ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

再掲載:東急池上線途中下車(4)・東急大井町線途中下車(2) 旗の台駅(その2)

2017年05月25日 00時00分00秒 | まち歩き

 〔今回は、「待合室」の第437回として、2011年8月21日から同月27日まで掲載したものです。写真撮影日である2011年4月7日当時の様子をお伝えしたく、文章に修正の手を加えておりません。〕

 池上線の旗の台駅を降り、歩いています。乗換駅ではありますが、商店街の規模はそれほど大きくありません。品川区の商店街といえば、大井町、戸越銀座、中延、武蔵小山というところでしょう。これらの街に比べると、旗の台の知名度は劣ります。しかし、小さいながらも味のある商店街であるともいえます。

 池上線の改札口のそばにある踏切から、中原街道のほうへ向かいます。奥に見える昭和大学病院に向かう通りが商店街となっていて、御覧のように人通りは少なくありません。品川区という場所柄のためか、下町に似た雰囲気が漂います。これは、戸越銀座駅周辺、戸越公園駅周辺、武蔵小山駅周辺にも共通しています(大井町駅周辺はかなり違っていますが)。

 脇に入ってみます。商店街の続きではありますが、路地裏というにはぴったりの所です。道路の脇に鉢植えが置かれているのは、いかにも東京周辺らしい風景です。下町に多そうな風景なのでしょうが、川崎市などでも見られます。そして、道路に置かれた自転車の数の多さも、東京の城南地区や川崎市では当たり前の光景なのです。

 踏切から荏原中延方面を見ます。荏原中延駅が地下にあるので、池上線はしばらく走ると地下へ入ります。現在では痕跡も残っていないようなのでよくわからないのですが、この先に旗ヶ岡という駅がありました。旗ヶ岡駅が開業していた時代、旗の台駅は存在していなかったのです。

 ここで旗の台駅の歴史を取り上げておきましょう。この駅の開業は1951(昭和26)年5月1日です。池上線の桐ヶ谷(廃駅。大崎広小路と戸越銀座との間にあった)~雪ヶ谷(後に調布大塚と統合して雪が谷大塚となる)が開業したのが1927(昭和2年)8月28日、大井町線の大井町~大岡山が開業したのが同年の7月6日です。つまり、およそ24年間、池上線と大井町線は交差していたのにもかかわらず、その交差地点に駅がなかったのでした。現在であれば西武多摩湖線の八坂駅(すぐそばを西武国分寺線が通りますが、駅はありません)のような感じでしょうか。

 現在の目黒線、東急多摩川線および大井町線を開業させた目黒蒲田電鉄と池上電気鉄道の敵対関係については既に述べました。両者の対立は、現在も駅名によく残されています。たとえば、目黒線に洗足駅があり、池上線に洗足池駅があり、大井町線に北千束駅があります。北千束駅は、もともと池月という名前であり、1928(昭和3)年に開業しました。東北地方にも池月という駅があるため、1930(昭和5)年に改称しますが、その名前が洗足公園といい、明らかに池上電気鉄道の洗足池駅を念頭に置いていたのです。現在の北千束に改称されたのは1936(昭和11)年1月1日です。

 また、大井町線に中延駅および荏原町駅があり、池上線に荏原中延駅があります。これらも目黒蒲田電鉄と池上電気鉄道の対立と関係があるのでしょう。

 さて、目黒蒲田電鉄は、1934(昭和9)年10月1日に池上電気鉄道を吸収合併します。沿線に洗足、田園調布という分譲地→高級住宅地を有し、系列として東京横浜電鉄、すなわち現在の東横線を抱え、五島慶太の指揮下で発展を続ける目黒蒲田電鉄に対し、住宅地開発に積極的でなく、迷走を続け、都市間連絡などを考えてもいなかった池上電気鉄道が勝利を収めることができなかったのは、おそらく当時の目からも明らかであったことでしょう。両鉄道が統合されたことにより、大井町線と池上線とが交差する地点に駅ができるのが自然でした。しかし、なかなかできず、1951年に持ち越されてしまいました。

 池上線には旗ヶ岡駅がありました。一方、大井町線の荏原町と北千束との間には東洗足という駅がありました。東洗足駅は、これも現在では痕跡が残っていないようなのですが、中原街道の東側にあったようで、現在の旗の台駅からは170メートルほど離れていたとのことです。

 旗の台駅の開業が第二次世界大戦後までずれ込んだ理由は、結局よくわからないままなのですが、池上線の旗ヶ岡駅と大井町線の東洗足駅をそれぞれ移転し、統合して開業しました。長い間、この駅には定期券売り場もありましたが、現在はありません。もっとも、東急線の場合は自動券売機で通勤定期券などの購入ができるので、定期券売り場がなくともあまり不自由がありません。

 池上線の旗の台駅から東側、大井町線の荏原町駅に向かうような形で、商店街が伸びています。人通りが少ないのですが、飲み屋などが多いので、夕方以降は話が違ってくるのかもしれません。小規模な商店が並びます。この駅の周辺には大規模な店舗がありません。東急ストアがあってもおかしくないのですが、何故かありません。パチンコ屋の看板が昔ながらのものという感じがします。

 奥に大井町線の高架が見えます。旗の台を出発すると、上り電車は坂を下り、荏原町駅に着きます。わずか500メートルしか離れていません。旗の台駅の開業が遅れたのは、この駅間距離にあるのかもしれないと考えているのですが、大井町線、池上線のいずれも駅間距離の短い路線ですから、荏原町駅との距離が近いことが原因ではないのでしょう。尾山台駅と等々力駅との間も500メートルしか離れていません。大井町線で駅間距離が1キロメートル以上であるのは、緑が丘駅と自由が丘駅との間(1キロメートル)、上野毛駅と二子玉川駅との間(1.2キロメートル)だけです。

 旗の台駅の南側から荏原町駅のほうまで伸びる商店街に出ました。ここも人通りの少ない商店街です。池上線も大井町線も、バスターミナルがあるという駅が少なく、近くにバスが通っていないような駅もあります。旗の台もその一つで、駅の周囲にはバス停がありません。

 けだるい午後のひと時という感じのする街並みです。商店街ではあるのですが、普通の住宅なども多い所です。大型店舗などもあまり見当たらない街ですが、夜はどうなのでしょうか。そこそこ、飲み屋などはあるようです。

