くろねこさんの話によれば

くろねこが思ったこと、考えたことを記すだけの日記なのだと思う。たぶん。

9月18日

2017年09月18日 23時57分20秒 | 記憶編
裸で抱き合うその密着感を、僕は「ゼロ距離」と呼んだんだっけ、それとも「ゼロミリメートル」と呼んだんだっけ。いずれにせよ、僕たちはぴたりとくっついたまま何時間もそうやって過ごした。疲れてくると彼女が上になったり、僕が上になったりした。時おり言葉を交わして、それからキスをした。あたかもそれがごく自然なことのように、僕たちは穏やかに抱き合った。いわゆるセックスとは少し違う、なんだか優しい時間だった。

心地よい風が草原に吹いて、さわさわと丈の短い植物を揺らした。柔らかな日差しが降り注ぎ、世界が満ち足りていた。「幸せな体勢」と僕は言った。互いの体温を感じながら、心にも触れているようだった。時々彼女が熱い息を吐いた。セックスとは違うのだけれど、僕たちは確かに交わっていた。そして、僕はその穏やかな時間がとても好きだった。

「村上春樹は好きですか」

確か、それが僕の最初の言葉だ。理由は彼女が村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」が好きだったからであり、お世辞が苦手だったからだ。そういうところに僕はとても親近感を覚えた。つまり、僕も村上春樹が好きで、お世辞が苦手だったのだ。うまく表現できないけれど「そういう感じ」はよく分かる。直感があった。だから、心の距離が近くなるのに時間はかからなかった。

それから僕は毎晩、彼女とのやり取りを心待ちにするようになった。言葉を交わすたびに彼女に惹かれていった。景色が色づき、鮮やかさを増していった。彼女に恋をした。

僕はそのころ一人暮らしを始めたばかりで、だからというわけではないけれど、当時の記憶は鮮明に残っている。部屋の間取り、シャツにアイロンをかけながら彼女からの連絡を待つ時間、紅茶の香り。当時聴いていた音楽はYUKIのアルバム「嬉しくって抱き合うよ」だった。一曲目は「朝がくる」で、タイトルや歌詞はどこか暗示的に思えた。もう一つはサカナクションのアルバム「DocumentaLy」。その中の一曲「エンドレス」を聴きながら、よくアイロンがけをした。テレビを消して、部屋を少し暗くして、それから彼女のことを考えた。そのイントロは未だに甘く切ない響きに聞こえる。ラブソングではないのだけれど、その時の思いが記憶として溶け合っているのだと思う。連絡を取り合うまでの時間を、音楽が豊かに彩ってくれた。

乾いた地面に水が染み込むように、僕の心は彼女で満たされていった。

言うなれば、僕はずっと生きることに対して自信がなかったのだ。当時は今の仕事を始めて2年ほどになっていたけれど、その前の仕事やら何やらで心が弱っていた。ただ、挫折と言えるほど大層なものじゃない。いまならそう言えるのに、なにせ当時は真剣だった。「肩の力を抜こうよ」とアドバイスしたいけれど、どうにも性格なので仕方がなかった。社会で生きていけないとすら思っていた。過去の嫌な記憶とか思いとかがオセロのように、楽しく美しいものすらも裏返し、僕は見えない壁に道を塞がれているように思っていた。なんのことはない、塞いでいたのは他ならぬ自分だったのに。

それでも(といまでも思う)彼女は僕を愛してくれた。それは僕にとって本当に驚きで、飛び上がりそうなほど嬉しいことだった。仕事で辛いことがあっても、疲れていても、彼女の存在が僕を支えてくれた。励ましてくれた。僕はとても幸せで、ますます彼女を愛した。降り注ぐ柔らかな雨に満たされていった。

例えば彼女の愛情の深さ、アルコールに弱いところ、肌の白さ、(もちろん)お世辞が苦手な性格なんかも僕は好きだった。ある時、幼いころに母親が言った「見返りを求めない」という言葉(だったと思う)を覚えていることも教えてくれて、そんなところにも好感を持った。
例えば月が好きなところもそう。皆既月食が起きた時だったろうか、僕たちは一緒に空を見上げた。あいにくの曇り空に隠れていて、見えたとか見えないとかそんなことを話した。寒い夜で(季節は冬だったろうか?)、彼女が先にギブアップした。それも思い出の一つだ。同じ月を見ているとういことが僕たちの絆になった。

