Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

アラベッラ(フランクフルト歌劇場)

2017年05月15日 | 音楽
 リヒャルト・シュトラウスの「アラベッラ」。前日のクシェネクの3つのオペラに比べると、観客の心を揺さぶり、甘く酔わせ、ほろりとさせる手練手管のなんと見事なことか。要するにわたしたち観客は、シュトラウスのその手練手管に翻弄されることを楽しみに出かけるわけだ。

 演出はクリストフ・ロイ。舞台後方に何枚かのパネルがあり、それらが左右に動くにつれて、舞台の奥の出来事が見えたり、隠れたり、またパネルが完全に閉じて密閉された空間が出現したりする。ロイが時々使う手法だ。パネルの動きが少々煩わしいが、馴れてくると、ロイがその場面をどう見せたいのか(その場面をどう捉えているのか)が分かり興味深い。

 いつものとおり、ドラマをストレートに表現し、奇抜なことや余計なことはしないのだが、最後になってドキッとすることがあった。すべての真相が判明し、アラベッラとマンドリーカが元のさやに納まり、またズデンカとマッテオも結ばれる、と思いきや、マッテオは困惑して立ち去り、ズデンカは一人取り残された。

 それはそうかもしれない。マッテオの親友だったズデンカは、じつは女性で、今までマッテオが受け取っていたアラベッラからの手紙は、じつはズデンカが代筆したもので、しかもたった今、暗い部屋で結ばれた相手は、アラベッラではなくズデンカだったといわれても、マッテオはそう簡単に受け入れることはできないだろう。

 「アラベッラ」=「コジ・ファン・トゥッテ」という指摘はよく行われるが、それを演出面でこれほどあからさまに、むしろ「コジ・ファン・トゥッテ」とパラレルの形で示した例は、わたしには初めてだった。今まで経験した演出は、ほのめかす程度だった。

 では、アラベッラ=フィオルディリージか。それがそう単純なものではない点が、シュトラウスとホフマンスタールの名人芸だ。アラベッラはフィオルディリージを抜け出して、‘自分自身に満ち足りている女性’という一つの典型に達している。オペラ史上唯一無二のキャラクターだ。

 アラベッラを歌ったのはマリア・ベングッソン。上品な美しさを持つ歌手だ。マンドリーカを歌ったのはジェイムズ・ラザフォード。ワーグナー歌手。たしかにこの役はワーグナー歌手の声がないと務まらない。指揮はシュテファン・ゾルテス。足を踏み鳴らし、歌手やオーケストラに細かくキューを出し続けた。終演後、盛大な拍手が送られた。
(2017.5.6.フランクフルト歌劇場)
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