GRの戯れ言日記2

途中まで元々閉鎖された別会社のブログを引用して来た物。2017年2月から本格始動。それ以前は、はてなブログに書いてます。

もう少し生まれるのが、遅ければ・・・

2020-02-27 23:30:39 | お笑い考

『タモリのSUPERボキャブラ天国』「ボキャブラヒットパレード」のコーナー=編集映像無しで芸人の言葉や動きのみで魅せる(見せる)コーナー。のちにゴールデンに進出後は、芸人のコーナーのみの番組となったのは、ある意味芸人の存在価値を示したんかも知れんけど、個人的には、この番組は大嫌いやった、『タモリのボキャブラ天国』は、素人投稿の映像のみやった時の番組の方が、好きやった(←今考えると、表面的で薄っぺらかったけどな!!)!その番組のエース級の存在であった元天才コントコンビ桶田敬太郎(フォークダンスDE成子坂)氏が、11/23に亡くなっていたようです(号泣)!!元々このコンビの詳細はあまり知りませんでしたが、元相方の村田渚 氏が、2006年に急逝された時に太田光や三村(さまぁ~ず)が、大変残念がってたし、我々お笑いファンでもフォークダンス・村田渚・鼻エンジン時代から異彩を放ってて、平凡な芸人でない存在という事は、知れ渡ってましたからね!太田光も三村も"天才すぎるが故に売れなかった。"と証言してましたが、それは特に三村がこう証言してました・・・太田光自身も"(天才というのは、)桶田を指したつもりだったけど、渚も相当上手かったよ"と証言してましたしね!という事は、天才・桶田敬太郎のセンスに着いて行っていた村田氏も非凡であった事は間違いないし、何より"フォークダンスDE成子坂自体が、天才コンビだった!!"という事でしょう!!!ますおかに"俺らコントでなくて良かったなぁと当時言っていた、コントをするにしても本業でやって行く事を諦めさせたコンビ"でもありましたしね!フォークダンスのネタは、たまにネット動画で観てましたが、凄くセンスがあってシュールでええコンビでしたね(燃)!"こんなにええネタが出来るコンビが、何で解散する事態になったんやろう?"と思ってました(大汗)オンバト初年度に1回挑戦し、オンエアを獲得した後、解散・・・村田氏はその後ピン芸人・村田渚、次に鼻エンジン(コンビ)を結成。桶田氏は、12月、自らの音楽活動に専念する為、バンド「The 3cm〜」のボーカルTaroとして活動を開始する。 2004年より、かつての同僚からの後押しも機に、放送作家・構成作家として、バラエティ番組を中心に、テレビ・イベント・舞台・CMなどの企画/構成を手がけるようになる。 その延長として、テレビや舞台等で、発想する企画色やアイデアをビジネス/ビジネスモデルへ活かせないかとの試みで、新規ビジネスモデルやコンテンツアイデアの企画・考案にも参加し、Web・モバイル(製品・サービス企画)・新規エンタテインメントの考案や、タレント/キャラクターの企画・演出等、幅広いエンタテインメントを対象に、企画・構成・演出を行う他、自身の日常・生活・趣味を活かしたライター業なども行っている。 2014年には、新ネタを自らのYouTubeチャンネルに公開したほか、ピン芸人としての活動を再開し、後進育成、若手育成の監督・コーチ・ネタ提供、プロデュースなども行っていました。もっと生まれて来るのが遅ければ、あるいは KOCの開催がもっと早ければ、若しくは、オンバトがもっと早くに始まってれば、もっと世に知られ、違った結果になったかも知れません!向こうでコンビを再結成してるかも知れません、爆笑をかっさらってください!合掌です(涙)

