GRの戯れ言日記2

途中まで元々閉鎖された別会社のブログを引用して来た物。2017年2月から本格始動。それ以前は、はてなブログに書いてます。

漫才ラヴァーズ NEXT ytv漫才新人賞 ラウンド3

2020-01-31 21:58:42 | お笑い考

 審査員は、久馬・竹若・兵動・巨人師匠・・・

隣人 55

もも 54

エンペラー 56

○コウテイ 60

◎マユリカ 55

パーティーパーティー 52

ヒガシ逢ウサカ 58

ダブルヒガシ 50

◎紅しょうが 50

○さや香 62

黒帯 51

風穴あけるズ 56

絶対的7% 50

ネイビーズアフロ 53

 隣人は、演技力・最後のまとめ方は、中々のもの!"ハンチング・麦わら(帽子)はサイズが合わんかったけど、銀盤は、ぴったり"・"曲がってた腰が、真っ直ぐになった"のくだりも良かったけど、"全体的に笑えるか"という点が・・・もも(コンビ、よしもとクリエイティブ・エージェンシー)は、初見。「クラブが嫌い」っていうネタは、和牛と被ってたけど、それが本題やなかったか(謝罪)・・・若干発想が弱いかな・・・見た目イジリというネタが、安易!ここも最後のメッセージ性は、良かった(笑)エンペラーは、にしやま(西山慶児)の演技力はええけど、ネタがベタやったし、ワンパターンやったけど、"最終的に現実の話か感情移入した漫才コントか、判らんようになったネタ"やったな(少笑)コウテイは、前半は良かったけど、中盤から終盤にかけてが(大汗)それにくだりによって"出来・不出来の差が"・・・ただスタイルは、確立してるだけに!マユリカは、漫才としてはしっかりしてるけど、いつも思うんやが、特徴が無いなぁ(涙)"漫才のサンプル"にしか見えん!パーティーは、確実にウケる方法論やし、ツッコミも上手いけど、ボケが弱い(困)ヒガシ逢ウサカは、正論ぽい主張・ツッコミは良いし、完成度も高かった!ただ高見雄登の意見は正しいけど、ネタとはいえ堅苦しすぎるな(苦笑)ダブルヒガシは、客ウケは良かったけど、作り話にしても無理がある(涙)期待外れ!!

 ドーナツ・ピーナツは、しっかりしてるし、ちょいちょい意外性は見られるも、オーソドックスすぎる・・・紅しょうがは、意外性が無い!さや香は、入りは新しかったけど、序盤はありがちな手法やったけど、"北海道に東北や北関東を詰め込む"といった発想で凌駕して、完成度の低さを見事にカバー(拍手)!客ウケも抜群。黒帯は、ワンパターンやし、所々聞き取り辛い所が・・・風穴は、"監守と囚人"という設定がベタやし、囚人2人のくだりが長すぎて、監守ほったらかしの時間が長いし、ボケも浅い。絶対的は、爆発力が無い割には、考えすぎてる感じもし、相方との温度差がマイナスに作用してる(困)客ウケも一番弱かったかも・・・ネイビーは、練習量は伝わって来るけど、ネタの選択の割には、客ウケが弱く、個人的にはピンと来ない(汗)

 客ウケは、さや香が頭一つ抜けてて、絶対的が一番ウケてなかった以外は、ほぼ横一線ぐらいに感じたわ。紅しょうがの1位通過は理解に苦しむし、今回の選出は理解出来ませんな(汗)!

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自己を磨く事を怠ると・・・

2020-01-30 22:32:45 | 野球

 楽天が、ステフェン・ロメロ(オ)を獲得です!故障が多いのが玉に傷やけど、ある程度は計算出来るかも!ただ楽天の助っ人は、右打ちばっかりやな(汗)

