おやじの言葉

とっくに天国へ行ったおふくろの言葉を思い出していると、今度は先に天国へ行ったおやじのことが思い出された。おやじの言葉を思い出そうとしたがおふくろほどすぐは浮かばない。それでも浮かんできた言葉は、人を評するときに、≪カタイ≫≪義理堅い≫否定的な意味で≪偉そうに≫≪ハデ≫《ゼイタク》だった。お袋も親父もいまだに残る言葉は人格を表すものが多い。思い出す言葉は当時の風景のように透きとおったものを感じる。あの風景と一緒にあの言葉も地上から消えたような感じがする。単に自分が年をとって思い出すものが美しく、目の前の現実がくすみ、壊れかけてるだけなら良いのだけど、と思う。

御蔭で、3度の飯は銀シャリ以上のものを喰って、何不自由無い暮らしに、極楽トンボになったのか、それは棚に上げ,バチアタリを覚悟して、この現実を

天まで届け!と大きな声で告げ口すると、

「焦るな!ゼイタク言えば切が無い、天国から見ていると、地球は、なるようになっているよ。大丈夫!」の声が地から沸くように聞こえなくもない。     そりゃーそうなんだけど‥‥

 

 

 

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世間ずれ

とっくに天国へ行ったおふくろさんが、世間話の中で、人の≪世間ずれ≫を卑しい人格であるかのようによく言ってたのを、ふと思い出した。
  目の前のテレビで、聖書の≪自分を世に倣わのではなく、理に合わせて
創る≫の解説に触発されたのかもしれない。
  キリスト教どころか、学校も出ていないおふくろは、教養とは程遠い、仕事と世間の中ばかり歩いていた人だ。その人が≪世間ずれ≫と卑しんでいた。
 今は、学校を出ている人はどこにも山ほどいるし、それに似たような肩書きを売りにして、テレビに出ている人たちはサンプロだけではない。
 おふくろさんが生きていたら、殆どの出演者は、「世間ずれしてる」と中身と関係なく言うだろうと思う。
 世間ずれは(ずる賢い)と同じような意味だろうが、なんで?と思うような人が、テレビに堂々とよく出てくる。
 
  流すテレビ局も見ている我々も、見慣れたのか?鼻が利かなくなったのか?
    戦前も戦後も現在も【教育】は恐ろしい。

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サンデープロジェクトが見せたもの

例の田原さんのサンプロを見た。内容の酷さはこれまでも書いてきた通りだ。今日は、さらにエスカレートしてる感じだったが、憤懣が高まるのではなく逆に今日の日本列島の現実を番組の作りを含め在りのまま映し出してくれたと、(なるほど)と納得してしまった。激しく対立し、やり合っているかに見えるが、どの人も内向きの話しばかりで、我々を取り巻く、地球に浮かぶ日本列島の現状には全く目を向けることは無い。登場してきた人たちが温暖化や新インフルエンザが遠い先の話だと関心が無いとしても、経済への関心は持ってもらわなくてはならない立場の人たちなのに、現在の日本や世界の経済の異変に全く反応しない、道路がどうだ?の類の話で終始。世界や日本が高物価と景気後退の渦の中にあり、地球資源にまで原因がおよび打つ手を失っている昨今の現実を前に、今日の経済状況は口の端にも乗らない。この番組の映像は、社会の全体的な機能不全の象徴的な映像だと思って見た。ただ私が、深刻にならなかったのは、現実を在りのまま映し出してくれたような気がしたからである。教員時代、日記は≪あったことを在りのまま書く≫よう求めた。事実に目を向け、認識し、表現できることが、そこを乗り越える前提だと考えたからである。「在りのまま書く」とは言うものの、そこまで子供の心を動かすのが仕事だった。だから、今日の番組を見ていて、どこかほうとしたものを感じた。社会の機能不全はそう簡単に治るものではないし、今日の番組はある意味で、遠い遠い道の緒に着いたとまでも行かないぐらいのことだろう。でも、いつもと違ったものも感じ、わるい気持ちばかりではなかった。
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