港町のカフェテリア 『Sentimiento-Cinema』


献立は…  
シネマ・ポップス…ときどきイラスト

『4月1日』

2019-03-31 15:51:31 | 明日は誰の日

【誕生日】


☆デビー・レイノルズ Debbie Reynolds (1932.4.01~2016.12.28)



テキサス州エルパソまれで、小柄ながら唄って踊れる人気者のミュージカル映画女優です。
ハイスクール時代からバーバン・シンフォニーに歌手として所属、18歳の1948年に移り住んでいたカリフォルニア州
バーバンクでミス・バーバンクに選ばれてワーナー社の目にとまり契約しました。同年には映画『花嫁の季節』など
二本に端役として出演、次いでMGMと契約し1950年『土曜は貴方に』で準主役級として出演し、ミュージカル・スター
としての素質を認められ、1952年の『雨に唄えば』でその素質が絶賛されて将来のスターを約束されました。
さらに1957年の『タミーと独身者』(日本未公開)の中で歌った主題歌『タミー』が全米5週連続1位の大ヒットとなって
唄って踊れるミュージカル映画の大スターとなりました。
その後もミュージカルやコメディ作品などで大活躍し続け、1970年以降にはブロードウェイやTVなどにも出演、晩年には
アニメの声優などもこなしていたようです。

【主要出演作品】
1950年『土曜は貴方に』 Three Little Words
1952年『雨に唄えば』 Singing in the Rain

1954年『奥様は芳紀17才』 Susan Slept Here
1956年『歓びの街角』 Bundle of Joy
1957年『タミーと独身者』Tammy And The Bachelor

1958年『年頃ですモノ!』 This Happy Feeling
1960年『ねずみの競争』The Rat Race
1960年『ペペ』Pepe
1961年『結婚泥棒』 The Pleasure of His Company
1961年『ママは二挺拳銃』The Sencond Time Around
1962年『西部開拓史』 How the West Was Won 

1963年『ちびっこ天使』 My Six Loves
1964年『不沈のモリー・ブラウン』 The Unsinkable Molly Brown
1966年『歌え!ドミニク』 The Singing Nun



☆ジェームズ・エドワード・ブラウン James Edward Brown (1934.4.01~2015.6.11)



通称「ジム・エド(Jim Ed)」と呼ばれた人気ファミリー・グループ「ザ・ブラウンズ」のリードヴォーカリストです。
アーカンソー州スパークマン生まれで、長女マクシーン、長男ジム・エド、次女ボニーの三兄妹で「ザ・ブラウンズ」を
結成し、カントリー・シンガーの登竜門とされるルイジアナ・ヘイライドに出場、即座にRCAからスカウトされ、1956年に
『アイ・テイク・ザ・チャンス』でレコード・デビューを果たしました。その後の1959年には『谷間に三つの鐘が鳴る』が
全米No.1の大ヒットとなりました。元歌はエデット・ピアフが1945年に唄ったシャンソン ”Les trois cloches” なのですが
これを素朴な歌声で見事に唄い切りました。
また1959年の「Scarlet Ribbons」、1960年の「The Old Lamplighter」なども米国ではかなりのヒットとなったようです。
ジム・エドは1965年からソロでも活動をはじめ、「ザ・ブラウンズ」は1967年に解散することになります。
1976年にはヘレン・コーネリアスとデュオを組んで「I Don't Want To Have To Marry You」が米国カントリー1位となるなど
カントリー畑で活躍を続けました。

↓はザ・ブラウンズの『いとしのクレメンタイン』【YOUTUBEより】


↓はザ・ブラウンズの『谷間に三つの鐘が鳴る』【YOUTUBEより】



『3月31日』

2019-03-30 16:56:16 | 明日は誰の日

【誕生日】


☆ハーブ・アルパート Herb Alpert (1935.3.31~ )



