GRの戯れ言日記2

途中まで元々閉鎖された別会社のブログを引用して来た物。2017年2月から本格始動。それ以前は、はてなブログに書いてます。

第10回ytv漫才新人賞決定戦 決勝

2021-02-28 23:42:58 | お笑い考

<決勝 ファーストラウンド>

○マユリカ 59

◎コウテイ 63○

紅しょうが 53

◎隣人 56

たくろう 56

タチマチ 52

〈最終決戦〉

☆コウテイ 60

★隣人 54

 審査員は、岩尾・小沢・吉田・リンゴ・巨人師匠。客席は、今回も人数を少なめに・・・

 マユリカは、去年の不可抗力のリベンジがかかってるだけに、トップ出番はまたしても不運!!完成度というか、自身達のスタイルを確立している点は高いけど、設定がベタやし、客ウケの層がやや偏ってた(=全組そうやったけど)[汗]コウテイは、ツカミだけで2ヶ所も入れるという出来るだけ笑いを入れようという貪欲さが、大きい!ただボケに意外性が少なく、脈略が無く流れがちで、客ウケがやや弱かった・・・紅しょうがは、あんまり特徴と意外性が、無いなぁ・・・"滑稽ですよね?"のくだりでもっとドカンと来んと、しんどいでしょう・・・隣人は、1月の予選と同ネタ(終わり方は、異なる)なんで、省略。客ウケは、予選の時よりあった。たくろうも、1月と同じネタなんで省略。タチマチは、"すぐ自分の話をする"以外の話の腰の折り方の切り口が、欲しかった(汗)客ウケは、あまりなし・・・凄くスタイルが、落ち着いてますね!

 最終決戦のコウテイは、自由度が高い割には、ウケる所はしっかりウケてるな!もう少し意外性や大きいボケが欲しくなるのは、その割にはボケが小さく感じるから。隣人は、ポイント・ポイントで笑いを取ってる感じで、全体的なストーリーの笑いという感じがしないし、1本目に比べると、弱いかな・・・大昔の漫才でこういう漫才をベテランのグループが、やってた気がする!

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トレードに積極的なんは、ハムと楽天と巨人ばっかり・・・

2021-02-27 21:17:35 | 野球

パ顔のおにぎり君(横尾)[日]内・外野手⇔池田隆英(楽)投手。お互い将来性を買ったトレードやな。おにぎり君は、何気に毎年何試合か出てて可能性は秘めてるんやろうけど、イマイチ殻を破れない・・・Gから来てない生え抜きの方の池田は、よう知らん投手です(すんません)。

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無題

2021-02-25 11:52:25 | 野球

スマニューにしか載ってなかったぞ(少怒)と言いながら、全く知らない選手でしたけどね(爆)箱田淳(弘志)[国鉄―大洋]氏というかたが、亡くなられました。箱田氏は、1951年に国鉄に入団。3年間は、主に投手として61試合に登板して、4勝10敗。時には、時代が時代という事もあり、選手不足から内野手としても年間数試合だけやけど、出場してました!1953年は、代打も含めて.272を記録。54年からは、監督に自ら直訴して野手に転向。二塁手のレギュラーとなり、.323を記録し、球団初の3割打者となる。セのベストナインも受賞。翌年は淳に登録名変更も、故障で奮わず・・・1956年には、三塁手に転向。翌年は、セカンド・サード兼務。1960年には自己最高の16本塁打、57打点を記録するが、A級10年選手の権利を行使して、61年からは大洋に移籍。大洋には二塁手として近藤昭仁がおり、同年は開幕から一塁手として出場、その後も内野のユーティリティープレーヤーとして活躍する。1964年限りで現役引退。私生活でトラブルに巻き込まれ、長年プロに在籍した割にはあまり預金が無く、かつてのチームメイト「カネやんの攻略法などを著書で暴露しませんか?」等の仕事を持ち掛けられても、"金の為に野球に魂を売ったりせん"といった感じで固辞したみたいですね(侍やなぁ!)!!引退後は、基本的に野球解説者を生業としてたようですね。二刀流の先駆けに近いですなぁ、まぁこの時代は、別所毅彦・藤村富美男・川上哲治・関根潤三・米田哲也・梶本隆夫といった面々も、野手としても出場してましたからねぇ(汗)通算成績は、試61 4勝10敗 防3.84/試1279率.261 80本364点 安993 でした。お悔やみ申し上げます(涙)

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多少は親子での夢は、叶ったんかな?

2021-02-24 08:36:37 | 野球

 会田有志 巨人巡回投手兼トレーニング統括コーチの父親である会田照夫(ヤクルト)氏が、亡くなられました・・・会田コーチに関しては、以前引退時に書きましたが’09引退・退団選手個人的想い(セ・リーグ編) - GRの戯れ言日記 (hatenablog.com)

 会田氏は、1970年オフにヤクルトにドラフト8位で入団。社会人入団だけに、ルーキーイヤーから開幕一軍登板。先発として出来・不出来を繰り返す。6勝を挙げた。翌年は、不振もあり中継ぎへ転向。1976年に初の二桁勝利の10勝!翌年も9勝。78年の優勝にも貢献するも、日シリでの登板は、無し・・・79年は、二軍で最多勝も一軍での登板は、激減(涙)1980年に引退しました。2007年に会田コーチがプロ初勝利を挙げ、"日本プロ野球史上初の父子による一軍での勝利投手"となる!!通算成績は、試273 29勝45敗3S 防4.34 でした。お悔やみ申し上げます(涙)

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11年前の訃報を書く!!

2021-02-23 00:50:28 | 野球

当時の週べにも新聞にも載ってなかったんやが、先々週の週ベの「ダンプ辻のキャッチャーはつらいよ」内に書いてあったダンプ(辻恭彦、阪神―大洋)が、阪神時代に対戦投手として対戦した高橋重行(大洋)が、早くにお迎えを迎えたんですがと・・・2010年3月1日に亡くなってます・・・高橋氏は、千葉商高を中退後、1962年に大洋に入団。入団して2年間は一軍では投げられず、整理対象選手であった。1964年に別所毅彦ヘッドコーチから認められ、先発として速球と大きなカーブを武器に17勝を記録。規定投球回(リーグ5位、防御率2.76)にも達し、3年目で新人王を受賞。翌1965年も21勝(村山実に次ぐリーグ2位)し、その後も二度の2桁勝利を挙げる。しかし1970年からは、故障もあって先発から外れ登板機会が減少。72年にメジャーチームの3Aに野球留学、アメリカでは1勝3敗、防御率4.80を記録した。翌1973年に大洋に復帰し、9勝を挙げる。78年にスピードガンが導入され、高橋は「時速30km/hを出す」と公言した。その言葉どおり、ものすごく遅いスローボールを使い活躍、78年は防御率3.39(リーグ6位)の好成績を残した。1980年まで先発陣の一角として起用されるが、同年限りで現役引退。引退後は、阪神の一・二軍コーチ、球団職員や編成部門を受け持ちました。名前も知ってたし、実績もありましたなぁ、またあとで大洋の本で見てみます!通算成績は、試581 121勝135敗8S 防3.41 でした。ダンプが、教えてくれるまで、知らんかった・・・記事にするのが、大変&めちゃくちゃ&かなり遅れて申し訳ありませんでした!!お悔やみ申し上げます(涙)!

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