所信表明演説の全文を読んで

夕刊で演説の全文を割合丁寧に読んだ。役人が作ったのか本人が作ったかは分らないが、学級の子どもの私の作文評価の基準で言うと、3の右上に小さな丸がつくことになる。こんなに長い文を褒めの評価を意識しながらも、全分野漏らさずしっかり書いている。優等生のようだ(さすが しっかり晋ちゃん。 ついお正月の青年の主張を思い出す。 小泉さんのときは新聞を切抜きにしたが今回はその気になれなかった)。私は作文の評価では(誤字脱字、表現上のミスがあっても)「へそ」のあるなしを最重要視した。演説は拍手を期待するような表現の工夫はあるものの、最も大切なへそが無い。私の言うへそとは人間の中心であり、雷様が狙う(最も大切なところ)。残念ながらそれがない。私の長い教師生活で担任は学級の経営と指導を任せられた責任ある立場だった。新しい学級を受け持った4月の最初の保護者会で話は「所信表明演説」と駄洒落と言うかテレもあってそういっていた。ある意味で似たところがある。この場合も学級の全部の活動で求める価値観《法則》と同時に対極になるが具体的なところのの指摘が必要だった。《例えば<子どもの集団性>は法則を意味し、活動における<日記指導の説明>がここで言うへそ。》そのようにして社会《学級》全体を見るわけだが、一つ一つはバラバラではなく関連しあっている。そして回転軸とか核と言いえる具体的なところがあるものだ。何を大切に考えるかの価値観《全体に通じる法則》と具体的な方法の回転軸をみんなで共有できたときそのクラスはまとまりのあるいい学級ができるものだ。勿論、演説より日常の実践が問われる。ただ担任の全体的な価値観《法則》とそれを回す具体的な回転軸を明確に持っていないとまとまりようが無い。老爺心ながら今の安倍さんではかなり難しそう。今後の努力に期待はするが、我々はそのことを承知して今後を考えないと、またまた意外に醜悪なことに出会うことになる。

「美しい」は価値観には違いないし大うけしそうな言葉だが現実的に法則性があいまいだ。回転軸にしても「教育基本法や学力やモラルで」は具体性に欠け具体策が無いことを意味する。これでは皆で共有した回転軸の役割は果たせない。下手したら政争の具になりこのことで国民はさらにばらつきかねない。教育とは正反対の結果にさえなる。こんなことでは担任は勤まらない学級担任で言えば、その担任は子どもや活動の意味が見えないまま、ものを言っていることになる。

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「美しい国日本」に期待する

今日、安倍新総理大臣が国会で、所信表明演説をする。昨日新総理は記者会見で「美しい国日本」の中身を国民に分りやすく話すと述べていた。この総理のワンフレーズは現状の日本があまり美しくないから「美しい日本」を目指しているのだろう。私も全く同感だ。是非本来の美しい日本にしてほしいと期待している。現状を見て美しさに期待してることを、演説の前に書き記しておきたい。(その方がより新首相の目指している中身が理解できるはずだから) ①地球の自然と人類を守ろうと努力する国。 ②休みには戸外で子どもの遊ぶ姿の見られ、子どもは生まれてきてよかったと大人は自分たちより子どもの方が幸せになるだろう思える国。 ③自殺や孤独死を心配しなくていい国。 ④家族が一緒に晩御飯を食べられ、家族の笑い声の聞こえるのが普通な国。 ⑤国の内外とも争い戦って解決するのではなく穏やか に解決しようとする国 ⑥上下関係だけでなく智恵を出し合って問題解決しようとする国⑦メディアが誠実で文化の香りのする国。 ⑧うその少ない性善説が普通の国⑨犯罪や病気を一方的に責めたり知らん顔しない暖かい国。 ⑩お金やものより気持ちや命を大事にする国
本当は書き出すときりが無い。美しさを失ったのも美しい国を取り戻すのも人為だろう。そこでは政治やそのリーダーの役割は大きい。私は期待はしているが今までの発言や
流れを見ると「より醜悪な日本」にならなければいいと心配している。表面的な言葉のあやに流されず、しっかり言葉の奥を聞き取りたい。実際は首相が現状を具体的どのぐらい把握し分っているかどうかにかかっている。特に教育については現実を脳裏において話を聞きたいと思う。

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死刑判決は仕方ないとしても?

