Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ニュルンベルクのマイスタージンガー(ミュンヘン)

2016年08月07日 | 音楽
 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は、ワーグナーの諸作品の中でも傑作の一つだが、問題作でもあると思う。まずハンス・ザックスの幕切れの大演説。「名もないマイスターたちを敬いなさい」という部分まではよいが、その後の「ドイツ的なものが外国勢力によって脅かされている」という部分が気になる。

 次にベックメッサーの描き方。批評家ハンスリックのカリカチュアとも、ユダヤ人のカリカチュアともいわれているが、ともかくその描き方には底意地の悪さが感じられる。これはワーグナーの根底にあるものだ。たとえば「ジークフリート」のミーメにも共通している。ミーメはジークフリートの育ての親だが、ジークフリートに殺される。ジークフリートには良心の呵責などない。

 以上の2点について、今回のダフィット・ベッシュの新演出は、真っ向から向き合い、解決を図った。まずハンス・ザックスの大演説だが、拍手喝さいするマイスターたちを尻目に、ヴァルターとエファは肩を抱き合って立ち去る。2人は少しもザックスの大演説に説得されていない。がっかりするザックス。

 次にベックメッサーの描き方だが、上記のがっかりしたザックスの背後に、ベックメッサーがピストルを持って現れ、銃口をザックスに向ける。アッと思った瞬間、ベックメッサーは銃口を自らに向けて自殺する。いじめ抜かれたベックメッサーは、もう生きていくことができなかった。そこまでいじめたのはワーグナーか、それともそれを見て面白がっていたわたしたちか。

 今まで、ハンス・ザックスの大演説については、ペーター・コンヴィチュニーのハンブルク演出も疑問を呈していた。だが、ベックメッサーの描き方については、今回のように問題意識を持って見つめた演出は、わたしは観たことがなかった。

 指揮はキリル・ペトレンコ。わたしはこの人のオペラは初めてだったが、想像以上だ。剛直な押しの強さとは対極の、揺らめき、変化に富み、表現意欲にあふれた指揮。たとえば第2幕の前半でハンス・ザックスが第1幕のヴァルターの歌を反芻し、その捉えがたい魅力を追っているとき、オーケストラから漂ってくる香り高い音楽に、わたしは度肝を抜かれた。

 ヴァルターを歌ったのはヨナス・カウフマン。評判どおりの輝かしい声だと思ったが、弱音になればなるほど、発音が篭もるようなところがないだろうか。
(2016.7.31.バイエルン国立歌劇場)
コメント (1)
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