ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

ベンヤミンもまた幽霊に出会う(2)

2017年08月01日 | 読書ノート
 ベンヤミンのこうした姿勢は、この回想的断片を凡百のノスタルジックな回想録の類とは、まったく違うものにする原動力になっている。ノスタルジーとは偶然的で個人的な回復不可能性に対する憧憬の念である。そうではなく、必然的で社会的な回復不可能性に目を向けることは、時代の変遷に対する鋭利な分析力をベンヤミンに与えることになる。

 さて、夢と現実との符帳の問題に戻ろう。これが夢による予兆の物語であったのかどうか、私には疑問がある。幼少時の記憶の中で、それが夢であったのか現実であったのか、ほとんど弁別できない思い出というものは無数にある。
 病時における譫妄状態と同じで、それが未だに言葉によって分節され得ない状態におかれているからである。ベンヤミンの幼時の夢には現実の記憶との混同があるように思われる。
 あるいはまた、盗っ人幽霊の夢について、ベンヤミンがそれを大人たちに対して決して口に出さなかったと書いている事実と、旧定稿で、口に出して言ってしまってから言ってはならないことだったと気づいたと書いている事実との齟齬がある。そこに意図的な虚構があるのではないとしても、不確かな記憶に基づいているのではないかという疑問がある。
 盗賊団による略奪行為は現実のものだったに違いない。しかし、ベンヤミンの夢がその前日に見たものだったかどうかということについては疑いが残る。またベンヤミンが盗賊の侵入する日の夕刻に見た「ある並木道に通じる格子門のかたわらに」立っていた「女中のひとり」が、盗賊を導く役割を果たしていたのかどうかについても不確かである。

 多和田葉子の『百年の散歩』のことを忘れていた。多和田葉子にも幽霊が訪れる。〈コルヴィッツ通り〉に出てくる子供の幽霊と、ケーテ・コルヴィッツ自身の幽霊である。
 多和田はコルヴィッツが1920年代に作った、子供の飢餓を訴えるポスターに対する違和感を表明している。

「飢えた子供たちの顔から無駄な個性を取り除き、効果的に並ばせ、同じ器を持たせる。個々の名前を消して、「ドイツの子供たち」という共通の名前を与える。芸術家は演出家であり、ほんの少し嘘つきだ。そういう嘘ばかり気になって何も行動できない私は世の中の役に立たない人間なのだ」

 こちらは完璧な虚構としての幽霊である。多和田が幽霊に語らせたいのは、ケーテ・コルヴィッツが描く母親が庇護する無名の子供たちの〝嘘〟である。
 コルヴィッツのあの、あまりにも社会主義リアリズム的な造形に対する違和の表明のために、多和田は幽霊を持ち出す。この幽霊はベンヤミンの幽霊とはまるで違っていて、完全な虚構としての幽霊であるが、それは多和田の批評のために必要とされる幽霊なのだ。
でも幽霊が何ごとかを語っているという点において、ベンヤミンの幽霊と多和田の幽霊に共通するものがないとは言えないのかも知れない。(柴野)