 池上線の踏切に来ました。奥のほうにトンネルが見えます。長原駅です。環状7号線との立体交差のため、1968(昭和43)年に地下化されました。その前年に目蒲線(現在の目黒線と東急多摩川線)の洗足駅が地下化されていますが、どちらも、この後に盛んになる立体交差化(地下化)の先駆例となっています。

 なお、旗の台駅は品川区にありますが、長原駅は大田区にあります。池上線の長原~蒲田が大田区、五反田~旗の台が品川区、ということになります。また、大井町線は、大井町~旗の台が品川区、北千束と大岡山が大田区、緑が丘と自由が丘が目黒区、九品仏~二子玉川が世田谷区、二子新地~溝の口が川崎市高津区です。

 この踏切を渡ると、大井町線の側の改札口があります。さらに歩くと中原街道です。

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再掲載:東急池上線途中下車(4)・東急大井町線途中下車(2) 旗の台駅(その1)

2017年05月24日 00時00分00秒 | まち歩き

 〔今回は、「待合室」の第436回として、2011年8月20日から同月27日まで掲載したものです。写真撮影日である2011年4月7日当時の様子をお伝えしたく、文章に修正の手を加えておりません。〕

 しばらく、池上線を取り上げていません。洗足池、池上、大崎広小路の各駅周辺を歩いたのですが、私にとっては利用する機会が多くない路線ですので、必然的に利用する駅も少なくなり、取り上げるのも難しいのです。

 そもそも、池上線は、他の東急各線とは全く異なる歴史を持ちます。地図を見ると、池上線と目黒線・東急多摩川線が並行するように通っています。目黒線・東急多摩川線は2000年8月5日まで目蒲線でしたから、その頃の感覚に戻って記すならば、終点は目蒲線も池上線も蒲田ですし、起点は目蒲線が目黒、池上線が五反田で、山手線では一駅違いです。ここに池上線の、或る意味では悲劇的な歴史が隠されています。そして、今回取り上げる駅も、池上線の歴史を象徴する面を持っています。

 なお、今回は東急大井町線途中下車シリーズの第2弾も兼ねています。

 4月の或る日、大崎広小路駅から池上線に乗り、旗の台で降りてみました。池上線と大井町線の乗換駅で、池上線は地上の1番線(下り。雪が谷大塚、蒲田方面)と2番線(上り。荏原中延、五反田方面)、大井町線は高架の3番線・4番線(下り。大岡山、溝の口方面)と5番線・6番線(上り。中延、大井町方面)となっています。改札口は3箇所あり、池上線は1番線と2番線が別の改札口となっています。

 大井町線の急行運転開始のための工事によって改善されましたが、それまでは東急で最も乗り換えに不便な駅でした。池上線と大井町線の上りとの乗り換えはよかったのですが、池上線と大井町線の下りとの乗り換えの場合、いったん階段を上がり、また階段を下りて南のほうへ行ってまた階段を上がるという面倒な構造となっていたのです。

 こちらは1番線の改札口です。池上線の下りと大井町線のための改札口となっています。昔ながらの私鉄の駅という感じです。池上線は3両編成で走っていますので、適度な大きさと言えるのかもしれません。

 何年か前まで、右に写っている踏切とは別に、もう一つ踏切がありました。構内踏切というもので、文字通り、駅の構内にあり、ホーム同士の連絡のために使われるものです。つまり、駅の外には出られませんし、外から自動車や自転車が入ってくることもありません。バリアフリーの観点からすれば跨線橋に勝りますが、電車が接近してから発車するまでの長い時間、踏切の遮断機が降りているために、利便性では跨線橋に劣る所があります。そのため、東京都23区内からはほとんど姿を消しており、現在、東急線で構内踏切が見られるのは池上駅だけとなりました。

 ちょうど蒲田行の1000系が到着しましたので撮影しました。元々は東京メトロ日比谷線直通運転用として東横線にデビューした車両ですが、車両の長さが18メートルで池上線にはうってつけのサイズであったためか、新車として池上線にも投入されました。この時は、池上線で実に64年ぶりの新車として話題になりました。現在は、ワンマン運転仕様のものが池上線と東急多摩川線に走っています。実は、1000系の登場の過程に池上線の、或る意味で悲劇の歴史がよく表れています。

 1922(大正11)年10月、池上電気鉄道が蒲田から池上までを開業させました。現在の池上線の起点は五反田ですから、終点から開業したことになります。こんな路線も珍しいかもしれません。しかも、池上電気鉄道は当初から混乱、迷走という状態を続けました。本来、起点は目黒、終点は大森が想定されていたのですが、大森駅付近での土地買収がうまくいかなかったらしく、蒲田に変更されました。しかし、これでは東急の母体である目黒蒲田電鉄と起点・終点が同じとなり、完全に並行する路線となってしまいます。そこで起点を五反田に変更したのです。また、開業時に新車を走らせるはずであったのに、手配が間に合わず、急遽中古車を購入しています。

 1923(大正12年)、池上から雪ヶ谷(後に調布大塚と統合される)までが開業します。同年、目黒蒲田電鉄の目黒~沼部が開業しており、ここに池上電気鉄道と目黒蒲田電鉄の敵対関係が公然となり、決定化しました。しかし、同年のうちに沼部~蒲田を開業させ、五島慶太という、鉄道史に大きな足跡を残す辣腕の経営者の下、田園調布のために開業したとも言える目黒蒲田電鉄と比べるならば、池上電気鉄道は劣勢に立たされていたことは否定できません。

 1927(昭和2)年、池上電気鉄道は雪ヶ谷から桐ケ谷(大崎広小路と戸越銀座の間にあった駅)までを開業させ、同年に桐ケ谷から大崎広小路まで、そして翌年に五反田までを開業させました。この先の延長も考えられていたため、現在の五反田駅がビルの4階に相当する高さにあるという構造になっているのですが、山手線の内側は公営交通機関が担当するという交通政策のため、五反田で止まりました。駅の構造からして中途半端な印象を受け、池上電気鉄道の運命がよく見える形で示されているように思われます。

 1927年には、目黒蒲田電鉄が大井町線の大井町~大岡山を開業させています。これが池上電気鉄道に止めを刺すことになります。池上電気鉄道は、雪ヶ谷から国分寺までの路線を構想していました。そのほんの一部である雪ヶ谷~新奥沢が、1928(昭和3)年に新奥沢線として開業しました。しかし、既に目黒蒲田電鉄が大井町線のために土地を確保していたこともあって延長はかなわず、盲腸線となってしまいました。ここにも池上電気鉄道の迷走ぶりが如実に表れています。結局、1934(昭和9)年に池上電気鉄道は目黒蒲田電鉄に買収されてしまいます。

