僕がたくさん映画を観たのは、いつのころだったろう。もちろん明確に答えることができる。大学時代だ。とにかく暇を持て余し、そして孤独だったあの時代だ。孤独に慣れていなかったと言い換えても良いかもしれない。
当時の手帳によると、僕は一年間に120本の映画を観た。カウントに含まないものもあったから、実数はさらに多いだろう。でもよく考えればたいした数ではない。1日に1本も観ていないのだから。
お金がないから映画館にはいかなかったけれど、アパートの近くにTSUTAYAがあったので、DVDを借りるために足繁く通った。たとえそれが大雪の日でも(僕は青森県弘前市に住んでいた)。マフラーを巻いて、手袋をして、なだらかな坂道をのそのそと歩いていった。
大きなテレビを持っていなかった(15インチくらいだった)ので、たいがいは同じサイズのパソコンで観た。でも当時のパソコンの画面は正方形に近くて映像はだいぶ小さかった。よく不満に思わなかったものだ。ある意味ではその状況によく馴染んでいたのだろう。不思議に感じる。
カーテンから朝の光が差し込み、僕は夜が明けたことを知る。そのようにして夜通し映画を観た。3本連続で観ると、夜が明けるのだ。それから大学に出かける。まだ日が高いうちに眠る。昼夜の華麗なる逆転。多くのずぼらな大学生が陥るであろう生活習慣に、僕も染まっていた。それからとても孤独だった。
ある意味では孤独だから映画を観たのだ。そんな気がする。孤独を癒すための治療のようなものだ。あるいは逃避。僕はそうやって大学時代の4年間を過ごした。無駄だったろうか、その判断は棚上げにするけれど。
映画の中には豊かな世界が広がっていて、観ている間というのは、それこそ体験に近いものだった。小さな画面が扉になった。たいていはヘッドホンをして集中した。僕は好きな俳優を追いかけ、そこから興味のある監督に派生し、アニメに浸り、そして青春時代の揺れる心に共感した。
カーテンから漏れる朝の光は、僕にとって映画とセットになった豊かな時間のメタファーだ。そこには感動があった。僕はわき起こる高揚感を全身に巡らせ、その感覚の中を浮遊した。時には怒りがまったく消え失せ、静寂が訪れた。不思議なものだ。
近頃は映画が体験から遠く離れてしまった。なぜだろう。僕が歳を取ったということだろうか。別のことが頭を占めているからだろうか。できるならば、もう一度、あのころの感覚を取り戻したいと思っているのだけど。