でも当時、僕は夜中に突然目を覚ますことがあった。気がつくと涙を流していた。体の芯が痛んで、自分の嗚咽で目を覚ました。それは不吉な予兆だった。どこかの渓谷に住む魔女がかけた呪いのように、体を覆っていた。彼女は僕よりも10歳ほど年上で、そのような差はどんなに意識の外に置こうと務めても、ハードルになっていた。

「いつかはあなたと別れる日が来ると思う。でも、私はいまが幸せ」

当然のように彼女が別れに触れるたび、僕は言いようのない悲しみに襲われた。どうしようもないことなのだろうか、それは避け難い未来なのだろうか。幸せが大きいほどに悲しみが募った。それは体の芯を絞り上げ、僕を真夜中に叩き起こした。

「あなたを思う気持ちが、雪みたいに消えてなくなればいいのに」と彼女は言った。

3月のある夜、僕たちは雪が降る中を腕を組んで歩いた。彼女はたくさんキスをしたがり、僕は照れて、少し困って、でもそんな彼女を愛おしく思った。辺りには雪が残っていた。そんな日が、ある意味では彼女との別れの日だった。

抱き合った後で、「結婚して」と彼女が言った。僕は何も言えず、しばらくしてから「いまは誰とも結ばれない」と答えた。

◇◇◇◇◇

2011年の9月はとても暑かったことを覚えている。とても汗をかいて、喉が渇いて、僕はせっせと麦茶を作った。一人暮らしを始めたばかりで、26歳だった。6年前のことだ。もちろん未だにそうなのだけれど、仕事は一人前というには程遠く、生活基盤も弱かった。部屋は少し雑然としていて、僕は休日になるとよく家具やら必要なものやらを買いに出かけた。毎晩アパート近くの線路沿いを走り、本を読んだ。志のようなものはあったけれど、夜は寂しく、心もとなく、漠然としていた。何もない草原に一人で立っているような気がした。厚い雲が太陽を覆い、強い風が吹くと、僕は身構えて辺りを見回した。決してそんなことはなかったのに地面が揺れているような気がした。

彼女に出会ったのはそんな時だ。日付ははっきりと覚えている。2011年9月18日。東北の太平洋沿岸を壊滅させた震災から半年が過ぎたころで、いまからちょうど6年前のことだ。

あれから僕はどうやって歩いてきたのだろう。6年、なかなかの時間だ。僕は30代になった。もう若いとは言えない歳だ。周囲はもう結婚して子供がいる。家庭を築いている。家を建てた者もいる。スコット・フィッツジェラルドの小説「グレートギャツビー」で主人公ニック・キャラウェイが「年齢」を意識した年代だし、村上春樹の小説「ねじまき鳥クロニクル」では主人公「僕」が肉体的な変化に気づいた歳でもある。そういう時期なのだ。それなのに僕は、相変わらずでいる。

◇◇◇◇◇

知り合った当時、彼女は35歳だった。「(僕が)早く歳を取れればいいのに」と僕は言った。

◇◇◇◇◇

2015年3月、僕は墓標を立てに東京へ向かった。

もう少しで30歳になるところで、20代との別れが迫っていた。新幹線で東京駅に着くと、中央線に乗って八王子駅を目指し、ふと思いついて途中の三鷹駅で降りた。東北ではまだまだ雪が残っているというのに、東京にはなく、すでに春の雰囲気が満ちていた。穏やかな街並みを眺めながら、僕はぶらぶらと歩き出した。ジブリ美術館があるというので一路そこを目指し、道がわからなくなり自転車屋のお兄さんに訪ねた。「俺も知らないんだよね」と言って、ネットで調べてくれた。教わったとおりに住宅街を通っていると、サクラが満開になった庭があった。早咲きの品種だと思うけれど、名前は分からなかった。ピンクの色が濃くて、とても綺麗で、写真に収めてまた歩きだした。

美術館ではチケットがないと入れないと言われ(コンビニで調べたら何カ月も先まで予約が埋まっていた)、やむなく近くの喫茶店で軽食を食べた。リュックの荷物は少し重くて、僕はなかなかに疲れていた。地元作家の小物やら絵画やらがたくさん飾られている店で、途中、常連客の女性が入ってきてマスターと話し込んだ。