昨日、奈良県の女児殺人事件の小林被告の裁判で死刑が宣告された。刑の重さは極悪非道で今も反省の色も見えず、法や事件の詳細を知らないない私は、必ずしも死刑は反対ではないので、仕方ないのかなと思う。ただこれに関して疑問に思うことが3点ある。 ①医師から(人格障害)と診断されているが、弁護士はじめ検察官裁判官はこの障害について判断できる立場いない。医師の判断はどう解釈しているのだろうか? 解釈可能か?(医学・心理学的にも判断は人によって異なり不確かで難解なはず)②判決理由の中で〈更正不可能)と断じているが、そのような人間はこの世に存在するか? 哲学っぽくなるが人間はもとより全てのものは変化していると言える。 まして生きている物(者)が変化しないとは誰が言えよう。もし言うにしても、補足的な説明を加えた丁寧さが必要ではないか。あれでは〈極刑以上の極刑)を望んでいる被害者の親も悔しさだけでなく、判 決理由にすっきりしないものが残るのではないか。「善人なおもて往生を遂ぐ, 況や悪人おや」「罪を憎んで人を憎まず」ではないが、人間全体を見る人間観が根底に必要ではないか。 ③メディア関係だが今まで小林被告に関わってきた人たち(教師でも、近所でも、親戚でも、配達所の人でも〈申し訳ない)の言葉とそれを悔やむ涙がどこからも伝わってこず見られなかった。母親が生きていれば、きっと涙を流しただろう。そういう人のいることが、被告に罪の意識を自覚させ、今後、社会にとっても事件をおさえる抑止力になるのではないだろうか。重罪の意味の下敷きが無い感じがする。

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マスメディア(報道)と現実

先日,中東の戦時下の国の市民が、「戦争状態はメディアの報道では実際は分らないと思う。いくつかのブログを繋ぎ合わせて考えてほしい。そうしないと実際のところは分らないでしょう。」と話していた。戦時下の報道は国のいかんを問わず昔も今も変わらないのだなと思った。ところで、戦争をしていない国はどうなのか?いまの日本はどうか?どの国も国際的には経済戦争、国内的にも色々な形で、権力闘争が繰り広げられ単純にそのメディアの酷さは戦争下と比較できないだろう。今、日本は戦争をしてない「平和」と言われているが報道はどうだろう?(少なくとも自然や家族や子ども達も含めた共同体や人間関係の壊れ方は戦前以上ではないだろうか。)だとすれば、今のメディアの報道も、この論理・文脈にあるのは当然。具体的に、私は少なくとも教育と経済の報道は大本営並と思って見ている。勿論全ての報道とは思わないしメディアで知った現実も少なくない。しかし私達が学校で「社会の出来事を客観的に伝えるのがニュースだよ」と教わりまた教えもしてきたが、その説明はまったく事実に反すると今は思っている。そのこと事態が、お上的な一方的な説明だった。メディアの報道を見ていると全体的に事実が隠されたり、まげられたり、事実に反した報道、事実から目をそらせるような報道があまりにも多い。前述した中東の市民が言ったように、ブログでも何でも良いから、現実や事実を知る術を自分なりに身につけなければならないのだろうと思う。「本来のニュース」と「実際に伝えているニュース」を同じ言葉で教えてきたようで、悔やまれる。例えば今ニュースで「景気がよくなった」と伝えるが、本当にそういえるだろうか。メディアで使っている「景気」の意味は一般的な「景気」の意味ではないことを補足説明しないと、従来の日本語の意味(例えば「景気ようおますか?」「いや さっぱりおます」など庶民の挨拶としても使われていた「景気」の言葉の意味)では虚偽(ウソ)になるはずだ。これは一例だがこんなのが教育はじめ多くの分野に見られる。多くの人々が知っていなければならないような分りきっている大事なことを報道しなかったりしているものもかなり目に付く。(専門化と言われる学者や公的機関が上記のことをを堂々とやるから始末が悪い。)だから庶民から見ると意外なことが多く、意外なことが次々と頻発する。先が見えなく不透明で不安な世の中になるのは当然なこと。この問題を愚民化政策の結果と言う人もいるが、教育的には国民の主体的な人格形成(教育基本法第1条 教育の目的)に関わることで基本的な学力不足を意味する。子どもの学力不足以前に大人の学力不足を問題にしなければならないことなのだが。現実的にはどう見ても負け組みなのに勝ち組の言葉を得意げに言ったり、現実的には被害者であるはずなのに加害者の応援団になっている姿を身近でも多く見聞きするのが普通の時代になってしまった。
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学校の内側から見た(日教組 )

