沖縄での一人暮らし

延べ8年間、沖縄で一人暮らしをしました。歴史・自然・文化を伝えます。

我慢が足りなかった話

2023-11-30 | 生活

【家計の金融資産を投資へシフト】

2023年8月の日本銀行資料によると、日本は家計の金融資産に占める現金・預金が54%と、米国13%、ユーロ圏36%と比較して多く、国内では1,107兆円(2,043*54.2%)も眠っている

個人が、株式や投資信託への投資を増やし、経済を活性化し、家計資産を形成していくのが「貯蓄から投資へ」政府のスタンス。

 

 

では、素人の庶民が、9年前に、株式と投資信託へチャレンジしたことを振返ってみたい。

 

【株式】

2014年購入の株式は、9年間の低迷続きを我慢し、株価上昇を得て売却。配当を加えて22%資産を増やした

9年間の物価上昇率は7%なので、ストレスはあったけど、定期預金よりも有利な運用だった。

 

【投資信託】

プロの専門家にお任せして、国内外の株式や債券などに複数投資し運用する商品。単体の株式よりも安定した確実な運用が期待できる。

  • 2014年に米ドルで、インフラやエネルギー関連株を購入。

分配金は多かったが、基準価格(株価に相当)の下落が続き、怖くなり、損が出ないうちに売却

  • 2015年に米ドルで、日本株(日経平均株価を構成する代表的な株式に投資。米ドルコース)を購入。

基準価格が下落してこのままでは損になる。純資産高も減っており、分配金を出すために資産減らしているのかと疑う。

  • 投資信託は、元本保証が無い。投資家から集めた純資産高が、株式や債券市場の低迷や分配金の支払で減少していくのは、つらい。
  • 3ヶ月毎の証券会社の通知「お預かり残高の状況」では、購入時よりマイナスが一目瞭然。この商品はダメかと疑心暗鬼になる。
  • 2年かけて、やっと購入時と同じ水準に戻ってきたので、若干の損切りをして売却
  • 投資信託は自分には向かないと引き出して、元本保証のある、金融機関の定期預金に

売却後ではあるが、その後どうなったか調べると、基準価格は4年半も横ばいが続いていた。

我慢強く、持っていた人もいるのだろうか。

ところが、状況は一変した。

2020年4月以降、上がりはじめ、3年半で2.5倍になっていた。これにはびっくり。

もし、忍耐強く持ち続けたら、どうだったか(そんな忍耐力は全くないが)。

700万円×2.5=1750万円  1000万円の利益だった

3年半で、700万円が1750万円になる。ある意味怖い商品だと思った。


株は買い時なのか?

2023-11-28 | 生活

【消費者物価の上昇】

総務省発表の消費者物価指数2020年に対し7.1%2022年に対し3.3%、それぞれ上昇。

定期預金の金利は低迷したままなので、個人の金融資産が3年で7%も目減りしている現実がある。

政府は、どのようにして国民生活を守るのか。

【2023年は資産所得倍増元年】

「内閣総理大臣の岸田文雄です。岸田政権では、今年を「資産所得倍増元年」とし、「貯蓄から投資へ」のシフトを大胆かつ抜本的に進めていきます。

来年1月から非課税の限度額を大幅に引き上げますが、今年のうちにNISAで購入した商品は別枠で非課税とします。

またiDeCo(個人型確定拠出年金)についても、加入可能年齢を70歳まで引き上げます。

こうした取組を通じて、家計金融資産の半分以上を占める現金・預金投資に向かい、企業価値向上の恩恵が家計に還元され、家計の資産形成と更なる投資や消費につながる、という好循環を実現してまいります。令和5年6月30日」

⇒家計金融資産に占める現金・預金が、米国14%、英国25%に対し、日本は51%と多く、国内では1000兆円も眠っている。

 それを投資に回すことで、経済活性化と家計資産形成を好循環させていこうということかな。

【物価上昇分を上回る資産運用】

ここで問題となるのが、物価上昇分を上回る投資先があるか、どうかだ。

定期預金や国債は、利率は低いが、元本保証がある。

株式や投資信託には元本割れのリスクがある。先行き不透明の社会情勢の中、投資先によっては、元本割れして大損する。

【10年間の株価変動事例】

9年前、配当が期待でき、物価上昇に連動して価値が上がる「不動産」を選び、3200円で株式を購入した。

購入1年後には3600円と、400円も株価が上がり良い選択をしたと喜んでいた。

しかし、その後は、株価は低迷を続け2020年には購入時の半値まで下がった。

もし売却せざるを得ない事情が生じていたら、資産が半分になるとんでもない状態だ。

2023年5月、岸田総理がロンドンの金融街シティで講演した。
「Investin Kishida(岸田に投資を!)」と、日本への投資を呼びかけた。
その成果だろうか。欧州の資金が日本株を1兆5384億円買い越した
買いが売りを上回るのは2カ月連続で、株高を欧州勢がけん引した(2023年6月 日経)。
 
また、円安が進むと、外国から見て日本の株式が割安になり、外国からの投資を行う際に為替差益も期待できるため、海外投資家が日本の株式市場に資金を流入しやすくなっている。
 
11月20日の東京株式市場で日経平均株価は一時、1990年3月以来33年8カ月ぶりの高値となった。
こうして、9年ぶりに、購入時の株価を約200円上回る幸運に恵まれ、株を売却できた。

【株は買い時なのか?】
総理も言うように、来年1月からNISAの非課税の限度額を大幅に引き上げされる。
現行NISAで120万円以内で国内株式を購入した場合、2027年までの5年のうちに売却すれば、得られた利益に税金はかからず、かつ、2024年の新NISAも利用できる。
 
制度は出来たが、問題なのは、そのような幸運な銘柄に出会えるかだ。
私のように、9年間も、購入時の価格を下回り、しんどい思いをすることにならないか。
配当を9年分累積しても、株価の下落を埋めるまでにはならない。
 
今の株高は、日本の企業の実力を反映したものなのだろうか。
円高になったら、為替利益を得た欧州勢はさっさと売り越して、株価は下がるかも知れない。
欧州資金が株式市場から流出後、購入時の価格に再び戻る時期は、訪れるのだろうか。
売りたくなっても売れないのは、しんどい。
 
そう考えると、制度は出来たが、買う物が無いのではないかと思う。

【配当所得や譲渡所得の課税方式】
市の広報に、前の記事で書いた悲劇について、お知らせがあった。
これらの所得を所得税で確定申告すると、市民税でも所得に算入され、保険料などに影響が出ると書いてある。
特定口座(源泉徴収有り)は確定申告不要なので、影響は無いと理解している。

株式配当を確定申告したら、まさかの事態に

2023-11-26 | 生活

【配当の源泉徴収】

配当所得は20万円以下だと、申告する必要は無いが、所得税等15.315%・地方税5%が源泉徴収されている。

今まで、株の配当にかかる税金など気にしなかったが、年金生活となり、ちょっと考えた。

企業は、利益に対して法人税を払い、利益の中から株主に配当する。しかし、配当を株主に渡す際に所得税・地方税20%を源泉徴収している。

すなわり、同じ利益に対して、法人と株主で、二重に税金を支払っていることになる。

 

調べると、この二重課税を緩和するため、「所得税の配当控除」の仕組みがあった。

年金収入は所得税は10%なので、配当の源泉徴収20%は取り過ぎ

20万円以下でも、確定申告すれば、差額が還付されるのでは無いか。

 

【2月 確定申告】

  • 配当         189,000円
  • 源泉徴収税額    28,944円(所得税・復興税15.315%)
  • 配当控除    18,900円
  • 還付される金額 18,009円 

計算すると上記の結果となり、確定申告してみた。

 

【3月 国税還付金通知】

 申告通り、税務署から口座に18,009円、振り込まれた

 配当金の1割弱、源泉徴収税額の6割が還付された。

 やってみるもんだ。

 

しかし、そのあと、とんでもないことになった。

 

【6月 市民税、都民税の税額決定通知】

 「9,900円を普通徴収する。期日までに振り込め」と書いてあった。

 税務署から市役所に、確定申告した前年所得が送られ、市民税・都民税を再計算したのね。

 ああ、還付金の半分を都と市が持って行く。それでも8,109円は、残ってる

 

