Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ノット/東響

2024年05月13日 | 音楽
 昨日も書いたが、定期会員になっている5つのオーケストラのうち4つの演奏会が土日に重なり、2つを振り替えて聴いた4つの演奏会。最後はノット指揮の東響。ともかくこの演奏会を聴けて良かった。2年後の退任が発表されたノットが、東響であげた数々の成果のうち、この演奏会は忘れられないもののひとつになりそうだ。

 1曲目は武満徹の「鳥は星形の庭に降りる」。何度も聴いた曲だが、ノット指揮東響の演奏は細部まできっちりして、音楽の区切りが明確で、しかも呼吸感のある演奏だった。武満トーンといわれる音が、過度に柔らかくなく、芯のある音で鳴った。

 2曲目はベルクの演奏会用アリア「ぶどう酒」。武満徹の音楽にはベルクの影響を感じることがあるが、並べて聴くと、武満徹の、音がまばらで隙間の多い書法にたいして、ベルクの場合は高音域から低音域まで音がびっしり詰まっている。図式化して言ってはいけないが、やはり東洋的な感性と西洋的な感性のちがいを感じた。

 オペラ「ルル」と同時期に書かれたこの曲は、動きの多い、猥雑で、媚びるようなところのある音楽だが、実演で聴くと、独唱パート(ソプラノの高橋絵里が健闘した)はもちろんのこと、オーケストラの入り組んだ動きに関心がむかった。

 3曲目はマーラーの「大地の歌」。第1楽章の嵐のような音楽が、混濁せずに、明瞭に鳴った。たいへんな音圧だが、そこを突き抜けてテノール(ベンヤミン・ブルンス)の声が響く。オーケストラにも声にも感心したが、それ以上に「大地の歌」がリュッケルトの詩による一連の歌曲や「亡き子をしのぶ歌」などの先行歌曲集とは別格の曲だと痛感した。もう何十年も聴いている曲なのに、なぜそう思ったかは、演奏の総体(どこがどうとは言い難い)からくるとしか言いようがない。

 第2楽章のメゾソプラノ(ドロティア・ラング)の存在感のある声にも感心した。不遜な言い方になるが、ブルンスやラングのような歌手でなければ「大地の歌」は歌ってはいけないのではないかと思った。少なくともマーラーはこのクラスの歌手を想定して「大地の歌」を書いたのだろうと思った。

 第6楽章の中間部のオーケストラ演奏を経て、メゾソプラノの歌が再開して以降は、ノットとオーケストラと歌手との呼吸がぴったり合い、神がかった演奏になった。その部分の歌詞は解釈に諸説あり、一般的には「友」がこの世との別れ(=死)を歌ったものと解されているが、わたしは啓示を受けたように、死にゆく友(=愛する人)との別れを歌ったものと感じて涙がにじんだ。
(2024.5.12.サントリーホール)
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藤岡幸夫/東京シティ・フィル~ルイージ/N響

2024年05月12日 | 音楽
 昨日は午後は東京シティ・フィルへ、夜はN響へ行った。連チャンは苦手だが、わたしが定期会員になっている5つのオーケストラのうち4つのオーケストラの演奏会が、昨日と今日に重なったため、2つのオーケストラを振り替えたからだ。

 東京シティ・フィルは藤岡幸夫の指揮。1曲目はディーリアスの「夜明け前の歌」。藤岡幸夫がプレトークで「ディーリアスはイギリス音楽の代表のように思われているかもしれないけれど、ディーリアス自身はフランスに住んでいて、フランスが好きだった」(大意)といっていた。なるほど、そういわれてみると、「夜明け前の歌」はフランス近代の音楽のように聴こえた。

 2曲目はリストのピアノ協奏曲第2番。ピアノ独奏は福間洸太朗。緩急のメリハリをつけた演奏だ。演奏によっては捉えどころがなくなりがちなこの曲だが、福間洸太朗の演奏は、現在地がはっきりわかる演奏だ。ピアノの音も輝いていた。アンコールにフォーレの「3つの無言歌」から第3番が演奏された。心優しいシンプルな曲だ。

 3曲目はヴォーン・ウィリアムズの交響曲第2番「ロンドン交響曲」。演奏時間約45分の大曲だ。随所に出てくるロンドンの霧とか、老ヴァイオリン弾きとか、ビッグベンの鐘の音とか、そういったエピソードが藤岡幸夫のプレトークで説明されたので、「ああ、これか」と楽しく聴けた。わたしのように吹奏楽をやった人間には、「イギリス民謡組曲」に似た旋律が出るのも楽しかった。

 次にN響へ。指揮はファビオ・ルイージ。1曲目はリッカルド・パンフィリRiccardo Panfili(1979‐)の「戦いに生きて」Abitare la battaglia。現代イタリアの作曲家の作品だ。現代の作品の例に漏れずに、聴きやすい音で、構成もつかみやすい。演奏時間は約16分。3管編成が基本の大きなオーケストラ編成だが、むしろ音は抑制され、静かな緊張感がある。最後は白黒決着がつくのではなく、霧のような響きの中に韜晦する。

