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虚子の戦中俳句(五)

金曜日、。旧暦8月15日。中秋の名月。雨月である。

去年の十五夜は新暦9月18日だった。今年は旧暦の閏年にあたり、一年が13ヶ月あり、7月が2回続いた関係上、旧暦8月15日が去年より一ヶ月近く遅れた。

旧暦は一ヶ月29.53日(朔望周期)、それに12ヶ月を掛けると354日となり、新暦の365日からは11日足らないことになる。そこで約3年に1度、1ヶ月(19年に7度)増やし、1年を13ヶ月とすることによって、実際の季節の流れとのズレを解消するらしい。

それにしても、ひどい風雨である。今も北窓を風と雨が叩きつけている。



景気は上向いているようだが、このところ、翻訳の受注量が減ってきている。その関係で、新規開拓に勤しんでいるのだが、これがなかなか一筋縄ではいかない。サイバーも大幅に遅れている。今日は、投句の締め切りも重なり、結構、ハードな一日だった。日頃、散文世界にどっぷり浸かっている身を韻文世界にスイッチするのは大変でもあるが、面白くもある。散文とは違った韻文の思考というものが確かにあり、その違いはさまざまなことを考えさせる。

雨の月生き急ぐなと声のする



さて、虚子である。昭和15年(1940年)まで来た。この年にはこんなことがあった。

1月1日 NHKが皇紀2600年を告げる大太鼓を橿原神宮から中継放送する。
3月28日 内務省がディック・ミネら16人の改名を指示する。
5月6日 菊池寛らの文芸銃後運動第1回講演会。(久米正雄、横光利一、林芙美子ら)
中国で戦闘を続け、国内では精神総動員をする非常時を、「僕らの試練」と捉える小林秀雄の「事変の新しさ」は講演の一つだった。
7月10日 内務省が左翼出版物の弾圧強化。
7月27日 大本営政府連絡会議で武力行使を含む南進政策が決定される。
8月1日 国民精神総動員本部が東京市内に「贅沢は敵だ」のたて看板を立てる。
8月1日 東京府の食堂・料理店などで米の使用が禁止される。
8月30日 学生の劇場・映画館の入場が禁止される。
9月26日 国民体力法が実施され、ツベルクリン反応などの集団検診を行う。
9月27日 日独伊三国同盟がベルリンで調印。
10月12日 大政翼賛会が発足。
10月31日 東京のダンスホールがこの日限りで閉鎖される。
11月2日 大日本帝国国民服令が公布。
11月10日 紀元2600年祝賀行事が盛大に行われ、5日間にわたって提灯行列・旗行列などが催される。

■書いていて、ため息が出てくる。なんともひどい時代である。国民体力法ってなんだろう。集団検診は戦争に起源を持つとは思わなかった! この時代、人間としてまともだった尾崎秀実のような人は、国際共産主義運動しか選択肢がなかったというのも、やりきれない。

この時代、花鳥諷詠の人は、どんな句を詠んだのだろうか。

1月8日 大寒の埃の如く人死ぬる
1月8日 大寒や見舞に行けば死んでをり
1月8日 悴める手を上げて人を打たんとす
1月11日 寒真中高々として産れし声
1月12日 なりふりもかまわずなりて着膨れて
3月9日 春宵の此一刻を惜しむべし
4月5日 病む子あり花にも一家楽しまず
5月3日 涼しさは下品下生の仏かな
5月3日 ゆく春の書に対すれば古人あり
5月8日 喧騒の蛙の声の中に読む
6月27日 羽抜鳥卒然として駈けりけり
9月4日 徳川の三百年の夏木あり
9月9日 秋風や相黙したる汝と我
9月20日 我命つゞく限りの夜長かな
9月24日 秋風や相逢はざるも亦よろし
9月29日 爪立てをして手をあげて秋高し
10月19日 拝謁を賜りければ菊の花
11月10日 出御今二千六百年天高し
12月20日 懐手して俳諧の徒輩たり
12月26日 美しく耕しあるぬ冬菜畑
12月27日 冬日濃しなべて生きとし生けるもの
12月30日 北風に人細り行き曲がり消え

■なんとも言えない気分になった。花鳥諷詠というよりも生と死を見つめる句が多い。また、10月19日の拝謁の句や11月10日の紀元2600年式典の句には、虚子の時代的限界を見るべきなのだろうが、これが過去のものとは思えない。列強の植民地化を避けるために中国大陸への進出は仕方なかったとか、イラク戦争のときの米国だって言論統制がひどかったじゃないか、とか、子どもじみた自己正当化が、酒の席でも出てくるようになっている。いい大人が、こんなことを言っているのだ。こうした言説の根にあるのは実に狭苦しい身内意識のナショナリズムだ。歴史は自己正当化するためにあるのではないだろう。歴史は学ぶためにあるのだろう。過去にこそ未来がある。
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