しかし、そのあと、さらにとんでもないことになった。

イヤな予感はしてたけど。やっぱりこうなるのね。

 

【7月 介護保険料納入通知】

 昨年より所得が増えたため保険料段階が1段上がり、保険料が9,200円増額となった。

 合計すると、還付どころか、1,091円 納入額が増えた

 

【結 論】

年金生活者が,税金の二重払いでは無いかと思い立ち、確定申告で株式の配当控除したら、

所得税(国)は還付されたが、市民税、都民税、介護保険料が増額し、還付額を上回った。

 

これを、やぶへびといわずに、何と言う。

「確定申告を通し、国の税収を市(都)の財源に移管させ、市の財政を助けた。」という。

 

短歌を詠むと、こうなる。

「配当を 申告したら 税還付  笑顔つかの間 市が全部取り」


第1回達人戦は羽生会長が優勝

2023-11-26 | スポーツ・将棋
11月25日(土)、第1回達人戦立川立飛杯の準決勝2試合と決勝が、立川ステージガーデンで開催され、観てきました。
達人戦は、50歳以上の棋士48名が参加する日本将棋連盟新しい公式戦。すなわち、藤井聡太さんは当分参加できない。
特別協賛は(株)立飛ホールディングス、協賛はトヨタS&D西東京株式会社。
試合は、広い会場内に設けられた対局席。周囲を1000人以上の観客が囲む。
持ち時間は各30分で、使いきると1手30秒以内に指さなければならない早指し将棋
 
【準決勝 羽生善治九段-森内俊之九段戦】
10時開始。対局前の様子。
こちらを見ているのは、森内俊之九段(タイトル12期)羽生善治九段(タイトル99期)と同い年の53歳。
二人は小学校4年生で初対局。公式戦の対戦成績は羽生79勝、森内60勝。40年以上のライバル
 
勝負が始まると、会場の照明は落とされ、たくさんの観客は物音をたてず、静寂を守る。異様だ。
時折、棋士が、バシッと駒を盤面に打つ音が、3階席まで鳴り響く。
 
対局席の後方には、大きなスクリーンがあり、二人の対局姿や、別室の大盤解説が映し出される。
観客は、イヤフォンで、解説を聞きながら、目の前の対局を固唾をのんで見守る。
 
二人とも、持ち時間を使い切り、秒読みに追われながら差す展開。
 
30秒はあっという間手番が来たらすぐに10秒、続いて20秒、1,2、3、4と畳みかけてくる
 
秒読みの声が28,29で一瞬切れて、森内九段の時間切れの負けかと思った瞬間、慌てて打った駒が盤上の駒を乱してしまい、羽生さんも直すの手伝った。
 
読み上げ係が、玉の位置を間違えて読み上げたときは、羽生さんガン見し、直ぐに訂正した。
 
試合中はスマフォは禁止。森内九段が93手で投了したところ。羽生九段が決勝進出となった。
【トーナメント表】
ABEMA TVで実況があるが、観客は残念ながら観れない。
 
【準決勝 佐藤康光九段-丸山忠久九段戦】
13:30対局開始。開始前の様子。
こちらを向いて対局を待つのが佐藤 康光九段(タイトル13期)54歳。前の日本将棋連盟会長。
背中は、丸山 忠久九段(タイトル3期)53歳。羽生さんと同世代だけど、苦労してタイトル獲得しているね。
 
佐藤九段が、30秒の時間に追われ、駒台から打った駒が盤上で散らかった。そのすぐ後に117手で投了。
30秒将棋は、厳しいね。ギリギリまで考えるから、こういうことが起きるんだ。
丸山九段が、決勝進出

【決勝 羽生善治九段-丸山忠久九段戦 】
16:30対局開始。
熱戦が続いたけれど、139手で丸山九段が投了羽生九段が優勝


【表彰式】
日本将棋連盟会長の羽生さんが、優勝者の羽生さんに、賞状を読み上げて、渡す。
「表彰状 羽生善治殿 貴方は第1回達人戦達立川立飛杯において……栄誉をたたえ表彰します。令和5年11月25日 日本将棋連盟会長 羽生善治
自分で自分を表彰する式典、初めて見た。静かだった観客が、大いに湧いた

大きな拍手が寄せられる。

羽生九段の扇子「少しずつ前へ進む」
タイトル100期に向けて、少しずつ前に進んでほしい。

NHKTV将棋番組の取材「2024年の将棋界について100人アンケート」を会場で受けた。

  • 来年の活躍する棋士の名前は?

藤井聡太さん

  • その理由は?

⇒勝負に勝った後の感想戦で、藤井さんの奥深い考えを知った相手は二度負ける。

  • 羽生九段のタイトル100期の実現は?

⇒タイトル挑戦2回を目指してほしい。

藤井さんを倒してタイトル100期達成したら、凄いこと。羽生さん完全復活なるか。
 
達人戦の結果は、以下のYoutubeがわかりやすいです。
【達人戦】 本戦終了 「初代達人決定!! 表彰式はまさかの・・・?」 2023/11/26 【将棋、確率分析、ゆっくり解説】

ひがし茶屋街と金沢の食事

2023-11-24 | 国内旅行
「ひがし茶屋街」
金沢城の東側に位置し、寺院の参道周辺に伝統的町屋が建ち並ぶ。
江戸時代の伝統的家屋を保存するため、文化財保護法に基づき、文化庁が重要地区に選定(東山ひがし伝統的建造物群保存地区)。

「茶屋」

茶店やカフェではなく、江戸時代の社交の場芸妓が客をもてなす場所

裕福な商人や町衆が集まり、公的な職務を担う武士は出入りを禁止されていた。


和服を着た人がいる。芸妓さんかな。観光客への着物レンタルサービスとは違うようだ。

外国人が多い。人がいなくなったわずかな隙に、カメラを構えた。

着物姿は、風情があって良いね。きんつばのお店みたいだ。


歩いてホテルに戻る。

【徳田秋声記念館】
時間外で入れなかったのが残念。
徳田秋声の「町の踊り場」は、金沢の姉が死去し、葬儀のため帰省した体験を描いた。姉の家を抜けだして裏町のダンスホールに立ち寄ったりする奔放な行動が、満洲事変後の戦争に向かってゆく時代や、古い文化と新しい文化が交錯する金沢の街が鮮やかに浮かび上がる秋聲珠玉の短篇で、川端康成が高く評価した。ダンスホールは、ひがし茶屋街のことだね。

浅野川を渡る。

ホテルの能登牛会席お献立
芸妓さんはいないけど、地ビールに地酒(加賀鳶・超辛口)。前菜とお造り

能登牛陶板焼き

牛タン味噌煮込み

鰻の蓮蒸し

氷見うどん能登牛握り

水菓子

2泊目 のどぐろ北陸近海会席 連泊お献立
前菜とお造り

のど黒塩焼き

甘鯛オランダ煮
香箱蟹 蟹酢ジュレ

茶碗蒸し

氷見うどん にぎり寿司

水菓子

連泊だと、献立を変えてくれてありがたいです。すっかりごちそうになりました。
朝食は、ブッフェで洋食と和食。


金沢城に隣接した、便利なホテルでした。

最後の昼食は、再び駅ビル金沢百番街2階の「廻る富山湾すし玉」。かがやき盛り。
20組待ちだったので、受付に名前を書き、お土産を購入して、約1時間後にご馳走に。
金沢は、寿司が美味しいね。

それに、隣接の100MARTでは、「手取川 純米大吟醸 本流」が1割引だった。うれしいね。


石川の伝統工芸王国を探る

2023-11-24 | 国内旅行

金沢は、美術工芸の街で、文化的基盤を生かし、国立工芸館を招致できた。

町並みは美しく、伝統的な建築物が保全され、一度埋めた水路も復活させている。

国立、県立、市立、私立の博物館・美術館がたくさんある。

加賀藩は、加賀百万石と言われ財政豊かであった。それが文化的な豊かさの理由なのか

 

