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心のたねを言の葉として

過去への自責の念、行動に 女優・李香蘭を悼む 映画史家・比較文化学者、四方田犬彦

2014-09-20 15:03:20 | 映画
過去への自責の念、行動に 女優・李香蘭を悼む 映画史家・比較文化学者、四方田犬彦
2014年9月17日05時00分 朝日新聞



 山口淑子さんが7日、94歳で逝去された。リオデジャネイロの大学で集中講義の最中に訃報(ふほう)を知らされたわたしは、周囲に彼女のことを語り合う人間がいないことに孤独を感じている。
 わたしが親しく訪れた台湾やパレスチナの難民キャンプでは、おそらく事情はまったく違っているだろう。人々は70年前に台湾の少数民族の少女を映画で演じた李香蘭を懐かしみ、自分たちの惨状に深い共感をもってドキュメンタリーを撮りあげたジャミーラ・ヤマグチに熱い思慕の念を送っているはずだ。
 一昔前だが、わたしが映画史家として山口さんにインタビューしようと東京・一番町のアパートメントを訪問したとき、彼女は自分のことをただ「ジャミーラ」と呼んでほしいと語った。それは難民キャンプでの日々に、パレスチナ解放機構のアラファト議長から与えられた名前だった。
 山口さんは1920年に旧満洲(現在の中国東北部)の瀋陽に、日本人を両親として生まれた。幼少時より北京語に馴染(なじ)み、白系ロシア人から声楽を叩(たた)きこまれ、ラジオ歌手として活躍。芸名の「李香蘭」はそのとき考案された。やがて満洲映画協会の花形女優となり、日本に「帰国」すると、日中親善を説くメロドラマ映画「支那の夜」で大スターとなった。
 奇(く)しくも彼女は原節子と同年生まれであるが、彼女とは対照的に、常に異郷の女、占領地でたくましく生き延びる女を演じ続けた。もっとも彼女がほんとは純粋な日本人である事実は極秘事項であり、まだ十歳代の山口さんは日夜それに悩まなければならなかった。
 日本が敗戦を迎えたとき、李香蘭は中国侵略に加担した売国奴として、国民党政権によって死刑を求刑された。だが日本人だと判明して無罪となり日本に帰国。その後、ハリウッドや香港でも活躍。70年代に入るとパレスチナ問題に積極的に関わり、日本赤軍をめぐるインタビューでテレビ大賞優秀個人賞を受賞した。
 こうした彼女の行動には、少女時代に軍国主義の操り人形とされた過去への、強い自責の念が感じられる。アラブ問題に強い国会議員を18年勤めあげ、鶴見俊輔や三木睦子らとアジア女性基金を設立、民間レベルでも元従軍慰安婦問題解決に腐心したことは、重要なことである。
 「長い間、わたしの最大の秘密は、わたしが日本人だということでした。それが解けてしまった以上、もはやわたしに秘密はありません」と、彼女はわたしに語った。金日成にせがまれ酒席で「支那の夜」を歌った話やら、ウガンダでアミン大統領とホワイトクリスマスを祝った話やら、わたしは信じがたい話を次々と聞いたが、いつかそれを纏(まと)めてみておこうかと考えている。

 ■絶大な人気 常に歴史の転換点に
 山口さんを悼む声は、各界から寄せられた。
 満映の映画編集者だった岸富美子さんは、新京(現長春)にあった満映の社宅で隣同士だった。「素晴らしい中国服を着て出社されるのをいつも眺めていました。日本でも満州でも、男性に絶大な人気があった。私の兄(福島宏)は『私の鶯』という映画のカメラマンでしたが、うわさになってはいけないと、あまり親しくしないよう気を配っていました」
 チャーリー・チャップリンとも親しく、「日本チャップリン協会」の名誉顧問を務めた。大野裕之会長は「『ライムライト』の音楽の録音に立ちあい、オーケストラを指揮するチャップリンを間近で見たそうです。ペット型ロボットに『チャーリー』と名付け、『彼が身近にいる気がするの』と可愛がっていました」
 波乱の人生は劇団四季が「ミュージカル李香蘭」として舞台化した。企画した演出家の浅利慶太さんは、次のようなコメントを寄せた。「あの気品あるほほ笑みが今でも脳裏から離れません。ミュージカル製作の際には、取材のため、中国大陸に赴き、その足跡を訪ね歩きました。彼女は常に昭和の歴史の転換点にいらして、忠実にその時と向き合っておられた」
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