主要100社採用計画調査

世論調査によると企業の採用基準は最近、書類に絞らず、面接を重視し、対話力や論理的思考力を求める要になってきているという。成績や語学力・マナー・要領を求める会社は0社。また企業の求めるコミュニケーション能力を学生はやや誤解してる向きがあるという。8割りぐらいの学生は試験後「うまくいった」と答える。それは用意してきたことをきちんといえたからだという。会社の求めるコミュニケーション能力は相手の話を聞く能力や洞察力も含めたもので一方的にしゃべることではなく仕事をする上で必要な対話ができるかどうかを企業は見ているというものだった。自分の言葉で話せるかどうかだともいう。付け焼刃は難しく小学校のうちから教育する必要があると経済団体の担当者は言う。もっともだと思う。企業の競争力は総合的な人間力を求めている。今進学などで求める学力とはおおよそ異なることになる。
学校の学級作りや授業形態はますます学力検査対応に変わってきている。私は教育が企業の求める人材作りのためとは思わないが、企業が人間力や人格を求めるなら大賛成だ。
今までも企業の要請が教育行政に深く反映してきた。今までのミスリードに1番早く気がつくのがこれまた企業であるとという穿った見方をすればマッチポンップともとれなくもないが、いいものはいい。行政や、学者、現場の先生・当の学生や保護者からの指摘でない所がなんとも皮肉だ。
企業の競争力が本来の人間力を求める時代になったというなら大歓迎。早速行政的な努力をしてほしいものだ
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学級、学校の偽装建築

今学校は、どこも「基礎学力・ゆとり・特色ある学校・競争・自由化・地域との協力」等々魅力的なワンフレーズ看板がいっぱいだ.ちょとしたら、マンションの「安くて広い」という売り出し広告なみか。
基礎学力が低下してきたといって、授業時間を延ばしたり、学力検査で競わせたり文科省から最寄の小中学校の教室にいたるまで「はちゃっき」(北海道の方言でむやみやたらとがんばることの意味)だ。
ところで子供が学習する学級の状態は今どうなっているでしょうか。
私はどの学年を担任したときでも4月当初の保護者会で学級経営(学級作り)の施政方針?もどきの抱負を話しました。20年近く同じ3つの言葉でした。
それは子供一人ひとりや学級全体の①自主性・主体性 ②集団性 ③文化性 を育てたいというものでした。勿論経験をつむに従いその言葉のもつ意味は大きくなっていきましたが言葉を変える必要はありませんでした。学級作りについて先輩から教わり、本を読み、サークルにも参加して勉強しました。
私が特別だったのではなく当時は普通の多くの教師がそうだったと思います。
職員室でも喫茶店でも一杯飲み屋でも行き着くところは子供の話で、おたがいにしょうがないなーとぼやきながらやっぱりやっていました。
今はどうでしょうか。先生方は遅くまで仕事をしていますが、教育書はおろか新聞も読んでいるかなと思うほどです。学級や子供の話題もずーと影を潜めました。サークルなどは、直近の3校ではほとんど出かけるせ先生を目にしません。それはいいとしても、上記のような
学級作りの話題がないだけでなく、どの教室を見てもそれらしい学級作りが見当たらないのです。長い教職生活の中で教育委員会の指導主事や学校の管理職は器用であったりある分野で精通していて人はいても学級作りの実践家や理論家にはほとんど会うことができませんでした。その辺を系統的に指導したり実践して見せてくれる上司がいないのが今日の現実だと思います。ですから学級作りの技術の継承も暫くは難しいでしょう。ですから 子供たちの学力低下や不適応行動は当然今後も増えるだろうと確信しています。耐震の鉄骨を抜いたような耐震偽装した学級でどうして子供は安心して勉強ができるでしょうか。安心した学校生活ができるでしょうか。
ここでは具体的な論証はしません。ちょと想像すればわかることです。えらそうに言う老人のたわごとと思われてもいい。学級が一つの生き物のように主体的に、有機的なつながりを持って、意味や価値を求める学級の見られる時代の来ることを願っています。学校・学級が偽装建築になっていないか。見破れるかどうかだけの現実があまりにも多い。
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能力別指導(習熟度別指導)

国会中継を見ていたら、野党からの質問に、総理大臣が今日多くの小中学校で実施されてる能力別指導が教育的に大変意味があると答弁をしていた。そうしなければ理解の早い子は退屈し遅い子は学校がつまらなくなるとの弁だ。野党第一党の質問者も、賛意を表明し、そのための人的条件(教員配置)を促し、要求するものだった。学校と塾の役割の違いがわかっているのだろうか。「ここまで来てるんだ。」と改めて驚いた。皆さんはどう考えますか?ここで私が教育論や学校現場における子供たちの実態を述べ,自分の考えを主張する気はない。
ただ、学校の学習の指導体制は、それなりの現場的な現実的な分析が必要なのに、いとも簡単な論理が国会の場で、人気のある一国の総理大臣の口から堂々と話されるのに、違和感以上の驚きを感じた。確かに世の中には、スポーツでも何でも、あることで
名声を得たらその力でやたらいろいろな分野で精通してるかのように用いられたりまた本人もその気になって発言している姿はテレビをはじめ身近にも多く見られる。実際に他にも精通していることはあるが、一般的にはやはり「餅屋は餅屋」
ではないか。権力の場が例外とは考えにくい。こんな非常識が、国会の場で
堂々とやられ、各家庭に流され、どこからも何の声も上がらないこの国の不思議。社会問題にもなっている今日の子供たちの現実との関係はあるのかないのか?私はこれから市内のある子供の家を訪ねる。5年生になって突然医師に「自閉症」と診断され,学校へ行くのを嫌がってる男の子の家だ。勿論、親もひどく慌て落込んでいる。子供たちに夜明けは遠いようだ。
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