調べるために、石川県立歴史博物館に行ってみた。

赤いレンガの建物旧陸軍兵器庫を活用。陸軍は、兵器庫さえ立派なレンガ造にするほど金沢に気を遣ったのか。

47都道府県で唯一空襲を受けていない石川県。米軍は、文化財を攻撃しないことを知っての作戦だろうか。

左が、県立歴史博物館。右が、加賀本多博物館
中央が、辰巳用水の石管犀川から10キロ導水し、兼六園に水を配し、兼六園の霞が池から逆サイフォンの原理で金沢城へ揚水した。
一旦下がって、また揚がる。二の丸は空堀だったが、火災防止を理由に水が入ることに。
 

加賀藩が100万石になった経緯とその維持

  • 織田信長から、能登一国を与えられる。
  • 豊臣秀吉から、北加賀二郡と越中三郡を領土をもらう(越中は富山県)。
  • 徳川家康から、関ヶ原の戦い後に、南加賀二郡を得て、領地は百万石を超えた(西軍だったが、北陸では東軍と和睦した)。
  •  前田家は外様大名だが、徳川の娘を正室に迎え入れる※など将軍家と姻戚関係を結び、幕府内で徳川御三家に準じる待遇を受けた。
  • 前田家は、格式の高い家として知られ、幕府は前田家に対して重大な処分を下すことはなかった。
  • この結果、前田家は加賀百万石を築き、財政的に豊かな藩を維持することができた。

⇒※徳川家の養女を妻に迎えたのは、第2代藩主前田利常と第4代藩主前田光高

石川県立美術館で観た「国宝 無銘正宗」は、前田光高が徳川家光の養女・阿智姫(水戸徳川頼房の娘)を正室に迎えたときの引き出物だった。

100万石の富を幕府が懸念する軍事力では無く美術工芸の発展に充てて伝統工芸が栄え、幕府の信用を得た

 
加賀百万石の武家文化を支えた5万石という破格の加賀本多家全国の家臣の中でも最高禄
初代の本多政重は、徳川家康の重臣である本多正信(「どうする家康」では松山ケンイチが演じているらしい)の次男
本多家の家臣500人以上が、本多家上屋敷(現在の県立美術館や博物館)に出勤していた。
今も、この博物館がある公園は、本多の森公園となっている。

村雨の壺
本多家随一の家宝である。銀山のある新川郡(現富山県)の領有権が幕府か加賀藩か問題となった際、本多政重が幕府と交渉し、加賀藩のものとなった。功績をたたえ5万石を10万石に増やす話を辞退し、代わりに村雨の壺受領した。5万石の壺と言われる。

昔、富山県が加賀藩に属していた証拠の壺だね加賀・越中・能登の三国合せて119万2760石

本多家の鎧、兜の実物が迫力満点。写真撮影はOKだが、SNS投稿不可なので割愛。
 
上から、
大十文字槍 おおじゅうもんじやり 江戸時代初期
 本多政重の所用。
 
大身槍 おおみやり 室町時代末期
 本多政重が1600年の関ヶ原の戦い使用したと伝わる。柄を入れると3mにもなる。
  • 「どうする家康」に出てくる本多忠勝は、6mもある大身槍で数々の戦で功績を挙げ、家康から10万石の桑名藩主を与えられた。
  • 本多正信を「腰抜け」と言ったそうだ。確かに槍の長さは2倍ある。
  • 加賀本多家は、武将と言うより、徳川家と交渉して前田家を支えた知恵者だね。
薙刀なぎなた 室町時代


金沢市立安江金箔工芸館
前田利家が、七尾で金箔を、金沢で銀箔を打つよう命じた記録があり、16世紀には始まっていた。
幕府が金座・銀座を江戸に設置したため途絶えかけたが、幕末には製造権を得て、明治期に産業として成長。
現在、日本の金箔の生産量は、金沢が100%に近い。
 
金打ちは、金を、厚さ1万分の1ミリになるまで何回も打ち伸ばして製造する。
金と金の間に、特殊な手漉き和紙を挟み、重ねて打つが、和紙造りに犀川の水質が重要だった。
右上の棒状の金塊から左へ、更に手前側の右から左へと、打つ工程を経て、薄く仕上がっていく。

金箔の薄さを、髪の毛(左の丸棒)と比較したもの。
薄くなるまで、ハンマーで何度も叩く。

金箔は、蒔絵や沈金など漆工芸に不可欠な材料。地元に、材料供給体制があった。
 
漆の乾燥には、湿度と温度が必要
 「沖縄は、湿度と温度が高く、漆の乾燥と硬化に最適」と室瀬和美先生から教わった。
 「首里城は、巨大な漆器」と高良倉吉先生は言った。
金沢や輪島は「弁当忘れても、傘忘れるな」と雨が多く、海に面し湿度が高く、漆の乾燥や硬化に適した立地
 
こうした条件が整い、石川県の漆工芸を発展た。

石積みの堀と道路。道路の中央には、用水を生かした、雪解け用の配管がある。

兼六園の外周の用水路

兼六園から出てくる水。

【本多家屋敷跡】

【兼六園周辺文化の森】
国立工芸館、県立美術館、県立歴史博物館、加賀本多博物館、文化財保存修復工房、県立能楽堂、金澤神社がある。
【石川県政記念しいのき迎賓館】
1924年の歴史的建造物の旧庁舎を再整備した建物。
3年に一度の国際漆展(11/9-11/21)が開催されており、運良く観ることが出来た。
国内外から出展された漆芸品のうち、入選16点入賞作66点が展示されていた(入場無料)。

入賞作(上記HPから)
加賀藩から続く伝統工芸王国の神髄を観た気がした。

石川県立美術館と国立工芸館

2023-11-21 | 国内旅行

兼六園に隣接して、石川県立美術館国立工芸館があります。

国立工芸館とは、東京国立近代美術館工芸館が2020年に金沢市に移転したもの。

 

両館で開催中の「皇居三の丸尚蔵館収蔵品展 皇室と石川 - 麗しき美の煌めき -」を観てきました。

皇居三の丸尚蔵館(東御苑)は、開館30年を期にリニューアルし11月に部分開館
先日行ったけど、まだ工事中だったので、収蔵品を巡回展示しているのかな。
 
内容は、三の丸尚蔵館収蔵品に、石川県立美術館、国立工芸館、(公財)前田育徳会等所蔵の作品を加えた約120点を、県立美術館と国立工芸館の二会場で展示
  • 皇室の至宝
  • 皇室に伝わった石川の美術、工芸 
加賀藩前田家からの献上品や石川出身の人間国宝の作品など。
 
【皇室と加賀前田家】
国宝 刀 無銘正宗(名物 太郎作正宗) 鎌倉~南北朝時代 前田育徳会所蔵
徳川家の家臣 水野太郎作正重が所有していたもの。
徳川将軍に献上され、徳川家の養女が加賀藩主に輿入れの際、引き出物として下賜された。


【皇室の至宝】
国宝 動植綵絵さいえ(部分) 伊藤若冲じゃくちゅう(1716-1800) 三の丸尚蔵館所蔵
当時の最高品質画絹や絵具を惜しみなく使用したため、200年以上たった現在でも保存状態が良く、褪色も少ない。

当時の絵画は、屏風絵や絵巻など、物語を描く平面的な作品が多かった。
しかし、伊藤若冲は、動植物などの対象に焦点を当て、実物写生を基に独特感性で色彩を加え華麗な作品を数多く描いており、見応えがある。
西洋画と比べても、フランスのジャック=ルイ・ダヴィッド(1748-1825)より半世紀早く、こうした作品を生み出しており、感心する。
 
【皇室に伝わった石川の工芸】
鶏置物にわとりおきもの 1892年 由木尾雪雄ゆきおゆきお(1860-1929)三の丸尚蔵館所蔵
実物大の木製漆塗。作者は金沢生まれ、加賀藩お抱えの蒔絵師の父から蒔絵まきえを学ぶ。1900年のパリ万博で金牌受賞
 
蒔絵鷺文飾筥まきえさぎもんかざりばこ 1961年 松田権六ごんろく(1896-1986)  国立工芸館所蔵
宮内庁が制作委嘱。大きく羽を広げた鷺の白さが、黒漆の中で際立つ。
作者は金沢市生まれ、東京藝術大卒の人間国宝。「漆聖」と呼ばれた技術を持つ。輪島市漆芸研修所(現・県立)設立など後進の育成、漆芸文化継承に尽力人間国宝の室瀬和美(1950-)氏は、東京藝術大で松田権六氏に師事し、蒔絵をはじめ漆芸技法を習得。

