ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

四半世紀を回顧――池田記念美術館で関根哲男展「原生」

2017年05月07日 | 展覧会より

細く切った生ゴムを一本一本植え込むようにして作られたパネル。1992年の作品だ。数年後、おびただしい数の布の細片を貼り重ねバーナーで焼いたものが出現する。さらに位牌や雑誌やズボン、荒縄などが登場する。5月3日から南魚沼市の池田記念美術館で「関根哲男展」が開催されている。ちょうど四半世紀にわたる関根さんの回顧展である。展示作品のほとんどをその都度見てきていたのだけれど、こうして一堂に並べてみると改めて集積行為に圧倒される。
ひたすら切る、バーナーで燃やす、泥をかけるなど、作業は実に忍耐強く、繊細にしてダイナミックだ。思いがけない技巧も凝らしている。ただしそれは小手先のものではないし職人的な精緻なものとも異なる。例えば、ズボンや荒縄を組み合わせたパネルの、切り込まれたような線は、縄を埋め込むようにしながらさらに集積を重ね、最後にその縄を切り取って作られる。そうでなければあの荒々しさや重量感に耐えられる線は生み出せないからだ。
初日には珍しく(個展としては初めてという)自身によるギャラリートークも行われた。この中で関根さんは「作業・営為・行為そのものを表現としてきた」「意味のない、無駄なことの集積」と繰り返す。「蟻塚のように」という言葉が印象的だった。
ゴム、化繊布、綿布、段ボールなどの素材そのもの、位牌や雑誌やズボンといった具体的な用途を持った製品等、扱う材料は一定期間ごとに変化しているが、いずれもありふれたものだ。しかしいったんそれらが心に引っかかったとき、まるで取り憑かれたように執拗に、徹底的に使い、もの本来の意味が剥奪されるまで続くのが関根さんの作業なのだ。
かつて関根さんとガルシア・マルケスの『百年の孤独』のラストシーンについて語り合ったことがある。近親婚によって豚のしっぽを持つ奇形の子供が生まれて一族は終焉を迎え、同時に暴風が町を一網打尽にしてしまう。町の歴史も一族の歴史も一瞬にして無に帰してしまう圧巻の終わり方に舌を巻いたものだった。それからほどなくして関根さんは豚のしっぽのように、筒状にして両端を絞った布を貼り付けた何枚ものパネルを作り、巨大な作品を生み出してしまった。(上の写真 2014年)あの鮮烈なラストの、イメージだけが増殖し、いつしか関根さんの行為と一体化し、呑み込まれていったようだ。
しかし「無意味な行為」であったはずの作品が「集積」を通して、様々なイメージを抱かせるのは事実だ。そしてシチュエーションによっても多様な表情を見せる。かけられた時間と密度が、観るものをして何か意味を見いだそうという行為に駆り立ててやまない。人類の、それぞれは無意味なはずの生が集積したとき、歴史の偶然を生み出してしまうことをも想起させる。饒舌にして静謐、不穏にして、美しく、不敵にして厳粛なのだ。(霜田文子)