もう一個、書いておきたい

NHKテレビで、阿久 悠・城山三郎・小田実さんを偲んだ対談番組があった。どの人も凄い人だったんだと、感動以上の尊敬したくなるような気持ちになった。
見た後、思ったことが一つ。
人の経験は子供時代から始まる。戦前子供であった人はそこから始まるし、戦後も10年1時代とするならいくつか時代を重ねたことになる。
 よく、原爆や戦争体験の風化が危惧される。それはそれなりの意味はあるが、その影で戦後の各世代の経験はおろそかに扱われていないだろうか?と思った。おろそかにするのは年長の我々である。
 歴史や社会を論ずるとき、経験のあるなしを根拠にすることがあるが、論議では不公平かなと思った。経験のあるなしは大事だが、経験のない人の別の経験にしっかり耳を傾け、
分析し尊重し推し量ることは、もっと大切かなと思った。
 行き詰まった社会で出口を探すのに、時代的に新しい経験はその中に(古い人とは)別の言葉で出口を表す言葉があるのではないだろうか。どうしても書いておきたかった。

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2007→2008

今日は大晦日。
 テレビも「行く年・来る年」の特別番組が組まれる。テレビ朝日だと思うが、6:00から11:00まで「どうなる2008日本 辛口論客が一挙出演 」
 政治家からテレビでよく見るコメンテーターなどお馴染み人たちが総出で、今年の大連合から偽装や教育や離婚まで話は及んでいた。
 その中で消費税か国庫の無駄遣いの解消かで自民・民主の政治家を中心に、大声でバトル的に議論してた。
 しかし昨日の朝日新聞同様、議論の範囲は司会者も含め「消費税の値上げか無駄遣いの解消か」この限られたもので、その範囲を超えた発想で話す人は一人もいない。
 どの人も成長路線・お金の移動(分配)の範囲のなかの話で、ここに至った経過や・今後の産業経済の国際的な環境を視野にいれ論ずる人は一人もいない。
 国民が今後食べていくには、最終的には必要なものを生み育て作る以外ない事は自明。状況が迷い込んでいるのに、出口を探す論議も迷い込んでいる。
 我々はその情報しか与えられない。私のような暇人はいいが多くの人はを忙しくマスメディアを疑ったり、考えてる暇はない。結局テレビや新聞の論調が世論になり民意になって進むしかない。(自分の言ってる事だって本当に自分の認識から生まれた言葉かどうかは、自分では分らない。)
 とにかくこんな状況を彼我の入った俯瞰図にして見ることを今年は知った。来年は地球の自然や命を目印にして暮らしの基盤である産業のありようを視野に入れ、少し詳し俯瞰図を描いてみたい。これが、今年の到達点のようだ。
 新年は禅寺で迎える。初めてのことだ。
 「初めて」に終わりはないなあー。
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明日の日本への選択肢

小見出しは、朝日新聞(30日)の論説の見出しである。サブに「激動07年からお08年に」とある。論説委員の主筆である、船橋洋一の文。影響力では大局の指針を打ち出すジャーナリストの第一人者ということか。世界と日本の07年を環境問題から世相に至るまで振り返りまとめた後、国民に選択肢を的確に示したいとし、「成長も改革も開放もどれも必要」とし「消費税を含む税制改革を煮詰めるべき」と、促す。これは、意識的なメディアの世論操作かタブーか発想の貧しさのいずれでしかない。(これが08年へ向けて大新聞が国民に発するシナリオだろうか?と疑問に思う。行き詰まった原因を探ることなく、従来のシナリオでアクセルを踏む。選択肢と言うからには、経済成長も改革も開放も、そのあり方そのものが問われていいはず。消費税などはその後の作業だろう。そこを飛ばして既成事実であるかのようにアクセルを踏む。朝日の影響力やメディアの中での位置から言って他の新聞やテレビの指針はほぼ見当がつく。世界の経済がマネーゲーム化し、温暖化対策、資源戦略が急がれ、その中で一際、依存性に強い日本の産業経済そのものの在り方(基盤)が問われてるのは、常識的なことだろう。テレビのサンデーモーニング(司会 関口宏)でも特番で3時間近くやっていた。この番組ではマネーゲームや格差・温暖化などから一応「産業」にまで話は及んでいた。本当は、そこから先の具体的な話が聞きたかったが、今日は聞けなかった。それでも、新聞を読んだ後だったので,ほうとはした。
 大袈裟に言えば、今の産業経済の形は、産業革命以来の殆ど習慣化した発想と行動様式だから、産業基盤(構造)
を変えると言っても、難しいには違いないし、一挙に変えられるものでもないがそれ以外にありえない。出口を探ろうともしない水先案内人が、「選挙だ何だ」と言っても、距離は遠く、「夜明けは遠い」と思うだけ。
 「産業基盤のあり方」の問題がメディアや政治の論調に登場し、問題解決の緒に就くのに、何年かかるのかと勝手に予測している。その辺の素早く適切な政治的なリードを国の内外の状況が求めてるだろうに。