ロサンゼルス出身のトランペッターでアメリアッチ系グループであるティファナ・ブラスのリーダーです。
少年時代からトランペットに馴染み、1950年代後半にはルー・アドラーとのコンビでサム・クックやジャン&ディーンらの
プロデュース、更に1962年にはジェリー・モスと共同でA&Mレコードを創立するなど音楽業界にたずさわり、その一方で
アメリアッチ系グループのハーブ・アルパート&ティファナ・ブラスを結成し、自身のトランペットをフィーチャーした
初のシングル盤『悲しき闘牛』をリリース、これが全米6位のヒットとなりプレイヤーとしても一躍注目を集めました。
また、1965年の『蜜の味』『ビタースウィート・サンバ』がヒットしましたが、1969年の『マルタ島の砂』を最後に
グループを解散、その後も何度か編成をやり直したもののうまくいかなかったようです。その後、アルパートはソロ・
ミュージシャンとして活動を始め、現在も演奏家として活動を続けているようです。

↓はハーブ・アルパート&ティファナ・ブラスの『悲しき闘牛』【YOUTUBEより】


↓はハーブ・アルパート&ティファナ・ブラスの『蜜の味』【YOUTUBEより】


↓はハーブ・アルパート&ティファナ・ブラスの『ビタースウィート・サンバ』【YOUTUBEより】


↓はハーブ・アルパート&ティファナ・ブラスの『マルタ島の砂』【YOUTUBEより】



【ご命日】

★ジュールズ・ダッシン Jules Dassin (1911.12.18~2008.3.31)



マッカーシズムの赤狩りでアメリカを追われ逆にヨーロッパで本領を発揮して大成した映画監督。
主な監督作品として『裸の町』『男の争い』『宿命』『掟』『日曜はダメよ 』『死んでもいい』などがある。


★アルフレッド・デ・アンジェリス Alfredo de Angelis (1912.11.02~1992.3.31)



ダンス向きの明快な演奏のアルゼンチン・タンゴのピアニスト兼楽団指揮者。
主な名演として『花売り娘』『大きな人形』『ミロンガが泣く時』『淡き光に』などかある。



   *****


『ビタースウィート・サンバ』の動画差し替えました。
申し訳ありません。



『3月30日』

2019-03-29 16:00:16 | 明日は誰の日

【誕生日】

☆ジャン・クロード・ブリアリ Jean-Claude Brialy (1933.3.30~2007.5.30)



1950年代の後期に台頭したヌーヴェルヴァーグ・カイエデ派で欠かせない活躍をしたフランスの俳優です。
軍人だった父親の赴任先のアルジェリアで生まれその後も各地を転々として育ちました。大学入試資格を取得したものの
仏独国境の町ストラスブルグのコンセルヴァトワールで演劇を学び、パリに出てニュース映画のナレーションなどをして
いた頃にカイエデ派と交流、これによりヌーヴェルヴァーグ作品の俳優として映画デビューしました。
特に代表作となった1959年の『いとこ同志』で一躍注目を集め、その後も精力的に数多くのヌーヴェルヴァーグ作品に
出演し続けました。
1972年には盟友クロード・シャブロルの力を借りて第一回監督作品『小さな約束』を撮り、その後も数作品の監督をした
ようですが、評価としてはイマイチだったようです。

【主要出演作品】
1956年『王手飛車取り』Le Coup du berger
1958年『美しきセルジュ』Le beau Serge
1959年『恋ひとすじに』Christine
1959年『いとこ同志』Les Cousins

1959年『大人は判ってくれない』Les Quatre cents coups
1959年『学生たちの道』Le chemin des écoliers
1959年『狂った夜』La notte brava
1961年『素晴らしき恋人たち』Amours célèbres
1961年『女は女である』Une femme est une femme

1961年『新7つの大罪』Les sept péchés capitaux
1962年『火刑の部屋』La chambre ardente
1962年『ヒッチ・ガール』Les petits matins
1962年『5時から7時までのクレオ』Cléo de 5 à 7
1962年『フランス式十戒』Le diable et les dix commandements
1963年『俺は知らない』Le glaive et la balance
1963年『スエーデンの城』Château en Suède

1964年『輪舞』La Ronde
1964年『ピストン野郎』Un monsieur de compagnie
1967年『まぼろしの市街戦』Le Roi de cœur
1967年『愛すべき女・女たち』Le Plus vieux métier du monde'
1968年『黒衣の花嫁』La Mariée était en noir