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無題

2020-02-20 21:41:28 | 野球

トニー・フェルナンデス(西武)氏が、亡くなられました。2000年に1年だけ在籍した選手でした(汗)37歳での来日となり、さすがに年齢を感じさせるプレーでしたな(大汗)しかし清原和博→玉野宏昌(西武―中日)の後に背番号3を付けただけあって、当時貧打の西武に大物助っ人という触れ込みでやって来ました!開幕当初の西武は、「攻撃型オーダー」で1番・大友進、2番・松井稼、3番・フェルナンデス、4番、レジ―・ジェファーソン(西武)という並びでした。ただジェファーソンが、左投手を全く打てず、相手先発投手が左の時は、スタメンすら外される状況で4番に彼が、落ち着くか時には、松井稼が4番に座るという悲惨な状況の2000年の西武打線でしたなぁ(号泣)・・・フェルナンデス氏と関係ないけど、この年の西武は、セカンドも人材難で対左投手に限らず9番打者としてスタメン出場してるものの黒田哲史を1打席で交代させたり、玉野が座ったり、高木浩之も故障がちで一向に定着出来んかったなぁ(プロ野球データ事典では、主なオーダーに玉野って書いてあるけど、個人的にはこの年のセカンドは、黒田のイメージやなぁ)・・・フェルナンデス氏は、典型的な外国人タイプのバッターで"始動が遅く、ギリギリまでボールを引き付けて打つタイプやった"んで、率は残せてもホームラン数があまり伸びませんでしたな(汗)同じ様なタイプは、ゲーブ・キャプラー(巨人)でしたが、彼は全く活躍出来ませんでしたが、"打者の直前で動くボールはよく見えるけど、始動が遅すぎる打法は、考えもん"ですなぁ・・・通算成績は、試103率.327 11本74点 安121 でした。合掌です(汗)

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LIFE!~人生に捧げるコント~ 02 11(series7 #6)

2020-02-15 22:36:10 | ミックス

 急遽、報ステを録画したり、何やったら『ニュースウォッチ9』も録画しようと思ったら、何故かこの番組は録画出来ませんとか表示されたし(時間が被ってたとかなかったし)、何かHDD自体が、報ステが始まる前から何か変やったから、不具合やったんでしょうね・・・オープニングから18分間録れてません(号泣)再放送の機会がないと、補完は無理(和牛の川西とかも出てたらしいけど)ですな・・・ネット動画も探しましたが(大汗)!「一万円」は、ややキャッシュレス社会に警鐘を鳴らしている?そこがポイントやないのは、重々解ってるけど!「Mr.ボーン」は、"煽り笑い"が、多すぎやろ・・・「失礼しました」は、"前の客が手を付けなかったメニューを別の客に出そうとしたくだり"以外は、ありがちやったな(汗)それも船場吉兆を思い起こさせるし、現実にもなくはない事かも?・・・「モノガータモツ」(未放送コント)は、オチと同じで後味が悪いネタやな(少笑)


 追記。ノムさんの件で例によって書き忘れ(大汗)散見される文章。

 「中心無き組織は、機能しない」→「組織はリーダーの力量以上に伸びない」とほぼ一緒で、当たり前のような話な気もしますが、リーダーや中心人物が居なくても、チームが勝てたり優勝出来たりもする時もあるとはいえ、確かに長続きしない気もしますね(汗)

 「現代野球に於いては、もう監督としての戦術は、出尽くした気がする。その中でも何かを見出すしかない」→週ベに書いてあった、あるいは"フロントを中心とした戦力補強や道具の性能の向上などが、鍵になるか"とか言ってたような・・・

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野村克也の格言・名言集や生い立ちや選手時代・監督時代ちょろっと