 2曲目以降はレスピーギのローマ三部作が演奏された。その演奏順に一ひねりがあった。まず「ローマの松」が演奏され、休憩をはさんで、プログラム後半が「ローマの噴水」と「ローマの祭り」という順だった。

 3曲の中では「ローマの祭り」がもっとも聴き応えがあった。彫りが深くて、ダイナミックで、いかにもヴィルトゥオーゾ・オーケストラの演奏だ。「ローマの祭り」はアメリカで初演される予定で書かれたので、曲自体、他の2曲とは性格が異なるのかもしれない。他の2曲に抜きん出た派手さは、そう考えると腑に落ちる。
(2024.5.11.東京オペラシティ~NHKホール)
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カーチュン・ウォン/日本フィル

2024年05月11日 | 音楽
 カーチュン・ウォンが日本フィルを振ってマーラーの交響曲第9番を演奏した。それは予想もできない演奏だった。第1楽章は音の断片が飛び交うマーラーの音楽の、その断片が鋭角的に発音される。ニュアンスが際立ち、パッチワーク風とも、コラージュ風ともいえるが、その言葉には収まりきらない、全体が崩壊の寸前でとどまっている感覚があった。わたしは現代音楽が好きなのだが、まるで現代音楽を聴くようだった。

 第2楽章はのどかなレントラーやワルツといった舞曲よりも、軋み(きしみ)とか、歪み(ゆがみ)とか、何かそんなものを感じさせた。主体(マーラー)と客体(舞曲)とのかい離といったらいいか。素直には喜べない感覚があった。

 第3楽章は闘争的な音楽だが、その音楽と演奏の間に齟齬がなかった。全4楽章の中でもっとも普通に聴くことができた。終盤に入ってシンバルの一撃の後に平穏な音楽に移行するが、そのときのトランペット首席奏者のオッタビアーノ・クリストーフォリの明るく澄んだ音が、すべての苦しみを浄化するようだった。

 第3楽章が終わったところで、カーチュン・ウォンはいったん指揮台から降りた。気を静めるように長い間を置き、第4楽章は指揮棒なしで振り始めた。そのとき弦楽器から出てきた音の熱量の高さに圧倒された。前3楽章とは明らかに異なる音だ。カーチュン・ウォンの中では、第1楽章~第3楽章が一つのまとまりとなり、第4楽章はそれと対峙する、もう一つの独立した音楽になっているようだった。

 第4楽章で展開された音楽は筆舌に尽くしがたいものがある。リミッターが振りきれるという形容があるが、それを超えて、スケールの点でも、(繰り返しになるが)音に込められた熱量の点でも、普段の日本フィルとは次元が異なる演奏だった。

 周知のように、カーチュン・ウォンと日本フィルは昨年10月にマーラーの交響曲第3番で名演を繰り広げた。私見では、その演奏の特徴は、バランスのとれた構成ときめ細かいアンサンブルにあった。だが第9番の演奏は、第3番の成果に安住せずに、そこからさらに飛躍しようとするチャレンジングなものだった。カーチュン・ウォンの計り知れないパワーを手加減せずに日本フィルにぶつけ、日本フィルの表現力の向上を目指す。いわばカーチュン・ウォンと日本フィルの真剣勝負のような感があった。わたしたち聴衆はその真剣勝負に固唾をのんだ。

 個別の奏者では、ホルンの首席奏者の信末碩才が全楽章にわたって安定した演奏を聴かせた。優れた奏者は、指揮者が優れていればいるほど、実力を発揮するようだ。
(2024.5.10.サントリーホール)
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国立西洋美術館:ゴヤ「戦争の惨禍」

2024年05月08日 | 美術
 国立西洋美術館でゴヤ(1746‐1828)の版画集「戦争の惨禍」が展示中だ(5月26日まで)。全82点。スペイン独立戦争(1808‐1814)の悲惨な状況と、(戦争には勝利したものの)戦後の反動政治による抑圧を、ゴヤの冷徹な目で描いたものだ。

 同美術館は「戦争の惨禍」の初版を所蔵する。これまでもその数点を展示することはあったが、全点の展示は初めてだ。初版はゴヤの死後35年もたった1863年に出た。そのときには80点にとどまった。残りの2点の原版が見つからなかったからだ。その後2点の原版が発見された。同美術館は2点の第2版を所蔵する。