☆ウォーレン・ビーティー Warren Beatty (1937.3.30~ )



女優シャーリー・マクレーンの実弟でアメリカ・ニューシネマ時代の先駆的存在となったアメリカの俳優です。
父はバンドマン、母は元女優、姉は人気スターという芸能一家で育ちました。大学卒業後にニューヨークに出てステラ・
アドラー演劇学校で学んだ後TVや舞台に立つようになり、1961年の『草原の輝き』で映画デビューを果たしました。
しかし、作品を選びすぎたために俳優としての仕事が激減、その間に名だたる女優と浮名を流し、「婚約魔」と囁かれる
ほどのプレイボーイとなってしまいました。しかし、映画への情熱は人一倍強く、1967年には『俺たちに明日はない』の
映画化権を買い取り、監督にアーサー・ペンを迎えて制作兼主演、これがアメリカ・ニューシネマの原点となったことで
その手腕が高く評価されました。それ以後は俳優としてよりも製作者・脚本家・監督として活路を開いています。

【主要出演作品】
1961年『草原の輝き』 Splendor in the Grass

1961年『ローマの哀愁』 The Roman Spring of Mrs.Stone
1966年『カレードマン/大胆不敵』Kaleidoscope
1967年『俺たちに明日はない』 Bonnie and Clyde



☆フランキー・レイン Frankie Laine (1913.3.30~2007.2.06)



「ミスター・リズム」の愛称でジャズ、ポップス、カントリーなど幅広い分野で活躍したアメリカの歌手です。
1937年から歌手として活動を開始し、1947年に "That's My Desire" がトップ10入りのヒットを記録、1952年の西部劇
『真昼の決闘』のテーマ曲『ハイ・ヌーン』をカヴァーし、1957年には『OK牧場の決闘』で日本でも演歌調の歌唱で
人気者になりました。また、1959年から始まったTVシリーズのテーマ曲『ローハイド』はテレビが普及し始めた時期
でもあり、お茶の間の洋楽ファンでない人たちの間でも大いに話題となりました。
フランキー・レインの歌唱曲は「That Lucky Old Sun」や『ライターズ・イン・ザ・スカイ』『16トン』など数多く
ありますが、何と言っても下の三曲が極めつけとなっています。

↓はフランキー・レインの『ハイヌーン』【YOUTUBEより】


↓はフランキー・レインの『OK牧場の決闘』【YOUTUBEより】


↓はフランキー・レインの『ローハイド』【YOUTUBEより】



【ご命日】

★ジェームズ・キャグニー James Cagney (1899.7.17~1986.3.30)



強烈な個性の面構えでギャング映画の悪役などを演じたハリウッドの俳優。
主な出演作品として『民衆の敵 』『夜の大統領』『フットライト・パレード』『汚れた顔の天使』『白熱』などがある。


『3月29日』

2019-03-28 16:40:08 | 明日は誰の日

【誕生日】

☆アストラッド・ジルベルト Astrud Gilberto (1940.3.29~ )



1960年代半ばにブームとなったボサノヴァ、そのカリスマ的存在となったボサノヴァの女王です。
リオ・デ・ジャネイロで育ち、17歳の時に友人である歌手ナラ・レオンからギタリストのジョアン・ジルベルトを紹介され、
19歳の時の1959年にジルベルトと結婚、夫の影響でボサノヴァを唄うようになりました。
1963年に夫婦でアメリカに移住し、ジョアン・ジルベルト、スタン・ゲッツたちとともにアルバム『ゲッツ/ジルベルト』の
レコーディングを行ない、その中の一曲『イパネマの娘』がシングル・カットされて大ヒット、これによってアメリカで
ボサノヴァ・ブームが起こりました。1964年にはジルベルトと離婚し、ソロ歌手として『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』
『いそしぎ』などスタンダード・ナンバーのボサノヴアによるカヴァーを歌って次々とヒットを放ちました。
1965年には映画『クレイジー・ジャンボリー』『犯罪組織』などでその歌声を披露し人気はさらに増していき、同年には
ファースト・ソロアルバム『おいしい水』をリリースして名実ともにボサノヴァの女王に君臨しました。
ブームの陰った1970年代以降はコンサート活動が中心ながらも世紀を超えてアルバムをリリースしているようです。

