Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

三島由紀夫「仮面の告白」

2017年09月23日 | 読書
 大学時代の友人S君と読書会を始めた。60歳代の半ばになって、大学生のように読書会ができることが嬉しい。読書会といっても、もう若い頃のような真面目な読書会はできない。飲むための口実のようなもの。3ヶ月に1回のペースでやることになり、先日その第1回をやった。テーマは三島由紀夫の「仮面の告白」。S君からの提案だった。

 三島由紀夫の作品は、小説と戯曲のいくつかを読んだことがあるが、「仮面の告白」は初めて。面白かった。実感からいうと、小説では、今まで読んだ「金閣寺」や「午後の曳航」よりも数倍面白かった。

 何が面白かったかというと、文体だ。文体の濃さが群を抜いている。思うに、これを書いた頃の三島は時間があった。念入りに時間をかけて文体に凝ることができた。本作を発表して一躍注目を集めた三島は、売れっ子作家となり、小説と戯曲を次々に書いた。文体からは迷いが消えた。

 三島が三島になる生成過程が刻印された作品。それが「仮面の告白」。その生々しさがマグマのように沸騰している。三島としても一回限りの作品。一種の通過点だった。

 わたしは大江健三郎の「飼育」を思い出した。短編小説をいくつか書いた後に、その総仕上げのように書いた「飼育」には、文体との格闘が生々しい。そこを通過した大江健三郎は、やがて「個人的な体験」と「万延元年のフットボール」に行き着くが、その軌跡の中での「飼育」と、三島由紀夫の「仮面の告白」とは、同じような位置にある。

 ‘仮面’の‘告白’とはどういう意味か。仮面を着けて真実を告白するという意味か。そうとるのが素直だが、必ずしもそれだけではない気がする。この場合の真実とは、端的にいえば他人とは異なる性的傾向だが、その告白にとどまらず、生そのものの他人とのズレの意識を、どのような仮面の下に隠しているか、その仮面の告白でもあるようだ。

 ズレの意識の苦しみが、本作には渦巻いている。わたしはそこに惹かれた。わたしが共感をもって読んだ初めての三島作品だ。

 三島が自決した日、わたしは神田の古本屋にいた。何気なく入ったその店の古本が山積みになった片隅で、店主と数人の客がテレビを見ていた。異様な雰囲気だった。わたしが尋ねると、だれかが「三島由紀夫が自決した」といった。わたしも異様な緊張に襲われた。それから47年たった今、三島が起こしたあの事件は、妙にリアリティを増してはいないだろうか。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「ベルギー奇想の系譜」展 | トップ | パーヴォ・ヤルヴィ/N響 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

読書」カテゴリの最新記事