 あと2000年に近鉄に入団し、2年目の2001年は第3の助っ人投手として在籍したナルシソ・エルビラ(近鉄)氏が、事件に巻き込まれ亡くなりました・・・エルビラ氏は、日本デビュー直後は精彩を欠いたものの、6/20の対西武戦(大阪ドーム)で3四球0死球9三振の打者29人でノーヒットノーランを達成(拍手)!!この試合は、珍しくリアルタイムで地上波中継されてたんやが、そうとは知らず当時大学生の僕は、自炊もせずに吉牛で思いっ切り晩飯食ってて、ほんまに終わりの方しか観れんかってんなぁ(号泣)せやから自分を磨かんと、こないなって運も巡って来んという事やなぁ・・・しかしシーズンを通しては、安定した成績は残せず(大汗)ただ左投手という事もあり、翌年も残留。同じく左腕の補強を目指した(というか当時の近鉄は、投手やったら、誰でも獲ってた・・・)?為、フロント主導で獲得した加藤博人(ヤクルト―近鉄―台湾・誠泰太陽)、ウィル・フリント(近鉄)は、全く機能せず、球団が業務提携したロサンゼルス・ロジャース内のトミー・ラソーダを中心にシーズン途中に獲得したショーン・バーグマン(近鉄)、ジェレミー・パウエルローテに定着した事で、エルビラ氏の出番は激減し、お払い箱になってしまいましたな・・・通算成績は、NPBのみで試33 7勝8敗 防4.79 でした。合掌です(涙)

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実績は確か!

2020-01-24 01:22:41 | 野球

 「むっつり右門」「守道」「守道監督」こと高木守道 氏が、亡くなられました・・・2度目の監督就任時にチラッと書きましたが、現役時代についてあまり触れてませんでしたな・・・http://forever545kb.hatenablog.com/entry/2011/09/30/144300

 守道さんは、県立岐阜商高から鳴り物入りで1960年に中日に入団。なお高校時代に臨時コーチで来た長嶋茂雄に小柄ながら太鼓判を押され、遊撃手から二塁手に転向し、プロ入り後も守道さんの活躍を観ても「やはり」と思ったようですね!プロ入り初打席、初本塁打!主に1番打者を務め、盗塁王も3度獲得。長打力もあり、バントも出来、隙の無い選手であった!2番に座る年度(1963~67年・69年~70年・78年)もあり、西鉄の流線型打線以来当時としては異例の"攻撃型2番"の典型やったかも知れんですね(燃)!守備でもバックトスの名人で守備範囲も広かった!!南海から移籍して来たカールトン半田(半田春夫)の教えか遊撃手(やったかセカンドやったか)に入った半田とよくバックトス・グラブトスの意思呼吸の練習を交わしてたそうですな。1974年の巨人のV10を阻止するリーグ優勝にも貢献!ロッテと対戦した同年の日本シリーズでは、第1戦の9回裏に村田兆治から逆転サヨナラ二塁打を打つなど大活躍する。後楽園球場での第4戦でも金田留広から初回先頭打者本塁打を放つが、その試合の3打席目で自打球を左足に当て負傷退場。検査の結果全治3週間の骨折で、守道さんは第6戦で復帰するも中日はロッテに敗れた。シリーズ通算22打数8安打3打点を記録し、敢闘選手賞を獲得。1981年に引退。1986年には山内一弘監督の途中休養を受け、同年7月6日からシーズン終了まで代理監督を務めた。1991年オフに同年好成績の2位を挙げ人気もあった星野監督の後を受けるという大変なプレッシャーの中での中日の一軍監督に就任(汗)1年目の1992年は、与田剛の守護神返り咲きは大きかったものの、落合博満の不振も響き、最下位(涙)最下位ながらも60勝したのは、批判されるべきではないと評価する向きもあった(汗)何故か宇野勝・川又米利・山口幸司といった控え選手の方が充実した成績を上げていたという不思議な年でもあった。翌年は、アロンゾ・パウエルの活躍もあり、チームに地力があったのか、2位に浮上!で、問題の翌年は、契約最終年の守道監督、本人もその気であったが、翌年から再び星野仙一の監督就任が決まっており、"それを恐れた選手達が、発奮しまくって(星野監督が就任するのを阻止しようと)後半に連勝を重ね"、10月8日に1973年の阪神対巨人以来の「最終決戦での優勝決定試合」まで持ち込む(苦笑)!地元のナゴヤ球場での試合やったし、中日の先発投手は「巨人キラー」の今中慎二であった為、"中日有利"と見られてましたが。同じくGが苦手にしてた山本昌広という手もあったやろうけど、骨折してたからどのみち出れませんでしたが(記憶が定かやないけど、確かそうやったはずやで)・・・ なりふり構わず、勝ちに行った長さんは、日頃の勝利の方程式である継投を無視して、エース3枚(槇原博己・斎藤雅樹・桑田真澄)を惜しげもなくぶつけたのに対し守道さんは"普段着野球(檄を飛ばす訳でもなく、特別なミーティングをする訳でもなく)"で挑んだが、結果的には"臨機応変のカン(勘)ピューター野球の長嶋茂雄"に軍配が上がったけど、これはどっちが正解かっていうのは、結果論やなかったかなぁ・・・中日は、序盤にミスもあったし、一度もリード出来へんかった訳やし。この後半戦の躍進が評価され、急遽、翌年も続投となった。 しかし1995年は、投手陣の崩壊・故障者続出により、チームは低迷を続けた。その為、成績不振の責任を取り、シーズン途中で監督を解任された・・・監督としての最後の試合となった同年6月2日の対阪神戦では、友寄正人審判への暴行により退場処分を受けた(困)2度目の監督就任は、2012年でこれも前年優勝の落合監督の後を受け手でのハードルが、上がった上での就任・・・2位になったものの、優勝した巨人とは、差を付けられ・・・さらにCSでは、3連勝と王手までかけたもの、3連敗(優勝した巨人には、元から既に1勝のアドバンテージがあった)で1994年に続いて再び"あと1勝"が、遠かったですね(号泣)・・・翌年は、4位で退陣・・・落合新GMには、「この船は、沈没した」とまで言われてしまいました・・・ただ!指導者としてはそこそこやったかも知れませんが、選手としては"歴代最高の二塁手"と言っても、過言やないでしょう(燃)!僕も守道さんを挙げます!!特にセ・リーグでは。パでは、「長嶋二世」で同じ様に長打を打てた上尾高出身の山崎裕之かなぁ。守道さんは、仙ちゃんも頭が上がらない存在でアラ・イバを見ても、"レベルが、違う。高木さんには、何度守備で助けられたか!"と称賛を惜しまなかったですな!