【主要歌唱曲】
1964年『イパネマの娘』The Girl From Ipanema

1965年『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』Fly me to the moon

1965年『いそしぎ』The Shadow of Your Smile

1966年『おいしい水』Agua De Beber


1960年代中期は日本の洋楽ファンにとって一種のエポックであったかもしれません。アメリカのチャートではビートルズ
によるリヴァプール旋風が吹き荒れ、これに便乗したエレキ中心のロック・バンドが乱立、さらにはベンチャーズによる
エレキ・ブームも起こりました。そんな中でも手堅いカンツォーネ・ブーム、新風となるフレンチ・ポップスが人気を
集めて、以前はポピュラー・ソングという一括りの洋楽も多種多様になり、ファンもそれぞれ自分の好みのジャンルに
突き進むという現象が顕著になってきました。そんな流れの中でこのボサノヴァ・ブームが始まりました。


【ご命日】

★マントヴァーニー Mantovani  (1905.11.15~1980.3.29)



カスケーディングと呼ばれるきらびやかな編曲法でイージーリスニング界を席巻したイギリスの編曲者、指揮者。
主な演奏楽曲として『シャルメーヌ』『ベニスの夏の日』『ムーランルージュの唄』『魅惑の宵』などがある。



追記 この3月29日にアニエス・ヴァルダ監督がお亡くなりになりました。
謹んでお悔やみを申し上げます。


★アニエス・ヴァルダ Agnès Varda  (1928.5.30~2019.3.29)
アラン・レネなどによって結成されたヌーヴェルヴァーグ左岸派の女流映画監督でジャック・ドミ監督夫人。
主な監督作品として『5時から7時までのクレオ 』『幸福(しあわせ)』などがある。


『3月28日』

2019-03-27 15:31:39 | 明日は誰の日

【誕生日】


☆ヘラルド・エルナン・マトス・ロドリゲス Gerardo Hernán Matos Rodriguez (1897.3.28~1948.4.25)



不朽の名曲『ラ・クンパルシータ』の作曲でタンゴ界の旋風児となったウルグァイの作曲家です。
彼はアルゼンチンの対岸の隣国、ウルグァイの首都モンテビデオの人気キャバレーであるムーランルージュのオーナーの
息子としてモンテビデオで生まれました。
工科系の学生であった時に何げなく作曲したのが『ラ・クンパルシータ』でした。当初はカーニバルの行進曲で、本人も
この曲が後に世界的な名曲になるとは思ってもいなかったので二束三文でこの曲の著作権を売り渡してしまったそうです。
その後、新聞社に入り記者として三年間パリ在住、この頃に『ラ・クンパルシータ』が世界的な名曲となったことを知り
モンテビデオに戻ってヴィクトルの専属作曲家として迎えられました。作曲家としては他に数曲を残していますが、
1930年に作った『アディオス・アルヘンティーナ』がよく知られています。また『ラ・クンパルシータ』の著作権に関して
病魔と闘いながらの長期裁判もあり、結審を待たずにこの世を去っています。(ラ・クンパルシータに関する記事は下段)
ちなみにですが、この曲のレコードの最初の吹き込みは、ロベルト・フィルポ楽団、アロンソ=ミノット楽団、ファン・
マグリオ・パチョ楽団が最古であるといわれています。

