HDDを替えたからか、フジテレビ系の衛星放送が観れるようになったし、初めて観れましたわ(笑)!今でも現役のプロ野球ニュースも観れる訳やが、これはええわ(汗)地上波のスポーツウォッチャーで充分、スポーツニュースで1時間は、長い・・・放送としては、解説が"両チームのOBでもなく何のしがらみのない"片岡篤史 氏やったけど、フジの衛星放送めっちゃヤクルト贔屓やった(涙)スコア通り荒れに荒れた試合でしたなぁ(困)一応先発投手は、勝ち頭の高梨(ヤ)やったんですが、防御率を考えたら、いつ打たれても不思議やない・・・一昨日の試合も、若干交代が、遅れたな(落ち込み)相手の先発投手の清水(中)も投球にバラツキが・・・中日は、京田がスタメンを外れてんやな(汗)セカンドが*1マスターでショートが、堂上か。堂上直は、2打席連続アーチを打ってたな!さらに助っ人は、アルモンテやなくモヤを一軍に上げたんやな、どっちも実力者やけど、今状態がええ選手とモヤは二軍で無双ですからな!ここの助っ人4人枠の「生き残り争い」のレベルは、高い!!ヤクルトは、西浦が離脱したみたいやけど、代わりに好調やないけど、川端・グッチが上がって来た。川端は、万全でないからか、守備に目をつぶってでも、ファーストに村上を起用。ショートは、オープン戦絶好調やった廣岡、サードにビッキー!オープン戦絶好調やと、本番になったら落ちる事ってありますよね(涙)今年でいえば、西野真弘(オ)・亀澤恭平(中)・廣岡大志(ヤ)・・・亀澤は、今一軍に昇格したばっかりみたい。ヤクルトの収穫は、コンちゃんが1イニング3者連続奪三振を奪ったぐらいか。
それと遅れましたが、ホセ・ロペス(D)が、1967~68年の榎本喜八(東京)の「一塁守備機会連続無失策」1516を抜き「一塁守備機会連続無失策"1517"」としプロ野球新記録を達成しました!!おめでとうございました!!!守備範囲は広いんか狭いんかよく判らんけど、チャモ、おめでとう!
*1 阿部寿樹(中)の愛称。名付け親は、伊東勤 ヘッドコーチで"バーのマスターに居そうな顔やから"という事らしい。
と言っても、得点シーンの延長10回を観てません、睡魔に負けました・・・ありきたりな事を言えば、ロッテは終盤に登板する投手の課題と田村に次ぐ二番手以降の捕手の養成が、急務でしょうなぁ(困)ソフトバンクは、千賀は"走者を出してからが、強い"ですね!グラシアルは、4番でも行けますね!高田や美馬は、数少ないスタメンのチャンスで結果を出さんと、今の立場からは抜け出せんやろうな(涙)
ところで史上唯一の100勝100S100H以上の持ち主の上原浩治(巨)が、「シーズン途中に引退を表明」しましたね(汗)"シーズン途中での引退"は、非常にレアですが、僕の知り得る限りでは、シーズン途中での引退は、鈴木啓示・山下大輔・長田昌浩ですが、他に皆さんが知っている・思い浮かぶOB選手は、居ますかな?
昨日発売の週ベのアンケートコーナーのP.77に僕の意見が、載ってます。「解体された球場での中でもう1度行ってみたい球場は?」というアンケート内容やったんですが、"もう1度という事は、1回行った所で内とイケナイ"という縛り(条件)があるんで、自ずと1度行った事のある球場になるという事なんですが、しかしまぁ本音としては、(「(近鉄)藤井寺球場」ではなく、"西宮球場"に行きたいですね!確かに西宮球場には、「少年野球の入場行進では、グラウンドに足を踏み入れた事はある」んですが、スタンドには入ってないんですよね(汗)それも行った事のあるにカウントされるんでしょうけど、何か文章にし辛くて(汗)あと僅か1回行った事あるから、大阪球場も書けたけど、ええ文章が浮かばんかったんで・・・という訳で、一番最初に来訪したプロ球場、"藤井寺"となる訳です。だからええ文章が浮かび、採用されると計算した上で投稿しましたら、計算通りになった訳です。ただ書いといて、そこまで嬉しくはないですけどね(汗)"行った事のある球場という縛りが無ければ"、"日本生命球場(日生球場)"か"改装前の静岡草薙球場"になるかなぁ!