2020-02-12 00:58:37 | 野球

 幼少期に父親が戦病死した為、母子家庭で貧困生活を余儀なくされる・・・その為、小学校時代から家計を助ける為に新聞配達などのアルバイトを始める。兄の大学進学を諦め、就職してもらい克也の高校進学は兄の願いであり、京都府立峰山高校の授業料を負担してもらい、感謝の日々を送りながら、野球・勉強に勤しむ。"部員の内1人でも、テストで赤点を取ると、野球部が廃部になる"という危機に直面した際には、自身はまだ勉強が出来る方やったんで、テスト中に周りに危険な部員を座らせ、カンニングさせて何とか全員赤点を取らずに、野球部存続にこぎつけた(苦笑)プロ野球を目指していたノムさんは、巨人入りを夢見ていたが、選手名鑑を見た所、レギュラーになれそうもない・エリートでもない無名選手やから、捕手の競争率の低いチーム・捕手が高齢化してるチームを選んで、峰山高校野球部の監督に南海へ手紙を書いてもらい、入団テストを受ける。強肩ではない為遠投のテストも得意でなく1球目は合格に届かなかったが、先輩選手に規定の場所より「少し手前から投げい」と言われ、半ばおまけで南海のテストに合格し、入団。その時に南海の合宿所で生まれて初めて「カツ丼」を食べるも、"この世にこんなに美味い物があるのか!!"と号泣しながら、食したというエピソードが、ある。ただ他の捕手3人ぐらいも戦力として見られてなく、よっぽど光るものがない限り、"当時はブルペンキャッチャーも殆ど居ない為、ただ単に投球練習を受ける為のカベ(ブルペン捕手)扱いとしてしか見られていなかった"とノムさんが先輩選手から聞かされた時は、相当ショックを受けた上、1年目オフにクビを宣告されるも、球団幹部に「ほんまにクビにするんでしたら、南海電車に飛び込んで、死にます。」と言ったから残留出来たんかは知らないが、何とか現役を続ける事が、出来た。当時の南海はチームとしては強かったものの、殆どの選手が"この世界は、才能。素振りして上手くなるなら、みんなしてる!お前(野村)も素振りなんか止めて、キレイなねーちゃんの店に遊びに行こうぜ"という考えがはびこっていて、そういう誘いに乗らず、金も実家に仕送りして無いし、"努力は絶対実を結ぶ!"という信念のもとに先ずは打撃から活路を見出し、素振りを重ねる。←これは、今の選手にも重要やし、通ずるものがあるんやないか!?カーブ打ちの極意や同じく右打者という事もあり、山内一弘をよく手本とした。オールスターで山内氏に「カーブの打ち方を教えてください」と言っても、「おう、ほな銭持って来いや」="プロは、自分で技術を磨け!プロは、他人の良い所を盗んで自分のもんにするんや"と言われる時代・・・まぁ今の時代でも、野球に限らずビジネス=仕事の世界は、そうちゃうかな?・・・1963年には、1950年(ラビットボール年でボールがとてもよく飛んだ年とはいえ)の小鶴誠の持つ年間51本塁打を抜く、新記録の年間52本塁打を放つ(52本目は、クソボールやったらしいけど、もう後が無かったから、やけっぱちで)[笑]!1965年にダリル・スペンサーの交通事故離脱もあり、戦後初の三冠王(それも長期1シーズン制になって初)を獲得!!通算657本塁打は、歴代2位。殆どの通算成績は、2位(汗)長く現役をやった分、打率以外は減らないので、本人曰く"長くやってたから、必然的に多くなるだけですよ"と選手時代に関しては、謙遜気味(汗)監督時代は、対照的にやや?手前味噌・・・一方で"先発投手を4イニングス目(4回0/3、4回1/3、4回2/3)で投手を代えた事がなく"、「(非情に徹せないから)、俺はヘボ監督や(仰木達は、それが出来るから一日の長がある)・・・」と言ってる所もある(汗)通算犠飛数113は、歴代1位(何か立派で技術の要る事やけど、面白い記録やね)!!!!捕手としては、完全試合・ノーヒットノーランには、携われず・立ち会われず(涙)

 「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」→「結果オーライ」で勝つ事はあるが、負けるのには絶対に原因があるという事

     「組織は、リーダーの力量以上に伸びない」

 「長嶋や王が太陽に向かって咲くヒマワリなら、俺は日本海の海辺にひっそりと咲く月見草」→通算600号本塁打を放った試合後の記者会見・インタビュー内で。座右の銘やし、彼のモットーみたいなもんでしょうな!!

 「敵は、我にあり」→心理学的にも、"自己評価"というものは、甘くなるものであり、人間は"他人から評価されてなんぼ"!

 「無形の力」→素質には限界が、ある。そこから先は、思考や創意工夫・準備・度胸。

 「人を遺すは上、仕事を遺すは中、財を遺すは下となす」(後藤象二郎の格言でもあり、孔子の『論語』にも載ってたはず)→僕も時々使わせてもらうし、どっかでそう思ってる!ノムさん自身は、人を遺すは は、やったはずと自負してるらしい。

 「野村再生工場」=具体例は、山内新一・松原明夫・江本孟紀・江夏豊(南海時代)、荒木大輔・吉井理人・廣田(広田)浩章・田畑一也・金森栄治・小早川毅彦・辻発彦(ヤクルト時代)、遠山奨志(昭治)(阪神時代)、山﨑武司(半分以上は、前監督の田尾安志の再生やけど)・川岸強・佐竹健太(楽天時代)ら やろうな