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仮説実験(実践)授業

理科教育における仮説実験授業は、民間教育研究団体が生み出した優れた授業の考え方で、テレビの楽しい実験でも紹介されるが、子供も教師も(のり)が違う。 ある意味で仮説実験の「こうすれば~こうなるだろう。」と考えてする実験の考え方は、実際には人の行動・実践(一人ひとりの暮らしから、政治・経済・文化)の全てにわたっている。ご飯を食べるのも、車を運転するのも、結果を予想しての行動である。結果は予想に合致していることもあれば、予想に反することもある。失敗すれば仮説を変更し実験(実践)を繰り返す。試行錯誤的な学習ともいえる。
 ところで、今日の日本の(人心の乱れ)は立場の違いを超えて、殆ど多くの人が感じ、指摘している。(人心の乱れ)の意味するところは、国の成立や存在の意味が問われ、国の基礎を揺るがす重要な目印になる。人心が乱れたと言うことは、色々な仮説実験の失敗を意味する。従って、各分野で仮説の変更が求められるが、特に立法、政策、メディア情報などに関わるところは、仮説実験的な対応が求められる。

今日の状況は、面子や責任回避のため、結果を直視せず政策や方針変更をためらった結果とも言える。

どんな立場であれ、結果を真摯に受け入れ、変更をためらわない方がいい。

 

 

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困った癖

体罰が癖になることは身をもって経験した。
考えて見ると、子供のころから思い出すだけでも癖になった行動は多く、感じ方も行動も多くは癖になったものかもしれない。三日坊主の反対に、三日続けると癖になるものが多い。
話は飛ぶが、今朝テレビで、警察幹部の関与した霊感商法のことをやっていた。思わず、所謂「週刊誌的」だと思った。事件の原因や背景を追うのではなく、事件の意外性や男女関係など皮相的なところを追っている。あれあれと思って、チャンネルを回すと、どの局も似ている。これでは、思考が横(皮相)に進み、縦(因果関係)には進まない。視聴者ははその癖がつくと思った。
 にわかに、「マスコミ」「メディア」の軽さが思い浮かんだ。
 マスコミと言っても我々は発信出来ない単なる消費者でしかない。「世論だ」「民意だ」とマスコミは伝えるが、この情報も相互性はなくメディアの一方的に処理したものでしかない。
 民意を問うとして行うメディアの世論調査自身に疑問を持つ人はどこに丸をつけたらいいのだろうか?
情報伝達で、視聴者に上面をなでる思考の習慣(癖)をつけておきながら、一方的に「世論」や「民意」を「てこ」として利用する。
 
  霊感商法よりはるかに影響は大きく、悪どいと思う。しかしそれが見えないように我々は困った癖をつけてしまった。面白かったり、効き目があると本当に癖になりやすい。(癖になったものをはがすのは、並みの苦労ではない。)

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文化の球体

月から地球を見ると、地球は宇宙に浮かぶ1個の球体だが、地球人が月から見ると、人と自然によって出来た、街も畑もある文化の球体に見える。
 文化の担い手はそこに住む人間だから、月の基地でから地球の観測をした。(勿論、仮定)      

 始めに、60億を超える人間のあかちゃんから老人まで全部に、(名前を忘れたが、)小型でナビゲータのような機能を持った器具を装着させた。(生きてる間は光を放す。)そして観測所のコンピューターのディスプレーでその様子を見、必要に応じ情報を取り出した。

