沖縄での一人暮らし

延べ8年間、沖縄で一人暮らしをしました。歴史・自然・文化を伝えます。

ひがし茶屋街と金沢の食事

2023-11-24 | 国内旅行
「ひがし茶屋街」
金沢城の東側に位置し、寺院の参道周辺に伝統的町屋が建ち並ぶ。
江戸時代の伝統的家屋を保存するため、文化財保護法に基づき、文化庁が重要地区に選定(東山ひがし伝統的建造物群保存地区)。

「茶屋」

茶店やカフェではなく、江戸時代の社交の場芸妓が客をもてなす場所

裕福な商人や町衆が集まり、公的な職務を担う武士は出入りを禁止されていた。


和服を着た人がいる。芸妓さんかな。観光客への着物レンタルサービスとは違うようだ。

外国人が多い。人がいなくなったわずかな隙に、カメラを構えた。

着物姿は、風情があって良いね。きんつばのお店みたいだ。


歩いてホテルに戻る。

【徳田秋声記念館】
時間外で入れなかったのが残念。
徳田秋声の「町の踊り場」は、金沢の姉が死去し、葬儀のため帰省した体験を描いた。姉の家を抜けだして裏町のダンスホールに立ち寄ったりする奔放な行動が、満洲事変後の戦争に向かってゆく時代や、古い文化と新しい文化が交錯する金沢の街が鮮やかに浮かび上がる秋聲珠玉の短篇で、川端康成が高く評価した。ダンスホールは、ひがし茶屋街のことだね。

浅野川を渡る。

ホテルの能登牛会席お献立
芸妓さんはいないけど、地ビールに地酒(加賀鳶・超辛口)。前菜とお造り

能登牛陶板焼き

牛タン味噌煮込み

鰻の蓮蒸し

氷見うどん能登牛握り

水菓子

2泊目 のどぐろ北陸近海会席 連泊お献立
前菜とお造り

のど黒塩焼き

甘鯛オランダ煮
香箱蟹 蟹酢ジュレ

茶碗蒸し

氷見うどん にぎり寿司

水菓子

連泊だと、献立を変えてくれてありがたいです。すっかりごちそうになりました。
朝食は、ブッフェで洋食と和食。


金沢城に隣接した、便利なホテルでした。

最後の昼食は、再び駅ビル金沢百番街2階の「廻る富山湾すし玉」。かがやき盛り。
20組待ちだったので、受付に名前を書き、お土産を購入して、約1時間後にご馳走に。
金沢は、寿司が美味しいね。

それに、隣接の100MARTでは、「手取川 純米大吟醸 本流」が1割引だった。うれしいね。


石川の伝統工芸王国を探る

2023-11-24 | 国内旅行

金沢は、美術工芸の街で、文化的基盤を生かし、国立工芸館を招致できた。

町並みは美しく、伝統的な建築物が保全され、一度埋めた水路も復活させている。

国立、県立、市立、私立の博物館・美術館がたくさんある。

加賀藩は、加賀百万石と言われ財政豊かであった。それが文化的な豊かさの理由なのか

 

調べるために、石川県立歴史博物館に行ってみた。

赤いレンガの建物旧陸軍兵器庫を活用。陸軍は、兵器庫さえ立派なレンガ造にするほど金沢に気を遣ったのか。

47都道府県で唯一空襲を受けていない石川県。米軍は、文化財を攻撃しないことを知っての作戦だろうか。

左が、県立歴史博物館。右が、加賀本多博物館
中央が、辰巳用水の石管犀川から10キロ導水し、兼六園に水を配し、兼六園の霞が池から逆サイフォンの原理で金沢城へ揚水した。
一旦下がって、また揚がる。二の丸は空堀だったが、火災防止を理由に水が入ることに。
 

加賀藩が100万石になった経緯とその維持

  • 織田信長から、能登一国を与えられる。
  • 豊臣秀吉から、北加賀二郡と越中三郡を領土をもらう(越中は富山県)。
  • 徳川家康から、関ヶ原の戦い後に、南加賀二郡を得て、領地は百万石を超えた(西軍だったが、北陸では東軍と和睦した)。
  •  前田家は外様大名だが、徳川の娘を正室に迎え入れる※など将軍家と姻戚関係を結び、幕府内で徳川御三家に準じる待遇を受けた。
  • 前田家は、格式の高い家として知られ、幕府は前田家に対して重大な処分を下すことはなかった。
  • この結果、前田家は加賀百万石を築き、財政的に豊かな藩を維持することができた。

