今回はふたつの家族が描かれた。
ひとつは官兵衛(岡田准一)の家族。
もうひとつは村重(田中哲司)。
官兵衛の場合は家族の<再生>、村重の場合は<崩壊>。
この相反するふたつが並べて描かれることによって、ドラマはより劇的になるのだろう。
相反すると言えば、信長(江口洋介)の描かれ方もそうだ。
官兵衛に対しては、
「官兵衛、許せ。猿、官兵衛を手厚く看病してやれ」
と、自分の非を認め、家臣に頭を下げることの出来る器の大きさを見せるのだが、
村重に対しては、
「根絶やしにしろ」。
この振れ幅が信長の人物像を面白いものにしている。
村重の人物像についてはモヤモヤしている。
絶望の縁にあって、茶器にすがりたい、茶器の世界に逃避したいという心情はわかる。
神に祈って穏やかな死を迎えた妻・だし(桐谷美玲)との対比で、<茶器>と<神>という図式を読み取ることも可能だろう。
ただ、妻子や一族を犠牲にし、しかも逃亡してまで、生きることに執着するのはどうなのだろう?
もっとも、これが史実なのだから仕方がないが、村重に関しては脚本・前川さんの解釈がよくわからない。
そして官兵衛の復活。
光(中谷美紀)に「元に戻れずとも殿は殿でございませんか」と諭されても「気安めは申すな」と、やさぐれモード。
連夜、悪夢にも、うなされている。
しかし、竹中半兵衛(谷原章介)の軍配を見て、
「半兵衛殿はわしにまだ働けと申すか!」
「光、養生は終わりだ。姫路に帰るぞ!」
官兵衛がやさぐれモードになることを見越して、竹中半兵衛が軍配を松寿丸に託していたとしたら、すごいですね。
信長をたばかったように官兵衛までも自分の掌の上で転がしている。
とはいえ、人がアイデンティティを取り戻した時、力強くなれるというのは確かだ。
官兵衛のアイデンティティとは<軍師>だ。
半兵衛は軍師に必要なこととして「人に嫌われ、憎まれても貫き通すこと」を教えたが、『軍師官兵衛』は御着の殿に対して、それが出来るのか?
いよいよ軍師官兵衛が本格的に始動する。
ひとつは官兵衛(岡田准一)の家族。
もうひとつは村重(田中哲司)。
官兵衛の場合は家族の<再生>、村重の場合は<崩壊>。
この相反するふたつが並べて描かれることによって、ドラマはより劇的になるのだろう。
相反すると言えば、信長(江口洋介)の描かれ方もそうだ。
官兵衛に対しては、
「官兵衛、許せ。猿、官兵衛を手厚く看病してやれ」
と、自分の非を認め、家臣に頭を下げることの出来る器の大きさを見せるのだが、
村重に対しては、
「根絶やしにしろ」。
この振れ幅が信長の人物像を面白いものにしている。
村重の人物像についてはモヤモヤしている。
絶望の縁にあって、茶器にすがりたい、茶器の世界に逃避したいという心情はわかる。
神に祈って穏やかな死を迎えた妻・だし(桐谷美玲)との対比で、<茶器>と<神>という図式を読み取ることも可能だろう。
ただ、妻子や一族を犠牲にし、しかも逃亡してまで、生きることに執着するのはどうなのだろう?
もっとも、これが史実なのだから仕方がないが、村重に関しては脚本・前川さんの解釈がよくわからない。
そして官兵衛の復活。
光(中谷美紀)に「元に戻れずとも殿は殿でございませんか」と諭されても「気安めは申すな」と、やさぐれモード。
連夜、悪夢にも、うなされている。
しかし、竹中半兵衛(谷原章介)の軍配を見て、
「半兵衛殿はわしにまだ働けと申すか!」
「光、養生は終わりだ。姫路に帰るぞ!」
官兵衛がやさぐれモードになることを見越して、竹中半兵衛が軍配を松寿丸に託していたとしたら、すごいですね。
信長をたばかったように官兵衛までも自分の掌の上で転がしている。
とはいえ、人がアイデンティティを取り戻した時、力強くなれるというのは確かだ。
官兵衛のアイデンティティとは<軍師>だ。
半兵衛は軍師に必要なこととして「人に嫌われ、憎まれても貫き通すこと」を教えたが、『軍師官兵衛』は御着の殿に対して、それが出来るのか?
いよいよ軍師官兵衛が本格的に始動する。
>信長をたばかったように官兵衛までも自分の掌の上で転がしている。
タイトルが示すとおり、今回の「影の主役」はやはり半兵衛でしょう。
>「半兵衛殿はわしにまだ働けと申すか!」
人に生きる力を与えるのは使命の自覚であるという思想はアウシュビッツを生きのびたユダヤ人の精神医学者フランクルを連想させます。
しかし、信長から村重に対するのとは対照的な態度を引き出すに際しては、敢えて官兵衛の無惨な姿をいち早く信長に見せた秀吉の機転も大きかったと思います。
中国古代にモデルをとるならば信長と秀吉は項羽と劉邦を連想させます。
>いよいよ軍師官兵衛が本格的に始動する。
「軍師・官兵衛」の今後にはもう少し厳しさが欲しいとは思いますが、半兵衛の志を引き継ぐ官兵衛は基本的には「劉邦型の秀吉」を演出してゆくことでしょう。
>村重に関しては脚本・前川さんの解釈がよくわからない。
おそらく信長の死後、生きのびて茶人となった村重を登場させるでしょうから、村重の人物像はその時はっきりするのではないかと思います。
またかなりの比重をもって描かれていただしのエピソードが官兵衛自身の受洗と何らかの形で関連づけられるのかにも注目したいと思います。
いつもありがとうございます。
項羽と劉邦
上手いたとえですね。
信長は<力と恐怖>で統治していくのに対し、秀吉は<他人を許し、信頼させる>ことで統治していく。
かつて司馬遼太郎さんは「若い頃の秀吉だったら自分は仕えてもいい」みたいなことを言っていましたが、確かに上司としては秀吉の方がいいですよね。
フランクルに関しても、おっしゃるとおりですね。
現代では自殺や「誰でも良かった」という悲惨な事件がいろいろ起きていますが、根本原因は目的の喪失にあるような気がしています。
村重に関しては、諸行無常みたいな形になるのでしょうか?
あるいはキリスト教的な原罪意識。
罪を犯した絶望の縁にある人間がどのように生きたのかは、華やかな英雄譚よりも興味があります。
さて、どのような形で登場し、何を語るのでしょうね。