 以上の、池上電気鉄道と目黒蒲田電鉄の歴史が、旗の台駅にも大きく関係するのですが、それについては機会を改めることといたします。

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再掲載:東急大井町線途中下車(1)二子玉川駅(その5) 

2017年05月23日 00時00分00秒 | まち歩き

 〔今回は、「待合室」の第441回「東急田園都市線途中下車(14)・東急大井町線途中下車(1) 二子玉川駅(その5)」として、2011年9月15日から同月22日まで掲載したものです。写真撮影日である2011年3月23日当時の様子をお伝えしたく、文章に修正の手を加えておりません。〕

 砧線中耕地駅跡からさらに西のほうへ歩いています。吉沢駅跡までは少しばかり距離があり、二子玉川駅から離れてしまうのですが、途中まではたどってみようと思っています。現在は静かな住宅地ですが、砧線が通っていたころはどのような所であったのでしょうか。

 砧線は、この道路(線路跡ですが)を真っ直ぐ進み、吉沢に向かっていました。おそらく、上の写真の車道が線路跡でしょう。ここは歩道の幅が広いので、歩きやすいのですが、自動車を利用する立場の者にとっては、何とも勿体無い使い方とも思えます。この車道では一方通行であり、歩道のほうまで幅を広げれば両側通行になるからです。

 一方通行は不便なものです。但し、住宅地にとっては望ましいものかもしれません。自動車の交通量が少なくなるでしょうし、それによって静寂が保たれやすくなるからです。狭い道路で両方から車が来たら、車同士も歩行者もたまりません。

 時々、ホームセンターに行くと、庭先に置くオブジェが売られています。おそらく、この蛙達もそのようなものでしょう。置き方によるのかもしれませんが、かわいらしく、粋でもあります。

 歩道にあるマンホールの蓋です。ここに砧線が通っていたことを示す絵が書かれています。廃止直前のものではなく、開通当時の車両がモデルになっているようです。玉川電気鉄道時代の車両でしょうか。砧線も玉川線も、多摩川の砂利を運搬するための路線でした。首都圏の鉄道路線には、砂利運搬を目的としていた路線が少なくないようです。

 これも歩道で見つけました。かなりデフォルメなどがなされていますが、砧線をモデルにしたことは明らかです。玉川線および砧線が廃止された後も残った世田谷線を、2000年まで走り続けたデハ70形、デハ80形、あるいは砧線で最後まで使用されたデハ60形がモデルでしょうか。集電装置がパンタグラフではなく、ビューゲルになっています。玉川線用に登場した車両で最初からパンタグラフを備えていたのは、現在は宮崎台駅の電車とバスの博物館に保存されている「ペコちゃん」ことデハ200形、および、玉川線最後の新車にして、世田谷線に残って長らく活躍し続け、最後までつりかけ駆動のまま残ったデハ150形だけでした。

 吉沢駅跡はまだ先です。しかし、もう二子玉川駅からかなり離れてしまいましたので、引き返すこととしました。閑静な住宅街が続きますが、砧線が現役であった頃は田園地帯だったのでしょうか。それにしても、廃止とは勿体無いことでした。単線のままでは発展性がありませんし、さりとて複線化も難しかったかもしれません。それに二子玉川から砧本村まで2キロメートルほどと短い路線でした。存続には厳しい条件ばかりが揃っていましたが、残されていればそれなりに意義のある路線であったかもしれません。玉川線は廃止された後に地下路線の新玉川線として1977年に復活し、現在では田園都市線の一部となっています。世田谷線は残されています。砧線は純粋な廃止路線で、これは東急で数少ない例となります(他には新奥沢線があるだけです)。

 さて、砧線の跡を歩き続けましたが、そろそろ二子玉川駅に戻ろうと思います。まだ寄りたい所があるからです。ただ、同じ道を戻っても面白くありません。駅から少し離れた所に以前からある商店街を歩き、最近は人通りが多くなった柳小路のそばを通っていきます。

 二子玉川商店街を歩きます。駅から少し離れていること、玉川高島屋の裏にあることから、二子玉川によく行く人であってもこの商店街を歩く人は少ないかもしれません。完全に地元の商店街という感じもします。奥に見える高架橋は国道246号線で、右側に進めば新二子橋、そして溝口へ行きます。左側に進むと瀬田、三軒茶屋、渋谷方面です。

 新二子橋の下に来ました。元々、ここで下の道路と直結する予定があったようで、車道がこちらのほうに下っています。しかし、開通以来、自動車は通れません。歩行者と自転車のための通路となっています。

 御覧のように、ここから新二子橋に上がることができるのは歩行者と自転車だけです。奥に柳屋のビルがあります。懐石料理屋なのですが、このビルは目立ちます。何年も前からあります。どうやら、このビルが駐車場になっているようなのです。私は一度も入ったことがないのでよくわかりません。

 玉川高島屋の本館(左側)と南館(右側)を結ぶ連絡通路が見えてきました。はるか奥のほうには田園都市線も見えます。

 日本最初の郊外型百貨店ですが、私はそれほど利用していません。南館が専門店街になっており、その3階と4階にある伊東屋にはよく行きますが、それ以外の店のことはあまり知りません。紀伊国屋書店もあるのですが、一時期、品揃えが悪くなったこともありました。最近はまたよくなってきています。

 柳小路と言われる通りです。横丁というには道幅が少し広いでしょうか。このあたりが有名になったのは1990年代くらいからでしょうか。大学院生時代にも柳小路の周辺を歩いたりしていますが、現在ほど店が多くなかったことを覚えています。結婚してまもなく、妻とここを歩き、夕食をとったことがありました。

 柳小路から二子玉川駅に戻ってきました。ドッグウッドプラザが見えます。右側のツタヤとケンタッキーが入居している建物はかなり前からあり、とくにケンタッキーは、少なくとも私が高校生であった頃から営業を続けています。

 二子玉川駅に戻ってきました。こちらは西口で、改札口を出るとすぐにライズです。この駅も再開発によって大きく姿を変えたのですが、改札口の位置などに大きな変更はありません。現在はどうかわかりませんが、私の高校生時代、夏恒例の花火大会(川崎市と世田谷区)が行われる時は、自動改札機を全て停止させ、臨時の切符売り場も置かれました。屋台で乗車券などが売られていたようなものです。JR東日本が自動改札機を次々に設置する時期よりもはるかに前から、この駅では自動改札機が運用されていたのです。