見ていて、気が付いたのは、文化の発展していると思われる北半球は、ヒトが発する光の数がだんだん減少するが、南半球の方は、かなりのスピードで増加している。
 球体は全体として速いスピードで増加し、コンピューターの計算にとると、100年後は1・5倍の90億人になるとのこと。
 ディスプレーを拡大して少し細かく見た。すると北半球は全体の数が減るだけでなく新しい豆電球のような光点は、古い光点との割合がどんどん大きくなっている。

 南半球は逆に、総量だけでなく新しい豆電球の割合が増えている。
 明らかに文化の担い手(人間の構成)に変化が見られる。
また、見ていて気が付いたことは、豆電球の長持ち具合だ。
平均して北半球は長持ちするが、南半球の豆電球は寿命が短い。しかも明かりがついてもすぐ消える者(子供やあかちゃん)も少なくない。ちょっと気になるのは、北半球では、明るく光っていた電球が何故か急に切れたり、光が弱くなったりしている事だった。担い手に何が起きているのか?とちょっと考えさせられた。

 次の実験に移った。地球上の生き物と植物を仲間毎に色分けできる器具を埋め込んだ。
 ディスプレーに、動物と植物の発達の系統図(生物の教科書に出ていた大木のような枝分かれした図)を映し出した。

 すると、なんと言うことだ、生き物も植物も、全体の数が減少し、あちこちの枝の先についていた葉っぱがなくなっている。動植物の大木が枯れてきているようだ。
 以前はあんなに元気に大空へ向かって伸びていた生物の木が、明らかに動物も植物も系統図に映し出された総量も種目も減っている。ただ地下の根っこにあるウイールスだけは新種が増えている。この異変は何なんだ!

 多様化してきた生き物が単純化し減少している。見ていて怖くなったのは、人類の枝の周囲の葉っぱも落ちてきていて人類の周囲が寂しくなっている。しかも人類の葉っぱも、まだらに変色していることだ。秋の汚れた紅葉を見ているような感じだ。

 明らかに文化の担い手やその周囲は変化している。

 次に、ズームアップして日本列島の様子を見た。都市部はどこも高層ビルで車が多い。良く見ると変化は都市部だけではなく、田舎の畑の中にスーパーなどがあちこち、建てられたりしているが、昔からあったお店はシャッターを下ろしたり姿を消している。

人々の着物も、食べ物も、街も田舎もあまり違わない。
 いやいや、地球全体も似たような変化が見られ、落ち着いた多様な色合いが少なくなっている。
 生き物や人間も街の景観もどこも寂しくなった。
 様々な人間が次第に画一化してきた環境のもとで、暮らし方が似てきた。

    地球では人権だ、個性だ、民主主義だと言いながら、担い手の暮らしは、モノトーン化している。
 

月から見ると、夜のネオンのように一見ハデハデになったが
 文化の球体は担い手の人間の異変と同時に、色も単調化して模様としてつまらなくなっている

 、あれ、は自分たちの姿が見えないからなのか、豊かさを勘違いしているからなのか。

普通うに使われる「経済成長」や「テクノロジー」そして「競争力」の言葉だけでなく、身近な全ての言葉や情報を「文化の球体」の上に 置いて  意味を確認した方がいい。
 今日、「掘って燃やす」を産業基盤にした「偽装文化」がいいはずがない。「生み育てる」を産業基盤にした「安心して見ていられる文化の球体」にならないかなあと思う。

(今、普通に語られる、産業基盤に触れない「自然との共生」なんてあり得るだろうか?身辺も自分も、発想や行動俯を瞰図の中に置いてその根っこを気をつけて見てみよう。)

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訂正  風を読む→空気を読む

前の日記のタイトルで「風」を読むと書いたら、遠くにいる娘から、電話のついでに「風」でなくて「空気」だよ、と教えてくれた。「風」より、もっと狭いと、言う。確かにそうだし年のせいか、澱みを感じないでもない。私も、流行の言葉を間違うのだからしょうがないが、‥‥嬉しいもんだ。  18:40
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風は読むが潮が読めない【風潮】