巷で学校の話が出ると、必ずと言って良いほど「日教組」の批判がでてくる。自分のことも含め、学校内部から見た教員組合について率直に書いてみる。私自身は組織嫌いのところがあり、学生時代、安保闘争や自治会活動も全くと言って良いほど関わらなかった。誘われても逃げ回っていた。恋人とキリスト教会へ通い洗礼も誘われたが自由を奪われるようで組織に入るのが怖く、しかし日曜学校の先生をやたっりするうち3年後ぐらいにやっと受洗した。しかし同時期、禅寺にも通い禅の研究をし卒業論文をはじめその後のライフワークになった。《今も一つだけテーマを求められたらそれになる)埼玉で小学校の教員になった。その頃は革新の運動が盛んで革新自治体も次々増えていった時代だ。教員40人近くいた学校では校長教頭を除いて、殆どの先生は組合に入っていた。私は埼玉で2つの学校を経験し組合加入も勧められたがその気になれず全て断った。私の目には、組合の先生達は研究熱心で誠実な方も多くいたが、出世の踏み台にしたりする人や、社会党と共産党の勢力争いも気になった。私自身の教育の理想からちょっと離れた現場に失望し、結婚し子どももいたが、中心都市の東京を受けなおした。東京に来て教育委員会から学校の希望を聞かれ「研究熱心な学校」と答え、足立区のある学校に配属された。驚いたのは組合員の比率はそんなに高くないが組合は強いと感じた。会議の白熱振りは、埼玉どころではなかった。出世の土台にしている組合員は見当たらなかった。組合の先生とも議論をよくやり、組合に何度も誘われたがやっぱり警戒して入らなかった。何年か仕事をしていると、よく勉強し、子ども達に慕われ親が信頼しているのも殆ど組合いの先生である事実や、表向きはと別に管理職が信頼してるのも、熱心な組合の先生だと分った。自分なりに教育への理想があったので、時間はかかったがそれを見て組合に入った。組合の内部から組合や学校や行政などを見るようになった。外から見るよりはるかに組合の先生方の多くは犠牲的に仕事に打ち込んでいた。組合の会議と言っても殆ど、子どもや教育の話だった。休日でも自費で民間の研究会に出かけるのも組合の先生だったし、勿論教育関係の本をよく読んでるのもその人たちだった。しかし現在も私は日本の教育で日教組の先生達の果たした役割の大きさは大いに認め期待もしているがるが、現状で良いとはぜんぜん思っていないし不満を持っているのは事実。いろいろあるが、徹底した文化論・教育論にまだまだなっていないと不満を感じるからだ。(例えば地球の温暖化をはじめ地球の将来をどう考えているか。不登校や発達障害の課題も実践的な把握や提言に私は非常に不満)しかし私が求めているのは日本の歴史的な到達点への不満であり表面的に表れる政治や行政、労働組合・一般市民・保守革新・右左に関係ないことに退職してやっと気がついた(当然自分自身もふくめてのこと)。