銅像
江戸三美人の一人、笠森お仙の墓があるはずだが、一部ガイド誌によれば、子孫の要望で墓は非公開ということなので、探すのをあきらめた。
鈴木春信の浮世絵を代わりに載せておく。
墓地には、京都大学西田幾多郎門下の哲学者三木清の墓もある。
三木家の墓の左側面に「真実院釋清心」の法名。
三木家之墓
「真実院」が学者らしくて、いい。
三木清は1945年9月26日、豊多摩刑務所で死亡した。
太平洋戦争が終わって1カ月も経つのに、思想犯が投獄されていることに進駐軍は驚き、急いで治安維持法を撤廃したという。
曹洞宗青原寺(上高田1-2-3)
5日前に雪が降った。
山門を入ると雪だるまが迎えてくれた。
青原寺
本堂左から墓域へ。
左手には、寺町の墓域が西へ延びている。
青原寺墓地から西方向を望む。左手高台に寺が並ぶ。
台地の上にあるから上高田。
寺の境内は台地の上に、墓地はスロープに配置されている。
境内1000坪、墓域1000坪。
青原寺が北青山からこの地に移転して来たのは、明治42年。
周囲は見渡す限りの畑だったから、8か寺が並ぶ風景は壮観だったに違いない。
この地域が住宅地になるのは、関東大震災後、昭和に入ってからのことです。
墓域中央にひときわ大きな笠塔婆。
子爵脇坂家累代家族之墓
笠の下に家紋の「違い輪」がくっきり。
正面に「子爵脇坂家累代家族之墓」とあり、三面に64霊の法名が刻まれている珍しい家族墓標。
墓地の奥隅に無縁仏群のコーナーがある。
そこに見事な一石六地蔵がおわす。
青原寺には、当然、六地蔵はいらっしゃる。
新しくて、なんの変哲もない六地蔵で、これなら無縁仏群の一石六地蔵の方が格段にいいのにと、つい、批判がましくなってしまう。
浄土真宗大谷派源通寺(上高田1-2-7)
源通寺に河竹黙阿弥の墓があるのは、他の寺と同じように都心から移転してきたから。
源通寺
源通寺は明治41年、東上野から移って来た。
墓域に入るとすぐ左に河竹黙阿弥の墓。
河竹家の墓 吉村家の墓
左が河竹家、右が吉村家。
誰もが左が黙阿弥の墓と思うだろうが、実は、右の吉村家の墓に黙阿弥は眠っている。
通称は、吉村新七。
長く二世河竹新七を名乗り、黙阿弥は晩年の号。
墓前に花立も香炉もないのは、「一枚の木の葉で水を手向けてくれればいい」という黙阿弥の質素な考えからだと子孫による説明板にはある。
しかし、道楽の末、親から勘当され、遊蕩三昧だったとの記録もある。
墓地手前右に初代河竹新七の墓がある。
河竹新七墓
血縁はないが、名前を貰った報恩として、黙阿弥が義理堅く建てたものという。(解説板)
浄土真宗大谷派高徳寺
高徳寺は、、明治41年、浅草からここに移転して来た。
高徳寺
高徳寺といえば、新井白石。
白石とその妻、それに一族の墓がずらりと並んでいる。
新井白石一族の墓列 奥に白石夫妻の墓 左、白石 右、妻
父が浪人したため、苦学力行した。
『折りたく柴の記』に、9歳の冬を回顧した文章がある。
行書、草書の字を晝3000字、夜1000字を書きだすことを日課としていた白石は、夜、眠気に襲われた時、水をかぶって、眠気を払った。
「水二桶づゝ、かの竹縁に汲(くみ)おかせて、いたくねぶりの催しぬれば、衣(ころも)ぬぎすてて、まづ一桶の水をかゝりて、衣うちきて習ふに、初(はじめ)ひやゝかなるに目さむる心地すれど、しばし程経ぬれば、身あたゝかになりて、またまたねぶくなりぬれば、又水をかゝる事さきの事のごとくす。」
本堂裏にひと際高い墓がある。
表は「加藤家之墓」。
裏に回ると「長門裕之 南田洋子 建之」の文字。
墓誌には、長門の父沢村国太郎とその妻で女優のマキノ智子の名前がある。
ちなみに国太郎の弟は加藤大介、妹は沢村貞子です。
加藤家の墓誌
江戸時代の人の墓ばかり回っていると、同時代人の墓はホッとする。
いろんなイメージが噴出して立ち去りがたくなります。
南田洋子は平成21年に亡くなったが、晩年は痴ほう症を患っていた。
夫裕之が痴呆の妻洋子を看病するテレビドキュメントは、胸をつくものがあった。
ほぼ同年代の二人だが、佐渡が島の少年には別世界の二人だった。
「十代の性典」など観ることなどとんでもない。
観ることが不良だった。
彼我の差は厖大だったが、あのドキュメントを観ながら、同じ地平に立って、同じ壁にぶつかっている戦友だとやっと感ずることが出来た気がした。
共通の敵は、「老い」である。
臨済宗龍興寺(上高田 1-2-12)
