平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

軍師官兵衛 第20回「囚われの軍師」~官兵衛、わしの味方になってくれ

2014年05月19日 | 大河ドラマ・時代劇
「官兵衛、わしの味方になってくれ」
 村重(田中哲司)は不安で弱気になっていたんでしょうね。
 信頼する官兵衛(岡田准一)が「毛利は織田には勝てない」と言っている。
 愛するだし(桐谷美玲)も同じことを言っている。
 一番味方になって支えてほしかったふたりからの否定的な言葉。
 村重にとっては耐えられないことだったと思います。

 人生は選択の連続でもあるんですね。
 高山右近(生田斗真)は<武門>か<信仰>かの選択を迫られた。
 黒田職隆(柴田恭兵)は<織田>か<小寺>か、<松寿丸>か<官兵衛>かを求められた。
 いずれも何かを失う選択。
 そして、この判断基準は個人が何を大切にするかで変わってくる。
 職隆は<黒田の家が残ること>を一義にした。
 右近の場合は、家よりも<神>を大切にした。家を捨てキリシタンとして信仰に生きようとした。
 中川清秀のように「強きにつくのが乱世のならい」という価値観で生きる人間もいる。

 というわけで
 人はこんなふうにさまざまな価値観で生きているから、ぶつかり合い、憎しみ合い、世の中から争いが絶えないんでしょうね。
 そして個々人はそれぞれに小さくて無力。
 大きな時代の流れの中で簡単に押し流される。
 そんな無力な人間が出来ることは、ラストシーンのだしのように、ただただ祈ること。
 ラストの<祈り>のシーンは、神々しくて、光に溢れた実に美しいシーンでした。


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2 コメント

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メランコリー性語り (TEPO)
2014-05-19 19:11:04
>ラストの<祈り>のシーンは、神々しくて、光に溢れた実に美しいシーンでした。

加藤敏という精神医学者は、人間の語りを「パラノイア性語り」と「メランコリー性語り」とに大別しているそうです。
「パラノイア性語り」は、他者に対して構造的に優位に立つありかたに根ざし、「メランコリー性語り」は苦悩の中の嘆き-自己の核となるであろう<もの>の喪失を構造的に運命づけられるありかたに根ざしているとのこと。

宗教学者の中に、一神教は排他的だから悪く、日本は多神教だから寛容で良い、といった論調で語る人を見かけますが、もっぱら一神教を「パラノイア性語り」として見ているのでしょう。
戦国末期の「キリシタン」は何と75万人の信徒を有していたそうです。
分母の総人口の圧倒的な違いを考えると、これは驚異的な数字と言えます。
それは、今回のだしに見られるような戦国時代という時代が不可避的に生み出した「メランコリー性語り」を吸収したからこそなのだと思います。

しかし、娯楽作品の中では「メランコリー性語り」は辛いですね。
私の末息子などは、ドラマで辛いシーンがある-ありそうだ-と席を外して逃げてしまいます。
ここ当分、息子は本作を見ようとしないでしょうね。
哀しみの共感 (コウジ)
2014-05-20 08:39:25
TEPOさん

いつもありがとうございます。
「パラノイア性語り」と「メランコリー性語り」、面白いですね。
「メランコリー性語り」をわかりやすく翻訳すれば、<哀しみの共感>ともいうべきことでしょうか。

だしの心の中を想像すれば、「大切なものが喪失していく現実を前にして、自分の無力を感じ、ただただ神に祈るしかない」
75万もの人がキリスト教に入信したのは、だしのような苦悩を受けとめる力があったからなのでしょうね。

人間の歴史は、力で他者をねじ伏せるのか(パラノイア)、共感で繋がるのか(メランコリー)のせめぎ合い、繰り返しなのかもしれませんね。

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