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ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

闇と静寂が浮き彫りにする無常の世界 ~独演『椿の海の記』より「十六女郎」池田記念美術館公演を観て~

2025年07月15日 | 読書ノート

一枚の地図がある。『苦海浄土』で知られる石牟礼道子の手書きによる、昭和初期の水俣の地図だ。「わたしの栄町通り」と題されたそれは、『椿の海の記』の主人公・みっちんが歩き、人々と出会い、一人遊びを楽しむ姿を回想しながら書き上げられたのだろう。みっちんの世界は、空間的にはごく小さい。石屋であるみっちんの家の一軒おいた隣が女郎屋「末広」で、斜め前に髪結さんの家、少し離れて蓮田と洗濯川。浄も不浄もない交ぜに、刻印するように書き込まれた家並みと屋号、紙面を大きく占める「チッソ工場」と、隣接する海岸線の岬や港湾の数々が、固有名詞と共に、四歳のみっちんに深く刻み込まれ、その後の文学的営為に計り知れない影響を与え続けたであろう事は、想像に難くない。

『椿の海の記』を、「朗読演劇」という形で独演する井上弘久氏の舞台が今年七月五,六日、南魚沼市・池田記念美術館で上演された。第一章、第二章を、それぞれ一昨年、昨年と游文舎で上演していただいたのだが、第三,第四章は、同館と游文舎の協力により、初めて同館エントランスホールでの上演となった。井上氏自身初めて、というガラス張りのホールで、雄大な景観が入り込む舞台となった。

 

正面に霊峰八海山を臨み、水面に浮かぶかのようなホールは、水俣の海や、いたる所に神さまをいただき、神さまと共に生きていた水俣の人々の生活を連想させはするものの、本来演劇とは仮構のものであり、限られた空間の中で広大な、あるいは深遠な時空間を想像させるものだ。現実の空間は借景どころか、観る人の想像を妨げることもある。しかし前述の石牟礼道子自筆の地図が刷り込まれた観客の耳に、魚売りの女性たちの力強い声が響くと、そこは一気に水俣の町に変貌した。

さて、第四章では十六歳の女郎・ぽんたが殺されるという、衝撃的な事件が語られる。作者・石牟礼道子にとっても生涯忘れることのできない出来事であったという。この事件と、解剖に立ち会ったみっちんの父・亀太郎が、ぽんたの身の不幸や、不条理な世情に慟哭する姿は、本編全体でも最もドラマティックな場面といってよい。しかし町の成り立ちと、それに伴う人々の営みを語る第三章から第四章を通してあぶり出されるのは、そのドラマを生み出した社会全体と、様々な人間模様であり、それらを通じてさらに世界を深めていくみっちんの姿だ。あるいは、そのためにも井上氏はこの二つの章をつなげて脚色したのだろうか、とさえ思ったりもした。

 

 

公演は夕刻に始まった。窓外の景色は刻一刻と闇に沈んでいく。盲目で気の触れた祖母・おもかさまとみっちんとの、誰も立ち入ることのできない交感のひととき。おもかさまには別の時間が流れている。おもかさまとは、みっちんが人界と異界を往還するための通路ではなかっただろうか。みっちんには、おもかさまだけでなく、女郎さんも、癩患者も、動物も人も、生者も死者もみんな同等なのだ。そのおもかさまが、ぺんぺん草の揺れるかすかな音に導かれてつぶやく。「……この世の無常の音のする……」――窓外の闇と静寂が、「人智のおよばぬ寂滅の世界」へと誘う。そこから舞台は、女郎屋「末広」へと移り、ぽんたの死へと大きく動き出す。つらつらと、時にたゆたうような石牟礼道子の文章だが、実はしっかりと構成されていると気づかされるのはこのような展開に接する時だ。井上氏のめりはりの効いた語りが、緊張感を高める。四歳ながらみっちんはすでに昼と夜とで一変する「末広」という場の空気を了解してはいる。そんなみっちんでも、この事件をめぐる人々の言動には、女郎という身分の悲哀を実感させられたことだろう。「ものごころがつく」とは、こうした現実を見知っていくことではないか、それが「四歳のみっちん」に託されているのではないか、だからこそ生涯の記憶として刻みつけられたのではないか――そのように思えてならない。

多くの人が登場する第三,第四章を、井上氏は丁寧に繊細に演じ分け、人々の心情の機微を立ち上がらせていった。ぽんただけではない。水俣の人々の日常を生き生きと語る背後に、不穏な影が忍び寄る。水俣病が公式に確認されたのは一九五六年、原因がチッソ(当時は日本窒素肥料(株))水俣工場の廃液であると認定されたのは一九六八年のことだ。しかし、チッソが水銀を触媒にした製品製造を始めたのは一九三二年である。すでに廃液を海に流していたチッソであるが、以来有機水銀の混じった廃液を流し続けたのである。みっちん四歳の時とは、八代海、またの名不知火海が有機水銀に汚染される直前の最後の楽園の時なのだ。