⇒※徳川家の養女を妻に迎えたのは、第2代藩主前田利常と第4代藩主前田光高

石川県立美術館で観た「国宝 無銘正宗」は、前田光高が徳川家光の養女・阿智姫(水戸徳川頼房の娘)を正室に迎えたときの引き出物だった。

100万石の富を幕府が懸念する軍事力では無く美術工芸の発展に充てて伝統工芸が栄え、幕府の信用を得た

 
加賀百万石の武家文化を支えた5万石という破格の加賀本多家全国の家臣の中でも最高禄
初代の本多政重は、徳川家康の重臣である本多正信(「どうする家康」では松山ケンイチが演じているらしい)の次男
本多家の家臣500人以上が、本多家上屋敷(現在の県立美術館や博物館)に出勤していた。
今も、この博物館がある公園は、本多の森公園となっている。

村雨の壺
本多家随一の家宝である。銀山のある新川郡(現富山県)の領有権が幕府か加賀藩か問題となった際、本多政重が幕府と交渉し、加賀藩のものとなった。功績をたたえ5万石を10万石に増やす話を辞退し、代わりに村雨の壺受領した。5万石の壺と言われる。

昔、富山県が加賀藩に属していた証拠の壺だね加賀・越中・能登の三国合せて119万2760石

本多家の鎧、兜の実物が迫力満点。写真撮影はOKだが、SNS投稿不可なので割愛。
 
上から、
大十文字槍 おおじゅうもんじやり 江戸時代初期
 本多政重の所用。
 
大身槍 おおみやり 室町時代末期
 本多政重が1600年の関ヶ原の戦い使用したと伝わる。柄を入れると3mにもなる。
  • 「どうする家康」に出てくる本多忠勝は、6mもある大身槍で数々の戦で功績を挙げ、家康から10万石の桑名藩主を与えられた。
  • 本多正信を「腰抜け」と言ったそうだ。確かに槍の長さは2倍ある。
  • 加賀本多家は、武将と言うより、徳川家と交渉して前田家を支えた知恵者だね。
薙刀なぎなた 室町時代


金沢市立安江金箔工芸館
前田利家が、七尾で金箔を、金沢で銀箔を打つよう命じた記録があり、16世紀には始まっていた。
幕府が金座・銀座を江戸に設置したため途絶えかけたが、幕末には製造権を得て、明治期に産業として成長。
現在、日本の金箔の生産量は、金沢が100%に近い。
 
金打ちは、金を、厚さ1万分の1ミリになるまで何回も打ち伸ばして製造する。
金と金の間に、特殊な手漉き和紙を挟み、重ねて打つが、和紙造りに犀川の水質が重要だった。
右上の棒状の金塊から左へ、更に手前側の右から左へと、打つ工程を経て、薄く仕上がっていく。

金箔の薄さを、髪の毛(左の丸棒)と比較したもの。
薄くなるまで、ハンマーで何度も叩く。

金箔は、蒔絵や沈金など漆工芸に不可欠な材料。地元に、材料供給体制があった。
 
漆の乾燥には、湿度と温度が必要
 「沖縄は、湿度と温度が高く、漆の乾燥と硬化に最適」と室瀬和美先生から教わった。
 「首里城は、巨大な漆器」と高良倉吉先生は言った。
金沢や輪島は「弁当忘れても、傘忘れるな」と雨が多く、海に面し湿度が高く、漆の乾燥や硬化に適した立地
 
こうした条件が整い、石川県の漆工芸を発展た。

石積みの堀と道路。道路の中央には、用水を生かした、雪解け用の配管がある。

兼六園の外周の用水路

兼六園から出てくる水。

【本多家屋敷跡】

【兼六園周辺文化の森】
国立工芸館、県立美術館、県立歴史博物館、加賀本多博物館、文化財保存修復工房、県立能楽堂、金澤神社がある。
【石川県政記念しいのき迎賓館】
1924年の歴史的建造物の旧庁舎を再整備した建物。
3年に一度の国際漆展(11/9-11/21)が開催されており、運良く観ることが出来た。
国内外から出展された漆芸品のうち、入選16点入賞作66点が展示されていた(入場無料)。

入賞作(上記HPから)
加賀藩から続く伝統工芸王国の神髄を観た気がした。