ワレは大ホラ吹き

昨日は碁会所も休みで退屈だったから、午後は一人で京王線で新宿に出て内回りの山手線を一回りして帰ってきた。どこも下車しないから山手線はタダかな?と期待したがやっぱりカードが賢くて通してくれない。

用事のある時は山手線の一周は結構長いが、電車の内外を眺めながら乗っている分には結構楽しい東京めぐりだった。

あそこさえうまくパスできれば、もう言うことなしだ!と心密かに思うところを見れば、

ワレは、「大自然中心」」と大ボラ吹きながら、根はせこいことに頭を使う(人間中心主義者)なのだ。

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well being

地上は荒れ社会は行き詰まりその上、無感覚な情報が飛び交っているのだから、暗い気持ちににもなるものだが、そう単純でないところが大自然と言うものだろう。

何はあっても四季はめぐり、新しく生命は誕生する。100年もせずに現在は昔話になる。

少し気がかりだが、そこまで付き合わなくても良し(well being)としよう。

《()内は50年以上も付き合ってきた(いい状態)の意味。》

 

 

 

 

 

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前祭り

マスコミは「アベノミクス」と国の経済政策をブランド化し、同じ口から「丁と出るか半と出るか」と博打に例え、丁に期待するかの情報を流し続けている。

政府の顔ぶれと物言いはそのイメージにピッタリではあるが、不謹慎の感を免れない。

しかも、この政策の論理的な検証を曖昧にしたまま実行に移されているが、期待を煽った責任をマスコミはどうするつもりか。

「アベノミクス」は、(私には)非科学的で到底成功するとは考えられない代物である。

株高だ円安だと国中を沸かせ踊らせているが、これが経済の何を表しているか、しっかり解説してほしいものだ。後の祭りでは困る。

 

 

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厚かましいメディア感覚

山口の補選で自民党が圧勝したことを受けて、目にした全ての新聞とテレビの会社は「民主党の無力」と社説やニュース解説で取り上げた。

メディアが揃ってこのように取り上げた事に、うすら寒さを感じた。

戦前のメディアが揃って大本営発表に輪をかけて報道していたのは歴史的な事実だが、

支配権力と一緒になって広報宣伝するマスメディアの役割は戦後も基本的には変わっていない。

果たして、戦後史でそうでなかった例は有っただろうか?当たり前とは言え気持ち悪いものだ。

予めキャンペーンを張り、政府与党の政策遂行を手助けすのは例を挙げるまでもなく既にぱターン化している。

今回に限らず、過去の国政選挙は選挙前に結果は、選挙前にほぼ見当がつくものばかりだった。

要するに、国民はマスメディアの情報によって投票行為をするほかないのであって、選挙に至るマスコミの報道を観察していると、素人でも事前に結果を予測できる。

当然、マスメディアは立場上の都合もあるだろうが、分かっている物とばかり考えていた。私のカン違いだろうか?

敗因が民主党にもあったのは確かだが、だからと言って大きな仕掛けを作っているマスメディアが原因を1政党になすりつけるのは正しくないし、社会的にはそれ以上の問題を孕む。

一方的に流すメディアの情報の妥当性を検証もせず、それを報道しないのは、昔も今も体制の如何を問わず多くの国でなされているようではある。

マスメディアの情報に異議を唱える情報を紹介して初めて公正な情報になるのであって、今のマスコミ情報は情報社会では社会的タブーになっている。

 

 

 

 

 

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企業と国家

企業は利潤の目的を追求する上では、国籍は殊更問題ではない。

企業は利潤を得やすい合理的な環境や条件を選ぶべきであり、実際も国内外を問わずグローバルに選択し移動している。

従って、目的の違いから国益と起業益はもともと一致しない。

国民は国家の統治下にあって、企業の収益を分配して暮らしている。

国家と企業が協力しなければ国民の生活も国家の統治も成り立たない。

国家は場所を離れることが出来ないが、企業は自由に国境を越えて活動できる。

国家は企業を管理監督する立場だが、国家にとって企業は無くてはならない必要条件だが、企業にとっては殊更なくてはならない必要条件ではない。出来れば管理監督の規制を外し、企業目的に邁進したいところである。

経済政策における『規制緩和』の根源はここにあり、本来国益と起業益の矛盾するところだが、

今はカンミン一緒に「規制緩和」の合唱

矛盾の解消は「規制緩和」などでなく国家と企業の両者にとって益する(政策化)が必要なのではないか。「アベノミクス」のように今言われてる《経済政策》は政策化された経済政策だとは到底考えられない。

国家権力の上位に企業が君臨するのは当然の成り行きとも言える。

  

 

 

 

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 狭すぎる空間意識

私たちは地球と言う宇宙に浮かぶ球体に存在していることを知ってはいるが地球を生活空間意識として持っているわけではない。

それは、国家であっても同じで、生活空間意識はより狭いものになる。

人の判断や行動は、知っている空間によるのではなく、持っている空間意識、特に生活空間意識に左右される。

しかし、それは人間が自分を中心に思考する性質を持っているのであって、物事の関係は各個人を中心にしてはおらず全体的な関係の下にある。

国家中心の世界観で世界政治や世界経済が進められてる現在、世界を中心にし、さらに地球を中心にした国際関係や国内政治への転換が求められている。

それは、社会の全分野に通底した課題だと思う。

 

 

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子孫への立場

今日は政府主催で(主権回復位の日)としてお祝いすると言う。

お祝いするような主権って何の事?どこにあるの?

地球を痛め借金まみれにして返す当てすらない私たち(飛ぶ鳥後を濁さずの逆)は、子供たちに謝罪もせず、「一緒に祝おう」なんて言える立場だろうか?戦陣に散った人たちにだって顔向けできない。

立場を忘れてはしゃいでいられるような状況だろうか?

またもや、政府のうわまいを行くメディアの感覚マヒ。

 

 

 

 

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せっかちでは済まされない

グローバルな視座の獲得が課題だが、既に表現されている物が全てそうなっているわけではない。

その時、表現されている結論の是非を論じるのではなく、視座の違いを確認し合いそれぞれを共有するのが、話し合いの作法だろうとは思うが、私のような古い時代のせっかち者には難しい。

類似したものに牧師やお坊さんや時には先生の(お説教や講演)があるが、特殊な例外を除いて一般的には作法を欠いた古い学習法と言えるかもしれない。

 

 

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しっかり残っていたお茶の時間

裏の農家の玄関先でお茶を頂いた。

都会では全く見られなくなり、暫く忘れていた慣習だが、至福の時だった。

会話らしい会話も久しぶりだった。

見当がつかないぐら先の話かもしれないが、都会でもこんな時間が過ごせるようになってほしい。

帰りには、ホウレンソウを戴き、ねぎの苗をもらって、家の前の畑に植えた。

桜の花びらが風にゆらゆら雪のように舞っていた。

 

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内橋 克人

宮沢賢治イーハトーブ賞・NHK放送文化賞を受賞し、「始まっている未来」「共生の大地」「共生経済が始まる」等の著書のある内橋克人(あえて敬称をつけたくない)は最も長生きしてほしい人の一人。

これほど知的で心を許せる社会的影響力を持った人はたぐい稀で、心の底から長寿を祈りたい気持ちになる。

 

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