 82点すべての画像は同美術館のHPで見ることができるが、実物のほうが、細かい描写や繊細なニュアンスがよくわかる。本展の解説によると、全体は三部に分けられる。第一部は戦争の現実を描く作品(2番~47番)。虐殺、婦女暴行、その他ありとあらゆる蛮行が描かれる。第二部は戦争中に起きた飢餓を描く作品(48番~64番)。多くの民衆が、戦争で死ぬのではなく、飢えで死ぬ。第三部は戦後の反動政治を描く作品(65番~80番)。戦争に勝ったと思ったら、今度は権力者たちが民衆を抑圧する。

 第一部の戦争のむごたらしさはいうまでもないが、第二部の飢餓も悲惨で(200年前のスペインの話だが)妙にリアルだ。いまの日本でも、やれ中国だ、やれ北朝鮮だと、権力者たちは勇ましいことをいうが、いざ戦争が起きたら、日本でも飢餓が起きることは間違いない。戦争で死に、また飢餓で死ぬのはわたしたちだ。権力者たちではない。

 個々の作品に触れると、本展のHP(↓)に掲載されている59番「茶碗一杯が何になろう?」は、修道女が餓死しそうな男にスープを飲ませようとする。だが題名は、男が間もなく死ぬことを示唆する。それに先立つ58番「大声を出してはならない」は、飢えた人々の間で茫然とたたずむ修道女を描く。その前の57番「健康な者と病める者」は、飢えた人々を救おうと努める修道女を描く。3点の修道女は同一人物だ。57番~59番には一連の物語がある。そのような作例は他にもある。2点一組の作例はかなり多い。2点の対比にゴヤの思考回路が窺える。

 ゴヤの生涯はモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトの生きた時代と重なる。モーツァルトは若くして亡くなったが、ベートーヴェンが経験したフランス革命とナポレオン戦争はゴヤにも深い影響を与えた(「戦争の惨禍」で描かれたスペイン独立戦争は、ナポレオンとの戦争だ)。ベートーヴェンやシューベルトが崇高な音楽を書いていた一方にはゴヤの描いた現実があった。
(2024.4.17.国立西洋美術館)

(※)本展のHP
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SOMPO美術館「北欧の神秘」展

2024年05月05日 | 美術
 SOMPO美術館で「北欧の神秘」展が開かれている(6月9日まで。その後、松本市、守山市、静岡市に巡回)。北欧絵画の展覧会は珍しいので、新鮮だ。手つかずの自然や素朴な人々を描いた作品が多い。

 北欧とはいっても、本展はノルウェー、スウェーデン、フィンランドの3か国の画家の作品で構成される。デンマークとアイスランドの画家は含まれない。実質的にはスカンジナビア半島の文化圏の展覧会だ。

 北欧絵画はあまり馴染みがないが、近年、国立西洋美術館がデンマークのハンマースホイ(1864‐1916)の作品を収蔵し、その記念に2008年にハンマースホイ展が開かれた(2020年にも開かれた)。最近はフィンランドのガッレン=カッレラ(1865‐1931)の作品を収蔵し、またスウェーデンの劇作家で小説家のストリンドベリ(1849‐1912)の絵画を収蔵した。興味深い点は、それらの画家(劇作家・小説家)がフィンランドの作曲家のシベリウス(1865‐1957)やデンマークの作曲家のニールセン(1865‐1931)と同世代なことだ。かれらの背景には北欧の民族意識の高まりがある。

 本展には上記のガッレン=カッレラの「画家の母」とストリンドベリの「街」が展示されている。「画家の母」は、国立西洋美術館の「ケイテレ湖」がフィンランドの民族的叙事詩のカレワラに題材をとった風景画であるのとちがって、リアルな肖像画だ(本展のHP↓に画像が載っている)。一方、「街」は国立西洋美術館の「インフェルノ(地獄)」と同様に荒々しい筆触の風景画だ。わたしは「街」に強い印象を受けたが、残念ながら本展のHPには画像が載っていない。

 北欧の画家で一番有名な人はムンク(1863‐1944)だろう。本展には「ベランダにて」が展示されている(本展のHP↓)。雨が多くて憂鬱な北欧の秋。姉妹の立つベランダの床が濡れている。姉妹は雨に煙るフィヨルドを眺める。ベランダの床のピンクと紅葉した樹木の赤がムンクの色だ。

 本展には未知の画家の作品が多い。それらの作品の中でもっとも惹かれた作品は、ニルス・クレーゲル(1858‐1930)というスウェーデンの画家の「春の夜」だ(本展のHP↓)。北欧の春。すでに日が長くなっている。夕日が地平線に沈む。澄みきった藍色の空に渡り鳥が飛ぶ。その鳴き声がきこえるようだ。手前の藪が不気味な形をしている。北欧の人々はこのような藪から超自然的な存在のトロールを想像したのかもしれない。

 トロールはキッテルセン(1857‐1914)というノルウェーの画家のドローイングをデジタル処理した動画が楽しい。トロールは北欧の人々には親しい存在だとよくわかる。

(※)本展のHP
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