行政やメディアや一般市民による批判や組合つぶしにより、今は組合に参加する人は殆どいなく活動も沈滞している。(当然同時にほとんどの教育民間団体も半壊してしまった)ある意味では日本の政治は成功したのかもしれない。しかし、しっかり見ておいてほしいのは、戦前の反省のもと憲法で保障し、戦後、文部省も勧めた教員組合をつぶすのは一つの考えだろうが、同時に現在の日本の学校教育、子ども達の教育や心そのものも壊し、今日に至っているという事実である。時期的に一致しているだけでは説明されない。いまは先生方はどの民間教育団体にも顔を出さないどころか、教育雑誌を読む姿も殆ど見られない。(最近は売れないから本屋でも教育雑誌は置かなくなった) 学校内では先生方の人間関係もばらばらになり、世間をあっと言わせるような学校に関わる子どもの事件も話題にすらならない(話を持ち出すと場違いの感じになる)。職員会議も単なる校長からの指示連絡機関になり会議の体を成していない。最も問題なのは子ども達の状況が学校長はじめ誰も全体として把握できなくなってきている。不登校の子がいても,籍だけ学校にあり、学校長も担任も含め顔すら知らないような実情すらでてきている。(組合の先生がものが言える時代はこんなことは考えられないことだった。不登校・引きこもりが増加したり学力低下が問題になったのも組合の退潮と時期を全く同じくしている。外部の人でも先生同士、学級の子ども達がバラバラになってきているのは感じてきているのではないか)。校長は学校を代表する立場にあるが、教育委員会が学校の現状を尋ねても、代表してものが言えるほど、学校や子どものことを把握している校長がいるとは考えられない。皆無だと確信を持っていえる。それは以前情報を交換し議論していた時代から出合った管理職で全体を把握していた人は一人もいなかった。多分私もできないだろう。それ自体無理なことではないか。子供たちの実情も含めると、個人に学校の全てを尋ねることの限界を知るべきだ。教育行政はそのことを知ってそれを前提にことを進めるべきなのに、形式的な責任者イコール代弁者として、全てにわたって掌握していることを前提にことを進めるから今日のように子どもがおいてきぼりになり、子どもも教師も親もばらばらになり、学校教育が壊れてしまったは当然の帰結。当局はいまだにそのことに気がついていない。 現在はさらに、壊れた学校に教育改革の美名で競争の市場原理を【また】上から持ち込もうとしている。こと教育に関して言えば絶対的な力を持った行政も中毒患者のように状況把握と自己コントロールができないでいる。(今後益々上意下達の体制は「支援」の言葉で強まり校長をも上から縛るはず)子育てや教育の原理はお上にあるのではなく一人ひとりの子どもが持っている事実が全く分っていない。これは難しい理屈ではない。誰でも自分自身や周囲の生き物全てがそうなってはいないか考えるとすぐ分ること。個体が成長発達の原理を内包している。

