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『ビオちょっと史跡探訪』 ⑬ 中世館(田宮館) 京田辺市普賢寺小田垣内

2013-02-16 16:35:13 | ビオ多々羅
自宅から歩いて10分ほどのところにある、屋敷跡の正体がやっと分かってきました。
普賢寺谷における中世の地侍の住居跡、田村館の長屋門です。正面2mの石垣、西側100mの掘りがあります。


15世紀後半、普賢寺谷中世館群に山城国一揆が発生。
山城国一揆は、南山城の久世・綴喜・相楽郡でおきたが、原因は、管領畠山氏の内紛に関係し、畠山氏の守護国が河内・紀伊だったため(政長の本拠は山城で、義就の本拠は河内の若江城)南山城はその中間で戦場になる。

府道65号線をはさんで向かい側の館は、大西館。地侍の指導者、大西備前守敏元は、信長に追われる義昭を水取に一泊させ、河内若江城まで守るが戦死。
この屋敷は、現在は田宮氏邸:これは田村の館の跡に築かれた。出身は大和葛下郡市場荘、戦国期に定着。1612年に有力土豪として登場する。
江戸時代の承応2年(1653)の湯釜には城忠兵衛貞長の銘文が記載。この城さんは、今一緒にビオ多々羅活動している城さん家族の祖先。
以上が限られた普賢寺谷の中世館関係記録であるが、これらのことから、少なくとも15世紀後半には、この普賢寺谷に館が築かれ、その中には在所と呼ばれる集落も存在し、またこの普賢寺谷の勢力に対抗する集団にとっては、この谷を攻撃しなければならないほどの影響力がこの谷にあったことも推定できることになる。

実は、この地域の都谷館跡、口駒ケ谷遺跡、新宗谷館跡群、小田垣内城館を広くとらえ考えれば、ここは『山城の一乗谷』と言えるのではないかと思うのである。


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