前回に引き続き、西鉄宮地岳線を取り上げます。なお、2007年4月1日に同線の西鉄新宮~津屋崎が廃止されると同時に、西鉄貝塚線と改称されています。なお、修正等については前回の記事を御覧下さい。
今回は津屋崎駅周辺を歩きます。私が乗車した2006年9月3日の時点では、翌年の4月以降に津屋崎駅がなくなっているかもしれないので、今のうちに取り上げておこう、と考えていました。
津屋崎駅を出るとすぐに見えるのが、この新浜山児童公園です。児童公園というには立派に過ぎるほどの松並木に圧倒されますが、私が訪れた時には児童と言える人はおらず、10代後半か20代前半の人が数人いただけでした。
駅の周囲を回ってみることにしました。私が乗ってきた313形は、貝塚行となり、ここで折り返しの準備に入っています。しかし、乗客らしい人は1人しかいないようです。いかに日曜日の午後とは言え、寂しさを通り越しているような気がします。
そして、西鉄が1時間に4本から5本も走らせていることに驚かされるほどです。「宮地岳線の存続を求める会」の方からいただいたメールによると、12.5分間隔であるとのことです。列車交換の便宜によると推測されるとは言え、何とも中途半端な運転間隔ですが、考えようによっては、この間隔を維持しているということは、それなりの利用客が存在するということでもありますし、将来的な可能性を今も残しているということになります。
もし、昔の国鉄の路線だったら 、福岡県内にあった甘木線、勝田線、上山田線などと同じく、1日に10往復以下としていたでしょう。これでは(よほどの好事者でなければ)乗りたくとも乗れない路線、それどころか乗る気を起こさせない路線となってしまい、乗客減と赤字に拍車をかけてしまいます。また、JR九州の路線として残ったとすれば1時間か2時間に1本くらいとされた可能性もあったと思うのですが、これでも不便なことに変わりはありません。
結局、乗客は増えないまま、電車は貝塚に向けて発車しました。左奥のほうに、旧津屋崎町が建設したと思われる施設があります。そこそこですが、利用者はいます。多分、徒歩か自家用車で来るのでしょう。
駅の周囲を一回りしてきました。昭和40年代までは多かったと思われるような姿の民家などが多いのですが、周囲はいたって静かです。こうして、行き止まりになった線路を道路から見ると、終着駅のわびしさのようなものを強く感じます。手前のひまわりも花を散らせ、枯れつつあります。よく見ると、手前の架線柱は木製です。
暗い写真になって申し訳ございません。津屋崎駅の改札口です。宮地岳線には自動改札機がありませんし、よかネットカードも使えません。そのためか、JR九州でもローカル線なら見られる改札口となっています。駅の係員が立つスペースがありますが、この日は駅員が立っていません。
改札口の右側が乗車券の発売窓口です。その右側に売店があるのですが、実は乗車券の発売窓口と売店はつながっています。そのため、売店で缶ジュースや菓子などを買う際には乗車券の発売窓口でお金を払うことがあります。首都圏、とくに京浜地区でこういう構造の駅は存在しないでしょう(もしありましたら、御教示下さい)。京阪神地区でも存在しないはずです(もしありましたら、御教示下さい)。
まだ学部生だった時に近鉄大阪線の大福駅を利用したことがあるのですが、その駅の場合は乗車券の発売窓口がなく、隣にある小さな商店で乗車券を買いました。ローカル線なら時折見られる構造です。しかし、西鉄の場合は、天神大牟田線はもとより、甘木線や宮地岳線でもそのような駅はありません。改札口と売店とがつながっているような駅が多いようなのです。
先ほどの線路の行き止まりの写真を撮影したのと同じ地点から、方向を変えてみました。津屋崎駅は、つい最近まで津屋崎町にありました。いわば町の代表駅とも言えるのですが、それにしてはひなびた駅です。御覧のように、台数こそ少ないとは言え車は通っています。しかし、歩いている人がほとんどいません。1時間ほど前まで天神の雑踏の中を歩いていたのに、まるで別の県に行ったような感じがします。