 選手兼任監督時代に福本豊の盗塁阻止の為に、投手の「クイックモーション」を発明(考案)したのは、間違いなくノムさんやった!!ヤクルト時代に複数人数塁上に走者が居る時の「偽投」(今では、禁止)で相手をかく乱させるのも、弱者の戦法でええ作戦やったんやないかな!これらは、評価して良い!!あとの「守護神確立」(完全に組織化したんは、ノムさんやったかも知れんが)や「ワンポイントリリーフ」は、ノムさんが最初に考案した訳やない(若干「自身がやった」って言いがちやった)けど・・・あと偉かったのは、ヤクルトの監督に就任する際に、コーチとして南海時代の腹心を高畠康真 打撃コーチぐらいしか連れて来なかったことに関して記者から質問をぶつけられると、「もし俺が短期政権で終わってしまったら、一緒に連れて来たコーチもクビを切られるやろ、その時に路頭に迷う事のないように・・・」という気遣いは、中々出来るもんやなかったと思う(結果的には、ヤクルト時代は長期政権になるんやが・汗)!それと"南海以外は、全て弱小チームを粘り強く鍛え上げて、監督通算成績を貯金2で終えて、勝ち越した事"は、"賞賛では済まないぐらいの価値に値する"な(燃)!!他には阪神時代は、SHINJO(新庄剛志)は守備に関しても天才なんで、野球をナメているように見えたんで、機会があれば全ポジション経験させるつもりやったし、出来ると思っていた。ただ彼を操縦するには、怒ったり、けなしたりせず、繊細で傷つきやすい為、「ほめちぎり育成」を心掛けたんが功を奏し、新庄自身も"意外と野村さんが、一番自分に合う監督やった"と証言している。結果も出たし!投手を練習させたのも、本人に野球を楽しく・気持ちよくやってもらう為、"投手をさせる事で打者に置き換えても、配球の勉強や普段と違った運動にもなって、一石二鳥"と考えていた意図があったようやわ。新庄を一人前にした矢先に、メジャーに行かれてしもたけどな(汗)ノムさんの講演会に行ってみたかったけど、意外と彼は先駆者やない事が多いけど、1個だけ聞きたかったんは阪神の監督に就任したんは、大失敗やったって言ってますが"もし、ミーティングの際にレジュメを渡さず、選手にノート(メモ)をとらせていたら、違った結果になってたかどうか?"だけを聞いてみたかったですな!"ちょっとでも早く結果を出そうとしてレジュメにしたんが失敗で、楽しようとしちゃイカンという事ですよ"とおっしゃってましたが、多分"あんま変わらんかったんやないか"という答えが、返って来そうですが(汗)楽天では、高須洋介・岩隈久志・草野大輔・渡辺直人・悪球打ちで「安物の天才」と呼ばれた中村真人・内村賢介との出会いが、大きかったんやないかな!もっと大きい出会いは、前出のジャーマン(山﨑)・田中将大・嶋基弘やないかな!?2009年には、「無形の力」で2位に躍進し、日本ハムとの両チームからの胴上げは、感動ものやった(前のブログに書いてる)!ちなみにヤクルト時代のキャッチフレーズは、「ID(インポート・データ)野球」で4度のリーグ優勝で3度の日本一(ドラフトでは、希望の選手を獲ってくれん時もあったけど、一番好き勝手にやれた時代やったとも証言してる)!!阪神時代は、「TOP(トータル・オブジェクトレッスンズ・プロセス)野球」。合わんかったけど、少しは考えてやるようになったし、のちのやや強い時代の礎を築いたかな。 

 ノムさん、向こうに行っても"仰木さん、上田さん、鶴岡さんらと思いっ切り野球談議して、思いっ切り現代野球にぼやいてください"!パ・リーグ人気を並の位置にここまで持って来たのは、あなたの功績の一つでもあります!!「公私混同」で南海を追われた時に「鶴岡元老の圧力で吹っ飛ばされた」と糾弾して以来、鶴岡さんとは齟齬のままかも知れませんが、その真相も解けるかも知れませんよ!確かにあなたの言う通り"解説者になってからも球団に影響力のあった鶴岡さんの派閥が、野村選手兼任監督を快く思ってない選手やコーチやOBや球団幹部も居たでしょう"、しかし一方で鶴岡さんが証言していた、"解説者のワシに南海の人事権などある訳ないやろ!"という意見も解るだけに、ほんまに真相は闇の中でしょうけどね・・・ノムさんは2006年に楽天の監督に就任した際に、入れ違いで2005年にオリックスの監督を辞任した仰木さんとの監督対決をほんまは翌年も生きてて、監督をしていたとしたら、対戦を楽しみにしてたようですよ!その時に"予告先発投手をやる(賛成導入派の仰木さん)・やらん(手の内を見せたくない・反対派のノムさん)論争も想像出来て"、笑けてしまいます(笑)とは言うものの、ノムさんも南海の選手兼任時代に「予告先発導入を提案してた時があった」んですけどね(大汗)・・・向こうで名采配同士の名勝負を期待してます!野村克也さん、パ・リーグの為・プロ野球の為に本当にありがとうございました!!通算成績は、試3017率.277 657本1988点 安2901/試3204 1565勝1563敗76分 率.5003 でした。合掌です(涙)