 ここから東口に出ますが、道路から何からが変わってしまいました。バスターミナルも移動しています。

 ライズです。右側がオフィスビルのような位置づけで、左側がショッピングモールのような位置づけです。我々も、時々ですが利用しています。曜日によっては、少し奥のほうでイベントが行われたり、自動車販売店が見本の自動車を置いたりしています。

 大井町線の各駅停車が3番線に停車しています。1977年に新玉川線が開通した時は、内側の2番線と3番線が新玉川線で、外側の1番線と4番線が大井町線(当時は田園都市線)でした。1979年に田園都市線の大井町~二子玉川が旧称の大井町線に変わり、1番線発着と4番線発着とがありましたので、方向幕の色まで変えていました。1番線着が黄緑の地、4番線着が黒の地でした。二子玉川~溝の口の複々線化事業が進行し、田園都市線が1番線と4番線、大井町線が2番線と3番線になりました。

 新玉川線用としてデビューした8500系のうち、8638F(上の写真の編成。上り側がデハ8600形8638番で、下り側がデハ8500形8538番)から8641Fまでは5両編成で、当初から大井町線用と位置づけられていました。もっとも、登場したばかりの頃は田園都市線で運用されており、10両編成でした。

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再掲載:東急大井町線途中下車(1)二子玉川駅(その4) 

2017年05月22日 00時22分37秒 | まち歩き

 〔今回は、「待合室」の第440回「東急田園都市線途中下車(14)・東急大井町線途中下車(1) 二子玉川駅(その4)」として、2011年9月8日から同月15日まで掲載したものです。写真撮影日である2011年3月23日当時の様子をお伝えしたく、文章に修正の手を加えておりません。〕

 二子玉川駅と言えば、1969(昭和44)年5月10日まで玉川線の終点であり、砧線の起点でした。玉川線の渋谷~二子玉川(当時は二子玉川園)は、1977(昭和52)年4月7日に新玉川線として復活しましたが、砧線は完全にバスに置き換えられました。現在の二子玉川駅には玉川線と砧線の跡がほとんど残されていませんが、少し歩くと砧線の跡が残されています。今回はそれを見ようと思っています。

 2011年3月19日、二子玉川ライズが完全オープンしました。基本的には東口に展開していますが、ドッグウッドプラザは西口にあります。玉川線と砧線の二子玉川園駅は、このドッグウッドプラザの辺りにありました。

 玉川高島屋と連絡する歩道橋が右側に見えます。この交差点はスクランブル交差点となっており、地下にも玉川高島屋との連絡通路があります。

 それにしても、二子玉川にロフトができるとは想像もしていませんでした。再開発事業が始められるまでは東口に東急ハンズがあり、大学院生であった私もよく行ったものです。一時閉店のはずでしたが、二子玉川ライズに東急ハンズは入っておりません。

 交差点から北側を見ます。ここに玉川線や砧線が走っていた訳ではありません。両線が廃止された後の代替バスがこの道路を通ります。休日ともなると玉川高島屋の駐車場に入ろうとする車の列ができて混雑するのですが、平日の昼間であったためなのか、空いています。

 写真の奥のほうに、玉川高島屋の本館と東館とを結ぶ連絡通路が見えます。道路の上にある屋根つきの歩道橋のようなものです。その先に交差点があります。砧線は交差点付近でこの道路を横断していました。

 砧線が通っていたのはこの道路です。廃止後に道路となりました。幅が狭いので一方通行となっています。砧線が全線単線であったためです。詳しいことはわかりませんが、途中にあった中耕地および吉沢に交換施設はなかったようです。なお、代替バスとなっている玉06は、この道路を通りません。

 新二子橋につながる高架橋が見えます。国道246号線です。手前の道路も国道246号線です。合流地点の手前から坂を登り、瀬田交差点へ向かいます。現在の田園都市線とほぼ同じルートを通っていた玉川線も、瀬田交差点に向かって急な登り勾配を走っていたようです。玉川線で最も急な勾配は、現在の渋谷マークシティから道玄坂上までの坂で、60パーミルを超えていたそうです(碓氷峠とどちらが急であったでしょうか)。

 玉06は二子玉川駅を発車し、玉川高島屋の前を通り、左側から曲がり、右側にある道路へ入ります。中耕地というバス停もありますが、砧線の中耕地から少し離れています。

 交差点の所につばめグリルがあります。銀座に本店があるハンバーグステーキのレストランで、最近は都内に支店を増やしていますが、ここ二子玉川の支店はかなり前からあります。一度だけ入ったことがあり、堪能しました。1930という数字がありますが、これは1930年に銀座の本店がオープンしたという意味だそうです。同じ年に、東京から神戸までの特急列車として「つばめ」が運転され始めました。店の名称もこの特急列車に由来するとか。

 砧線の跡である道路を歩きました。この辺りが玉川の商店街となっています。二子玉川郵便局があり、その少し先(右側)に二子玉川小学校があります。この辺りに中耕地駅(というよりは電停)があったはずです。跡も残されているのですが、少しわかりにくく、探しました。

 この四つ角を奥のほうに進むと世田谷区立二子玉川小学校があります。玉川4丁目の商店街は、とにかく車が多いので、道幅の狭さと相まって歩くのには注意が必要です。昔ながらの作りをした書店など、懐かしさが残る商店街でもあります。

 砧線はこの交差点を東西方向に走っていました。上の写真は南北の方向に伸びる道路ですので、砧線の跡ではありません。ただ、この四つ角が踏切であった可能性はあります。

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 ようやく見つけました。正確な位置であるかどうかは不明ですが、交差点から少し東側に進んだ所の歩道に、このようなタイルが敷かれていました。

 砧線はおよそ2キロメートルほどの路線で、廃止直前の時点では二子玉川(当時は二子玉川園)駅⇔中耕地駅⇔吉沢駅⇔砧本村駅となっていました。元々は多摩川の砂利を運搬するための路線で、最後まで単線でした。中耕地、吉沢のどちらの駅にも交換施設はなかったようです。

 歩道にはタイルとともに石碑も置かれています。道路と歩道の幅からすると、どうやら道路が線路跡で、歩道のこの部分にホームがあったようですが、どうなのでしょうか。この辺りもかなり大きな変化がありましたので、砧線が通っていた頃のことを想像できません。

