一枚の地図がある。『苦海浄土』で知られる石牟礼道子の手書きによる、昭和初期の水俣の地図だ。「わたしの栄町通り」と題されたそれは、『椿の海の記』の主人公・みっちんが歩き、人々と出会い、一人遊びを楽しむ姿を回想しながら書き上げられたのだろう。みっちんの世界は、空間的にはごく小さい。石屋であるみっちんの家の一軒おいた隣が女郎屋「末広」で、斜め前に髪結さんの家、少し離れて蓮田と洗濯川。浄も不浄もない交ぜに、刻印するように書き込まれた家並みと屋号、紙面を大きく占める「チッソ工場」と、隣接する海岸線の岬や港湾の数々が、固有名詞と共に、四歳のみっちんに深く刻み込まれ、その後の文学的営為に計り知れない影響を与え続けたであろう事は、想像に難くない。
『椿の海の記』を、「朗読演劇」という形で独演する井上弘久氏の舞台が今年七月五,六日、南魚沼市・池田記念美術館で上演された。第一章、第二章を、それぞれ一昨年、昨年と游文舎で上演していただいたのだが、第三,第四章は、同館と游文舎の協力により、初めて同館エントランスホールでの上演となった。井上氏自身初めて、というガラス張りのホールで、雄大な景観が入り込む舞台となった。
正面に霊峰八海山を臨み、水面に浮かぶかのようなホールは、水俣の海や、いたる所に神さまをいただき、神さまと共に生きていた水俣の人々の生活を連想させはするものの、本来演劇とは仮構のものであり、限られた空間の中で広大な、あるいは深遠な時空間を想像させるものだ。現実の空間は借景どころか、観る人の想像を妨げることもある。しかし前述の石牟礼道子自筆の地図が刷り込まれた観客の耳に、魚売りの女性たちの力強い声が響くと、そこは一気に水俣の町に変貌した。
さて、第四章では十六歳の女郎・ぽんたが殺されるという、衝撃的な事件が語られる。作者・石牟礼道子にとっても生涯忘れることのできない出来事であったという。この事件と、解剖に立ち会ったみっちんの父・亀太郎が、ぽんたの身の不幸や、不条理な世情に慟哭する姿は、本編全体でも最もドラマティックな場面といってよい。しかし町の成り立ちと、それに伴う人々の営みを語る第三章から第四章を通してあぶり出されるのは、そのドラマを生み出した社会全体と、様々な人間模様であり、それらを通じてさらに世界を深めていくみっちんの姿だ。あるいは、そのためにも井上氏はこの二つの章をつなげて脚色したのだろうか、とさえ思ったりもした。
公演は夕刻に始まった。窓外の景色は刻一刻と闇に沈んでいく。盲目で気の触れた祖母・おもかさまとみっちんとの、誰も立ち入ることのできない交感のひととき。おもかさまには別の時間が流れている。おもかさまとは、みっちんが人界と異界を往還するための通路ではなかっただろうか。みっちんには、おもかさまだけでなく、女郎さんも、癩患者も、動物も人も、生者も死者もみんな同等なのだ。そのおもかさまが、ぺんぺん草の揺れるかすかな音に導かれてつぶやく。「……この世の無常の音のする……」――窓外の闇と静寂が、「人智のおよばぬ寂滅の世界」へと誘う。そこから舞台は、女郎屋「末広」へと移り、ぽんたの死へと大きく動き出す。つらつらと、時にたゆたうような石牟礼道子の文章だが、実はしっかりと構成されていると気づかされるのはこのような展開に接する時だ。井上氏のめりはりの効いた語りが、緊張感を高める。四歳ながらみっちんはすでに昼と夜とで一変する「末広」という場の空気を了解してはいる。そんなみっちんでも、この事件をめぐる人々の言動には、女郎という身分の悲哀を実感させられたことだろう。「ものごころがつく」とは、こうした現実を見知っていくことではないか、それが「四歳のみっちん」に託されているのではないか、だからこそ生涯の記憶として刻みつけられたのではないか――そのように思えてならない。
多くの人が登場する第三,第四章を、井上氏は丁寧に繊細に演じ分け、人々の心情の機微を立ち上がらせていった。ぽんただけではない。水俣の人々の日常を生き生きと語る背後に、不穏な影が忍び寄る。水俣病が公式に確認されたのは一九五六年、原因がチッソ(当時は日本窒素肥料(株))水俣工場の廃液であると認定されたのは一九六八年のことだ。しかし、チッソが水銀を触媒にした製品製造を始めたのは一九三二年である。すでに廃液を海に流していたチッソであるが、以来有機水銀の混じった廃液を流し続けたのである。みっちん四歳の時とは、八代海、またの名不知火海が有機水銀に汚染される直前の最後の楽園の時なのだ。
『椿の海の記』は全国で上演されてきた。しかしはじめての、外に開かれた空間での上演にあたり、井上氏はもとより、ガラス張りのホールという困難を逆手に取るように工夫された照明、活気ある日常生活の音声と、おもかさまの聴く異界の音を現出させた音響、すべてがマッチして、新たな演劇空間を見せてくださったことに敬意を表すると共に、そこに立ち会えたことを心から嬉しく思えた二日間だった。(霜田文子)