Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

アンチゴーヌ

2015年01月14日 | 演劇
 新国立劇場演劇研修所がジャン・アヌイ(1910‐1987)の「アンチゴーヌ」(1942)を上演した。場所は同劇場のリハーサル室。部屋の真ん中に十字型の舞台を仮設し(十文字の花道のようだ)、小道具は椅子2脚だけ。観客は舞台を取り囲む4ブロックに分けられる。

 たったこれだけの舞台なのに、立派に演劇になる。出演者は第8期生の皆さん。修了公演の一環だ。昨年9月には澤畑聖悟の「親の顔が見たい」を上演した。面白かった。そのときのメンバーが今回も登場している。前回とはまったく違う役どころだ。前回の記憶が蘇ってきた。

 アンチゴーヌ(ギリシャ悲劇のアンティゴネーの翻案)を演じたのは荒巻まりの。渾身の演技だった。叔父のクレオン(テーバイの王)との対立の末に、すべての信念を打ち砕かれ、それでもなお信念を曲げまいとする、その演技への没入に惹かれた。

 クレオンは坂川慶成。すばらしかった。苦悩の深さではアンチゴーヌに劣らないクレオン(ギリシャ悲劇とは異なるジャン・アヌイのクレオン像)に全力で取り組んだ。

 もう一人、忘れてはいけないのは、小姓役の西岡未央だ。台詞はわずかしかなく、ほとんど黙役だが、暗い存在感があった。今回、小姓役とアンチゴーヌ役はダブルキャストが組まれた。別の組では西岡未央がアンチゴーヌを、荒巻まりのが小姓を演じた。西岡未央のアンチゴーヌも観てみたかった。暗く、わだかまりのあるアンチゴーヌではなかったろうか。

 ジャン・アヌイのこの芝居は、何年も前に戯曲を読んだことがあるが、舞台を観るのは初めてだ。舞台では別の面が見えてきた。クレオンが、ひじょうに繊細な、人間的な人物として描かれていることは、記憶のとおりだが、舞台を観ていると、さらに一歩進んで、クレオンとアンチゴーヌとは同じ根を持つ人物ではないか(同じ根から出てきた2人ではないか)という気がしてきた。

 2人は対立概念だが、感受性は似ている(似ていた)。でも、クレオンは、人生のある段階で統治者になった。そのとき失ったものがある(自ら封じ込めた)。一方、アンチゴーヌはそれを持っている。今なお豊かに、みずみずしく――。なので、アンチゴーヌはクレオンを責める。クレオンはアンチゴーヌの言うことがよく分かる。

 この物語を、2人の人物ではなく、ある一人の人生の‘青春’と‘老年’に置き換えたら、どうなるだろう。
(2015.1.13.新国立劇場リハーサル室)

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