 丁度ここに偶然にも図書館から借りて来たノムさんが守道さんを評した著書『私が見た最高の選手、最低の選手』(東邦出版、2013年)内によると、短気な性格で損をしている(口数は少ないが、「瞬間湯沸かし器」と言われる)部分もあるのではないか。私の目から見た高木の守備の印象も同じである。天才肌で起用だが、雑。イージーゴロをエラーする場面がたびたびあった。打撃では、文句なしの、ナンバーワン二塁手。だが守備まで含めるとやや減点すべき部分もある。とも評している見解もある(汗) 2006年に野球殿堂入り。通算成績は、試2282率.272 236本813点 安2274/試787 383勝379敗25分 率.503(代理監督時代も含めて)でした。合掌です(涙)

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既に過去に言ってる事も含まれてる・・・

2020-01-22 21:24:21 | 野球

 今年の野球殿堂入りの表彰者が、発表されましたな。エキスパート部門で野球解説者の田淵幸一 氏です!田淵氏は、大学時代は「法政三羽烏」の1人!巨人入りを熱望も1968年の巨人のドラフトは、投手優先に指名した為、阪神が1位指名をし、泣く泣く阪神に入団。入団後は強肩、強打の捕手として1年目からレギュラーに定着。22本塁打を放ち、捕手として史上初の「新人王」を受賞した。1970年8月26日の対広島戦で外木場義郎から左こめかみに死球を受けて病院へ搬送されるほどの重傷を負った事を切っ掛けに耳あて付きヘルメットが導入されたきっかけを作った選手でもあった。この時の怪我(3日ぐらい意識は、回復せず)は「田淵の体質がこれで全て変わってしまった」と言われる程大きなもので、翌年以降まで尾を引き、入団当時「もやし」「キリン」のあだ名をつけられるほどやせていたが、だんだんと太りだしてしまったとされる。この頃、打撃フォームを一本足打法にしてから飛距離が伸び始め、1972年には34本塁打を記録した。江夏豊とのコンビは「黄金バッテリー」と呼ばれた。 1975年には王貞治の14年連続本塁打王を阻止する43本塁打を打ち、初タイトルを獲得した。怪我で出遅れた王を尻目に開幕から打ちまくり、最終的に王に10本差をつけてタイトルを獲得した。死球を受け、左手をまともに使えない状況で右手だけを使い、打ったホームランも含まれている。 1978年オフに深夜に球団から呼ばれ西武へトレード通告(汗)阪神時代は、一時期外野に転向していた年度(1971年)もあった!入団前は嫌がっていた阪神に愛着を感じていた彼は、この通告に号泣していた・・・