ほら、子供が小さいでしょ。だからベビーシッターを頼んだの。私も働きたいしね。そうそう、大変なの。旦那の両親が近くにいるからたまに任せるんだけど、それも悪いじゃない。子供がいると疲れるって言うし。でもね、ベビーシッターって言っても、色々な人がいるからどうしようかなって思って。うん、仕事は順調。だから子育ても大変なのよ。掃除はね…。

聞き耳を立てていたわけではないけれど、彼女はわりと大きな声で話したので、否が応でもそれは聞こえてきた。僕と彼女しか客がいなかったからだろうか、その声はやけに大きく聞こえた。会話は途切れそうにもなく、僕は仕方なく紅茶(確かダージリンティーだったと思う)を飲み干し、その店を後にした。話を聞かされるのが少し億劫だったのだ。
駅へ向かう途中でまた道が分からなくなり、ベビーカーを押した母親に尋ねて駅へ戻った。なかなか素敵な街だな、と思った。新品のような光が連なる住宅街を照らし、横切る川面を輝かせ、穏やかな雰囲気を描いていた。アスファルトの地面からはかすかに春の匂いがした。

でも正直に言うと、僕はきっと墓標を立てることができなかったのだ。もちろん墓標なんて比喩だし、精神的なものだけれど、だからこそ僕は「それ」を亡きものにして、形式的にであれ弔うなんてできなかった。それは決して失われず、僕の中で脈打っていた。だから僕の東京行きは、ある意味ではほとんど形を伴わなかった。どれもこれも表面的で、あるいは影のように実態を持たなかった。

八王子のホテルにチェックインすると、僕はしばらくベッドに横になって疲れを癒してから、街の中を三鷹以上にぶらぶらと歩いた。3時間近く歩きまわったと思う。日は沈み、夜になり、それでもぐるぐると、足が棒になるほどに。何度か駅ビルを訪れ、通りを抜け、目的をもって歩いて行く人たちの群れを眺めた。会社帰りのサラリーマンもいれば、学生たちもいた。みな笑顔で、なんだか楽しそうだった。僕は独りで、ありもしない墓標を抱えたふりをしていた。ホテルに戻ると買ってきた酒を飲み、彼女に連絡をして、ひとしきり泣いた。「愛してる」と伝えた。なんだか馬鹿みたいだった。そうして20代の終わりを迎えたわけだ。

◇◇◇◇◇

その東京行きで新幹線や電車で移動している間、僕はくるりの「奇跡」を中心に聴き、村上春樹の小説「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読んだ。「いつまでもそのままで泣いたり笑ったりできるように、曇りがちなその空を一面晴れ間にできるように」とくるりは歌っていた。つくる君はかつての友人たちと再会し、自分の過去と向き合っていった。

八王子のホテルをチェックアウトすると、僕は駅前のデニーズで朝食をとり、通勤ラッシュを避けてから中央線に揺られて帰路についた。座っている人たちの顔をぼんやりと眺め、そこで暮らす人たちの生活に思いを馳せた。

◇◇◇◇◇

あるいはこの記憶は、遠い過去なのだろうか。過ぎ去ってしまったものなのだろうか。確かに時間という側面から見ればそのはずなのに、僕にとってはとても近しいものに感じられる。思いは記憶の中の情景や音と絡まり合い、リアリティを持って浮かび上がってくる。

一連のイメージを僕に与える。

例えば月を見れば、僕は彼女を思う。
例えば音楽を聴けば、僕は彼女を思う。
例えば小説を読めば、僕は彼女を思う。

そういうことだ。

時々、2011年の9月18日に戻りたいと思う。まっさらな気持ちでまた彼女に会いたいと思う。引っ越したばかりで、せっせと麦茶を作り、寂しさを抱えたあの日に。きっと僕は幸せな気持ちになり、それから夜中に叩き起こされる。それでも時々、その日に戻って彼女に会いたいと思ってしまうのだ。

「いつまでもそのままで」なんて奇跡を、願ってしまうのだ。

繋がりは消えるのかな(滋賀編・完)

2016年04月15日 17時50分00秒 | 記憶編
確かそう、僕たちは唐揚げを蹴飛ばしたのだ。そうして二人して声を上げた。それは(確かに)つまらないことだけれど、当時の僕たちにとっては重要な出来事だった。そういうものの一つひとつが、僕とHの間に積み重なっている。

僕はだいぶその詳細な記憶を失っているけれど、Hは時おりそのことを話題にあげる。「あれはショックだったよな」というように。もちろん僕もその時の衝撃は覚えていて、「そうだな」とこたえる。それはそう、だって僕たちは二人して声を上げたのだから。