小玉明利 氏が、亡くなられました・・・以前のブログ「GRの戯れ言日記」に長文を書いてますが・・・http://forever545kb.hatenablog.com/entry/2014/03/10/001100
小玉氏は、神崎工業高中退後に近鉄に入団。173cm・70kgという小柄な身体から自らを「安物のネクタイ」と評していました(汗)と同時に"安物のネクタイは捨てられる。同じ様なものでも、値段が高いものは大事に扱われる。簡単に捨てられないために、必死にくらいついた"とプロ入り当時を回想してる。1952年秋に入団テストを行い、採用された1人が小玉氏だった。支度金といわれていた、契約金はなし。まかり間違っても、練習補助員として使えるといったぐらいの扱いだった。だが小玉は小粒でも、磨けば光る本物の真珠(当時の近鉄のチーム名は、パールスだけにね・笑)だった。周りを見渡すと高級ネクタイがいっぱいだったが、三塁は安物ネクタイを自称する小玉でも、手が届きそうなポジションだった。1953年には投手から転向した立大OBの五井孝蔵(近鉄)が守ったが、不慣れな守備に自信を失っていた。小玉は連日の守備特訓に耐え、先ず守りで高級品を追い抜くことに成功した。テスト入団から2年目の54年に三塁手として132試合に出場、打率.264をマークし、抜擢に応えた。チーム成績が思わしくなく、長打力のある打者が少なかったピストル打線と呼ばれた弱小球団の中で、小玉は1962年~65年まで4年連続3割を記録するなど長きにわたって巧打者として活躍する。特に58年はチームが29勝97敗で勝率.238という成績の最下位に終わったが、小玉だけはリーグ4位の打率.301を記録した。同年はチーム打率.215で、規定打席に到達した打者の中で2割を超えている選手が小玉だけという有様だった。小玉は、近鉄では数少ない全国区のスター選手だった。1957年から1965年にかけて9年連続でオールスターに選ばれる。特に1962年から1965年は4年連続ファン投票で選出され、1963年と65年はリーグ最多得票での出場だった。1965年からは兼任コーチ、67年には3年連続最下位に低迷するチーム再建の切り札として31歳にして選手兼任監督となった。開幕投手に啓示を抜擢した。同年6月14日の阪急戦でスペンサーにヘルメットを投げて退場処分を受けている。5月14日には14年ぶりに単独首位に立ったが、自らが選手として出場する機会が減ったためか、チームを最下位から脱出させる事は出来ず、近鉄はさらなる切り札として知将・三原脩を招聘することとなり、小玉はわずか1年で解任された・・・結局、小玉が在籍中に近鉄は3位以内に入ることすら出来なかった・・・土井正博が入団して4番として君臨するまで暗黒期(まぁ近鉄の勝敗数を見たら、殆どが暗黒期といえる訳で)を支えた"「ピストル打線」の主砲=4番やった"という事ですな!!通算成績は、試1946率.286 130本788点 安1963/試132 59勝71敗2分 率.454 でした。合掌です(涙)
それと今さらながら、正しくは後継球団やないかも知れんけど、帳奕(ちょうやく)[オ]が、今季から外野手から投手に登録変更されただけでなく、支配下登録もされました。日曜の試合も、1か2イニング投げましたが、力不足は否めなかったものの、何とか2失点で済ませてましたが(汗)