GRの戯れ言日記2

途中まで元々閉鎖された別会社のブログを引用して来た物。2017年2月から本格始動。それ以前は、はてなブログに書いてます。

要所要所で触れられた(触れられる)人物

2021-02-21 01:12:01 | 野球

かつてのヤクルトの左のエース(左というか、右や本格派という意味では、この時代は松岡弘[弘]〈ヤクルト〉やったでしょうなぁ・・・)として活躍された安田猛(ヤクルト)氏が、亡くなられました・・・早大・大昭和製紙を経て1971年オフのドラフト6位でヤクルトに入団。「ペンギン投法」(愛称も"ペンギン"やなかった?)と呼ばれたサイドスロー左腕で7勝5敗、防御率2・08の好成績で最優秀防御率に輝き、新人王に選ばれた。プロ入りから2年連続で最優秀防御率を獲得したのは稲尾和久氏と2人だけという快挙であった。またリーグ最多無四球試合(5試合)を記録するとともに、同年7月16日の阪神戦から9月9日の阪神戦まで81イニング連続無四球のプロ野球記録を樹立。この記録は田淵幸一への敬遠四球で始まり、同じ田淵への敬遠で終わったのは、有名な珍記録(笑)「王キラー」でもあり、王氏が756号に王手をかけた場面でもメモリアル弾は許さなかった。←これは、今初めて知った!1975年からは先発に回り、4年連続二桁勝利を記録。毎年15勝前後の勝ち星を挙げて、上位に躍進中であったチームを支えた。同年から3年連続でリーグ最多無四球試合を記録し、1978年には15勝をあげてヤクルトの初優勝に貢献した。同年の阪急との日シリでは、第1・4戦に先発するが、特に4戦目は崩れ、白星は上げられなかった・・・右膝を故障した翌年以降は、成績が低迷。1981年には左膝の半月板も損傷し、同年限りで現役引退。引退後もヤクルト一筋で、コーチやスコアラーを歴任。1993年の日本一にも貢献し、ノムさんも彼を「名スコアラー」と絶賛した。2010年は、解説者。JR東日本の投手コーチも臨時で兼任。2016年12月、小倉(福岡)高のコーチに就任し「最後に母校で指導したい」と翌年夏からの監督就任を目指していたが、スキルス性胃がんが見つかった。コーチを辞任し治療。末期がんと闘い、母校の指導に復帰してみせ、19年7月のヤクルトOB戦ではマウンドにも上がった。ゲームでも使わせてもらった(変化球の球種が、多かったですね)し、僕が過去に書いた闇の著書にも出て来ます!そして何よりいしいひさいち作の漫画『がんばれ!!タブチくん!!』に登場するヤスダ投手のモデルとして人気を博しましたからね。通算成績は、試358 93勝80敗17S 防3.26 でした。お悔やみ申し上げます(涙)

コメント
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