国立工芸館の外観。
国立工芸館が金沢市に移転した理由は、地方創生と東京一極集中是正、政府関係機関の地方移転の中で、石川県が東京国立近代美術館工芸館の誘致し実現。石川県は「工芸王国」とも言われ、陶芸や漆芸、染織などの産地を抱え、国立工芸館の移転は地域の文化振興や観光振興に寄与すると。

施設は、旧陸軍の建物を移築・増築し、レトロクラシック。金沢出身の蒔絵師松田権六の仕事部屋が移築展示され、地元出身の工芸文化を引き立てている。

このあと、さらに石川の文化を探ることに。

兼六園の雪吊り作業

2023-11-19 | 国内旅行

運良く、兼六園名物の雪吊り作業をしているところでした。

【概要】

庭園のマツは、春先に芽(ミドリ)摘みをして、枝を横に伸ばし美しく仕立てるが、雪国では雪の重みで枝が折れるリスクがある。

雪国の名園を代表する兼六園で生まれた造園技術が、雪吊り

対象の樹木1本に、15人くらいの職人が集中して取組む。

11月から12月中旬にかけて行われる兼六園の雪吊りは、テレビで風物詩として紹介される。

 

【支柱】

樹木のそばに、支柱をまっすぐに立てる。ロープを支える大事な支柱だ。

支柱の先端に位置した職人が、ロープをたぐりあげ、合図で投げ下ろす

【ロープ】

全部で130本くらい使うかな。まだ、多くのロープが残っている。

【枝にロープを結ぶ職人】
ロープは、均等間隔で、途中の枝に引っかからないよう注意して、枝に固定する。
ロープを均等間隔に張ると傘を開いたようになる。強風時には、樹木全体で風を受け枝を守る。

途中の枝にロープが引っかかると、その枝にいる職人に捌いてもらう。
職人同士が、ひっきりなしに、声を掛け合っている。

【頂上の職人】
忙しい。体力と精神力と技術力が要求される役割だ。
足場は、どうなっているのだろうか。

時々、遠くを見ている。
腰を曲げたままの力作業の連続は、つらい。
腰を伸ばしているのだろうか。

【作業車】
軽トラ1台。ロープの束がある。
脚立やバリケードを積み込む。

【上の枝にいる職人】
上の枝に引っかかったロープを捌くのがしごと。
不安定な枝の上で、これも疲れる仕事だね。

【下の職人と上の職人】
下の職人が、上の職人に、ロープの位置を注文付けてる。
今、きちんとやらないと、後で修正できないからね。

【コウヤマキの例】
途中の枝に引っかからないよう、まっすぐ張られている。
途中の枝の固定と、一番下の枝の固定。

一番下の枝。ロープが固定されている。
【水の上はボートで】
マツの枝が水面上に張り出している箇所は、ボートの上で作業する。
 
【支柱の頂上】
ロープの中央部分を、柱の頂上で束ねて巻き付けてしっかり固定している。
手に持っているのは、取り外した足場。

下にいる仲間に向かって、足場を投げたところ。

【頂上から降りるところ】
足場を取り外し、安全ベルトも外したあと、ロープの隙間に潜り込み、支柱を伝って下に降りる。
兼六園のはっぴが、格好良いね。
左の職人が手にしている棒は、地上からロープを引っかけるもの
お疲れ様でした。

兼六園

2023-11-16 | 国内旅行

数十年ぶりの兼六園です。


外国人が多かったですが、庭園の素晴らしさに、日本人として誇りに思いました。

兼六とは、相反するので難しい六つの景勝を、兼ね備えているという意味です。
1)宏大、2)幽邃、3)人力、4)蒼古、5)水泉、6)眺望
 
広大だと、静かな奥深さは無い
人工的だと、古びた趣きは無い
池や滝があれば、眺望は無い
という「庭園作りの難しさ」を克服していると。
 
1) 広いです。丁寧に造られ、初めて見る植物もあり、じっくり見ると2時間はかかります。
 
 
2) 人が入らない空間が奥深さを感じます。


3) 隅々まで人手が入っています。

添え木や支柱が枝を支えています。

雪吊りを毎年、丁寧に施しています。
雪の重みで枝折れすることを防ぐ技術です。

人力で草むしりして、苔の美しさを保ちます。
 
4) 古き趣きを感じます。

苔が美しい。不規則な石も、外側が曲線を描くように形を合せて並べると美しい。

根上松(ねあがりまつ)何年かけて、この姿を。

竹の化石に見える手水鉢です。
 
5) 池や滝があります。

逆サイフォンの原理で、手前の木で覆うところから、隣の金沢城まで、Uの字で送水します。

池との高低差を利用して、噴水を作りました。日本最古の噴水だそうです。
 
6) 眺望も十分楽しめます。

遠くの山々と池が連なります。

高台にあることがわかります。

金沢へ

2023-11-16 | 国内旅行
紅葉を楽しみに金沢へやってきました。
まずはお昼ごはんでございます。


駅の東側にあります。30分待ったけど、納得です。美味しかった♪
そのあとは金沢城へ。
石川門です。

四角い回廊です。
兼六園方面が見下ろせます。
外堀は大きく深く、道路になっています。
内堀と五十間長屋です。

65歳以上は入館無料が嬉しい。

お察しの通り、石を落とす仕掛けです。
立派な資料があります。

陸軍が使用後に金沢大学が設置されていました。
県が土地を買取り、金沢城公園として資料をもとに、復元を始めています。
首里城も琉球大学のあった土地を買取り、首里城公園にしているので、同じです。
もともと県の土地なのにと意見もあったようですが、国立大学で、移転費用には特別会計で予算必要だと納得したようです。
往時の技法が再現されています。
年月をかけて復元して、城大工の技術を継承させるためだと聞きました。


模型です。

二の丸の復元を始めるために、埋蔵文化財調査をしていました。楽しみですね。









ルーヴル美術館

2023-11-14 | 欧州

ルーヴル美術館は予約しないと行列になるので、出発前にHPで入館日時を予約。パリミュージアム・パスと予約時刻入りの入館証を印刷。

手前の列は、入館時刻を予約した人達の荷物チェックで、ドンドン進む。

奥の長蛇の列は、当日券。大変だ。

奥の建物はドゥノン翼で、モナ・リザなどフランスの絵画がある。

年間800万人以上が訪れる美術館で、毎日の入館者は2万人以上。

建物は、中央のピラミッドからみて、北側がリシュリュー翼東側がシュリー翼南側がドゥノン翼

正面のシュリー翼から中に入る。内部は、とてつもなく広い。

メソポタミア文明

ハンムラビ法典 Code de Hammurabi 紀元前1792年 - 紀元前1750年

バビロニア(現在のイラク南部)を統治したハンムラビ王が建てた玄武岩の石碑

表面に何千もの文字が刻まれ、家族や奴隷、農業、商業、行政、婚姻・相続など判決のリストで、聖書の律法よりも古い法律文書

「男が...自由人の目をえぐり出すと、その目はえぐり出される。もし誰かが自由人の歯を折れば、その人の歯の一本が折れるであろう。これは、聖書の後半に出てくる「目には目を、歯には歯を」と同じで、過度な報復を防ぐ意味もあるとのこと。

1901年から1902年、フランスの考古学者が、イランの南西部にあるエラムの古都スーサで発見。

 

ラマッス(雄牛:両頭症、翼、ペンダントイヤリング) Lamassu (taureau : androcéphale, aile, boucle d'oreille à pendant) 紀元前721~紀元前705年 (右側)

  • 人間の頭を持つ翼のある雄牛は、サルゴン8世の宮殿の入り口を守る守護霊
    アッシリア帝国のサルゴン2世は、首都をドゥル・シャルキン(現在のイラク北部)に移し、巨大な宮殿を建てた。
  • フランスの考古学者ポール・エミール・ボッタが、1844年に王宮を発掘調査で発見。