 渋谷から二子玉川まで、主に現在の国道246号線の上を走っていた玉川線は1969年に廃止されました。しかし、1977年に、同じく渋谷から二子玉川まで、大部分が地下区間である新玉川線が開業しました。名前が示すように玉川線の復活です。一方、玉川線と同時に廃止された砧線は、バスに転換され、復活しなかったのでした。玉川電気鉄道が開業させた区間で東急に引き継がれた路線のうち、三軒茶屋から下高井戸までの世田谷線は廃止されずに残り、玉川線は廃止されたものの形を変えて復活しましたので、純粋に廃止されたのは砧線だけです。

 中耕地駅(電停)の跡から東の方向を見ます。新二子橋につながる高架橋が見えます。砧線はしばらくこの道路を直進し、国道246号線を横断して大きく右に曲がり、二子玉川駅に向かっていました。手前と奥とで歩道の幅が異なることがおわかりになるでしょうか。

 二子玉川郵便局の交差点から西の方向を見ています。砧線はまっすぐ進み、吉沢駅に向かっていました。多摩川のすぐそばを通る多摩堤通りとの交差点が吉沢橋で、その近くに吉沢バス停があります。付近に駅の痕跡があるかどうかはわかりません。

 こちらがバス通りとなります。二子玉川郵便局前の交差点を南に進むとすぐにこの道路に出ます。右のほうにバス停があることがおわかりになるでしょうか。ここが中耕地バス停で、位置は異なるものの、砧線の駅の名前を踏襲しています。

 砧線の代替バスである玉06は、二子玉川駅から砧本村方面に向かうバスのみがここを通ります。但し、朝のラッシュ時は砧本村から二子玉川駅方面に向かうバスもこちらを通ります。この他、玉05(宇奈根一丁目方面循環)、玉07(二子玉川駅⇔成城学園前駅)、玉31(二子玉川駅⇔成育医療研究センター)、玉32(二子玉川駅⇔世田谷美術館)が通っています。

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マルイ川崎店が2018年1月に閉店

2017年05月19日 23時53分23秒 | 社会・経済

 先日、川崎市の人口が150万人を突破したというニュースがありました。「ムサコ」という大馬鹿な略称まで付けられてしまった武蔵小杉がある中原区が最も増加率の高い区となっていますが、我が高津区が2番目であるとのことです。

 (単に小杉とか小杉町と言えばよいのです。武蔵小山も武蔵小金井も「ムサコ」になりますし、「むさい」というイメージまで付いてしまいます。まあ、「むさい」と言われるならば否定はしません。どうせ川崎市は「むさい」所です。生まれ育った私がこう記すのですから間違いはありません。)

 その武蔵小杉に西武・そごうが出店していたそうで、こちらは今年の8月末に閉店するそうです。驚いたのは、小杉に小型の百貨店があったことです。申し訳ないことを記しますが、小杉町三丁目にイトーヨーカドーがあるからどういう土地柄かわかっているはずなのに、百貨店を出店するとは、立地調査などを十分に行っていなかったとしか思えません。小杉町で育った父から何度も聞かされましたが、中原区の商業地といえば、古くは新丸子でして、三業地でもあったのです。その後は元住吉、新城です。いずれも、高級路線からは程遠い街です。高津区も同様です。

 まあ、そんなことはどうでもよいとして、本題に入ります。

 先程、朝日新聞社のサイトを見ていたら、今日の18時17分付で「丸井川崎店、来年1月閉店へ ラゾーナ出店で売り上げ減」(http://digital.asahi.com/articles/ASK5M41K0K5MULOB00F.html)という記事が掲載されていました。

 川崎駅といえば、西口にラゾーナ川崎プラザがありますが、幸区にある西口は(あまり表現がよくないですが)新しい街と言え、元々は東口(川崎区側)が市を代表する繁華街です。記憶に誤りが無ければ、私が小学生であった1970年代後半には西口に明治製菓や東芝などの工場があり、川崎駅には西口がなかったか、あっても申し訳程度の改札口しかなかったはずです。今の南武線のホーム(6番線)からは東芝川崎事業所(堀川町工場)への引き込み線が分岐していた程です。

 しかし、2006(平成18)年、ラゾーナ川崎プラザが開業してから、西口が大きく変わりました。2014年4月11日付の「川崎駅東口のさいか屋が来年5月に閉店する、と聞いて」においてもとりあげたように、2015年5月にさいか屋川崎店が「閉店」しています(実際には大幅な縮小の上で日航ホテルに移転していますが)。昨年10月に私が川崎駅東口を歩いた時の様子は2016年10月5日付の「さいか屋川崎店(旧)の跡」で紹介しておりますが、既に小川町1番地の建物は解体工事が進められています。

 マルイ川崎店は東口のルフロンにあります。1988年に開業しました。おそらく、川崎市で最初のマルイです(次が溝口でしょう)。ルフロンには川崎西武もありましたので、西側がマルイ、東側が西武百貨店であった訳です。川崎西武のほうはラゾーナ川崎プラザとは全く関係なく、1990年代に閉店しており、現在はヨドバシカメラ川崎店が入っています。マルイのほうは、1991年に169億円の売上を記録しており、繁盛していたかのようでしたが、こちらはラゾーナ川崎プラザの影響を受けてしまいました。2016年度の売上は39億円程であるとのことです。また、2008年および2011年に、上層階(9階および8階)を所有者に返却する形で売場面積を縮小していました(かつて渋谷のセンター街にあったHMV渋谷店と同じようなことを行った訳です)。今後の展開が見込めないということで、2018年1月の閉店という決断に至ったようです。

 丸井が撤退した後については、何らかの策がとられることとなるでしょう。ただ、現在のところ、ルフロンの西側にいかなる商業施設ができるかはわかっておりません。朝日新聞社の記事によると「地元の商業団体などからはシティーホテルや複合商業施設などにしてほしいとの要望が出ている」とのことですが、これが長い目で見ても良い策であるか否かはわかりません。西口に客足をとられているから奪い返す、という発想が正しいかどうかを問わなければならないでしょう。「食うか食われるか」では、結局、どちらも食われて終わるしかないかもしれません。共存を考えるべき時でしょう。

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再掲載:東急大井町線途中下車(1)二子玉川駅(その3) 

2017年05月18日 00時00分00秒 | まち歩き

 〔今回は、「待合室」の第434回として2011年8月14日から同月20日まで掲載したものです。再掲載にあたり、一部を修正しました。なお、写真撮影日は2010年6月1日です。〕