静かに農家の仕事を見るがいい。

 

 

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校長「都には逆らえぬ」の記事

  「日の丸・君が代強要」違憲判決を見て都内のある高校の校長先生は「都教委が巧妙に作った国旗・国歌を強制する《仕組み》についてこの判決は問題点をストレートに判断したといえる」と評価していた。「都教委には物が言えない雰囲気がある。逆らえば自分がどんな目にあうかわからない。だから今後も私は教職員への対応は今までと変えられないだろう。いままで(自分が)やりすぎだと感じても職務命令に従わなかった教職員を処分してきたこともある」との談話を朝日新聞が伝えていた。匿名ながらこの校長はよく正直に話し、良心的な先生だと思った。行政と管理職の命令服従関係はそのまま学校内では、管理職と一般の先生の関係に繋がる。今は単に君が代や日の丸のことだけでなく、教育内容や教育方法はじめ殆ど全面的にこの関係が強いられており、個人的なことでも、それこそおかしな話だが飲み屋へ行っても、退職後であっても続く。《周囲で見たことありませんか?》結局どうなるかと言うと、教師はだれを見て仕事《指導》をするのかの問題になる。医者が患者を見ないでマニュアルで治療したり、農家が稲の様子を見ないで水を入れたり抜いたりするのと同じこと。教育はどんな偉い人の命令であっても機械的に従うのではなく日ごろ接してる教員は上司とのすり合わせは必要だが一方的な指示にしたがって子どもに対するのは教育の条理に反し当然の結果になる。《既に多くの結果が出ている》 どんな小さな子でも、たとえ知的な障害を持っている子どもでもそれは殆ど本能的に察知され、先生が自分たちのほうを見てないことはすぐ見抜かれついてこない。現実、上意下達はどの学校でも学校運営の基本的なベースだった。それでも指導要領の随所に教育の原則の「実情に合わせて」とかかれており、2-30年前まではあるてい現場ではそれを尊重し管理職や職員間で話し合いもし時に議論もしていた。いまは各学校は殆どそれは上から棚上げされ機能していない。特に東京は職員会議そのものを実質的に取り上げられている。これでは教育関係そのものが制度的に壊れているとしか言いようがない。君が代日の丸は単にその一つに過ぎないだけ。石原知事が控訴するとのことだが、これも変な話で、君が代・日の丸は教育内容や方法で育課程に属し、法的には学校施工規則で作成や管理は各学校の責任になっていおり、指導機関は教育委員会である。一般行政から独立した指導機関になっている。(戦前の反省と、近代教育の原理による)このこと事態も以前なら問題にになっていただろう。過去の教育行政上の訴訟の原告や被告は教育行政の担当の教育委員会であったはずだ。控訴を決定するのは、都の教育委員会で無ければおかしいことになる。東京は知事の判断で控訴することになる。今日教育はここまで政治が介入し教育委員会も責任を放棄している。これは教育基本法の改正の狙いの一つとも言われているが、これを見ても既に実質的に教育の中立性、独立性は不当な支配に屈している。教育基本法も1条の人格完成や教育の一般行政からの独立はとっくに棚上げされている。今大事なことは、教育の基本的な内容や不法を棚から下ろすことではないか。本来の内容や方法は権力をバックにした行政によって損なわれ、棚に上げされてしまってここまできてるのだから、教育問題が噴出するのは当然。《メディアなどで今の先生は云々とか、日教組の先生がどうのとかよくきくが、そういう問題もあるだろうけど、基本的な上意下達の教育の不条理な仕組みや運営がまず問われているのであり、改善しなければならない早急の課題のはず。》君が代や日の丸の賛否や法的な審判もあろうとは思うが教育論として言えば子どもの教育の原理原則を守るのか守らなくてもいいのかの問題だと考えている。従来やってきた教育行政や日ごろの教室での実践、さらに家庭の教育そのものも問われていると言える。役人も、教師や親も自分の家族や生活がかかっているから現実に流されるのは分らないではないが、どんなにその流れが強く一般的で普通に見えても、「政治や行政あっての教育」ではなく「子どもあっての教育」であるこの事実の自覚が無くては始まらない。これから生きる子どもの立場で、もし自分が教育される子どもになった気持ちで考えて見ると、矛盾も答えも割合よく見えるのではないだろうか。
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学校選択自由化がもたらすもの