でも、よく考えてみると、今、県庁所在地の中心街や郊外の大規模商業施設の周囲でもない限り、このように人通りが少ない所は多いのです。おそらく、これは九州に限らない全国的な現象でしょう。京浜地区や京阪神地区に留まっている人にはなかなか理解できない光景かもしれません。
津屋崎町は、2005年1月24日に福間町と合併して福津市になりました。以前から、鹿児島本線も通る福間町のほうが賑やかでしたが、合併でその傾向が強まったのかもしれません。ただ、歩いた日は日曜日でした。平日の朝や夕方なら、もう少し人通りがあるのでしょうか。
津屋崎駅前のバス停です。誰もいません。本数などを確認していないのですが、少ないのだろうと思われます。そもそも、ここからバスに乗ってどこまで行けるのかを知りません。ここは日本海に近いのですが、そんな感じを全く受けません。
駅のすぐそばを通る国道を渡ると、数件の商店があります。その一角に、こんな貼り紙がありました。宮地岳線の西鉄新宮~津屋崎の廃止が表明され、届出がなされたのは今年の3月31日でした。福津市などの沿線自治体は廃止に反対の立場をとっています。しかし、津屋崎駅周辺を歩いて、このように廃止反対の意見を表明するような貼り紙を、私はこの一箇所でしか見ていません。もしかしたら、他の場所にもあるのかもしれませんが。
もっとも、西鉄宮地岳線の沿線などを地図で見ておいてから実際に乗ってみると、貝塚~三苫はともあれ、三苫~津屋崎は、よくぞ今まで存続できたと思います。戦前に福岡市周辺に存在した私鉄は戦時体制の要請によって西鉄に統合されたのですが、その後に香椎線と勝田線が国有化されています。いずれも石炭輸送に重要な役割を果たすからですが、香椎線は現在もJR九州の路線として残っているものの、勝田線は国鉄の民営化とともに廃止されてしまいました。この勝田線は、博多の次の吉塚から、福岡空港に近く、福岡市のベッドタウンとして発展している志免町(かつて国鉄の炭鉱があった)、宇美を通って筑前勝田まで走っていた路線で、国鉄がもう少し努力していれば廃止を免れたはずの路線です。大都市(政令指定都市)を走る路線が国鉄民営化の影響で廃止されたという点で、勝田線は例外的な存在でした。もし、戦時中に宮地岳線が国有化されていたら、やはり1980年代に、少なくとも部分廃止される可能性は否定できなかったはずです。
今回は、津屋崎海岸に到着することができません。またの機会に、日本海(玄界灘)を見ることとしましょう。
(以上は2006年10月10日、第188回として掲載したものです。その後、2007年12月31日に、第186回および第189回と統合し、一部変更の上で、別室9として再掲載しました。2010年10月17日に別室8へ移行しましたが、2010年11月10日に掲載を終了しました。)
かくして、2000年11月、北九州線は廃止されます。とは言うものの、法律上、黒崎駅前から熊西までは存続しています。この部分まで廃止すると筑豊電気鉄道の意味がなくなるからで、西鉄が第三種鉄道事業者となり、筑豊電気鉄道が第二種鉄道事業者として乗り入れる形となっています。
北九州線と宮地岳線には共通点があるように思われます。どちらもJR鹿児島本線に並行しており、同線の通勤・通学路線としての利便性がJR九州の路線となってから高まるにつれて、競争力を失ったという点です。北九州線は軌道線でしたからモータリゼイションの影響を忘れてはなりませんが、それだけでは説明のつかない部分が大きいでしょう。
考えてみると、西鉄は、路線の延長キロ数で見ると鉄道線より軌道線のほうが長く、その軌道線が全廃されたことで、全体の半分くらいの路線が廃止されたことになります。廃止路線の割合としては大手私鉄で最も高いという点も、特筆に価するでしょう。
北九州線ではワンマン運転が採用されていたのに、自動放送が採用されていなかったと記憶しています。これも珍しいでしょう。
ここまで書いてきて気になるのが筑豊電気鉄道です。やや離れているとはいえ、JR筑豊本線と並行しています。筑豊直方駅の利便性は低いと言わざるをえませんし、黒崎の街も衰退ぶりが目立ちます。筑豊本線の折尾~桂川が電化され、小倉や博多までの直通運転が強化されているのに対し、筑豊電気鉄道の電車は路面電車タイプで吊り掛け駆動のみ、速度も遅く、ICカードも使えません。