大英博物館にもアッシリアの壁面レリーフがあったが、発見はフランスが6年早く、展示物は英国が160年古い

巻き毛のヒーロー(あごひげ、チュニック:ショート、スパイラルブレスレット:2、ロゼットブレスレット:2、テナント、ハープ、ライオン) 紀元前721年~紀元前705年 (左側)


一つずつ観ていくと、時間が足りなくなるので、ドゥノン翼のモナ・リザを観に行くことに。
 

アポロンのギャラリー

  • ルイ14世が改装し、シャルル・ルブランが装飾。
  • 太陽神アポロンを主題にした豪華絢爛な装飾を構想したが、宮廷がヴェルサイユ宮殿に移ると、未完のままとなった。
  • 19世紀後半の大々的な改修、ドラクロワたちによって仕上げられた。

ルーヴル宮殿だったこともあり、天窓で光を取り入れ、天井まで装飾してある。

人の流れが、モナ・リザに向かってる気がする。

グランド・ギャラリー

1610年に造られた全長460mの大回廊

両側に立派なイタリア絵画(1250年~1800年)があるけど、立ち止まる人もほとんどなく、人々は前に動く。

見えてきた。ここから行列になり、少しずつ、前に進む。

モナリザとして知られるフランチェスコ・デル・ジョコンドの妻、リサ・ゲラルディーニの肖像

Portrait of Lisa Gherardini, known as the Mona Lisa in the Salle des États 1503ー1519 レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)

  • 縦77cm 横53cm で小さいが、1500年頃の肖像画としては大きいそうだ。
  • モナ・リザと呼ばれているが、名称は「リザ・ゲラルディーニの肖像」である。モナはマドンナ(私の貴婦人)の意味。
  • フランチェスコ・デル・ジョコンドが、レオナルド・ダ・ヴィンチに、妻のリザを画かせた肖像画(1503年次男の出産祝い)。
  • レオナルドは、制作代金を受け取っておらず、フランス王のフランソワ1世が4,000エキュで購入し、宮殿に飾った。
  • ルイ14世がヴェルサイユ宮殿へ移し、1789年のフランス革命で国民の財産となりルーヴル美術館へ移された。
  • 2005年、ドイツのハイデルベルク大学図書館の専門家が、大学蔵書の余白部分に、「レオナルドがリザ・デル・ジョコンドの肖像画を制作中」と、フィレンツェの役人アゴスティーノ・ヴェスプッチが1503年に記したラテン語の書き込みを発見。

モナ・リザのモデルは誰なのかが、2005年の発見で明確になり、絵の名称も変更された。

リザは1479年生まれなので、肖像画は24歳の時5人の子に恵まれ、平穏で普通の中流階級の暮しを送った旧フィレンツェ家の女性だった。初めて知った。

1503年の書き込み。レオナルドがリザ・デル・ジョコンドの肖像画を制作していると書かれている

フランス絵画(1780年~1850年)

部屋の中央の左右に、ジャック=ルイ・ダヴィッド(1748-1825)の大作がある。

大きすぎて、写真に収まらない。

左側は、1789年のフランス革命の年に画かれたもの。

ブルトゥス邸に息子たちの遺骸を運ぶ刑吏たちLes licteurs rapportent à Brutus les corps de ses fils.1789

  • 高さ3.23メートル、幅4.22メートルの大きな絵画。サロン・ド・パリに出展され、ルイ16世のコレクションに。
  • 紀元前509年、ローマ帝国のルキウス・ユニウス・ブルトゥス(左下の男)は、ローマ王を追放し、共和制を樹立した。
  • しかし、息子達が王政復古を目指し反乱したため処刑し、遺体が自宅に戻る場面(泣き叫ぶ妻)が画かれている。

フランス革命は封建的な身分制や領主制を排除し法の下の平等、経済的自由、人民主権、権力分立など資本主義社会を獲得した。

激動の年に、政治活動もしていたジャック=ルイ・ダヴィッドは、共和制を守るため非情な決断をしたブルトゥスを描かずにはいられなかったのだろう。

「個人的感情や家族愛を超えて、国家や公共の利益を優先するというフランス革命の理念」を伝え、「個人が社会や国家のために果たすべき役割と犠牲とは何か」を投げかけている。

なお、シェークスピアの戯曲「ジュリアス・シーザー」の主人公ブルータスは、ブルトゥスの末裔。

 
 
右側は、ナポレオンの首席画家に任命され、1807年に画いた有名な絵画
 
  • 高さ6.21メートル。幅9.79 mの巨大な絵画。
  • ナポレオンは、1804年、国会の議決国民投票(民主主義)を経て、皇帝の地位についた。
  • 「人民の皇帝」として戴冠式は、教皇から王冠を戴く従来方式ではなく、ナポレオンが自ら王冠をかぶった
  • 政治にあたって、閣僚や大臣には政治家、官僚、学者を登用し、軍人は国防大臣だけとした。
  • 民法、商法、民事訴訟法、刑法、犯罪法など近代的法典の基礎を定め、各国(日本も)に影響を与えた。
  • フランスでは、改正されつつ現在に至るまで、「ナポレオン法典」が現行法である。

  • ナポレオンは、フランス革命に干渉してくる諸国戦争で勝利を収め、支配下に置いた(英国、ロシア、オスマン帝国以外)
  • 1805年、ネルソン提督率いるイギリス海軍に対し、トラファルガーの海戦で敗北。イギリス上陸作戦は失敗。
  • 1812年のロシア遠征失敗後、周辺国軍に包囲され失脚。しかし国王の政治が民衆の不満を買い、1815年ナポレオンは復位する。
  • しかし、イギリス・プロイセンの連合軍にワーテルローの戦いで完敗。幽閉されたセントヘレナ島で1821年死去。
 
横たわるオダリスク "La Grande Odalisque" 1814 ドミニク・アングル
  • イタリアのナポリ王妃から発注されたが渡らず、1819年のサロン・ド・パリに出展。
  • 全裸の美女が背中越しに振り返る古典的な構図だが、背中と腕が伸びすぎと批判された。
  • カメラ登場の時代に、絵画しか出来ない理想を求め、デフォルメを試みたという。
  • ジャック=ルイ・ダヴィッドの弟子。
 
ランス大聖堂でのシャルル7世の戴冠式のジャンヌ・ダルク "Jeanne d’Arc au sacre du roi Charles VII, dans la cathédrale de Reims" 1854年 ドミニク・アングル
  • フランス王の戴冠は、フランク王国の初代国王クローヴィスが洗礼を受けた、ランス大聖堂で行われた。
  • 王権の根拠を、ランスの聖油で聖別されることで、クローヴィスの後継者となった。
  • トロワ条約で、シャルル6世の死後は、英国のヘンリー5世が王位継承となっていたが、ジャンヌ・ダルクの活躍で、イングランド軍をランスから撤退させ、シャルル7世をランス大聖堂で戴冠させることが出来た。


1830年7月28日民衆を導く自由の女神 Le 28 juillet 1830. La Liberté guidant le peuple 1830年ウジェーヌ・ドラクロワ

  • 1815年の王政復古で、ルイ18世はフランス革命の成果を無視革命以前の状態にし、弟シャルル10世も言論を弾圧した。
  • 1830年7月、学生、労働者など市民が三色旗を掲げ、ルーヴル宮殿を占領、シャルル10世は国外逃亡した(フランス7月革命)。
  • 復古王政は崩壊。栄光の3日間とよばれる市民革命は、ベルギー、ポーランド、イタリアの独立・革命運動に影響を与えた。
  • 民衆を導く女性はマリアンヌ(フランスのシンボル。自由の女神)。シルクハット帽と銃を手にしているのはドラクロワ本人。
 
ジャンヌ・ダルクとマリアンヌ(自由の女神)は、フランスの歴史・文化を象徴する女性だね。
 
ギリシャ文明

サモトラケのニケ(勝利の女神) Victoire de Samothrace 紀元前200年~紀元前175年

  • 1863年、フランスの外交官がエーゲ海東北のサモトラケ島で大理石の彫像と118点の破片を見つけた。
  • これらの破片が、船首に立つ勝利の女神ニケ(ギリシャ神話)で、海戦の勝利を記念して制作された彫刻と言われている。