公立小中学校の学校選択の自由は東京を始め全国に広がっている。安倍首相候補の主張する(教育バウチャー)の制度はそれをさらにおしすすめるものだ。昨日この制度の予想される結果をこのブログで書いた。2点どうしても追加しなくてはいけないと思った。学校間の全ての競争を否定するものではないが、教育の基本的な原則をゆがめかねなく実際今日も、静かにではあるがそのゆがみは悪化している。あの制度では ①問題のある子どもや学校は条件を整えてでも手厚く教育すべきなのに反対になり教育の道理に合わない。実は現在既に障害児教育や不登校対策など支援教育の美名の下で実質的には切り離したり手薄になってきている。、 ②教師経験から実際の学校は他にはないようなまじめで献身的なところと外からは見えにくくとても外に出せないような現実がある。その中で、例えば問題のある子の担任希望がいなくて内部でたらいまわしするのは経験した全ての学校であった。職員室の会話で、できの悪い子のバカ呼ばわり、親の悪口は内部にいるとそれは普通。私は若いとき先輩に「問題の子どもも人間として付き合えば殆どは解決する。」と教わり実際その通りだった。その先輩には障害を持ったお子さんがおり、そのとき「俺の息子なんか職員室でなんていわれるか分ったもんでない」としんみりと語ってくれた。そのほか自分のクラスの問題を同僚をはじめ外部には出さない傾向。授業の明らかな手抜き等、現役時代私」自身もそれらの面があったことは否定できないし、同僚として、また親の学校への信頼を損ねることが心配だから外部に殆ど言えなかった。はっきり言って、学校選択の自由化でどれだけの人がよかったと思っているだろうか。勿論いじめや不登校など学校を変えることを契機に改善した例もある。それはそれでいい。学校の選択と言う言葉で多くの人は喜んでいるようだ。担当する行政も本当にそう思っているかもしれない。現場のインサイダーの目から見ると上記のような背景の下、外見とはおおよそ異なり心配になる。はっきり学級のたらいまわしは学校間のたらいまわしになる。(そんな例は私の住んでいる市でいくつも経験した。) また学校を選択したと親が主体性をもてたように思っているかもしれないが、実際は学校が親や子どもを選択する権限の方がはるかに強くなっている。担任や学校に不満を持った場合転校を進める話はあちこちで経験してきた。その親は転校先で不満があっても最後は行くところがなく、負い目を持つ。子どもの学習や行動は親の責任だと確認し約束させられることも今は珍しくない 。結局学校の問題が親子の問題にすり替えられたりする。最後は親は親でなく学校の肩代わりをさせられることになる。学校が評判のいい学校を作るには、勉強ができ行儀よく、素直な親子を在籍させることが早道なのは誰でも考えること。大変な子どもと格闘するような教育の営みは効率悪く、評判のリスクの方がはるかに多きいい。一斉学力テストで、成績の悪い子どもを欠席させた地域の話は教育関係者なら多くが知っている事実。今、不登校の子がいても、さほど学校でも話題にもならず、同じ学校に勤務している先生も知らない事がよくある。中には校長も担任も全く親や子どもに1度も顔さえ見せず、籍だけおいている例だってあった。 ①②とも分りやすいと思って問題を抱えた子どもの場合を例に取り上げたが、子どもと教育の条理から目が離れた空気は、どの子も毎日吸っている。「日本の子どもの目の輝きや表情が乏しい」とは外国事情に詳しい人からよく聞く言葉だ。私の経験でもその言葉には全く同感。じつは 個人的な関心で、来月韓国へ行って韓国の子どもの顔を見てくるつもり。海外旅行はこれを打ち止めにしていいと思う。私は韓国の子どもと日本の子どもの顔を見比べたい。予想はここではあえて書かない。あの貧しいケニアの子どもも,タイのスラム街の子もあの瞳に、私はほうとした。今の日本の現実があまりに悲しく悔しいことが多いので、精神の病では病識(病気の自覚)のあるなしは重要だ。社会病理も同じなのだろうかとつい思ってしまった。昨日のテレビは話す人も聞く人もテレビ局の人も、現実感を喪失していると思った。
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教育バウチャー