それは高校からの帰りで、確か冬の日だったと思う。僕とHは部活もクラスも違うので普段は一緒に帰ることがないのだけれど、その時はテスト期間か何かで(部活が休みになる)一緒に帰ることができた。途中コンビニに寄って何かを買おうとしたものの、あいにくほとんど手持ちがなく、二人でなけなしの金を出し合って唐揚げ棒(商品名)を買った。あるいはHだけが出したかもしれない。いずれにせよ、僕たちは「本当になけなしの金で唐揚げ棒を買った」のだ。

コンビニから出て、なにしろお腹の空いていた僕たちは、雪道を歩きながら唐揚げを分け合って食べようとした。「唐揚げ一個33円だぞ(3つが一串についていた)」「味わって食えよ」みたいなことを言い合った。そうして僕が食べようとした瞬間、唐揚げが棒から口からこぼれ落ち、「あっ」と言う間もなく歩く僕の足に蹴飛ばされ、雪の上を滑っていった。

「ああああああああ」
「ああああああああ」

◇◇◇◇◇

つまり、Hと僕の間にはそのように共有された思い出がたくさんあるのだ。僕たちは高校生のころ学ランを着ていたけれど、大学のころからは私服になり、共有される思い出も少しずつ増えていった。

正月にはホテルを借りて二人で泊まり、夜遅くまで一緒に酒を飲んだ。Hは酔いすぎて店に腕時計を置き忘れ、二人で千鳥足で取りに戻った。

夏には二人で野宿旅行をして、4日目だか5日目だかにケンカをした(Hは覚えていないと言うけれど)。僕は夜中に海辺の道を、ひたすら駅を探して歩きながら歌い続けた。

たくさん電話をした。

初めて一緒に酒を飲んだ相手も、初めてパチンコ屋に行った相手もHだった。

僕たちは何度もカラオケに行った。

腕がだるくなるほどボーリングをした。

大学時代にはよくHが僕のアパートに泊まりに来た(滋賀県から青森県へ)。

一緒にラブホテルに宿泊したこともある。

それなのに、僕たちは一緒のクラスでもなかったし、一緒の部活でもなかった。ただ、乗る電車が同じだけの、気の合う友達だった。それがいつしか親友になっていた。それは、とてもとても不思議な縁だった。

◇◇◇◇◇

結婚披露宴で僕がスピーチしたことは、つまりそんなことだった。僕はべらぼうに緊張していて、手が震えた。まったく嘘みたいに、そういう場が苦手なのだ。写真はいつまでも苦手で、撮られるたびにどんな顔をすればいいのか分からなかった。

披露宴が終わり、出席者たちが軒並みエレベーターに乗って帰ってしまうと、記念撮影を控える新郎新婦を捕まえて、僕はHを抱きしめた。

「良かったな」と僕は言った。

気持ちを伝えるには、僕にはそれくらいしかできないと思ったのだ。彼らの両親や兄妹の前だったけれど、酔っていたので平気だった。ホテル最上階からの眺めは、もうすっかりと暗くなり、その闇の中で街の明かりがキラキラと輝いていた。

◇◇◇◇◇

その夜、僕は新郎新婦の親兄妹だけが集まる二次会(飲み会)に何故か参加し、遅れて登場したH夫婦をベロベロに酔いながら祝福した。

「お前ってそんなキャラだっけ」とHに呆れられながら、「おめでとう」と言い続けた。奥さんのKさんも戸惑っている様子だったけれど、ここぞとばかりに祝福した。「お前たちって本当に仲良いのな」とHの長兄に言われた。それはそうさ、だって親友なのだから。

僕は本当に、すごく、たくさん、飲んだ。そして、夜中から朝方にかけてひたすら吐き続けた。全てを吐き出しても足りないくらい吐き続けた。

◇◇◇◇◇

僕たちは学ランを着ていたはずなのに、もうあれから12年が経った。干支が一回りして、僕は30歳になった。もうすぐ31歳になる。絶対に無理だと思っていたのに、ギリギリではあるけれど社会人として生きている。あるいはそれは、奇跡みたいなことなんじゃないか、とも思う。過去を振り返れば、上手くいかないことばかりだったから。

そうして生きてきた中で色々な人に出会った。軽くすれ違った人もいるし、深く付き合った人もいる。大学時代の友人やら、高校時代の部活の仲間やらだ。あるいは、僕を愛してくれる女性にも。

繋がりは消えるのかな?