 二子玉川駅の4番線にいます。これから電車に乗って渋谷に出ようとしているのですが、もう少し、ホームからの景色を楽しもうと思います。人によって評価は違うでしょうが、田園都市線の沿線で最もよい景色を眺められるのがこの二子玉川駅ではないかと思っています。

 兵庫島公園です。右側に池があります。ひょうたん池と呼ばれています。その左側に複雑な水流がありますが、これこそが多摩川です。この辺りには中洲が多く存在します。

 今、私が立っている所は東京都世田谷区玉川です。川の向こうは川崎市高津区二子です。新二子橋より奥には久地、宇奈根といった所が見えます。

 今度は二子新地駅のほうを見てみます。この橋を渡るとすぐに二子新地駅に到着します。右側に写っている電車は東京メトロ8000系で、こちら側に向かっています。左側に写っている電車は東京メトロ08系です。

 この橋は、外側が田園都市線、内側が大井町線となっています。このようになったのは最近のことで、私が通学路線としていた1990年代までは、内側の2線がなく、外側2線の間は広い空間となっていました。つまり、内側に橋はなかったのです。電車に乗っていると窓から河原の地面、水面が見えたのでした。風が強い日などには恐怖感を覚えたこともあります。「もしここでドアが勝手に開いたら地面か川に落ちる」と思えるのです。しかも、現在と異なり、1番線と4番線が大井町線、2番線と3番線が田園都市線でした。二子玉川駅に発着するためには写真のポイントを通過していたのです

 1980年代、テレビ朝日系で日曜日の20時台に「私鉄沿線97分署」という刑事ドラマを放映していました。そのエンディングには、二子玉川を発車して二子新地へ向かう田園都市線の電車からの前面展望動画が使われていました。もし、ビデオテープか何かで動画を保存されている方がおられれば、御覧下さい。私が記したことがおわかりになるかもしれません。

 少し角度を変えます。奥は高津区です。中程に高い建物が見えます。最も高い建物は、おそらく高津区で最も高い建物でしょう。高津区久本三丁目にあります。そこには日本電気(NEC)の東京第二工場があったのですが、JR南武線の向河原駅前にある工場に統合されてしまいました。その跡地にできたのが、高津区で最も高い建物で、分譲マンションです。

 その左側に、かながわサイエンスパーク、略称KSPが見えます。道路を挟んで高津区で最も高い建物の真向かい、坂戸三丁目にあります。私が学部生であった時にオープンしました。かつては池貝鉄工の工場で、南側の一角にはサイバネットという名前の会社もありました。坂戸や久本は工場が多かった所でして、現在はパークシティやイトーヨーカドー溝ノ口店がある場所は東芝玉川工場でしたし、その他、川崎電線、様々な町工場がありました。ちなみに、KSPの北側、坂戸1丁目には精密測定機器の製造・販売会社であるミツトヨの本社があります。また、KSPの南側、末長には富士通ゼネラルの本社があります。

 大学院生時代まで、KSP、とくに1階の流水書房によく行きました。場所柄なのか理系、技術系に強く、また、当時、川崎市で最も洋書や洋雑誌を扱っていた店で、NewsweekやTimeは勿論、SpiegelやLe Pointなども売られていました。しかし、私が大分大学に就職してからは行かなくなりました(大分市に住んでいたので「当たり前」と言われるかもしれませんが、その頃に川崎に帰ってきても行かなくなったのでした)。いつの間にか閉店しており、現在、KSPに書店はありません。

 また角度を変えます。今度は下流側で、赤色の橋は第三京浜道路、手前の高層建築物は高津区諏訪か北見方にあるマンションでしょう。それよりも目立つのが奥にある高層建築物で、中原区の小杉町、新丸子東の辺り、平たく言えば武蔵小杉駅周辺にあるものです。川崎市で最も高い建物は武蔵小杉駅周辺にあるのです。東急東横線に乗っていると、その異様さがよくわかります。2011年3月11日14時46分、これらの超高層建築物の様子はどのようなものであったのでしょうか。10階にある研究室でひどく大きな揺れを体験した私としては、少しばかり関心があります。

 再び兵庫島公園です。何時のことであったか、また、一度だけであったかどうか、よく覚えていないのですが、兵庫島に入ったことがあります。当時は今のようなマンションなどもなく、もっとのどかな雰囲気がありました。

 二子玉川駅周辺の散策は、まだ続きます。それは、また機会を改めて。

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再掲載:東急大井町線途中下車(1)二子玉川駅(その2) 

2017年05月17日 00時00分00秒 | まち歩き

 〔今回は、「待合室」の第433回として2011年8月6日から同月14日まで掲載したものです。なお、写真撮影日は2010年6月1日です。〕

 世田谷区玉川2丁目にある二子玉川駅の周辺を歩いています。地元の長年の懸案であったという再開発事業も2011年3月で完成したようですが、今回は2010年の様子を取り上げます。

 2010年6月1日、二子玉川ライズのかなりの部分は完成していましたが、まだ仮営業の段階でした。完全なオープンは2011年3月19日です(当初は17日の予定でしたが、東日本大震災の影響によって2日間延ばされたのでした)。

 再開発の前の、どちらかと言えばひなびた雰囲気を知っていますので、この変化の大きさには驚きました。遊園地の二子玉川園の面影は完全に消滅しています。また、23区域にある自動車学校では最大の面積を誇っていた東急自動車学校も唐木田に移転しました。今目の前にある建物の場所はバスターミナルでした。ロータリー型になっており、その周りに交番、東急ストア、東急ハンズなどが建っていましたが、2階建てでした。また、そのバスターミナルから二子玉川園の正門の辺りまで、八百屋、中華料理屋、書店など数件の店がありました。たしか駄菓子屋かおもちゃ屋もあったと記憶しています。二子玉川園の正門は閉園後もほぼそのままで残されており、そこに目黒駅行と多摩川駅行のバス停がありました。この二つの系統だけはバスターミナルから少し離れたこの場所から発車していたのです。

 向きを少し変えます。柱などで大井町線の高架橋が見えにくくなっています。右側に、既に営業している店舗の案内が書かれています。この中には再開発の前からこの駅前で営業していた店もあります。ここまで変わると、以前どうなっていたかを思い出すことが難しくなります。溝口は覚えていますが、よく行っていたとはいえ、溝口より頻度が落ちる二子玉川については、それほどよく覚えている訳ではないのです。

 さて、駅の自動改札機を通り抜けてホームに立つこととしましょう。東急は、関東の大手私鉄の中でも早くから自動改札機を導入しており、二子玉川駅も、JR東日本が首都圏の各駅に自動改札機を大々的に設置した時期よりかなり前から自動改札機を導入していました。但し、花火大会の時は乗降客があまりに多くなるため、自動改札機を停止させていました。