『椿の海の記』は全国で上演されてきた。しかしはじめての、外に開かれた空間での上演にあたり、井上氏はもとより、ガラス張りのホールという困難を逆手に取るように工夫された照明、活気ある日常生活の音声と、おもかさまの聴く異界の音を現出させた音響、すべてがマッチして、新たな演劇空間を見せてくださったことに敬意を表すると共に、そこに立ち会えたことを心から嬉しく思えた二日間だった。(霜田文子)

 


柄沢恭治展「暴――幻視」 6月21日から6月29日

2025年06月24日 | 游文舎企画

柄沢恭治展に寄せて     魚家明子(詩人、北方文学同人)

柄沢恭治展「暴(あかしま)~幻視」が21日から始まった。初日のギャラリートークは残念ながら見逃し、二日目の朝に観に行った。柄沢恭治は精力的に作品制作を行い、その熱量が作品の線にも生き生きと表れているエネルギーのある作家だ。柄沢の作品へのアプローチはユニークだ。彼は架空の地「辺境特区9号」なるエリアを設定し、そこに棲息する様々な形態の「怪獣」を生み出す。そしてそれらを画面の中で育て、暴れながら自身のかたちからはみ出しそうになるような怪獣の生命力をキャンバスに描き込む。それらの作品の根底には少年の時に「すごい」と興奮した異形のものの独特なかたちへの偏愛がいまだに素直に存在しているような印象を受ける。無骨な甲殻類や昆虫、大きな背骨をもったみっしりと密度の濃い肉体の獣が合体したような怪物が、ギャラリーのスペースから不穏に吠えるように私たちを圧倒する。しかし柄沢の作品の魅力は、そのデザイン、造形にももちろんあるが、それ以上に微細に描き込まれた線の繊細さや墨の濃淡で表された陰影のある色調にあるのではないかとも思う。実際に会場で絵を間近に見ることで、その線や色は私たちを魅了する。密集する植物のしべ、湧きおこり流動する雲、煙るような影、細かな海面に起きるさざ波のような生き生きとした柔らかい線の集合体が、不思議とその自然そのもののような動きあるかたちで私たちの心を撫で、優しく慰撫する。「暴」(読みの“あかしま”は台風のような風を意味するのだろうか)と名付けながらも、観る者を受容してくれるような、包容力のようなものも伝わってくる作品群。人の内にある普段は抑圧されているような生き生きとした怪獣的生命エネルギーが表現されているというのも理由であるだろうが、細かな線をも愛するように描き込む作者の、絵を描くことへの深い信頼と情熱、自由な精神のようなものも同時に伝わってくるからかもしれない。私たちが「文明的な」生活の中で身に付けた虚飾の外殻を暴風で吹き飛ばしてしまい、内なる怪獣性を「暴く」ようなイメージが背後に見えるように思うが、その虚飾の剥がし方の根底には人が全人的な野生を取り戻すための優しい手つきがあるように感じる。会場の突き当りには様々なタッチで描かれたパーツを切り、組み合わせて貼り付けた大きな作品があり、明確な輪郭のないような渦巻く命を描いて圧巻だ。今にも飛び立ちそうな大きな火の鳥のようにも見えるし、いくつもの怪獣たちの命が集合してから四方へ走りだそうとしているようにも見える。いつまでも観ていたいような、視覚を存分に楽しませてくれる大作である。この作者の作品は、観るものとの間に何か深いところでのコミュニケーションを生み出す。ぜひ会場で作品のエネルギーに触れてほしい。


柄沢恭治展 その2

2025年06月20日 | 游文舎企画

壁面に怪獣増殖中。

柄沢恭治展 6月21日から。

21日午後2時より対談(柄沢恭治さん×楓画廊・三ツ井伸一さん)


柄沢恭治展「暴(あかしま)~幻視(げんし)」 6月21日より

2025年06月18日 | 読書ノート

「怪獣のなかには人間が,人間の中には怪獣がいるのだと思う。これは比喩ではない。」

6月21日より新潟市在住の柄沢恭治さんの個展が始まります。本日、展示作業が行われました。

ギャラリーの一番長い壁面を使い、100号六点をつなげた長さ672cmの「暴~捌(やつ)」が圧巻です。板張りにしたケント紙に、白の下地を塗り、墨や鉛筆を使ったモノクロームの画面からはみ出して、のたうつ「怪獣」はまるで現代の雲龍図。

小品もそれぞれ表情豊かで、物質感あるマチエール、リズミカルなタッチと、躍動感溢れる怪獣の体躯は、作家の身体の一部あるいは延長、いや分身のようでもあります。

「比喩ではない」怪獣とはいったいどういうことなのか。ぜひ21日のギャラリートーク(楓画廊・三ツ井さんとの対談)をお聞きください。

対談 6月21日午後2時より。

柄沢恭治展は6月29日まで。23日休館。


初夏の庭展、終了しました。

2025年05月25日 | 游文舎企画

 

本日、「初夏の庭2025」展、終了いたしました。

出品してくださった皆様、ご来場いただきました皆様、ありがとうございました。