実を言うと恥ずかしがり屋な僕は、古い友人に会うのが恥ずかしくてたまらない。ストレートに表現するならば、とても億劫だ。実際、Hに会うのにも緊張する時がある。だから、おっかなびっくり、少しずつ疎遠になる傾向がある。それはいけない事だとは思っているけれど。

繋がりは消えるのかな?

そうして疎遠になっていくと、繋がりは消えるのかな?

例えば僕は、やっぱり、僕を愛してくれる女性を忘れることはないし、結婚やら恋愛やらを考えると、真っ先に思い浮かぶのは彼女だ。満月の日や月の綺麗な日、彼女を想う。

繋がりは消えるのかな?

あるいは、思いは消えてしまう?

僕にはよく分からない。ただ、僕の中にその感触は確かに残っている。残り続けている。

◇◇◇◇◇

結婚式の翌朝、なぜか僕は(アルコールのダメージがあったにも関わらず)、体調を崩した新婦にかわり、HとHの親族とともにユニバーサルスタジオジャパンを巡った。でもそれは、ここではあまり触れないでおこうと思う。なんというか、ホテルに置いてけぼりになった新婦への礼儀として。だって、変だものね。新婦のかわりになる友人なんてさ。

(滋賀編・終わり)








僕はどこか上の空で(滋賀編6)

2016年03月01日 22時37分39秒 | 記憶編
ジャージに着替え、タオルを頭に巻き、使い慣れたランニングシューズを履く。午後9時。時計の針がそこを通過したら、それからはまるで儀式だ。USBタイプのウォークマンにイヤホンをつなぎ、耳の中に突っ込む。再生ボタンがスタートの合図。イントロとともに文字通り跳ねるように外に飛び出す。

日中の熱気をいくぶん冷ました夜の空気。肺にぐっと吸い込み、一気に加速する。突然のトップギア。息が続かなくなるまで全力で駆ける。音と一体になり熱を帯びる体。歓喜に沸く細胞。命が燃える。世界が正常な輝きを取り戻し、僕は大きく息を吐き、それから思い切り吸う。ペースを少しだけ下げ、今度は音の世界に潜っていく。それは無重力。くびきを外れた魂が縦横無尽に跳ねだす。自由を手に入れる。

前職を辞めてしばらくの間、僕は片道1キロの町道をそのようにして毎日走っていた。まず1キロ走り、その先でストレッチをして、折り返して500メートル走ると、農道に折れて途中でごろんと横になった。周りには田んぼしかなかった。音楽からラジオに切り替え、それから好きな番組を聞きながら夜空を見上げた。1時間はそのまま動かなかった。夜は昼よりもずっと親密で、僕のものだった。星は輝き、時折何度も流れ、美しい月が目の前を彩ってくれた。

どうやって生きていけば良いのだろう、と思った。
社会で生きていくのは無理なんじゃないだろうか、と思った。

そういうネガティブな気持ちに襲われた時、僕は目を閉じ、イヤホンを外し、水田に流れていく水の音を聴いた。
大したことじゃない。もしかしたら、いつかどこかで、何かが変わるかもしれないじゃないか。今はここにしかない。そうして僕はこの音を聴いている。それが全てだ。いいか、それが全てなんだ。不安も、恐れも、挫折も、あるいは栄光でさえも、今ここにはない。今あるのは、この水の流れと、静かな気持ちだけだ。それを感じることがもっとも大切なことなんだ。

息を吐いて、静かに集中していく。そして、自分がまたフラットに、ゼロに戻れたことを確かめる。何度でもゼロになろうと思う。そこが全ての出発点だ。何度でもゼロに戻れ。

僕があてもなくプロポーズの言葉を考えたのは、そんな時だ。どうして考えてみようと思ったのか、それすらも定かではないけれど。

日曜日の午後に、ふと、思いついたみたいに。
ストレートに言うんだっけ?
そうかもしれない。
彼女の顔を見ないで言うんだっけ?
そうかもしれない。

ねぇ。

何?

きょうは暖かいね。

そうだね。

あのさぁ。

ん?

