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詩の一行

水曜日、。旧暦、8月12日。

ないと地獄であると修羅場なものなーんだ? 答え、フリーの仕事。というわけで、ここ数日、ドイツ語の仕事に専念していた。複数のエージェントに聞くと、「ドイツ語はないことはない」という需要レベルで、このままでは、忘れた頃にやってくる天災みたいになってしまう。この状況を突破するには、ドイツ語の出版翻訳への参入が不可欠である。課題は多いなあ。



詩を読んでいて、その一行に打たれることがある。この感じは、なかなか他に喩えることができないが、ハンマーのようなもので物理的に衝撃を受けるのに似ている。



樹下で



こんな世界に 私はこどもを生まないの

そう言ったゆきさんが
身ごもって
それからは
もう 嘆かなくなった
遠い国の戦争のはなしをしなくなった

決意するとき
ひとは 一度 そっと目をふせるのだろう

夏の終わり
おすそわけの葡萄を持って
ゆきさんに会いにいく

心配かけました

そう言ってゆきさんは
昨日までの日々の話をし

きのう アフリカ象の
出産のおはなしを読んだのですよ
くすくすと 笑う

いのちを生み終えたものと
いのちを宿しているものと

樹下にすわり
おなじ小さなかげのなかで
こんな世界、の ひかりを見ている

草野信子「樹下」全(『Junction 60』所収)




決意するとき
ひとは 一度 そっと目をふせるのだろう

■この2行にぼくは打たれた。オーデンの「見るまえに跳べ」という詩句が倫理を表現しているのに対して、この2行は、だれにもあてはまる真実をそっと伝えている。ぼくらは詩に打たれ、航海図の上の自分の位置をふたたび確かめることになるのだ。
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