「風を読む」は若い人の間でよく使われるそうだ。
 若い人に限らず、風を読むのは子供から、政治家、学者、リーダーに至るまで徹底浸透しているよう見える。それと反対に、潮を読むのは、徹底して放棄しているようにさえ見える。
 今、目の前の10チャンのサンデープロジェクトで、今年のまとめと今後の日本を、今日の影響力を持った人た(代表的な)人が総(出演)で激論している。見ていると、例えば政権担当の自民党から、それに反対する共産党まで、どれも風を読むことに終始している。違いは、どの風を読み、どの風に乗るかの違いだけのようだ。
  (出演)しているどの人からも潮を読む感覚が感じられない。我々は何の上に立っているか? 我々の立っている地殻や潮の流れは、は固定することなく流動・変化している。流れを深く読まないと、結局、浮遊し漂流せざるを得ない。現在の日本や世界の姿に見える。
  何に目を向け、何を読み取るか。誰もが求められているのではないか。
  子供の心を【掘る】事の大切さを教えてくれた友人がいるが、改めて思い出す。
 (世の中も、木に登って中途半端に目先の風を読んでも仕方ない。上るなら月まで昇って地球を見たほうが良いし、そうでなければ、立っている足元の流れをより深く読んだ方がいい。ニューアンスが少し違うかもしれないが、原因を探ることと、言えるかもしれない。)

【流れの読めない人】これが老人の中で流行る(はやる)といい。 

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リハーサル

この間、○○君から携帯電話がきて来て、                     ○○君 「おい、株、儲かってるか?」    
私   「中国株だから大儲けだよ」 
  ○○君 「おごれよ!」   
 私   「ああ、いいよ。○○君はお酒飲めたっけ?」  
 ○○君 「ああ飲むよ」    
  私  「君んちって、おでん屋だよね。君んちどう?」          ○○君 「ああ、良いよ」    
  私   「ところで先生な、喘息で、時々息するのが苦しいんだ」   ○○君  「もう、そろそろ死ぬかもね」   
 私  「香典、沢山用意しとけよ」  
 ○○君 「入れないよ」         


もう一つは、  
 「今朝、窓下にすずめが来ていたよ!    
 毎日、昼から碁会所に行って、碁をやってるよ!      
  時々、畑へ行って、草取りしてるよ!   
 時々、子供や地球のことを、日記に書いてるよ!     
  月に1度お寺に行って座ってるよ!     
 株で金儲けもしてるよ!   
  他にも好きなことをいくつかやってるよ!    
   けっこう毎日面白いよ!結構いいよ。」      
  今日、府中で、10年前の教え子や親達との同窓み
たいな事 

  がある。  
  世話人のおかげで年に1度、ちょうどこの頃、集まる。  
  どうせ、近況報告が回ってくる。そのとき、上記の会話を披露             

  しようかな?   と、思い浮かんだ。   どんな話になるか    はその時になって見なくちゃ、分らないけど、   お互いに、生の生き物であることが確かめ合えたら (力がわいて)いいな   と窓下の、すずめを見ながら、頭の中でリハーサルをしていた。

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法治国家の意味

政治資金の使途不明で、疑われる大臣も、責任を持つ総理も『法にのっとって処理し、問題ない。』と釈明の言葉を再三聞いた。

 同じように食品偽装でも、防衛庁の汚職でも、今回の長崎の銃の許可したことでも同様の釈明が法を守り法を管理する立場の人から、聞かされた。そして、法の改正や強化が解決策として提起され収束する。
 
 
法治国家だから法にのっとることは当然だが、どこかおかしくはないか?あたかも責任が人にではなく法にあるかのようだ。
 人の全てを法律で固めることが出来ないように、社会をどれだけ細かく厳しく律しても、律しきれない。
 人が法を作り用いるのであって、法を用いる人の責任が先ずあっての事。
責任が免れるはずはない。

 これでは法治国家ではなく責任の放置国家になっている。テレビや新聞で、それを指摘したのを私は見たことがない。組織の上部が責任をとらないこと合わせ、呆れたこと。

だから、人心の荒廃は構造的になっている。
 お金は1銭も要らないから、先ずやってほしい構造改革である。

この改革なくして、不正や忌まわしい事件は止むどころか、増加するばかりだろう。

上記と同じようなバカをしていてうまくいった学校や学級そして子供も、見たことも聞いたことも無い。

社会全体が相当なところまできている。

 

 

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