結婚しようか。

◇◇◇◇◇

ようやく式場を探し当てて向かうと、入り口付近にHとKさん(奥さん)の後ろ姿があった。まずはウエディングドレスに身を包んだKさんを追い越した。それからタキシード姿のHを追い越す瞬間、くっと顔を覗き込んだ。Hはいくぶん緊張したように、ぎこちなく笑った。言葉は交わす暇がほとんどなかった。
式場のいすに腰かけるとすぐに音楽が流れ始め、扉が開き、Hが入ってきた。続いて父親に付き添われたKさん。僕は遅れなくて良かったな、なんて思いながら、心臓を高鳴らせていた。自分の結婚式ではないのに、恐ろしく緊張していた。神父がいて、十字架があり、その先の窓からは一面の琵琶湖を望むことができた。

ここで挙式をするんだ。

僕はどこか上の空でその光景を見ていた。ジェットコースターに乗っているような気分だった。場所が分からなくて迷い、慌てて式場に行ったら、すぐに始まってしまった。きっと2人の両親くらい緊張し、流れに身をまかせるしかなかった。

Kさんの手がHの腕に触れ、2人は琵琶湖の方に向かって歩き始めた。そして僕の目の前を通過する。

ずいぶん遠くに来たものだった。僕たちは高校時代の友人で、確か一緒に学ランを着ていたはずなのに。それが今では、琵琶湖の前でタキシードなんか着てさ。隣には純白のドレスを着た女性。なんだか冗談みたいだった。僕はどこか上の空で、その光景を見ていた。

ふと思いついたみたいに(滋賀編5)

2016年02月22日 00時33分13秒 | 記憶編
電車で大津駅に到着すると、軽やかなジャズの音色が出迎えてくれた。抜けるような青空、ゆったりと音に親しむ人々、楽しげな奏者たち。それは美しい秋をこの上なく彩っていた。祝福、と僕は思った。

結婚式が行われた日曜日はJR沿線を繋ぐジャズフェスティバルの最中で、僕は会場のホテルに行く道すがら、その華やかな空間に出くわした。駅前広場に簡易ステージやら屋台やら椅子やらが並び、人々はのんびりと時間を過ごしていた。まだ日中だというのに、中にはビールを飲んでいる人さえいた。

僕はしばらく耳を傾けた後、近くのパン屋に入って昼食を取り、それからフェスティバルに加わった。ホテルへ直行するバスの便までは時間があった。演奏は電子ピアノとサックスだけだったけれど(会場にはドラムなんかも置いていたけれど)、その二重奏は秋晴れの中に吸い込まれていくように澄み、そして祝祭的な空間を飛び跳ねていた。奏者たちはとても楽しそうで、聴いている僕たちも楽しくなった。僕はそのワンステージが終わるまで、ずっとそこから離れなかった。空は高く、時間には余裕があった。素敵な日曜の午後だった。

その日の朝、僕は、奥さんと一緒に婚姻届を出しに行くHを見送り(結婚日にちなんだ時間に出すのだとHは言った)、それから戻ってきたHと一緒に朝食をとり(コンビニのおにぎりなんかを食べたのだけど、Hは値段が高かったとこぼした)、義父と式に向かうために早めにマンションを出たHを見送った。予想以上に早く義父が到着したので、Hは愚痴をこぼしながら慌てて支度をしていた。「まったくよぉ、早いんだよぉ」。それから、「鍵は後で返してくれれば良いから」と言って出て行った。いつも通り、人懐こそうに笑っていた。残された僕はスピーチの練習を少しして、うとうとと眠り、静かにHのマンションを後にした。そこにはもう戻らないわけで、なんだか寂しくもあった。なんだかんだ言って、僕はやっぱり友だちのいる場所が好きなのだ。

大津駅前からバスに乗ってホテルに行き、チェックインすると、僕の部屋からは琵琶湖を一望することができた。青い空はどこまでも広がり、湖とともに素晴らしい景色を描いた。僕はテレビをつけ、白黒映画を観ながらぼんやりと時間を過ごした。

緊張していた。

僕が結婚するわけではないのに。だから、そう、それはスピーチをすることの緊張だった。それから慣れない場に行くことの緊張感。知らない人だらけの空間。H家の人たちに何て言えば良いのだろう。僕は所在なく部屋の中をうろつき、仕方がないのでベッドにごろんと横になった。目を閉じ、息を吐いて、それからシャワーを浴びた。緊張感はずっと消えなかった。挙式の時間が迫っていて、僕は身支度を整え始めた。