↓はアロンソ=ミノット楽団の『ラ・クンパルシータ』【YOUTUBEより】


↓はファン・ダリエンソ楽団の『ラ・クンパルシータ』【YOUTUBEより】


↓はフランシスコ・カナロ楽団の『アディオス・アルヘンティーナ』【YOUTUBEより】



『ラ・クンパルシータ』余談
マトス・ロドリゲスが『ラ・クンパルシータ』を作曲した時はまだ17歳でした。当然のことながら音楽的にも未成熟であり、
最初の2パートしか作っていませんでした。この曲が後に世界的な名曲になるとは思ってもいなかった彼は二束三文で
この曲の著作権を売り渡してしまいました。
しかし、タンゴ界の大御所ロベルト・フィルポがこの曲に興味を示し、これに第三パートを加えさらには第一パートの
裏旋律を加えることによって見違えるような曲に生まれ変わりました。さらに1924年に『キャバレーのとあるプログラム』
という音楽劇のためにパスカル・コントゥルシとエンリケ・マローニが「シ・スピエラス…」という歌詞をつけ、後に
ガルデルがこれをレコーディングしたことにより、タンゴの代名詞的な楽曲として広められ、「ラ・クンパルシータ』は
二十四時間三百六十五日、途切れることなく全世界のどこかで演奏され続ける名曲となるに至りました。
その頃、新聞記者としてパリに在住していてマトス・ロドリゲスは「ラ・クンパルシータ』が全世界で大ヒットしている
ことを知り、さらに自分の知らないうちに歌詞までつけられていることに激怒、著作権の取戻し裁判で勝訴するとともに
マトス・ロドリゲス自らが「ラ・クンパルサ…」と作詞して対抗した上で、「シ・スピエラス…」という歌詞をつけた
コントゥルシとマローニに対して無断で作詞されたことに関する裁判を起こしました。裁判は長期におよび、その間に
病魔に倒れたロドリゲスは死去し、フランシスコ・カナロの仲介調停の結果、1948年に双方の権利を認める形で結審した
といわれています。
また、マトス・ロドリゲスが新しく付けた歌詞は既に定着していた歌詞には及ばす、現在でも「ラ・クンパルシータ』の
歌詞は「シ・スピエラス…」で定着してしまっています。

↓はカルロス・ガルデルの『ラ・クンパルシータ』【YOUTUBEより】 (シ・スピエラス…)


↓はオスヴァルド・プグリエーセ楽団の『ラ・クンパルシータ』【YOUTUBEより】 (ラ・クンパルサ…)

(最後のシ・スピエラス…はよぶんですね)


☆ダーク・ボガード Dirk Bogarde (1921.3.28~1999.5.08)



1960年代にイギリスをはじめ欧州で活躍したロンドン生まれの映画俳優です。
父親の仕事の関係でロンドンやパリの中学校を出たのち王立美術学校で商業美術と舞台美術を学んでいた時に、舞台裏に
出入りして大道具係や呼び出し薬などのアシスタントになり、病欠の代役として初舞台を踏みました。
第二次大戦後の1947年にはニュー・リンゼイ劇場の舞台で英国の映画王アーサー・ランクに認められて長期契約を結び、
いらい1960年代に入ってからは『召使』『できごと』『フィクサー』などに出演してイギリスで不動の地位を固めました。

【主要出演作品】
1957年『二都物語』A Tale of Two Cities 
1960年『わが恋は終りぬ』 Song Without End
1963年『召使』 The Servant

1965年『ダーリング』Darling 
1966年『唇からナイフ』Modesty Blaise
1967年『できごと』Accident 
1968年『フィクサー』The Fixer 

1969年『地獄に堕ちた勇者ども』Götterdämmerung

1971年『ベニスに死す』 Death in Venic


【ご命日】

★クリスティーネ・カウフマン Christine Kaufmann (1945.1.11~2017.3.28)



ミュンヘン生まれで7歳で舞台に出演、その後子役として映画デビューを果たした国際的清純派女優。
主な映画出演作品に『制服の処女』『非情の町』『勝負をつけろ』『地獄道28』などがある。


★フランソワズ・ロゼー Françoise Rosay (1891.4.19~1974.3.28)



戦前のフランス映画黄金期に風格ある女優として活躍したジャック・フェデー監督夫人。
主な映画出演作品に『外人部隊』『ミモザ館』『女だけの都』『旅する人々』『宝石館』などがある。


★モーリス・ジャール Maurice Jarre (1924.9.13~2009.3.28)



リヨン生まれでコンセルヴァトワール出、大作映画のスコアを得意とするフランスの映画音楽家。
主な映画音楽作品に『アラビアのロレンス』『ドクトル・ジバゴ』『パリは燃えているか 』などがある。