ここで、窓から外を見やる。ずいぶん館内を歩いたはずだ。入口のピラミッドが遠くに見える。
ルーヴル美術館は、途方もなく長く、広い。
向こう側に見えるリシュリュー翼の建物には、行けそうもない



あと観ていないのは、ミロのヴィーナスと…。再びシュリー翼に戻る。

ミロのヴィーナス Vénus de Milo 紀元前150年~紀元前125年

  • ギリシャのメロス島で1820年に発見され、フランスがトルコ政府から買い上げて国王ルイ18世に献上後、美術館に寄贈された。
  • ギリシャ神話の女神アフロディーテの大理石像と考えられている。
  • 1964年に日本の国立西洋美術館、京都市美術館で特別展示された。
エジプト文明

タニスの大スフィンクス 発見場所:タニス=サン・エル・ハガル(下エジプト東デルタ)

  • スフィンクスは、ホルス神を表すライオンの体と、王の頭である人間の頭を持っている。
  • 悪霊が神々に害を及ぼすのを防ぐために、神聖な場所の入り口に置かれた。
  • アメンエムハト2世(第12王朝、紀元前1898-1866)、メルネプタ王(第19王朝、紀元前1213-1203)、ショシェンク1世(第22王朝、紀元前945-924)の名前が刻まれていた。
  • ナポレオンのエジプト遠征に同行した調査団が発見。
 
ルーヴル美術館のHPの検索
38万点(展示はその1割)もの膨大な収集品の中から、調べたい作品を探す場合、「名前で探す」方法と、「展示場所で探す」方法と大きく分かれる。名前で探す方法は、少し使いにくいと感じた。
美術館訪問後に、作品を調べるには、展示場所で探す方法が見つけやすいかも知れない。
 
具体的には、地図から部屋番号をクリックすると、右側に展示品の画像が出てくるので、それをクリックすると詳細情報が得られる。

美術館を2箇所回ったが、足が棒のようになった。
時刻は15時。
オランジュリー美術館のモネの睡蓮やサント・シャペルのステンドグラスも行きたいところであったが、パリ市街を上空から展望していなかった。
この噴水の先に、遠くに見える建物が、次の目的地になった。

クロード・モネ(上野の森美術館)

2023-11-10 | 欧州
上野の森美術館(東京上野公園)で開催されている(2023年10月20日(金)~2024年1月28日(日))
モネ 連作の情景」に行ってきました。
 
時代をおって、印象派以前、印象派、テーマへの集中、連作の画家モネ、「睡蓮」とジヴェルニーの庭の順に、国内外から作品をお借りして展示されています。
展示作品は、主催者のサイトにありますが、来年の大阪会場が終了すると消えてしまうので、いくつか紹介します。
なお、撮影禁止が多かったので、絵はがきをアップしています。
 
【印象派以前のモネ】

ルーヴル河岸 Quai du Louvre 1867年頃

ルーブル宮殿(現在のルーブル美術館)の東側から描いた作品。セーヌ川の河畔を往来する馬車や人、正面はパンテオン(神殿)のドーム。伝統的様式で描かれた、モネには珍しい都会の風景。

(オランダ デン・ハーグ美術館 初来日)

 
昼食 The Luncheon 1868–69年
食卓には、後に結婚するカミーユと息子のジャン。ジャンの食事終了を待つ来客の女性とモネの席が手前にある。後方は使用人。
伝統的手法で、表情もしっかり画いているが、題材が日常的風景なのが評価されなかったのか。
審査員ミレーが支持したが1870年のサロン・ド・パリに落選。1874年に第1回印象派展に出品した。
(ドイツ シュテーデル美術館、初来日)
 
ザーン川の岸辺の家々 Houses by the Bank of the River Zaan 1871年
普仏戦争を避け、滞在していたオランダのザーンダムで画かれた。
水面に映る影のタッチはモネらしいが、空や建物の色使いが特徴的に思える。
(ドイツ シュテーデル美術館、初来日)
 
【印象派の画家、モネ】

モネのアトリエ舟 Monet’s Studio Boat 1874年 

  • アトリエから外に出て,戸外制作を始めたのは、自分が最初だとモネは自負していた。
  • 戸外制作での悪条件を克服するため、庭に溝を掘ってキャンバスを溝に入れ、絵の上部を描いた。
  • 川面や水辺の光景を描くため、ボートの上にアトリエ小屋を設営した。これなら日差しを避けて、長時間水面上に滞在でき、風で材料が飛ばされることを防げる。
(オランダ クレラー・ミュラー美術館)
 
【連作の作家、モネ
1880年代終わりから、モネはひとつのテーマを、天候、季節で変化する光のもとで描く「連作」が中心になる。
  • 1890年後半から、自宅の周りに「積みわら」を置き、天候や光で変化する連作25点を制作した。
  • 1892年、ルーアン大聖堂の西側正面の建物の中にイーゼルを複数置き、時刻で変化する「ルーアン大聖堂」の連作30点を制作した。
  • 1900年前後、ロンドン名物のテムズ川の霧、光で変化する「ウォータールー橋」など100点を制作、アトリエで仕上げた
  • 晩年は、自宅の庭に睡蓮の咲く池を造り、「睡蓮」の連作48点以上を制作した。

ウォータールー橋、曇り Waterloo Bridge, Overcast Weather 1900年

( アイルランド ヒュー・レイン・ギャラリー)



 ウォータールー橋、ロンドン、夕暮れ Waterloo Bridge, London, at Dusk 1904年
(米国 ワシントン・ナショナル・ギャラリー)
 ウォータールー橋、ロンドン、日没 Waterloo Bridge, London, at Sunset 1904年
(米国 ワシントン・ナショナル・ギャラリー)

 
睡蓮の池 The Water-Lily Pond 1918年頃
睡蓮の花や葉に加え、水面に映る空や木々の影が、光とともに画面一杯に描かれていく。
(ドイツ ハッソ・プラットナー・コレクション)

2024年は、1874年の第1回印象派作品展開催から150年。
来年は、印象派のイベントに期待ですね。

クロード・モネ(オルセー美術館)

2023-11-05 | 欧州
オルセー美術館のクロード・モネです。
 
クロード・モネ Claude Monet (1840 - 1926)
  • チューブ入りの絵の具を手にしたモネら印象派の画家は、屋外に出て、物の固有色ではなく、日光やその反射を受けて目に映る「印象」を表現することを追求した。
  • 1865年のサロン・ド・パリ(展覧会)に2作品が初入選した際、名前が似ているマネが憤慨したため、クロード・モネで署名するようになった。
  • 1866年のサロンにも2作品が入選したが、1867年の「庭の女性たち」(表紙)は時間を費やした大作ながら落選し落胆する。息子ジャンも生まれたが、絵が売れず経済的に困窮していた。
  • サロンに落選したモネ、ドガ、ルノワールなど印象派グループは1874年に独立した展覧会(第1回印象派展)を開催。モネが出品した「印象・日の出」が、印象派の名前の由来となった。
  • 同じ構図で光の変化を変える、積みわらなどの「連作」が米国を含め人気となり、経済的に安定
  • 1890年にジヴェルニーの家に作った「花の庭」に加え、1893年に隣の敷地を購入し川の水を引き睡蓮の咲く池を作り、「水の庭」と呼ばれる日本風の太鼓橋のある庭を作った。睡蓮の連作を数多く描いた。
 
庭の女性たち Femmes au jardin 1867年
4人の女性は、後に、妻となるカミーユがモデル。縦255cm×横205cmとかなり大きい。(表紙の写真)
  • モネは、庭にキャンバスを立て、光の状態を正確に再現するため、毎日同じ時間に制作を始め、太陽が雲で隠れると筆を止めた
  • 絵筆を持ったまま動かないモネの姿に「なぜ描かないのか」と聞かれ、モネは「あのせいだ」と言って雲を指したというエピソードがある。
  • 大きな絵なので、庭に溝を掘り、滑車でキャンバスを溝に降ろし、視点を変えることなく、絵の上部を描き上げた。
降り注いだ太陽光で眩く白いドレスや小道と、それらが木の影によって色を失う様子が鮮明で印象的。しかし、肖像画のような写実性がない、筆跡が残り稚拙と評価され落選。
 