◇◇◇◇◇

前職を辞めたばかりの僕はとても時間を持て余していた。夜になるといつも外を走り、しばらくするとそこを外れて農道に大の字に寝そべりながら、好きなラジオ番組をイヤホンから聴いた。いろいろと考えたし、それに何も考えなかった。時に流れ星を数え、時に架空の女性に対してプロポーズの言葉を考えた。

あの時僕は、どんな言葉を考えたんだっけ。思い出そうとしても、手に触れることのできない影みたいに、僕はそれをはっきりと掴むことができない。でも確か、何気ない日曜の午後なんかに、ふと、思いついたみたいに、言うのだ。

そうだ、確か。

ふと、思いついたみたいに、言うのだ。

〈続く〉

ねぇたぶんきっと(滋賀編4)

2016年02月20日 00時35分43秒 | 記憶編
郵便局に着いたのはほとんどカーナビが示した予想時間通りで、車を駐車場に停めるとすぐに、僕はHを車内に残して外に出た。職員に用件を話し、受付票を発行し、しばらくして旧札を新しいものに取り替えることができた。終える頃には閉店の時間になっていた。あたりはだいぶ暗くなっていた。

車内に戻ると、Hが「どうだった?」と訊いた。
「大丈夫だった。新札に替えられたよ」
「よし、じゃあ飯でも食うか」
「おう」
「何か食いたいものあるか?」
「何でもいいよ」
「じゃあ、その辺で探すか」

市内を車で流して、しらばらくしてから僕たちは回転寿しに行くことにした。「俺がおごるよ」とHが言った。彼女と何度か来たことがあるようで、簡単にシステムを教えてくれた。店内は家族連れで賑わっていた。土曜日の夜だ。

僕はちらちらと周囲に視線を送りながら、「関西の家族」と思った。それは東北の家族とは違うし、関東の家族とも違うのだろう。料理の味付けが異なるように、方言が異なるように、生活習慣が異なるように、ある種の家族のあり方も異なるのだろう。

Hは関西で家族を作るのだ。同じ日本にいるけれど、それは少し遠い世界の出来事のように感じる。あるいは僕が結婚していないからかもしれないけれど。

「結婚式はどう、緊張する?」
大津市に向かう車内で僕は聞いた。はっきり言うと、僕だって緊張している。なにせ、友人代表としてスピーチをしなければならないから。スピーチなんて、僕の嫌いなものリストに入るものであって、苦手なものにほかならない。
「緊張しかないよ」とHは答えた。「人前でチューなんてできるか? 新郎のあいさつもせなあかんし」。
余談だけれど、僕は新郎あいさつの代筆を頼まれていた。準備はいつだってギリギリ、何が起こるかは分からないものだ。
「それに」とHは言った。「それに、彼女と結婚していいかもよく分かんねぇよ」
それはきっと、Hの率直な気持ちだった。もしも仮に僕が誰かと結婚するとして、きっと同じように感じるのだろう。僕はその時、ある楽曲の歌詞を思い出してた。

〈ねぇたぶんきっと、あなたより良い人がいるはずだって、思うのあたし。誰かを好きだって、そんなもの〉

「まぁ、でも良かったんじゃないか。Kちゃんはすごく良い子みたいだし」
「あぁ。俺もそう思うよ」
「おめでとう。本当に良かった」
「ありがとな」

たくさん食べて、味噌汁を飲んで(僕は味噌汁が好きだ)、最後にデザートも食べて、その店のミニゲームのようなもので景品も当てて、僕たちはHのアパートに戻った。夜道を走りながら、僕は窓の外に広がる琵琶湖を眺めていた。

「あの一番高いホテルで式を挙げるんだ」とHが言った。
それは暗闇の遠くの方で、静かに光を放っていた。
「夜の琵琶湖も良いね」
「おう」
「滋賀県の9割は琵琶湖と聞いてるよ」
「おう」
「良いところだ」
そんな風に話しながら僕たちは帰った。それはHの独身最後の夜であり、僕たち2人が過ごす、2人の独身としての最後の夜だった。

マンションに戻ってから、僕は新郎のあいさつをさらさらと代筆したけれど、結局それが使われることはなかった。Hは自分の言葉で、Hらしい言葉で、最後のあいさつを締めくくった。それはとてもHらしくて、とてもとても良くて、式後に僕はHを抱きしめた。

「おめでとう」

琵琶湖を望むその滋賀県一高いホテルで、僕は2人の結婚を祝福した。

〈続く〉