 西武では一塁手やDHに転向して活躍も続けた。5年ぶりとなる40本塁打以上(43本塁打)を記録(西武球団史上初の40本塁打でもある)。1982年・83年には阪神時代に成しえなかったリーグ優勝と日本一も経験した。1979・80年には、ノムさんとチームメイトになったが、捕手での配球面では全くの考えの違いで、ノムさんには捕手としては相手にされなかったようである(大汗)田淵氏曰く"だって投げるのは、投手じゃないですか?どこに球が来るかなんて判らんから、キャッチャーは受けるだけで結局は、投手次第でリードしたってあまり仕方が無い"と"殆ど考えていない・投手の出来次第の打撃の事しか考えていないタイプのキャッチャー"と見受けていたそうです・・・1984年限りで現役引退。 翌年から解説者に。1989年オフにダイエーの監督に就任。外様であった上初の監督業務であっただけに失敗も多く、ファンの不満も多かった。ただエース・村田勝喜を中心に佐々木誠・大野久・吉永幸一郎といった野手は、幾分か育った気もしますし、チームは年々順位を上げていた(6・5・4位)!が!ただチームは、1度もAクラス入りならず・・・4位で平和台球場の有終の美を終え、翌年の福岡ドーム移転及び根本陸夫 監督への橋渡しをする。1993年からは野球解説者。2001年オフに星野仙一監督の熱烈な要望を受け、阪神復帰に渋い態度を見せていたものの、古巣阪神のチーフ打撃コーチに就任!濱中おさむ(治)を指定強化選手のように扱い、「うねり打法」を伝授するが、濱ちゃんに限らず彼の指導法は「成功した」とは言い難く彼は、教えるのが上手いんやろうか?・・・2003年のリーグ優勝&仙ちゃん勇退を置き土産に退団・・・2007・2008年には、再び仙ちゃんの下、北京五輪の予選・本戦の打撃コーチに就任。本戦では「お友達内閣」は失敗に終わった事は、あまり触れん方がええんかな・・・2011年に次は、またしても星野監督率いる楽天のヘッド兼打撃コーチに就任!!今度は、「骨盤打法」を選手に伝授も統一球の影響を受けてか、これもあまり成功したとは言い難い・・・チームの極度の打撃不振から6月5日付で打撃コーチ職を解任。ヘッドコーチ専任となり、翌2012年もヘッドコーチを務めたが、同年シーズン終了を以って解任となった・・・翌年の日本一には、関わることは出来ず’(涙)ただ大半を激務の捕手で過ごし、474本塁打は、立派!!殿堂入り、おめでとうございます!!!

 他には、特別表彰に故・石井連蔵 氏、故・前田祐吉 氏が、殿堂入りされました。前者は、「日米大学野球の開催」に尽力し、前田氏は、アジア野球連盟の事務局長としてアジアへの野球普及に力を注がれました。両氏共、おめでとうございます!

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いぶし銀の存在なんていくらでもおるねんなぁ(汗)

2020-01-17 00:31:31 | 野球

井上善夫(西鉄―巨人―広島)氏が、亡くなられました。申し訳ありません、全く知らない投手でした!!井上氏は、1960年に西鉄に入団。1962年に先発、リリーフ共安定した成績を残す。1963年のリーグ優勝に貢献、日本シリーズでは第5戦に先発するが敗戦投手となる。1964年の対阪急戦でノーヒットノーラン(非常にレアな打たせて取る投球で、僅か1奪三振!)を達成!!これで勢いに乗り、同年は17勝を挙げるなど好成績をマーク、翌1965年も11勝を挙げる。それ以降は成績が上がらず、1968年に巨人に移籍しますが、あまり出番はなく翌年に広島に移籍、球威の衰えをコントロールでカバーし、中継ぎとして活躍する。打撃も良く、通算2本塁打19打点を挙げている。1962年には40打数10安打1本塁打10打点、打率.250と打者顔負けの成績を記録した。1961年には外野を3試合守っている。1971年に現役引退しました。引退後は、東京・恵比寿で長年に渡って飲食店を経営していました。通算成績は、試379 47勝58敗 防3.39 でした。合掌です(涙)

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