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山室寛之 著『1988年のパ・リーグ』

2020-02-08 20:38:55 | 野球

 (新潮社、2019年)。何やら、好評なんと著者は、"元読売新聞社広報部長・編集局長から巨人軍代表といった経歴の人物ですし、それにセ・リーグ側からパ・リーグを見たら、また違った見解があるかも知れん!"と思ったんで借りてみました(笑)当初、"セ・リーグの人間にパの事など判るはずもない、気持ちを理解出来るはずがない!ましてや巨人の人間なんかに!!"なんて思ってましたが、元フロントの人間だけあって想像以上にしっかりした文章を書かれていました(燃)!ただあまりに経済・経営の事ばかりの記述が散見されるんで、専門的すぎてキツかった面もありましたが(汗)

 新知識としては、1979年に平和台球場の芝を張り替え、スコアボードも改装し、クラウンライターから新球団に身売りされても、ライオンズに引き続き平和台球場を使用してもらおうという姿勢を見せた(のちに川崎球場も1991年にロッテオリオンズを引き留めようと、同じく人工芝の張り替え・電動スコアボードの導入といった改修を行ったけど、時すでに遅しとなったって事があったけど、平和台でも同じような事があったんやなぁ・・・)けど、クラウンを買収した新球団の西武はそれを拒否して、急転直下、埼玉県所沢市への移転を決めた。せっかくきれいになった球場は、持ち主無しのアマチュアがメインで使用する球場になってしまった(旧チームの西武が、申し訳程度に年間数試合行うものの)・・・さらに嫌がらせのように1979年のパ・リーグ開幕12日後に"何故か阪急主催で西武戦が、ビジターで1試合だけ行われた"(涙)1980年代中盤には、ダイエーはセ・リーグのチームや阪神を買収しようという目論見もあった(大汗)!!ただ当時イケイケで黒字の球団経営にうま味のある"セ・リーグのチームが、球団を手放すのは先ず無い!"と見受けられ、断念した1980年代後半にロッテが、本拠地を福岡市の平和台球場へ移転する計画があった(=ロッテは、川崎球場への執着心は、無かった!)九州(西鉄・太平洋・クラウンライオンズ)の野球ファンも九州にプロ野球チームが帰って来ることを熱望していた。ただ1988年は、ロッテとしてはソウルで五輪があり、「ロッテワールドの建設」に心血を注いでた為、結果的に手が回らなかったのに加えて、千葉県に"千葉マリンスタジアム"という新球場が出来る目途が立ったんで、そこを本拠地にしようと気持ちが、傾きかけていた為、頓挫!一方でダイエーは、ロッテを買収するという目論見もあった!しかし熟考を重ね、ロッテのダイエーへの身売りへの乗り気の無さもありダイエーは、ロッテの買収を諦め、南海の買収に舵を切った。→一方でダイエーは、阪急を買収して神戸球場を本拠地とする案もあったという話であるが、それではセの阪神も含めて関西に4球団という構図は変わらないし、"地域密着も出来ない・南海と阪急が身売り後にダイエーのオーナー中内功が、阪急が身売りをする事が判っていたら、うちが買ったのに!"と証言したとあるけど、後付けでも無理のある話なのは、いくらダイエーの本社が神戸にあるといっても、やっぱり本命は福岡であったのは間違いないと裏付ける理由は、1988年は"東京ドーム元年の年"="ドームバブル"というもので、巨人はいうまでもなく、日本ハムの観客動員は、前年を大きく上回る観客動員を記録したんで、時代はドーム球場の到来→ドームを中心とした球団経営の実現は、福岡しかなかったから、やはり"ダイエーの本命は、福岡であったと考えるのが、自然といえる" といった流れや紆余曲折があったのは、知らんかったな・・・

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