禅宗だから、境内に石仏がある。
龍興寺 不動明王
まず目につくのが、不動明王の浮彫り立像(寛文12年)。
本堂西側の墓地入り口には、地輪の三面に2体ずつの六地蔵五輪塔が2基。
童女二人の六地蔵五輪塔墓標
右は、宝永4年(1707)、左は、宝永6年(1709)の年銘がある。
本堂真裏に大きな墓。
柳沢吉保の側室(綱吉の愛妾)染子の墓
正面に「霊樹院殿月光寿心大姉」と刻されている。
五代将軍綱吉に重用され、大老にまでなった柳沢吉保の側室染子の墓です。
右側面に「施主甲斐少将吉保」の文字が読める。
これは、妾に対するものではなく、君主に対する書き方である、と断定するのは、『江戸・大名の墓を歩く』の著者・河原芳嗣氏。
河原氏によれば、「染子は、吉保にとって己が妾というより、あくまで大切に預かりしていた主君の愛妾だった」。
「染子は二男二女を生むが、その父のすべては綱吉であったと言われる」とも書いている。
墓域の隅に1基の地蔵菩薩。
吉保、染子の娘幸子の墓
「早逝桃園素仙童女霊位」とある。
これだけは吉保と染子の子どもと言われる、夭折した娘・幸子の墓です。
綱吉は、中野区とは深い関わりがある。
綱吉の「生類憐みの令」は有名だが、保護された犬の囲い屋敷が中野区にあった。
現在の中野区役所を中心に30万坪、100ヘクタールの広さに8万頭を超える犬が囲われていたといわれています。
中野区役所の犬の群像
犬の養育費は、1頭当たり奉公人一人の俸給とほぼ同額で、何頭も養育する者は高給取りだった。
だから綱吉亡き後、生類憐みの令が廃されると、養育費の返還が求められ、48年にわたって返し続けたという逸話がある。
臨済宗松源寺(上高田1-27-3)
寺史によれば、麹町に開山、江戸城拡張に伴い牛込に移り、さらに明治39年現在地に移転して来たという。
松源寺
江戸城拡張の為移転した寺は、江戸でも比較的古い方になる。
門前に猿の石像。
「昔、境内に猿をつなぎ置きたりとて・・・」(『江戸名所図会』)「さる寺」というらしい。
聖観音が2基、境内と墓地入り口にある。
境内の聖観音(寛文12年) 墓地の聖観音(元禄6年)
松源寺は宇都宮戸田家の菩提寺だから、戸田家の墓があるが、なじみがないのでパス。
墓地にある宝筐印塔をなにげなく見たら、台石に「元和元年」の文字。
右の宝筐印塔の台石に「元和元年」の年銘
元和の年銘のある石造物は、東京では、滅多にお目にかかれない。
貴重品なのです。
曹洞宗宗清寺(上高田1-27-6)
門前の石柱下部に「通称なが寺又たつ寺と云」とある。
宗清寺山門と石柱
山門の天井に龍が描かれているから「たつ寺」と呼ぶのだとか。
墓地入口に、現代石造彫刻家長岡和慶氏作の六地蔵石幢。
六地蔵石幢(長岡和慶作) 無縁塔
その奥にピサの斜塔のような無縁塔がある。
前面下の阿弥陀如来には、「烏八臼」のマーク。
阿弥陀如来石仏 烏八臼のマーク
半年ぶりに「烏八臼」に出会ったことになる。
(このブログ「石仏散歩」のカテゴリー「墓標」の中から「12 謎の烏八臼(ウハッキュウ)」)http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=f2cc6b4f647adf4f93183e423cb0ab6d
曹洞宗保善寺(上高田1-32-2)
牛込通寺町から明治39年にこの地に移転して来た。
左、保善寺 右、宗清寺
門前に獅子像。
「獅子寺」とある。
三大将軍家光から獅子に似た犬を贈られた。
だから「しし寺」というのだそうだ。
幼稚園を経営している。
子どもたちの甲高い声を耳にしながら墓地へ。
紅い幟がはためいているので、近づいて見たら「こどもしあわせ地蔵尊」だった。
こどもしあわせ地蔵尊
いかにも幼稚園のある寺らしいお地蔵さんである。
幼稚園に接している無縁仏群のなかに、丈余の地蔵菩薩。
寛文6年(1668)造立の地蔵菩薩
「有縁無縁三界万霊」と刻されている。
寛文6年造立。
寛文年間の石仏の石材は、江戸城城壁の残材が多いと言われている。
大ぶりでゆったりした石仏が、寛文石仏の特徴といえようか。
曹洞宗天徳院(上高田1-31-4)
天徳院という寺は、金沢、高野山とここ上高田の三カ所にある。
天徳院(上高田1-31-4)
天徳院は加賀藩三代目藩主前田利常の夫人で、二代目将軍秀忠の次女。
三か寺とも、夫人の菩提をとむらって院号を寺号にしている。