 田園都市線上り電車が到着する4番線のホームに立ちます。多摩川の河原がすぐ目の前に見えるのは二子新地側、10号車のほうです。天気が良ければ富士山も見えるホームから、すぐ近くに目をやれば、御覧の通りです。下に細い道が通っており、兵庫島公園に向かうことができます)。私は、大学院時代、そして結婚してから、通学・通勤で二子橋を渡り、兵庫島公園のほうを電車の中から見ています。

 以前は富士観会館であった場所に高層マンションが建っており、その奥にもマンションが並んでいますが、中程に一軒家らしい建物も見えます。手前にかすかに見える道路が旧大山街道の二子橋です。

 兵庫島公園が見えます。写真の左手前側が兵庫島公園です。奥のほうに国道246号線の新二子橋が写っていますが、その辺りから二子玉川緑地となっています。上の写真にある水の流れですが、これは多摩川ではなく、野川です。野川は国分寺市にある源流を発し、調布市などを通って世田谷区に入り、ここで多摩川に合流します。つまり、野川は多摩川の支流です。兵庫島は、多摩川と野川の合流地点にあります。

 この名前の由来ですが、1358年といいますから室町時代の初期、南北朝の時代の武将で、新田義貞の二男である新田義興に関係します。義興は南朝方についていたのですが、足利家の策略によって謀殺されてしまいます(自害したと記すものもあります)。この時、新田軍の従者に由良兵庫助という人物がおり、兵庫助も死を遂げることとなりました。その死体が流れ着いた場所がここで、彼がここに葬られたので兵庫島と名付けられた、というのです。

 但し、この説については義興が謀殺された場所という問題があります。一般に矢口の渡と言われていますが、この矢口の渡の場所についていくつかの見解があるのです。最も有力なのは現在の大田区矢口付近であり、東急多摩川線には矢口渡という駅がありますし、その隣の武蔵新田駅は大田区矢口にあります。そして、武蔵新田駅の近くにある新田神社(駅名はこの神社に由来)は、新田義興を祀っています。

  しかし、そうであるとすると兵庫助の死骸が現在の兵庫島に流れ着くはずはないのです。理由は簡単で、兵庫島のほうが上流にあるからです。地図を見ればすぐにわかりますが、多摩川は、川崎市側で言えば多摩区、高津区、中原区、幸区、川崎区を通って東京湾に注ぎます。従って、東京都側で言えば調布市、狛江市、世田谷区、大田区を通って河口(大田区)に至るのです。兵庫助の亡骸が兵庫島に流れ着くためには、東京湾が満潮を迎えるなどして川が逆流するようなことがない限り、上流からでないと説明がつきません。

 そうすると、稲城市にある矢野口(JR南武線に矢野口駅があります)こそが矢口の渡の場所であると考えなければなりません。この見解も有力です。また、他にも説があるようです。

 なお、兵庫島といいますが、現在は島ではありません。かつては中洲であり、文字通りの島であったのですが、洪水などの自然現象により、陸続きになっています。

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再掲載:東急大井町線途中下車(1)二子玉川駅(その1)

2017年05月16日 01時08分32秒 | まち歩き

 このブログに「東急大井町線途中下車」シリーズを掲載しました。元は私の「川崎高津公法研究室」に設けていた「待合室」で掲載していたものですが、2014年10月13日に休止、2015年1月24日に終了したため、第9弾の北千束駅から第14弾にして最終の大井町駅まではこのブログに掲載しました。また、第8弾の緑が丘駅は「待合室」に掲載したものを、ほぼそのまま、このブログに再掲載しています。

 しかし、第1弾から第7弾までは、このブログに掲載していません。開始から終了まで5年程かかってしまったこともあって「今頃再掲載してどうする?」という気持ちもあるのですが、やはり途中からというのもおかしいので、再掲載することといたしました。

 今回は第1弾の1回目として「待合室」の第431回として2011年7月30日から同年8月6日まで掲載したもので、やはり「待合室」に掲載していた「東急田園都市線途中下車」シリーズの第14弾をも兼ねていました。なお、写真撮影日は2010年6月1日です。

 〈以下再掲載〉

 1990年代に大きく変わった街と言えば、我が高津区の溝口です。その溝口から2キロメートルしか離れていない世田谷区玉川は、21世紀になってから大きく変わりました。2011年3月19日に二子玉川ライズが完全オープンとなりましたが、これが二子玉川駅周辺再開発事業の一環でして、急行停車駅でありながらひなびた感じのあった東口は大きく変わってしまいました。1980年代まで営業していた二子玉川園という遊園地、その後にできたナムコ・ワンダーエッグ、ねこたま、そして二子玉川園の門の真ん前にあった中華料理屋(競馬の馬主でもあった)がなくなりました。東急自動車学校もなくなりました(唐木田へ移転しています)。道路なども変わってしまい、二子玉川園があった頃の面影は失われつつあります。

 小学生の頃から、自転車でよく二子玉川園駅周辺に行きました。大学院生時代は溝の口~早稲田(地下鉄)の通学定期券を持っていたので、よく二子玉川園駅で降り、玉川高島屋南館や東急ハンズなどで買い物をしたものです。2000年8月6日に駅名が二子玉川となりました。その頃は大分市に住んでいましたが、川崎市に帰ると時々寄りました。2004年4月から大東文化大学に勤務していますが、目黒線を利用していたのであまり寄らなくなりました。それでも、時々、大岡山で大井町線に乗り換えては二子玉川に行ったりしたこともあります。2010年4月からは田園都市線を利用するようになり、時々降りて買い物などをしています。今は通勤定期券を持っていますので、途中下車も楽です。

 二子玉川駅を利用する機会は多いため、写真もよく撮っています。そこで、今回は、東急田園都市線途中下車シリーズの第14弾として、二子玉川駅を取り上げることにしました。枚数が多いこと、撮影日がバラバラであることから、何回かに分けて掲載します。

 また、二子玉川駅は、東急大井町線の正式の終点でもあります(営業運転は大井町~溝の口ですが、二子玉川~溝の口は田園都市線に乗り入れる形をとっています)。そこで、今回から東急大井町線途中下車シリーズも立ち上げます。二子玉川駅はその第1弾ということになります。 