  「教育バウチャー」は教育改革の方法の一つで、自治体が子どものいる家庭に学校利用券を発行し各家庭は通いたい学校にそれを提出する。その学校はそれによって学校予算が増えたり減ったりする仕組みとのこと。当然学校間で子ども集めの競争と、地域としては「いい学校」と「だめ学校」が生じる。その競争によって教育の水準を上げるのが狙いと言う。これは首相が確実視されてる安倍氏の主張。谷垣氏は学校間格差が固定化されるとして反対し、麻生氏はさらに学校か塾のどちらかかの選択を主張する。これが日本の国づくりの根幹とも言われる準備されてる教育政策である。教育基本法の改正や今までの教育行政の反省のコメントの無さは3氏全員共通している。これが日本のリーダーの教育の認識と政策である。麻生氏の学校と塾の選択は論外として、教育バウチャー(教育利用券)は首相として有力視されてる安倍氏の政策でもあり今までの教育行政の延長として考えられることなのでこれについて考えてみたい。この方法は金銭的な現実を絡ませ競争によって教育の質を上げるというものだ。具体的に考えるとどうなるだろう?。どんな考えにもいい面はあると思うからまずはそれを考えよう。 ①子どもや親はバウチャーをもらうことにより、学校選択が自由になったと気分的に自由が拡大したようで嬉しく期待できるのではないか ②校長はじめ先生たちは子どもを多く集めるために、かなりの力を傾けるだろう ③教育行政を司る人たちの上意下達の指示が今より通りやすくなるだろう。何故なら、学校評価する人たちの人選は行政の権限下にあるのだから。安倍氏も討論の中で「選ばれない学校がでてくると、そこはしっかり乗り込んでいって根本的に問題を是正していく」と述べている。そのほか自分の教師経験から言うと次の2点も追加したい④私立や塾・小児科の病院等ががさらに繁盛するだろう。⑤しいては公立学校へ行く子どもの数が減り私立行く子どもがいっそう増える。結果として公立学校は減り教育予算を減額し財政改革に役立つ。大まか5点が考えられる。マイナス面は今の延長で考えればいいのだが ①不登校・発達障害児・ニート・精神障害者・少年犯罪等今起きてる心配が増幅する②家庭崩壊をはじめ地域はさらにばらつき、しいては大人自身の自殺・犯罪・病気がさらに拡大する。 ③少子化はさらに進み日本の経済や社会そのものの成立そのものに困難が生じる。④アメリカなどのように私立優位、公立は減り社会的地位も下がることになるが、社会的歴史的な違いがあり、アメリカなどのように はいかず公立は勿論私立も含めて教育は全体として荒廃するだろう。何故なら公正に選択できるほど日本はアメリカのように社会的な余力や基盤がない。①②③④はまだ大雑把であり具体的な現象としてはさらに学力体力の低下・孤老死・教師のサラリーマン化・災害などでの地域力の低下障害児教育・医療・治安など具体的には予想をこえるだろう。

とにかく現在教育を原因として困難に直面している事柄が沢山あるがそれらはさらに大きくなることは間違いないと思う。教育だけでなく、今日困難に直面している事柄は多いにもかかわらず、(教育バウチャーに反対する谷垣氏も含め)政治や行政の内省的な原因究明や反省などいっさいと言って良いほど聞かれない。そして全ての分野と言って良いほどアクセルを踏み続ける。ここまで来ると政治や行政の問題では済まされない。国民一人ひとりの命を守り、幸福を求める姿勢や判断が目の前で問われていると思う。子どもの教育を教育バウチャーとわけの分らない言葉でスーパーの特売や量販店が発行する点数のような発想で「教育改革」と美名で呼び、それが通る現実に恐ろしさすら感じる。今。教育政策で必要なのは、現状把握と原因追求でありそこから一つ一つ対策を講じることではないか。子育てや教育は商品開発や販売のように派手なものではない。農家や飼育のように具体的でこつこつ積み上げていくものだ。偉い人たちは何を勘違いしてるのだろう。私にはまだ孫がいないが、内心ほうっとしているが、教え子や友達の孫はすでいっぱいいる。