墓地入り口に六地蔵。
六地蔵(明暦元年)
全体に黒っぽいのは、火災にあった為。
明暦元年(1655)造立と刻されているから、2年後の江戸時代最大の大火、明暦の大火に遭っていることになる。
その頃、寺は神楽坂の赤城神社隣にあった。
松源寺には元和年間の宝筐印塔があったが、ここには寛永の地蔵がおわす。
寛永16年造立の地蔵菩薩立像
地蔵の右横に「願以功徳普及於一切我等衆生皆共成仏道」の見慣れた一行。
無縁仏群の中に「梶川与惣兵衛」の墓標がある。
笠付石柱が梶川家先祖代々之墓 側面に梶川与惣兵衛の文字
元禄14年(1701)、江戸城松の廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだ時、浅野内匠頭を抱きとめたのが、梶川与惣兵衛だった。
子孫が墓参することもなく、墓は無縁墓となったが、その伝説だけは生き続けている。
天徳院の資料を読んでいたら、鈴木正三が当寺に寄留していたという一行に出会った。
どこかで見たことのある名前だが、思い出せない。
放置しておいたら、今朝、歯を磨いている時に思い出した。
歯磨きとは、何の関係もないのだけれど。
鈴木正三は武士をやめて坊主になった変人。
家康の家臣で関ヶ原で武勲をあげている。
40歳の時、自らの意思で剃髪、坊主になったが、彼の意思を汲んで武士廃業を許した秀忠も偉い。
鈴木正三を知るきっかけは、1基の石碑だった。
去年の春、伊豆へ旅行した。
伊豆長岡の「真珠院」で、風変わりな石碑を目にした。
「大強精進勇猛仏」と刻してある。
好奇心が刺激されて、調べてみた。
鈴木正三が広めた七文字であることが分かった。
彼の生涯の口癖は「どんな職業であろうとその道に精進すれば、それが仏道。不動明王のように猛々しく剛直につき進め」。
70歳になった時「大強勇猛精進仏」なる仏の名前があることを知り、長年の自分の考えそのものだと感激し、以後、この仏名を広めることに力を入れた のだという。
天徳院に寄留はしたが、それは70歳以前だったからだろうか、寺に「大強精進勇猛仏」の石碑はない。
実は、上高田寺町は2か所ある。
今回、とり上げたのは、早稲田通り沿いの上高田1丁目寺町の8か寺。
ここから北へ、400~500m行った上高田4丁目にも6か寺が固まってある。
こちらの寺町では、万昌院功運寺がメイン。
曹洞宗万昌院功運寺(上高田4-14-1)
大正3年(1914)、牛込から来た万昌院と大正11年、三田から移転して来た功運寺が合併して万昌院功運寺となった。
山門を入ると左に石仏群。
天衣をはためかす如意輪観音が見事です。
広大な墓域には有名人の墓が点在するが、案内板があるので、容易にたどり着ける。
まずは、浮世絵師歌川豊国の墓。(写真、手前の墓)
歌川豊国の墓
正面中央に初代豊国、右に三世、左に四世の戒名が彫られている。
歌川豊国の墓のすぐ傍に赤穂浪士に討ち取られた十七代上野介義央の墓がある。
吉良上野介の墓(左端の宝筐印塔)
墓前に「吉良家忠臣供養塔」と「吉良邸討死忠臣墓誌」があり、痛ましい。
作家・林芙美子の墓もある。
墓石の文字は、葬儀委員長を務めた川端康成の筆になるもの。
墓地は、林芙美子の自宅から500mも離れていない。
生前に用意しておいた墓だろうか。
「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」。
色紙を頼まれると好んでこう書いたと言われている。
万昌院隣が、曹洞宗宝泉寺(上高田4-13-1)
曹洞宗宝泉寺 板倉重昌の五輪塔
墓域最大の五輪塔は、島原の乱で幕府軍の総指揮を執り、戦死した板倉重昌の墓。
浄土宗願正寺(上高田4-10-1)
願正寺の境内には、墓参に訪れた二人のアメリカ人が植樹した松とハナミズキがある。
願正寺
二人のアメリカ人とは、モーリス駐日大使とダグラス・マッカーサー二世駐日大使。
二人がお参りしたのは、万延元年(1860)、ワシントンで日米修好通商条約を批准した遣米大使・新見正興の墓。
新見豊前守正興の墓(左)
往きは太平洋を、復りは大西洋からインド洋を回って帰国、世界一周をした初の日本人だったが、折からの攘夷のムードの中で、折角の見聞を役立てることはなかった。
他に、境妙寺、金剛寺、神足寺がある。
天台宗境妙寺(4-9-3)
曹洞宗金剛寺(上高田4-9-8)
真宗大谷派神足寺(上高田4-11-1)