ロッシュ・ノワールのホテル.トルヴィル Hôtel des Roches Noires. Trouville 1870年 
結婚式後、若い妻カミーユとリゾート地トゥルーヴィルに滞在。赤と白の縞模様が自由な筆致で描かれた旗が、印象的。
ホテルから出てくる人影が、カミーユではないかと想像させる。
 
ザーンダム Zaandam 1871年
普仏戦争を避け、ロンドンやオランダのザーンダムに滞在し、絵を描いた。
雲や水面に映る色づいた木々がいいね。

モネは、1871年12月、パリ近郊のセーヌ川に面したアルジャントゥイユに、マネの世話でアトリエを構え、6年間でセーヌ河畔の風景や日常を数多く描いた。
 
ひなげし Coquelicots 1873年 
1874年に、第1回印象派展で一般公開した有名な作品。妻カミーユと長男のジャン

「昼食」1873年 
庭で昼食をとろうとする長男ジャンの姿が描かれている。第2回印象派展出品
白いテーブルクロスやジャンが、所々、木陰になる表現が巧み。
 
アルジャントゥイユ橋 Le Pont d'Argenteuil 1874年
第2回印象派展。マストや家に光が当たると、川面に反射する補色(オレンジとブルー)が、きらびやか。
 
アルジャントゥイユの鉄道橋 Le Pont du chemin de fer à Argenteuil 1874年
汽車の煙が、風と光を受け、たなびいて消えていく様子がいいね。
  
 
ボート,アルジャントゥイユのレガッタ Les Barques. Régates à Argenteuil 1874年頃
風と光を受ける帆を表現。川面に映る空が、風波で揺れている。
 
アルジャントゥイユでの生活に出費がかさみ、モネは借金に追われ、家具の競売を求められたうえ、妻カミーユが病気に倒れた。
1878年にパリに戻り、次男ミシェルが生まれたが、経済的に苦しい中、カミーユは病気が悪化し、1879年32歳で死去した。
 
1883年、パリ郊外のジヴェルニーに移り、1926年に没するまで、この地で制作を続けた。
パトロンだった実業家エルネスト・オシュデが破産し、妻アリスと6人の子供達と、モネは同居することとなった。
 
戸外の人物習作:右向きの日傘をさす女 Essai de figure en plein-air : Femme à l'ombrelle tournée vers la droite 1886年
1875年に妻カミーユと長男を画いた「散歩、日傘をさす女」と同じ構図だが、顔はぼかしており、病死した妻カミーユを思い出しながら、後に2番目の妻となるアリスの娘シュザンヌ(18歳)をモデルに画いたとされている。
売ることはなく、死ぬまでモネが保持していた。切ないね
1927年、モネの死後に、次男ミシェル・モネが、ルーブル美術館に寄贈。
戸外の人物習作:左向きの日傘をさす女 Essai de figure en plein-air : Femme à l'ombrelle tournée vers la gauche 1886年
2枚の絵は、右から吹く風を、日傘で巧みに表現している。
風上に向けてしっかりと右腕で支え(上の絵)、風を背に背中と頭で日傘を支えている(下の絵)。
 
ノルウェー語で En norvégienne 1887年頃

モネが晩年になるにつれてほとんど描かなくなった戸外の人物像の、ほぼ最後の作品とされている。

3人はモネの後妻となるアリス・オシュデの娘たちで、左からジェルメーヌ(14歳)、シュザンヌ(19歳)、ブランシュ(22歳、10年後にジャンと結婚)の3人。


 
積みわら、夏の終わり Meules, fin de l'été 1891年
一つのテーマを同じ構図で、天候や時刻の違いなど光の効果だけを変える「連作」を始める。
「積みわらのさまざまな光の連作に夢中なのです。描き進めるに従って、私が求めているもの―「瞬間性」、とりわけ物を取り囲む大気と、至るところに輝く均一な光―を表現するためには、もっと努力しなければいけないことが分かるのです。」
積みわらの連作で、米国を含め、一気に人気画家になった。
1892年、エルネスト・オシュデの死の翌年、モネはアリスと結婚した。

ジヴェルニー近郊のセーヌ川支流 Bras de Seine près de Giverny 1897
 
睡蓮の池、緑のハーモニー Le Bassin aux nymphéas, harmonie verte 1899年
浮世絵の影響を受けたとされる。同じ構図で「日本の橋と睡蓮の池」という作品がある。
モネの連作には、積みわら、ルーアン大聖堂、睡蓮、ウオーター・ルー橋、国会議事堂など。
1914年、睡蓮の大画面作品を描くためアトリエを建て、高さ2メートル、幅4.3メートルの巨大なキャンバスを4枚繋げて睡蓮大装飾画を制作し、1921年オランジュリー美術館の2つのホールに寄贈することとし、生涯をかけて制作に取組んだ。
1926年永眠。1927年オランジュリー美術館の睡蓮の除幕式。

オルセー美術館

2023-11-04 | 欧州

パリで自由行動なら、美術館巡りだね。

ネットでは入場予約が取れなかったオルセー美術館に、朝一番で行くことにした。

google mapsで、乗車駅、行き先、降車駅などを調べて、初めて乗る地下鉄に挑戦。

地下通路が凄い。
白いレンガ調タイル、緑のストライプ、壁に埋込照明、床も塗装されて、おしゃれで工事単価が高いな。

地上に出ると、建物の高さ、色調、デザインが統一された街並みおしゃれやん
縦型の信号機に標識もスマートでいいね。日本と違うな。
道路は一方通行にして、両サイドに駐車帯。自転車置場もある。
よく見ると、横断歩道の白線が、歩道側にはみ出てるやん
美術館は9:30開館だが、9:00に到着。
オルセー美術館のチケットは、時間指定で購入可能だが、数週間前から満杯で予約できなかった。
当日券は混雑するので、「パリ・ミュージアムパス」をインターネットで購入した。
  • パリ・ミュージアムパスは57.48ユーロ(9,390円)。2日間(最初の入場から48時間以内)で、30以上の美術館などがフリーパス
  • さらに、団体用のC1ゲートから優先入場できる。先頭に並んで開場を待つ。
美術館前の広場は、ムダな告知板や案内がなく、美しい。
赤いジグザグ順路は、当日券を購入するC2ゲート用。

9:30に開館。入場券を持たないC2より先に、C1ゲートが開く。
保安検査・手荷物検査を受け、入場。日本語のパンフレットをゲット。

オルセー美術館
  • 1900年の万博で建てられたオルレアン鉄道の駅舎を改築し、1986年に完成。
  • 1848年から1914年にかけて作品、特に、ルノワール、モネ、ドガなど人気の高い「印象派の作品」を展示。
  • 写真撮影は自由。嬉しいね。たくさん、写真を撮りました。
印象派とは
  • 絵具がチューブ式になり、アトリエから外へ出て屋外で絵を描くことが可能となった。風景を直接観察し、天候で変化する光や色彩を表現することが新たな芸術運動となった。
  • しかし、フランス芸術アカデミーは、歴史的題材、肖像画、宗教画が主流であり、印象派の描く風景画や静物画は軽んじられた
  • サロン・ド・パリ(展覧会)の審査会では、印象派は全く評価されず、絵が売れない画家達は経済的に困窮した。
  • 2024年には、印象派誕生150年を記念しフランス国内での巡回展が予定されている。
 
エドワール・マネ  Édouard Manet(1832 - 1883)
  • 印象派の画家に影響を与えたことから、印象派の指導者あるいは先駆者として位置付けられている。
笛を吹く少年 Le Fifre 1866年
ヨーロッパで主流だった立体感のある遠近法に対し、浮世絵の平面的な表現を使用した。
 
ジャン・フランソワ・ミレー Jean-François Millet (1814-1875)
  • 写実主義。農民画。農民生活や窮状を描いた。印象派に影響を与えた。
  • 「結局、農民画が私の気質に合っている。社会主義者とのレッテルを貼られることがあったにしても、芸術で、最も私の心を動かすのは、何よりも人間的な側面なのだ。(1851年知人への手紙)」
  • サロン・ド・パリ(展覧会)の審査員として、1870年にモネの作品を支持したが、モネは落選。
落穂拾い Des glaneuses 1857年 
旧約聖書には「収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。貧しい者のために残しておかねばならない。」
収穫を手伝った農民が、残された落ち穂を拾う権利があったが、1854年、地主達はこれを廃止しようとした。