 二子玉川駅と言えば玉川高島屋でしょう。駅の西側にあり、1969(昭和44)年に開店しました。渋谷から二子玉川園まで走っていた玉川線と、二子玉川園から砧本村まで走っていた砧線が廃止された年に当たります。開業以来、二子玉川の象徴ともなっています。

 この玉川高島屋ですが、実は百貨店の歴史を大きく変えた店舗でもあります。今もそうなのかもしれませんが、当時、百貨店と言えば都市の中心部にある繁華街、あるいは中心駅の前にあるものでした。しかし、高島屋はその常識を破りました。二子玉川園駅と言えば、1969年の当時、多摩川に近い場所に遊園地があり、渡し船もあった所で、同年に廃止された玉川線の終点にして砧線の起点、そして田園都市線の途中駅に過ぎません。世田谷区の中心ではありませんし、繁華街ではありません。つまり、郊外としか言えない場所です。そこに百貨店ができたのです。つまり、玉川高島屋は郊外型百貨店の第1号なのです。そして、これが大当たりでした(もっとも、開店からしばらくの間は苦しい経営を強いられたという話も聞きます)。その後、二子玉川園駅の西口には金融機関など、様々な業種の店舗が増えていきました。

 奥に二子玉川駅のホームが見えます。二子橋に向かう道路を歩いています。かつては国道246号線でした。旧大山街道でもあります。現在の国道246号線は駅から少し離れ、玉川高島屋の西側の駐車場の上を通り、新二子橋を渡ります。

 駅の北側にドッグウッドプラザがありますが、その工事中であった時の写真です。この辺りにはガーデンプラザのような一角があり、何軒かの飲食店もありました。曜日によってはかなり混んでいたことを覚えています。

 詳しいことはわかりませんが、このドッグウッドプラザの辺りが、かつての玉川線および砧線の駅があった場所です。玉川線は現在の田園都市線とほぼ同じ場所を通り、砧線は二子玉川インの付近から左へ大きく曲がり、中耕地、吉沢、そして終点の砧本村に向かっていました。現在でも、二子玉川インと玉川高島屋SCの東側駐車場との間に痕跡があります。

 砧線は玉川線と同時に廃止されてしまった全線単線の路線です。玉川線は軌道線でしたが、砧線は鉄道線でした。しかし、砧線の車両は玉川線と同じでした。今回の写真にはありませんが、別の日に中耕地駅跡を歩きましたので、機会を見つけて紹介いたします。なお、砧線の廃止後は高津営業所の所管路線である玉06系統が走っています。8の字のような形をした路線です(二子玉川駅→中耕地→吉沢→都市大総合グランド前→砧本村→世田谷総合高校→吉沢→二子玉川緑地前→二子玉川駅)。

 二子玉川駅の近くです。右奥に高層マンションが建っていますが、以前は富士観会館でした。その手前にパチンコ屋があり、1980年代には、そのパチンコ屋の店内放送が駅のホームにまで聞こえていました。

 この先に二子橋があります。かつて、大井町線、田園都市線の電車は二子橋の道路の上を走っていましたが、1966(昭和41)年には現在の専用の橋梁に移っています。二子橋を渡ると川崎市高津区二子、そして二子新地駅でして、二子玉川駅のホームに立つと二子新地駅がよく見えます。

  上の写真の奥に写っている交差点を右折するか、二子橋の脇を通って右折すると兵庫島です。夏の世田谷区たまがわ花火大会の会場もその辺りです。最近は川崎市の多摩川花火大会と同時に行われることが多く、昨年(2010年)もそうでした。川崎市の打ち上げ場所は田園都市線の橋梁と第三京浜との間です。開催日に田園都市線か大井町線に乗ると、両方の窓から花火が見える訳です。

 二子玉川駅の改札口です。田園都市線と大井町線の乗換駅で、もちろん急行も準急も停車しますが、位置の関係で改札口はこの一箇所しかありません。田園都市線でも大井町線でも1号車でないと遠い所です。ホームが多摩川の上まで伸びている関係もあるようです。

  日本で最も改称が多い駅は阪急千里線の関大前駅ですが、二子玉川駅はその次くらいでしょうか。ここは東急で最も改称が多い駅です。まず、1907(明治40)年、玉川電気鉄道の玉川駅が開業しました。これとは別に、1929(昭和4)年、目黒蒲田電鉄の二子玉川駅が開業しました。大井町線の自由が丘~二子玉川の開業に伴うものです。この時点で、玉川と二子玉川は別々の駅であったようです。1940(昭和15)年、二子読売園と改称しました。1944(昭和19)年、名称は二子玉川に戻ります。その10年後、1954(昭和29)年、今度は二子玉川園に改称されました。そして2000(平成12)年8月6日、再び二子玉川に改称されました。二回も当初の名称に戻されるというのは珍しい例でしょう。これには地元の意向が反映されていたようです。

 二子玉川といいますが、所在地は世田谷区玉川で、二子という地名は、少なくとも現在、世田谷区になく、対岸の川崎市側にあります。二子の渡しにちなんでいるのか、かつては世田谷区にも二子という地名があったからなのか、詳しいことはわかりません。世田谷区と川崎市の双方にある地名としては、宇奈根、瀬田(二子新地駅のそばにある狭いエリアです)、等々力などがあります。

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こういうことを迂闊には書けない

2017年05月15日 23時20分40秒 | 日記・エッセイ・コラム

 私のこのブログは「gooブログ」を利用しています。そのため、gooを時々見ています。

 先程、たまたま、「gooランキング」の記事で「アニメ史上最も『悲惨なバッドエンド』を迎えた作品ランキング」という記事(2016年12月2日11時30分付)が目に付きました。その中で、1位として「火垂るの墓」があげられており、次のように書かれていました。

 「日本にいたらきっと1度は見たことがある作品」

 私は一度も見たことがありません。

 

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某コンビニで

2017年05月13日 21時00分54秒 | 日記・エッセイ・コラム

 5月11日0時0分0秒付で「大坂府? 大坂市?」という記事を投稿しましたが、まさか試験答案以外にこの誤表記を見つけることになるとは思いも寄りませんでした。

 今日の午後、中央大学多摩校舎から帰る途中に、川崎市内の某所の某コンビニに寄りました。そこで買い物をして会計を済ませた直後のことです。レジスターに付けられている電子広告で、チケット予約の広告が流されていたのですが、大坂で行われるコンサートの案内で「大坂」と書かれていました。しかも、会場名については「大阪」と書かれています。

 ただの誤りなのでしょう。バグではなさそうです。

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