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色即是空・空即是色

朝から新総裁3候補のテレビ出演が相次ぎ3時間も見続けた。3候補の他に司会者や田原さんのような誘導者、学者などの評論家。サンディープロジェクトでは中曽根元首相も登場した。候補者をはじめテレビに登場する人たち全員に一つの共通点のあることに気がついた。それはどの人の話も哲学を感じないのに(思弁的)であることだった。言い換えると、どれも具体性を欠いていることだった。例えばどの人も経済成長を前提に話しているが、その保障を述べる人は全くいない。格差社会の改善も、それを生んだ原因を失くすことから始まるはずなのに誰も言わない。再チャレンジと言ってもチャレンジする気力すらなくした多くのいることは頭の片隅にも無いようだ。親の子殺しや子どもの子殺しなど教育や人心の荒廃も、教育基本法の改善や学校評価など、とっくに実質的には現場で実施されてることを述べるだけ。現場や子どもそのものの実態を知らないことをさらすだけのようでもあった。日本の学校が子ども中心とは反対に、上から画一的に鋳型にはめるスタイルであることは国の内外でよく知られていることで現在はその結果ではないかはないか。アジア外交にしても靖国参拝うんぬんで済まない事は殆ど誰でも感じていることではないだろうか。仏教では色即是空のように具体的なものの中に真実の法則があり、法則は具体的な形で表れると言う真理と具体は一体という考えがある。私も全く同感だ。その考えから、私は話を聞くときは、自分が見てきたり経験したりしたことを脳裏において聞くことにしている。経験は人によって違うのは当たり前だから自分と一緒であることを求めてはいない。むしろ別の経験やその人の脳裏に映っている風景を想像しながら話が聞きたい。今日の論議は誰からもどんな映像でも良いからその人なりの経験や脳裏に移っている風景が全く感じられず話が思弁的で根無しの空理空論に見えた。蛇足になるが手品師は、言葉と小道具を巧みに使う。テレビ出演者の立て板に水の視聴者に考える(間)を持たせない話し方から手品師というか、詐欺事件を連想してしまった。話し手の意識が視聴者にだけ向いている。自説を主張するときも、半分は自分への問いかけでなければ(思考)を伴っているとはいえないのではないか。教室で子ども達に勉強を教えるときも、そこに1番気をつけなければいけないことは、子どもと同時に自分への問いかけで、それが無ければ話がリアリティを欠き、子どもはついてこず信頼されない。難しかったけど話すと時は自他に対する集中力が問われた。話すとき、聞き手と自分への問いかけは半々か4対6が実感だったような気がする。 浮ついたときどこか自分の体で感じるものだ。見ている人も同じに感じるのではないか。

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愛は今

聖書ではないが愛は世界最高の価値だといっても良い。テレビや週刊誌,音楽はじめ居酒屋の話題から巷の話題にいたるまでこの話題は多い。プラトニックは別にして夫婦や恋愛の実態的な愛はどうだろうか。共同体が崩れ家族生活もままならない夫婦家族生活 実態のある食事会話セックス育児等どうなっているだろう。私の場合は赤点そこそこのようだ。この間、女房に話したら納得の様子だった。若いときはそれなりにこれで良いのかと思っていたのだけど、今思うと知らないだけだった。先日、近所に若いカナダ人が経営するスナックへ友達と行った。ある話題の中でその主人は「家族は食事やセックスのように確かでないといけないね」とさらりと言った。その言葉を聴いて私は自分の未熟さを思い知った。その人の奥さんは日本人だがしあわせだなと思った。家の奥さんや自分もちょっと可愛そうかな。ちょっとしたら日本人の多くは私達同様に確かな関係を失っているかもしれない。そして世間で男女の愛を語るほどには実際は虚しくなっているかもしれない思ってしまう。社会が見かけとは反対に中身が壊れかけてる今日一人ひとりにとってはやはり見かけとは逆に人間関係とりわけ愛が崩壊しているかも知れない。定年を過ぎた老人はこうしてまだ愛の謎解き。

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