晩鐘 L'Angélus 1857-59年 
「かつて私の祖母が畑仕事をしている時、鐘の音を聞くと、いつもどのようにしていたか考えながら描いた作品です。彼女は必ず私たちの仕事の手を止めさせて、敬虔な仕草で、帽子を手に、「憐れむべき死者たちのために」と唱えさせました。(1865年ミレー談)」
糸紡ぎ女、オーヴェルニュのヤギ飼い La Fileuse, chevrière auvergnate 1868年から1869年の間
堤防に座り、ヤギの世話をしながら、紡錘で羊毛を紡ぐ若い農民の女性
牧羊場、月明かり Le Parc à moutons, clair de lune 1872年頃
太陽が沈み、水平線から上る月に照らされる、羊の群れが画かれています。
グレヴィル教会 L'église de Gréville 1871年から1874年の間
1870年から1871年、ミレーは生まれ故郷に戻り、普仏戦争から避難した。
幼少期、毎週日曜日に両親と通ったグレヴィルの小さな教会は、彼の過去を象徴する場所のひとつ。
 
グレヴィルのノーマン人の牛乳搾り女 Laitière normande à Gréville 1874年
ミレーが描いた最後の作品の一つ。幼少の記憶を、描いたのだろうか。
病気で健康が悪化し、1875年1月に死去
 
ピエール・オーギュスト・ルノワール Pierre-Auguste Renoir(1841-1919)
  • クロード・モネ(1歳上)とともに、印象派を代表し発展させた
  • 経済的に困窮していたモネを助け、二人は新たな「筆触分割の手法」を生み出した。2つの絵の具を、パレット上で混ぜず、小さなタッチで並べ、錯覚で色を出す手法
  • ルノワールの訃報を聞いたモネは衝撃を受け、「とてもつらい。私だけが残ってしまったよ。仲間たちの唯一の生き残りだ。」と友人に書いた。
 
ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会 Bal du moulin de la Galette 1876年
ルノワールの最も重要な作品で、1877年の第3回印象派グループ展に出品された。
モンマルトルの丘の舞踏場を、幅175㎝の大きなキャンパスに画いた。
ギュスターヴ・カイユボット・コレクションに所蔵後、国に遺贈。

アルフォンシーヌ・フルネーズ Alphonsine Fournaise 1879年 

レストランの主人の娘の名前。

「印象派はサロンに応募すべきでない。」とドガは主張したが、経済的に苦しいルノワールは、入選したら作品が売れるサロンへの応募が切実な問題だった。

太陽光があふれる川面で、光のとらえ方、表現が巧み。


 
静物画 Nature morte 1885年頃
 
コロンナ・ロマーノ Colonna Romano 1913年頃
リューマチで車椅子生活となり、動かない手に絵筆を縛り付けて画いていた。壮絶だ。

後ろ姿の横たわる裸婦、浴後の休息 Nu couché, vu de dos、 Le repos après le bain 1916-1917年頃

裸婦を数多く描いたルノワールの晩年の作品。


 
ジョルジュ・スーラ Georges Seurat(1859-1891) 
  • スーラは、印象派の画家たちが用いた「筆触分割」の手法をさらに進め、「点描技法」にたどりついた。

サーカス Le Cirque 1891年 

縦1.8m横1.5mの大作で使われている色も赤、黄色、青の3色。

スーラの最後の作品。この作品を完成させることなく、1891年のアンデパンダン展※の開幕から数日後に亡くなった。

※ サロンに対抗し、誰でも自由に審査無しに出品し、作品評価を来場者に直接問うことが出来る展覧会


ギュスターヴ・カイユボット Gustave Caillebotte(1848-1894)
  • 上流階級の家で生まれた。第3回印象派展を開催。
  • ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」など印象派の仲間の作品を購入して支えた。
  • 透視図法と写真のような緻密な仕上げを行い、印象派よりもサロンの価値感に近かった。
 
舟遊び Partie de bateau 1877-1878年頃
ギュスターヴ・カイユボットの傑作で、国宝指定後に、LVMH(モエ・ヘネシー、ルイ・ヴィトン)が2023年に43ミリオンユーロ(約60億円)で取得し、美術館に提供。
絵を見る人がボートに乗っているかのような、絵画の空間と鑑賞者の空間の距離をなくすことを目的とした独自の没入型フレーミング。
第4回印象派展に出品したが、当時は単純な「現実の写真」と言う人もあり、多くの批判を浴びた。
ひまわり、プティ・ジュヌヴィリエの庭 Les Soleils, jardin du Petit Gennevilliers 1885年頃
「モネのように画家兼庭師となり風景画に新しいスタイルを構築。縦長のキャンバスの選択や、近景と遠景が並列させた平らな空間の効果、作品の端をカットし見る人を絵の中に入り込ませる構図。日本の版画や写真の例に触発されたのかもしれません。(オルセー美術館の作品解説)」

 
アンリ・ジュリアン・フェリックス・ルソー Henri Julien Félix Rousseau(1844-1910)
  • 素朴派。下手な画家と評される。パリ市の税関に22年に勤務。退職後に多くの絵を描いた。
  • 遠近感がほとんどなく、樹木や草花は葉の1枚1枚が几帳面に描かれている。
  • 一見稚拙に見える技法を用いながらも、彼の作品はパブロ・ピカソからも評価された。
 
蛇使い の女 La charmeuse de Serpents 1907
「主題は、不穏なエデンの園にいる黒いイブで、創世記の蛇が魅惑的だったのと同じくらい恐ろしいの魔術師。そして、率直で濃密な色彩、マグリットを彷彿とさせる逆光、素朴で正確なライン、革新的な左右非対称の垂直な構図など、スタイルがあります。
人物、動物、幻想的な植物の装飾は、均一で細心。奇妙な静寂の中で凍りつく。この絵の幻想的な世界は、シュルレアリスムの先駆け。(オルセー美術館の解説)」
 
モネの作品は、たくさんあるので、別の記事に。
 
地下1階のカフェ・ド・ラ・ガールで軽食。ドリンクを付けて一人分12.5ユーロ。2000円。
オルセー美術館は、お気に入りですね。

浜松やらまいか交流会2023

2023-11-01 | 浜松のくらし

ANAインターコンチネンタルホテル東京で開催された、浜松「やらまいか」交流会2023に参加してきました。

10年ぶりなので、知っている人がいなかったら今回限りとし、これまでのお礼をしてと思って。

 




5月就任の中野祐介市長の市政報告

  • 大河ドラマ館「どうする家康」は、入館者が40万人突破(浜松城公園)。
  • 5月の「浜松祭り」は、255万人で過去最多。(5類が影響)。
  • 都市対抗野球は、ヤマハが準優勝。
  • 浜松航空基地のエア・フェスタ2023は、8万人(ブルーインパルス)

など、浜松の行催事の好調さを近況報告。いいね。

2024年開催行事は、

  • 浜名湖花博2024は、20周年記念事業(ガーデンパーク&フラワーパーク)。
  • 11月には浜松国際ピアノコンクール(40カ国から400人エントリー)。

その後、資料にて、災害対策、交通事故対策、人口減少対策に取組む市政を。

 

会場内には、浜松の特産品がずらりと、圧巻です。

前回出遅れた「ウナギ」は、かばやき、白焼きを、美味しくゲット。

花の舞」。久しぶりに祝い酒。

浜松やらまいか交流会2023

会場では20年前の知人から、たくさん声をかけていただき、驚きました。

海岸侵食、水泳場、環境教育などなど、昔のことなのに覚えて頂いたことが嬉しくなりました。

浜松は、昔よりもさらに元気で、活気にあふれ、やらまいか精神(何でもやってやろう)の街

住んでる人が自分の街に誇りを持つことが、何より大事なことだと思った。

スタッフの方に御礼を申し上げて、会場を後にしました。

 

溜池山王駅構内の無人本屋「ほんたす ためいけ」。新しい時代だね。